【死んでいなかった!】有名武将の生存説は本当?逃げ落ち延びていた?戦国時代の歴史解説

  Рет қаралды 53,060

【歴史入門】戦国雑記帳

【歴史入門】戦国雑記帳

Күн бұрын

Пікірлер: 54
@sengokuzakki
@sengokuzakki Жыл бұрын
ご覧いただきありがとうございます。 生存説、ロマンがありますね。 真実をご存知の方、是非、コメントください! 本日から夏休み。沢山の視聴者さんが名古屋城に来て頂いています。 是非、夏の旅行は名古屋城へお越しください!
@kaburimet
@kaburimet Жыл бұрын
生存説には有名な源義経東北→蝦夷(北海道)を経てチンギスハンになった説が昔大流行りしましたが、最近色々研究が進み、いくつかの謎が出てきていますね。その一つ義経の首級と胴体の謎ですね。首級は鎌倉腰越に届けられ、後に藤沢の白旗明神に埋葬されたのに対して胴体は奥州の現宮城県栗原市栗駒沼倉にある『判官森』という場所に埋葬されたが、これは自害した『高館』からわざわざ10数キロ離れていた事で、実はこの『判官森』辺りを治めていた奥州藤原氏の家臣『沼倉小次郎高次』という人がいて、その実弟『杉目太郎行信(すぎのめたろうよしのぶ)』という当時義経と年齢が近く、見た目が似ていたので、義経を逃す為にわざわざ『高館』で自害をし、その遺骸を実兄が改めて埋葬したという言い伝えがあるそうですね。また有名な『吾妻鏡』に義経の『首級』はなぜか一月近くかかって運ばれ、後に首実験を行った和田義盛や梶原景時等があまりの腐乱気味に『多分判官殿だろう』と判断し、頼朝自身もあまり確認しなかった』と残されているそうです。だから実は頼朝も「わざと到着を遅らせ、できれば弟が身代わりを立てて逃げてくれる様に」と願っていて『本人かどうかはどうでも良かった』のではないかという事でしたね。ただ、義経のものとされる『首級』を前にした時にみんな涙を流したという事も書かれており、実は彼の偉業と残念な結果となった事を悲しんだのでは?とも言われていたそうですね。
@世界のこみやん
@世界のこみやん Жыл бұрын
お頼み申されたので登録しました!これからも楽しみにしてます!!
@森ひろゆき
@森ひろゆき Жыл бұрын
楽しく拝見させていただいてます。私の地方では、武田氏の家臣が落武者として、土着しております。裏付けは、私の菩提寺の史書に武田勝頼の名前や恵林寺の住職の名前そして、宗派が同じなので、わかりました、その家臣の末裔は、うちの近くにたくさんいます。後に渋沢栄一と共に地域の発展に活躍しています。動画楽しく拝見させてもらってます。今後も楽しみにしています。頑張ってください。武田家臣の末裔に関わる文献もたくさん上げてください。
@栄光-j4o
@栄光-j4o Жыл бұрын
ロマンですね いろんな動画見て余計にそう思った^ ^楽しかったです
@天下人-r5p
@天下人-r5p Жыл бұрын
確か秀頼らしきグビの骨が大阪城のとこから最近見つかったんだよね
@明石則実
@明石則実 Жыл бұрын
なんだグビの骨って☠️
@天下人-r5p
@天下人-r5p Жыл бұрын
@@明石則実 首だった
@hiro0164as
@hiro0164as Жыл бұрын
面白いです~
@うみんこ
@うみんこ Жыл бұрын
この中に私のご先祖様が居ましたが。 正史を含めて果たしてどれが真実なのか。 興味深いな。 ロマンだな。
@ラッチパパ-r2m
@ラッチパパ-r2m Жыл бұрын
光秀の話は有名ですね。実は天海僧正と名前を変え、家康を支えたって説が1番有名ですね。 確か用心深くて親しい人としか2人で会わないと言われていた家康が、天海僧正が関ヶ原の前に尋ねてきた時に、2人だけにしてくれと家臣に言って、家康が楽しそうに会話していたのを家臣が不思議に思ったって話もありますからね。 幸村と秀頼が生きていた説も薩摩地方で、手毬歌で残っていると聞いた事あります。後は天草四郎が実は秀頼の子孫であったって話もありました。
@ストリートケーキ
@ストリートケーキ Жыл бұрын
個人的には信長公ヨーロッパ生存説推したいかな〜
@角谷杏-c4e
@角谷杏-c4e Жыл бұрын
いわゆる地域興しの一環で「あの武将様が生きてオラが村で過ごした」と騙ったのもありそうですが、徳川家康を神格化するにあたって幕府が敵対した武将は無惨な最期を遂げたと吹聴した可能性もありますね。 歴史には御法度かもしれませんが生存説には浪漫があって面白いですね。
