なるほど日本 第44話 出雲と大和を繋ぐ導きの神『八咫烏』は実は出雲王家の大田田根子こと太田タネヒコ!『人間』だった!?

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11 ай бұрын

※あらかじめ注釈です!
作中に登場する『太田タネヒコ』は基本的に文献には『太田タネコ(大田田根子)』という巫女として登場します。
みなさんこんにちは!
今回ご紹介するのは、日本に古くから言い伝えられている謎の存在、『八咫烏』についてです。
日本ではカラスは古くから神の遣いとして信仰されており、八咫烏は、体はカラスで足が三本あるのが特徴です。
ではこの太古の時代のカラスは一体どのような存在だったのでしょうか。
実はそこには、『出雲』の存在と、日本の初代天皇『神武天皇』との深い繋がりがあると言います。
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#八咫烏 #神武東征 #神武天皇 #神話 #神 #出雲 #大和 #天照大神 #高皇産霊神 #事代主命 #賀茂氏 #古代氏族 #古事記 #日本書紀

Пікірлер: 59
@kanaloa.s4233
@kanaloa.s4233 11 ай бұрын
いつもありがとうございます 日本の歴史は謎が多いですよね 全ての真実を知りたくなります どこでもドアやタイムマシンが欲しいです😸
@user-xw4bk5xp2b
@user-xw4bk5xp2b 2 ай бұрын
ありがとございます
@nihontaro9
@nihontaro9 11 ай бұрын
八咫烏の祖は太田家のオオタタネコだというお話ですね。大元出版の出雲の伝承だと、神武東征のモデルとなったイツセとウマシマジ兄弟の第一次物部東征軍を大和に引き入れた太田タネ彦で、太田家を含めて、初代から天皇家(日本の祭祀)を支えている賀茂氏や中臣氏などを表す比喩なの鴨🦆しれませんね。 日曜ドラマVIVANTとも繋がりがありそうで楽しみです。
@user-vf2kr3rt8v
@user-vf2kr3rt8v 11 ай бұрын
ありがとう。和と輪、産み出す二重唱。推進プロジェクト❤🍀😄
@mayumi3300
@mayumi3300 11 ай бұрын
三輪氏・賀茂氏の系図です。 ✤事代主(大物主神)  ↓ ✤天日方奇日方  ↓ ✤飯肩巣見  ↓ ✤建甕槌  ↓ ✤豊御気主  ↓ ✤大御気主  ↓ ✤阿田賀田須 ✤建飯賀田須  ↓ ✤大田田根子(タネヒコ)  ↓ ✤大御気持  ↓ ✤大鴨積→鴨君・賀茂氏祖❤ ✤大部主  ↓ ✤大友主→神(みわ)君・大神氏祖💛 【天日方奇日方】は 初代皇后【タタラ五十鈴姫】の兄であり、 登美家の当主です。 両親は 東出雲王家の事代主と 三嶋溝咋の娘【活玉依姫】であり、 東出雲王家の富家の分家として、 ヤマトへ進出し、 登美家を名乗ります。 この【活玉依姫】は、 賀茂神社にお祀りされている 【鴨玉依姫】と同一です。 その娘・タタラ五十鈴姫は、 海部家の海村雲を婿に迎え、 初代ヤマト大王としてたてます。 (海・磯城王朝) 元々、三輪山の太陽の女神を 信仰しており、 登美家・磯城家の家系から 巫女を出していました。 その後、 九州から物部氏が 2度に渡る東征をし、 最初の東征の時、 物部を率いて道案内をしたのが、 登美家の分家筋であった 大田タネヒコです。 八咫烏と呼ばれます。 当時、 磯城王朝内は後継者争いで分裂し、 物部の軍事力を背景に、 大田タネヒコが 実質上の支配者となりました。 その孫、 大賀茂津身の時代に、 2度目の東征があり、 大王家も 登美家(大田・賀茂家)も、 ヤマトを追い出され、 大賀茂津身は山背国に逃れます。 そして、 その一族の一部は、 三輪山を奪回し、 三輪氏となって、 大物主神をお祀りしてゆきます。💛 (太陽の女神は 伊勢に行かれたので) 山背に残った大賀茂津身の子孫は、 賀茂神社や日枝大社を整備し、 後に平安京に遷都させます。❤ 賀茂神社に八咫烏がいる由縁です。 神武天皇とは、 複数の人たちの所業と、 正史を書いた時代の人の、 どのように日本を 創ってゆきたいかという 理想が込められて 創作されたキャラクターです。 古事記は過去を書いたのではなく、 未来を創ったのです。
@qpjvision
@qpjvision 11 ай бұрын
とてもお詳しい解説ありがとうございます!
