天皇陵新発見!真の武烈天皇陵を特定する【古墳の界隈013】

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古代史新説チャンネル

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Күн бұрын

謎多き武烈天皇陵はどこに?
復元紀年で天皇陵を見渡せば、古墳年代ともピタリと整合する陵墓が見つかります。
あわせて、第21代雄略天皇から第29代欽明天皇までの陵墓を比定してみます。
最新刊『古代天皇たちの真実 ~「紀年復元法」で浮かび上がる「日本古代史」の新たな地平~』
★9月27日重版出来!!!★全国の書店で好評発売中です★ありがとうございます!
(令和6年9月発行)ワニブックスPLUS新書 1,000円+税
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(本書の内容)
本書は、静まりかえった紀年論の沼に一石を投じることを願って書かれました。
天皇一代の平均在位年数や『古事記』崩年干支を用いたり、干支を何巡か繰り下げるような従来の手法とは決別した新しい紀年復元法を提示します。
「『原日本紀』仮説による無事績年削除短縮法」というものです。『日本書紀』編纂者の紀年延長手法を探り出し、余計な文献の援用を排除して、『日本書紀』内で紀年の復元を完結させる画期的な復元法です。
それにより、重大な発見がありました。継体天皇朝と仁賢天皇・武烈天皇朝の並立が発覚したのです。そしてそれは、紀年復元の基点とすべき年が允恭天皇崩御四七二年であることを明らかにします。従来の紀年論は、この復元の出発点を誤ったためにすべてが行き詰まってしまったのです。
続く四名の天皇の崩御年は、安康天皇四七五年、雄略天皇四九八年、清寧天皇五〇三年、顕宗天皇五〇六年が正しいのですが、『日本書紀』の紀年は一九年さかのぼってしまっているのです。
本書で復元した古代史編年表が、日本古代史の新たな地平を拓いていくことを願います。
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『日本書紀「神代」の真実』(ワニブックスPLUS新書)
『ヤマト王権のはじまり』(扶桑社新書)
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#武烈天皇陵 #古墳 #古代史新説チャンネル

Пікірлер: 30
@公束
@公束 2 ай бұрын
古墳が寿陵なら顕宗天皇の治世は古事記の8年の方が正確な気がします。100m級の古墳となると2,3年で完成させられるような大きさではないと思うので。 在位5年とされる清寧陵(110m)よりも大きいとなると治世もそれより若干長いくらいはあったかも。
@J-history
@J-history 2 ай бұрын
コメントありがとうございます。 古墳がどれくらいの期間で築造されたのかについては、あまり明確な基準がないのでなかなか難しい問題ではありますね。大仙陵古墳については大林組による15年ぐらいという試算はありますが。
@MrDeha6450
@MrDeha6450 4 ай бұрын
古墳時代とされる応神系歴代王朝~欽明朝前半ぐらいは、もしかしたら複数の王統が入り乱れる「隠れ南北朝時代」だったのかもしれませんね。各天皇崩御後の埋葬先が正しく記録されなかったり、また安閑・宣化朝VS欽明朝についていうならば、この時期の物部氏長者の麁鹿火と尾輿の血縁が遠いということとの関係も気になります。(麁鹿火は安閑・宣化朝につき、欽明朝についた尾輿の一族といわば保元の乱状態だったのかも?そして前者の系譜は大伴金村と一緒に没落した、と)。この動画で伊藤さんがメインテーマにされている「仁賢・武烈朝VS継体朝」からさらに複数皇統の時代が続いている可能性があるわけで、これらのことを改めて考えるとこのころによく磐井の君に勝てたな、と思えてきます。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
おっしゃるように、この時代の物部麁鹿火・尾輿、大伴金村、蘇我稲目の動きがまだよく理解できておりません。その辺りから何か見えてきそうな気はしているのですが・・・。 磐井の乱については『古代天皇たちの真実』でも少し触れましたが、磐井が毛野臣と対峙したときに「この間まで味方だったのでなぜ敵になってしまったのだ」というニュアンスの言葉を発しています。 武烈天皇崩御(525年)の翌年、継体天皇が治世20年(526年)に磐余玉穂宮に遷宮して実質的に天皇となったのだとすると、その翌年に磐井の乱が起きたことになります。 それ以前は大和の武烈天皇の方が主流だったと考えられますから、このとき大和では多くの氏族が継体天皇支持に回った(寝返った)のだと思います。毛野臣もその一つで、筑紫で依然として継体天皇に従う姿勢をみせない磐井の説得に送られた可能性があると思っています。
@takedaharuki
@takedaharuki 4 ай бұрын
被葬者予想。興味深いです。私もこのあたりの被葬者についていろいろ予想したりしてます。傍丘磐杯丘北陵ということで、武烈を狐井稲荷古墳と予想していますが、いろいろ悩みどころではあります。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