@bluewater5239
@bluewater5239 Жыл бұрын
光秀の生存説ば有名で、山崎で打たれた光秀の首って首実験では腐敗し過ぎて本人確認ができなかったらしいですね?しかも家康が深く関わってらしく、、あの東照宮の北側に明智平があるのがその説が真実味があります。
@大伴遼
@大伴遼 Жыл бұрын
悲運の武将の生存説と言えば義経公が先輩ですかね😅大陸に渡って成吉思汗になったなんて壮大な展開もありました。光秀様=天海説も根強いですな。
@柳谷慈彦
@柳谷慈彦 Жыл бұрын
義経がジンギスカンになった説、確かに壮大ですね!実際にモンゴルに「日本国、源義経乃墓」なんて刻まれた石碑があると俺が高校の時に見聞きしたんです。ジンギスカンになったかどうかは別にして。それと、日本に馬に乗りながら弓矢で的を射る「流鏑馬」があるようにモンゴルにも全く同じ「ヤブサメル」があるそうなんです。もしかして義経が?長文失礼。
@ふみふみ-k6w
@ふみふみ-k6w Жыл бұрын
生存説で一番ぶっ飛んでるのはやっぱり義経=チンギス・ハン説かな
@柳谷慈彦
@柳谷慈彦 Жыл бұрын
後、俺の故郷の青森県にあるイエス・キリストの墓というか、キリストが青森県まで逃亡して人生を全うしたという生存説も同じ位ぶっ飛んでると思います。
@shortarrowsnark1472
@shortarrowsnark1472 Жыл бұрын
秀吉がしんだ頃には明智光秀70歳前後
@高橋由美子-d4j
@高橋由美子-d4j Жыл бұрын
歴史はロマンだね👍😆
@真小久保
@真小久保 Жыл бұрын
なんか... 生き残ってた方が切ない。
@田中一郎-h7q
@田中一郎-h7q Жыл бұрын
昔は今と違って画像も映像もないから死んだといわれてる人がどこかで生きてもわからないだろうから死んだ人の生存なんてことはあったのではないかと思ったりします。
@真小久保
@真小久保 Жыл бұрын
巨漢の秀頼と小男の信繁。 向日葵と小鬼?
@田中徳和-n9q
@田中徳和-n9q Жыл бұрын
豊臣秀頼公のお子様の国松君が一時島津家が預かり後に日出藩木下家が引き取り後に五千石の旗本になったと日出藩木下家の藩主の子孫の方が歴史群像の豊臣秀吉公の本で語っていましたけどね🙇多分秀頼公も生存してもおかしくないと思いますよ🙇
@吉村兼庚
@吉村兼庚 Жыл бұрын
安芸武田は正確には生きてます。安国寺恵瓊は元々は安芸武田家です。
@deepgeepkorosan5560
@deepgeepkorosan5560 Жыл бұрын
ロマンありますね~。 後年、西軍で敗走した薩摩や長州が倒幕するんだから、秀頼公が薩摩に逃れていたというのはあるかもしれませんね。 積年の恨みを数百年後に返してる。 はぁー、、、、考えただけで眠たくなります(笑)
@Emily-zs5yq
@Emily-zs5yq Жыл бұрын
勝頼が生きていて関ヶ原に参戦したら面白い
@あきのふ
@あきのふ Жыл бұрын
名古屋城近いから動画みたらまた行きとうなるでよ。
@king.g7172
@king.g7172 Жыл бұрын
光秀の溺死説は初めて聞いたw
@kaburimet
@kaburimet Жыл бұрын
明智光秀は山崎の合戦の際に、重臣に身代わりをしてもらい、美濃国にあたる岐阜辺りで身代わりをした『荒深』を名乗って助けられたから最後まで過ごしたという記録があるのは凄い事ですね。お墓もあるそうなので昔からの縁があった事もあり、かなりの存在感だったのでしょうね。色んな説があるけど大概にしてみんな『改名』をするのは共通しているんですね。やっぱりそのままというのは破れた者としての恥もあったかも知れないけれど、それ以上に『生きよう!』とする想いが強かったのでしょうね。
@realu6333
@realu6333 Жыл бұрын
どうする家康との光秀とは全然違うのう…、、
@那須宗一-u9l
@那須宗一-u9l Жыл бұрын
土佐藩の板垣退助は武田宿老の板垣信方の子孫だからな😮
@ヒラメヒラメ-p6l
@ヒラメヒラメ-p6l Жыл бұрын
「何で登録してくれんのじゃ〜!?」動画の最後のこのコーナー、やみつきになりますな!!
@grapehunt
@grapehunt Жыл бұрын
