豊臣秀吉は"幕府を開けなかった"のではなく"開かなかった”!教科書では教えてくれない理由とは?

  Рет қаралды 104,939

大河ドラマの歴史散歩

大河ドラマの歴史散歩

Күн бұрын

Пікірлер: 169
@schimitch3277
@schimitch3277 Жыл бұрын
秀吉以前に武士で位人臣を極めたのは平清盛、足利義満だけど、やっぱりこの二人を参考にしたんじゃないかと。公武合体したような政治の仕組みを作ろうとしたんだと思う。 秀長が大納言になったり、武士の地位は義満の時代に比べても大幅に向上してたわけで、あえて「幕府」という枠組みを作る(=朝廷とは別に勝手にやる)必要がないと判断した結果だと考えてます。家康は秀吉との差別化の意味で幕府を選んだわけで。
@nsdivkaq2663
@nsdivkaq2663 Жыл бұрын
室町幕府の混乱と衰退を目の前で見てきたので征夷大将軍、幕府というものに興味が無かったんじゃないですかね。「信長が討たれたので右大臣は縁起が悪い」と本当に思っていたとするなら征夷大将軍(義輝)も近い年代に討たれていますし、「戦国」と言われるような未曾有の大混乱を起こして瓦解した幕府というものも魅力的ではなかったかもしれません。
@osakakawachi
@osakakawachi Жыл бұрын
秀吉が将軍じゃなくて関白になったために秀頼は家康に天下簒奪されたんですけどね。 秀吉が甥で養子の関白秀次を切腹させた後に、すぐに秀頼を関白にしたかったんですけど、関白は幼い者はなれない慣例があったために 当時まだ幼かった秀頼は関白になれず、その空位状態を家康に上手く突かれた形になりました。 秀吉が将軍になっていれば、将軍は幼い者でも継げたので、幼い秀頼でもすぐに将軍にする事が出来て、空位期間も発生しなかったんです。
@フォード-i1w
@フォード-i1w Жыл бұрын
秀次事件後のせいで今出川晴季も巻き添えで流罪、秀次死亡で右大臣左大臣共に不在で朝議開催できる大臣職が内大臣の家康しかいなくなったから、朝廷からしても天下人判定家康に鞍替えする動機としては十分すぎる 結局秀頼は一度も参内したこともないし有職故実できないだろうから関白なれたとして儀式滞って朝廷が混乱する未来しか見えない…
@ultraman.ultraseven
@ultraman.ultraseven Жыл бұрын
大坂幕府(羽柴幕府)ですね🏯!
@るるむ-r6d
@るるむ-r6d Жыл бұрын
空位状態になったのは秀次を殺した秀吉の自業自得
@fujishin0527
@fujishin0527 Жыл бұрын
源氏だけが征夷大将軍になれるというのは眉唾ですか?
@いたち-n2o
@いたち-n2o Жыл бұрын
​@@fujishin0527 それは、夢想ですね
@マンジュシュリー
@マンジュシュリー Жыл бұрын
そもそも幕府なんて概念は、その当時になかったものですからね 後世の用語を用いて、幕府かどうかを定義するのは非常に困難なことだと思いますね
@やまさん-g2v
@やまさん-g2v Жыл бұрын
それは「幕府」という言葉があったかなかったかの話しで、 ここで言っているのは征夷大将軍という地位についてですよ。
@マンジュシュリー
@マンジュシュリー Жыл бұрын
@@やまさん-g2v タイトルしか読まずにコメントしていたのですみません
@matsukaze1001
@matsukaze1001 Жыл бұрын
秀吉が天下統一をしていた時期は足利義昭が存命していました。 つまり将軍はいるということです。 なので信長も将軍になろうとしませんでしたし、秀吉もどうすれば統治できるか考えた末に「関白」という結論になったのだと思います。 なので秀吉は関白になる際に「豊臣」という姓を天皇から頂いたのだと思います。 家康が将軍になる際は足利義昭は亡くなっているので将軍になる弊害はありませんでした。 なので家康は将軍になったのだと思います。
@kazumasaotu6016
@kazumasaotu6016 Жыл бұрын
素人で良く分かりませんが、征夷大将軍は、天皇が個人を就任させる臨時ポストであったものが、 鎌倉幕府、室町幕府の先例によって、源氏、足利家の世襲ポストの性格も強くなっていた感じでしょうか。 ともかく、足利義昭は織田信長によって京都を追放され、その後、主に毛利家の居候?となり、 秀吉は、近衛前久の猶子となってを1585年に関白に就任、この時点で、義昭は大納言で将軍。 結局、義昭は、1587年頃、秀吉の元に来るとともに臣下となり、しばらく後、将軍位を天皇に「返上」します。 秀吉が関白になる前に、義昭に将軍になりたいから猶子にしてくれと打診したかもしれませんね。 征夷大将軍を言葉の表面でとらえると、敵を討伐する派遣軍の長なので、日本中の大名が臣従した場合、 征夷大将軍は返上しなくて良いのでしょうかww
@またぐなよビシビシ行くぞ
@またぐなよビシビシ行くぞ Жыл бұрын
それは一理ありですね
@pianochandaisuki
@pianochandaisuki Жыл бұрын
ああこれだな😮
@亜-t3r
@亜-t3r Жыл бұрын
