教科書にはない魏志倭人伝の秘密|小名木善行

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むすび大学チャンネル

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Күн бұрын

Пікірлер: 190
@pikakechanc4373
@pikakechanc4373 2 жыл бұрын
目の大きい倭人の絵の人物が、父の若い頃にそっくりで笑ってしまいました。 家族のあり方がハワイのそれに良く似ているのですね。ハワイの伝統的な並び方でも、単に年齢でいきます、違うのは男女が左右で別れるぐらいですか、それも陰陽の様な考えから来るもので優劣ではありませんし。 日本人として生まれて、こうして日本のことを学べるのは本当に嬉しい事です、ありがとうございます。
@チョーさんそれきた
@チョーさんそれきた 2 жыл бұрын
大変勉強になりました。結果ありきで、これまでのこじつけ学説を否定された先生の解釈、納得しました。
@武石政宏
@武石政宏 2 жыл бұрын
素晴らしい!日本🇯🇵は鉄3千年前から作った 大変めかわさめました。
@島一-h6d
@島一-h6d Жыл бұрын
今日も、素晴らしい話で…解りやすく…大きな安心と勇気を頂きました。感謝しています🙏
@buuncho9782
@buuncho9782 2 жыл бұрын
いつも、愛を氣付きを、ありがとうございます。深謝致します。拝
@nasidoori
@nasidoori 2 жыл бұрын
コメント欄が、貴重です。参考になります。感謝です。講義は盛っている感じ。 カツオやマグロを追いかけ捕まえたとしても、近海でなければ家、村で待つ人たちまで持ち帰れないと思う。
@よしかず-s4z
@よしかず-s4z Жыл бұрын
大昔は、日本沿岸で、カツオもマグロも取れました。近年の遠洋漁業というのは、諸国の沿岸での漁業というものです。
@nekocat3999
@nekocat3999 Жыл бұрын
魏志倭人伝読んでみます
@高正-f4e
@高正-f4e 2 жыл бұрын
共感できる点が多くありました。在来の学会の様に、縄文海進も海退も考慮せずに、現在の地形を原点に考古学を研究する事態が、古い思考のままだからと思います。 奄美、沖縄の近海の海底に、古代遺跡がある事が、魏志倭人傳の記述の証明になると、私は思います。 又、メキシコのマヤの遺跡に菊花紋がある事や、ペルーの地名に日本語に近い表記がある事も、海洋民族の移動の証明となると思います。有難う御座いました。
@省三古川
@省三古川 Жыл бұрын
アドリブが多く時が余計にかかります。講談を聞いています
@staremblem
@staremblem 2 жыл бұрын
日本で3000年前に鉄器生産をしていたとは初めて知りました。 勉強になりました。
@sunsun2181
@sunsun2181 2 жыл бұрын
うーん、それ怪しいみたいですよ。遺跡ないんじゃないですかね???
@tonin6521
@tonin6521 2 жыл бұрын
@@sunsun2181 2003年5月に国立歴史民俗博物館の研究チームが、曲り田遺跡で出土された鉄を紀元前10世紀(3000年前)の鉄と測定発表しています。
@gyopicyan999
@gyopicyan999 2 жыл бұрын
@@tonin6521 説だとばかり思ってたが、確定していたのか、すげぇ。
@ふむふむ-q6g
@ふむふむ-q6g 2 жыл бұрын
DNAをしらべてもらいました。母方のみですが。古来に日本に渡ってきた30パーセントの縄文の血筋で、親類筋のDNAはハワイの原住民だそうです。先祖はハワイに船で渡ったのですね。
@user-hidesato
@user-hidesato 2 жыл бұрын
有難うございます。よく言ってくれました。宮城県牡鹿半島からの海流に乗っていくと 南米に早く着く。
@にゃんた1999
@にゃんた1999 2 жыл бұрын
宮脇先生も言ってますけど、漢文って本当に淡白ですよねー。細かいことが全くわからん。
@MK-mc3eq
@MK-mc3eq Жыл бұрын
매우 배울 만하다🌷 정말 감사합니다.🙇‍♀️
@波乗りジェニュイン-p2h
@波乗りジェニュイン-p2h 2 жыл бұрын
小名木先生の講義は分かり易い反面、面白いです。今の学会の主張する学説をも網羅した原文での解説は、凄く種になります。温故知新で現代を紐解く参考にします。
@彦火折
@彦火折 2 жыл бұрын
にいちゃんが死んでも弟がちゃんと大家族で面倒を見ていた。 素晴らしい。泣けてきました。
@やまとのヒメなでしこ
@やまとのヒメなでしこ 2 жыл бұрын
😀三国志のことを勉強になります。
@ureiking
@ureiking 2 жыл бұрын
クロモジは私の地元に多いです。愛媛から徳島にかけて四国山脈ですが、我が街にもイスラエル元大使が来たりロマンが尽きないです。国府という街にはヒミコの古墳跡と呼ばれるところもありますよ
@昆澄美子
@昆澄美子 2 жыл бұрын
四国山脈にイスラエルの祖先が来た証があると聞きました
@ryouichihirakawa5290
@ryouichihirakawa5290 Жыл бұрын
小名木さんと三木善雲さんと対談出来るテーマはないかな。ビジュアル的に面白いと思う。
@リコ蟹守
@リコ蟹守 2 жыл бұрын
小名木先生 いつも、ありがとう 御座います‼️ 土木工学博士の 長浜浩明先生と 経済研究所の 三橋貴明先生の説 一度見て下さい 目からウロコです なぜかと言うと 長浜先生は土木設計、 地理から読みとき、 漢文の読解が凄い 三橋貴明先生は 北九州出身で地理感 として地名が現在の まま使われていて 統計が専門なので 数字⇒距離が得意 距離がピッタリだった 従って、 魏志倭人伝に書かれて いる通り 🐻国 クマコク、熊本 邪馬台国⇒ヤマトコク 取り合えず‼️ 北九州⇒九州⇒ の次が、小名木先生の 出番です‼️ 太平洋から船で、 メキシコ⇒ペルー⇒九州 小名木先生コラボ お願いいたします‼️ 魏志倭人伝に、 朝鮮半島の南は、 倭国と書いてます‼️ 韓国は、それが分かって いるから、 韓国で前方後円墳が 見つかると直ぐに 埋め直しして、 埋め直したとニュースに なり韓国のKZbinrさんが 教えてくれます‼️ 魏志倭人伝が、正しいと、 思うのは朝鮮半島で事実、 縄文土器、前方後円墳が 出土される事です‼️ 長浜浩明先生三橋貴明先生 とのコラボ、見たいです‼️ 宜しくお願いします🙇
@Naraaogaki
@Naraaogaki 2 жыл бұрын
かつての日本人なら、どこの国の人とであっても「とりあえず飯食いに行こうか」といって仲良くなってしまいそう。現代なら心ある人なら世界中どこの人もこの感覚があるんじゃないかと思います。 こうした感覚は熊谷直実が、平敦盛の父に思いをやって敦盛を討つことを躊躇するような心情にもきっと繋がっているんじゃないかなあ。
@OG-uq3mj
@OG-uq3mj 2 жыл бұрын
配信お疲れ様です。大体の日本人は公文書で残されたものは真実もしくはそれに近いと認識している人が多い。欧米でも近くの大陸でも一部なのか大半なのか明らかではないが、偽造した文章が残っており大方の日本人をあざ笑うかのようである。昔の残された文章が時の政権に都合が悪ければ残るチャンスは小さくならざるを得ない。この辺は十分考慮するべきだろう、日本の常識と世界の常識には乖離がある事は受け入れなければならない。
@Makoto-channel
@Makoto-channel 2 жыл бұрын
大変勉強になりました。👍😊
@長谷川昭代-s4b
@長谷川昭代-s4b 2 жыл бұрын
もともと日本人は、どんな役職でもどんな仕事であっても、ただ、それぞれの役割分担があり、それぞれの立場で世を回しているだけで、皆同じである、と考えていたのかもですね。誰かが欠けても世が回る、が、皆がいないと世とならない。個人の趣味嗜好で誰かを排斥し始めると世が上手く回らなくなり、皆が苦しむことになる、そんなことはバカみたいだから、やらない、と。
@SEKIGUCHIMASUTERU
@SEKIGUCHIMASUTERU 2 жыл бұрын
身分や階級ではなく役割分担ですね。日本社会は元々人の上に人を作らずと言う平等社会でした。
@白吉-j4d
@白吉-j4d 2 жыл бұрын
邪馬台国が魏志倭人伝のままに読むと太平洋上にいってしまうことは九州説、大和説の説を書かれている本にちゃんと書かれていますよ ただ、太平洋上に邪馬台国はあり得ないため、方角や距離に誤りがあるとしており自説に有利なように説明をしていきます ただ、今回、産出物品や船行1年の部分は始めて聞いた気がします 論説に弊害になったり、有利なようにならないことは省いているのでしょう
@りーくん-q9l
@りーくん-q9l 2 жыл бұрын
小名木先生今日も勉強させてもらいますm(*_ _)m
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
