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『豊臣秀頼』なぜ茶々だけが秀吉の子を産むことができたのか
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SENGOKU BANASHI【Mr.BUSHIDOU】
Күн бұрын
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@sengokubanashi
Жыл бұрын
ホワイトボードの文字が大野長治・名古屋と表示されていますが、正しくは大野治長・名護屋です。ご指摘いただきありがとうございました。
@tarishihiko
Жыл бұрын
21:40 大した事でないですが、一点、ニュアンスが違うと思います。秀吉の最初の子の鶴松は幼名が棄(すて)でした。それこそ『捨て子は良く育つ』という迷信で名付けられました。でも、夭折した。それで秀頼の時は今度は迷信を信じず縁起の良い「拾い」にした、という説が有力です。 いつも楽しく見させてもらっています。
@koibou5377
Жыл бұрын
出産予定日からのズレが1か月はあります。 私は1か月超遅れ、弟は1か月早くで生まれました。
@305fmio8
Жыл бұрын
低い身分から成りあがって全国統一し、関白の座まで手に入れた男、豊臣秀吉。何もかも手に入れて神にでもなれそうだったのに子宝だけには恵まれなかったとは、やはり天は二物を与えず、なんですね。感慨深い話でした。
@森岩光
Жыл бұрын
死後、神様になりました
@御神誉黎
Жыл бұрын
秀吉は梅毒であったと言われる。 当時はポルトガル船が持ち込んだ梅毒が日本でパンデミックを起こしていたし 秀吉には梅毒の症状らしき発疹があったことも記録にある 晩年の秀吉が非常に短気で行動がおかしかったことも、梅毒の末期になると脳が侵され性格に変化がみられることを考えればありえることだ。 それに秀吉の不妊も梅毒によるものだと考えれば一応の説得力もあるしな
@プリムあたる
Жыл бұрын
非常に細密な説明と分かりやすい説明で🎉とても良かったです。😊 ありがとうございました🙌
@ママ-i9v
Жыл бұрын
最近までも不妊は女性側のせいにされてきたんだから、本当に辛かっただろうな奥様達。
@さぁや藤
Жыл бұрын
黙認していて自分の子種じゃないんじゃないかというのがなんとなくしっくりきました 養子をたくさん取っていたので自分の血にはそんなに執着がなくて、でも養子じゃ家臣が付いていくか不安だし自分が死んだ後に分裂してしまうのではないかと思ったから 自分の子という事で秀頼を産ませて豊臣家を安泰にしたかったのかなと
@masamasa9570
Жыл бұрын
武士道さんの話を踏まえると、どうする家康ではまさかだとは思うけど、子種が秀吉との間で無理だと感じた茶々は家康に接近して、関係を持つなかで、家康と茶々の間で生まれた子を秀吉の子として正当化するみたいな脚本がありそう、、 そしてその子が将来の豊臣秀頼ですという流れ、そしたら自分の子どもを討つのか「どうする」家康というクライマックスに持っていくことが出来そうかも、、
@フォード-i1w
Жыл бұрын
秀吉に子が生まれるたびに淀殿の側近が粛清されたり落書き事件や秀次事件と血なまぐさい話が出ますし…最も肝心なのは「秀吉が秀頼を子供として扱った」ということなんでしょうね ねねも鶴松産まれた時期に秀吉不在の大坂城の管理したけど刀を盗まれたから吉田兼見に夫の機嫌良くなるよう「神頼み」頼む話があったりどうも大坂城中は奥事情が緩い… 家康が大坂城西の丸に入ったのはこういった警護的に不安な大坂城を守ろうという意識が多少はあったんかなぁ?
@david20100628
Жыл бұрын
昔、緒形拳さん主演の「太閤記」の中で、秀吉の最初に生まれた子供に「捨て」「捨て君」と命名した下りがあった。 「”捨て子は育つ”というからのう」とは緒形拳さんの台詞。この「捨て君=鶴松」が早世したので、次に生まれた子(秀頼)には「拾い」「拾い君」と付けたという顛末を覚えている。
@キャサリン-s8h
Жыл бұрын
茶々と秀頼の説は、たくさんありすぎるけど、そんな謎を、残してくれて有難う。と思います。秀頼や国松は、可哀相だけど、まぁ仕方ないか😅。司馬遼太郎の豊臣家の人々や井上靖の淀どの日記を再読したくなりましたね。
@ダトウアキシノ
Жыл бұрын
捨て子は育つの言い伝えから、秀吉は鶴松の幼名は棄でした。なので、次の子は拾としたのでしょう。二の丸殿の子と北政所に書いたのは、淀の方の懐妊の時点ではまだ関白秀次が自らの後継者と考えていたからでしょう。そもそも姫君の可能性だってあったのですから。
@もふもふ-x4p
Жыл бұрын
拾と言うのは「この老いた歳で子を授かるとは…家宝を拾った様だ」 と秀吉がつぶやいた事から拾となったらしい