確かに足利義昭は居ましたけど既に京から追放されてましたし、義昭の将軍職返上なんて信長や秀吉らが朝廷に働きかければさほど難しい事では無かったと思います、それに関白は征夷大将軍より遥かに権力や名誉ある地位ですし秀吉自身元々征夷大将軍に興味が無かったのかもしれません
@suteyone7908
@suteyone7908 Жыл бұрын
それはないですね。 信長は征夷大将軍を朝廷から打診されてるので、なろうと思えば将軍にはなれた。 信長は固辞してますけど、選択肢としては有り得たと言うことです。
@ana32441
@ana32441 Жыл бұрын
家柄については関白になるために、わざわざ「豊臣」姓を作らないといけないくらい重要だったんでしょうね。 征夷大将軍だったら羽柴のままでも問題ないと思いますし。
@ba-ir6oi
@ba-ir6oi Жыл бұрын
豊臣賜氏より関白就任の方が先。
@kenohzu5518
@kenohzu5518 Жыл бұрын
関白になったときは藤原 あと氏と名字は別物だから豊臣(藤原)の氏と羽柴の名字は並列して持ってる
@shuhsak
@shuhsak Жыл бұрын
明史では平姓になってるね
@星野博英
@星野博英 Жыл бұрын
選択肢として天皇が征夷大将軍も上げてるのだから源氏じゃないからなれなかったとか後世の後付けだろうな より上を目指したい秀吉が関白を選ぶのは必然
@魚うまい-g7q
@魚うまい-g7q Жыл бұрын
そもそも朝廷から「新しい姓」を賜ったとんでもなく凄い人なんだけどね。 皆んな将軍>関白と思いがちだけど格としては圧倒的に関白>将軍だし関白・太政大臣は平清盛と秀吉しかなれなかった。 官位も家康は大阪の陣前にやっと従一位になったけど、秀吉は生前に従一位まで上り詰めてるし。
@neobasara
@neobasara Жыл бұрын
朝廷が征夷大将軍、関白、太政大臣の3職を勧めた理由を考えれば納得できるかも。関白は内覧を兼ねていないと実質的に宮中での権限はないに等しい。太政大臣は一種の名誉職でで太政官会議を主催するのは左大臣の権限(阿衡事件とか藤原道長が内覧と左大臣を離さず、関白に就かなかったのはそのため) 朝廷からすれば、一時的な権力者に過ぎないものに朝廷の全権を与えるようなことはしないということですね。実際、勅許をもらうために手続きしないといけなかったわけで......当人の考えが分からないが公家の一門に並びたかったのだろうか、それとも何か考えがあったけれど、ブレインが存在しないから実現しなかったということなのかな。
@大仏親方
@大仏親方 Жыл бұрын
軽く補足しとくと、左大臣は朝廷の常設の最高位(太政大臣は臨時職)なので、秀吉は望んだとしても藤原一門は手放したく無かったと考えられる事。 そして大将軍は、征夷大将軍だけでなく征西大将軍や征東大将軍も設置されている 更に、東夷・西戎・南蛮・北狄、を征伐する役職として鎮西将軍や征東将軍等もある。 これらの中で、将軍と大将軍の違いは、軍務に於いては、遠く離れた都にいる天皇の指示を 現場に居る大将軍は無視できる(従わなくて良い)という点、逆に言えばただの将軍は勅命に絶対服従しなければならない、という事。 そして、幕府とは征伐軍の幕屋(テント)という意味であり 征討軍の重職に在る人の集まり、を指している。 だから鎌倉以来の幕府は、一般人民を直接統治するのではなく、軍事政権として、各御家人・大名等(領主である武士)を指揮監督して 一般人民を間接統治する仕組みである事に留意されたい。
@ultraman.ultraseven
@ultraman.ultraseven Жыл бұрын
大坂幕府
@ナカオジュンヤ
@ナカオジュンヤ Жыл бұрын
一応、征夷大将軍の位は源氏長者になるものとされているから、源氏の流れを組む者しかなれないため、 徳川家康は、源氏一族の新田氏の流れを組む徳川姓を名乗ったとされています。 以上のことから、豊臣秀吉は幕府を作ることが出来なかったという見方がなされるのが良いのでは・・・。
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
征夷大将軍に就けるのは朝廷が認めた実力者であり源氏でなければならない必要はない。それに源氏長者になるものと言うなら、例えば足利将軍の歴代15人の内で氏長者になったのは5人だけ。あと家康が源氏に乗り換えたのは将軍に就くより40年前であるので将軍就任には関係無いですね。
@ナカオジュンヤ
@ナカオジュンヤ Жыл бұрын
@@supremegarbage9796 さん 質問です。 朝廷から認められた者が征夷大将軍というのは分かりますが、織田信長と豊臣秀吉が幕府を開くことにならなかった理由。 征夷大将軍に就くことに成らなかった理由は何でしょうか? 征夷大将軍は源氏の者が成るという大原則があったからだと思います。 徳川家康の祖先が新田氏とされていますが、そもそも松平から徳川に変えた理由が、源氏性の優位性があったからではと私は思っています。 足利家に比べて家柄では劣っている徳川家だからこそ、源氏長者になって征夷大将軍になったのはと、解釈しております。
@ckhvklbff
@ckhvklbff Жыл бұрын
摂家将軍や皇族将軍の先例があるので源氏じゃなくとも征夷大将軍になれます
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
