【ゆっくり解説 】大和朝廷の租「ホケノ山古墳」とは何か?

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古代史ヤバイ【ゆっくり解説】

古代史ヤバイ【ゆっくり解説】

Күн бұрын

「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
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Пікірлер: 21
@川人英央
@川人英央 3 ай бұрын
ホケノ山古墳については、橿原考古学研究所の公式サイト見ても3世紀半ばと書いてある。  ところが、安本美典氏が中心として活動している邪馬台国の会の活動記録みると、橿研にいて纏向古墳群の調査に石野博信氏とともに参加した関川尚功氏は、箸墓もホケノ山古墳も4世紀半ばとし、安本氏もそれに同意している。そして、炭素14年代法を拡大解釈する歴史民俗博物館の寺澤薫氏らの発表も否定。  理論的なことはあまりに難解でよくわからないが、基準とする土器の時代設定の違いがあるとか。また、たしかにノカツギ鉄鏃や画文帯同型鏡はかなり時代が下るという話や、当の石野氏自身が動揺していたとか、橿考研の最終報告も色々見解が分かれているとかの裏話を記載している。  安本氏界隈の会であるからどこまで公平かはわからないが・・・・? ただ、箸墓やホケノ山、さらに纏向遺跡などが3世紀でないとすると、卑弥呼=箸墓説もなくなり、意外に紀記が嘘は言っていないのではないかとも思えてくる。纏向古墳群は一部を除き調査されていないので、誰のいつの時代のものかはわからないが、少なくとも紀記が大王墓にしていない姿勢は頷ける?  もっとも、安本氏の理論は、アマテラス=卑弥呼にこだわるあまり、時代を下げ過ぎとか。 日本家系図主催する元大蔵官僚、弁護士の宝賀寿男氏は、井上光貞氏の著作に触れて古代史の研究を行い、さらに安本美典氏の成果にほぼ同意していた。しかし、安本氏が神武東征時期を3世紀後半にまで繰り下げたことに疑問を持ち独自の見解をもつに至ったらしい。実際に、安本氏の理論では崇神の時代が4世紀半ば以降になり、これでは七枝刀など朝鮮外交の記録やさらに5世紀の倭の五王にも無理が出るので納得しています。もちろん、宝賀氏の考えも出来過ぎの気もしますが。  邪馬台国の会の活動記録にもあるとおり、意外に有名な考古学者でも持論にこだわり結果ありきの論文を強引に出すらしいです。旧石器時代捏造事件を例として出してあり、特に東京での邪馬台国大和説の牙城である歴博の姿勢には警鐘を鳴らしている。
@tori3469
@tori3469 3 ай бұрын
地中レーダー探査の結果ホケノ山古墳の周濠は隣接する堂の後古墳の周濠を破壊していることが判明している。堂の後古墳の築造は500年前後なのでホケノ山はそれ以後の築造であると確定できる。先に年代を決めつけて不利な証拠を全力無視してる典型例がホケノ山。ホケノ山出土の画文帯鏡の同型鏡は全て500年前後の古墳から出土している。500年以降に追葬されたのは妻か子供などの親族だろう。築造の300年以上後に子孫が追葬されたとか無理なこじつけ。ホケノ山の銅矢じりは3世紀の出土例がない。
@COSF101
@COSF101 3 ай бұрын
第26代継体天皇の治世の末期に、筑紫君磐井の乱が西暦528年に発生しており、日本書紀では大和朝廷から軍事侵攻を受けそうになった新羅が磐井に賄賂を送り大和朝廷軍の妨害するよう依頼、磐井はそれに応えて反乱を起こしたとされる。このことから筑紫国造であった磐井は朝鮮半島と深い関係があり特に新羅との関係が深かったようであり、反乱後肥前肥後豊前豊後の各国を制圧したとされており、北部九州を基盤に大きな勢力を持っていたことも伺える。また大和朝廷の追討軍の指揮官近江毛野とも古くからの知り合いだった様子が描かれていることから、磐井は大和朝廷に出仕していたことがあるようだ。このように筑紫国造磐井は、魏志倭人伝に描かれた九州の国々の末裔の可能性もあると思う
