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「邪馬台国の界隈」「日本書紀の界隈」「古墳の界隈」という3つの視点から古代史の新説を発信します。
●「邪馬台国の界隈」では、魏志倭人伝の全文を丁寧に読み解いていきます。
邪馬台国への行程解釈の基本となるのは、「魏志倭人伝後世書き換え説」と「郡使の報告書への地図添付説」です。そのほか「道里」「周旋」「王」「会稽東治」「景初二年」など重要用語から、邪馬台国像・卑弥呼像に迫ります。
●「日本書紀の界隈」の基本となるのは、「『原日本紀』仮説による無事績年削除短縮法」というまったく新しい紀年復元法と、その復元紀年に基づく『日本書紀』の記事内容の検証です。
「継体朝と仁賢・武烈朝の並立説」や「崇神天皇・神武天皇・彦火火出見尊の同一人物説」などの紀年復元にまつわる新説提示とともに、天皇の系譜や日本武尊、武内宿禰、神功皇后といった重要人物を詳細に考察しながら、古代史の真実に迫ります。
●「古墳の界隈」では、復元紀年をもとにした年代観で古墳や弥生墳丘墓を再チェックしていきます。
新たな実年代を与えると、従来から定説とされている古墳の見え方が大きく変わってきます。
☆紙の本もよろしくお願いいたします!
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Пікірлер
@lebaronde3204
5 сағат бұрын
「弱冠」は事実!ありがとうございます😊 そういえば、楯築フォーラム参加しました。はじめて生で御4方をお見かけしました😊
@やふのすけ-z2q
Күн бұрын
景行天皇とヤマトタケルの 血縁関係がまず怪しいかもです 私見ですがヤマトタケルは タケヌナカワワケの息子では? 草薙剣を熱田で受け取り 熱田に戻すのも説得力を持つし 3種の神器とは言うものの 草薙剣は元々は東海勢力の 唯一の神器では思ってます アメノムラクモと言うのが 東海勢力の長の名前だったと
@J-history
Күн бұрын
コメントありがとうございます。 景行天皇と日本武尊の親子関係だけでなく、血縁関係も否定ですか。武渟名川別との年代観は合うかもしれませんね。
@fukudaleighjulio9954
Күн бұрын
卑弥呼=大日孁貴 ほぼ妥当で自然な解釈だと思います。魏志倭人伝他の中国の文献や考古学的観点からも矛盾だらけの畿内説が学会やマスコミで主流なのは、様々な経緯があるのでしょうが、非常に馬鹿げたことで、学問的にも恥だと思います。
@J-history
Күн бұрын
コメント&ご同意いただきありがとうございます。 畿内の年代観については、科学的分析などを論拠に語られることが多いので、文系の人間ではなかなか判断が難しいです。邪馬台国時代に邪馬台国(女王国)に匹敵する国が畿内にあっても不思議ではないと思いますが、それは邪馬台国(女王国)ではない後世に名前の残らなかった国だったという認識になります。
@fukudaleighjulio9954
Күн бұрын
@@J-history 複数の論者が唱えているように「邪馬台国」は大和(倭)国のことを指しているというのも自然な見方かもしれません。魏志倭人伝は3世紀末に記されたものであり、その頃までには大和朝廷の元となった勢力が台頭しているはずですので、陳寿の調査した資料の中には倭のことが記されていて、倭=邪馬台と読まれたというのも自然に感じます。したがって、これも複数の論者が指摘しているように、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、魏と交渉のあった北九州の一大勢力の女王であったとみるのが妥当ではないでしょうか。
@J-history
23 сағат бұрын
@@fukudaleighjulio9954 そうですね。このチャンネルでも3世紀中頃には大己貴神・事代主神親子によるプレヤマト王権といえる国が出雲から大和にかけて存在したと考えています。 そこに女王国(高天原)出自の饒速日命が来て・・・、というように激動の3世紀を想定しています。
@masamasaict7312
2 күн бұрын
面白い思考実験!これからも動画のアップ頑張ってください。そもそも記紀の制作年から遡ること数百年だと、作った人たちも誰も検証は出来ないと思います。ひたすら思考実験からは出られません。妄想と言った方が潔良いかもしれません。記紀に載っているのは最初は九州での出来事ですよね。 邪馬台国が九州にないとすれば、納得出来ます。別の政権だからです。
@J-history
2 күн бұрын
コメントありがとうございます。 このチャンネルが無事績年削除法で復元しようとしているのは、681年に天武天皇が編纂を命じた国史の年代観です。そこでは、明らかに倭の五王の遣使朝貢などが隠蔽されていますが、天武天皇は国史の完成を急いだはずですので、大幅な紀年延長などは命じなかったと考えています。
@trinitydisconnect
2 күн бұрын
日本武尊=誉津別命=(阿保親王・息速別命)と考察しています。 息速別命は、建部の祖。大津の建部大社は日本武尊を祀る。滋賀県の愛莊町は仲哀・神功を祀る。 100年紀年延長すると4つの名前が必要になるのかも?景行も同一人物かも?