@@supremegarbage9796 あのう、源氏で無くて清和源氏ですね。 で清和源氏以外が着いた例は無いですよ。 よくよく調べられたほうが良いと思いますよ。
@こんにちは-l7r
@こんにちは-l7r Жыл бұрын
@@nisyas4796清和天皇が生まれる前から征夷大将軍は居ましたよ。
@赤山靭負
@赤山靭負 Жыл бұрын
当時に幕府などという概念はなく、ただ単に誰がいつ天下を取ったかだけのこと。秀吉は将軍にならなかっただけ。
@seijuro_1111
@seijuro_1111 Жыл бұрын
源頼朝も徳川家康も「幕府を開く」などと宣言していないんですよね。 一説によれば、幕末に新政府軍がそれまでの徳川将軍家を中心とした政権を「幕府」と呼んだのが始まりとか。
@またぐなよビシビシ行くぞ
@またぐなよビシビシ行くぞ Жыл бұрын
その通り
@suteyone7908
@suteyone7908 Жыл бұрын
全く筋が通ってないだろう。 血筋が原因で征夷大将軍になれないのなら、関白太政大臣の方が遥かに敷居が高い。 征夷大将軍は古例に則れば坂上田村麻呂などもおり、本来の官職が低いため、『先例あり』と言うことでかなりどうにでもなる。 (織田は平氏だが征夷大将軍を容認されていることから、清和源氏に限定されているわけではない事が判る) 一方関白太政大臣となれば藤原北家の中でも五摂家からしか輩出されていないわけだから、よっぽど血族の制限が強いだろう。
@シニアマン
@シニアマン Жыл бұрын
室町幕府の3代将軍足利義満は太政大臣にもなりましたけどね。秀吉も幕府を作れば作れたのに好みじゃなかったんでしょうね。
@balmst3445
@balmst3445 Жыл бұрын
小学校でこういう風に教えてもらえれば俺も歴史嫌いに成らなかったかもしれないなぁ😞 まず、くそ教師が知ってて当たり前のように幕府って言葉を使いまくって「だから幕府って何だよ?」 って言いたかったけど、今更訊いても叱られるだろうと思って訊けなかった。 (それぐらい、俺は目の敵にされ、虐待されまくった。自殺しなかったのが不思議なぐらい)
@4月の雨
@4月の雨 Жыл бұрын
歴史なんてものは別に教師の力量とか関係なく本人の関心次第かと思うけどな。 私には息抜きの娯楽のような科目だった。 幕府って何か知らなきゃ自分で調べるし。
@balmst3445
@balmst3445 Жыл бұрын
@@4月の雨 こんな愚痴コメントにレスして頂き有難うございます。 補足すると、今では、いつでもどこでもスマホで調べられる良い時代ですが、 当時はスマホどころかパソコンさえも無い(一部の金持ちオタクだけの世界)時代です。 教師による生徒への虐待も、あの時代を知らない世代には信じられない事だと思います。 生まれるのが早すぎたのかもしれませんね😔
@4月の雨
@4月の雨 Жыл бұрын
@@balmst3445 いえ、私は検索での「調べる」の話をしたわけではありません。 当時でも昭和生まれの方でも当時には教科書もあれば参考書もある、また歴史関連の雑誌などもありました。
@КэндзиИкэда
@КэндзиИкэда Жыл бұрын
豊臣秀吉は桐紋や「羽柴」の家名、「豊臣」の姓を諸大名に与えて、自らの権威を高めましたね。
@Eds-x8p
@Eds-x8p Жыл бұрын
幕府とは便宜上、後の人がつけた名前で当時はそう呼ばれていないらしいけど、、 幕府開いたから、今日から鎌倉時代ねってならないのといっしょ 征夷大将軍がいた場所が幕府。 あ、でも坂上田村麻呂、、
@tsujishouko
@tsujishouko Жыл бұрын
将軍になりたくて、足利義昭の猶子になろうとしたが、当の義昭に断られた経緯がある。
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
と言うのは江戸時代に著された本にある作り話です。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
@@supremegarbage9796 じゃあ、事実は何?
@趙仙人
@趙仙人 Жыл бұрын
@@nisyas4796お前小学生?
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
@@趙仙人 お前幼稚園?
@sempojp
@sempojp Жыл бұрын
関白の方が家柄が厳しいよね・・・(中臣)藤原家とそれに連なる摂家以外の事例がないのに対して、征夷大将軍は、天皇家の分家の血筋の源(後年は摂関家)・足利が連なったが、渡来人が始祖の坂上氏の前例はあったから、こじつけで、どうにでもなったでしょうね。他のコメントのように、足利義昭 は将軍辞任前だし、グダグダの室町幕府の印象を避けたのかもしれないですね。中臣が天皇より藤原を賜ったのと同様に、羽柴(→近衛)→豊臣を賜ることで、うまく辻褄は合わせられると判断したんでしょう。
@type-zero
@type-zero Жыл бұрын
そもそも遠征軍の総大将が征夷大将軍 遠征先で徴兵や徴税を許可された役職がなので、小さな政府が作れる役職 それが朝廷に代わって政治を行うという言い訳に
@大友一弘-m6v
@大友一弘-m6v Жыл бұрын
公家にも武家にもなり切れなかったのが結果に出ているがな!