@Abe-Wanta
Жыл бұрын
ホワイトボードの左下にある【大野長治】は単純な字並びの間違いでしょうね❗ 【治長 】とすべきところ、字が逆で 【長治】にしてしまったようだす。😅
@和泉守兼定-y7z
Жыл бұрын
そうなんだすな😂
@南十字星-y4e
Жыл бұрын
👺羽柴秀勝(はしば ひでかつ)がいますね。 【元亀元年(1570年)~ 天正4年10月14日(1576年11月4日)】 羽柴秀吉が近江国・長浜城主時代に側室・南殿との間に設けた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)。秀吉の正室のねねには子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。
@macminmi
Жыл бұрын
自分はやっぱり大野治長だと思う。 乳兄弟という究極の幼馴染で淀殿と同時期に秀吉に支えて出世していくという経歴、 関ヶ原の前では家康にわざわざ人質に取られ 戦後は大坂城の開場交渉では使者として使われたこと、 そのまま淀殿に留め置かれ、なぜか豊臣家のトップとなり そして最後は家族のように添い遂げてたこと、 淀殿との間に特別な関係があったと考えるのに辻褄が合う 後世の歴史家が自分の勝手な価値観で考えられないと決めつけるのは無根拠に等しい ガチガチに縛られた徳川の大奥と違い豊臣政権は比較的女性に自由があったし、淀殿にその気があってスタッフも自分の手のものが多かったとすれば、なんとでもできた可能性はある。
@ゆうちよっち
Жыл бұрын
今いちばん知りたい歴史の謎でした。取り上げて下さり、ありがとうございます😊
@t16-b1w
Жыл бұрын
面白かったです。機会があれば初代秀勝(石松丸)の話にも少し触れて欲しいです。秀吉に名付け続けてこられた3人の秀勝にも。
@んーなんだろう
Жыл бұрын
そこですよねー 南殿???が誰かとか あと長女の件も
@かえんむかで-t1o
Жыл бұрын
たしかにw
@cancan5892
Жыл бұрын
秀吉には南殿という女性との間に、石松丸という子供がいたという説もありますが、この子も短命でした。秀吉の子は、皆成人前に亡くなっていますね。ただこれが事実であれば、秀吉には妊よう性はあったということですね。北政所への手紙”二の丸殿ばかりの子”という記述は意味深ですが、鶴松を亡くしたばかりの茶々への不憫さ、寧々への気遣いとも取れます。あるいは、動画でも言われていた時期の問題で秀吉自身も可怪しいと危ぶみつつ、自分の跡継ぎがいない現状では茶々の血をひいていれば良しとしたのかもしれません!! 甥の秀次に女癖の悪さを気をつけるよう注意するとは、あんたに言われたくない!と秀次も思ったことでしょう。ボードのなごやに同行 の箇所が、正しくは名護屋 ですね。
@フッキカラ
Жыл бұрын
北政所の承認制のという説は凄いですね。なんだか次回の『どうする家康』で茶々が家康に『お慕いしてもよろしいでしょうか?』と言っていたから、まぁないとは思いますが、まさかの家康が秀頼の実父だったという説とかだったらと妄想してしまいますね。まぁこの説はないと思いますが、これを成り立たせるには茶々が元々家康の事を母お市の方から話を聞いていて慕っていて、秀吉とは側室として繋がっているが、秀吉にとっても家康は多くの子ども達を作っているし、信康、結城秀康となるおぎい、北条へ嫁いだ姫おふうも含めて、それだけの有能な子ども達を生み育てた家康の実力者としての才能を持った子を自分の子としてこれからの天下を治める器量を持った子を残す事が豊臣政権安定の為には大きいかもしれないと考えたからでは?と考えてみました。大河ドラマ『どうする家康』でも秀吉は他の人は信用してなかったが、色んな自分を高める役をかっていたし、何せ自分の妹朝日姫を嫁がせたり、実母大政所もよくしてもらったし、追放に近い転封したが、その才能を欲したからかなと考えてみました。だからこそ茶々事淀殿は慕ってできた『自分と家康の子』なのにぞんざいに扱おうとしたから怒って大阪冬・夏の陣へ突入してしまったのかなと。妄想してみました。
@上村敦-w8v
Жыл бұрын
秀吉公認で代理種付けがあったんだと思います。 でも秀次に後を譲っていればと思うと、歴史が変わっていたでしょうね。
@ms-weck9089
Жыл бұрын
公認というか密命というのが最も合点がいく一方、タイミング的に秀吉が淀殿に通える時期にする、くらい偽装はするはずなので、イマイチなんですよねぇ。
@suzaki7771
Жыл бұрын
面白かったです。 KZbinでは何気に他の方があまり取り扱って無いテーマな気がします。 秀次をあんな目に遭わせた史実からすると色んな説が無理があるなと思ってしまいます。 もしかしてそれは淀君一派が主導だったとか? 無精子症とすると近江時代の初代秀勝の石松丸とかはどうだったのですかね?