@J-history
2 күн бұрын
いつもありがとうございます。 阿保親王はかなり新しい年代になるのでは? 阿保親王が投影されているというお考えなのでしょうか? とにかく『日本書紀』は紀年延長の際に、かなり無理をしているということは間違いないでしょう。
@trinitydisconnect
2 күн бұрын
@@J-history 様。阿保親王はかなり新しい年代になるのでは?→別人が存在するのですか?私は垂仁の皇子の阿保親王・息速別命の事をコメントしたんですけど?
@J-history
2 күн бұрын
@@trinitydisconnect ご返信ありがとうございます。 息速別命は『日本書紀』では垂仁天皇15年条に言及される池速別命のことだと思いますが、阿保親王は平安時代の平城天皇皇子のことかと思ってました。『日本書紀』成立後の話ですが。
@trinitydisconnect
2 күн бұрын
@@J-history 様。だと思いました。古代史は情報のズレが問題だと思います。先生の紀年復元を応援しているのも、古代史ファンの情報のズレを何とかできないかな?と思います。
@J-history
2 күн бұрын
@@trinitydisconnect このチャンネル最大のテーマは、『日本書紀』の紀年復元ですので、できる限り『日本書紀』本文を尊重した考察を続けています。「一書」などの異伝や『古事記』の記事などを参考にしだすと、論が広がりすぎて収拾がつかなくなるからです。 それで、まずは天武天皇が正しいと認めた(必ずしも真実ではないとしても)歴史=『原日本紀』を復元することを目的としています。 なぜ、紀年復元かといいますと、自分の信じる編年がなければ、自分の中で論理的な推論ができないからです。 『日本書紀』の解釈において、おっしゃるように様々な方が様々な論を語られますから、ズレが生じるのは仕方ないと思いますが、前提条件としてそれぞれ自身の信じる編年を示す必要があるのではといつも思っています。 引き続きよろしくお願いします。
@kimioitou
3 күн бұрын
記紀原本発見で全て解明…広開土王碑391年辛卯399年己亥は記紀から消された崇神62年シホノリヒコ派遣と垂仁2年の再派遣…これにより景行日嗣年は当時の暦アスズ788年ヱト"サシト"干支"丁丑"の西暦497年…ヤマトタケ幼名コウス諱ハナヒコの没年は景行41年西暦537年41歳…景行の消息は54年西暦550年9月以降不明…成務・仲哀など後の天皇は捏造…竹内街道大仙古墳に眠る古事記改竄捏造反乱軍司武内宿禰とその妾自称'"神功"の香春岳新羅姫許曽の飯炊き女…反乱内密の西暦551年武内宿禰は己をモデルに新たな"ウマシ"国の蘇我ウマシ(馬子)を捏造古事記に誕生させ妾もヰヲノ姫クスコ(葛子)とイワツクワケ(盤井)一族と八十物部の筑紫制圧554年に推古天皇を捏造誕生させて…P.S.記紀の"干支"は原本の"ヱト"に当てはめたために大陸の干支を6年先行してしまい後年初回遣隋使が消えてしまいました…。😄記紀原本ホツマツタヱより
@J-history
3 күн бұрын
随分新しい年代観かと。
@どうく-p8u
4 күн бұрын
ヤマトタケルは垂仁天皇の子供の誉津別命であり誉津別命の子供が仲哀天皇ではないかと言う事ですが、私はヤマトタケルは二人いたと考えています。それは記紀にはヤマトタケルは兄弟であり大碓命と小碓命がいたとあるからです。と言う事は当時は畿内に大和王朝があり九州に九州王朝があり2つの王朝が並立して、ヤマトタケルも二人いて、九州王朝には景行天皇の子供の成務天皇=武内宿禰のヤマトタケル小碓命がいて畿内には大和王朝の垂仁天皇の子供の誉津別命のヤマトタケル大碓命がいたと思われます。そして記紀には小碓命が大碓命を殺したとありますからこの事は九州王朝のヤマトタケル小碓命=武内宿禰が畿内大和王朝のヤマトタケル大碓命を滅ぼして全国統一して応神天皇となった事を表しているのではないでしょうか。
@J-history
4 күн бұрын
なるほど。面白い説ですね。ただ単なる応神天皇の新王朝説より論理的ではあると思います。
@gagri5373