度量衡(どりょうこう) 租税・貨幣・土地制度などの確立のため、計量に用いる長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準を定めた制度[1]。 中国の度量衡 度(長さ) 時代・国名 単位換算 メートル法 商 1尺=10寸、1寸=10分 1尺=15.8cm 戦国時代 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=23.1cm 秦・漢 1引=10丈、1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=23.1cm 三国(魏・蜀・呉)・西晋 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=24.2cm 東晋・十六国 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=24.5cm 南北朝 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 南朝:1尺=24.5cm 北朝:1尺=29.6cm 隋 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=29.6cm 唐 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 大尺:1尺=36cm 小尺:1尺=30cm 宋・元 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=31.2cm 明 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 裁衣尺:1尺=34cm 量地尺:1尺=32.7cm 営造尺:1尺=32cm 清 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 裁衣尺:1尺=35.5cm 量地尺:1尺=34.5cm 営造尺:1尺=32.1cm 中華人民共和国 公制:1米(公尺)=10分米、1分米(公寸)=10厘米、1厘米=10毫米 市制:1市丈=10市尺、1市尺=10市寸、1市寸=10市分 1米(公尺)=1m 1市尺=33.3cm 台湾 1台丈=10台尺、1台尺=10台寸 1台尺=30.3cm 日本 1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分 1尺=30.3cm 意義 人類の量の観念は数の観念と並行して発達してきた[2]。字義的には、度は「長さ」および「さし(ものさし)」、量は「体積」および「枡(升、ます)」、衡は「質量」および「秤(はかり)」を表している。 度量衡制度は特に国内一律の徴税や金貨や銀貨などの秤量貨幣の正確な計量が主な目的であった[1]。計量は客観的な基準がなければ困難であり、計量の基準には時間的普遍性、空間的不変性、再現性がなければならない[2]。 度量衡制度は、支配者が徴税の基準を定めたり、大規模な建築を行ったり、天文や気象の知識に基づく権威保持のために用いられてきた[2]。しかし、いったん定着して慣習化すると強大な権力でも変更は困難となり、復古によって度量衡を統一することが繰り返された[2]。 歴史 メートル法が一般的になるまで、黄河流域を源流とするものと、チグリス・ユーフラテスおよびナイル川を源流とするものの二つがあり、それぞれ大きさや名称において多くの共通点をもっている[2]。 西洋 紀元前5000年から4000年頃、古代バビロニアでは高度な度量衡制度が創設されており、時間や角度の係数法は現代でも世界的に用いられている[1][2]。古代バビロニアでは最初は計数法にも度量衡にも十進法を使用していたが、やがて時間、角度、貨幣も含めて60進法を使用するようになった[2]。 東洋 黄河流域では紀元前1700年頃には度量衡制度があった痕跡が認められている[1]。古代中国の度量衡制度は紀元前221年に始皇帝によって統一された[1][2]。ただし、単位系が整備されたのは王莽のときとされており、劉歆(りゅういん)により十進法の単位系が組み立てられた[2]。 日本では701年(大宝元年)に唐の律令制度を手本にして大宝律令で定められた度量衡が最初のものである[1]。 量(容量) 時代・国名 単位換算 メートル法 戦国時代 齊 1鐘=10釜、1釜=4區、1區=4豆、1豆=4升 戦国時代 楚 1筲=5升 戦国時代 秦 1斛=10斗、1斗=10升 戦国時代 三晉(韓、趙、魏) 1斛=10斗、1斗=10升 秦 1斛=10斗、1斗=10升 1斗=2L 漢 1斛=10斗、1斗=10升、1升=10合、1合=2龠、1龠=5撮、1撮=4圭 1斗=2L 三国(魏・蜀・呉)・西晋・東晋 1斛=10斗、1斗=10升、1升=10合 1斗=2.045L 南北朝 1斛=10斗、1斗=10升、1升=10合 1斗=3L 隋 1斛=10斗、1斗=10升、1升=10合 開皇の頃:1斗=6L 大業の頃:1斗=2L 唐 1斛=10斗、1斗=10升、1升=10合 大:1斗=6L 小:1斗=2L 宋 1石=2斛、1斛=5斗、1斗=10升、1升=10合 1斗=6.7L 元 1石=2斛、1斛=5斗、1斗=10升、1升=10合 1斗=9.5L 明・清 1石=2斛、1斛=5斗、1斗=10升、1升=10合 1斗=10L 中華人民共和国 公制:1石(公石)=10斗、1斗(公斗)=10升、1升(公升)=10合 市制:1市石=10市斗、1市斗=10市升、1市升=10市合 1斗(公斗)=10L 1市斗=10L 台湾 1台斗=10台升、1台升=10台合 1台斗=18L 日本 1石=10斗、1斗=10升、1升=10合、1合=10勺 1斗=18L 衡(重量) 時代・国名 単位換算 メートル法 戦国時代 楚 1斤=16両、1両=24銖 1斤=250g 戦国時代 趙 1石=120斤、1斤=16両、1両=24銖 1斤=250g 戦国時代 魏 1鎰=10釿、1釿=20両 1釿=31.5g 秦 1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両、1両=24銖 1斤=253g 漢 1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両、1両=24銖 西漢:1斤=248g 東漢:1斤=220g 三国(魏・蜀・呉)・西晋・東晋 1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両、1両=24銖 1斤=220g 南北朝 1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両、1両=24銖 南齊:1斤=330g 梁・陳:1斤=220g 北魏・北齊:1斤=440g 北周:1斤=660g 隋 1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両、1両=24銖 大:1斤=661g 小:1斤=220g 唐 1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両、1両=10銭、1銭=10分 1斤=661g 宋・元 石=120斤、1斤=16両、1両=10銭、1銭=10分 1斤=633g 明・清 石=120斤、1斤=16両、1両=10銭、1銭=10分 1斤=590g 中華人民共和国 公制:1斤(公斤)=1,000克(公克) 市制:1市斤=16市両、1市両=10市銭、1市銭=10市分 1斤(公斤)=1,000g 1市斤=500g 台湾 1台斤=16台両 1台斤=600g 日本 1斤=16両1、1両=10匁 1斤=600g 面積 時代・国名 単位換算 メートル法 中華人民共和国 公制:1頃(公頃)=100畝(公畝) 市制:1市頃=16市畝、1市畝=10市分 1畝(公畝)=100m2 1市畝=666.67m2 台湾 1甲=10分=2,934坪 1坪=3.3m2 日本 1町=10反(段)、1反(段)=10畝、1畝=30坪(歩)、1坪(歩)=10合 1坪=3.3m2
@さんふらわあ-p2q
@さんふらわあ-p2q 2 жыл бұрын
邪馬台国とか卑弥呼とか、普通こんな字使わないですよね。「やまとのくに」「ひのみこ」に対する当て字だと言う話は誰もが納得すると思うけど
@redspinel2024
@redspinel2024 2 жыл бұрын
面白い内容だと思ったのは『見大人所敬 但搏手以當脆拝』というところですね。偉い人を敬って、「柏手」を打ち「拝礼」するということです。私達は神社参拝する際に『二礼二拍手一礼』しますが、この時代から日本人は「礼法」を知っており礼儀作法を熟知していたことが分かります。この礼法のルーツは『周礼』であり、すでに「魏国」では廃れていたのに日本人は守り伝えていると感心しています。余談でした・・・。
@to3280
@to3280 Жыл бұрын
壱岐の話題が無くて寂しい。
@猿飛サスケ-u8g
@猿飛サスケ-u8g 2 жыл бұрын
邪馬台国四国阿波根拠 *日本最古の前方後円墳は四国阿波・萩原2号墓。(奈良最古より1世紀ほど早い) *弥生期唯一の水銀朱採掘跡は四国阿波・若杉山水銀朱採掘跡(魏志倭人伝に、その国水銀朱有りと明記有り) *奈良古墳群には、ほぼ全て阿波の水銀朱と阿波吉野川の青石が敷き詰められている。 (最古の阿波古墳群にも同じものが有るので阿波文明を奈良大和文明に移したとしか考えられない。) *日本最古の鉄器の鍛冶炉跡は四国阿波・加茂宮ノ前遺跡。 *古事記にある(倭に大國魂神社有)という記載の倭大國魂神社は四国阿波だけに有り、 淡路島は大和大國魂神社、奈良は大和座大國魂神社で、淡路島・奈良は 倭ではなく大和で、本家阿波から別け持ち込まれ大きく発展した神社としか考えられない *魏志倭人伝に色々解釈を付けずに、その通りに行けば距離も道順もほぼ四国阿波に着いてしまう。 帯方郡から1万2千里は、行程順の道のり合計ではなくて、帯方郡からの直線距離。 *倭人伝での1里は約70ⅿ 阿波はまさに帯方郡の東南の大海の中にあり、その距離1万2千里、、帯方郡から直線距離で1万2千里は四国阿波だけ。 殷時代にはすでに渾天儀か開発されており地球上の一点から一点の直線距離を普通に計測できた。 なので倭人伝は直線距離では1万2千里で、その行程は・・・となってるとしか思えない。 *「邪馬台国の東海に千里で倭人あり」は、四国阿波から見て紀伊半島がそっくりあてはまり、 帯方郡から東南1万2千里、東千里に陸のあるのは日本中、四国阿波だけ。 *倭人伝行程 マツロコク=宗像(1000里)→イトコク=行橋(東南500里)→ナコク=中津(東南100里)→ フミコク=宇佐(東100里)→トウマコク=宮崎(南水行20日) フミコク=宇佐(東100里) →ヤマトコク=阿波(南水行10日で宇和島あたりから上陸、そこから四国横断陸行30日) *古代からある延喜式神社も四国阿波(徳島)1県で50社も有る。(九州は全州で50社位) *また古事記に出てくる神様そのままの名前の延喜式神社は日本全国探しても、四国阿波徳島に数社しか存在しない。 *日本を産んだ神、伊邪那美神社は日本に唯一四国阿波徳島に1社だけ。 その時代、神の話や記紀や口伝などを知る有力者たちが自国の似たような土地や人名に 神話、地名、逸話、を当てはめることはすごく当然。