@user-qm1fi5lv6j
7 ай бұрын
妊娠期間は最終月経初日から計算し、40週目を出産予定日にします。(月経周期28日、排卵日が月経開始2週間後の場合) 予定日の4週間前から2週間後(37週0日~41週6日)までは正常な分娩期間です。37~39週で出産する人が過半数です。 37週0日で出産したと仮定し交渉を持った日が排卵日だと考慮すると、交渉を持った日から約34週間後に誕生するのではないかと思います。 41周6日での出産であれば交渉受精から約40週間後です。 もちろん、さらに日数がずれることは十分あり得ます。
@yutakaa06
Жыл бұрын
すべてのものを手に入れたけど 自分が種なしなのはきつかったやろうなあ
@ハスターリク
Жыл бұрын
石女って言葉があるように、不妊の原因って女側にあるように思われることが多かったからねぇ。側室があれだけいれば、周囲も秀吉は種なしだと思うだろうし。自分のメンツのために、何としてでも自分の実子が欲しくなったのかも。
@菅野智之THC
Жыл бұрын
全てを手に入れると女性もおもうがままになります。 そうなると勃起しません。 いつでも誰でも抱けるから興奮しないのです。
@DoReMiLight
Жыл бұрын
男性ホルモンの血中濃度が高いことは社会で成功者にのし上がる要素の一つではあるけれど、 濃度が高すぎても不妊の原因になることがある。
@hamham3601
Жыл бұрын
正室の寧々が認めなかったから 側室の子を認知しなかった説が あるがならば後の世に秀吉の子だと 主張する人が出てないようなので やはり秀吉は種無しが正解か。 それか秀吉自身が種無しを分かっていてあえてトップシークレットとして密通を黙認した可能性が 高いのでは?と思ったり。
@dindon1969
Жыл бұрын
あらゆる才能(容姿除く)を神に与えられてたと考えられるのに、 たった一つだけ「子種」だけは与えられていなかったのかと思うと、 戦国武将としてこんな残酷な仕打ちもない。 真実はいつも残酷だ。
@yoya1458
Жыл бұрын
妊娠時期に関しては10月以前は44週超えるので流石にないと思いますが、12月はじめなら36週超えるのであり得ますね。秀吉が大阪に帰ってきたのはいつ頃なのですかね?あとねねが秀吉にいつ書状を送ったのかも気になります、それで大体の週数が予測できますし。
@グレゴール
Жыл бұрын
もう少し秀吉に子供がいたら武将になって家康の江戸幕府と戦えていたかもしれないから、子供がいないっていうのも豊臣滅亡に繋がったと思うし、中国の皇帝の1番の仕事は世継ぎを作ることって言われていたのも納得した。
@邦康近藤
Жыл бұрын
李朝鮮も男が世襲で、北朝鮮の金一族もだよ!‼️
@jodasow
Жыл бұрын
近年の研究は正妻の地位が強調される流れであり、 来年の大河では母后の地位の強大さが強く印象付けられるでしょう。 ただ、側室をとることの許可ならともかく、既に側室として認めた者たちの大半との同衾を一切許さないという権限はさすがに無いでしょうね。 学界の時流に乗ってやりすぎた説のように思います。
@スノー-y5w
Жыл бұрын
長浜城時期の秀吉には側室・南殿との間に,男子・石松丸が誕生した過去もあるらしいので,茶々が産んだ秀頼も,秀吉の実の息子の可能性が残るのでは🤔?? 秀吉の歯と秀頼の首(頭蓋骨)が現存するらしいからDNA鑑定可能ならば,してほしいなぁ… 其れとも歴史のロマン💚にとどめます?
@ebi-katu
Жыл бұрын
江戸時代の中期に書かれた『明良洪範』なる逸話集にいきなり登場する「豊臣秀頼は身長190cmを超える大男」などという、なにひとつ記録や裏付けもない与太話を根拠にして、秀頼は秀吉の実子ではないと主張する輩がアホみたいに多いなか、確度の高い史料のみを元に解説されていて、たいへん勉強になりました。
@御神誉黎
Жыл бұрын
秀吉は小柄であったが、秀頼はかなり大柄だったようだ 当時の男性の平均身長が160センチもなかったことを考えれば190センチはさすがに眉唾だが。 170センチ以上あったら、大柄だと言われたでしょう。 しかし浅井家の血筋は大柄で、浅井長政も大柄の人物だったと記録にあるし。 そのことを考えれば浅井長政の娘の淀君の子供が大柄でも不思議はない。 大柄だからと言って、秀吉の子供ではない根拠としては弱いな
@lupin402
Жыл бұрын
秀吉の妻を筆頭に、尾張からの秀吉子飼いの大名は徳川に従い、旧浅井、近江系の石田三成等、または織田有楽斎などの織田勢の一部が秀頼に忠誠を誓った。これだけでもう答えは出てるんだと思う。
@ラ公アニメの軍服歴史解説
Жыл бұрын
フランス皇帝ナポレオンとナポレオン3世は血縁関係がなかったみたいなのも数年前ニュースになりましたね。 子孫の遺伝子から調べた結果なようですが、秀頼の子孫がいたらもしかしたら突き止められたのかなって思ったりしちゃいますね。
@テトラニャンコ-n8h
Жыл бұрын
秀吉は優れた戦術家の一面からして、子種が無い事は分かっていただろうし、自分の子として秀頼をもうけて豊臣政権をしっかりした物としたかったのだろうと思います。 そこが超一流の武将の割り切り方だと思いたいです。
@jodasow
Жыл бұрын
お拾が生まれるまでは秀次後継で別段問題もなかったわけで、政権のことを考えるなら逆効果だったような。
@菅野智之THC
Жыл бұрын
