[ 阿留辺幾夜宇和 ]高山寺 Kosanji Temple in Kyoto, Japan

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cotonoha sketch

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Ай бұрын


京都駅からバスでおよそ60分。『 栂ノ尾 』 にて下車。
表参道の17枚の大きな敷き石にみちびかれて境内に入ると青葉のいぶき、新緑が眩しい。
「 あるべきやうわ 」は、800年前の明恵上人(みょうえしょうにん)の言葉。
どのようにあるべきかを自身に問いかける生き方をしなければならないという自戒の言葉。
今から800年前は下記のような時代背景ですが、
作者未詳のこの鳥獣戯画は、生きいきとした、楽しすぎる、ゆかいな表情で描かれている。
承久の乱
1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んで破れ、総大将北条泰時は幕府軍を率いて京都に攻め上った。
後鳥羽上皇は隠岐に、その子 順徳上皇は佐渡に流され 朝廷に味方した武士は斬首刑とした。
北条泰時と北条時房はそのまま京都にとどまり、引き続き乱後の処理に当たる。
このとき、2人が滞在した館が六波羅(平清盛の一族が居館を構えた辺り)にあったため、
彼らの役職は六波羅探題と呼ばれ朝廷の監視、紛争の処理・裁判、武士による事件の取り締まりなどをおこなった。
御成敗式目がつくられた1232年(貞永元年)当時、日本列島は異常気象に見舞われ歴史的な大飢饉に襲われていた。
庶民の生活は困窮し、自分はもとより妻子までも売るという人身売買が続発した。
京中は飢え死にした人びとの死体が腐臭を放つ状況であった。
後世「日本国の人口の3分の1が死に絶えた」と語り継がれた「寛喜の大飢饉」である。
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石水院
...高山寺の入り口のこの清雅といった感じこそ楓樹に最もふさわしいもののように思われる。 ...
この敷き石の道のさきからは、高い杉木立の下を古びた石段が通じていて、それを登って行くと金堂の前にでる。
いまの金堂は仁和寺から移建したものといわれているが、室町時代のおもかげをのこしていて、簡素のなかにも上品で落ち着いた建物である。
大きな杉の木にかこまれたこのあたりには清浄な霊気がみちている。...
高山寺の歴史は古く、もとは都賀尾坊あるいは度賀尾寺と呼ばれて、平安時代初期から神護寺の別院として存在していたことが知られているが、
しかしなんといってもこの寺をおこしたのは鎌倉時代の明恵上人(1173-1232)である。
明恵上人は紀州の人、 幼少のころから仏の道を求める心強く、九歳のとき高雄の神護寺に入って文覚上人の教えをうけ、
さらに奈良の東大寺その他で、華厳をはじめ各派の教義奥義を研学した。
当時は、 栄西、法然、真鸞といった人々が出て宗教界に清新の気をふきこみ、
奈良、平安の旧仏教にかわる新仏教をおこしつつあったが、
先頭にたって組織をつくるといったことを好まなかった明恵は、経典を厳密に学び、みずからきびしく仏法を修行実践することによって、
旧仏教に新しい生命をもたらそうとしたのである。
建永元年(1206年)後鳥羽上皇は勅額「日出先照高山之寺」を賜わってこの寺を高山寺と命名し、
明恵は栂尾に住んでここを華厳宗興隆のための道場とすることになったのである。
明恵の宗教的立場は、華厳宗を中心としてこれに真言、禅などの教をもとりいれて旧仏教を革新しようとするものであり、
教義に関する上人の著書も数多いが、その信仰的態度はきわめて実践的であり、ひたすら仏を慕うという純情に貫ぬかれていて、
清純なその人格にわれわれは強くひきつけられる。
そのために門下には多くの弟子が集まり、皇室や貴族の帰依もあつく、多くの堂塔がこの地に整備されたのであった。
明恵在世時にできた本堂には、運慶作の盧遮那仏が本尊として安置され、四天王は運慶、湛慶、定慶、康勝の作であったという。
その他、三重塔をはじめ多くの建物がこの山中にたてられていたのだがそれらは皆失われて、
杉におおわれた今日の静かな境内では、往時の盛観をしのぶよすがもない。
とくに天文十六年(1547年)の戦乱の際、神護寺の建物と同時に高山寺の塔坊もすべて焼けて、
明恵在世時の建物で今日までのこっているのは石水院だけである。 ...
明恵
石水院を中心とする高山寺は、寺らしいところのない寺である。かつては堂塔が軒をならベ、多くの僧侶が集団生活をしていたところだが、
それらすべてが失われて、明恵の禅堂だけがのこっているのは、歴史の偶然の結果であるとはいえ、明恵上人という人をしのぶには好都合だともいえよう。
明恵は教団を組織せず、僧位僧官をうけず、ひとり静かに座禅することを好んだのである。...
伝記をとおしてかいま見られる明恵という人物には強く心をひかれる。
早く父母を失った明恵が神護寺に入ったのは九歳のときだが、...
二十三歳ごろ、紀州白上峰できびしい修行にうちこんだが、煩悩をすてて純粋に仏道にしたがう決意をかためるために、
仏眼仏母尊の像の前で右の耳を切り落としたという事実は、
明恵の信仰の激烈さをよく示しているが、仏眼仏母の画像に「無耳法師之母御前也」と書きこんだことは、
その信仰の人間的側面をものがたっているといえよう。
明恵にとって、釈尊は慈父、仏眼仏母は母、そして自分はその愛児であった。
これは、神にむかって父よと呼び、マリヤを聖母とするキリスト教に似た考え方である。