勝頼が土佐に逃げた生存説は聞いたことありましたが、ここまで本格的な伝説が残ってるとは思っていませんでした
@fieldl4783
@fieldl4783 Жыл бұрын
ずっと思ってたんですが後藤基次さんって和田一浩さんに似てません?
@石橋展通
@石橋展通 Ай бұрын
光秀=天海説なんてのもありますよね。
@海上-w5q
@海上-w5q Жыл бұрын
秀頼様は、史実どおりの体なら身長190センチ体重160キロの超大きい人だったらしいので、逃げる事が出来たなら秀頼様じゃなくて、その子の国松様じゃないかな?と思います。
@bluewater5239
@bluewater5239 Жыл бұрын
国松は斬首されたと伝えられてますが、、表向きで実は生きていた(助けられた)らしいです。
@キミ-s4z
@キミ-s4z Жыл бұрын
家康より、ガラシャさんを救って欲しかった。
@ジャックスミス-x2r
@ジャックスミス-x2r Жыл бұрын
勝頼の話は四国では割りと有名だよね。
@風魔忍者ぶきみ丸
@風魔忍者ぶきみ丸 5 ай бұрын
仁淀に伝わる不思議な話🎵 大崎玄蕃と云う人は🎵 実は武田勝頼で🎵 死なずに土佐に落ち延びた🎵 勝頼の母方の祖父、諏訪頼重に仕えた忍び集団と、長宗我部氏に仕えた一領具足は同族だった。そもそも、長宗我部氏は秦氏で、先祖は諏訪の地に暮らしていたのです。秦氏が土佐に移り住んだ時、諏訪の忍びの半数が共に付いて行ったとか。
@長谷川良行-w2e
@長谷川良行-w2e Жыл бұрын
本能寺の変が全てヤラセだったら信長、長男信忠、光秀、皆生きていて何処かへ❗️
@松本壮馬-m2f
@松本壮馬-m2f Жыл бұрын
明智光秀が八咫烏の一員説。
@源十朗
@源十朗 Жыл бұрын
こういったのはある種のロマンを感じる
@祭りおバカ
@祭りおバカ Жыл бұрын
テレビ朝日で戦国武将人気ランキングやってましたね やっぱ地元武将に頑張って欲しいんでしょうね!
@de_mysteriis_dom_sathanas666
@de_mysteriis_dom_sathanas666 Жыл бұрын
僕の地元・北海道には源義経公の伝説がありますがこういう生存伝説はロマンがありますね…!個人的に武田勝頼公がすごく好きなので生きていてくれていれば…って思います笑
@風星-z8i
@風星-z8i Жыл бұрын
以前、テレビで放送されたのですが秀頼は薩摩に渡り、男子をもうける。 その子が後に島原に渡り、天草四郎となったという内容でした。 飛び過ぎてる感じもしますが本当であれば…。
@akindo70
@akindo70 Жыл бұрын
土佐に勝頼?! 光秀の手引き!?
@mtjapwgjdajm
@mtjapwgjdajm 3 ай бұрын
国松と秀頼会う…気持ちはわかるが国松の最期を思えばそっとしておくべきではなかったか…
@blackclover6771
@blackclover6771 Жыл бұрын
秀頼の息子が天草四郎だった説もありますね
@きな-x4z
@きな-x4z 7 ай бұрын
すげー 教科書に載ってないことばかりだ
@川内よしき
@川内よしき Жыл бұрын
いつチンギス・ハンになるんや?笑
【三国志】実は全く対等ではなかった魏呉蜀の戦力差
22:18
史記・三国志の世界
Рет қаралды 232 М.
小丑女COCO的审判。#天使 #小丑 #超人不会飞
00:53
超人不会飞
Рет қаралды 16 МЛН
She made herself an ear of corn from his marmalade candies🌽🌽🌽
00:38
Valja & Maxim Family
Рет қаралды 18 МЛН
VIP ACCESS
00:47
Natan por Aí
Рет қаралды 30 МЛН
豊臣秀頼〇〇父親説5選
16:59
歴史じっくり紀行
Рет қаралды 9 М.
【ゆっくり解説】ついに解明か?宣教師が証言した『本能寺の変』の真実がヤバい…
19:08
いとをかし日本の歴史【ゆっくり解説】
Рет қаралды 263 М.
戦国時代の合戦の費用ってどれくらい?
11:37
歴史の細道
Рет қаралды 59 М.
小丑女COCO的审判。#天使 #小丑 #超人不会飞
00:53
超人不会飞
Рет қаралды 16 МЛН