@やふのすけ-z2q
@やふのすけ-z2q 3 ай бұрын
18才でヤマトから追放された 武烈天皇と言う可能性もある
@永隈ゆうじ
@永隈ゆうじ 3 ай бұрын
磐井の墓、古墳に行った事が有りますが、とても大きな前方後円墳で別区とした広場が有り石像がたくさん有りました。勢力の大きさを測り知れます。
@COSF101
@COSF101 3 ай бұрын
@@永隈ゆうじ さん。磐井の墓の石像は近江毛野の討伐軍が、磐井の乱平定時に兵が石人や石像を打ち壊したと記録されています。磐井生存時には既に古墳は存在していたことになりますね。
@永隈ゆうじ
@永隈ゆうじ 3 ай бұрын
知っていますよ。
@s-yo
@s-yo 3 ай бұрын
うん😊
@sean2540
@sean2540 3 ай бұрын
ホケノ山古墳主体部から出土した布留式土器は同古墳から出土した庄内式土器の下になって出土したんですけど柏原考古学研究所は布留式土器を無視して庄内式土器を弥生土器として時代を繰り上げる操作をしています。この出土状況から布留式も庄内式もほぼ同時代と考えて4世紀中頃ではという考えは首肯されるものだと思います。古くとも西暦350年前後でしょう。つまり崇神天皇とヤマトトトヒモモソヒメの伝承に対応する遺跡が纏向遺跡であり、纏向遺跡群は4c中頃であって邪馬台国とは無関係だと思います。崇神天皇とヤマトトトヒモモソヒメはともに逢坂山を通って初めて纏向の地に来たのであってそれまでの居住地は大阪府の柏原市周辺であったと思います。大阪府の柏原こそが神武が東遷したヤマトであったと思います。ヤマトとハヤトは同根ではないでしょうか。ヤマトは山人、ハヤトは海人。邪馬台はヤマトであり山人であったと思います。おそらくは九州筑後地方の上流部にあったのが山人の国ヤマトであり、狗奴国を破って高千穂に天下り、そこから畿内に東遷したと思います。高千穂の東、五ヶ瀬町の東には山都の地名が残りこのあたりがヤマトであった時代もあるのでしょう。高千穂町の吾平には約100mのこけし型とも言えるような長大な前方部を持つ前方後円墳があり、五ヶ瀬町役場の裏山にも全長90m級の前方後円墳があります。九州山地のど真ん中にこのような古墳があるのは驚きであります。神話には何らかの歴史的事実があるものと思われます。
@たこやきイズム
@たこやきイズム 3 ай бұрын
卑弥呼と卑弥弓呼ってよく似た名前だね。 もしかすると名前ではなく役職なり対外の為の名称なのかもしれないね。 そうなると名前から所在を探すのは難しいかもね。
@海原かもめ
@海原かもめ 3 ай бұрын
本家家元の関係
@ザコシャア
@ザコシャア 3 ай бұрын
いや根本的に九州が武力と生産力があれば日本を統一していただろ でも統一したのは...ということだろ
@OlegBatov
@OlegBatov 3 ай бұрын
神武天皇が九州から出征して大和を服属させたじゃないですか。
@どうく-p8u
@どうく-p8u 3 ай бұрын
北九州の筑後一宮の高良大社には祭神が髙木の神から高良玉垂命に変わったと言う伝承があります。髙木の神とは高皇産霊神で天照大御神に仕えた神であり天照大御神=卑弥呼とすると邪馬台国の神です。一方の高良玉垂命とは三韓征伐して三韓の王となった武内宿禰と思われ、武内宿禰は三韓征伐で火の国の兵を率いたことから当時熊本にあった狗奴国の王と思われます。と言う事は高良大社は初め邪馬台国の神社だったのが狗奴国の神社になったと言う事ですから、狗奴国が邪馬台国を滅ぼし九州統一した事を表しているのではないでしょうか。