5 күн бұрын
お久しぶりです。私も21旁国を比定してます。 一つだけ前提として「奴」の意味するところとして「港=船着場」としました。またその延長として(さな、しな=砂)と解釈。ではスタートします。 狗邪韓國 くや 韓国(伽耶) 對馬國 としま 対馬 一支國 いき 壱岐 末盧國 まつら 唐津(肥前国松浦郡) 伊都國 いと 糸島(筑前国怡土郡) 奴国 な 春日(筑前国那珂郡) 不彌國 ほなみ 宇美(筑前国御笠郡) 投馬國 つま 八女、みやま(筑後国上妻、下妻郡、山門郡) 邪馬壹國 やま(も)と (肥後国山鹿郡、菊池郡、山本郡) 斯馬國 しま (肥前国杵島郡) 巳百支國 ゆばき(肥前国彼杵郡) 伊邪國 いや 諫早(肥前国高来郡) 都支國 とき 島原(肥前国南高来郡) 彌奴國 みの 長崎(肥前国彼杵郡) 好古都國 こ(た)がた(筑前国遠賀郡、岡田宮) 不呼國 ぽ(た)か(筑前国穂波郡) 姐奴國 し(な)の(筑後国三潴郡) 對蘇國 と(り)そ 鳥栖(肥前国養父) 蘇奴國 さな (肥前国佐嘉郡、小城郡) 呼邑國 かよ (肥前国神埼郡) 華奴蘇奴國 ながさな 吉野ヶ里 (肥前国神埼郡) 鬼國 き(い)(豊前国企救郡) 為吾國 いが (豊前国田河郡) 鬼奴國 きの (豊前国御毛郡) 邪馬國 やま (肥後国阿蘇郡) 躬臣國 くじ (肥後国合志郡) 巴利國 ぱり (肥後国託麻郡波良郷、阿蘇郡波良郷) 支惟國 きい (肥後国玉名郡) 烏奴國 あな (肥後国飽田郡、宇土郡) 奴國 な 御船(肥後国益城郡) 狗奴國 くの (肥後国八代郡、球磨郡、葦北郡 以南) スタートの斯馬國が杵島郡になったのは偶然とは言え、嬉しく思いました。 比定に際しては、ある程度の連続性はあるものの、3つのラインに分かれました。文字を使わない時代の口頭伝聞であれば、必ずしも21国全てが連続していなくても特に違和感はないと判断してます。 また、別のコメントで「当時は由布岳、九重連山の噴火が頻繁にあったと考えられる」と書きましたが、その影響もあるため宇佐以南と豊後国、日向国は女王国から省きました。 比定が難しかった所は「巴利國」「支惟國」。「巴利國」については、肥後国の託麻郡と阿蘇郡の両方に「波良郷」が有りますが、おそらく両方とも江津湖に接した隣同士の郷と推定。「支惟國」については、玉名市に疋野神社という2000年以上の歴史をもつ有名な由緒ある神社がありますが、この疋野はもとは疋石野(ひきいしの)からきています。御祭神は波比岐神。 その他、緑川以南を私は狗奴國と考えていますので、傍国21国でちょうど地理的にも収まりがよく、上記比定で8割方合っていると自信を持っています。 なお、最後の「奴國」は益城郡を比定していますが、これは「奴=港」というところからの強引な比定です。 また筑後国山門郡を投馬国としてますが、もしかしたら筑後国山門郡までが邪馬壹國に入るかもしれません。しかし、その間には「南関」という昔から関所で有名な場所もあるため、今回はこの関所で区切ってみました。他に、肥前国神埼郡がダブってるように見えますが、吉野ヶ里は特別な位置付けとして、「蘇奴國」の中の「華奴蘇奴國」と捉えてます。
@gagri5373
4 күн бұрын
続けてすみません。 伊藤さんとは「狗奴國」の場所でも意見がズレてますので、私が緑川以南を狗奴国に比定した考えについて以前のコメントから新たに分かった事もありましたので追記しておきます。狗奴國については、狗古智卑狗を菊池彦とし九州説に限らず肥後国菊池郡とする説が大多数ですが、私が新たにポイントとして挙げる地区は、「球磨郡球玖郷」です。球玖郷で検索してもらうとわかりますが、球玖郷は現在の「城南町隈庄」とする説が有力らしいです。ここは現在の球磨郡の場所とは違うので???と思わないわけではありませんが、そこは素直に受入れるとして、この「城南町隈庄」という地区は考古学では非常に有名な場所らしく、石器、縄文、弥生時代とそれぞれの時代の遺跡が発掘され、時代の移り変わりを研究するには絶好の場所と聞きました。塚原古墳群のすぐ傍であり、近くには熊本県内最古で大きな寺院だったと言われる「陣内廃寺跡」もあります。やはり、昔から緑川を挟んだ北と南では治めている国は違ったのだろうと想像できます。因みに戦国時代も緑川以北は加藤清正、以南には小西行長が入国しており、やはりこのラインで分かれていました。 話は変わりますが、最近は引田天功さんの埋蔵金にも興味をそそられており、楽しみがまた増えてワクワクしているところです。