@nihontaro9
@nihontaro9 11 ай бұрын
🌻ありがとうございます😊
@mayumi3300
@mayumi3300 11 ай бұрын
@@nihontaro9 さま 【八咫烏=鴨族】だと思うのですね。 大きく観て。 鴨族とは、 ①三嶋→皇后の母方家系 ②東出雲→皇后の父方家系 ③大王家→徐福族➕西出雲 の三巴だと思います。 ①は 【三嶋・大山祇一族】であり、 婿・事代主族と一緒に、 神津島経由で 伊豆ヘ進出しますね。 房総半島・安房ヘ進出した 阿波忌部とも裏表と思います。 どちらもキーワードになる女性が、 事代主の妃とされていますし、 賀茂・鴨という名が 沢山、地名に残されています。 ②は、 【大物主(事代主)の家系】であり、 正史にも先代旧事本紀にも 三輪氏にも 家系図が残されており、 それらが一致します。 ③は 【葛城・鴨神社系】です。 ②の東出雲系に対し、 西出雲族が基盤となっているところです。 賀茂神社の総本宮は、 大和葛城にある高鴨神社です。 この地域は、 ヤマトヘ進出してきた クシヒカタらの三嶋・東出雲一族と 西出雲族を含む海家(丹波)勢力が、 一番最初に拠点を置き、 開拓を始めた場所であり、 ヤマト政権発祥の地です。 天孫・村雲(高天彦)が 降臨した場所ですね。 皇后の家系・登美家は 三輪山周辺に移動し、 三輪山祭祀を請け負ってゆきますが、 婿となり、初代大王となった 海家の村雲の子孫たち (徐福族➕西出雲族)は、 この地で葛城一族となり、 初代大王をお祀りしてゆきます。 賀茂神社の総本宮・高鴨神社の ご祭神は、 【味耜高彦根命】であり、 【迦毛大御神】と称されます。 村雲の父・香語山の 母の兄であり、 大国主・八千矛王の御子です。 初代大王・村雲が、 徐福族のみでなく、 西出雲王家の血を引き、 西出雲王家が支えていたという証です。 葛城の上中下の鴨神社が 西出雲色がとても濃い中で、 同じ管轄である高天彦神社だけが、 ご祭神が高皇産霊尊と 天孫系であり、 異色の雰囲気がありますが、 背後の神名備・白雲岳こそが、 村雲の埋葬地であり、 そこをお祀りする神社であると 思っています。 蜘蛛塚は遙拝所であり、 境内にある磐座が 拝み墓でしょう。 人をあまり寄せ付けない 神聖さに満ち溢れた神社です。 ①②③は 幾度もウケヒ(婚姻)を繰り返し、 ほとんど同族と言って良いくらいです。 3本の紐が 縄を編むように 螺旋を描いて進んでゆきます。 神話で神武天皇を導いたのは、 太田田根子でありますが、 その後も国家の祭祀の中心に 現在まで、ずっと居続け、 日本という国家の運営を 導く役割を続けてゆきます。
@nihontaro9
@nihontaro9 11 ай бұрын
@@mayumi3300🌻さま、 詳細な解説をありがとうございました。 とてもわかりやすく、すんなりと頭の整理ができました。 初代海村雲の父・海香語山命・五十猛命の母は、出雲の大国主の妹大屋姫様ですね。 神武東征の金鵄神話の元になった三本足の太陽信仰トリスケル・トリスケリオンの八咫烏も素晴らしいです。 今ちょうど八咫烏をシンボルマークに掲げた、なでしこジャパンの女子サッカー試合が行われていますが、 応援したいです。勝つかなあ😁⚽🦵🦵🦵🎉🎊🏆🏅🥇
@mayumi3300
@mayumi3300 11 ай бұрын
@@nihontaro9 さま 一本(ひともと)の なでしこ植ゑし その心 誰れに見せむと 思ひ始(そ)めけむ          大伴家持 撫子の花は 五芒星🌟ですね。 タララ五十鈴姫の百合(サイ)は 六芒星🔯でしたけれど、 五芒星🌟と六芒星🔯で フラーレンになりますね。 六芒星🔯は芦屋道満。 五芒星🌟は安倍晴明・賀茂。 撫子が世界に輝くと良いですね。 ところで、 五十猛・香語山の母は 大国主の娘である【高照姫】で、 大屋姫は五十猛の妃であり、 【味耜高彦根の娘】だと思いますが… 大国主の息子・味耜高彦根命      娘・高照姫(五十猛の母)          (味耜高彦根の妹) 味耜高彦根の娘・大屋姫(五十猛の妃)            (高照姫の姪) だと思うので、 五十猛と大屋姫は どちらも大国主の孫になります。 味耜高彦根が五十猛の叔父です。 (出雲王家の伝承では) どちらにしても、 西出雲王家の重要人物ですね。
@AY-rr1kh
@AY-rr1kh 5 ай бұрын