@sunsun2181
@sunsun2181 2 жыл бұрын
産物からして、四国が一番有利だと思います。四国に馬はいなかった。でも、ヒスイ、白玉(真珠)、丹は四国内でとれる。 野菜をサラダのように生食し、着物もわりとうすっぺらそうだから、北方とはとても思えない。私は奈良県出身ですが、冬でもうすい衣服で過ごせるほど温かくはない。時代によって温度は違うけど、邪馬台国の様子はどうみても、「海洋国家+温帯より少し亜熱帯に近い」となると、九州と四国になるが、九州に馬はいたので、四国が残る。 それに四国には、邪馬台国の少し前の内乱がわかる、戦争で死んだ骨とかがあるし、前方後円墳もあるが、その前の円墳や方墳もある様子。
@shunponsamurai
@shunponsamurai Жыл бұрын
阿波の若杉山採掘遺跡を言わない所が、やっぱり怪しいですねー😅 何んでそんなに隠すのだろう? 1番のミステリーです。
@user-happy-spiritual
@user-happy-spiritual 2 жыл бұрын
距離がおかしいと思うのですが、一里は約4キロですよね!千里だと、約4000キロになりますよね! 日本列島南北の距離より、はるかに上回りますが!?
@nasidoori
@nasidoori 2 жыл бұрын
魏志の頃の一里は、4kmではなかった。
@490526ryu
@490526ryu Жыл бұрын
当時は短里を使用しており1里=約80mだそうです
@adoado5788
@adoado5788 2 жыл бұрын
あと南米の人達も日本人そっくり❗️ネアンデルタールの名残りとか。。。
@竹島のかもめ
@竹島のかもめ 2 жыл бұрын
倭種の子孫だったりしますよね~
@atoz0x0
@atoz0x0 2 жыл бұрын
当時の人々は長生きであった・・・現在の1年を当時は2年としてカウントしていたという説もありますね。前期と後期で
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
レイラインー1 (ley line)とは、古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説で、その遺跡群が描く直線をさす。レイラインが提唱されているケースには古代イギリスの巨石遺跡群などがある。レイラインの存在は1921年にイギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンス(en:Alfred Watkins)によって提唱され、その著書『The Old Straight Track』(古い直線路)によって遺跡の直線的配置性が世間一般の注意を引きつけることとなった。 概要 地図を開けば、遺跡が一列に並んでいるように見える直線を見つけることはそう難しいことではない。にもかかわらず、レイラインの存在を認める動きは学術的には主流とは言えない。その理由としては、レイラインが実在するならば、古代の人々がどうしてそのような直線性を持たせたのかが不明であり、さらには存在するかに見えるその直線性はまったくの偶然にでも発生するのではないかという疑いをぬぐえないためである。こうした事態について解釈を試みる領域はいくつかあり、次のとおりである。 考古学: 考古学の新領域である考古測地学は、測地学を有史以前のものに適用し考古学的な知見を得るものである。近代測地学が優位であるのは一面にはその測量技術がある。測地学を用いて解析すると、レイラインと呼ばれるものは古代人が測量し、所有権を主張するために引いたか単に一般的な街道を作ったかしたものであろうと推察される。時代の新古を問わず多くの社会において、重要な地点同士を結ぶまっすぐな線は作られており、考古学者はこうした伝統があることを指摘している。近代的な測量により、地形においてもこうした直線性があることも確認されている。人の建造物と活動拠点の並びが、人が直線というものを利用していたということを反映しているのは妥当だといえる。 文明論: 多くの文化において、特徴的な地形を横切る直線というものは発見できる。南米では山頂を結ぶ直線がしばしば見受けられる。ナスカの地上絵は古代の長大な直線を語る上で有名な例だといえる。このまっすぐな道というのは今日ではメキシコのテオティワカンにある遺跡にも存在する。古代の道の上に作られた近代の道は二つの巨大なピラミッドの間を今は通っていないが。ニューメキシコ州北西のチャコ文明(Chaco Culture)においては、道をまっすぐに作るために砂岩絶壁を階段状に切り開いている。 ニューエイジ: レイラインやレイライン同士の交点は、風水・ダウジング・UFOのようなものを含む神秘的、超自然的なエネルギーに共鳴する地点だと考える人々がいる。およそ、UFOはレイラインに沿って航行する(車が道路を利用するように)、という風に。こうした主張はレイラインが電磁気的なエネルギーを有しているという想像の元に仮定されている。 懐疑派: レイラインの存在に懐疑的な者は往々にしてレイラインを疑似科学に分類する。彼らは古代文明がレイラインというものを意図的に作ったという説に懐疑的であり、レイラインなるものは超科学や疑似科学を必要とすることなしに説明できるだろうと考えている。 ワトキンスと『古い直線路』 レイという概念は1921年6月30日、アルフレッド・ワトキンスによって提案された。 ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディン(en:Bredwardineを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。 そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた[要出典]。 しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。 古代、イギリスがもっと深い森に覆われていた頃、村と村はこの直線状の道が織り成すネットワークによってつながっており、小高い丘は案内板の役目を果たしていたのではないか、とワトキンスは考えた。 目印となる立石や塚、人造池などは古代ブリトン人の手によって作られたもので、ワトキンスはこれらの繋がりをレイ(妖精の鎖)と名付け、綿密に調査すれば太古の風景を蘇らせる事が可能になると考えた[1]。 この考察は1921年9月にヘレフォードのウールホープクラブ(Woolhope Club。ヘレフォードシャー州の郷土史、考古学などへの支援団体)で公に発表された。ワトキンスの功績は後に1882年発行の同クラブ会誌"G.H.Piper's" に取り上げられ、その中で、次のように書かれた。 アスガリッド・ヴァウル山から北のアーサー石までひいた線は、ハタロルの丘、オールドキャッスル村、ロングタウン城、ユリシェイ城跡、スノッドヒル城を通る。これらの線を考え出したと想像される古代の測量士たちはドッドマン dodman(カタツムリの男[2])と呼ばれた。 しかし、その後の研究でドッドという言葉は道造りではなく畝を真っ直ぐする行為を意味することが分かり、ドッドマンに関する仮説は誤りである事が分かった[3]。 ワトキンスは自身の考察を『Early British Trackways(古代英国の軌道路)』と『The Old Straight Track(古い直線路)』という本に著した。しかし、考古学学会からは懐疑的な目で見られ一般にはあまり受け入れられなかった。考古学者O.G.S.カウフォード(en:O. G. S. Crawford)は学術誌『Antiquity』にこの本の宣伝を掲載することを拒み、これが一般の学者に受け入れられない事態を助長した。 学閥から否定された後もワトキンスは独自の研究会を組織し地図研究や情報交換を続けたが、その研究はラインが直線になっていないなど、重大な事実誤認が含まれている。 2004年ジョン・ブルーノ・エア (John Bruno Hare)は次のように記している。 「ワトキンスはレイラインと超自然的なものの関わりがあると主張したことはなかった。彼はレイラインが単に交易や記念碑的な意味合いで作られたものだと思っていたし、大変な昔まで遡ることができ、もしかすれば新石器時代、少なくともローマ時代以前に既に存在していたと考えていただけだ。彼のレイラインに対するこだわりも風景写真への興味や、イギリスの片田舎を愛していた心から自然に芽生えたものだ。古代の英知に対しても努めて論理的であろうとしたし、今日レイライン説が晒されている風当たりには少々残念な思いでいるのではないだろうか[4]。」 レイライン説に対する批判的な見方が強い一方で、専門家の中にはワトキンスと同じ考えを持つものもいる。巨石文化の研究者であるアレクサンダー・トム(en:Alexander Thom)は、複数の巨石の配置が直線的かどうかを詳細に検討することで、その巨石群を誰が作り上げたかを推し量ることが出来るのではないかと提案している。しかし、トムは巨石群の直線的配置に対しレイラインという用語を使うことは避けている。西欧人が南ペルーで発見した砂で描かれたナスカの地上絵が、巨石群のなす桁外れに長い直線に関する研究の助けとなっている。
@toshy6655
@toshy6655 2 жыл бұрын
いつも楽しく拝見しております。 ひとつ疑問があります。 KZbinでは話せない講義の内容に大変興味があるのですが、価格が高過ぎて敷居が高いです。 日本人が本当の真実である歴史を知ることために、こんなに敷居がが高いのはなぜなのだろうか? 稼がなくては行けない方々もいるでしょう!しかし、コストダウンして後に本や何かしらの形で知る事ができる様にしてほしいと切に願います。
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 2 жыл бұрын
「水行」は当時だと海じゃなくて川なんじゃないかって考えもあるみたいですけど、その辺どのようにお考えなのか伺ってみたいですね!