道元も法然も日蓮もこういったことは教えなかった。
彼がおどろくべき熱心さでインドにわたろうとしたのも、仏があくまでも現実的存在として感じられていたからであった。
高山寺には上人自記のインド行程計画がのこっているそうである。...
さらにおどろくべきことがある。
それは明恵が十九歳からはじめて、五十八歳にいたるまでの四十年のあいだ、自分の見た夢の精密な記録をやすみなしに書きつづけたということである。
その厖大な記録は『夢之記』として現に高山寺に蔵されている...
彼は、極楽浄土を彼岸に求めたのではなく、それを現世のうちに観じ、
それが現世において実現されることをねがったのである。
そこから実際生活での 「あるべきよう」 を説く倫理が生まれ、また法然や親鸞の教えとのちがいも生じる。
弟子たちに語った法語に日く、
「我は後生たすからんとは申さず、ただ現世にあるべきやうにてあらんと申す也。
聖教の中にも行ずべきを行じ、振舞ふべきを振舞へとこそ説きおかれたれ。
現世にはとてもかくてもあれ、後生ばかりたすかれと説かれたる聖教は無きなり。
仏も戒も破りて、我を見て、何の益かあると説き給へり、
仍て阿留辺幾夜宇和という七字をたもつべし、是をたもつを善とす。 」
今日、石水院を訪れるわれわれは、そこに明恵上人の書いた「阿留辺幾夜宇和」の掛板を見ることができる。...
明恵自身、日常の起居動作においてこういったこまかい規則をきびしく守る人であったが、
しかし彼が求めたのはむろん、一々の規則を形式的に守ることではなく、
人間としての 「あるべきよう」 が日常の実践を律することであった。
純粋な信仰は、おのずからそれにふさわしい現実的実践をともなう。
明恵はいわゆる「遁世の聖」の立場をとり、世間的活動をせず、山中にこもって仏法を行ずることにうちこんだが、そのためにかえって、
名利を厭って寄進を拒み、慈愛を衆に注ぎ、特に弱い者を庇護し、権門や武力に屈せず、北条泰時に対して政治の道を説くことができたのであった。
伝記のしるすところによれば、
承久の乱のとき、敗れた京都側の兵が栂尾山中にかくまわれているという噂があり、
秋田城介義景(これは景盛のあやまりだろうといわれている) はこの山を捜索し、
栂尾の責任者である明恵を捕えて六波羅に連行し、北条泰時の前にひきすえた。
泰時はかねてから上人の徳をきいていたので、おどろいて上人に上座をすすめた。
ものものしく武士が群れているなかで上人がいうには、
高山寺に落人を多く隠しておいたという風説があるそうだが、いかにもさようであろう。
栂尾は殺生禁断の地であり、いくさに敗れた落人が敵におわれて辛うじて逃げのび、木の下、岩の間にかくれているのを、
どうして無情においだして敵に生命を奪われるようにすることができょうか、
できることなら、袖のなかにでも袈裟の下にでもかくして生命を助けてやりたいと思う。
今後も助けるであろう。もしこれが政道のために難儀であるならば、即刻愚僧の首を刎ねるがよろしい。
上人がこのように弁じたので、泰時はおおいに恐縮し、その後はしばしば高山寺を訪れて法談をきくようになったという。
『伝記』に記されているこの話については、資料の確実性が疑われているようである。
しかし資料が不確実だということは、むろんこういった事実がまったくなかったということを意味しない。
すくなくとも明恵の人となりを考えれば、こういうことは十分あり得たことだと思われる。
事実がどこまで正確であるかを知ることは、いまのわれわれの問題ではない。
世俗をこえて仏道ひとすじに徹底した心が、その徹底のゆえに、弱い者の生命を守ろうとして、権力の前で一歩もたじろがなかったことを知れば足りるのである。
さて、いまやわたしは明恵上人の生涯をしのばせる石水院を辞し、現代の生活にむかって山をおりなければならない。...
すがすがしい空気の山をおり、 わたしは炎暑の京都の街に帰ってきた。
ちょうど日曜日で、街はたいへんな雑踏だった。 ぞろぞろと群れをなして歩いている人々は、何を求め、どこに行こうとしているのであろう。
四つ角では、十人ばかりの青年たちが、アメリカ軍の北ベトナム爆撃に反対してすわりこんでおり、その何倍もの警官がそれをとりかこんでいる。
そして人々は何事もないかのようにその傍らを流れて行くのだった。もしも明恵上人が現代に生きていたとしたら、 彼は何を説くであろうか。
「あるべきようわ」とわたしはわたし自身に問わなければならない。
文/矢内原伊作 写真/井上博道  『 神護寺 高山寺 』  淡交社
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― map ―
◆ 高山寺: www.google.com/maps/@35.06062...
◆ 京都駅前JRバス乗り場[JR 3]: www.google.com/maps/@34.98643...
― website ―
◆ 高山寺ホームページ: kosanji.com/
◆ 西日本ジェイアールバス: www.nishinihonjrbus.co.jp/
※ 一般路線バス > 京都市内 > 立命館大学経由
※ 京都駅前JRバス乗り場[JR3]からおよそ60分、[ 栂ノ尾 ]で下車。(¥230)神護寺、龍安寺行と同じバス。

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Они убрались очень быстро!
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