@nomitake-sf4fm
5 күн бұрын
成務天皇=誉津別命=日本武尊、ではなかろうか。でもって佐紀古墳群にある成務天皇陵に葬られた。近くにある神功皇后陵は仲哀天皇の陵墓ではなかろうか。
@J-history
5 күн бұрын
コメントありがとうございます。 成務天皇の存在についてはさまざまに考えられる方がおられて、面白いですね。 このチャンネルでは、無事績年削除法による復元紀年をもとに考察していますので、面白い説を思いついても、そこから外れる論は展開できないのです。。。 神功皇后陵については、神功皇后非実在説を唱えているので、被葬者はすごく気になります。
@ancientJapanesehistorywithMAP
5 күн бұрын
なるほど 伊藤さんの切れ味鋭いロジックは 日本書紀のこうしたところに適用するとめっちゃくちゃ面白いですね この手のものをどうとらえるかが 大和王権初期の構造にまで影響をあたえそうですね
@J-history
5 күн бұрын
古荘さん、ありがとうございます。 私は自身で「無事績年削除法」の客観性には自信を持っているので(それが正しいかどうかは別です)、それをもとにした考察は私の中では論理的だと思っています。私の中では、ですよ。 『日本書紀』がわかりにくいのは、ほぼすべて紀年延長操作によるものだと思っています。
@MrDeha6450
5 күн бұрын
日本書紀に記された天皇の系譜と宋書の倭五王の系譜が一致しない(こちらの解説もわかりやすかったです)のはよく知られていますが、日本書紀の系譜はそれ単体で怪しいところがある、ということがわかりました。しかしヤマトタケル=ホムツワケととれるのは驚きました。他にも同一人物がなぜか系譜上複数人になっていると考えられるところはありそうですね。有名どころでは神武天皇=崇神天皇説が有力に唱えられているところでしょうか。
@J-history
5 күн бұрын
『日本書紀』の、特に初期天皇紀においてさまざまな不整合が生じているのは、すべて紀年延長操作に原因があると思っています。だから、まずは紀年を復元しないと真実に近づけないのではないかというのが、このチャンネルの基本姿勢です。 初代天皇は、彦火火出見尊=神武天皇=崇神天皇説です。 東征前(神話の時代)を彦火火出見尊、主に東征前後を神武天皇、即位後を崇神天皇というように、3つの神格に分けたのだと考えています。
@MrAirrium
5 күн бұрын
誉津別命=日本武尊説、大変興味深いです。 ヤマトタケルという名前自体は菊池山門討伐軍の意味であって人物名ではないと思っているので、御説腑に落ちました。 紀年について私はまだ勉強不足ですが、九州勢力だった崇神武から景行期の間に白鳥をトーテムとした旧奈良勢力の復権があったと考えています。 神功皇后のクーデターでまた九州・紀系に権力が移行し、更にそれを覆えしたのが継体天皇だったと見ています。
@J-history
5 күн бұрын
いろいろ、前提条件は異なると思いますが、古代史論、特に古い時代については、ほぼすべて立証しようのない仮説ばかりですから、大いに創造の翼を広げてください。 誉津別命=日本武尊説にご興味をお持ちいただきうれしいです。 仲哀天皇が子に「誉」田別、「誉」屋別などと名付けたのは、父が「誉」津別だったからだと考えています。
@TAJIRI-123
5 күн бұрын
初級者が感じた事ですが、「弱冠」=「二十歳」という表記は、西暦100年代又は300年代の「文字が存在しない倭国」に元々あった概念を、漢字に翻訳したのか? それとも、古代の天孫族は中国語を使っていて、その言葉そのものを伝えたのか?、、、(という恥ずかしいレベルですみません) ★「年輪年代法のデータ公開請求訴訟」の公開命令判決、降りましたね。今夜21時の「古荘ライブ」楽しみです!
