Рет қаралды 42
1.自殺の誘惑に抗しきれなくなった人が、最後に話し相手を求めてかける電話に、「いのちの電話」がある。 この「いのちの電話」の相談員は、別に人生指導やお説教をするわけではない。 電話をかけてきた人と一緒になって危機を乗り越える道を考える、友だちの電話なのである。 仙台で、この「いのちの電話」の相談員をしておられる人から、こんなことを教わった。
2.相談員を志願される人のうちには、わたし自身がこんな苦労をし、それをちゃんと克服したのだから、自分は立派な相談員になれると言ってこられる人がいる。 しかし、そのような人はおおむね相談員には不適格である。 というのは、そういう人は電話をかけてきた人を叱り、お説教をしてしまうからである。 そう言われると、〈なるほどなあ......〉と思える節がある。
3.じつは、苦労の体験というものは、マイナス要因なのである。 なぜなら、人間は苦労をすることによって、性格がどうしても暗くなり、いじけた考え方をしてしまう。 そして、努力によって苦労を克服した体験から、すばらしい知恵が身についたかのように思っているが、だいたいにおいてそこで得られたものは処世術にすぎない。 自分が獲得した処世術を他人に押し売りし、そのような処世術を身につけていない人を叱る傾向がある。 それが苦労の体験者の大きな欠点である。 苦労の体験はしないほうがいいし、あまり苦労の体験を持ち上げないほうがいい。 と同時に、苦労を体験しながら、明るく楽天的でいられる人は、ものすごく立派な人である。 わたしはそのような人を尊敬する。
◆本書の中にこんな話があった。 ●わたしたちは、貧しい人を見たり、目の不自由な人と出会ったとき、思わず、「かわいそうに・・・」と言ってしまう。 けれども、それは本質的には相手に対する軽蔑の言葉であり、言っている側の優越感が誇示された言葉である。 インドを旅行したとき、わたしはガイ ドのインド人からそのことを教わった。 ●インド人は言った。 あなたがた日本人は思い上がっているのではないか。 インドに来て貧しい人々を見て、日本人はすぐに「かわいそうに」と言うが、貧者の多くは幸福に生きているのだ。 あなたがたは、金持ちだけが幸福になれて、貧乏人は不幸だと思い込んでいるようだけれども、それは日本人の傲慢さである。
◆実は、貧乏にも、病気にも、苦労にも、そこに色はついていない。 色とは、「大変だ」とか「つらそうだ」「かわいそう」「不幸だ」という評価や思い込みだ。 貧乏であっても幸せな人はいる。 病気であっても、幸せに過ごしている人はいる。 苦労もまた同じだ。 すべては、その人の見方次第、考え方次第でどちらにも変わる。 どんな状況にあろうと、そこに幸せの種を見つけることができるかどうか、ということだ。
◆「苦労」の中に面白さや楽しさを見出す人。 「苦労」をゲームのように愉(たの)しむことができる人。 「今まで、苦労したことがない」と言っている人。 それが、「苦労」を、苦労と思っていない人。 苦労を体験しながら・・・ 明るく楽天的でいられる人でありたい。