秀吉は優れたおっしゃいますが秀吉ほど優れた戦国武将はいません。 人に恵まれ、運も味方に必死に生きた人です。 種なんかどうでもいい。
@ZERO-nr1fo
Жыл бұрын
精子腐ってたんか
@紅月ユキト
Жыл бұрын
権力者にとって血筋というのが凄く大事。 茶々は浅井と織田の血なので、武家棟梁の宗家として最適なの。 秀次はその傘下、あるいは公家担当としての立場を確立できればよかったのに、武家出身の側室が多かったのは不幸の遠因。 秀吉が苦労したのも出自、血筋による差別から。 だから実子かどうかはそこまで重要じゃ無い。
@abc41621
Жыл бұрын
興味深く視聴しました。 武士道さん最後仰ったように実子かどうかは分かりませんが、秀吉の息子として生きた秀頼の歴史は変わらなかったので、気にしなくてもいいと思えました。
@三浦美保-d3u
Жыл бұрын
昔のかなり歴史トンデモ番組でこんな説をやっていました。 衝撃的でした。 何人もの男と交わり父親をわからなくするというやり方で後継ぎがいない家に子をもららすという・・・昔はそのような悪しき慣習があったそうです。 それってホント??って思ったので・・・ その説では最初の鶴松は秀吉が承知でやったそうですが、秀頼の時は茶々の独断で行ったといわれていましたね。
@ふるふる-m5y
Жыл бұрын
奥さんの承認を得て子づくりしてるって話は興味深いですね。 家康は関ヶ原以降子供が何人もできてますが、そういったしがらみがなかったからとも受け取れる。 戦と子づくりは別儀ですし、正室主導であっても驚きはない。
@菅野智之THC
Жыл бұрын
家康はSEXモンスターです。
@tetsuyaigarashi204
Жыл бұрын
当時は政治的に実際の血縁があるかないかより、太閤の子供と大本営発表することの方が大事だと思うので、実子であるかないかは、どっちでも良いと思う。
@かえんむかで-t1o
11 ай бұрын
ですよね。 血の繋がりのない後継者なんて溢れかえっていたから、そこまで血の繋がりは重要視してなかったと言われていますよね。 (赤子の生存率も低かったですし、医療が発達してなかったので大名本人が若く急死することも多かった) 大事なのは血縁ではなく家でしょう。 謙信も敵だった北条から養子もらってるし、小早川も秀秋は血の繋がりはありませんし。 他にも北畠家の養子となった信雄、神戸家の養子になった信孝、羽柴家の養子になった秀勝。信玄の息子の仁科信、葛山信貞とか。血の繋がってない後継者なんて普通だったと思います。
@tetsuyaigarashi204
11 ай бұрын
@@かえんむかで-t1o 動画のネタとして面白いんでしょうけど、現代の価値観で視ると歪んで視えちゃいますよね。 秀吉本人と豊臣政府が実子扱いをした事実が一番大事な事のように思います。
@user-eu8zz6rn1w
Жыл бұрын
ねねの承認がなくてもあそこまで跡継ぎができないなら承認のない妾の子供でも認めたと思う。従って確実に秀吉は種がなかった。でも秀頼を可愛がったのは事実だし、違うの知ってても自分の子としたんだろうなと思う。
@つぼっち-w8g
Жыл бұрын
ありがとうございます。僕は大野説を推したいです。茶々の気持ちを考えたらね…
@お宮さん-r2t
Жыл бұрын
父の仇である秀吉の家計を懐柔したい茶々は危険を冒してでも他の男性から子種を得ようと画策したのではないかと妄想いたします。 自分が産んだ子がいれば、天下は茶々の思うがままとなるのですからね。
@ボンヤスキー-d6t
Жыл бұрын
天下人にあんなに側室いて、茶々しか子作りを許されないというのは、無理があるように思います。
@もふもふ-x4p
Жыл бұрын
秀吉一番のお気に入りは松の丸殿(京極高次の姉(妹説もある))だったし 確かにその説は無理がありますよね
@ぷるぷる山脈
2 ай бұрын
茶々しか子作りを許されてないというか、茶々しか子供が出来なかっただけだからなぁ。 やっぱり相性というのはあるし、特に男性型の不妊症の場合、当時は不妊治療なんて出来ないから、子供ができるかは本当に運次第と言う部分もあると思うし、むしろ側室が沢山いたから奇跡が起きたんだと思う。
@御神誉黎
Жыл бұрын
大野長治は淀君の乳兄妹だから、それこそ赤ん坊の時からの付き合いだ。 秀頼はかなり大柄な人物だったそうで、長治も秀頼と同じく大柄な人物だったそうだ。 この辺から秀頼の父親は長治である可能性が高いと言われるのだがな それと秀吉はまったく子種がなかったわけではないようだ 若いころ、妾に死産であるが子供を産ませた記録がある そのことを考えれば秀頼が秀吉の子供である可能性はないわけではないが、やはり秀吉の年齢を考えても普通に考えてないでしょうね それにもし秀頼が秀吉の子供ではないとしたら、おそらく秀吉が認めた上で他の男から子種をもらったのだろう 秀吉の目の光る大阪城内で不倫ってのは、さすがに無理だろうし。もしそれが発覚したら、秀吉の気性からして一族皆殺しにされるわ 恐ろしくて誰もできない。 根拠はないが、私はもしかすると秀次の子供ではないかと思っているが。 どうしても自分の子が欲しがった秀吉は、形だけでもわが子が欲しがった。そのために自分の血縁者である秀次に淀君と関係を持つことを命じた 秀頼が生まれたのち、秀吉は秀頼を自分の子として、いずれ関白にするように秀次に命じたが。 秀次はすでに高齢だった秀吉の死後であればどうにでもなると、秀吉の死後に自分の子供であることを公にして秀頼を廃そうとした。 その考えをうっかり誰かに漏らして、秀吉の耳に入った。 そこで激怒した秀吉が、秀次と、秘密を知る可能性が高い秀次の妻子もろとも処刑した。 って考えれば一応は筋が通るからな