毎回興味深く拝察させていただいております。 しっかりとした構成で、内容も説得力があり、制作されているグループのバックボーンにとても興味を惹かれます。これからも楽しみにしております。
@ufo-delta
@ufo-delta 11 ай бұрын
偶然通りすがりですが、何だか前世の記憶がフラッシュバックしました。 やはり聖武天皇の霊性は高かったのかと感じました。 私は今の人生以外の昔を沢山保有してまして。 現世の様子見て普通じゃなさそうだぞと記憶から、興味本位で特徴を探し続けて その内の一つの生命時には聖武天皇の統治する時代にも居た事が単独調査でたどり着いた事があります。 過去世では 刀をぶら下げた名もなき平民でしたがね、へへ。 しかし、ここで8:00にも奇妙な一致があり、まさか八咫烏の"結成"にも出くわすとは、、 私も当時、人間として居たんですよね。 単なる村人で神事には関わらなかったのですが、のらりくらり生きてました。 しかも8:20を見て更に驚いた、、 右に並んでるのは地上人と意思疎通を行う為に、宇宙船の内部にもフォトンマーキングで存在したものもありました。 カバラ系図は単なる外国のものでもユダヤだけが関わりがある物だけでなく、オリジナル、恐らく直接、日本様にカスタムしたものもあるのでは無いですかね。 私は魔術師じゃないから、指定してどれそれとは言えないですが、見てるから知ってる程度です。(人が自販機を見た時と同じくらいの程度) しかし、記憶が人間みたく時々ど忘れして、詳細を語り尽くせない時も。 まぁ今は人間だからご容赦を。 一つだけ申したい事は 【ユダヤに傾倒し過ぎない事】です。 専用ダイヤルもあるので。 仕組みとしては 形状固有振動周波数で宇宙船内部と地上にインストールしたもので、私が元々居た宇宙船は、人間のサイズ感で言えば、米海軍第7艦隊の10倍規模でして。 更に昔は地上に1300mくらいの古代人が居たとされていて、自分たちの身長は、、彼らのその2倍の2600mくらいの身長があり、 船長は自分たちの5倍くらいのサイズでしたから。 空母、及び戦闘揚陸艦に関して実物の明確なサイズは言えませんが、小型機は普段空で見るだろう空飛ぶ光。 言えば言うほど規模がメチャクチャで笑えますが、それは転生輪廻すら危うい人間規模の感覚です。 いや、話過ぎると現世記憶しか持たない人からしたら 美しい木々を薙ぎ倒し川を塞き止めるような時代認識でメチャクチャだから 事細かに言わない方がいいのか、、迷う。 しかし、出雲の結成から、八咫烏の結成と近い距離に居ましたね。 出雲の結成から、八咫烏の結成の時代も 何もかも興味深く、事細かに事実を残す勤勉で繊細さ、昔からこの人達は何か違うぞと確信があった。 そして日本人になれて本当に良かった。 昔から美しい国か作れると信じて、私は日本人になれた。 それは日本人が素晴らしい精神を持ってたからでしょうね。 因みに私は昔、また人間の肉体を与えられなかった時に「神門通り」を手掛けた事かあります。 時は、、いつでしょ、多分400年くらい? 霊体をチューニングするから、まだ人間にはなれないって事で、当時はほぼ金属ボディのアンドロイドを使用してました。 ただレーザーをぶっ放しただけですが、その後に、当時から地上には人の姿をした人が居ましので、彼らに整えてあれこれ作って欲しいとお願いしたら、姿を見るなり逃げられて数日誰も近寄らなかった事があり、出雲大社を作るのは難しかった。 後から遠くから話しかけるだけにした。 そんな昔の記憶があります。 ずっと空から見てて、チラチラ見られてましたが、今にしてみればあの時自分は空飛ぶ物体だったのかと、人が好まない姿だったかと笑えてくる。 後、何したか、橋の作り方も教えた事がありますね。 今の出雲族って言うんですが、彼らに3連木造の橋の製作を今で言う「プロジェクションマッピング」で教えた事があります。 人が寝てる時に近くで見たら自分が教えた橋とは僅かに違う 橋の床に階段作ってて、そのセンスが気に入らなくて怒った事もある記憶もあります。 床は滑らかに作るべきだとクレームを付けたが、彼ら出雲族は頑なに考えを変えなかった。 まぁ今にしてみれば別に橋に階段形式あっても何もおかしくないけど、 橋に階段をミックスさせたのは出雲族がオリジナルだとも知ってます。 まぁ歴史書にそんな細かい事、書き残してるかも知りませんね。 そもそも橋にあんまり興味ないし勉強してないから名称すら不勉強ではございますが。 しかし、橋に段差を付けるセンスは出雲の連中が最初です本当です、信じて下さい。 詳しい名前は知りませんけど長い歴史があります。 昔の人のセンスで、歴史長いです。
