【特急第1こだま】時刻表の旅 1964年9月 東京→博多

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ともやん君TV 時刻表研究チャンネル

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Күн бұрын

1964年9月ダイヤの時刻表をもとに、
動画内で再び「特急第1こだま」を走らせてみました。
実際に乗車している時の風景はありませんが、
乗車している時に入ってくるであろう情報をお届けしています。
当時の雰囲気を味わうための参考としていただければ幸いです。
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お借りしたBGM
フリーBGM DOVA-SYNDROME
ワスレナグサ/作(編)曲 : まんぼう二等兵 様
「木漏れ日」/作(編)曲 : もっぴーさうんど 様
「雪空」/作(編)曲 : もっぴーさうんど 様
「神隠しの真相」/作(編)曲:しゃろう 様
#国鉄 #鉄道 #昭和39年 #日本国有鉄道 #発車時刻表 #時刻表 #東海道本線 #東京駅 #こだま #過去鉄

Пікірлер: 315
@ykunisan4400
@ykunisan4400 Жыл бұрын
黒澤明監督の天国と地獄という映画で、犯人が明日の第2こだまに乗れ、 という指示がありました。元旅行会社勤務の先輩曰く、前日で一等車 五人分の指定券なんて、まずこだまは無理、と笑っていました。当時の 特急はそれだけ貴重な存在だったのが理解できました。
@dscpls5286
@dscpls5286 Жыл бұрын
浜松や岐阜は通過するのに熱海には停まる。当時はきっと温泉客もたくさんいて重要な駅だったのですね
@masahatsu8920
@masahatsu8920 Жыл бұрын
浜松、豊橋、そして滋賀県全通過は凄い。 そして大阪で乗継わずか10分。特急みどりも停車駅が少なく明石、倉敷あたりも通過するまさに「特別急行」
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 当時の鉄道設備をフルに活用して、目的地への速達性を考えていますよね。仰る通り、まさしく特別急行だなと思います。
@べるげん-r8y
@べるげん-r8y Жыл бұрын
当時は6時間半で大阪まで行けるというだけでも画期的だったんですね。 現在では7時に東京駅を出れば、新幹線乗り継いで13時半には鹿児島中央の手前まで行くことができます
@きたさんきたさん
@きたさんきたさん Жыл бұрын
この時代の特急はほんと停車駅少なくて、正に特別な急行ですよね!。
@bdhjortwbexjjw
@bdhjortwbexjjw Жыл бұрын
特急を特別急行だ、ということを知らない人も多いと思います。
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
そもそも、急行がなくなった以上、特別急行の意味はない。 現行の特急は全て急行に統一して何ら差し支えない。
@MotorSportssfan
@MotorSportssfan Жыл бұрын
@@Kineosporia 臨時急行はごくまれにあるから、料金の観点から考えようぜ
@アンリ-e8t
@アンリ-e8t Жыл бұрын
当時のダイヤでは輸送力の限界を 超えていたのがよくわかりますね。 モータリゼーションの影響をまだ受けてなくて鉄道移動が主だった 頃にしては 運行本数や両数が全然少ない。。 現在の新幹線って、 なんだかんだで なくてはならない存在ですね。
@123chan69ify
@123chan69ify Жыл бұрын
新幹線の速達列車も当初の停車駅に戻して欲しい。東京の次は名古屋そして京都・新大阪…と。
@政弘樹
@政弘樹 Жыл бұрын
浜松、米原、三ノ宮、明石、小倉の通過は今では考えられない 当時の在来線の特別急行を象徴する停車駅だった
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
政弘樹さん 当時の特急は「特別急行」そのもので、県庁所在地の拠点駅等重要とされる駅にしか停車しませんでしたからね、その分を補完していたのが、急行・準急(この違いは走行距離の差→1968年10月の「ヨン・サン・トオ」白紙ダイヤ改正で急行に統一)でしたからね。
@ごとおひろこ
@ごとおひろこ Жыл бұрын
@@原田寛-e3u 小倉に停車せず門司に停車って、当時は鉄道管理局が門司にあったからなのでしょうか?
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
@@ごとおひろこ それもありますが、内燃機関運転士(ディーゼル車両運転士)の資格者が門司機関区にしかいなかったからでは?
@ごとおひろこ
@ごとおひろこ Жыл бұрын
@@原田寛-e3u  なるほど(^^)/
@千里山555
@千里山555 Жыл бұрын
そうですね。私が物心ついた昭和40年代後半ではどの列車も神戸を通過しても三ノ宮は停車するという状態でした。
@中央特快大月
@中央特快大月 Жыл бұрын
当時はマルス券ではなかったから切符の購入が困難だった。先人の最速達としての心意気と努力の結晶です。とても参考になりました
@takana4381
@takana4381 19 күн бұрын
乗車券センターのベテラン職員がくるくる高速で回っている座席予約台帳入れから目的の列車の台帳を取り出して手で記載すると言う原始的な方法だった様ですね。マルスと言うと、少年の頃に不愛想な国鉄職員が目的の列車が記載された金属のページをバタンバタンと捲ってから棒を差し込んで発券していたのを覚えています。
@小野文秀
@小野文秀 Жыл бұрын
これもまた特別な想いが生まれるね。 高速鉄道の先駆けのようなもんだもんな。 本当に良くできてると思う。 いつも見ていて、凄いなぁと思いますよ。 わがまま言って申し訳ないですが、東北系・羽越系も見てみたいですね。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 東京ー九州間の需要に応えるため、当時の設備と技術で精一杯頑張ったことがわかりますね。 東北系や羽越系も乗り換え路線も多く、大変面白そうですね、とり上げてみようと思います。リクエストありがとうございます。
@waku_dori
@waku_dori 6 ай бұрын
逆に言うとこの時代から新快速+2分ぐらいで京阪間走っていたんですね。速い。
@tentaclealma3535
@tentaclealma3535 Жыл бұрын
東京6:43=大阪13:30 (大阪に)行って帰ってくるから「こだま」とはよく言ったもの。
@user-ym9xm9gq3h
@user-ym9xm9gq3h Жыл бұрын
5:06「大卒初任給が2万円」とありますが、今の約1/10ですね。食堂車のメニュー価格を今のファミレスなどと比較すると1/5ぐらいだと思いますので、相対的には2倍ほど高かったことになりますね。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
