石田勇治 東京大学大学院教授 「ドイツの戦後和解」①ナチズムの克服 2015.4.17

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Күн бұрын

Yuji Ishida, Professor, Graduate school of arts and sciences, The University of Tokyo
東京大学大学院の石田教授が、ドイツの戦後和解の取り組みについて話し、記者の質問に答えた。
司会 倉重篤郎 日本記者クラブ企画委員(毎日新聞)
日本記者クラブのページ
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会見詳録(文字起こしpdf)
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記者による会見リポート(日本記者クラブ会報5月号に掲載)
戦後ドイツの和解 その成果と限界は
政治指導者の役割重要
戦後70年を迎え、日本の歴史問題への取り組みをめぐる議論が盛んになり、その中でしばしばドイツが引き合いに出される。戦後ドイツは、周辺国やイスラエルとどのように和解していったのか。
第1回は、ドイツ戦後史に詳しい石田勇治氏が、概論を語った。
西独、そして統一ドイツの「過去の克服」の取り組みは多岐にわたるが、ホロコーストなどナチスが犯した不法に対する補償と、司法訴追が、2つの大きな柱だ。各分野での政策は、政治がその時々の社会的要請や国際的な圧力に応えたもので、多分に「場当たり的」ではあった。
しかし、次第にドイツの過去への取り組みは、国際社会で高い評価を得るようになる。
こうした経緯をたどった要因として、石田氏は、過去への反省を内外に示したブラント首相やヴァイツゼッカー、ラウ両大統領の例を引いて、政治指導者の役割を強調した。
ドイツとイスラエルとの関係を取り上げた武井彩佳氏の話(第2回)は、アデナウアー西独首相の「現実路線」に焦点をあてた点で、新鮮味があった。
ドイツは1952年、アデナウアーの決断で、イスラエルと「ルクセンブルク補償協定」を結んだ。戦後和解プロセスの出発点だ。
武井氏によれば、アデナウアーが国内の反対を押し切って協定締結を推進したのは、「国際情勢を勘案して利益が大きい」との現実的な判断に立ったからだ。
この時期の西独は、戦勝国である米、英、仏との間で、主権回復と再軍備に関する交渉を行っていた。こうした復権が西側戦勝国から認められるためには、イスラエルへの補償を行うことが必要だった。
一方、イスラエルの指導者も、経済的な逼迫を打開するため、ドイツからの補償を受け入れるという現実的な選択をした。
「冷戦の枠組みの中で、和解という方向性が、ドイツ人、ユダヤ人双方のニーズに合っていた」というのが武井氏の要約だ。
第3回の川喜田敦子氏は、ドイツがフランス、ポーランドなどと行っている歴史教育分野での対話を紹介した。対話は、教科書の内容を互いにチェックして誤りや偏見を指摘するという初期段階から、両国関係に関する出来事の共同執筆に進む。
独仏は、「対話の長い積み重ねの上に立ち」21世紀に入って高校生向け共通教科書の刊行にこぎつけた。
ただ、共通教科書は、多分に「派手なパフォーマンスを望む政治」の後押しを受けたものであり、教育現場での採用率は低いとのことだ。
共通教科書を目標とするより、対話を通じて、他国民を傷つけない歴史記述を模索することが重要だというのが、川喜田氏の指摘だ。
いずれの回も活発な質疑応答があった。「ドイツによるユダヤ人への優遇は、イスラム系住民の視点からは、どう捉えられるか」「ドイツとロシアとの歴史対話は可能か」「植民地支配の過去への取り組みは十分か」といったポイントが取り上げられた。いずれも、ホロコーストへの反省に重点を置き進展してきた、ドイツの「過去の克服」の限界や急所をつく疑問である。
議論は、現今の幅広い国際問題と関連付けて、戦後ドイツの歩みをより深く理解しようとする方向に向かったと言える。
読売新聞論説委員
森 千春
*このリポートは、下記同シリーズとの統合版です。
・武井彩佳 学習院女子大学准教授(2015年4月22日)
・川喜田敦子 中央大学教授(2015年4月24日)

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