@ufo-delta
@ufo-delta 11 ай бұрын
これw絶対やばいよな。 現世に変なヤツ居るわって引かれるかも知れないけど、構う事はないか。 八咫烏とは脱線したけど、出雲の話では、俺も過去世で関わった。 それは嘘じゃない。 話してる内容を事細かに調べたら分かると思います。 因みに平成生まれなんで、言葉も雑で申し訳ないです。
@nihontaro9
@nihontaro9 11 ай бұрын
@@ufo-delta 様、 とても興味深いお話ですね。 出雲で生きておられた時の記憶や様子についても、くわしくお伺いできればと思います。
@ufo-delta
@ufo-delta 10 ай бұрын
@@nihontaro9 「出雲で生きていた」とはハッキリ言えない部分もあります。 ただ、歴史を見ていると彼らと関わっていたに違いありません。 出自が少し違うので、自分が覚えてる範囲で、客観的に出雲族の印象だけ言います。 その前に、ちょっと自分の事を話す必要があります。 自分が来た時は、それは呼ばれた様な物です。 「行っても良い」と統制ある組織形態で活動してましたよ。 率直に言えば人間ではありませんでした。 当時は空中から見る事がメインでそれ以外の事は特に。 畑や住処(家)整えていて、畑作業にとても真面目で、勤勉で平和そうな様子に良いなと思ったのが最初の関わりです。 国譲りの具体的な最初のミッションは、、ちょっと教えたくありません、名前が出て来るので。 その後は定期的に来てました。 記憶の限りでは、確か出雲大社の後はしばらく不在です。 また来たら次は何かの「赤い橋」を作りました。 私が設計した物ですが、場所は良く覚えてません😂 それから後、山口県岩国市にある「錦帯橋」の建設に関わったのも身に覚えがあります。 設計者は複数ですが、こんな物を作りたいとか、アレコレ聞きながら地道に組み立てた事の記憶があります。 川の浅さと言い風景と言い、間違いなく岩国市の物です。 歴史書を見ると作った人は「吉川広嘉」とありますが、私があの人と言う訳ではありません。城のアレコレとかやった記憶が全く存在しない、橋しか作ってませんし。 特徴的な形からすぐに場所と名前が判明しました。 周りの風景や橋の様子から間違いなく錦帯橋の建築に裾を捲り、尽力した事がございます。 歴史的には1673年なので、最初に設計した橋は、それよりも古い事に間違い無いですが、場所がよく分かりません。 記憶の限りでは、住吉神社の太鼓橋が幅も角度も良く似てますが、私の記憶では住吉神社の様に、風景に木々は麗く無く、自分でも何処だったか自信もありません。 ただ最初のヤツは住吉神社の太鼓橋に良く似てまして、 橋に階段があるのがどうしても嫌で、自分が教えた通りに作らなかったと怒った記憶もあるし、そもそも地上に長い時間居なかった時もあるから、任せっきりな部分も、 これに関しては橋の床が気に入らなかったなから記憶軽んじて調べない部分もあります。 ただ、もし仮に住吉神社だとしたら、 「神功天皇」と言う女帝に与えられた物らしく、またこの女帝は(特に悪気は無くただの呼称としてそう呼ぶ)"出雲王朝"の出自らしいから無関係でも無さそうですが。 無関係では無いと言えば無関係ではありませんね。 しかし風景がどうも違うから確信が持てない、、自分の記憶では木は一本もありませんでしたし。 でもまぁ、全部ひっくり返して今にしてみれば、結局は皆が意見を出して作った物だから、 皆が大切にし、自分が居なかった時も、 絶えず形そのものを残したり伝承したり見事なものです。 当時は雨風も知らず、夜中に来ても技術者が何で作業してないかも分からなかったり、変だとは思ってましたが、、 普通は夜寝ます、当たり前ですね😂 しかし、天候不順から橋に階段が付いてて良かったんだと思います。 滑ると痛いから。 出雲の様子に付いてですが、出雲族は極めて真面目で勤勉であり、独創性があって改良の要領もあって物を作るのが上手で、その歴史は国譲りの時からずーっとそうです。 神社仏閣の大半が、 彼らのマンパワーが無ければ建てられなかったと知ってます。国譲りの時からずっとです。 