当時の消費者物価指数は、今の1/4~1/5です。しかし、食堂車のメニュー価格は今の喫茶店の1/10のような気がします。
@佐久田雄平-y9r
@佐久田雄平-y9r 10 ай бұрын
昭和33年の設定当初は横浜・名古屋・京都にのみ停車だった模様
@akiratan
@akiratan Жыл бұрын
これなら東京〜広島・山口・福岡はこだま〜みどり接続よりも、ブルートレインだと(3段寝台といえども)寝たまま一晩で快適に移動できるから、重宝されたわけですね。
@クモハ165
@クモハ165 Жыл бұрын
料金がどれほど違うかわかりませんが、特急のナハネ20よりも、急行のオロネ10の方が快適そうですな。(*´・∀・)
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@クモハ165 オロネ10は583系みたいな寝台でかつ2段式だったような。それなら快適そうですね。
@akiratan
@akiratan Жыл бұрын
@@kataakeo7730 手元の1964年9月号(復刻版)で調べたら、オロネ10(Bロネ)は貴重な最新車なので九州直通急行には連結なし。そこで広島行き急行「安芸」と広島までの20系ハネ利用と比較してみました。等級制時代だから計算が面倒でしたが、特急2等寝台下段は3230円、安芸1等寝台上段は5190円と出ました。当時の「1等」って敷居が高かったのですね。
@クモハ165
@クモハ165 Жыл бұрын
​@@akiratan さん 勉強になりますな!(*´・∀・)てっきり急行の方がいくらか安くて実はお得!とかかなと勝手に想像しておりました。(ヽ´ω`)
@akiratan
@akiratan Жыл бұрын
@@クモハ165 当時のブルトレ4往復には個室(ナロネ20・ナロネ22)が連結されていますが、当時は政財界の「富裕層」にしか手が届かない、まさに特別な「部屋」だったのですかね。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 Жыл бұрын
新幹線が出来る直前でもその日のうちに東京から福岡までたどり着けるようにと精一杯のダイヤを組んでいたのですね。それだけでもありがたいものだったと共に国鉄の関係者の苦労が偲ばれるものです。 特急券はプラチナチケットでどちらの列車もなかなか取れなかったものと思います。それでも取れればラッキーだったのでしょう。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 当時の技術と設備で精一杯頑張っていたことがわかりますね。 途中の支線で優等列車への乗り継ぎが思ったより少なく、東京→福岡への利用を想定していたことが伝わってきます。
@クモハ165
@クモハ165 Жыл бұрын
子どもを乗せて喜ばせようとなんとか【こだま】の切符を確保したら、当日現れたのが153系の【かえだま】で子どもが泣いて困った!( ノД`)…とかもあったようで。
@alooga555
@alooga555 Жыл бұрын
現地滞在時間は3時間。東京・大阪間を実際に日帰りした強者ビジネスマンがどれほどいたのか考えてしまいます。
@houseyfk
@houseyfk Жыл бұрын
それに、東京駅にそんな早く来られる人も限られていたでしょう。
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
@@houseyfk さん その代わり、東京~大阪には夜行急行が充実していました「銀河」「明星」「彗星」等
@桜リュウカ
@桜リュウカ Жыл бұрын
昔は、飛行機よりも鉄道がメインだったことがわかりますね。
@exp.m.k.2300
@exp.m.k.2300 Жыл бұрын
今や錦川鉄道になっている岩日線。18時47分に岩国に到着した時点で連絡がないとは... 当時から厳しかったのでしょうか... 今回も珠玉の列車たちにただただ感動😢
@akiratan
@akiratan Жыл бұрын
岩日線最終列車の岩国駅発車が18時46分…。調整してよ!と10月改正号を見たら50分発になってて、下りはと号岩国18時47分着としっかり接続。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 私も同じで、動画を作成している途中で「接続してよ!」と思いました。 岩日線の営業係数が、昭和39年時点で600を超えていたとの情報もありますので、かなり厳しかったのでしょうね。
@exp.m.k.2300
@exp.m.k.2300 Жыл бұрын
返信いただいたコメントを見て、当時も無慈悲なダイヤってあったのかと思ってしまいました...
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
@@exp.m.k.2300 さん なんだか、某「名古屋の赤いあんちくしょう」の逝っとけダイヤみたい。
@inazumakatana1
@inazumakatana1 Жыл бұрын
今の時代から考えると当時の停車駅(最速達列車停車駅=最重要駅)の基準が違い過ぎて驚きました。 小倉飛ばしも衝撃的ですが小郡に停車していたのもびっくりですね、県庁所在地へ向かう山口線への乗換駅とはいえ当時は小郡【町】だった筈です。あと姫路での3分停車や岩国停車も意外でした。 往時を体感できる素晴らしい動画を作成して頂きありがとうございます。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
小郡は昔から特急が多く停車しており、新幹線博多開業直後でも、最速ひかりの一部が小郡に停車していました。
@小田博史-i9w
@小田博史-i9w Жыл бұрын
今でもそうですが、県都山口への玄関口兼島根県西部への窓口でもあったんですよ。元小郡町民より
@MT-vj6cc
@MT-vj6cc 4 ай бұрын
結局合併まで市は名乗ってはないし、その点では本質的には当時と今とで違いはないと思う
@tel5518
@tel5518 Жыл бұрын
今の飛行機や新幹線と比べれば無理が有るけど…高速道路(例・有名な夜行バス、はかた号は約14時間半)と比べれば、所要時間は然程変わっていません。 約60年前の基準で考えたら、相当な速達性だったんですね。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 速く移動できない時代で、これほどの速さで移動できる速達性、ニーズに応えようとした国鉄の意志を感じますね。 現在の道路事情と単純に比較はできないですが、優等列車を乗り継いでも高速バスとほぼ同じ所要時間と考えると、高速バスの登場が鉄道にとって逆風になったこともわかりますね。
@user-tf4dd8hw2n
@user-tf4dd8hw2n Жыл бұрын
5:37
@鵺屋敷の管理人鵺太郎
@鵺屋敷の管理人鵺太郎 Жыл бұрын
