六代目 笑福亭松鶴 『寄合酒』 小山觀翁撰集

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観翁撰集 Kanou Collections 小山泰生象翁 編

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Күн бұрын

収録日時は不明です。
いつもご視聴いただいているみなさま。
御高配に感謝いたします。
このたび
觀翁撰集の同好の士が相互交流していただける場
所謂オフ会を開催したいと考えはじめました。
辛口批評を活発にしていただき、
現在の実演家たちを激励していただけたらと思います。
夢としては
いずれ常設の空間を東京銀座にひらきたいとも思います。
そこで、
てもとの品々を販売して
その経費に充てることにしました。
撰集にアップしたあとの
音源もあわせて販売させていただきます。
父 觀翁の手になる箱書きも多数むくまれています。
ご覧いただきお求めいただければ幸甚です。
Yahoo!オークション Taisei Koyama のページ
auctions.yahoo...
小山泰生
*********************
6代目 笑福亭 松鶴
(しょうふくてい しょかく)
1918年8月17日 - 1986年9月5日。落語家。
大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。
本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」。
父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落語家6代目林家正楽の養女。
息子は同じく落語家5代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。
甥は笑福亭小つるを名乗って松鶴と共に若い頃修行していたこともある和多田勝。
芸風など
入門当時、消滅寸前だった上方落語の復興を目指し、3代目桂米朝らと奔走。埋もれていた演目を掘り起こし、また多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興を果たす。米朝、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治とで「上方落語界の四天王」と讃えられた。豪放な芸風と晩年の呂律が回らない語り口(1974年頃に脳溢血を患った後遺症による)が知られているが、若い頃はまさに立て板に水というところで、テンポよく迫力のある語り、酔態や子供の表現の上手さで人気を得た。特に酒を題材に取った噺(らくだなど)や芝居噺(蔵丁稚など)を得意としていた。松鶴襲名のころまではまさに他の四天王たちやほぼ同年代の噺家たちよりは頭ひとつ抜けた存在であったと評判であった。また、枝鶴、染丸同時襲名の折は看板は枝鶴(6代目松鶴)が上であった。父が5代目松鶴だったこともあり、上方落語のサラブレッドやプリンスと呼ばれたことがあった。立川談志は初対面の時「随分汚ねえプリンスだな。」とあきれたが、松鶴は「わてがプリンスですねん。そう見えまっか。」と逆手に取って周囲を笑わしていた。
若手の頃はヒロポン好きであった。覚せい剤取締法が制定される1951年までヒロポンの市販は合法であったが、どれだけのヒロポンを打てるかが芸人のステータスとなっていた当時、松鶴は一升瓶に入ったヒロポンの溶水を掲げ「一日に30本打ったった」と自慢、「ワシや春団治は楽屋でヒロポン打っとったけど、米朝はリンゴ食うとった」との思い出を語っている(同じ松竹芸能所属だった北野誠のラジオでの談話)。3代目桂米朝は、自分は注射が嫌いだったのでヒロポンに手を出さなかったと述べている[2]。
話を覚えるのがうまく、2代目松之助によると、5代目桂文枝が若手の頃に5代目松鶴から『天神山』の稽古をつけてもらっていたのを隣で盗み聞きし、文枝よりも先に高座でかけてしまった。また、3代目桂米朝も、5代目松鶴から『池田の猪買い』の稽古を付けられたときに横で6代目松鶴が聞いて覚えてしまったと述べている[2]。