最初から彼らはそれらに関わってましたし、彼らのおかげでこの神社仏閣の文化が残ってる事を普通より、そこそこ知ってる筈です。 これは"自分が"と言うより、客観的に他人を評価してそうだと言えます。 そして、国津神が信仰対象であるから贔屓してる訳でもありません。 そもそも論として、大和だ出雲だどっちがと言う事は、歴史書を見てもよく分からないし、自分が関わった範囲で「この人たちは凄い」と思ってます。 実際に現世にモノがあるからそう言うしか無いです。 ただ自分が協力した範囲で、関係者を根掘り葉掘り調べたら結局は 出雲王朝から出雲族とか何とかがほとんどだった。 それだけの事です。 私は彼らが好きですよ。
@nihontaro9
@nihontaro9 10 ай бұрын
@@ufo-delta さん、 橋とは、階きざはしの梯子ですね。 階段がお気に召さなかったようですが、 天の橋立のように、縦にかけると天と地を繋ぐ柱となり、 横にかけると人と人をつなぐ架け橋の通路になる。 神武東征の国造り神話は、二度の物部東征と神功皇后の二韓征伐までの物語を一つに重ねて作れらた物語の様です。 二韓征伐が成功したことで、半島からの朝貢がなされ、その威を借りて大和入りを果たしているので、 何度も繰り返しで大和に東征が起きているようです。 出雲の人たちの勤勉さや真面目さは、歴史の出来事を事細かに記録した出雲の口伝の中にもよく表れています。 出雲から丹波と大和へ、そして伊勢へ、また山城へ、また武蔵各国から江戸へと移動した出雲の人たちは、 その地に定住した人も多かったようです。 自分も出雲王国ができたそもそもからの日本の歴史を調べるにつけ、ますます出雲の人たちが好きになっています。
@ufo-delta
@ufo-delta 10 ай бұрын
⁠@@nihontaro9 ​ はい。 まぁ、橋にそんな天地人と、深い意味は私は考えた事もなかったですね。 国造りに関しては不勉強でして、具体的に知らない事が多々ありますね、、神武東証と聞いても調べないと分からなかったりします。 ある程度研究してたら添削するまで認識出来るかも知れませんが、他の"分かる人"が突飛に現れて繋げてくれると楽観視してます。 その代わり、私は記憶頼りの説話なら話せます。 まぁた自分の話になって申し訳ないです。八咫烏と関係なくて、へへ。 因みに私は太鼓橋の開発者だから知ってますが、ウィキでは「太鼓橋はエジプトなど外国から伝わったが真偽は不明で証拠もない」とあるが、誤りです。 まぁ古代エジプトにもツラ出した事もあるし、現地人とも少し関わったから、完全に無関係とは言えませんが。橋とは別件だったから関係ないと思います。 古代エジプト人が長い歴史を通じて、移り住んでたら話は別ですが、見てないからそれは不明です。 しかし、確実に複数の天津神(霊人衆)から出雲直伝と言う形で、回りくどい事をせずある程度の技術も直接伝えられているはずです。 簡単な小道具から変な物まで。 そもそも口を聞こうと思えばチートみたいな事すれば出来るし、 何より「八咫烏」と得体の知れないモンスターを書き記す辺りが、 最早インチキ創作所の話では片付けられる訳も無く、わたしの記憶にも一致しますし。 現代人だと余りにも理解出来ないから海外伝来の文化とも学んでも良いのか、それは今や、それぞれ自由に信じたい方を取れば良いです。 特に西洋学だと不気味にしか見えないかも知れないし。 そもそも私は黒い3本足のカラスなんか見た事無いし、自分はそうじゃないです。 だから八咫烏ではありませんが。 太鼓橋に戻りますが、 階段を嫌ったのにはかなり個人的な理由が御座いまして。 これは旧出雲大社にあったものと同じで、基本的には牛の引く車が通る為に何度も改良してた記憶がありますから これを引き続きやるって作業に没頭しました。 だから太鼓橋も階段はダメだとしてました。 その代わり、人間が牛を引くか押せと言う仕組みです。 旧出雲大社の長いスロープも、社(頭部分)作る条件として、その場で作ってはならず、地上で組んだもの牛車に牽引させた物だけを乗せても良いって決まりがあったのです。 私が決まり事を作った本人だし、要求した記憶もありますな。 これは希望的観測ではなく、 「牛に引かせて登れ」って要求した記憶から言ってるだけですが。 コレは多分名前出ないから具体的に話します。 牛が牽引して登れるように出雲の連中に教えました。 旧出雲大社は、人が約束を付けず、登って組み立てたから崩れた。 