武田さん、ありがとうございます。 古墳の築造年代が明確でないですからね。「6世紀前半」の古墳がたくさんあって、どの順序で築造されたのか判断が難しいですし。
@kojikasan6505
@kojikasan6505 4 ай бұрын
いつもありがとうございます。わたしとって奈良は宝石箱。伊藤先生の原日本紀年表を軸にし古墳のクロスチェックを今、今試みているところです(笑) 武蔵野の陵にも行ってまいりました。これからも宜しくお願い致します。 参考文献『天皇陵の謎』『歴代天皇総覧』なども参考にしております。なんちゃって古代史ファンのコジカでしたv^^
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
コジカさん、ありがとうございます。 奈良巡りにいかれたのでしたっけ? たしかに奈良は古代日本史の宝石箱ですね。 古墳の比定を試みられたらわかると思いますが、古墳の築造年代が考古学的にあまり絞り込まれていないことにストレスを感じられると思います。 ぜひ、天皇陵の詳細な調査を進めてほしいものです。 『歴代天皇総覧』、どこかで聞いたことのあるタイトルだと思いましたら、本棚にありました。わかりやすい企画の良い本ですね。
@kojikasan6505
@kojikasan6505 4 ай бұрын
@@J-history さま。ありがとうございます。奈良は去年から50泊くらいしてます半分は奈良公園ですけど~(笑) ひとつ教えてください。動画内に「天皇陵」総覧とありましたが北島静波先生の本でしょうかアマゾンで8,000円~11、000円くらいで購入できるようですが、 間違いないでしょうか~
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
@@kojikasan6505 奈良で50泊ですか。すごいですね。わたしは日帰りが多いですが、ここ数年を合計しても50日に届かないかもしれません。 私の手元にある『「天皇陵」総覧』は、水野正好ほか著・新人物往来社発行(平成6年)というものです。たしかアマゾンで2千円ぐらいで購入しましたよ。
@kojikasan6505
@kojikasan6505 4 ай бұрын
@@J-history さま。恐れ入ります。  助かります。ありがとうございました。
@きゅーぴーたろう
@きゅーぴーたろう 4 ай бұрын
朝早くの天皇陵の考察ありがとうございます。 宮内庁管理の武烈天皇陵お参りしました。 その日は川の探索を生駒から下って富雄川や龍田川などの重要性を確認しました。 さらにその先の香芝の御陵へ… え?なんで?どうして香芝? 本編拝見してひとつひとつお参りに巡りたいと思いました。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
コメントありがとうございます。 現在の顕宗天皇陵と武烈天皇陵にお詣りしましたが、「ここに天皇は眠っておられない」と思いながらお詣りするのはちょっと変な気分でした。
@きゅーぴーたろう
@きゅーぴーたろう 4 ай бұрын
⁠​⁠@@J-history 本編拝見していてもたってもいられなくなり柏原市界隈ウロチョロしました。当チャンネルが唱える真の御陵お参りしました。武烈天皇の名誉回復を願って! 柏原市歴史資料館よかったです。古墳の出土品の展示もよかったんですが大和川の歴史が物語る興味深いものでした。   江戸時代の大和川のつけ替えの大工事についての展示が面白かったです。 今日の大阪平野の成り立ちに歴史背景を垣間見る事ができました。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
@@きゅーぴーたろう 治定に拘わらず、自分が思い描く天皇にお詣りすればよいと、今では思うようになりました。 柏原市歴史資料館にはまだ行ったことがありません。機会があれば行ってみます。 大和川は日本古代史の超重要河川ですね。
@ancientJapanesehistorywithMAP
@ancientJapanesehistorywithMAP 4 ай бұрын
まったく門外漢の世界なのでメッチャ勉強になりました ありがとうございました。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
古荘さんもぜひ、天皇陵巡りをしてみてください。 いろいろと新しいことが見えてくると思いますよ。
@岡将男
@岡将男 4 ай бұрын
吉備の備前市香登の船山古墳も、前方部が超巨大な62mの前方後円墳。半分山陽新幹線に削られていますが、この古墳と関係があるかもです。後円部32m、前方部幅52mですよ。あんまりないよね。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
岡さん、ありがとうございます。 確かに前方部が発達していますね。 じつは武烈天皇の父の仁賢天皇の陵墓(ボケ山古墳)も前方部が発達しています。 後円部径65メートルに対して前方部幅は107メートルあります。 比率にすると、 船山古墳は、32/52=1.625 ボケ山古墳は、65/107=1.646 とほぼ同じ値を示します。 比率だけを見れば、ほぼ2分の1サイズといってよいかもしれません。 仁賢天皇は播磨にいたとされます。香登(備前)は播磨と隣接しているといってよいところですから、仁賢天皇(および武烈天皇)に近い人物の墓である可能性が高いですね。
@ハリボテ砦