151形電車にはビュッフェに電話室が設けてあり、電話を掛けれたりのサービスがあったのですね。 当時、一般の家庭で固定電話あるのは稀だった。卒業アルバムの住所録を見ても、どの卒業生の家も電話が無い。 近鉄特急にも電話サービスがあった。
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
電話は交換台を経由していたので、沿線地域のみしか送受信が出来なかった(初期の東海道新幹線も同じ)
@213MASAO
@213MASAO Жыл бұрын
だから黒澤明の天国と地獄の肝にも使えたんですね、😃@@原田寛-e3u
@jops-tv4202
@jops-tv4202 Жыл бұрын
東京を朝7時に出発して乗り継ぎして博多に到着したのが夜の10時半頃……1964年当時の人は九州に行くのが一苦労って感じですね……日帰りはできないから何日か滞在してから帰ることになるでしょうね😅
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
ビジネス等で飛行機が使えなければ、おそらく東京ー博多間は寝台特急あさかぜ利用が多かったのではないでしょうか? 他に、この頃には、寝台特急さくら、みずほ、はやぶさもあったはず。 昼行特急乗り継ぎは稼働日が1日無駄になるのに対し、寝台特急なら前日夕方から翌朝までの時間を移動に当てられるので効率的だったのでしょう。
@jops-tv4202
@jops-tv4202 Жыл бұрын
@@kataakeo7730 確かに九州方面の寝台特急なら日豊本線経由の列車を除いて博多には停車するはずですからね。九州方面の出張や旅行ならそっちの方が時間を有効に使えそうです。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@jops-tv4202 「日豊本線廻りの寝台特急は富士があったはず」と書こうとしましたが、何と1964年10月改正での設定でした。もっとも、特急みずほの一部が門司で切り離され、大分まで運行していました。
@jisaku360
@jisaku360 Жыл бұрын
このころの長距離列車だと寝台列車が多くあったから一般の人はそれを使っていたのではないでしょうか? 国鉄としても東京→大阪ぐらいの距離は特急、それ以上は寝台列車を使ってくれっていう感じだと思う。 新幹線の登場で鉄道の在り方が変わったのは事実だと思う。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 現在はオンライン会議か日帰り出張が可能になりましたが、当時は宿泊がセットになることが多かったのでしょうね。効率性や生産性の観点からは比べ物にならないでしょうが、なんとも言えないゆったりした感覚がありますね。
@YO-hf1hq
@YO-hf1hq Ай бұрын
第1こだまの今は政令市の浜松通過もそうですが、みどり号の三ノ宮・小倉通過も凄いです。
@fatgorilla5861
@fatgorilla5861 Жыл бұрын
シツで連絡する321Mってこんな時代から走ってたんだ… 今は沼津までとはいえ東京発の時間も一緒だしすげえや…
@millione41
@millione41 Жыл бұрын
タイムスリップして旅行した気分を味わうことができました。 昔は夜行の普通列車が何本も走っていたんですね。
@213MASAO
@213MASAO Жыл бұрын
新幹線開通前の東海道線は正に特急街道でしたね、午前中は151がゾロゾロ午後には皆さんない好きなブルートレインが続々と東京駅を出発していましたね、懐かしい記憶ですね。 ありがとうございます。 しかしJR東は東海道本線の速達化には全く興味がないのでしょうね。
@SA-ey9md
@SA-ey9md Жыл бұрын
これまたよくお調べになられましたね! 主様のチョイスが秀逸すぎます😃コメント数が多いのも、皆さん大変関心のある動画なのですね😊
@sunluckyt7848
@sunluckyt7848 4 ай бұрын
100年後だと飛行機でもこういった類いの動画を見て驚かれたりしそう。 2024年の時は東京→パリが飛行機で13時間かかっていましたー、みたいな。 2124年では東京→パリ3時間で行けるのに当時は日帰り出来なかったんだ、当時の人は大変だったね~ みたいな笑
@user-vx6nh2yq5e
@user-vx6nh2yq5e Жыл бұрын
小倉を通過って今では考えられない
@jops-tv4202
@jops-tv4202 Жыл бұрын
小倉は北九州市の中心地だったはずですが……新幹線がなかった時代は門司の方が重要度が高かったのかな?
@marbok645
@marbok645 Жыл бұрын
63年の2月に五市合併で北九州市と代わってからまだ日が浅かったと思いますね
@jops-tv4202
@jops-tv4202 Жыл бұрын
@@marbok645 前年に合併したのか……。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@jops-tv4202 五市合併時、旧門司市よりも旧小倉市の方が人口は多かったです。しかし、最も人口が多かったのは旧八幡市。やはり旧八幡製鉄及び関連企業の従業員が多く住んでいたのでしょう。 新幹線の駅は小倉にできたので、北九州市の中心は小倉だと思いがちですが、実際にかつて小倉駅を降りて周囲を見てみたところ、100万都市の中心部という感じがしませんでした。本当の中心部は駅から離れたところにあるのかもしれませんが。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@jops-tv4202 おそらく、この頃は港湾都市に特急を停める傾向がありましたので、船とのアクセスを重視していたのかもしれません。あと考えられるのは、機関車の交換を行う駅に特急を停める傾向があったことです。門司~下関間にデッドセクションがあり、客車特急等は必ずこの駅に停めて機関車を交換していた関係で、客車以外の特急もまとめて停車駅にしていたのかもしれません。あくまでも推測ですが。
@user-Yoh.I
@user-Yoh.I Жыл бұрын
僕は東京から新幹線で帰る時はよくチキン弁当を買って食べています。時々横浜の崎陽軒のシウマイ弁当を買って帰ることもあります。 どちらも昔ながらの味でおいしいですね。
@toshichan1201
@toshichan1201 Жыл бұрын
これより 5年位後 幼稚園位の時に 神戸から 小倉に 父の帰省に連れられて 父と2人で 乗った記憶があります 赤いラインの電車に乗った記憶は鮮明にあります 夜に到着したのも 覚えてます 道中の記憶はないですが 長旅だったんですね
@山田起央-f4u
@山田起央-f4u Жыл бұрын
国鉄時代のほうがロマンを感じますね! 現代の時刻表をみていても簡素になりすぎて見向きもしないけど 昔の時刻表は奥が深いしおまけに荷物列車と言う意味不明なダイヤまで載っていたし まさしく国鉄時代はいい日旅立ちにふさわしかったと思います!