紙切り芸人の香見喜利平が、舞台で使った残り紙を利用して年賀状用に翌年の干支である鼠(子)を切っていたのを見つけ、喜利平の不在の間にそれを全部捨てた上で、自己流の猫を紙で切って置いておいた。用事から帰って破り捨てられた鼠と松鶴の切った猫を前にした喜利平は「これで腹を立てたらシャレの通じん奴やと思われるやろな」とぼやいた[2]。
1964年頃、桂春団治と新世界の飲み屋で、それぞれの弟子を連れて飲んでいた時に、近くの席でヤクザが女に因縁をつけているのを見つけた松鶴は、春団治にアイコンタクトを取りつつ「三代目」と代数で呼びかけた。状況を察した春団治も松鶴を「六代目」と呼び、弟子たちも師匠を「おやっさん」と呼ぶなどしてしばらく会話しているうちに、件のヤクザは席を立っていた[5]。
弟子や若手の育成
若手の芸人を非常に可愛がっていた。師匠(3代目林家染丸)を早くに亡くした4代目林家小染には、大ネタである「らくだ」の稽古を直に付け、小染の最初の独演会(1979年)のプログラムには「この調子でたゆまず精進してくれれば四代目染丸襲名も近いうち夢でない」と記して将来を嘱望していた[6]。その小染が1984年に若くして事故で急逝した際には、不祥事による謹慎中の身で通夜に参列した桂きん枝(現・4代桂小文枝)に声をかけ、その後「桂勝枝」の名前で復帰したものの芸能活動をほぼやめていたきん枝を伴って3代目桂小文枝の自宅を訪れ、「もう戻したれ」と持ちかけた(小文枝も「タイミングの問題」と考えており、1986年に「きん枝」に復名して本格的な芸能活動を再開した)[7]。
弟子の笑福亭鶴光が山本正之のプロデュースで「うぐいすだにミュージックホール」をリリースして大ヒットしたが、それを聞いた松鶴は「ろくに落語もできんくせに流行歌手かい!」「ストリップの歌うたいやがって」と激怒し、これを契機に鶴光は本格的に落語に取り組むことになった[8]。
鶴瓶の弟子で松鶴の孫弟子にあたる笑福亭笑瓶は落語家志望だったため、鶴瓶に弟子にしてほしいと懇願した。そこで鶴瓶は「ウチの嫁と、師匠の松鶴に気に入られれば入門を認める」と条件を出す。鶴瓶の妻には認められ、その後松鶴と対面した際に「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ、笑瓶は「好きです」と即答した。松鶴は笑瓶に対し、「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と告げたという。
経歴
五枚笹は、笑福亭一門の定絞である。
大阪市西区京町堀に父5代目松鶴の次男として生まれる。
1933年、高等小学校を卒業し、漫談家・花月亭九里丸の紹介で心斎橋のお茶屋に丁稚奉公に出る。しかし仕事はそこそこに落語や歌舞伎の鑑賞に入れ込み、新町、松島、飛田でも遊ぶ。遊興費は父の着物を質に出したり父松鶴のサークル「楽語荘」の資金にまで手を出すほどであった。周囲は松鶴の御曹司ということと世話になっていた噺家も多く叱責されなかった。元は役者志望だったが、少年時代に片足に重傷を負い引きずるようになったため、断念せざるを得なかった。
1938年、兵役検査を受けるが不合格。これを機にお茶屋を辞め、遊蕩の日々を過ごす。その傍ら、5代目松鶴が手がけた「楽語荘」や雑誌「上方はなし」編集などを手伝い、落語に関わるようになる。1944年 中之島の大阪市中央公会堂にて、出番に遅れた出演者の穴埋めとして芸名無しで初舞台。演目は「寄合酒」。以降定期的に主に本名で高座に上がる。
1947年 父松鶴に正式に入門。5月19日、今里双葉館にて正式に初舞台。目の大きい容貌だったことから、父の片腕であった4代目桂米團治より、「目玉の松ちゃん」と親しまれた尾上松之助にあやかって初代笑福亭松之助と命名される。演目は「東の旅・発端」。1948年 1月1日、戎橋松竹の新春興行より4代目笑福亭光鶴(こかく)と改名。
1953年7月31日、4代目笑福亭枝鶴を襲名。戎橋松竹にて襲名披露興行(3代目林家染丸の襲名披露と同時におこなわれた)。出囃子を「だんじり」とする。1954年 衣笠寿栄と3度目の結婚。布施市(現東大阪市)彌刀に居を構える。
