【時刻表新旧比較】1940年10月稚内駅宗谷本線 JAPAN WAKKANAI station; SOYA LINE time table 1940

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Күн бұрын

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@こちたんぱぱ
@こちたんぱぱ 10 ай бұрын
札幌止まりでも旭川止まりでもなく、釧路行きや網走行きでもなく、稚内桟橋行きがエースナンバーを着けていたことから、戦前の日本であることを強く感じさせますね。大泊航路でしたっけ?南樺太へ繋がっていたのは…。 祖父は陸軍に徴兵され、終戦後に起きた樺太での対ソ戦を経験したそうです。
@hc-ir2dr
@hc-ir2dr 10 ай бұрын
稚泊航路(ちはくこうろ)です。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 10 ай бұрын
それはお祖父さまは大変な経験をなさったのですね。終戦直後の対ソ戦は、旧ソ連の一方的な条約違反で始まったものなので、どこも悲惨そのもの(そもそも戦う準備ができていないところもあった)だったようですので。それでも樺太と千島の占守島での奮闘により、北海道まで攻め込まれずに済んだことは、当時の日本軍のおかげです。
@tetsu0804
@tetsu0804 10 ай бұрын
北海道の広大さがわかる1940年。まだ鉄道としての役目を果たしていた昭和末期。高速化を推進していた2000年代前半。もう無理と半分投げ出した現在。
@TO-ox7rh
@TO-ox7rh 10 ай бұрын
編集ありがとうございます。ここでも昔は優等列車が多いですね。夜行列車も!寝台車に乗ってみたかったですねえ。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 10 ай бұрын
いつもありがとうございます。 25年前に急行の宗谷号で向かった稚内の駅、宗谷岬やサロベツ原野を思い出しました。 1940年の時刻表に出てくる稚内桟橋駅のドームも残っていて歴史の重みを感じたものです。 戦前は列車本数は少なくとも樺太への重要な足として2等寝台車を繋いだ急行が走るなど重要視されていたことが良く分かります。 戦後の観光ブームの頃は臨時の夜行列車まで設定されていたのに今や本数は数えるほどに。しかも曜日によっては旭川からの終列車が13時半と言うことも。札幌への日帰りビジネスですら鉄道が使えなくなる時代が来るとは思いませんでした。
@tomoyankun
@tomoyankun 10 ай бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 2000年前後はまだまだ選択肢が多く、楽しい時代でしたね。 道内の移動ですら、難しい状況になってしまいました。道内の移動のシェアは高速バスが獲得していっている現状がわかりますね。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 10 ай бұрын
@@tomoyankun さま その高速バスも運転される方の減少で路線が廃止されるところも近年増えてきましたね。 鉄道と路線バスの並行する路線では役割を切り分け、バスを鉄道のフィーダーとする必要が出てくるのかもしれません。 それ以前に自家用車が利用されていることを考えると公共交通そのもののあり方が問われる時代に直面しているものと思います。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 10 ай бұрын
宗谷本線の衰退がなぜなのか疑問でしたが、調べてみるとここも高速バスの影響が大きいようです。 といっても、どうやら高速利用は札幌~深川あたりまでで、そこからは国道で留萌に出てさらに別の国道を北上して稚内に行くようです。1日昼行5往復、夜行2往復で昼行便で5時間50分程度で、片道. 大人:6,700円 · 往復. 大人:12,200円です。 特急宗谷よりは多少遅いのですが、特急利用の4割引くらいなので、これだと客がバスに流れても仕方ないかもしれません。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 10 ай бұрын