@南邦夫-k4u
@南邦夫-k4u 3 ай бұрын
ヒミクコ、クコチヒコ、のクコは呉音で宮古。というわけで、宮古島と考えております。
@川人英央
@川人英央 3 ай бұрын
ホケノ山古墳が属する纏向古墳群は一般には初期大和王権の王墓らしいと言われている。纏向古墳群の最終の箸墓を卑弥呼の墓として邪馬台国大和説を唱える一部考古学者やマスコミが目立つがいかがなものか。実際に携わった関川尚功氏自身も邪馬台国大和説には懐疑的とか。 大体、弥生時代の大和には古代大和湖の名残もあり、弥生遺跡もその縁に沿って展開するが、唐古鍵遺跡や葛城地方に見つかった秋津遺跡でも墳丘墓は見つかっていない。むしろ、河内の八尾に墳丘墓が見つかり饒速日につながりある物部氏との関連があるとか。そして、吉備地方の楯築墳丘墓や特殊器台の影響が纏向古墳群に見られるのである。つまり、当時の先進地である九州や吉備に比べて王墓もなくクニとして未発達な状況(大規模ムラの状態)の大和が急に大国化していくのである。 邪馬台国大和説が正しいならば、3世紀には大和=邪馬台国の西日本統一が急に成功したことになり、またその前提として大和が墳丘墓文化を伝えてくれた吉備をも逆制覇したことになる。織田氏の例もあるから指導者恵まれば急に強国化も可能かもしれないが。実際には崇神の四道将軍の伝承にある通り日本統一に近づいたのは3世紀末から4世紀にかけてだろう。  箸墓が陵墓参考地になっていること、また纏向古墳群の多くが私有地かつ複数地主で発掘もできない(ホケノ山は例外)し、できたとしても鉄や銅製品、土器ぐらいであろう。(ホケノ山の発掘物はそれでも重要文化材価値はあるが) 日本の古代遺跡ではエジプトや中国と違い、遺体や文字が出ないので金印でも出ない限り、卑弥呼との関連は立証できないのだ。(稲荷山古墳鉄剣や金井東裏遺跡の鎧着た遺骨、阿武山古墳の藤原鎌足?ミイラ状遺骨は例外)卑弥呼箸墓説はこれを見越した飛躍論も思えるのだが?  ここで、不思議なことに伯耆や吉備には孝霊天皇の遠征の記録がある。神武天皇の東征や欠史八代の系譜とともに民間伝承を無視するのが通説だろうが、墳丘墓の吉備からの影響を考えると偶然の一致と切り捨てることができようか。  紀記をある程度信用する研究者の一部は、神武東征や磯城氏や葛城直、尾張氏(元地は葛城とか)の外戚関係、稲荷山鉄剣系譜などから類推して初期王権の奈良制覇を推定している。つまり、九州の一勢力の一部が磯城氏の勢力圏の端の磐余に移住し、婚姻政策も通じて葛城から周り、孝霊天皇以降に纏向まで至り奈良統一し、最後に崇神で全国制覇に至るという経緯である。  ただ、この説では纏向古墳群の被葬者が説明できない。紀記は欠史八代の墳墓を磐余や葛城等に比定している。素直に纏向古墳群にしておけばいいのに頑なである。確かに、真の神武陵と言われる旧洞村の丸山は小規模なので、数代の墳墓は小規模で見つからないか、あるいはもう消滅しているのかもしれないが、孝霊天皇以降は・・・・。纏向古墳群には誰が葬られているのか?  自分は、纏向古墳群に改葬されたか、あるいは磯城氏外戚関連で妃や姫が葬られているとこじつけるが。(このチャンネルの通り。豊鍬入姫や箸墓の紀記記録の箸墓、ヤマトトトヒモモソ姫伝承)  もっとも、紀記の方が上手にシナリオを作っているのかもしれず、本当は大和に自然発生した王権が偶然大きくなったのかもしれない。伝承も紀記もさらに中国史料もすべてが正確かはわからないので、あまりこじつけると推理小説になってしまうのではとも思ってしまいます。
@sean2540
@sean2540 3 ай бұрын
