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2024.10.8(水)撮影
旅行中だったのでポイント撮影での作成した動画です。
※国宝 彦根城天守、
附つけ櫓やぐら及び多聞たもん櫓やぐら
天守は3階3重の屋根で構成されています。屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
大津城から移築されたといわれ、政治的象徴としての外観の美しさだけでなく、城本来の機能である軍事面でも優れています。昭和27年(1952年)に国宝に指定。
彦根城以外の国宝天守は、姫路城・松本城・犬山城・松江城だけです。
夜間はライトアップされ彦根市のランドマークとして市民に親しまれています。
※重要文化財
彦根城西の丸三重櫓さんじゅうやぐら及び続櫓つづきやぐら
西の丸の西に建つ櫓で、さらに西に張り出した出曲輪との間に深い堀切が設けられています。西方の搦め手(裏手)からの敵に備えた守りの要でした。三重櫓は、この搦め手を見下ろす位置に設けられ平時には琵琶湖を監視する役目もありました。
※重要文化財
彦根城太鼓門たいこもん及び続櫓つづきやぐら
天守がある本丸表口をかためる櫓門で、城内合図の太鼓を置いたところから名付けられたと言われています。建物の背面が解放され、高欄付きの廊下となっており、櫓では大変稀な構造となっています。なお、解体修理に伴う部材調査によりどこかの城門を移築したものであることが判明しています。
※ 重要文化財
彦根城天秤櫓てんびんやぐら
大手門と表門からの両坂道を登りつめたところにあります。目の前の廊下橋は戦時には落とすと伝わり、表門山道、大手門山道を上がってきた敵兵が天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できませんので重要な拠点となります。この廊下橋に接続する櫓門部分を中央に、両坂道に面している多聞櫓の角を二重櫓とすることで、左右対称となっており、天秤櫓の名の由来となっています。他の城から移築したものと考えられます。建物土台の石垣は向かって右側が築城当時の打込みハギ積み、左側が江戸時代後期の改修による落とし積みとなっています。
※ 名勝 玄宮園げんきゅうえん
玄宮園は下屋敷である槻御殿(現楽々園)に伴う後園として江戸時代前期に作庭された大規模な池泉回遊式庭園です。中央に掘られた池泉には大小4つの中島が築かれ、さまざまな形式の橋が架けられて自由な回遊性を確保するとともに庭園内の景観にもなっていました。武蔵野から眺める手前の池、中ほどに鳳翔台(茶席)遠方上部の天守がバランスがとれた絵葉書的景色で皆様を楽しませます。また紅葉をはじめとする、玄宮園内の木々や草花が四季折々の表情を見せています。
※ 重要文化財
馬屋うまや
藩主などの馬21頭がつながれていたといわれ、城内に残る馬屋は全国でも彦根城にしかない珍しい建物です。平成27年度に二度目の本格的な文化財保存修理を終え、往時の姿を取り戻したこけら葺きの屋根が美しい馬屋です。
※ 重要文化財
彦根城二の丸佐和口さわぐち多聞たもん櫓やぐら
佐和口に向かって左に伸びる多聞櫓。明和4年(1767)に火災で類焼し、現在の建物は明和6年から8年にかけて再建されたものです。明治になって、櫓門は失われましたが、本来はその右に伸びる多聞櫓(現開国記念館)と一体のものです。
※現在非公開
※いろは松
表門橋に向かう中濠の沿道の松並木で47本あったのでこの名が付けられました。
現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれる通りです。
第3代井伊直孝が、諸国から取り寄せた竹木を城内に移植する際に、通行の妨げにならないように、根が地上に出ない土佐松が植えられています。
彦根城の歴史
彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工されました。
当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城されました。
天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築。天守は2年足らずで完成しましたが、表御殿の造営、城郭改造など、城郭の完成は1622年とされています。 この間、井伊直孝は大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣し、その功績によって家督を継ぎ、夏の陣では豊臣方の木村長門守重成と戦い大功をあげ、井伊直政(常に先鋒を務め、徳川四天王のひとり)に劣らぬ武将と賞賛されました。
直孝は、秀忠、家光、家綱の三代にわたって、将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献。これらの功により3回加増され、譜代大名としては例のない30万石となる。彦根35万石といわれるのは、このほかに幕府領5万石の預かりがあり、合わせて35万石となります。天守は18万石の頃の完成でした。
解体寸前だった彦根城
彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。
一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。 また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。
彦根城の今
近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。
彦根城は、平成8年には築城以来5回目の大改修が完了。天守の34種類約6万枚にも及ぶ屋根瓦の吹き替えと白壁の塗り替えが中心に行われ、現代に美しく蘇っています。また、彦根城の周囲は特別史跡に指定されています。
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