@tadashifujinaga
@tadashifujinaga 2 жыл бұрын
お、いつもの、けざわひがしさんきたー!
@白吉-j4d
@白吉-j4d 2 жыл бұрын
単純年齢順ね うちの地域はそれさえもないですね。みんな好きなところに座る だから、親しい人は近くに座ることになる 偉い人が上座に座るのは会社だけですね
@LEMONPEEL100
@LEMONPEEL100 2 жыл бұрын
「水行」と「船行」を使い分けていて、「水行」が陸に沿ってというのであれば「南至水行20日」となっている場合、最初南に進むものの、高知と鹿児島の辺りを超えたら四国か九州沿いに東西どちらかに進むのではないでしょうか?
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
邪馬台国レイライン上建国説ー1 ・富士山を巡る不思議なパワー 法華経の聖地七面山は多くの行者や参拝者の参拝が多い霊山である。特に春分の日と秋分の日は一大イベントで、七面山敬慎院から見る富士山山頂から昇る太陽を見るために多くの参拝者が集う。 ←七面山から見る富士山の日出(春分の日)。 日本一の富士山山頂から特別の日に太陽が昇る様は有史の日本人にとって霊験新たかであったろう。 このように、特別な日、特別な場所(断層上とか)、に聖地が一直線に並ぶ現象をレイラインという。 レイライン(Ley-Line:光の線:The Old Straight Track)は1921年イギリスの考古学者が太古の遺跡配置が直線に並ぶ様を発見し、著書『en:The Old Straight Track』により一気にメジャーになった。 単なる偶然なのかそれとも意味があるのか、その答えを解くために様々なラインを検証する考察が世界中でなされている。 上記に示したラインは明らかに意図を持って七面山を聖地にしたことが分かる。これは疑いようの無い事実であろう。 次に以下のようなラインを想定した。七面山-人穴-富士山-須走浅間神社である。 七面山は春分と秋分の日に「そのように見える場所」を選定して聖地とした。 そのライン上にある人穴はどうだろう? これは偶然に空いた洞窟である。その洞窟が聖地と成り得るだろうか?ご存知のように富士山周辺には数百以上の洞窟が存在する。しかしながら聖地となっている洞窟はいくつも無い。 七面山-人穴-富士山-須走浅間神社→ その昔、角行はそのことを認識した上でこの人穴にこもったのであろうか? このようにレイラインも「無理やりなこじつけ」をしようとすれば如何様にも解釈できる危険性があることを認識しなければいけないし、何か意味があるかもしれないことも考慮するべきであろう。 だが、もし仮に隠された歴史の謎を解く鍵があるとしたら現在残されたラインを辿るしかないことも事実だ。新事実はそこにあるのかもしれない。   以上のことを認識した上で、現在色々言われている富士山に関係したレイラインと私が独自に発見(気になる)したラインを考察して見る。 一般的にラインと成り得る条件は、 1.太陽の動きと方角(風水とか)。 2.断層や地磁気や水脈の上。 3.見た目上。 などが考えられる。 2006年から富士山にある金運神社が有名になったが、これは船井総研の船井幸雄氏のイヤシロチ・レイラインの成果に他ならない。船井幸雄氏のレイラインは磁場とマイナスイオンを基本に据えられており、ライン上には癒しの地域が並んでいるという。 ←日本のイヤシロチライン(船井幸雄氏)。白山-剣山、白山-富士山、剣山-富士山。 金運神社は、船井氏が「お金に困りたくなかったら富士山のこの神社に行くと良い」という話から広まったが、実のところ富士山のパワースポットを特定した方法が勉強不足の私には良く分からない。 しかしながら、この神社を訪れた人はパワーを感じるようで実際に私も、「体が温かくなった」とか「金運が上昇した」とかの体験談を良く聞く。 金運神社のレポートはこちらから。 現在はそのご利益が無くなっていると考えられます。 詳しくは→金運神社の場所が変わった?富士山最古、冨士御室浅間神社! 断層や地磁気などで考慮すると事象が複雑化し、思い込みが入り込み易くなるので、私は太古の人々の考えそうなことから考察をはじめたいと思う。 太陽と富士山 まず、一番分かりやすい(太古の人も分かるであろう)太陽の動きについて富士山とともに考察して見た。 太陽の動きとはズバリ、春分・秋分・夏至・冬至の日の太陽の出入りである。 富士山はその高さから遠くの地まで山頂が良く見える特徴がある。そのため富士山の山頂と聖地を重ね合わせる行為は想像しやすい。右図は富士山と諏訪大社のラインを中心に模した。 ・春分秋分・日出日没  白山-諏訪大社-鹿島神宮  出雲大社-元伊勢-伊吹山-富士山-寒川神社 ・夏至日出・冬至日没  阿蘇-矢吹-諏訪大社-日光  霧島-伊勢神宮-豊川神社-富士山-皇居 ・夏至日没・冬至日出  日光-鹿島神宮  諏訪大社-寒川神社  矢吹-豊川神社  元伊勢-伊勢  出雲大社-熊野
@KI-zg6uu
@KI-zg6uu 2 жыл бұрын
日向じゃなくて茨城は常陸ですね。鹿島神宮、香取神宮がある常陸に栄えた国があったと思いますね。
@恵口百山
@恵口百山 2 жыл бұрын
先生は、どうして方角を、ヒがし、ミなみ、とヒやミにアクセントを置くのですか? 古代日本や、やまと言葉に由来しているのでしょうか? 日の出のヒとか、なにか由来がありそうで、とても気になります。 2文字の西や北は、にシ、きタ、とか語尾にアクセントが来そうな予感がします。
@高瀬めんめんコロ
@高瀬めんめんコロ 2 жыл бұрын
14日用事があり参加できません、別途なにかのかたちで拝見できませんでしょうか
@Naraaogaki
@Naraaogaki 2 жыл бұрын
アーカイブにしばらく配信内容が保存されると伺いましたので安心ですよ。観れます。
@旬一-j1y
@旬一-j1y 2 жыл бұрын
セミナー、貧乏人には高すぎて見られないです。
@Izumi-fe1x
@Izumi-fe1x 2 жыл бұрын
山形 明郷氏の説と倭人(日本人)が海洋民族との見方を総合すると 邪馬台国の所在は日本列島ではないと考えることが論理的だと今の所思っています。 だいたい、卑弥呼は固有名詞ではなく職種名で、卑弥呼は一人ではないと思えます。 単なる知的好奇心から小名木先生が山形氏の説をどう考えておられるのか一度お聞きしたいです!! (日本人がどこから来たかとかは自分にとっては2次的なもので、日本民族のあり方の方が大事で 小名木先生のお考えに120%同感です。)
@yamasakuranokiki
@yamasakuranokiki 2 жыл бұрын
戦後くらいまでは、亡くなった兄上の奥さんと弟君が結婚することがあったようです。
@ライアン-b6s
@ライアン-b6s Жыл бұрын
小名木先生は着眼点が斬新で画期的で尚且つ話しが面白い でもところどころ雑というか大雑把なとこがありますよね 調べても経歴がよく分からない たぶんというか間違いなくアカデミズムの人ではないですね もと予備校講師の自営業とかですか?