これは現代人の知らない事ですが、自分もちょっと調べ直したら、やはり「何度か失敗してる」と物的証拠も上がってる様で、 何回か失敗してるの見た記憶も少しありますから現実と相違無しです。 旧出雲大社のスロープは、牛で牽引して登れた物だけを設置しても大丈夫な様に全て設計してたから、無闇に重すぎたりすると牛が疲れて登れない様に作ってたはずです。 これは口伝でも知らないと思われる。 まぁ今更知ってもって話ですが。 こんな時もありますわ。 そして、これはまた揉めるから言わない方が良いのか、人間には牛を食べる奴が居て、時々牛が足りない事があったと記憶してます。 記憶を元にwikiで調べると、日本の牛車は中国伝来とあるが、、疑問と言うか、個人的には否定。 いやでも牛に牽引させる車輪とかも、自分か、他の、俗に言う天照一派の誰がが伝えたと思います。 自分も簡単な作りを教えた記憶ありますから。 他人の行動は100%一心同体のシンクロって訳じゃなく、 それぞれの意思があって、確実にそうかは自信ないですけど。 主観です。 誰かが伝えてたら良いなぁと ただ自分以外に複数いた事は間違い無く、牛車は中国伝来では無いです、調べ直したらシュメール文明にも牽引車がありましたから。 そもそも牛は牽引させる為の者で、食う為に居たはずではありません。 また、牛を食う文化を持ち込んだのはハッキリ「弥生人である」と書いてるから、それを信ずるなら、 牛車を伝えたはずの弥生系が牛を食うのは、生活スタイルが矛盾してるし、説得力も無い事になりますから、この理で論ずるならば ウィキの牛車伝来説史は改ざんされた物です。 出雲族の真面目さならもっと良い物が先の時代にもあったはず、見てませんけどね。 あと知ってる事と言えば、 「神明造」の建物は、牛を一口も食った事無い者が入ると過ごしやすい。 コレは宮司だろうが口伝だろうが知るはずも無く、設計者本人だから知ってる事です。 形だけでは住めるし、居ても祟られたり無いですが、本当の意味で高天原(古事記風に言うなら)と心が通じる事は無い。 これは単に牛車が好きな私の一存で神明造りはそうなってると思います。 別にヒンドゥー教だからって訳でも無いです。作業に支障があって困ったから。 そんな感じです。 自分が記憶してる範囲では。 あとウィキには神明造は弥生伝来とあるが、これも間違いで、正式には国譲りの時からで、これも自然進化の物じゃないです。 「神明造は牛車と一対で、牛を食わない人が望ましい」ハッキリ言える人が今までずっと居なかったみたいですし、代わりに私が言っても問題ないから良いでしょう。 それでも細かい装飾とかは知らない事もあるからやはり、他の人の改造もかなり加わっててみんなで作ったと言うしかないです。 今日はたまたま、自分が来ただけで、自分以外の関係者が現世に現れると思うと、また違う式が言えるかも知れません。 例えば「何故、御扉は400年以上のヒノキであるか」など。 私はそんな理由を知らないから分からない事も当然あります。
@user-iy6no2ou6y
@user-iy6no2ou6y 11 ай бұрын
大神神社の摂社、大直禰子(おおたたねこ)神社に祀られている大田田根子(おおたたねこ)については存じていましたが、「大田タネヒコ」については知りませんでした。出雲市斐川町にある富神社社家富家の御分家とのこと。
@qpjvision
@qpjvision 11 ай бұрын
すごいです! いつも本当に勉強をさせて頂いております。 太田タネヒコは『太』の字を書き、大田田根子は『大』の字を書くのですね。 これは何か理由があるのでしょうか、、
@user-iy6no2ou6y
@user-iy6no2ou6y 11 ай бұрын
@@qpjvision さま 大田は単に大きい田であり、太田は立派な田という意味です。同じ意味かと思いますが、太田という場合、鉄分が豊富で、収穫量が多い田を意味しています。農政上「美田」に分類される田んぼです。
@qpjvision
@qpjvision 11 ай бұрын
『太田』にはそう言った意味があったのですね! 河川水系から農耕で発展した土地として、神武東征の際に神武天皇が滞在された広島にも『太田川』という川があります。 冠山を水源とする大規模水系ですが、神武天皇の東征が農耕を伝える旅だとすれば、広島に滞在したのも辻褄が合う気がします!