@DoReMiLight
Жыл бұрын
秀吉の没後も多くの諸大名は秀頼公に忠義を尽くしたいと本気で思っていたはず。 ただ、秀頼公を取り巻いているのが石田三成や淀殿であることに次第に嫌気をさしたのだろう。
@ヘニ山へ二太郎
Жыл бұрын
「正室である北政所さま(ねね様)が淀殿(茶々さま)の出産だけを承認・許可した」という説は、個人的にはありえないと思います。 VTRにも出ていた京極竜子さま、通称松の丸殿。 戦国大名の京極高次の妹。京極高次の正室は茶々さまの妹であるお初さまだから茶々さまとは従姉妹の関係で、出自からしたら茶々さまよりも名家の出身。京都のすぐ近くの近江支配をするうえで名門京極家(佐々木源氏)の名前はネームバリューがあった。京極家は名門であったけど、わざわざ人質を取るほどの実力はない。 茶々さまは近江の浅井長政の娘でしたが、いくら織田家出身のお市さまの娘であっても、武士としての血筋的には京極家(なろうと思えば将軍にもなれるくらいの名門である近江佐々木源氏)ゆかりの竜子さまのほうがずっと家格が高い関係。 北政所さまは武家出身。その北政所さまが名門京極家のお姫様の側室に対して「お前は秀吉との子供を作るな」「子供が生まれても秀吉の子と認めない」と排除するのは、正室の権限であっても無理がありすぎる。 佐々木源氏の血筋を欲しがらない武家出身の正室がいるはずないし、仮に北政所さまが側室に対してそのようなことをしていたら、複数の信頼できるソース情報が記録として残るはず。でも、そんな逸話は現在のところ確認されてない。
@プリン男爵
Жыл бұрын
正妻の許可が無ければ側室も子作り出来ないとしても、いくら何でも晩年になっても世継ぎを全く作らせないのは道理に合わないから、やはり秀吉の生殖能力に何らかの問題があった可能性が高そう😮
@八万-g5d
Жыл бұрын
こういう話を考えるのは本当に面白いですよね 考古学なんて真実はタイムスリップでもしない限り永久に絶対に分からないですから皆の色々な意見が出てとても面白いです 北政所承認制については今まで聞いたことも考えたこともない発想でこの動画を開いた甲斐があります ただ、秀吉に関してだけはそこまで徹底的に子作りを制限させて その後を継ぐ予定だった秀次にはあんなに子沢山であることを許しているのは矛盾が生じているかなと個人的には思いますかね
@minotaros3315
2 ай бұрын
九州出張の直前に秀吉と関係結び既成事実を積んだ上で、九州へ向かった直後に直ぐ別の男と関係結ぶというのは計画的には通るのでは そういう意味ではこの秀吉の九州出張のタイミングは淀殿が托卵計画遂行する上で、絶好のタイミングだったといえるのかもしれない・・
@finestar555
Жыл бұрын
武士道さん、今回ばかりは無粋ですぜ🌛 昔、橋の下で拾ってきた子なんて表現があったけど元々は良い意味の迷信だったのかな?
@i5J9A5-x2e
Жыл бұрын
昔、歴史のミステリー的な番組で寧々が側室との子を産ませなかったり、長浜で生まれた石松丸と、茶々との子の鶴松は寧々が暗殺していた。 この動画でも紹介されたお拾い(秀頼)だけは、秀吉が自分の子でないと意味深な手紙を書いて、寧々から離れて育てられたために唯一成人した。 と言う説もあながち有り得ると思いました。
@七種壽三惠-b1u
Жыл бұрын
豊臣家が滅んだのもこのことですね。母親の心構えは息子の運命を決定します秀吉の子として出生した秀頼、秀吉は全てを知っていて容認したのでは?そもそも生まれた時から危うい運命を背負っていたのでは? その真逆が家康。家康の母は於大の方、幼くして今川家に人質として取られた息子の安否を血涙の思いで神仏に祈ったことでしょう。於大の方の生涯は息子家康の為祈り続けたものではなかったか、家康の栄光はこうした母の強い愛情(祈り)自分のことはどうでもいい、一心不乱に息子の栄達のみを願い続けた於大の方ではなかったか。同じ母として女性として深い思いを感じます。
@田中-n9h
Жыл бұрын
秀吉は長浜城主時代に男子が生まれてたみたいですけどそこら辺は言及しないんでしょうか? まぁこの子も実子か養子かで研究者の間で意見が割れてるらしいですけど
@Vtec_spirit_hayate
Жыл бұрын
大河ドラマで、高台院(ねね様)を演じた方で、誰の演技が良かったですか? 下記から選び、コメントください。 1.香川京子(春日局) 2.吉行和子(徳川家康) 3.葵徳川三代(草笛光子) 4.独眼竜政宗(八千草薫)
@iguigu0162
11 ай бұрын
酒井法子
@tomtom5649
11 ай бұрын
@@iguigu0162あれれ(笑)
@kumiabe93
Жыл бұрын
秀吉には、長浜城時代に石松丸という側室が産んだ男の子がいたと言われていますよ 茶々だけじゃないです。
@jyankuro15
Жыл бұрын
この時代の、この問題はお家も絡んでくるからね。 天下を狙う者ほど種がなくなる仕様ってのは、昔から同じなんだね。
@寸聞朶羅
Жыл бұрын