1957年4月、上方落語協会が設立され、副会長に就く。1958年6月、朝日放送の専属タレントとなる。
1960年に千土地興行から松竹新演芸へ移籍。
1962年3月1日、6代目笑福亭松鶴を襲名。道頓堀角座にて襲名披露興行。出囃子を「船行き」とする。
1966年、大阪府民奨励賞を受賞。
1968年1月2日、大阪厚生年金会館にて初の「笑福亭一門会」(弟弟子の2代目松之助、3代目笑福亭福松門下の初代森乃福郎も参加)を開く。同年6月、死去した3代目林家染丸の後任として上方落語協会第2代会長に就任、1977年まで務める。
1969年4月23日、大阪厚生年金会館にて初の独演会を開く(4月25日まで)。この年、住吉区粉浜に転居する(現在の「無学」)。
1971年1月30日、芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。8月31日、有馬温泉で行われた松竹芸能の親睦パーティーの席で泥酔して騒ぎ、来賓として出席した松竹本社の城戸四郎社長を激怒させるなど周囲の顰蹙を買った[1]。松竹芸能の所属タレントはもちろん、親会社からも松鶴の解雇を要求する声が挙がる中、松竹芸能の勝忠男社長が仲裁に入り、松鶴が勝に謝罪することで事態は収拾した[1]。皮肉にも松鶴はこのあとメディアでの露出が増えるが、勝は『六世笑福亭松鶴はなし』にて、有馬温泉の一件での松鶴の謝罪が影響したと回顧している[1]。
1972年2月21日、南区千年町(現・中央区東心斎橋)の島之内教会内に定席「島之内寄席」開場。12月、「上方お笑い大賞」を受賞。
1973年10月、関西テレビ制作のドラマ『どてらい男』に「将軍」こと大石老人役でセミレギュラー出演(1977年3月まで)。この年、協会運営の落語会「千里繁昌亭」をスタートさせる。
1975年、藤本義一の直木賞受賞作の映画『鬼の詩』に特別出演する(オープニングで藤本義一と音声対談)。1977年5月、神戸市東灘区の東灘文化センターで、落語など演芸関係の蔵書300点余が公開される。
1978年住之江区の住之江公園近くに転居。1979年1月、還暦記念落語会「六世松鶴極め付き十三夜」を北区堂島の毎日国際サロンにて開催した。
1981年8月8日公開の映画『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』に安宿の老人役で出演。同年11月3日、紫綬褒章を受章。上方落語家としては初。この際、市民税を滞納していたことが発覚し、急遽支払ったとされる。
1984年1月、惣領弟子・仁鶴との親子会「松鶴・仁鶴極め付き十三夜」を中央区本町の北御堂にて開催した。
1986年5月28日、北御堂で行われた林家一門の落語会で「二代目林家染丸の思い出噺」を口演し、これが最後の高座となる。9月5日、肺炎に伴う呼吸不全と心不全のため、入院先の大阪市天王寺区の大阪警察病院にて死去。68歳没。この日は奇しくも父・5代目松鶴と長男・5代目枝鶴の誕生日に当たっていた。同じ時期に同じ病院に宮川左近ショーの宮川左近が入院しており。その後左近は松鶴が過ごした個室に入ったがその数日後亡くなった。
最期の言葉には諸説ある。笑福亭鶴瓶によれば、最期に「ばば(大便)したい」と言い残し直後に息を引き取った(『鶴瓶上岡パペポTV』での談話)。また当時の新聞記事には「主治医に『戦争じゃ!』と呼びかけた」という記述がある(『落語ファンクラブ』より)。NHK等、媒体で発表された辞世の句は「煩悩を我も振り分け西の旅」である。これは、父・5代目の辞世の句「煩悩を振り分けにして西の旅」(4代目桂米團治作)を踏まえたものである。作者は甥の和多田勝(『六世笑福亭松鶴はなし』桂米朝の回顧より)である。
戒名は「笑福亭楽翁松鶴居士」。墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。
出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

Пікірлер
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