@藤晶-w3e
@藤晶-w3e Жыл бұрын
家柄で 征夷大将軍になれなかったのなら 関白·太政大臣にもなれないのでは… 関白就任時、まだ義昭が将軍職にあったこと(機内動乱の原因である征夷大将軍·足利権威を指揮下に置く)が最大の理由では
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
>家柄で 征夷大将軍になれなかったのなら 関白·太政大臣にもなれないのでは… 秀吉は貴族の養子になって関白太政大臣になっています。 朝廷を動かすのなら、家柄は必要ですよ。 征夷大将軍は武家で清和源氏でなければなれません。 武家でないことが知れてる秀吉はなれませんね。 家康ですら、偽家系図を作成して清和源氏と言い張り、無理くり宣下を受けるくらいですから、秀吉には無理です。 だから秀吉は金と脅しでで手にすることができる貴族となったんですよ。 いずれにしろ、日本を支配するのであれば天皇を利用するのが手っ取り早く安全で、秀吉は朝廷で、家康は幕府でやろうとしたという事でしょう。 ちなみに、信長は天皇の上に立とうとして殺された(本法寺の変)との説があります。 もしそれが事実ならば、それを見ていた二人の行動はうなずけますね。
@kinomotiyo
@kinomotiyo Жыл бұрын
秀吉が将軍に慣れないんでなく関白を選んで無いのか?それは 朝廷は将軍もあげる予定であったのでは? どうも江戸時代に秀吉を悪く書いた経緯が予想します ただ関白太政大臣は将軍に命令する立場だから
@フォード-i1w
@フォード-i1w Жыл бұрын
義昭の将軍位返上は秀吉の関白叙任より三年後だし 源平藤橘とは違う「姓」の誕生という宣伝で自分は「お前らのようなホントか知らん藤原・源氏気取りとは違う!」という宣伝になる+それをばらまくことで疑似的な一門を形成しようとした感じかな 井伊直政等にも与えて唾つけたり島津義弘には与えるけど義久には羽柴姓すら与えず?家中分断とか。 一方で加藤清正は家康が将軍名乗ってから豊臣姓貰うという遅さ&福島正則は与えられなかったが…(この二人は元々秀吉に血縁近い人間だからというのもあるだろうけど) 蒲生氏郷も自分の苗字をバラまいて新規の家臣の統制に利用してたりする。 ただ、それで家臣らが増長・同輩意識持ちすぎて氏郷死後複数回勃発するお家騒動の種に…
@松浦友也-n6i
@松浦友也-n6i Жыл бұрын
秀吉が内大臣になった時の官位は正二位だよ。 秀吉が従三位の時の官職は権大納言だよ。
@大和葛城-j5k
@大和葛城-j5k Жыл бұрын
西本願寺の飛雲閣は聚楽第の遺構ではなかったでしょうか?伝えられているだけで確たる証拠はないのでしょうか?
@ckhvklbff
@ckhvklbff Жыл бұрын
信長は右大臣・右近衛大将を辞して正二位無官のまま亡くなってます。
@YUKI-xk7jm
@YUKI-xk7jm Жыл бұрын
信長は本能寺の頃、右大臣を辞めてたんじゃなかった? それで無位無官だったので朝廷側がこれほどの実力者が無位無官じゃ困るってんで三職推任をしたんじゃなかったっけ。
@ckhvklbff
@ckhvklbff Жыл бұрын
正二位無官ですね。官位は返上してません。
@YUKI-xk7jm
@YUKI-xk7jm Жыл бұрын
@@ckhvklbff そっか無位だと昇殿できませんでしたね、ありがとうございます!
@岩本舜吾-h3b
@岩本舜吾-h3b Жыл бұрын
幕府を開けるのは源氏の家系征夷大将軍だけであって、秀吉は関白だからなれなかったと学校の歴史の先生に教わりました。
@内山光友
@内山光友 Жыл бұрын
成れないものに執着するよりは正解だったんでしょうね。 武家の生まれだったら源氏か平氏の家系を無理矢理繋げたんでしょうけどね、家康みたいに😅
@matsuridawasshoi
@matsuridawasshoi Жыл бұрын
よくわかりません。関白や太政大臣の方が公家がなる役職なので、より出自が問われるのではないでしょうか? 秀吉の武力をもってすれば、どの役職に就くかは彼が判断し、それを朝廷に承認させることはできたはず。お伺いを立てる必要はなかったと思われます。 やはり朝廷との距離の取り方を考慮に入れたうえでの選択だったのではないでしょうか?
@森岩光
@森岩光 Жыл бұрын
元出雲王家の伝承では 秀吉は(若き日は) 出雲散家(サンカ)だった。 要するに、元出雲王家を総元締めとする 壮大な秘密情報組織の構成員。 かの、楠木正成ら楠木党も出雲散家だったと言います。 また、不都合ながら 皇室は 継体天皇に始まりましたが、 実は件の元出雲王家の次男が本当の出自。 皇室は元出雲王家の分家。 と言う事になります。 秀吉が完全にのし上がって我が国を壟断せず 皇室にへりくだり その家臣(最上位)に甘んじたのは 自分が出雲王家の配下、出雲族であり 皇室はいわば元々、主上筋だったからではないかしらん? 臣(おみ)の称号は 一般的な大臣(臣下)と言うのではなく 元来は出雲王家の親戚(身内)に許された称号だったもの。 元々?の木下姓も 出雲族であることを暗示します。 木の下は、根。 根子は出雲族の最高神、クナト大神のシルシの一つ。 転じて、根子は大王(天皇)の称号。 天皇の大和言葉の称号がまさしく 大倭根子(日子)皇命。ですから。 天皇は出雲神族(王家王族)であることを表白しています
@ジャパンドミンゴ
@ジャパンドミンゴ Жыл бұрын
平安時代くらいまでの蝦夷は北海道というよりは東北だよね。平安時代くらいまでに北海道に征夷大将軍が征討に行っていたという話は聞いたことがない。
@honda10102004
@honda10102004 Жыл бұрын