おそらく直線距離及び線形を考慮すれば、札幌~稚内は深川から留萌本線、留萌から幌延まで羽幌線、幌延から稚内が宗谷本線の方が、札幌~(函館本線)~旭川~(宗谷本線)~稚内よりも速いのでしょう。 確か、昭和30-40年代頃にこのルートで走る急行はぼろ(但し幌延止まり)があり、幌延乗り換えで稚内に行けば、そちらが宗谷本線経由の急行よりも速いことが問題になったらしく、このルートを使いにくくしたりして廃止してしまったそうですが。 そして、羽幌線は廃止され、留萌本線もまもなく廃止。どうもこのあたりが国鉄・JRの判断ミスだったような気がします。(もっとも、このルートが中心だと、旭川~稚内は別ルート扱いになるので、採算性の問題があったのかもしれませんが。)
@SA-ey9md
@SA-ey9md 10 ай бұрын
ご無沙汰しています。 列車の時刻表に日本の歴史が垣間見れるのも 感慨深いものですね (編集いつもお疲れ様です🍵)
@tomoyankun
@tomoyankun 10 ай бұрын
お久しぶりです。 いつもご視聴とコメントありがとうございます。 それぞれの時代に人の動きがあり、その動きに合わせて鉄道時刻表も作成されていますね。歴史書だけではわからない、当時の人たちの生活を想像することができることが、時刻表のこれ以上ない魅力ですね。
@ron1192ron
@ron1192ron 10 ай бұрын
去年の夏に稚内に行きました。天北線はもう無かったですね。1度乗ってみたかったです。
@vfcfha
@vfcfha 10 ай бұрын
1940年当時は、樺太へ行く船があった為か函館に行く列車が3本もあったんですね。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 10 ай бұрын
解説文を見ると15時50分発は小樽行きのような気がするのですが、、しかも22時過ぎに出る夜行急行の小樽着は1時間半の差に縮まっています。 普通列車とはいえその当時で稚内から小樽まで16時間と言うのも北海道の広さを物語りますね。
@tomoyankun
@tomoyankun 10 ай бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 申し訳ありません、行き先が函館ゆきのままで訂正ができておりませんでした。 15時50分発の列車の行き先は「小樽」です。概要分に訂正文を記載いたしました。 それでも稚内から函館まで行く列車が2本あるというのも驚きですね。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 10 ай бұрын
​@@tomoyankunさま すみませんでした。訂正していただきありがとうございます。 小樽はこの頃は北海道の玄関口の一つ、さらには主要な都市として発展を遂げていました。21世紀初めまでは日銀の支店などもありました。
@ksrse30
@ksrse30 10 ай бұрын
当時は活気があったんですね。この文字列ながめているだけでも懐かしくなります。😢
@さくらいじゅんじ
@さくらいじゅんじ 10 ай бұрын
急行「利尻」で早朝に到着。駅構内の立ち食い蕎麦屋さんで軽く朝食をとり始発のバスで宗谷岬へ…2月マイナス20℃の風が頬に当たり痛かった記憶があります。
@tetsu0804
@tetsu0804 10 ай бұрын
あの天かすのかたまりが冬の早朝の寒さには、最高に効きます。自分はそばを食べたあとで、あさイチの「スーパー宗谷」で引き返します。
@さくらいじゅんじ
@さくらいじゅんじ 10 ай бұрын
@@tetsu0804 さん 私はもう30年以上前の話なので天カスがいっぱい入っていた記憶は消えてしまっているのですが(汗)駅が見える線路東側にあった宿と、ノシャップ岬に向かう道路沿いの旅館に宿泊しました。当時はまだ急行「利尻」「宗谷」「天北」「礼文」の時代でした。
@ぴーまん-j2p
@ぴーまん-j2p 10 ай бұрын
天北線の廃止が通ったのは、沿線にホタテ漁があったため。 線路の廃止で株が下がるわけでもないし、ベンツとかポルシェ持ちがゴロゴロいた。 赤字線廃止の云々より、北海道のみならず、日本のローカルを再起させることに注力するべきだ。
@minakatamanabu7413
@minakatamanabu7413 10 ай бұрын
祖父が部下を連れて仕事で樺太の半田(日ソ国境の町)まで行った時に往復乗った(祖母の話から推測するとマロネ38の個室みたいです)函館ー稚内間の通称「樺太急行」が出ていますね・・・ダイヤは後の「利尻」と同じですね。
@小野文秀
@小野文秀 10 ай бұрын
何かと忙しくて、今見ました。 遅くなって申し訳ない。 今回は最北端ですか。 何気に動画の中でも、宗谷本線の路線って、私結構好きなんです。 車窓からの眺めを、何も考えず見れるって、ゆっくりした時を過ごせる気がしてね。 今回もいい旅をさせてもらいました。
@味噌汁のきらめき
@味噌汁のきらめき 10 ай бұрын
