ジジェクが、『LESS THAN NOTHING, 2012』で次のように言ってることがわかりやすいかもしれないですね。「ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」というのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。」 言語によって話されているというのは、言い換えれば、私は大他者が欲望するものを欲望する、さらに言えば、私は(大他者である言葉を共有していると思っている)小文字の他者(鏡像的関係を結ぶ想像的他者)が欲望するものを欲望するともいえるんじゃないですかね。