淀殿をはじめ秀吉に仕えた側室など戦国女性の研究が進んでいくにつれ、秀頼は秀吉の実子かはたまたそうでないかが、いずれはっきりすることだろうと、この動画を拝見して思いました。ともあれ秀頼の出生問題は実に謎が深いですね。
@dindon1969
Жыл бұрын
本能寺の変の謎よりこちらの方が 闇が深い感じがしました。 どう家のような「淀殿=毒婦像」ではなく、 「夫婦3人の悲劇的な物語像」 でドラマ化しても良いのかもしれませんね。
@masanobuokuda5837
Жыл бұрын
淀殿は秀頼を大坂城の奥深い所で育て、近習の大名たちにもめったに会わせなかった、と作家の伊東潤さんがテレビ番組の中でおっしゃっていました。 これが本当だとすれば、秀頼が父親の秀吉に似ていないことを勘づかれないためと推測できます。
@butchannel1185
Жыл бұрын
本妻の別妻に対する出産コントロール。ある程度は有っただろうが、必要以上に大きく取り上げるのは如何なものかと思う。 厳選して少数にしても戦国時代、長男~次男の争いは起きている。じゃあ男の子生まれたら、あとは要らないかと言えば、乳幼児死亡率の高さ、性別を考えれば4~5人産んで、成人男子1名に成るかも怪しい事から、もっと妊娠させておきたいのは理解していただけると思う。 生まれても里子に出すなり、出家させるなり、権力基盤を持つ前に外に出して戦力通告すれば済むことだし、もしもの時は呼び戻せばよい。 家康も結果的には、そうしていますよね。
@jiachan1730
Жыл бұрын
当時がどうであったかは分かりませんが、昔の民間では寺社で祈祷した後、あるいは祭りの後などに子種を授かる(=他者との行為があった)ことを認めていたと聞いたことがあります。 かぐや姫や桃太郎などの おとぎ話でも子が無い夫婦が他所で子を授かるという描写は多くあります。 このことから跡継ぎを男系ではなく女系で定める地域もあったと聞きます。また夜這いの風習も女性に誰の子を産むか選択権があった故だとも聞きます。 いずれにしても明確な文献等を参照していないので戯言ですが、秀頼は秀吉の子ではなく、他者の子種で黙認をしていた、というが自然な気がしています。 ちなみに昔は家庭内での変化を嫌ったので、生後 子供を家屋から一度捨てて、軒先で拾ったことにする風習があったとも記憶しています。…あくまで記憶ですが。 (その名残か、昭和の昔、よく母から「お前は橋の下から拾ってきたのだ」と言われましたね。)
@saitamaumare83
Жыл бұрын
ああ!ボードに、じゃない方のナゴヤが〜…😂
@桔梗屋幸伯
Жыл бұрын
秀吉と北政所が双方認知した説は理に適っていて推せる。 というか淀君悪女説が根強すぎるので見飽きてるので、 秀吉か北政所どちらかの血縁の誰かの子種だったと思っている。
@rainbow-iz9ws
Жыл бұрын
豊臣家のシステムがそうさせたのか、もう投げ槍な秀吉の心境の表れなのかでも15年経っても10万の浪人を集める神輿としては十分だったところを見ると否としても時間が資質を養わせたとも言えるし。もしかしたら諸大名の交渉でもいい話があったのかも知れない。でも追求する題材としては十分スキャンダラスで面白いとは思います
@bchop5751
Жыл бұрын
漫画「へうげもの」で、EDだった秀吉が茶々相手に復活する、みたいな描かれ方をしてて有り得るとも思った(自分の知人にも、特定の女性と合ってED治ったと言ってた人がいた)。秀吉の出世街道驀進の人生を考えるとEDになりがちなパターンかもと、そして「俺を勃たせてくれる」女性を求めた結果、側室が増えた(ダメでも一生面倒みた)という可能性も有るかなと。
@碧亜
Жыл бұрын
若い頃寧々が秀吉の子を流産した説もあるからそうなると秀吉も種ゼロってわけではなかったんかもしれないが
@nagisak8363
Жыл бұрын
正妻(寧々さん)承認説を取るなら、自分に子どもができなかったから寧々さんは側室との子作りを許さなかったけれど、さすがにお互いに歳を取って寧々さんが折れた、というストーリーも無くはないかと思いました。が、それなら朝鮮出兵で秀吉が大坂を離れた隙に、茶々と誰かが不倫をしたという方が格段にハードルが低い気がしますね、、、
@ごとうやすお-m6l
Жыл бұрын
おねの承認を得て子供を作った説は今の大河もあって想像はしやすいんですが、そうなるとおねはあまりに慎重すぎる割に、秀次の事を考えると軽率にもなるので難しいだろうなとは思いました。 いっそのこと秀吉は女好きだけどmake loveはしない人だったみたいな暴論で検証されたりしないかなって
@racing_high
2 ай бұрын
大野治長説を推したい。
@橋本喜次
Жыл бұрын
どうする家康では茶々は名護屋城に居た様に描かれてましたね
@にゃん一朗
Жыл бұрын
天正16年8月は、大坂じゃなくて二人とも聚楽第にいたはずです。
@paris4649
Жыл бұрын
茶々は少しでも秀吉を好きな(受け入れていた)ことはあったのだろうか
@ごんた-e8f
Жыл бұрын
僕の妄想では、弟の秀長や妹の旭姫が病気になったのは、自分が織田家を乗っ取って天下人になったので信長が祟ったと考えたのではないかと。そこで、天下を自分の子ではなく織田家の血を引く茶々の子に天下を与えようとしたのではないか、秀頼が自分の子でないことを知りつつも自分の子として跡継ぎにしたのではないか、と考えたことがありました。妄想の域を出ませんが。
@y0910
Жыл бұрын
南殿については???