動画お疲れ様です。 稚内は樺太連絡が有った戦前は最優先された路線でしたが、戦後は完全にローカル本線となった路線というイメージです。
@tomoyankun
@tomoyankun 10 ай бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 現在の姿はさみしさの強いものになってしまいましたが、それぞれの時代の時刻表を見ていくと、状況の変化に伴う役割の変化がわかりますね。
@lawson4675
@lawson4675 8 ай бұрын
昔の稚内駅はめちゃくちゃ賑やかだったんだろうな🤔 今年の2月に初めて稚内駅行ったけど天北線も寝台特急も無くて寂しいな…
@くろぶん
@くろぶん 10 ай бұрын
宗谷本線は一度乗ったら病みつきになります。 また乗りたいです。
@鵺屋敷の管理人鵺太郎
@鵺屋敷の管理人鵺太郎 10 ай бұрын
NHKのブラタモリと言う番組で稚内を紹介していました。稚泊航路の連絡駅「稚内桟橋駅」の遺構も出て来ました。 戦前は稚内から樺太の大泊まで連絡船が運行されていた。 1986年11月の国鉄最後のダイヤ改正でも急行「宗谷」号は特急に格上げされてなかった。 天北号、利尻号も健在だった。 分割民営化されJR北海道になってから、経営が厳しいのか本数削減で、宗谷本線自体の存続も厳しいと耳にしています。
@SA-zv5ze
@SA-zv5ze 10 ай бұрын
1986年頃は通勤通学で利用できる路線だったのね…
@tomoyankun
@tomoyankun 10 ай бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 沿線人口が減少していく中で、徐々に厳しい状況になっていったことがわかりますね。
@siosaijuggler
@siosaijuggler 10 ай бұрын
戦前は樺太に行くための重要な駅でした 自分も50年前に稚内に行った記憶がありますが駅前のビルにある食堂で1杯500円のかつ丼を食べた記憶があります その頃はまだ宗谷岬に向かう観光客で少しは賑わっていましたが現在は風前の灯ですね・・・ 特急が3本あるのですが普通列車も4本・・・廃止の論議が出るのも仕方ないことだと思いますがぜひ残ってほしい路線です
@m.4856
@m.4856 10 ай бұрын
宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」で、決戦非常措置要綱が施行されたのちの「第一種急行」1列車稚内桟橋行に乗車したことを記している、その急行1列車ですねぇ 内地では「燕」に割り当てられていたはずの1列車が冠せられているのはこの当時の北海道庁の鉄道行政が内地のそれと全く分離していたことを示しており、この当時の民衆意識における北海道を考えると非常に興味深いです
@spy007ex4
@spy007ex4 10 ай бұрын
急行「宗谷」と言うと、初めて買った時刻表では函館を11時45分頃に出発して23時前に稚内に到着するイメージが強かったです。 稚内周辺には利尻島・礼文島という観光地もあるのですが、バスで稚内まで行ってそこからフェリー、もしくは札幌(新千歳、丘珠)から利尻島への直行便もあり、宗谷本線を利用する観光客は減ってるんですよね。
@ELTHTARIA
@ELTHTARIA 10 ай бұрын
普通函館行き ほぼ丸一日、車両・厳冬期などによっては苦行とも言える強敵(とも)に挑みたかった。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 10 ай бұрын
質問ですが、列車番号1の急行稚内桟橋行の始発は函館ですね?その急行のルートは列車番号2と同じでしょうか?
@hc-ir2dr
@hc-ir2dr 10 ай бұрын
天北線が北見線だった時代は、北見市に行かない北見線と呼ばれたのでしょうか。 ただし、最初の時刻表の1940年当時、北見市は野付牛町でしたが。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 10 ай бұрын
少なくとも明治の頃は、今のオホーツク海沿岸地域のうち、稚内以東から知床半島西側までの広い区域を「北見国」と呼んでいたので、そのことを指しているのであり、実際には(南)稚内~浜頓別~音威子府間の天北線を北見線と呼んでいたのでしょう。 なお、興浜線(浜頓別~興部。最終的には北見枝幸~雄武間は未成のまま、廃止。)も北見線(この場合、いずれかが支線になる)と称する予定だったのかもしれませんが、そのような資料は検索できませんでした。
@exp.m.k.2300
@exp.m.k.2300 10 ай бұрын
個人的には以前あげていただいた昭和39年が一番活気があったような気がします...