@user-cn7tm4eh5r
@user-cn7tm4eh5r Жыл бұрын
荷物列車とは鉄道荷物や郵便物を載せた荷車を客車の途中や牽引車の後ろなどに連結して運行するやつですね。
@ikedasatsuki
@ikedasatsuki 2 ай бұрын
この当時の特急はどこの路線のどんな列車も停車駅は厳選されて(実際今では考えられないが大阪発山陰のち博多行きの特急まつかぜは運転開始当初福知山線ノンストップでしばらくして宝塚のみに停車してそれが長らく続いた)また食堂車はあって当たり前1等車2等車は全席指定が当たり前で、東京大阪間の電車特急は横浜・名古屋・京都は全列車停車してあと熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・岐阜・米原には各列車2駅追加停車で運転され、大阪九州も大都市や商工業都市に限定されて停車駅を設けてました。なおみどりの場合かもめと停車駅をシェアしていたはずです(姫路・岡山・広島・下関には絶対止まるがそれ以外はシェア)。なお神戸は三ノ宮との兼ね合いで下り第二富士と上り第一富士のみ神戸・三ノ宮停車でそれ以外は厳格に神戸停車か三ノ宮停車に分かれてました。これは特急の連続停車は関門間の機関車交換に伴う停車は例外中の例外と見做して厳格に避けられてました。なので門司に停車したら小倉通過、小倉に停車する場合は門司通過というのが当時の不文律となってました。 本編中の京都発普通神戸行きは現在の快速電車です(京阪間の当時の停車駅は高槻のみ)。この当時の快速電車は基本京都神戸間(かつての急行電車の運転区間)でこの中から延長運転で下りは西明石・姫路・播州赤穂・上郡、上りは草津・安土・米原まで行ってました。
@Himatsubushi-no-tankyushin
@Himatsubushi-no-tankyushin Жыл бұрын
よく東京〜大阪間は移動時間の例として扱われていますが、`151系こだま´でもEF58牽引客レ時代の`つばめ´と比較すると1時間短縮したとはいえ、特急電車での在来線で6時間30分は過酷にも感じてしまいますが、更に大阪からキハ82の`特急みどり´に乗り換えて博多へ向かうと昼間移動で15時間35分になると思うとスケジュールを考慮しない移動として、座りっぱなしを避けて、寝台車で寝るという選択肢で寝台特急・寝台車付きの急行という手を考えてしまいますね💦💦💦💦💦。
@kenkenluvhito
@kenkenluvhito Жыл бұрын
この時代、特急は三宮通過で神戸に停車だってたんですね。今は神戸市内の駅の序列が入れ違ってしまいましたが。
@patapata2259
@patapata2259 Жыл бұрын
今のはまかぜ号のように両方とも停車するようになったのは2000年からで、それまでは三ノ宮か神戸のどちらか一方のみが停車だった。本数的には圧倒的に三ノ宮停車の列車のほうが多かった。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@patapata2259 この当時は、ご指摘の通り、三ノ宮か神戸のいずれかに特急を停車するという運用だったようですね。ほぼ半々くらいでしょうか。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 Жыл бұрын
昭和50年代の大阪~九州の寝台特急は三ノ宮と神戸のどちらかに停まるものでした。三ノ宮はターミナル駅、神戸駅は神戸市の代表駅としていたからなのでしょう。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 東海道本線と山陽本線の境界駅である事を感じさせる停車パターンですよね。
@amelis6100
@amelis6100 Жыл бұрын
今では新幹線を使えば5時間ほどで行けますが、当時は丸一日がかりの大移動だったのですね。 このシリーズいいですね。 次回は上野→青森→青函連絡船→北海道への旅が見たいです。
@DX-lv3zz
@DX-lv3zz Жыл бұрын
15時間35分……自分が平日起きている時間にまったく同じ😮🧭
@oratorio51
@oratorio51 Жыл бұрын
乗り換え時間含めて15時間35分は当時としたら最速でしたね 寝台特急で一番早かったのが「はやぶさ」で16時間50分。乗り換えにしてもどちらかが急行になってしまうので一番早くても第一つばめ(09:00)→広島で急行しろやま(20:40)→博多02:46の17時間46分。 この乗り継ぎが当時としてはどれだけ早かったか解りますね しかし、当時は列車によっては通しの特急券が発行されることが有った(はつかり→おおぞろ・白鳥→おおぞら・秋田でのつばさ→白鳥)ものの、このこだま→みどりは「流石に日中の移動は少ないんじゃね?」って事で設定を見送ったとの事 値段的には、東京~博多は一等運賃3690円・東京~大阪・大阪~博多の一等特急料金は其々1760円・東京~大阪のパーラーカー料金1650円で片道8860円 「あさかぜ」利用だったら、東京~博多の一等特急料金は1760円・個室寝台料金3080円で片道8530円 当時の飛行機料金は片道12000円(日本航空・直行便1時間30分・伊丹経由便3時間30分) 一等で行ったら無茶高い(笑)。しかしながら岡山や広島に向かう方や名古屋から博多方面の方に対しては乗継割引適用して欲しかったです 岩日線は、岩国の最終が18:46で1分前に出発しちゃっています。 これこそ「なんとかならぬのか!!」の象徴ですね。 しかし、岩日線沿線沿いに国鉄バスが運行していたので、カバーしていたのではないか?と推測します 19:20に周防広瀬行・20:10に秋谷行が運行
@yosshi1982
@yosshi1982 Жыл бұрын
新幹線開業&昭和東京五輪の開幕直前のものですね。 第1こだま現代の特急・新快速とそん色がないことがすごいと感じます(新快速は別格のバケモノですわ) 現代は新幹線が主流となってしまいましたが、東京→名古屋間でもいいので、第1こだまみたいな列車があったら、人気出るのかなと想像しました(たぶん、オレンジのJRが難色示しそうですが) 最後に駅弁の紹介にあった、ちくわ弁当とうづら弁当の中身がなんだったのか、気になりました。
@MotorSportssfan
@MotorSportssfan Жыл бұрын
今の電車性能でしたらガチれば東名4時間切り、東阪6時間切りはできると思いますので、18きっぷ使用可+特急券とかの特例を作れば満席御礼のウッハウハになると思います
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
成田エクスプレスを一部でいいから名古屋まで延伸するとか。
@maruhiroya417
@maruhiroya417 Жыл бұрын
東海道と現在の三都ルートは当時でも既に軌道補強がなされてたでしょうからね、新快速はあれでも福知山線の事故のあおりで減速されてるはずなんですが・・・。
@正和今中
@正和今中 7 ай бұрын
実はあまり取り上げられない事なのですが、EF66牽引のさくらやはやぶさは、京都〜大阪を29分で、浜松〜名古屋は1時間10分で走っていました。
@yamayuki
@yamayuki Жыл бұрын
特急「こだま」は、当時では今の「のぞみ」よりも豪華な設備で、なるべく停車駅を省いて大阪到着を最優先にしたのが良くわかります。まさに在来線を走る新幹線の「ひかり」のような存在ですね。また特急「みどり」と言えば博多・佐世保間のイメージが強いのですが、大阪から博多をしかもキハ82で運行とは、ある意味渋ささえ感じます。東京から博多まで約15時間半、ほぼ一日を座席で過ごし、一日三食を食堂車で楽しむのも面白そうですね。と、同時に寝台列車のありがたさも体験できそうで、全部廃止となった現在では残念で仕方ありません。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 当時の在来線の技術と設備を最大限使った、まさしく新幹線が在来線を走っているような列車でしたね。豪華な設備の特急といえども、座席に座りっぱなしはしんどそうです。私なら寝台特急を選んでいただろうなと思います。 仰る通りで、現在はいずれの選択肢も無くなってしまい、寂しいですね。
@075838
@075838 Жыл бұрын
お疲れ様です。いつも興味ある動画配信有り難うございます。 東京駅から博多駅まで掛かった旅費を当時の時刻表から計算してみました。 「第1こだま」「みどり」両特急とも2等車で旅すると、3810円、 両特急とも1等車を利用かつ「こだま」のパーラーカーに乗ると、9260円。 ちなみに羽田空港から福岡空港まで当時のジェット飛行機で旅するとなると、 羽田7時50分発福岡9時20分着の日本航空303便があり、料金はなんと… 13000円でした。
@MotorSportssfan
@MotorSportssfan Жыл бұрын
イロハで計算すると飛行機はまさにイ、ですね(笑) 今とたいして変わらんか今の方が安いという
@壱号機
@壱号機 Жыл бұрын
当時の座席ラジオ&公衆電話サービスは、今でいうコンセント&USB+Wi-Fi完備に相当するんでしょうな。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 仰る通りですね。当時の人々にとっては、今のサービス以上に豪華に感じたかもしれませんね。
@maruhiroya417
@maruhiroya417 Жыл бұрын
新幹線でさえ品川に止まる昨今とは隔世を感じますね、しかし、最後の言葉はワンカップO関のCMを思い出しますw
@NGC3982
@NGC3982 Жыл бұрын
この企画面白いです。この当時、吉幾三さんの故郷に東京から向かったらどうなるかとか、あるいは日本縦断やったらどうなるかとか、そんなのもやって頂くと感謝です。
@tennouzanhikari300
@tennouzanhikari300 Жыл бұрын
いきなりおすすめ出てきて見てしまいました。 昼行特急でも門司停車小倉通過があったんですね! 夜行ではそれがザラだったことは知ってましたが。 生まれも育ちも小倉の自分にとっては馬鹿にされてる気分ww 今の門司駅は何の変哲もない郊外の駅になってしまいましたが、小倉駅の賑わいは変わりませんね。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 現在の小倉駅の印象からすると、通過列車が多いことは意外で驚きですよね。当時と人の移動の仕方が違っていたことが想像できますね。
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
北九州市のご当地グルメ「小倉焼うどん」は「あんこ入りうどん」と勘違いした人はおりませんかね?