@ハリボテ砦 4 ай бұрын
日本書紀における武烈天皇のあの扱いはどうも納得がいきません。「ここで皇統がいったん途絶えるから」と納得している人が多いようですが、万世一系を強調したい(こちらのチャンネルの仮説に従えば王朝並立を直列に変えてまで)編纂意図からすれば逆効果としか思えないですし。原日本紀仮説のお立場からだと、武烈天皇の記述は原日本紀のさらに前の王朝並立状態の頃から引き継がれているということになるのでしょうか。 ともあれ天皇陵の宮内庁による治定と比較すると、日本書紀よりも復元紀年のほうが年代が一致してくるのは興味深いですね。
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
おっしゃるように『日本書紀』の武烈天皇の扱いは特殊です。あそこまで書かれると逆に素晴らしい天皇だったのではと勘ぐってしまいます。 並立状態を想定すれば、525年の武烈天皇崩御に、なにか『日本書紀』に書くことのできないようなことがあったのだと思っています。それが何かは特定しようがないですが。 武烈天皇紀の暴虐の数々には中国史書などからの引用もあるようですから、『原日本紀』編纂段階で本来の記事と入れ替えられたり挿入されたりしたのだろうと思います。 天皇陵古墳の年代と復元紀年が比較的近いというのも、無事績年削除法のひとつの論拠になるのではと思っています。
@隆一西
@隆一西 4 ай бұрын
こんにちは!各古墳の被葬者予想とてもロマンがあり楽しいですね😚箸墓を始め宮内庁管轄の各古墳は、今城塚古墳のようにシッカリと発掘調査してから比定してほしいですよね…発掘許可下りないのはまるで、真実を明かされたくないかのように見えるのは考えすぎでしょうか(¯―¯٥)
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
紀年を復元していると、どうしても古墳の被葬者を考えてしまうのですが、「面白おかしく比定して楽しんでいるだけ」と思われないか、ちょっと心配しています。いたって真面目に考えているつもりですが。 現状では、考古学的に詳細な調査が行われていない古墳が多いので、古墳の築造年代も大きな幅を持って語られます。せめて築造順だけでもしっかり確定してほしいですね。 一番はっきりしてほしいのは、古墳時代の幕開けを告げるとされる箸墓古墳ですね。専門家のなかでも100年ほど幅がありますし、最初の古墳が美しい完成形で築造されるというのはどうしても信じられませんので。
@大野望-d7y
@大野望-d7y 4 ай бұрын
何故 大和に大王の御陵を造らなかったのでしょうか? 血縁が、男系男子であるなら 全て大和に御陵がなければおかしいのでは? 大阪に住んでいた 大阪で産まれたのでしょうか?  何故 奈良の地域に大王陵を造らなかったのでしょうか?  豪族の 前方後円墳は、豪族の支配地域に前方後円墳を造り 大王は育った所に御陵を 造らず?  なのですね!
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
おっしゃるように、そこは不思議なところです。 百舌鳥古市古墳群が営まれ始めた仲哀天皇の頃からは朝鮮半島との交流が活発になりますから、以前からよく言われているように、瀬戸内海を通って来朝する使節に巨大古墳の威容をみせるために河内を墓地に定めたというようなことはあったかもしれませんね。
@邑人-k1s
@邑人-k1s 2 ай бұрын
偶然目に止まりましたが、概ねご推察のとおり。倭国が朝鮮半島の騒乱に関わり始め出兵後、仲哀~反正の各天皇の宮は河内以西にも所在です。仲哀・神功は長門国の「穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)」、応神は筑前国の生まれで、淀川の中洲に所在の「大隅宮」(妃である吉備・兄媛の帰省の船出を宮から見送る)、仁徳は「難波高津宮」、反正は「河内・丹比柴籬宮(たじひしばかきのみや)」です。また、履中は、弟である住吉仲皇子に襲われ、大和国の石上に脱出するまで難波に居た(伝承では、履中の妃を犯したという仲皇子を、その弟である反正が皇子の近習隼人を騙して彼を刺〇させ、反乱を防いだという。直接の関連があるか否かまでは特定しえぬが、八尾市久宝寺遺跡の集落跡の調査では、5世紀中頃の隼人の住居跡と土器が検出されてもいる)。  一方、古市古墳群のある河内国の北東部は物部氏が盤踞した拠地(討伐軍を避けた守屋が河内国渋川郡「渋河の家」「阿都(あと)の別業」に)、また、古墳群内には物部氏の支族である「辛国連(からくにむらじ)」(辛国神社が鎮座)、安閑陵のある高屋丘陵はやはり物部氏の支族である「高屋連(たかやのむらじ)」(高屋神社が鎮座)という如く、物部一族の領有地が散在。他方、和泉国北部に所在する百舌鳥古墳群近在の摂津国住吉郡は、大伴氏の拠地(金村が失脚後隠棲したという「住吉の宅」)です。いわば、ともに当時のヤマト政権を構成する二大有勢豪族の強い影響下の土地といえる。  ちなみに、顕宗・武烈は、馬見古墳群の南西端部支群に相当する香芝市・狐井稲荷(きついいなり)古墳が真の顕宗陵(長80余m)、それに南接する狐井城山古墳が真の武烈陵(長約140m)に該当するとほぼ特定されていて、「国史跡」指定申請を目指して確認調査中です(二上山博 2020、『第2回企画展図録』参照)。
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