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2005年に「バーン ザ フロア」の激しいダンスムーブメントを取り入れ、今までに無かった独自のマーチングスタイルを作り出すという試みが「マーチング革命」と某テレビ番組で紹介されていましたが、その時の3年生が1年生と2年生だった年の2003年と2004年、言わばマーチング革命前夜の京都橘高校吹奏楽部を紹介した映像。
1996年から1998年まで全国大会で3年連で現在の金賞に当たるGoodSound賞を受賞して日本を代表するマーチングバンドとして、全国の吹奏楽部から目標とされていた京都橘高校吹奏楽部でしたが、偉大なコーチの宮和弘先生が逝去したことで状況は一変、それまで宮先生が選曲や動きを全て考えていたが、2001年からは生徒自らが選曲やフォーメーションなどの動き、コンテの作成をやらなければいけなくなる。(2001年と2002年は宮先生仕込みの洗練された高度なフォーメーションチェンジが姿を消してしまい映像を見ていてもこれほど悲しくなったことはありませんでした)2001年からは全国大会への扉は閉ざされてしまい関西大会で無念の涙を流し続ける閉塞状態が長きにわたって続いてしまう。(時を同じくして吹連の開催するマーチングコンテストを腕試しとして参加してくるM協のマーチングコンテストに出場していた高校が台頭してきたことによりDCI張りの派手な演出のパフォーマンスに高い評価が与えられるようになり、そのことが雑誌などでも取り上げられ、全国的に大きな問題となり吹連はついにM協の高校排除に乗り出しフェスティバルの部を廃止にして規定演目だけにすることを決定した。)毎年様々な楽曲でコンテスト用のプログラムが作られ、2003年はミスが全くない圧巻のパフォーマンスを見せ、部員も満面の笑みで今回は全国へ行けると思っていたがダメ金、2003年度は演奏プログラムのラストに演奏する曲とし「SingSingSing」を選曲、これが当時1年生だった102期生が2005年にマーチング革命を起こす際に大きな影響を与えていたことは間違いないだろう。(2003年は吹奏楽コンクールにおいて関西大会で銀賞を受賞しており、演奏力の高さは際立っていました。実力のあるソロ演奏者も多数いたので、全国大会へ行けなかったことは非常に残念なことだった)
翌2004年は、今までの京都橘高校吹奏楽部のイメージと全く違う選曲でマーチングコンテストに挑む。ラテンとアフロキューバンジャズという恐らく今後も見ることが出来ないであろう選曲による演奏プログラムは、想像以上に京都橘高校吹奏楽部にフィットし、鬼気迫るような演奏と高度なフォーメーションチェンジが次々に繰り出され会場の雰囲気を完全に支配し、拍手喝采を浴びるもまたしても全国大会への扉は開かなかった・・・激動する吹奏学界の中で翻弄されていた京都橘高校吹奏楽部の姿を追った。
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kyoto tachibana shs band 2003 2004