@anei0268
@anei0268 2 жыл бұрын
縄文弥生の昔から族滅があるなんて感慨深いな
@Micchann0051
@Micchann0051 Жыл бұрын
>酒を嗜む 昔の酒は濁っていて、酒粕の栄養とアルコールの合わさったものだと考えていいです。 つまり、飲んだら酔いますが、酒粕の豊富な栄養が体に周り、酔いがさめた後は?元気一杯になるのです。
@中島和彦-d4l
@中島和彦-d4l 2 жыл бұрын
中国最初の国、漢字を作った「殷」は倭人の国。という文書があるそうですが、殷についてお聴きしたいです。「日本はかっこいい!」
@シャムロケイ
@シャムロケイ 2 жыл бұрын
私見だけで思い込みの歴史感の様だ。
@とらねことらたん
@とらねことらたん 2 жыл бұрын
まお氏は貧しい人達が生きて行ける様にするために新しい組織を作り結果的に新時代を開いたのであって情緒的な人物だと思います。
@eventgreen9742
@eventgreen9742 2 жыл бұрын
戦場出るだけでも大変だもんね。基本待遇もしっかりしてないと。 借金してでも給料分配したヤツは兵動かせる。 兵無き将相手なら勝手な行動しださない程度の練兵でも勝てるし、そういう状況だと旗色を変えたい連中が加わる事も起き易くなる。
@ooamisannmu7690
@ooamisannmu7690 2 жыл бұрын
漢文の授業は 魏志倭人伝や好太王の碑文などを載せるべき
@湾岸太郎-i8q
@湾岸太郎-i8q 2 жыл бұрын
距離がよくわからないですね
@Larphy002
@Larphy002 2 жыл бұрын
基本的に読み間違い 南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月 この「水行十日陸行一月」は 帯方郡から女王国までの総日数で 投馬国からの部分日数ではありません 総距離でいうと 自郡至女王国 萬ニ千餘里とあり 帯方郡から女王国まで 1万2千余里で ほぼ博多湾岸と比定されます。
@竹島のかもめ
@竹島のかもめ 2 жыл бұрын
私も古田武彦氏の著作を読んでそう思います。
@toshiakinogiwa5250
@toshiakinogiwa5250 2 жыл бұрын
アルゼンチン最南端のウシュアイア(パタゴニア地区) の先住民の中には裸で過ごしてた部族がいたとの事です、更にその姿は日本人に良く似てたと言うらしい⁉️住んでた住居は縦穴住居で又貝塚らしきものも発見されてる様です⁉️
@白吉-j4d
@白吉-j4d 2 жыл бұрын
司馬懿は曹丕には忠実であり、司馬氏が曹氏と対立するのは曹丕の血筋が途絶えたあととすることが多いですね
@Larphy002
@Larphy002 2 жыл бұрын
読み間違い(その2) 倭人伝本文 【魏略】の註に 春秋暦(二倍年暦 1年で2歳 歳をとる)の補足説明があります。 【魏略曰   其俗不知正歳四節   但計春耕秋収   為年紀】 したがって  倭人寿命は 二分の一で計算し   八九十歳=40〜45歳 また船行1年 至裸国黒歯国 は 船行 半年となります。
@kenn8438
@kenn8438 2 жыл бұрын
春秋暦とは、春に種を蒔いて秋に収穫するを一周期とする という意味で太陽暦の一年で二歳年を取るの意味では無いと思います。 古代中国人が使っていた二十四節気を知らなかったということを伝えたかっただけでしょう。 倭人の農耕暦は古代ローマのロムルス暦のようなものだったのではないでしょうか。 天皇の寿命が長いことのこじつけに二倍年暦を考え出したのは誰なのでしょう?
@Larphy002
@Larphy002 2 жыл бұрын
@@kenn8438 さんへ 最近では茂木誠先生で 元々は故古田武彦氏から教わりました。 春に耕して 秋に収穫 = 半年です。 「計春耕秋収」は 春と秋に2回計測すると言う意味 間違いやすいので わざわざ 魏略の注意書きを入れている のです。 神武天皇は尊いので 太陽暦の130歳まで生きたと 信じるのは自由ですけど 竹田恒泰氏でさえ 懐疑的です。
@kenn8438
@kenn8438 2 жыл бұрын
@@Larphy002 ご返信ありがとうございます。 古田先生は私もファンでミネルヴァ書房の著作を全部読みました。 ただ先生の説もいくつか間違っています。 「計春耕秋収」もここで切ってはいけません。 「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」これでようやく意味が取れます。 春耕年紀、秋収年紀 なのでしょうか? それとも 春耕秋収 をワンサイクルとして年紀を計る なのでしょうか? この文で2回計測すると取るのはあまりにも恣意的ではないでしょうか。 天皇の年齢問題は他の解決方法を見つけるべきだと思います。
@Larphy002
@Larphy002 2 жыл бұрын
@@kenn8438 さんへ 問題提起ありがとうございます ご存知だと思いますが 故古田先生の貴重なKZbinがあり「二倍年暦」の説明があります。 現在でもパラオでは使われいるとのこと、また古代中国の堯舜禹の年齢や孔子の時代にも使われていたとの事です。誤解もあろうかと思いますが御視聴ください。 kzbin.info/www/bejne/inSVlqaZrst5h9E 最近の古田史学には勉強不足でなかなかついていけませが講演会KZbinを楽しみにしています。 それにしても小名木氏の読み間違いはひどい、皇国史観に凝り固まっている感がします。
@shabazo1
@shabazo1 2 жыл бұрын
邪馬台国とは連合国家の名称。 卑弥呼とは連合国家内で持ち回りで勤めてた首長の役職名。 首長である卑弥呼が女の人であったり、持ち回りだったので卑弥呼が居る首都の邪馬台国が九州にあったり近畿にあったり関東にあったりした。 卑弥呼が誰とか、邪馬台国は何処とかその時々で変わっていたのだから論争が終わる事はないよ。
@komatsumiyabi5173
@komatsumiyabi5173 Жыл бұрын
邪馬臺國(やまとこく)と卑彌呼の名称、前方後円墳の形状など出所同じ。
@sunsun2181
@sunsun2181 2 жыл бұрын
小名木先生が、畿内と九州にこだわることはないといわれていたのは、素晴らしいと思います。畿内と九州の邪馬台国争いは、どうも東大派閥と京大派閥とか、学派の違いらしいです。頭が科学的でなく、偏っているのです。岡山県説や、四国愛媛県説などもあります。 先生が、丹と白玉の産出国の説明をされていますが、両方と、ヒスイが近くに出るのは、四国だけなのです。 九州説は、天皇家の別一門とかが、奈良県に行くほうじゃなくて、九州国内でふらふらとさまよっていたときの遺構が、間違われているだけだと思います。九州の平腹遺跡には、八咫鏡の原型の鏡が出土していて、葬られているのは女性豪族で、アマテラスではないかと言われています。 そして、刺青や服装などからして、邪馬台国は縄文人系、天皇家は弥生人系ですから、アマテラスと卑弥呼が同一人物であることはないと思います。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
邪馬台国九州説ー1 本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、九州地方にあるとする邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)を概説する。 概要 詳細は「邪馬台国」を参照 新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。 詳細は「邪馬台国畿内説」を参照 その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 1]。一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 2][注釈 3]。 基本論拠 邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の御井郡、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群、熊本県の球磨郡など諸説が乱立している。 邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。 根拠 帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること、[注釈 4]。 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 5]。 「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている。 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。また同時代の朝鮮半島は小国並立状態であり、倭国が先行して北部九州から畿内までの広域連合政権を生み出したとは考え難い。 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していることや[注釈 6]、石棺無槨の墳丘墓が多数出現していること。また「無槨」の記述から、槨を持つ畿内の古墳は当てはまらない[注釈 7]。 福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられること。 福岡県久留米市には、宝賀寿男が、規模や副葬品、石棺無槨、主体部および周囲の集団墓(宝賀は殉葬墓ではないかとする)などの状況が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓記載とよく一致するとする[1]祇園山古墳がある。 奈良県桜井市所在で最古の定型化した前方後円墳といわれる箸墓古墳を、3世紀後半の築造とし、卑弥呼の冢とする説があるが、卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。また、当時の朝鮮半島など周辺国の墳墓はいずれも一辺30メートル前後の墳丘墓で、倭国だけが飛び抜けて巨大な墳丘墓(箸墓古墳)を築造したとするのは無理がある。また箸墓古墳に年代的に先行するとされるホケノ山古墳の発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の同古墳の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ[2][3]、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため[4]、3世紀中頃とする年代に疑問を呈する意見がある[5]。 三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っている。 逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
@masahirosasaki227
@masahirosasaki227 2 жыл бұрын
「死せる孔明生ける仲達を走らす」、明時代に書かれた、三国志「演義」の悪影響ですね 評判の悪い仲達ですが、攻めより守り、度々起こった蜀の侵攻をことごとく防いだ、諸葛亮孔明以上の、守りが非常に上手かった名将です あまり今回のお話には関係ないでしょうが、その後の普帝国を作ったのは司馬氏、仲達の子供たち で、その司馬懿仲達が大活躍するのが、当時満州一帯を支配していた公孫氏を滅ぼした事で、それにより倭国(日本)からの朝貢が再開されました 卑弥呼ではなく、倭国大乱を鎮めた2人目の女王「台与」 この「台与(トヨ)」が歴史学会でほとんど評価されないことが不思議です 倭国大乱に公孫氏が関与していたことは想像に難くありませんし、それを打ち破って大陸との交易路を開き直した台与こそ、古代日本を成立させた女性でしょう まあ、はっきり言えば神功皇后なんですけどね
@490526ryu
@490526ryu Жыл бұрын
神功皇后は仲哀天皇の皇后なのですから4世紀の人になりますので、時代がズレてますよ・・・
@ゆうきけい-r1k
@ゆうきけい-r1k 2 жыл бұрын
おはようございます! 日本の南に、でっかい陸がくっついてたか、近くにあった! って考えたら、そこに邪馬台国があった。のかも知れません。
@gyopicyan999
@gyopicyan999 2 жыл бұрын
海の向こうは倭人の住む土地なりと記されたとかなんとか
@すてら-x2c
@すてら-x2c 2 жыл бұрын
義経さんがジンギスハンなんて、妄想じゃないですか?