@my-nj7ky
@my-nj7ky Жыл бұрын
浜松 三ノ宮通過するなんて今では考えられないですね
@jops-tv4202
@jops-tv4202 Жыл бұрын
品川とかも通過していたのにはびっくりしました。
@patapata2259
@patapata2259 Жыл бұрын
@@jops-tv4202 品川駅に特急が停車するようになったのは、1981年の踊り子号以来です。
@patapata2259
@patapata2259 Жыл бұрын
東京発のブルートレインが運転されていた時は、静岡か浜松かどちらか一方だけが停車していた。 三ノ宮と神戸も2000年まではどちらか一方のみが停車だった。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@jops-tv4202 品川駅付近は、かつては貨物輸送の基地であり、今ほど旅客輸送面で重要な拠点ではなかったはず。品川駅付近の再開発は平成に入ってからであり、新幹線の駅が90年代後半頃にできてから、付近にオフィスビルが増え、今ではなくてはならない拠点になりました。
@jops-tv4202
@jops-tv4202 Жыл бұрын
@@kataakeo7730 そうでしたか、納得しました。
@shinanotikuma
@shinanotikuma Жыл бұрын
旅をしてる気分になりました。 乗ってみたかったです。 食堂車でご飯食べたいです。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 私も同じで、食堂車でのご飯はもう一度食べてみたいです。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
それにしても、なぜ特急みどりが気動車特急なのでしょう?と疑問に思いましたが、何とこの頃はまだ交直流特急電車が存在しなかったからでした。 交直流特急電車のデビューは東海道新幹線開業と同じく、1964年10月改正からでした。
@小田博史-i9w
@小田博史-i9w Жыл бұрын
それともうひとつ、広島〜小郡の電化完成が同年7月で10月改正まではSLが走ってる状況だったのです。
@hanenariairportlimitedexp.1858
@hanenariairportlimitedexp.1858 Жыл бұрын
485系や583系のような交直流電車は1968年のヨンサントオで走り出したようです。
@SuperAKYURA
@SuperAKYURA Жыл бұрын
東海道新幹線開通と同時に、特急つばめが、新大阪~博多へ西にスライド移籍し、最初の1年間は151系で走って、九州に入ると電気機関車牽引という異例というか苦肉の処置がとられてました。
@maruhiroya417
@maruhiroya417 5 ай бұрын
​@@SuperAKYURA 481も完成が遅れた上にリスク回避?で北陸が先行しましたからね。
@siosaijuggler
@siosaijuggler Жыл бұрын
流石特急停車駅が少ないですね 門司停車小倉通過は驚きました まつかぜ時代は門司通過小倉停車だったしさくらは小倉通過でした 昔は門司駅もブルトレ以外の特急も停車していたのですね 次は上野発稚内や根室着の時刻表が見てみたいです
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 現在の感覚でいくと、小倉通過には大変違和感がありますね。今後は東北線系統も作成してみようと思います。リクエストありがとうございます。
@brz715t5
@brz715t5 Жыл бұрын
寝台特急富士も小倉と中津を飛ばして別府迄無停車だった時代が有りました
@user-bx9ki2cq1x
@user-bx9ki2cq1x 4 ай бұрын
これをみるとこの一ヶ月後に開通した新幹線がいかにサラリーマンの日帰り出張を可能にしたかがわかる。先人たちの苦労に感謝。
@SAKUSAKU226
@SAKUSAKU226 Ай бұрын
新幹線開通によって東京大阪間ぐらいだと日帰り強要されることに鳴って楽になったのか酷になったのか。
@タツヒトミナミ
@タツヒトミナミ Жыл бұрын
今度リクエストをするなら昭和55年の東海道新幹線「ひかり1号」で東京から博多への時刻表の旅をリクエストします
@user-xe3os2mm7f
@user-xe3os2mm7f Жыл бұрын
岡崎安城刈谷大府の並びは凄いな 当時は蒸気機関車自体の名残か駅間距離は長かったんだな
@riipe-cw7ed
@riipe-cw7ed 17 күн бұрын
蒲郡~名古屋が、一部停車や臨時停車まで含めるとほぼ快速停車駅w 後から開業したのが、三河塩津、三ケ根、相見、西岡崎、三河安城、東刈谷、野田新町、逢妻、南大高、金山、尾頭橋、と当時の倍になってる
@durian-or2re
@durian-or2re Жыл бұрын
特急みどりの大阪-神戸間24分走行も速い!
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
durian0410さん しかも、当時特急用ディーゼル車の先駆けだった「キハ82形」ですからね。
@user-jp2xx1vc6g
@user-jp2xx1vc6g Жыл бұрын
大阪~博多間の特急「みどり」が6両編成の短さというのにも驚きました。大阪駅で待ち合わせ10分という手頃な時間を設定しているので、「第1こだま」からの乗り継ぎ客も想定していたんじゃないかなとも思うんですが、岡山・広島方面までの需要はあまりなかったんでしょうか。
@akiratan
@akiratan Жыл бұрын
1964年9月時点なら東京〜広島間は9時発の「第一つばめ」がありますから、需要が分散された?