@syber4935
Жыл бұрын
不義密通の子なれば茶々を処罰せねばならぬ。 もし、そうなれば織田家家臣団の内乱も起こりうる。 また、秀吉は公家(近衛家?鷹司家?)の身分を得ていたから、側室に不義密通があったとすれば家名に傷をつけてしまうことになる。 従って、秀吉も寧々も茶々の懐妊を秀吉の子と認めざるを得なかった。 (実子であろうが、なかろうが)血縁よりも血統をとった。 茶々の懐妊は秀吉の子とする方が家臣団を含め政治的に安定すると、皆が大人の暗黙を守ることとなっていた。不義密通を口にすれば政権転覆を図るものと見なされ、被害は自らの身に及ぶ可能性が高いから誰も言わなかった。
@lx1125
Жыл бұрын
まぁ違うでしょうね。 ねねは流産し、庶長子・養嫡男は早逝。 この時にもう少し子供いたらまだ分からんでもないが、現代でも厳しいと言われてる50代で、あの時代で茶々だけに二人はどう考えても不自然
@izmkn
Жыл бұрын
不妊であることなんて秀吉本人も妻も家臣たちも知ってたはず。信長の姪である淀殿だけが秘密の恋人を持つ事を許されてたのでは・・とゲスパー
@smile201205
Жыл бұрын
秀吉は自分が種なしと自覚していてそのコンプレックスと子孫を残せぬ不安から多くの女性に手を出したのでは
@邦康近藤
Жыл бұрын
確かに、一利ある!、
@鬱-l2l
Жыл бұрын
英雄色を好むと思いますよ~
@taryuujiaijou2160
Жыл бұрын
テレビで秀頼8歳の自筆の書を見たことがあるのですが、これが達筆で、秀吉を彷彿とさせる押しの強さが伺われました。また秀吉そのもののように感じました。これで父親が秀吉の他に誰が考えられるでしょうか。紛れもなく実の父子だと確信しました。
@邦康近藤
Жыл бұрын
ん?当時でも、秀吉の子供じゃない、おかしい?と、噂をした人30人を殺したらしいです!
@taryuujiaijou2160
Жыл бұрын
それで、何をおっしゃりたいのでしょうか?
@鬱-l2l
Жыл бұрын
DNAがあったら良かったのにね 笑
@cowboy8163
Жыл бұрын
無精子症ならば、秀頼だけでなく鶴松もどうなるんだ?という話にもなってくるんだけども? んんん さっぱりわからない😅
@ohotagyuuiti
Жыл бұрын
長浜城主時代に羽柴秀勝(石松丸(いしまつまる))が生まれているので、子種がないとは言い切れません、実子の可能性は大いにあります。😊
@kyfdhvdni4hi
Жыл бұрын
南殿の子供2人(実在しない説や実子じゃ無い説と言う異説もあるが)の話に全く触れないのは何故ですか?精子無力症とか乏精子症で全くおたまじゃくしが完全に0って訳では無くて、男性不妊症ではあるが女性側が少なく弱い精子が生きやすい環境があれば、妊娠可能な場合などもある。 弱め或いは少なめ、またはその両方の秀吉のおたまじゃくしが生存しやすい、相性がよい環境(pH等)をナチュラルにお持ちの嫁が1人無いし2人しか居なかっただけの可能性も全然あるのだと思うのだけど…。
@kyfdhvdni4hi
Жыл бұрын
15:20おそらく茶々は大阪にいたと言われている… 確かに淀君は鶴松出産後に大阪城に移ってます。 ただ、小田原征伐の時に茶々を小田原に呼び寄せた実例もあるから、名護屋城に呼び寄せてた可能性も全然あり得るのでは無いでしょうか? 小田原征伐の時は大阪城に北政所がいて、大阪城には居なかった淀君呼んでって北政所に手紙出すのは分かるけど、秀吉が名護屋城にいた頃は大阪城には北政所はおらず淀君が大阪城にいる状態だから直で連絡入っていて京都にいた北政所サイドには書状残ってないだけって可能性もあり得ます。 それに幾つかの資料で、淀君は名護屋で身籠り…とか、 淀君は名護屋城に呼ばれており、この城の山里丸で懐妊し2年(1593)8月3日に大坂城・二の丸で男児を産んだとか、 秀吉は名護屋城に側室2人(松の丸殿と淀君と言われている)を連れて来ていて、他にも現地調達された広沢の局が側に仕えていて、身籠った淀君を大阪に戻して、大阪城二の丸で淀君が出産したなど、 私が今ざっとネットで調べただけでも三人以上の歴史研究家や大学の研究者の発言や資料で書いてあるの見ましたけれども…😅。 彼らがそう記述した根拠となる、補強する一次資料や二次資料はあったのだろうか。 実子じゃ無い説も私も全然あり得ると思いますが、反証となるような話も結構あると思います。
@仲村渠達也-g1k
Жыл бұрын
漫画の「続・戦国自衛隊」では大野治長と淀殿が密通していたということが描かれていたような
@岐阜のかとう
Жыл бұрын
秀吉公、いいな~❤
@マルプー-r1p
Жыл бұрын
表記ミスで気になる方へ言葉解説では、治長と言ってますし、なごやは、茶々は名古屋にの部分だけなので(あとは、名護屋表記) 人間誰でも表記間違えはありますよ…学校の授業じゃないのですから、目くじら立てずに楽しみましょうよ…😅😊😊😊 偉そうに…と、不快に思われたら🙇♀️
@ずんだもち-m7r
Жыл бұрын
秀頼の遺児で尼さんになった長女の墓があるのだから、そこからDNAを採取し秀吉の歯も残っているのでここからもDNAを採取すれば、秀頼と秀吉が親子関係があるか無いか?がハッキリするよ😊
@もとのゆき-d7n
3 ай бұрын
どう考えても秀吉の子ではないが、それでも2代目だったことは間違いない。
@音五郎
Жыл бұрын
秀頼はひょろっとした長身で秀吉とは似ても似つかないと言われていたことから、ネネが許した(秀吉の実子)という説は違うのかなと思います。
@かえんむかで-t1o
11 ай бұрын
秀吉が茶々の托卵を容認してた説は疑問が残ります。 托卵を許可してるのに、秀次を養子にして跡取りにしているからです。 秀次が後継者指名されたのは鶴松が亡くなってからです。 もし托卵許可してたなら淀殿にもう一人産んで貰えればいいだけなので、わざわざ秀次を養子にするのはおかしくないでしょうか?