@ネロは日本へ止まる
@ネロは日本へ止まる 2 жыл бұрын
「計其道里、當在會稽東冶之東」 この記述から その行程(道のり)を測ると、會稽(カイケイ)にある東冶(トウヤ)の東に位置する。 ここでの會稽、東冶とは何処なのかを特定すれば邪馬台国が九州南部なのか、沖縄なのかが特定される。 おそらく竜宮城の琉球(沖縄周辺)でしょう。
@freddie61
@freddie61 Жыл бұрын
いつ、本当に書かれたか分からない昔のご都合文書を読み解いて、妄想するのは各々の勝手。根拠の無い妄想を政治や教育には利用しない事。間違った伝聞を後世には伝えてはいけない。面白い、で済ませましょう。 史実は一つ!
@takashikamatani570
@takashikamatani570 Жыл бұрын
小名木先生❗️邪馬台国の台の字のチャイナ文字は本当にタイと発音するのでしょうか❓ひょっとして「ト」と発音するのが正解なのではありませんか⁉️
@チョーさんそれきた
@チョーさんそれきた 2 жыл бұрын
当時は春秋2倍歴を採用していたので、100歳は半分の50歳ではないですか。
@かずかずまる
@かずかずまる 2 жыл бұрын
細かいことですが、劉備玄徳と呼ぶことはないのではないでしょうか?
@勉田辺-b6p
@勉田辺-b6p 2 жыл бұрын
蝦夷地が白い、倭国は何処までですか
@hogehoge4983
@hogehoge4983 2 жыл бұрын
裸国や黒歯国が倭種、とは書かれてないよ。そこ重要なんで訂正しときますけど。他の動画でも言及してたよね。 女王国から東へ千余里+4千余里、海を渡ったところにある「侏儒国」が、皆倭種ね。そう読むのが正しいんだと思うよ。
@ピヨライサ
@ピヨライサ Жыл бұрын
いや陳寿は蜀出身で、そもそも晋は蜀が滅んだ後に魏がクーデターによってなった国だし。この書き方では誤解を生じます。 更に曹丕と司馬懿は無二の親友だったのと、曹叡も苦労人の名君だったので司馬懿も曹叡の時代まではちゃんと臣下の立場を弁えていました。寧ろ曹操が司馬懿を警戒して重用しなかった。 ちょっと今回は「敢えて誤った」にしても序盤に変なとこが多いです。
@Tabbywhite-b4s
@Tabbywhite-b4s Жыл бұрын
他の動画も含めて大変興味深く拝見しましたが、海岸、水行、大人などは現代日本語とは全く意味が異なると思われます。水行は海ではなく、川および陸上の旅という意味かと思われ、邪馬台国に至る旅程も九州から出ていない可能性が高いと考えます。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
鉄器の起源ー3  1985年、カマンで発掘調査を始めてからも、私はこの仮説が正しいか否かを常に考え続けておりました。もし、製鉄が「秘密裡」にアラジャホユックで行なわれていたとすれば、カマンでは、製鉄に関する資料、特に「鉄滓(てっさい)」などは見つかるはずはないです。「鉄滓」とは、製鉄の際に出てくるカスのようなものですから、それが見つかるとなると、そこで製鉄が行なわれていたとする証拠にもなります。  したがって、ヒッタイト帝国時代をさかのぼること約1000年前のカマンの文化層から、鉄製品を始めとして「鉄滓」が出土し始めた時には驚きましたし、発掘を間違えているのではないかとも思いました。  これらの出土遺物は、ヒッタイト帝国が「秘密裡」に帝国内のアラジャホユックで製鉄が行なわれていたとする、これまでの私の仮説を完全に引っ繰り返すほどのものでありました。  このように、自説を否定し、新たなる説を唱えることが出来た背景には、カマン・カレホユックで「年表」作成のテーマを一度も変えることなく、最も基本的な発掘方法と、整理作業を続けてきた結果ではないかと考えております。  初めにお話ししたように、カマンの発掘調査目的は、「年表」を作ることであります。  作り上げるには、表層から数センチずつ掘り下げ、出土した遺物を順序良く並べていくことが基本になります。単純なことのようですが、この作業を丁寧に、そしてコツコツと続けてゆく中で、ろくろの技術がいつから始まったのか、彩文土器がいつから始まったのか、アナトリアでの文字使用はいつから始まったのかなど、時代の前後関係が一目瞭然となります。ですから、今回の「製鉄の起源」に対する新たな仮説も、こうした作業の中から生まれてきたものといえます。  ただ、この単純ともいえる発掘調査、出土遺物の整理は多くの人手を必要としますし、数年で結果が出るようなものではありません。この作業を支えてくれたのが、発掘現場の側にあるチャウルカン村の人々でした。  最初のうちは労働者として発掘に参加してもらっておりましたが、調査を開始してから数年したところで、彼らの中には、いち早く発掘技術を修得する者や、出土した建築遺構、遺物等の図面を描く上で、驚く程の才能を持ち合わせた労働者が数多くいることに気が付きました。  「なぜ一万キロメートルも離れた日本からアナトリア高原までやってきて発掘をするのか」と、何度も彼らから質問をされたことを覚えております。日本人は「財宝」を探しに来ていると思っていたようです。  発掘の目的の説明には大分手間取ってしまいましたが、毎週土曜日の12時から1時まで、発掘現場で作業をしている人たちに考古学の授業を行い、今ではその問いをほとんど耳にすることもなくなりました。  彼らと何度も会話を交わすうちに、発掘調査は決して研究者だけのものではなく、彼らの生活の場所でもあり、彼らが将来、遺跡や出土遺物を守る主体者であることに気が付きました。そして彼らが集える場所、考古学博物館、さらには研究施設の建設の必要性を強く感じるようになりました。  多くの方々の支援をもとに、1993年に三笠宮記念庭園、2005年にアナトリア考古学研究所、2010年にカマン・カレホユック考古学博物館が完成しました。  一つ一つ建物を建設する中で、多くの村人の働く場所が生み出され、過疎化が進んでいたチャウルカン村に再び活気が出てきたのは、私にとって大きな喜びでした。1993年に建設した三笠宮記念庭園は、当初は年間1500人程度だった来園者が、昨年は10万人近くまで増えてきております。子供から大人まで、歴史、文化財に関心を持って貰う地域の交流の場となっております。  35年にわたる発掘調査を通して、私はこれまで唱えてきた製鉄に関する仮説が崩れ、新たな仮説が生まれ、それが「歴史の転換点」を考える上で大きな役割を演じるのではないかと思っております。  発掘調査に終わりはありません。現在、カマン・カレホユック遺跡では、鉄製品、鉄滓が出土した層よりさらに下の層を盛んに掘り下げているところです。これからも発掘調査を継続して行って参りたいと思っております。その先には、また新たなる仮設が生まれてくるのではないかと期待しております。
@NihonkaiTakeshima
@NihonkaiTakeshima 2 жыл бұрын
以前、邪馬台国は1つの国のことを指すものではない、とお聞きした覚えがあるのですが。。。
@masakiryu3281
@masakiryu3281 2 жыл бұрын
そうはいって初めて聞いたわ、そうはいそうはいwww
@古巣九太郎
@古巣九太郎 2 жыл бұрын
ここまで教えてくれなければ、歴史の授業ではないですね。
@竹島のかもめ
@竹島のかもめ 2 жыл бұрын
「邪馬台国」でなく「邪馬壱国」とありますね。「台(臺)」は高貴な方の神殿、高台の墓のような意味ですからこんな貴字は使われるはずはないですね。昔の発音ですからよく分かりませんが「やまゐこく」だったと思います。昔古田武彦氏の「邪馬台国は無かった」を読んでそう思いました。また、〇里から水行〇日・・と数え方が変わるのは起点とするのが最初の出発点(帯方郡でしたっけ)から、と考えることもできる。陳寿は正確に書いていたと思いますよ。こじつけで勝手に南を東に間違えたなどという説は根拠が希薄。魏志の他の部分に間違いはない。 また、今の沖縄の南の海底に神殿か?と思わせる人工物も沈んでいるらしい。3世紀のあたりは陸地だったのか地殻変動で沈んだのか?謎多き邪馬壱国
@佐藤陽一-k4z
@佐藤陽一-k4z Жыл бұрын
仁徳天皇に朝貢したという呉は、三国時代の呉ではないのでは? すると呉の鉄の話はデタラメですか?