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
他に京都~長崎・宮崎間の「特急かもめ」もありました。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 他の方のコメントにもありますように、『第一つばめ』に乗車すれば東京から乗り換えなしで行けますから、分散していたのかもしれませんね。
@makimurasame7271
@makimurasame7271 Жыл бұрын
稚内→枕崎の最速移動希望
@nori-tabi
@nori-tabi Жыл бұрын
この列車乗りたかったです。十数年前なら九州行き寝台特急や特急東海で追体験できましたが、それも遠い時代になりました。臨時列車で走らせてほしいですが、無理ですね。(現代であれば、東海道線普通グリーン車・ホームライナー・新快速乗り継ぎでしょうか) 食堂車での食事も、もはや記憶の彼方です。(十数年前に北斗星・トワイライトでかろうじて・・)昭和は遠くなりにけりですね。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 優等列車で追体験することもできなくなってしまいましたね。座席指定のできる列車を乗り継ぐ程度しかできないなと思います。 食堂車、10年ほど前に北斗星の食堂車で夕食と朝食を食べたのが最後でした。
@kg6156
@kg6156 9 ай бұрын
山陽本線の踏切で見たような気がする。さくら とか つばめ のほうをよく見かけた。食堂車があって白いテーブルクロス、窓際に一輪挿しが飾ってあったのが外からでもよく見えた。いつぞやは、甲子園優勝校の津久見だったか日田林工だったが大優勝旗を携えて九州へ下って行くのが見えた。ベージュに赤線の特急は懐かしい。
@nyankoi
@nyankoi Жыл бұрын
食堂車のメニューはやはり割高ですね 駅弁が100円だ何だの時代、シチュー定食がその3倍以上、ステーキにいたっては4~6倍とはね 今やファミレスで若い子でもステーキ食べてるのを見ると羨ましいですねw
@houseyfk
@houseyfk Жыл бұрын
昔々のステーキは、そりゃもう大変な御馳走ですよ。
@radiotanpa
@radiotanpa Жыл бұрын
こだまの乗車率は高かったですが、当時は特急は別格です。正に特別急行列車です。 当時の長距離の移動手段は普通列車か夜行列車です。急行、準急、夜行列車の二等に乗れればまだいい方です。
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
幼い頃、九州から大阪に向けて、急行「しろやま」に乗ったことがあった。 寝台主体の当時からすれば豪華な特急「あかつき」には及ばなかったものの、「しろやま」に乗ったのは編成が少数派の寝台車だったから自分はそこそこ恵まれていたのだろうな。
@natal-oze
@natal-oze Жыл бұрын
おぉ、熱海に停まって浜松、豊橋には停まらないのか。静岡の次が名古屋ってのも凄いな。左側ばかり見てたけど、右側の情報もおもしろい。
@euforia_21
@euforia_21 7 ай бұрын
321Mが当時のままなのすごすぎる
@大月一生
@大月一生 Жыл бұрын
現在では寝台特急が全廃され、九州までは航空機がメインで、新幹線もあるが以前みたいに本数がありません。それでも、ダイヤを見て先人たちが九州という土地を行くのが大変だったと考えさせます。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます。 移動の需要は当時からあったことがよくわかりますね。
@user-mc5eu2kz4j
@user-mc5eu2kz4j Жыл бұрын
当時のプロ野球選手こんな感じで博多から東京迄移動頻繁にしてたんやからね。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 遠征が大変だったことがわかりますね。
@houseyfk
@houseyfk Жыл бұрын
​@@tomoyankunプロ野球の移動は、この頃ですと、クロスシートの列車ですよ。夜行(もちろん寝台ではなくクロスシート!)もよく利用していたはず。
@radiotanpa
@radiotanpa Жыл бұрын
この頃は今のように特急に簡単に乗れる時代ではありません。 特急に乗れたのは限られた主力選手だけですが、主力選手でも夜行列車で移動することがありましたよ。 どのチームも遠征になると旧客のボックス席か通路に新聞紙やゴザを敷いて雑魚寝です。10時間以上の移動はザラです。
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
@@radiotanpa さん 主力選手や首脳陣は、一等寝台(「マロネ40」「マロネ41」「ナロネ10」辺りか)でしたが他は二等車が当たり前でしたからね。
@ぴーまん-j2p
@ぴーまん-j2p 5 ай бұрын
大阪駅での乗り換え時間猶予が10分。。 よほど体力とコンデションが良くないと、強行できない旅程ですな。
@RK-li9yp
@RK-li9yp Жыл бұрын
5:18 食堂車の食事、贅沢やったんやろうな、、 今の初任給20万としたら、ビール1550円か、、
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 今よりも嗜好品が贅沢なものであったことがわかります。食堂車の食事は本当に特別なものだったのでしょうね。
@中村英一-p5l
@中村英一-p5l Жыл бұрын
一応、東京を朝7時に出ればその日のうちに博多に着けるんですね。それにしても高速道路も飛行機もなかった時代、この時間で移動するにはそれこそ「特別な運賃」を払わなければならなかったんですね。
@user-id9wf9lf9y
@user-id9wf9lf9y Жыл бұрын
航空機移動もできるようにはなっていましたが、当時としてはかなり高額でした。
@ねこあつめ-h2q
@ねこあつめ-h2q 4 ай бұрын
小倉ではなく門司に停まるのが当時らしい。鉄道的には門司の格が高かった。
@八尾隆之
@八尾隆之 8 ай бұрын
名古屋出たら次は京都って、信じれん😳乗りたかつた😭🥰
@SAKUSAKU226
@SAKUSAKU226 Ай бұрын
のぞみ設定直後にはそれを体験できました。 1列車だけとはいえ名古屋通過したんで。
@user-gn5op4lr2j
@user-gn5op4lr2j Жыл бұрын
今では意外な通過駅!北陸本線乗換 米原!神戸では三宮通過,神戸停車!北九州では小倉、黒崎通過,門司停車 時代もかわったものです。
@saarun0123
@saarun0123 Жыл бұрын
素晴らしい動画をありがとうございます。 15:57 優等列車で本州横断15時間半も凄いですが、普通列車で22時〜翌朝8時もかなり凄いですね。 しかも寝台じゃなくて普通列車なんでしょうか。だとしたら腰痛めそうですが。
@奥田孝雄おっくん
@奥田孝雄おっくん Жыл бұрын
広島県民の気づき。今では当たり前になっている可部線の乗り換え。当時はなかったのですよね。配線の関係で横川駅始発で。放水路工事関係の線路付け替えも近い時期なので。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 今では当たり前の、広島駅での可部線の乗り換えですが、当時は無かったことが驚きでした。
@久山蛙
@久山蛙 Жыл бұрын
福岡に住んでいますが国鉄時代に南福岡駅が雑餉隈駅だったのは初めて知りました
@matchpotch
@matchpotch Жыл бұрын
こだまの停車駅すげぇ。この列車に「のぞみ」の愛称を与えても良かったのでは。停車駅だけ言えば「新幹線ひかり」すら凌駕してる。。。
@シャナ-x7c
@シャナ-x7c Жыл бұрын
やろうと思えば大阪まで日帰り出張できるという意味で「こだま」と名付けられたといわれているので、この頃に「のぞみ」はアイデアとして出ていないと思いますね。
@riipe-cw7ed
@riipe-cw7ed 17 күн бұрын
@@シャナ-x7c 新幹線が開業してひかり、JRになってのぞみ、ある種のインフレですね
@ことまつした
@ことまつした Жыл бұрын
みどり号の岩国から西、軒並み1分間の停車時間は余裕時分の少ない目一杯の走りをしていたように映ります。 そして小倉飛ばし、衝撃す。。
