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李香蘭さんが1946年、敵国の日本に協力した廉(かど)により中華民國上海の軍司法廷にて漢奸(祖国反逆罪/売国奴)容疑で裁判に掛けられた時、瀋陽時代の幼馴染みのロシア人女性が北京の両親の元から日本の戸籍謄本を運んでくれたお陰で日本人であることが証明され、無罪・国外追放になりました。
当時の中国でも中国人と思われていた李香蘭さんは実は日本人・山口淑子であって、外国人には漢奸罪は適用されなかったのです。
山口淑子(李香蘭)さんは、その命の恩人のロシア人女性・リューバの足跡を尋ねる為、上海に旅立ちました。
上海は李香蘭さんにとり、中国での活躍の絶頂を極めた地であると共に、プライベートでも数々の思い出を紡いだ場所でもあり、47年振りの上海は懐かしさでいっぱいだったことと思います。
最初に、山口淑子さんが國際飯店(Park Hotel)のバルコニーから俯瞰した人民公園(旧上海國際競馬場)は終戦の1週間前の8月7日と8日に、李香蘭さんが中国で最後に開いたコンサート会場でもあり、懐かしさも一潮だったことでしょう。
またその國際飯店は、1940年9月3日に李香蘭さんが中華電影公司の制作部次長であった台湾人の劉吶鷗さんとホテル1Fのコーヒーショップで待ち合わせをしていたものの、劉さんは中華電影公司のある四馬路(現在の福州路)で抗日分子により暗殺され、待ちぼうけを喰らった悲しい思い出のある場所で、このお話は山口淑子さんご本人から伺いました。
そして改装工事中の大光明大戲院(Grand Theatre)を訪問され、『夜來香』を口ずさみ、拍手喝采の往時を偲んでいらっしゃいましたが、私もこの改装中に、ここを訪れましたが、その次の旅行で改装を終えた劇場の外観と素晴らしい内装を写真に撮り、山口淑子さんに差し上げました。
また、李香蘭さんが上海で初めてステージに立たれたという蘭心大戲院(Lyceum Theatre)という劇場も気に掛けられていらっしゃいましたので、私は茂名南路に現存する劇場に出向き、外観や入口付近を写真に収め、山口淑子さんに差し上げたこともあります。
そして虹口・興業坊にある山口淑子さんが終戦時に軟禁された日本人収容所跡は、私も2014年に一度、訪ねたことがあります。
そこで山口淑子さんが、地元の住民と一緒に『夜來香』を歌われたことは、ご本人も良い思い出になっていたことと思います。
最後に山口淑子さんは、浦東側からバンド(上海灘)を眺めながら夕陽を観賞していらっしゃいましたが、現在は濱江大道というプロムナードになっており、私も度々足を運び、昼夜を問わずバンドを眺める場所になっています。
そして山口淑子さんは、この1992年の上海ロケの後、1998年にロシアでリューバさんと再会でき、長年の願いであった感謝の言葉を伝えることができましたが、再会の1年後、リューバさんは亡くなりました。
山口淑子さんは、リューバさんを日本の病院に入院させようとしていたことも、後から親族の方から伺いました。
お二人は、きっと今頃、天国で瀋陽での少女時代の思い出話を語り合っていることでしょう。
★李香蘭(山口淑子)さんに関する動画を少なからずアップロードしております。
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