@sawaikatyou
4 ай бұрын
鶴松の死で気持ちが萎え、実態ではなく世間体として自分の子であろうがなかろうがもうどっちでも良い。 天下を統べる者の名が豊臣でさえあればそれで良いかなと捨て鉢になっていたのかも。 そしてそのまま秀次体制が完成すると秀吉の死と同時に権力が無くなってしまう茶々様ならびに近江閥が秀吉に無断で勝手に第二子を授かった事にして…という風な政治暗闘が起きていたのかもしれませんよ。 この線なら秀吉が誕生直後の数日に限りお拾い様を認知しようとしなかったという逸話とも整合性がとれるし。 まぁこんなの疑りだしたらキリが無いんですけどね。
@vivacolus
Жыл бұрын
しかしながら、50過ぎるまで跡取りがいない状態で子作りをセーブする理由はちょっと分からないなぁ。
@yudaya99
Жыл бұрын
弟の秀長には子がいるのがなんとも
@せんちゃん心はいつも3歳児
Жыл бұрын
1:36
@光幸神野
6 ай бұрын
少なくとも、一次史料を見る限り、秀吉は秀頼を実子だと信じていたみたいだよ
@sorakara7795
Жыл бұрын
秀吉は指が6本あったというのは本当なんでしょうか?
@うっかり八
Жыл бұрын
黙認したとして、誰が一番許されるかなって考えてみました。 許す側の人物は、秀吉、茶々、ねね、くらいかな。 茶々が黙って不倫していたわけでは無い前提なので、ねねを納得させる条件って血縁かなって思いました。 計画的に豊臣の後継者として育てる訳だから似ていないとまずいですよね。 秀吉が男として自分の嫁を貸す訳ですから、相手は他人じゃ無いっておもうんですよね。 秀吉の血縁で一番近い男って、秀長かな?って妄想してみました。 でも、秀長もいい年だったからな~。
@makkuu62
Жыл бұрын
秀吉が中国の宦官のように去勢していた可能性はないのでしょうか
@namomihagi
Жыл бұрын
長浜城主時代に子供がいたけど早世したという話もあるので、子種がないというより、健康な精子が少ない体質だったかと。そもそも付議密通は、ばれた時のリスクが個人だけじゃなく豊臣全体に及ぶことなので、まず考えづらく、滅びた豊臣家を貶めるために流布された説だと思いますね。不倫の果てに生まれた子だとしたら、疑いがあった時点で当時はまだいた秀次一族を正統として、茶々の方を切り捨てるでしょうし。
@幸田博明
Жыл бұрын
不義密通
@じろうかみおか
Жыл бұрын
当時から秀吉の実子じゃないと噂があるぐらいなんだから、違うんだろうなと思いますね
@もふもふ-x4p
Жыл бұрын
秀吉公認で大野に淀を寝取らせたって話もあるよね
@山本浩之-i6f
Жыл бұрын
大谷刑部も秀吉の子で疱瘡の痕というのもおねに毒を盛られて死にかけた為という話がありますね
@グラン-t3j
2 ай бұрын
徳川史観ですねぇ
@yass313
Жыл бұрын
北政所が茶々だけ懐妊を承認した説は厳しくないですかね?子供なんて多ければ多いほどいいような時代に、北政所が側室が子供を産むことを許さなかったなんて、よほど嫉妬深くないと想像できないですが… なんとなく聞いてて思ったのは、秀吉本人は実子にこだわったけど、茶々が自分の子供を産むことに強くこだわったから、秀吉も仕方なく秀吉以外の男の種で茶々が子供をもうけることを認めた、とか その秀吉が認めた相手が大野治長だったのかも
@ダトウアキシノ
Жыл бұрын
利家や成田の娘は、側室というより実質人質だったのかもしれませんね。
@kyokoono7340
Жыл бұрын
@@ダトウアキシノ佐久間良子さんと西田敏行さんの女太閤記では、そういう描かれ方をしてましたね。
@KK-of6hj
9 ай бұрын
自分のことを”種なし”と思いたい男がいるだろうか? 秀吉も一縷の望みに賭けたのではないだろうか。 いや賭けたいと思ったはずだ。 なので茶々に絶対にあなたの子だと言われたら信じるだろう。 二児も出産した茶々が二度とも浮気の子? それも信じたくはなかっただろう。 (秀吉からしてみればね) 秀次から「あんたは種なしだから血筋のつながる子ではない」と秀頼の次代を断り 激怒し、切腹させたうえ一族もろとも断絶させるという厳しい(○○った)とも考えられる。
@keinshige5302
Жыл бұрын
これはメイクラブ歴史探偵 爆誕や!
@雨桜-y4p
Жыл бұрын
鶴松は秀吉の子なのかな…? 秀頼ばかり言われるけど、鶴松はどうだったのかな 早くに亡くなったので、詳しい事は分からないだろうけど、秀吉に問題があったのなら、鶴松も茶々と誰かの子…って事になるし
@もふもふ-x4p
Жыл бұрын
長浜時代に石松丸って子が生まれてるから 秀吉に子種が無かったとも言い切れない ちなみに石松丸の母は当然淀ではない
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