@baatarismbaatarism9209
@baatarismbaatarism9209 Жыл бұрын
これだけ駅を通過するこだまでも、熱海には停車していたんですね。当時の熱海の需要はどれだけ凄かったのでしょうか。
@patapata2259
@patapata2259 Жыл бұрын
確か、特急は熱海か沼津か、どちらか停車だったんじゃないかな。
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
@@patapata2259 さん 特に週末には、東京から伊東線→伊豆急乗り入れの臨時準急が運転(主に、元祖「湘南電車」80系が使用→現在の特急「サフィール踊り子」のルーツ?)されていましたからね。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@patapata2259 そうだけど、熱海停車の割合がかなり高かった。
@gorigori565656
@gorigori565656 Жыл бұрын
多分熱海は今でいう「東京ディズニーランド」相当の行楽地だったのではないかと想像。 それだけ熱海への需要は半端なかったということで。
@houseyfk
@houseyfk Жыл бұрын
熱海で降りちゃう人って、いたのか? JRの時代なら乗務員交代でしょうけど。
@Kochihae523
@Kochihae523 Жыл бұрын
在来特急こだまというと1958年登場時のダイヤのイメージがあったから熱海や静岡に停まるのが以外だった。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
1960年代半ばごろは、まだ静岡市の方が浜松市よりも人口が多かったのです。 熱海は、今ではあまり想像つかないのですが、その頃は人気温泉地(おそらく伊東等を含めて)で利用者が多く、新幹線開業後も熱海の乗降客数が多かったそうです。それで旧国鉄が東京~熱海間のこだまを増発しようとしたところ、熱海駅の構造上待避線・留置線が作れなかったため、三島駅を作ったと言われています。
@うほうほ-w3z
@うほうほ-w3z Жыл бұрын
この時代も安城位で「只今、安城駅を定刻で通過しました~」的な放送あったのかな
@houseyfk
@houseyfk Жыл бұрын
なんで安城?あ、三河安城駅ね。
@MotorSportssfan
@MotorSportssfan Жыл бұрын
@njh3528 定時通過の放送は準備をさせるためのものなんでどっちかというと当時は刈谷か大府あたりかと思います
@hc-ir2dr
@hc-ir2dr Жыл бұрын
こだま号で実際に東京大阪を日帰りした人はいたのでしょうか。 現地滞在時間は3時間ですね。
@クモハ165
@クモハ165 Жыл бұрын
目的や要件にもよりますが、どちらか片道を夜行にした方が効率が良さそうですな。(・ε・` )
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
いてもおかしくはないでしょう。東京or大阪でお昼過ぎに会議を行うだけ、取引先と交渉事をやるだけ、役所や裁判所に行くだけ、という仕事はありますので。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 理論的には可能ですが、実用性の観点から考えると日帰りを選択する人は短時間で用事が済む人に限られるでしょうから限定的だったでしょうね。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
まず、驚いたのは、この当時の特急第1こだま&みどりの停車駅の大半が現在ののぞみ停車駅に近いことです(特に山陽新幹線ののぞみ一部停車駅を含めれば。)異なるのは、熱海・静岡にこだまが停車していること、みどりが下関&門司に停車していることくらいでしょう。当時、特急こだまがプラチナチケットと言われていたそうなので、さもありなんです。 静岡県内に新幹線ひかり→のぞみが停車しないのは、国鉄→JR東海が東名阪の速達性を重視したためでしょう。 小倉ではなく門司に停車するのには多少違和感がありますが、当時は停車駅(門司か小倉か黒崎か)を厳選する際、船便との接続を考慮し、港湾都市への停車を重視したからかもしれませんね。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
ちなみに、当時の特急みどりは岩国駅に停車しているのに対し、のぞみは新岩国には停車しません。 これはおそらく現在、新岩国駅が機能しておらず、実質的には岩国の人は広島までJR山陽線を利用し、そこから東京・大阪に赴いているのではないか?あるいは一部は飛行機に流れているのでは(これは東京だけですが)、と推測します。
@patapata2259
@patapata2259 Жыл бұрын
@@kataakeo7730 確か、特急は山口県内は下関のみ全停車で、岩国・防府・徳山・小郡・宇部あたりで振り分けられてたんじゃないかな。
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
いつもご視聴とコメントありがとうございます いかに速達性を重視したかがわかりますね。新幹線開業前、今までの在来線のノウハウの集大成のように感じ、感慨深いです。
@kataakeo7730
@kataakeo7730 Жыл бұрын
@@patapata2259 寝台特急は概ねそうですが、徳山・小郡停車がやや多め。昼行のかもめ&みどりはいずれも岩国、徳山、小郡、下関停車でした。
@ftyutegoursxsw8531
@ftyutegoursxsw8531 7 күн бұрын
船便?門司駅から船はありませんよ、どの時代も・・・ ちなみに門司の中心は門司港駅周辺なんですけどね でも門司駅のある大里地区の方が人口は多かった
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
「こだま」「みどり」を通し運転することはできなかったのかな。 一番列車のテープカットは、実在するであろう「児玉みどり」さんに!
@moto1269
@moto1269 Жыл бұрын
東海道新幹線開業前の特急は文字通り特別急行列車で、熱海や静岡などの短距離の旅行は別に設定された準急や普通列車を利用しました。 新幹線開業直前には特急列車の乗継で博多まで日着できたかもしれないが、長距離は夜行列車の利用が一般的だったと思います。 ディーゼル特急で柳井下松など途中駅通過なら非電化の岩徳線経由も可能に思うが、やはり山陽本線経由の方が早かったのだろう。 時刻表には山陽本線経由の場合も距離の短い岩徳線経由で運賃計算しますと明記してました。 時刻表関連でいえば京都から西明石の間は、東京大船間と同様に東海道山陽線列車の停車する駅しか掲載されていませんでした。 そっちの方が動画もリズムがいいと思います。
@stealaway320
@stealaway320 Жыл бұрын
ええええ 小倉 過ごしましたね 小倉は昔は少ない駅でしたか⁉️
@政弘樹
@政弘樹 Жыл бұрын
第一こだま 東京~大阪 所要時間6時間30分 停車駅 横浜、熱海、静岡、名古屋、京都 みどり 大阪~博多 所要時間 8時間55分 停車駅 神戸、姫路、岡山、福山、広島、岩国、徳山、小郡、下関、門司 合計所要時間 15時間35分 在来線のスピードではこれが限界 新幹線博多開通時は東京~博多の所要時間は6時間26分 現在は約5時間前後で走行している 新幹線のスピードアップの効果を示す動画だった
@小田博史-i9w
@小田博史-i9w Жыл бұрын
細かい事ですが、博多開業時は6時間56分でした。当時筑豊地区の路盤が安定してなく速度制限がかかっておりました。
@小倉弘-v9h
@小倉弘-v9h 11 күн бұрын
特急「第1こだま」 東京 → 横浜 → 熱海 → 静岡 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 特急「みどり」 大阪 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 福山 → 広島 → 岩国 → 徳山 → 小郡(新山口) → 下関 → 門司 → 博多 😮
@アンリ-e8t
@アンリ-e8t Жыл бұрын
まだ、大阪〜博多間をキハ82で 運行してたんですね。 関門トンネル直通運転するためかな? 当時は 交直流型特急電車がなかったからかな?
