戦前の世界秩序は、ウエストファリア体制における「植民地主義」と「人種差別による奴隷制度」でした。しかし、日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議において、世界で最初に人種差別撤廃を提案しました。これが植民地における奴隷制度を有する米国などの反対により否決され、当時の世界秩序にギャップをもたらしました。【巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 】(日本国外務省 1919年) 戦後発刊された「昭和天皇独白禄」において、この人種差別撤廃提案が大東亜戦争の遠因と述べられています。 この提案や大正デモクラシー等、日本国内の人権民主活動が高まり、1925年の普通選挙法(1928年改正)により、内地在住の台湾人と朝鮮人にも国政への選挙権が付与されました。1932年の第18回衆議院議員総選挙では、朝鮮人の朴春琴が国会議員に選出されています。終戦により選挙は実施されませんでしたが、1945年4月の法改正により、樺太:3人、朝鮮:23人、台湾:5人の国会議員定数が設定されていました。(衆議院 wikipedia)米国の黒人が投票権を得られたのは1960年代以降ですが、日本は戦前に朝鮮人と台湾人に対し被選挙権を付与しています。 もし日本が西洋型の植民地統治を導入していれば、参政権どころか、分割統治 divide and rule とMonoculture を体制化していたでしょう。 戦後の歴史は、極東軍事裁判(東京裁判史観)に基づいて、国や人種を問わず認知しているのが現状です。しかし、極東国際軍事裁判判事インド人の Radhabinod Pal 法学博士が極東国際軍事裁判判決文の最後に次の一文を記しています。 「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また、理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」 When time shall have softened passion and prejudice, when Reason shall have stripped the mask from misrepresentation, then Justice, holding evenly her scales, will require much of past censure and praise to change places.(アジア歴史資料センター:A08071309000)