@user-iy6no2ou6y
@user-iy6no2ou6y 11 ай бұрын
@@qpjvision さま  ヤマトが出雲國を支配した際に、出雲大社とともに田を整備したと日本書紀に記載されています。ヤマト(天皇家)は版図を固める手段として、稲作を広めていったのではないでしょうか。
@qpjvision
@qpjvision 11 ай бұрын
そう言った経緯があったのかもしれませんね。 稲作と東征もまた面白い歴史がありそうです!
@suginamisatosan
@suginamisatosan 11 ай бұрын
八咫烏とは出雲を裏切って大和を畿内に引き入れた人物、または一族のこと…ってことですかね…(読み違いしてたらすんません) 記紀では何かを隠すような暗喩表現が多いですが、八咫烏は後の賀茂氏が裏切り者とされない為に作られた暗喩キャラなのかなーとか思ったり。
@nihontaro9
@nihontaro9 11 ай бұрын
@suginamisatosan様、 裏切ったという表現はある意味で正しいかもですが、それより、大和(日本)の発展に寄与した。とも言える気がします。 その手招きがあればこそ、ほぼ出雲色一色であった初期大和政権の体質が強化されて、 神武天の金鵄伝説がうまれ、現代までの正史とされる表の大和政権の発展にもつながったのかもしれませんね。
@user-hf1xv9ig7h
@user-hf1xv9ig7h 10 ай бұрын
神社の神様でよく出てくる大山積の命の神様ですかね?
@abutgame8287
@abutgame8287 11 ай бұрын
天つ神の御子→「天 掴みの ミコ」 ヤタガラス →「黄ザルのビーム足し 〇〇に」 リクボウ均衡オチは間に合っている。 「橿原も見てきた※上場二部もな」 カラスとマトリックス揉めも知っている 余っている連中もいるのも知っている。 作品関連も全て見ている 文献は「全て解読できる」 それで┗┫ ̄皿 ̄┣┛ 周辺に湧いたのか?
@user-bg2xs2hb1y
@user-bg2xs2hb1y 11 ай бұрын
八咫烏の巫女さん、Twitter上に3人いますね 秘密結社の人間も今の時代は差支えの無い範囲で表に出てきてますよ
@kamui88839
@kamui88839 11 ай бұрын
二人だけと思ってました 三人もでて要るんですね✨ あと1人って誰だろう? あやかさんかな?
@user-by3kt3sk4s
@user-by3kt3sk4s 4 ай бұрын
神武東征は、165年頃の代1次物部東征と246年頃の代2次東征を合わせたものです。1次の時、物部五瀬司令官が名草山の戦いで死亡。代わりに弟ウマシマジ(実名は稲飯又は三毛野のどちらか)が熊野川上陸を図る。この時に登美家の分家・大田田根彦は本家への対抗心もあり、ヤマトを治める勢力は物部しかいないと考えてウマシマジを道案内役をした。それで物部の祖国のシナ伝承にあるヤタガラスと称した。また神武なる者は全ったくカクウの人で、初代天皇とするならば、海村雲大王がふさわしいでしょう。bc2世紀の人です。真実の歴史は権力者の都合で奈良時代の書物では、隠蔽されました。
@user-yv1hz2il8x
@user-yv1hz2il8x 11 ай бұрын
熊野三山(熊野大社、速玉大社、那智大社)の御本尊は八咫烏で、三本足は三氏族を表しており、中の足は鈴木一族であると書かれてましたが?