@user-bote
@user-bote 2 жыл бұрын
先生! 中国古代数学書の「周髀算経」によると一里は約76メートルです。 魏志倭人伝の1里が500mはありえないのです。 この計算だと邪馬台国はやはり九州の北部が本当のところです。 中南米 などと言うのは荒唐無稽です。
@DominantMotion
@DominantMotion Жыл бұрын
対馬から1000里で末路國ではなかったような。もう一個島を経由したはず。
@みつきしこう
@みつきしこう 2 жыл бұрын
『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。』 この一文で、女王国は九州以外に考えられない。 (渡海千余里は瀬戸内海) 邪馬台国は知らんが、女王国は九州のどこかである。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
鉄器の起源ー2 「製鉄の起源を探る」(視点・論点) 2019年07月29日 (月) 中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所長 大村 幸弘 私は1985年から、トルコ共和国の遺跡で、考古学の発掘調査を行なっております。 今年で35年目を迎えました。長きに渡って発掘を続けていく中で、「製鉄の起源」という、世界史の通説を覆す可能性のある発見にも出会うことが出来ました。  今日は、私がこれまで続けてきた発掘調査の内容をご紹介するとともに、製鉄の起源が変わるかもしれない「歴史の転換点」について、お話ししたいと思います。  私が発掘調査をしているフィールドは、トルコのほぼ中央部に位置する、カマン・カレホユックという遺跡です。この遺跡は、首都のアンカラから南東100キロに位置し、台形の形をしており、その中には約1万年の歴史が含まれていることが明らかになっております。  調査の目的は、「文化編年の構築」、つまり「年表」を作成することであります。東西文明の接点で、トルコ共和国の小アジアと呼ばれるアナトリア高原。そこで文化が積み重なる遺跡を上から掘り下げることにより、土器、青銅器、鉄器等の出土地点を確認し、それらを順序良く並べ、歴史の変遷の背景を読み取ることが出来るのではないかと考えております。  この35年間で、約4400年の「年表」を作成することができました。 第I層が15世紀から17世紀にかけてのオスマン帝国時代、ビザンツ帝国時代、第II層は、3200年前から2340年前までの鉄器時代で、フリュギア王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代、ヘレニズム時代等が含まれております。第III層は、4000年前から3200年前までの中期・後期青銅器時代で、アッシリア商業植民地時代、ヒッタイト古王国時代、ヒッタイト帝国時代、そして第IV層は、4400年前から4000年前の前期青銅器時代後半で、アナトリアで都市国家が成立した時代でもあります。  さて、今年3月に、カマン・カレホユック遺跡から世界最古の鉄製品が出土したという報道がありました。ご存知の方もおいでになるかもしれません。この鉄製品は第IV層から見つかりました。 これまで製鉄の起源は3500年前から3400年前、つまり、ヒッタイト帝国時代にあると考えられてきました。 ヒッタイト帝国は、製鉄技術を他国に広がらないよう秘密裡に死守し、鉄器を駆使しながら、3500年前から3200年前、古代中近東世界で一翼を担っていたとされています。 一時はナイル河流域に本拠地を置いていたエジプト王国と対等の立場になるほどの勢力を持っていたというのですから、相当の力を兼ね備えていたことになります。  私自身、現在の遺跡で発掘を始める前の1970年代には、調査研究に10年近くを費やした後、製鉄はヒッタイト帝国の都に近いアラジャホユックであるとする仮説を打ち立てました。
@責任者火元
@責任者火元 2 жыл бұрын
邪馬台国は、転々と移動する説も有りますね
@紋太-f6v
@紋太-f6v 2 жыл бұрын
帯方郡からの旅行程記事の中で最も重要なのは、松羅国と伊都国の位置関係だと思っています。現代人の方向感覚では、伊都国は、松羅国から見て、およそ22度程東北東にずれています。また、中国からの使者は、伊都国は、松羅国の東南方向にあると思っている訳です。東と南の間を三等分すると、最大で60度南よりまでが東南方向となります。すなわち当時の中国人の使者の九州内での方向感覚が、最大で現代人の感覚より80度から85度程ずれていた事になります。魏志倭人伝の研究者のほとんどが現代人の方向感覚を重視し古代人の感覚のほうがおかしいとしていますが、はたしてそれで良いのでしょうか。魏志倭人伝の記述を素直に読むのであれば、ここは使者の感覚を重視するのが自然であるはずです。このように考えれば、当時の使者の頭の中では、九州が80度から85度、時計回りで、反転していたと理解するのが自然の読み方だと思います。すなわち、使者の頭の中では、松羅国も、伊都国も、奴国も、不彌国も、九州の東側にあると思っておリ、不彌国の位置は、だいたい、国東半島辺りにあると理解していたと考ええるのが自然の考えであると思います。そこから本来は、東に水行しているのに、南に水行したと思い込んでいたと理解すれば、さほどむづかしい記述には、思えないのですが。85°程の当時と現代の方向感覚のズレが本来分かり易いはずの魏志倭人伝の記述を謎の記述として、現代人が見てしまっていると思っています。
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 2 жыл бұрын
奈良〜太陽の道 三輪鳥居 卑弥呼 2015-09-30 12:30:20 テーマ:古事記~神話の世界 桧原神社の三ツ鳥居 大神神社の三ツ鳥居と同じ形で三輪鳥居とも呼ばれています 何故 三輪山に向かってこの鳥居が置かれているのか 社伝でもわからないということでしたが 太陽の道に気付いた 小川光三氏の説によると 大神神社は古代元々は 箸墓古墳にほど近い三輪山正面の位置の 春日神社の場所にあって その春日神社に三輪鳥居が元々あり 三ツ鳥居の真ん中の鳥居を通して 春分・秋分の日の出が三輪山山頂から登るのを拝することができ 左側の鳥居からは 夏至の日の出が斎槻岳山頂(三輪山の北)から登るのを拝し 右側の鳥居からは 冬至の日の出を玉烈神社(三輪山山頂から南)から登るのを拝していた と述べています 参考→★ 大昔は大神神社の 上社は三輪山山頂にあり日向神社といい その御神体は巨杉であった 下社は現在の上記の春日神社の位置にあり そこに三ツ鳥居があったといいます 平安時代に藤原氏の氏神である春日神社による相当な圧力による討入り事件があり 大神神社が現在の位置に遷宮せざるおえなかったのではないかとのこと 記録によると現在の大神神社の社地での最古の拝殿は討入り事件の23年後の1317年の創建だそうです またまた藤原氏め~!! なのです(♯`∧´) この説だと 現在の大神神社の三ツ鳥居から三輪山山頂を拝することが出来ないのも納得できます 前方後円墳を築くと回りに池ができ この周濠から引水し稲作の耕地拡大を大和盆地でしていったのだろうとのこと 稲作の作付けの準備の指標に春分等の暦を知ることに 三ツ鳥居や前方後円墳から拝する日の出を指標にしていたのではないかと思います マクモニーグルの透視でも(笑) 卑弥呼はその知識により稲作等の技術の指導をしていたと言っています 太陽の道 は 東西一直線に延びています 古代の人々は 太陽は東の彼方にある大穴から出現し やがて西方はるかな大穴に沈むと考えた 西の彼方に沈んだ太陽が 翌朝には再び東方から出現するのは 西から東へと通じる地下の大穴の途中に 生命を蘇生する常世国という理想卿があって あらゆる生命はこの国に至れば蘇生して 東から再来すると信じていた 倭姫命が天照大神を奉じて東に向かったのは常世国を目指したからなのでしょう 太陽の道を長谷寺から更に辿って行くと そのほぼ線上に マクモニーグルの透視した榛原の卑弥呼の夏の居城があったする鳥見山があるのです!!→★★ これに気付いてちょっとビックリでした!! 榛原の鳥見山には山の上なのに大きな池があったり 下界を一望できたり弥生時代の高地性集落にぴったりの場所です 参考→榛原の鳥見山★★★ この場所の近くに山の中に何故か 春日宮天皇妃陵があるというのも 興味深いです 卑弥呼の居住地であったという伝承があったのでしょうか?! 榛原の鳥見山の麓には 崇神天皇勅願の神社 墨坂神社と水分神社という古社があるのもやっぱりという感じです 水谷慶一氏は 太陽の道は海人族の仕業ではないかと 海人族は高い所に登り船上の人へ捕鯨などの漁労を指図したりする漁法があり 古代の天皇が高台に登り国見するのも 海人族であったからではないかと 長谷寺の南の高原に 高天原だったのでは? と言われる都祁(つげ)という 縄文時代から稲作等が行われていた古代の国があったといわれる地域もあり 太陽の道の探求は卑弥呼と共に 今からしばらく私のテーマになりそうです ( ´ ▽ ` )ノ
@satorukun0011
@satorukun0011 2 жыл бұрын