@vfcfha
@vfcfha Жыл бұрын
まだ広島〜下関が未電化でしたからね(電化は1964年10月)。
@アンリ-e8t
@アンリ-e8t Жыл бұрын
@@vfcfha なるほど、そもそもまだ電化すら出来てなかったんですね。 直通させるには気動車しか無理だったんですね〜。
@End_of_Japan
@End_of_Japan Жыл бұрын
復活してくれたら乗りたい
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
指定席券があっという間に売り切れるだろうね。
@naoyasano8695
@naoyasano8695 Жыл бұрын
7:29 第一こだま(151系電車)、大阪に着いた(13時30分。東京発は7時):途中の停車駅は、横浜、熱海、静岡、名古屋、京都 16:52 みどり(キハ82系の気動車)、博多に着いた(22時35分。大阪発は13時40分):途中の停車駅は、神戸、姫路、岡山、福山、広島、岩国、徳山、小郡、下関、門司、博多
@chiyosuke1860
@chiyosuke1860 Жыл бұрын
大阪の乗り換え時間が10分だと、今なら蓬莱の豚まん買う時間がない! だいたい何人かは行列してるので…
@ryojimuto4165
@ryojimuto4165 Жыл бұрын
小田原、沼津、浜松通過って凄いね
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u Жыл бұрын
小田原・沼津は湘南電車との兼ね合いがあったでしょうし、浜松は静岡との関係で停車しなかったのでは(電化が浜松迄の時代は機関車付け替えの関係で「つばめ」「はと」が静岡と交互停車していた時代もありました)
@Kotobukisaiki
@Kotobukisaiki Жыл бұрын
三ノ宮ではなく神戸に停まったり、1964年時点の普通がすでに爆速だったりいろいろ驚くことばかり。
@美彩佳
@美彩佳 Жыл бұрын
浜松、豊橋、三ノ宮、倉敷、小倉…そこそこ大きな駅も通過ですか😅
@白田川一
@白田川一 Жыл бұрын
7:24の辺りで、大阪駅到着…。まだ、新大阪駅が誕生していない。あ、新蒲原駅も無いんだった…。
@harukasama76
@harukasama76 Жыл бұрын
東海道の1Mは「こだま」が背負ってたんですね、伝統のある「つばめ」ではなく。乗り継ぎの「みどり」が3Dということは、山陽のエースはあくまで「かもめ」ということでしょうか。単純に発車時間の早い順かもしれませんが。そう言えば寝台特急は「あさかぜ」ではなく「さくら」が1列車だった記憶があります。
@k-kuwa-htk
@k-kuwa-htk Жыл бұрын
三ノ宮通過で神戸停車、今とは逆だったんですね。
@白田川一
@白田川一 Жыл бұрын
次回の「時刻表の旅」シリーズのリクエストではありますが、東海道線特急としての「おおとり」号を取り上げて下さる様、お願い致します。「おおとり」というと北海道特急としてのイメージが強いですが、元々は東海道線にて使われていた列車愛称なんですってね。
@Kineosporia
@Kineosporia Жыл бұрын
中京圏の出張族でごった返していそうだなあ。
@tokishp
@tokishp Жыл бұрын
大変興味深く拝見させていただきました wikiによるとこだま号の途中の停車駅は横浜名古屋京都だけとなっており、それを信じていたのですが この頃は熱海や静岡も追加されていたんですかね
@tomoyankun
@tomoyankun Жыл бұрын
ご視聴とコメントありがとうございます。 1960年のダイヤ改正で停車駅が2駅増やされたと記憶しております。それ以前の横浜名古屋京都のみ停車のインパクトはすごいですね。
@user-id9wf9lf9y
@user-id9wf9lf9y Жыл бұрын
横浜名古屋京都のみとなると現在の新幹線「のぞみ」以上に停車駅が少ないことになりますね。
@たしづん
@たしづん 4 күн бұрын
15:30 しれっと下関(23:38)→米子(9:04)って出てるのやばい。寝台無しの夜行じゃないかwww
@hanenariairportlimitedexp.1858
@hanenariairportlimitedexp.1858 Жыл бұрын
新幹線が走り出す直前の線路容量は限界を超えていたのかもしれませんね。 大船までは横須賀線と同じ線路を走り、貨物輸送も半端無かった時代の中、定刻通りに走るのも大変だったと思います。 国鉄時代を知る親戚の方も言ってましたが、普通列車への接続が悪かったのはザラだったとか。 沿線各地の駅弁の取り扱いがあったということは予約積込みをしていたのでしょうか? 2019年で終了した長万部かにめし、大沼だんごのように座りっぱなしでも買えた時代も遠くなりましたね。
@ksocfpj
@ksocfpj Жыл бұрын
東京〜広島を結んだ昼行特急の第1・第2つばめをお願いします。
@princeshihan
@princeshihan Жыл бұрын
1964年って戸塚駅はなかったんだ
@hc-ir2dr
@hc-ir2dr Ай бұрын
当時戸塚駅は横須賀線の電車のみ停車していました。 現在の保土ヶ谷、東戸塚と同じでした。
@riipe-cw7ed
@riipe-cw7ed 17 күн бұрын
@@hc-ir2dr 東海道線は全列車通過だったので、ホームがあっても時刻表に記載は無かったということなんですね SM分離前は戸塚も通過していたというのは不思議な感覚です
@masazoro8774
@masazoro8774 Жыл бұрын
通過駅がㇾと昭和の時刻表だな!
@キハ189系はまかぜ
@キハ189系はまかぜ 3 ай бұрын
動画の速度を2倍にしてみたら、やけに疾走感が出てしまいました。
【特急はつかり】時刻表の旅 1964年9月 上野→釧路
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【国鉄時刻表】1964年10月 東京駅東海道本線   JAPAN TOKYO station ;TOKAIDO LINE  time table 1964
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こだま高速度試験 151系
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hayabusa7388
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【時刻表の旅】1947年11月 引揚列車 南風崎発 普通東京行き
17:59
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【急行高千穂】時刻表の旅 1964年9月 東京→西鹿児島
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ともやん君TV 時刻表研究チャンネル
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【特別急行 富士 】時刻表の旅 1940年10月 東京→下関
14:43
ともやん君TV 時刻表研究チャンネル
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【寝台特急はやぶさ】時刻表の旅 1964年9月 東京→西鹿児島
21:58
ともやん君TV 時刻表研究チャンネル
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こだま高速度試験 昭和34年制作
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