家柄は無関係です 征夷大将軍は臨時の軍事指揮官なので恒常的に政治指揮権を握れる関白の方がいいと考えたのでしょう 徳川家康は源氏を僭称したので源頼朝に倣って征夷大将軍を選んだのです 本拠地が江戸という東国であったのも理由でしょう 秀吉は本拠地が畿内だったので臨時の軍事指揮官の居場所幕府を開く必要が無かったからです
@protect-from-tom
@protect-from-tom Жыл бұрын
いろんな方がおっしゃる源氏じゃなきゃ幕府云々は嘘ですね。源氏以外の将軍はいます。そもそも家康が徳川を名乗ったのはお祖父さんが三河支配の正当性のために足利一門の世良田を名乗ったからです。家康は三河守を名乗りたかったが、前例がなかったために屁理屈こねて得川を名乗ったからです。徳の字は縁起がいいから変えました。要は将軍になるために改称したわけではないのです
@vcwvpzq
@vcwvpzq Жыл бұрын
本人に確かめようのないことだからな、好き勝手に言えることではある
@HiDE_310-3
@HiDE_310-3 Жыл бұрын
開かなかったんぢゃ無く、源平藤橘ぢゃねーから開けなかったんだろ そんなん誰でも知ってる事やんけ
@matsukaze1001
@matsukaze1001 Жыл бұрын
信長以前の戦国時代は武士の中にも農繁期は農作業に従事している人がいました。 なので百姓=武士なので百姓出身というのはただ単に身分が低いというだけだと思います。 そもそも武士は百姓が武装して起こっています。
@Dobble0007
@Dobble0007 Жыл бұрын
まぁぶっちゃけ征夷大将軍より関白とか太政大臣のほうが上だけどなww
@松本悠佐
@松本悠佐 Жыл бұрын
やはり育った環境か…位階勲等にこだわりを持ち…幕府を開いたとしても家康のように征夷大将軍には就かなかったと思います。
@ゼーフェルト博士
@ゼーフェルト博士 Жыл бұрын
征夷大将軍は、謂わば「現地司令官」程度の役職だから本来は政治のランクではないんですね。 実際には関白や太政大臣の方が正規の役職だしランクもずっと高い、底辺層の秀吉にはそちらの方が高レベルに思えたんでしょ。 ですが各武将にとってかなり違和感があったんでしょうね。 今で言えば自衛隊員を率いる総帥が「統合幕僚長」と「郵政大臣」のどっちなのかって話です。 確かに「統合幕僚長」は自衛隊のトップに過ぎずランクとしては「郵政大臣」の方がずっと上。 でも郵政大臣が自衛隊の各指揮官にあれこれ命令してるって図はかなり異様でしょ、場違いも甚だしい。 関白秀吉に従ってた各武将も同じような違和感を感じてたんじゃないですかね。 実力では秀吉個人の方が上だから従ってたけど、役職に対して従ってた感覚は薄かった。 だから秀次のために動いた武将はいなかったし秀頼のために従った武将もいなかった。 そしてその違和感をシッカリ分かっていた家康は、家系図を改竄して源氏の累計にでっち上げ「征夷大将軍」に成り上がったわけです。 各武将はそのでっち上げは薄々分かってはいても、実力のあるチャンとした上司に率いて欲しかったのでしょう。
@暁隼人
@暁隼人 Жыл бұрын
そもそも、豊臣政権は、秀吉という天才がいないと成り立たない仕組み。 対して家康は、そこまで万能ではなく、家臣に任せまくったので、幕府はうまくいった。
@渡邉貴史-u5h
@渡邉貴史-u5h Жыл бұрын
昔聞いたことがあるが、征夷大将軍になるためには源氏でなければならず、秀吉は平氏を名乗っていたから関白になるしかなかった、という理由は正しいんでしょうか?
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
正しくはないです。征夷大将軍に就くのは源氏しかダメという決まりはありません。偶然にも源氏が多かっただけの話です。
@またぐなよビシビシ行くぞ
@またぐなよビシビシ行くぞ Жыл бұрын
古い俗説 いまだに信じてる専門家や歴史小説家もいる
@Mr51JUN
@Mr51JUN Жыл бұрын
ま、結局は2代目でパーなんだけどね
@黒黒-q8q
@黒黒-q8q Жыл бұрын
こんにちは。足利義昭が秀吉の養子の申し出を断ったのが一番の要因かと思っています。落ちぶれても猿(禿鼠)には源氏を名乗らせたくなかったんでしょうね。
@ultraman.ultraseven
@ultraman.ultraseven Жыл бұрын
大坂幕府(第2次足利幕府)
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
その説は江戸時代の作り話ですよ。
@黒黒-q8q
@黒黒-q8q Жыл бұрын
@@supremegarbage9796 えーそうだったんですか😅
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
豊臣秀吉譜、という江戸時代に著された本にある話です。征夷大将軍は源氏でなければならない決まりはありませんので秀吉でもわざわざ義昭の養子にならなくとも就けます。
@t-nakahiro
@t-nakahiro Жыл бұрын
難易度で言えば足利の養子より摂関家の養子で本当に関白になる方が遥かに難しいでしょう。 足利に拘らなくても数ある藤原氏を名乗るか、それこそ豊臣家に将軍宣下か惣管になって武家の頭領として幕府を開く事くらい当時の秀吉なら朝飯前だったと思います。 摂関家もそれでいかがなものかと思い、豊臣創氏をさせたんじゃないでしょうか。
@神山博光-u8x
@神山博光-u8x Жыл бұрын
おかしな話ですね。征夷大将軍になれるのは源氏の武将のみ。平氏の織田信長も征夷大将軍にはなれないし、秀吉は平氏でも源氏でもないから、朝廷はどんな官位にしょうか悩んだそうだよ。