1万二千里が引っかかります。海里と陸里で距離が同じであると考えてはいけないのではないかな~ 海路7千里で北九州確定だが、その後が陸路だとして、さらに5千里がかなり短いとすれば 女王九州説あるよね。鹿児島なら海路5千里程なので、熊襲がヤマタイのような気がしてならない。 ホツマツタエだと九州北部から宮崎にかけては、すでに大和政権に属している。
@490526ryu
@490526ryu Жыл бұрын
49:50 なんか、かなり違いますねw 司馬懿(251年没)・司馬師(255年没)・司馬昭(265年没)がクーデター(249年高平陵の変)を起こしたのは、曹真の息子で政敵の曹爽一族を排除して朝廷内での勢力を拡大したのであって、 禅譲で皇帝の地位を譲り受けたのは司馬懿の孫、司馬昭の息子司馬炎の時代(275年)です。 息子の司馬昭まではあくまで朝廷内での最大権力ではあったが、皇帝になろうとはしてません。 ちなみに中国の鉄器は殷の時代には日用品の利用としてすでに確認されています。 ただし、武器は春秋戦国時代までは青銅器が主流。
@新藤至
@新藤至 2 жыл бұрын
日・中・韓・断交協会・断行議連が必要やわ。
@神房正美-r5f
@神房正美-r5f 2 жыл бұрын
当時の真珠の産地は、邪馬台国勢力範囲の 大村湾だと思います。🙂 卑弥呼もこの真珠の首飾りをしていたのでしようね
@ttak5432
@ttak5432 2 жыл бұрын
サイコパスが生まれやすい国なんですかね
@森羅-d3f
@森羅-d3f 2 жыл бұрын
遺伝するみたいですからそうなのかもですね
@yamasakuranokiki
@yamasakuranokiki 2 жыл бұрын
というか、サイコパスじゃないと生きていけなかったのかも知れませんね。
@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR
@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR 2 жыл бұрын
サイコパスではなく、根絶やしにしないと、末代まで恨みが残るから滅ぼすのでしょうね。俺がトップで戦国にいても、同じようにしますね。才能や忠義のある 者だけは育ててみてから判断するでしょうね
@ライアン-b6s
@ライアン-b6s Жыл бұрын
@@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR おれは嫌だしおれには無理ですね 支配者には全く向いてないw 仕事だとしても割りきれないから辞めちゃいますね
@toshi_tsuchiya
@toshi_tsuchiya 2 жыл бұрын
ごめんなさい。言葉が聞き取れない時があります。
@山形園田
@山形園田 2 жыл бұрын
別に三國志、今の時代に何か役に立つのか馬鹿な俺が観るものでもなかった?
@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR
@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR 2 жыл бұрын
どんな事からでも 学べると思いますよ😃気付くか❓気付かないか❓の差だと思うし、疑問や、なぜなんだ?って感じる事が 勉強の始まりの様な気がします😁
@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR
@USER-LONE-TIGER-OF.DESPAIR 2 жыл бұрын
曹丕は曹操の長男じゃないですよ‼️
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 2 жыл бұрын
弥生時代は鉄器時代か(No.65) 更新日:2013年12月18日 復元した弥生時代の各種の石斧 「人類の歴史は、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と変化すると記憶しているのですが、日本の弥生時代はどの時代区分に当たるのでしょうか」40代半ばと思われる男性からの質問です。 たしかに、エジプトやメソポタミア、中国など世界文明の中心地やその周辺地域では、石器時代、青銅器時代、鉄器時代という順序の歴史区分ができます。しかし、すべての地域がそのような経過をたどったわけではなかったのです。日本もその例外的な地域だったのです。 紀元前5世紀から4世紀のころ、水田稲作技術をはじめとして、さまざまな文物が日本にもたらされます。約1万年も続いた縄紋時代から弥生時代へと移り変わるのです。青銅器と鉄器は、ともにこのときに伝わったのです。青銅器は実用の道具としてではなく、もっぱら鏡や銅鐸のような宝器や儀式用の品物に使われました。これに対して鉄器は木工用の工具に始まり、農具や武器などの実用的な品物に使われたのです。 弥生時代の最初は、ごく少量の輸入鉄器が使われていただけで、道具の主力は石器だったのです。ところが、鉄器の生産が進み、弥生時代後期には、石器はほとんど姿を消すのです。弥生時代は石器時代から青銅器時代を経ることなく、鉄器時代へ移る過渡期だったのです。 ところで、鉄器が石器より優れている点は何でしょうか。刃物としての切れ味はどうでしょう。サヌカイトや黒曜石の薄い破片は、鉄の刃物より鋭い刃を作ることもできますが、耐久性は鉄器がはるかに勝っています。また、刃こぼれしたり折れた石器は捨てるしかありませんが、鉄器は使えなくなっても鋳直して再生することが可能なのです。 3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。 ただ、日本国内で鉄鉱石や砂鉄から鉄を生産するようになるのは、いつからかということについては、二つの意見が対立しています。一つはすでに弥生時代の後半に始まっていたという説で、二つ目は古墳時代を待たなければならないという説です。前者は弥生時代後期には、ほとんど石器を使うことがなくなり、鉄器が普及したことを根拠にしています。後者は鉄を精錬した炉や鉄のクズが見つかっているのは、今のところ古墳時代を上限としていることに基づいているのです。 注意1:ワイはさんずい辺に歳 写真:復元した弥生時代の各種の石斧 『広報ふじいでら』第315号 1995年8月号より
@untitle25
@untitle25 2 жыл бұрын
最近の研究で稲作は日本で元々あったって結果が出ていた気がします。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b 2 жыл бұрын
数年前に最古の米の化石は、沖縄だか、九州で出土しましたが、報道はごくわずか、一部でもみ消されました。都合が悪いというより、一部の大家に遠慮したというあたりでしょう。それと、あなたの仰せなのは陸稲のことでしょう。 前述の化石が水稲だったか陸稲だったかはわかりませんが、水稲だったとしても灌漑農業ができたかは疑問なので、おそらく水辺に種を撒いて自生したものを収穫した程度でしょう。どっちが先か?ということ自体はあまり意味はないと思います。申し上げたいのは、日本はすごいんだ、日本がナンバー1だ。というよりは、日本は恵まれてきた国だということなんですが、世界に冠たる日本人的特性というのは、地理環境に恵まれてのことなので、別に日本人の手柄というわけでもないんですよ。大陸もまた同様で、破滅と破壊が必然的に起こるのは諸般の事情ということでもあるんですが、日本人の現状があまりにひどいという点もあるので、まあ、小名木氏を批判しているわけでもないんですよ。 コメントの主旨は、鉄器の使用と製造についてという意味合いですので。 「3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。 ただ、日本国内で鉄鉱石や砂鉄から鉄を生産するようになるのは、いつからかということについては、二つの意見が対立しています。一つはすでに弥生時代の後半に始まっていたという説で、二つ目は古墳時代を待たなければならないという説です。前者は弥生時代後期には、ほとんど石器を使うことがなくなり、鉄器が普及したことを根拠にしています。後者は鉄を精錬した炉や鉄のクズが見つかっているのは、今のところ古墳時代を上限としていることに基づいているのです。」のところですので。
@untitle25
@untitle25 2 жыл бұрын
@@とほかみえみため-d5b ありがとうございます。 私も日本がナンバー1だとかは思ってないです。 それよりも最近、分かってきた歴史的なものをもっと深堀りして教科書等も早く改編されていけばいいなぁという思いです。 本とかもいろいろ出てきてはいますが、興味ある人以外の一般の人は昔の歴史教育のままで進歩せずGHQの政策以降、未だに日本人(昔の偉人も含め)は下みたいな見方があるのが残念ですよね。 もっといろんな意見が広まればいいなと思います。
@くまのとおる
@くまのとおる Жыл бұрын
邪馬台国というのは、阿波古事記研究会が指摘しているとおり、阿波(徳島)ですね。 そうすると、矛盾なく説明できます。松盧(宗像)から伊都(いつ)国へ、(みやこ郡)から行橋へ。水行20日で都万(つま)国(西都原)へ。行橋から水行10日で八幡浜へ、陸行1ヶ月で女王国(阿波美馬)へ。女王国から海を渡って千里で倭種(のちの大和)が存在する。
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