こんばんは。自分は二人のハツクニシラス天皇がいることで次のように考えています。神武天皇は日向から東遷したが畿内ヤマトには入れなかった。初めて大神神社付近に入れたのは崇神天皇であった。神武天皇のカシワラノ宮とは大阪府の柏原市付近だと思います。柏原市には玉手山がありますが、そこには初期古墳が6基あり4基は九州型の柄鏡式です。4基中1基はすでに住宅地になって破壊。もう一基は墓石がいっぱい立っていてほぼ破壊されています。神武天皇の陵墓と私が想定する古墳もこの中にあって約100mの柄鏡式前方後円墳ですが、後円部の一部に墓が建っております。また纏向石塚古墳に似た古墳も2基あります。 また初期天皇の皇后ですが磯城県主との関係性が伺われますが、この磯城とは信貴山近辺でヤマトの入り口付近にいた勢力と思います。柏原市の隣です。登美のナガスネヒコと近接した勢力だったと思います。これら抵抗勢力がいたために神武天皇は内陸に移ることが出来なかったのか、柏原で満足していたかは分かりませんが、数代の婚姻を通して初めて逢坂道を通ってヤマト入りしたのが崇神天皇とヤマトトトヒモモソヒメであったと思います。そして付近にそれまではなかった巨大な古墳を築いて権威を示したのでしょう。神武天皇が柏原に東遷したのでハジメテアマノシタシロスメス天皇と呼ばれ、崇神天皇が大神神社周辺でヤマト建国を宣言したのでハツクニシラシシミマキノオオキミと呼ばれるようになったのだと思います。
@川人英央
@川人英央 3 ай бұрын
返信受けて調べてみました。玉手山古墳群について解説している柏原市在住の大学教員の人のブログ見つけました。確かに、神武伝説で河内まで来ているのに、紀伊熊野まで迂回するのは納得行かない。饒速日、長髄彦の伝説と河内の先進性も考え合わせると色々検討しなくてはならないでしょう。  柏原については鹿児島柏原海岸や御所市掖上柏原に神武伝承がある。御所市の旧柏原村磐余の地にあり神武天王社が本当の宮跡と言われ、また村には都城思わせる小字名があったが橿原神宮造営に伴い立ち退き恐れて名称消したとか。また、掖上には国見丘があり、旧洞村の丸山宮跡(真の神武陵?)伝承と併せて一応辻褄は合っている。鹿児島柏原海岸は宮崎県日向市の神武出立伝承残る美々津と張り合っているように思える。  考古学的成果が専門の学者でも見解分かれるので、紀記や地元に残る伝承参考にしようと思うが、結構これも難しいです。  神武神武東征の鍵になる、饒速日、長髄彦は奈良県北部の富雄に饒速日の墓や長髄彦にまつわる神社(添御県坐神社)あるが、一方で葛城、磯城磐余には長髄彦関連で墳墓(鍋塚。時代的に怪しい)とか、等禰神社、鳥見山白庭(ニギハヤヒ、神武天皇祭祀)も伝えられている。  人によっては、神武の葛城征服(土蜘蛛、長髄彦)話はその後の大和王権の奈良征服をまとめているので、南の方の伝承はそれに合わせているのかもしれない。  大阪柏原の志紀氏は大和の志貴氏(物部氏が磯城氏を女婿として継承?)との関係あるとかの話あるらしいです。(物部氏自身が饒速日つながりあるとか、古代の軍事氏族とかはっきりしない。根拠地も河内が先か石上が先かわからない?)
@森岩光
@森岩光 3 ай бұрын
ホノケ山古墳。 親魏倭王。宇佐、豊媛命(豊来入媛命) 所謂、女王トヨ。 の陵墓。 古事記は豊鋤入媛命 と改竄した。 別称は 稚日女命、 豊受日女命 (豊受大神荒魂) 天ウズ女命。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 3 ай бұрын
帯方の東南とある。九州は南。記紀をいくら調べても無駄。蝦夷を調べよう。
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