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
征夷大将軍に就くのは源氏しかダメという決まりはありません。偶然にも源氏が多かっただけの話です。
@まぐろ-b6j
@まぐろ-b6j Жыл бұрын
まだこういう「征夷大将軍は源氏しかなれない」というデマを信じてる人いたんだ
@TEAspecialist
@TEAspecialist Жыл бұрын
歴史のifを話すと 秀次が、実子全てを養子に出すから、秀頼を嫡男として養子に欲しい。と申し出てたら、徳川の出番は無かったと思ってる。 色んなドラマの中で秀吉と秀次との関係は描かれてるが、秀吉が引いて「日の本の5分の1で良いから秀頼に預けてくれ」と言ったのに、秀次が自分が関白だと太閤を突っぱねたところで、秀吉が失脚させる事を決意したシーンが印象的だった。 戦国後すぐの江戸初期に水戸黄門も本筋に家督を返してるのを見ても。 秀次が秀吉に「豊臣の天下は、伯父上のモノ、今は秀次が関白でも、秀頼に関白はお返しもします。豊臣の為に秀頼を立派に育てます。」と言ってれば、大陸より海洋に向かって歴史も変わってたかも。 例え徳川と対立しても 豊臣一門と豊臣恩顧の勢力の前に家康も手出しできなかったと想像してる。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
>秀次が、実子全てを養子に出すから、秀頼を嫡男として養子に欲しい。と申し出てたら いやいや、それでも秀吉は粛清を辞めなかったと思いますよ。 秀吉は豊臣家と言うよりも、秀頼に継承だけしか頭にないから、当然邪魔ものと目される人物は消したでしょうね。 後継者は一人にしてないと権力争いが起きて、いずれ没落してしまうのは、秀吉は本能寺の変以後の織田家を見てるので十分理解してると思いますよ。
@ichthys358
@ichthys358 Жыл бұрын
「高い身分の出身でないと、征夷大将軍になれないのに関白にならなれる」というのが腑に落ちん。また「低い身分の出身では関白になれないので近衛前久の猶子に……」と矛盾しないか?
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
身分じゃなくて、武家で清和源氏かどうかでしょう。
@ichthys358
@ichthys358 Жыл бұрын
@@nisyas4796 平氏の信長が、征夷大将軍・関白・太政大臣のどれかに就任しなさいという打診を調停から受けています。清和源氏……の件は俗説のようです。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
@@ichthys358 >平氏の信長が、征夷大将軍・関白・太政大臣のどれかに就任しなさいという打診を調停から受けています。 それって、朝廷が信長にすり寄るための甘言ですよね。 (朝廷が良くやる手ですよね。やるとしたら信長は平氏でなく清和源氏だったことにしてやると思いますよ。(実際家康は家系図を偽造して清和源氏を名乗りましたよね)慣習を変えないといのは今にも引き継がれているでしょう。 この国は今でも前例主義です。そう簡単にうやむやにしませんよ。) 実際、信長は断っていますので、今からでは解らないことです。 鎌倉時代に清和源氏と言う条件(前の鎌倉殿が嘘八百なら違いますが)が出ていたので、それが条件だったという可能性は高いと思いますよ。 秀吉が望んだのかどうかは分かりませんが、素性のはっきりしない秀吉が征夷大将軍にあっさりとなれるかと言うと無理じゃないでしょうか?
@安西弘-t1o
@安西弘-t1o 9 ай бұрын
藤原性は普通に将軍になってるので将軍にもなれます。 天皇からの将軍要請を断っただけ。 豊臣家は摂家同格なので、皇室の宮家すら下座に座らせるチート性です。 摂家将軍にならなかったのはどちらかを選べと言われたか、関白との兼任は激務だと思ったのか、将軍の権威が足利家によって落ちてたためか、関白の方が上だからか、この辺ではないでしょうか。 ちなみに関白は最低16歳以上じゃないとなれないのに対し、将軍なら4歳でも世襲できます。 秀頼を将軍にしておけば家康は執権的な権力しか振るえなかったので、お飾りとして豊臣家は延命できたかもしれません。
@kiyotakenoa
@kiyotakenoa Жыл бұрын
金の茶室なんて何がいいん?虜になるか?
@giantnioinoba2023
@giantnioinoba2023 Жыл бұрын
まあ、秀吉の成金趣味なんでしょう知らんけどw
@RR-bk8hv
@RR-bk8hv Жыл бұрын
羽賀けんじ
@usuario-h7l
@usuario-h7l 6 ай бұрын
従三位は「じゅうさんい」ではなく「じゅさんみ」と読みます。
@zkh2265
@zkh2265 Жыл бұрын
幕府や関白に対して意味はないですね。どちらにしろ力さえ1番になれば朝廷に圧力をかければ幕府だろうが関白だろうが滅ぼす大義名分は朝廷から買えます。勝てば官軍、それが朝廷を頂点にした政治の決まり事ですね。
@kouhei2677
@kouhei2677 Жыл бұрын
源氏の血を引いてないからですよ。
@M4XxY8sj
@M4XxY8sj Жыл бұрын
信長は平氏を称していましたが、征夷大将軍就任を朝廷からだしんされてるので、源氏云々は後世の作り話です
@慶彦江川
@慶彦江川 Жыл бұрын
矢張り 天下統一が遅れても【徳川家康公】と天下分けめの大戦をするべきだったのです 英雄並び立たず
@yoppy5287
@yoppy5287 Жыл бұрын
秀吉なら征夷大将軍に相応しい家柄の身分と言い張りそうだけどな?