@zeitgeistzeku
@zeitgeistzeku 11 ай бұрын
わかりやすい解説ありがとうございます。ところで、阿遅志貴高日子根神は、この文脈でどのような位置におられると解釈されますか?
@qpjvision
@qpjvision 11 ай бұрын
有名な喪屋切りの話ですね。 アヂスキタカヒコネノカミは出雲族と決別していましたよね。 神武天皇や卑弥呼同様、八咫烏は複数人居たと考えています。 大和の賀茂一族は大和を去ったのちに、京都と岐阜に流れていますが、賀茂の地に流れた一族は賀茂建角身命を、岐阜に流れた一族は、阿遅志貴高日子根神を八咫烏としています。 賀茂建角身命(大田田根子)は、野心から大和建国に協力した、 阿遅志貴高日子根神は事代主の兄であったと言われていますが、出雲族と決別し、大和建国に協力した、 と考えれば、出雲出身でありながら大和についたという点は共通します。 しかし、葛木山に降臨した八咫烏が賀茂建角身命であり、その葛木山の高鴨、中鴨、下鴨の祖神が阿遅志貴高日子根であり、八咫烏とすれば、時系列的に時差が生まれますね。 【祖神】高鴨、中鴨、下鴨→阿遅志貴高日子根→美濃賀茂(岐阜) 【子孫】上賀茂、下鴨→賀茂建角身命→賀茂(京都) 神武東征(物部東征)は2回あった(第一次物部東征:五瀬命、日高狭野etc、第二次物部東征:仲哀天皇、神功皇后、卑弥呼etc)ので、それぞれに、出雲出身の八咫烏という協力者がいたとも考えられますね。
@zeitgeistzeku
@zeitgeistzeku 11 ай бұрын
@@qpjvision ありがとうございます。つまり出雲口伝で語られる物部東征とつながるわけですね。逆に、アヂスキタカヒコネは、アメノワカヒコと同一人物で、海部氏に協力したとは考えられないでしょうか?
@user-en3lj1eq1x
@user-en3lj1eq1x 5 ай бұрын
スサノオの神様の御子息の方ですね。熊野本宮大社がそうです。
@Exley_TheUnnatural
@Exley_TheUnnatural 3 ай бұрын
島根県に大田市(おおだし)多根町があります。何か繋がりがあるのでしょうか?
@user-rk1cd4ob6e
@user-rk1cd4ob6e 6 ай бұрын
大田田根子って、時代的に崇神天皇が探し出して、杵築神社から出雲大社を作って祭ったって話じゃないんですかね?祭祀、天乃鳥船神→11代出雲振根の弟って思ってたのですが。神武天皇と話がかぶってる部分あるんですよね。
@hanahana5369
@hanahana5369 11 ай бұрын
八咫烏は今も日本に飛来しているクロハゲワシかと思うのですがいかがでしょう。
@user-ed7kk9mu7p
@user-ed7kk9mu7p 8 ай бұрын
正解です。カモ氏=八咫烏=事代主=エビス=エブス=イビシ シュメールの神 ユダヤの前にカナンに住んでいた人でユダヤ人に追い出されて日本にやって来た人達です
@user-mi9tq5zk5j
@user-mi9tq5zk5j 5 ай бұрын
おおたたねひこは裏切り者だったんでしょうか…
@arktj8848
@arktj8848 10 ай бұрын
BGMが大きすぎてナレーションが聞こえづらいです。内容が素晴らしいのにもったいない。
@socks_cat356
@socks_cat356 11 ай бұрын
天皇家の守護集団、アサシン
@kzn3720
@kzn3720 10 ай бұрын
まちがってる!
@koko-oi1dk
@koko-oi1dk 11 ай бұрын
本家に対して対抗心?野心家。何に書いてあるの?
@familmr.
@familmr. 11 ай бұрын
山城国風土記の逸文ですよね。 山城国風土記は現存せず、出雲国風土記などの古文書に引用文として記されています。 賀茂建角身命と賀茂別雷神との違いはお分かりでしょうか? 或いは、 富家と、登美家の違い、 それらをご存知であればと思いました。
@Mihashira-no-uzunomiko
@Mihashira-no-uzunomiko 11 ай бұрын
@@familmr. この辺りの話は面白いですよね!
@nihontaro9
@nihontaro9 11 ай бұрын
@koko-oi1dk様、 出雲の本家富家に対する心情については、 賀茂族の太田氏について、大元出版ー伝承の日本史ーにも結構詳しく掲載されています。
@teknos882
@teknos882 11 ай бұрын
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