@城東貨物の撮り鉄しゃねるん
@城東貨物の撮り鉄しゃねるん 10 ай бұрын
リクエスト 廃止直前の急行かすがをしていただきたいです!
@ybb-papa
@ybb-papa 10 ай бұрын
21日に行く予定ですが、出発日(20日)地元の予想最高気温が21℃。21日の稚内の最低気温、-10℃。何着ていけばいいのやら。
@sagradafamilia705
@sagradafamilia705 10 ай бұрын
北見線って、天北線ですかね?
@KaronNO-ct9sh
@KaronNO-ct9sh 8 ай бұрын
樺太まで行けんかった時点できつかったんかな、どうなんやろ
@yaji__6
@yaji__6 10 ай бұрын
やっぱり西○寺さんの為にも、残して欲しいです
@ごにょごにょ-i8w
@ごにょごにょ-i8w 10 ай бұрын
なぁに、樺太をロシアから取り返せばまた活気が戻るさ(不適切発言) もう少し穏当なところだと、鉄道好きとして知られる将棋の藤井聡太八冠が乗ってみたいのが宗谷本線だそうなので、ぜひ稚内でタイトル戦を開催していただければ。 ファンのお金持ちのマダムも大挙してやってくるぞ!
@kataakeo7730
@kataakeo7730 10 ай бұрын
取り返す方法はいろいろあるので、必ずしも不適切とまでは言えないと思います。
@つるゆき-p4o
@つるゆき-p4o 10 ай бұрын
北海道の現在の路線を見ると本当にスッカスッカなんだよな。 最終的には北海道新幹線と札幌から旭川と札幌から室蘭と札幌から小樽と札幌からあいの里教育大しか残らない様な気がする。 ただあいの里教育大もビミョーだけど。
@prc148mbitr
@prc148mbitr 10 ай бұрын
そのうちバスと簡易軌道だけになったりして(んなわけないか😅)
@user-cl1kx3zd4
@user-cl1kx3zd4 10 ай бұрын
鬼滅の無限列車の方が本数多いって話題になってたね
@チョンネル桜
@チョンネル桜 10 ай бұрын
2002年8月4332D、減便になる前までよく利用しました、この列車に乗ると秘境駅の抜海駅訪問するのが便利でした。2時間も滞在でき16時半に設定されている稚内行きで南稚内まで戻りそこからスーパー宗谷4号に接続し終点の札幌では急行はまなすに接続するというだけでこの4332D普通列車を神のような存在で見ていましたw 現在はさみしくなりましたが宗谷本線そのものを存続させて欲しいと願うばかりです
@中央特快大月
@中央特快大月 10 ай бұрын
歴史ある本線を国体の維持のためにもこれからも残してほしい
@fkttkys
@fkttkys 10 ай бұрын
これよく「有事に備えて路線維持を!」って言う人いるけど、言うて北方で事変があったところで宗谷本線を使うかな? 稚内まで高速道路を通した方が人員も物資も迅速に送達できるでしょ。今の路線も貨物走れる強度かわかんないし
@tomoyankun
@tomoyankun 10 ай бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 個人的には、鉄道路線が少しずつ消えてしまうのはさみしいなと思ってしまいます。 しかし人口が今後大きく減少する中、道路と比較し維持コストの高い鉄道。「本線」といえども存続の危機を迎える時代がやってくるのでしょうね。
@春葛
@春葛 10 ай бұрын
ま、乗らないのに残せとはよく言うわな
@憲法24条の会
@憲法24条の会 10 ай бұрын
@@fkttkys ロシアと国交がいよいよ断絶しそうでいつ露軍が上陸してくるかわからない、だから稚内の市民を一刻も早く南へ逃さなきゃとなった時、一番一度にたくさん効率よく人を運べるのはやっぱり鉄道だよ 高速道路を使ってマイカーで逃げてくださいとやると、運転してる人の心理的なパニックも相まって渋滞になる
@城東貨物の撮り鉄しゃねるん
@城東貨物の撮り鉄しゃねるん 10 ай бұрын
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