@戦力外-y4p
@戦力外-y4p Жыл бұрын
天下人になってから 自身の身分の低さに気付いて 慌てて自分は天皇が 母ちゃんとヤッて 生まれた子だと宣伝したら 母ちゃんに馬鹿こけと激怒されて 取り消す羽目に
@南四国
@南四国 Жыл бұрын
平氏だったから、征夷大将軍にはなれない
@ultraman.ultraseven
@ultraman.ultraseven Жыл бұрын
そんな事はありません
@t-nakahiro
@t-nakahiro Жыл бұрын
源氏しかなれないのは江戸将軍家を正当化する方便でしかも江戸時代中期以降に発案されたものでしょう。 しかしながら源氏は三河守には前例がないから難色を示された事はありますが 強大な力があればゴリ押しは充分に可能でしょう。 豊臣家が関白になれた前例があろうはずが無いのに朝廷と摂関家が金と力に屈したので。
@OKEMIT
@OKEMIT Жыл бұрын
幕府で無いから豊臣家が滅んだとか、家柄が征夷大将軍に足らないというのは意味不明では。前者は歴史の示すように何の「形式」だろうが弱い側は滅びるだけのことだ。後者は武家の棟梁より関白太政大臣の方が官位は上と考えて良くこれもおかしい。 豊臣家がそのまま摂関家「筆頭」として関白を独占すれば「朝廷・武家」全部の頂点を独占し、自らが別に征夷大将軍を「部下として」任じることも全然可能だったろう。日本人は「結果的に」幕府という政体が長く続いたので「幕府なら豊臣も長続きしたろう」と単純に思うようだが、それは「思考停止」すぎだ。単に弱者が滅んだだけである。ちなみに五大老五奉行制度(?)も秀吉の晩年に「取り急ぎ作ったなんとなくな制度」であって、家康が強すぎて実質機能などしなかった。これも「制度」として教科書に載るくらいだが「殆ど幻」であって豊臣政権は実態はやはり「秀吉オーナーの個人企業」でしかなかった。それが政権の弱体化につながったのはあるだろう。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
別に秀吉がどう考えてのかはわかりませんが、秀吉が征夷大将軍を望んだとしても制度上無理だという事ですよ。
@平成元年ママ
@平成元年ママ Жыл бұрын
豊臣家は関白。天皇補佐。足軽だから?
@soundtrackmusic9111
@soundtrackmusic9111 Жыл бұрын
戦略がそこまでだっただけだと?
@minatotanabe8327
@minatotanabe8327 Жыл бұрын
秀吉は、源氏じゃないから。
@naonaonaonaonao-u9h
@naonaonaonaonao-u9h Жыл бұрын
征夷大将軍になるためには家柄が必要。その通りだが、だから関白を選んだ?関白のほうがはるかに家柄が重要だが。実際近衛前久の養子になったんでしょう。将軍になりたければ同じように貴人の養子になればいいわけで、いくらでも手はあったはず。つまり秀吉は(信長もだが)将軍職に魅力を感じていなかったということだと思う。この頃は、将軍の権威は地に落ちており役に立たない。また、15代も足利家が独占したから、当時は将軍職は足利家の家職だと思われていたことも大きいかと。
@矢野太一-k3v
@矢野太一-k3v Жыл бұрын
秀次とその一族を処刑したのは、淀君の影響が強いでしょうね!😅
@照烈院敬
@照烈院敬 Жыл бұрын
足利義昭に、養子になることを断られたからじゃないか!!
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
その説は江戸時代の作り話。
@特牛-f8u
@特牛-f8u 4 ай бұрын
この動画、間違いが多い😂
@またぐなよビシビシ行くぞ
@またぐなよビシビシ行くぞ Жыл бұрын
間違い。思い込みだらけ
@potesasada
@potesasada Жыл бұрын
秀吉さんは足利さんや近衛さんとの交流経験も有りますから、征夷大将軍だ幕府だと言っても、いい様にあしらわれ、お飾りの権威と仮そめの神輿扱いされる足利の地位と、その影響力で天皇よりの勅旨すら思いのままに操る近衛を実際に見て「日ノ本を牛耳るのは関白」と判断したのではないでしょうか?
@正和田村-l9n
@正和田村-l9n Жыл бұрын
秀吉が関白に就いたことにより、 家康が征夷大将軍の役職を敬遠したのは有名ですね。 関白の方が位が上ですから。 秀吉はその点も考慮していたはずです。 もう少し調べてから動画作った方がよいかと。
@katsumi-na1198
@katsumi-na1198 Жыл бұрын
そもそも貴族のトップの関白が将軍になるってできるのかな?多分無理じゃね?Googleの社長とアップルの社長兼任するようなモンだろ
@やまさん-g2v
@やまさん-g2v Жыл бұрын
世襲制でなくて持ち回り制だった関白を選んだ時点で後に揉め事が起こるだろうことは予想できただろうから やっぱり征夷大将軍にはなれなかったと考える方が自然な気がする。 素人考えだけど。。。
@安西弘-t1o
@安西弘-t1o 9 ай бұрын
遺言で関白職は豊臣家以外はなれないように、家康を含め誓紙を書かせています。家康は遺言を破って秀頼以外を関白にしたので秀頼は怒って大臣を辞めるという騒動に発展しました。
@Silen0310
@Silen0310 Жыл бұрын
個人的に思うのは秀吉が将軍になれなかったのって小牧長久手の戦いで家康に完勝出来なかった事が大きいような気がしてる。つまり徳川を完全に屈服させられていないのに武家の棟梁を名乗れたのかという事。それと勿論出自もあるんだろうけど、確か秀吉の頃って源氏が征夷大将軍を拝命する上でそこまで重要視されてなかった気がする。源氏が必要条件になったのは家康が将軍を名乗った頃だと思うから。 そう考えるともし小牧長久手で家康が完全に負けていたら、征夷大将軍になっていただろうなって。それが出来なかった秀吉は自らの権力の源泉を武力でなく朝廷に求めるようになったんじゃないかな。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
動画見ていません。 言葉の使い方が間違っています。 幕府を開く権利があってこそ、「開かなかった」となるんですよ。 秀吉は清和源氏ではないので、幕府を開く権利が成ったという事です。 秀吉の遺志ににかかわらず、秀吉に幕府は開けないというのが正解です。
@giantnioinoba2023
@giantnioinoba2023 Жыл бұрын
源頼朝と足利尊氏は、紛れもなく清和源氏ですが、家康は系譜改竄して怪しいと言われてます💦 私の故郷でもある清和源氏発祥地・兵庫県川西市の多田神社には源氏の家紋・笹竜胆(ささりんどう)と徳川の三つ葉葵紋が並んで付けられてますが、4代家綱の寄進により再興された恩義によって、三つ葉葵も付けられています(徳川を源氏と認めたからではない)。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
@@giantnioinoba2023 そうですね。 家康が清和源氏かどうかは定かではありませんね。 けど、秀吉は農民出身で清和源氏どころから武士ですらありません。 例え天皇が望もうとも、秀吉を征夷大将軍に任ぜられないので幕府は開けませんね。 通説では、だから貴族の養子となり太政大臣、関白に就任したと言われていますね。 政権の独立性(朝廷からの干渉を受けにくい)から言えば幕府の方が良かったのでしょうが、仕方なく官位で治めることしたという方が現実的な解釈だと思いますよ。
@ana32441
@ana32441 Жыл бұрын
ぶっちゃけ、朝廷からすれば「源氏」「平氏」は大して問題ないかと。 どちらも武家なんですから。 朝廷が「征夷大将軍は源氏でなくてもOK」って言っても良い訳だし。 本心では武家に対してはその程度しか考えても可笑しくないと思います。 「征夷大将軍は源氏」と拘っていたのは武家側だけかもしれませんしね。
@nisyas4796
@nisyas4796 Жыл бұрын
@@ana32441 いやいや、朝廷の様式は絶対ですよ。 今でも天皇は決められた神事をこなしてるでしょう。(現上皇は体力的に無理と言いて引退してるでしょう。簡単に変えられるのならいまだに天皇続けていますよ。) 征夷大将軍なら清和源氏は決定事項で、それを変えるのであれば新しい官職名が必要で、幕府でもなくなりますね。 お宅が思ってるほど単純じゃないんですよ。 そういう慣習を変えようとして信長は殺されていますしね。 歴史の闇は深いですよ。
@supremegarbage9796
@supremegarbage9796 Жыл бұрын
征夷大将軍は源氏しか就けないのは間違い。そのような決まりは無く、公家にもそのような認識はありません。偶然にも源氏が多かっただけです。ただ室町時代は足利家、江戸時代なら徳川家が将軍職に就くという認識はありました。
@matsukaze1001
@matsukaze1001 Жыл бұрын
後継者の火種になるというのは応仁の乱を見ても明らかです。 秀吉は第二の応仁の乱を起こし、再び京の都が戦乱に巻き込まれるのを防いだのかもしれません。
@雨乞
@雨乞 Жыл бұрын
「幕府を開いた」という言い方は誤解を招く言い方なんだよな。「幕府を開いた」というと「政庁として制度化されたシステムを成立させた」と捉えられるおそれがあるが、そんなものは存在しなかった。鎌倉室町江戸「幕府」はそれぞれ存在形態も違い、共通するのはトップが征夷大将軍だったということだけ。また源氏しか征夷大将軍になれないというのも全くの嘘出鱈目で、しかも鎌倉府が義堂周信によって「幕府」と呼ばれていたことを鑑みるならば「幕府」のトップが征夷大将軍である必要もない。こういったものを「幕府」と総称して、あたかも共通の政治システムであるかのように呼び慣らすのは問題が多い。 史学用語としての「幕府」は遅かれ早かれ使用されなくなるだろう。「幕府を開いた」の言い換えとしては「武家政権となった」、あるいは「武家政権として奉戴された」等が適当なところで、これならば織田豊臣政権や関東府もこの列に加えられることになる。
@グレートリング
@グレートリング Жыл бұрын
信長秀吉の時代は西洋との交流が始まっており、今さら征夷大将軍になっても権威にならなかったのだろう。むしろ徳川家康が征夷大将軍になったとき世間は笑ったのではないか?
【大坂城】ここまでわかった! 豊臣秀吉の大坂城の姿
16:54
小蚂蚁会选到什么呢!#火影忍者 #佐助 #家庭
00:47
火影忍者一家
Рет қаралды 123 МЛН
didn't manage to catch the ball #tiktok
00:19
Анастасия Тарасова
Рет қаралды 35 МЛН
What's in the clown's bag? #clown #angel #bunnypolice
00:19
超人夫妇
Рет қаралды 34 МЛН
なぜ豊臣秀吉の子孫は根絶やしにされたのか?|小名木善行
19:23
むすび大学チャンネル
Рет қаралды 1,7 МЛН
参勤交代の真実がヤバすぎる!まさに生き地獄だった…
14:48