@J-history
5 күн бұрын
いえいえ。それは私もわかりません。 ですが、少なくとも『原日本紀』編纂者は正しく理解していたと考えています。 それを、紀年延長した際の編纂者は、内容を変更せずに紀年のみを引き延ばしたのだろうと思います。 今晩のライブ、興味深いですね。楽しみましょう!
@takedaharuki
5 күн бұрын
紀年と年齢の矛盾は私も強く感じます。仁賢・顕宗のあたりも、彼らは子供のはずがないとか、いろいろ疑問を持っています。また、景行天皇は日葉酢媛命の息子であり得るのかとか、そういったことでも日本書紀についてはいろいろと疑問ばかりです。でも、「弱冠」、こういうところから、いろいろなことが紐解ける気がしてきました。
@J-history
5 күн бұрын
武田さん、ありがとうございます。 私は、紀年延長前の『原日本紀』という史書があったという説ですので、その時点で正しく用いられていた漢字がそのまま残っているのではないかと考えています。 誉津別命=日本武尊説についても、仲哀天皇が自身の子に「誉」田別や「誉」津別という名前を付けてることも根拠になると思っています。
@hideanazawa2155
5 күн бұрын
「日本書紀の界隈015」との違いは「日本書紀には真実を表しながらあえて注目されない言葉、漢字がたくさんある」が付いたことか….。 確かに多い。
@J-history
5 күн бұрын
こちらもご視聴いただきありがとうございます。 手を変え品を変えて、さまざまな角度から新説を語り続けないと、古い動画は見向きもされなくなって埋もれてしまいますので・・・。「またおんなじやん!」とご笑覧ください。
@wan6347
5 күн бұрын
そもそも卑弥呼の時代は松浦半島は松浦じゃないんだよね。 神功皇后が宗像の松浦の豪族を追い出したんです。 彼らが逃げ込んだのが松浦半島で、そこが松浦と呼ばれるのは後の話なんです。 伊都国も糸島てはありません。 小倉北区到津です。 神功皇后が三韓討伐を終えて最後に自分の船団を預けた軍港てす。 関門海峡を支配し、長門、筑前を監視するためです。 奴国も博多ではありません。 「金印の奴国」と「魏志倭人伝の奴国」は別の国です。 魏志倭人伝の奴国は中津市ですね。 豊葦原仲津国です。 不弥国は国東市国見町伊美ですね。 ここは日本神話に出てくる姫島へ渡る港があります。 姫島は縄文時代から灰色黒曜石の採れる重要な場所で、瀬戸内海への中継拠点としても重要な場所なんです。 西九州では不弥国から先が説明出来ないでしょ。 東九州なら簡単に説明出来ます。 南に水行20日 これは豊後水道を通るからです。 太平洋から強い海流が流れ込むので、船は南になかなか進めません。 かと言って国東半島には道がありません。 なのでここを通るしかないんですね。 投馬国は別府市、大分市ですね。 人口が多いのも納得出来る場所ですね。 南へ水行10日 延岡市美々津に着きます。 邪馬台国は宮崎県全域なので、魏志倭人伝の人口は全体の数になります。 陸行一月 内陸の山岳地帯を行きます。 高千穂町に着きます。 ここは天孫降臨の地であり、高天原であり、天照大御神の居た場所であり、神武天皇が東征を始めた場所です。 西九州では辻褄が合わないです。 永久に邪馬台国に辿り着けませんね。
@J-history
5 күн бұрын
詳細なコメントをありがとうございます。 このチャンネルでは不彌国(比恵那珂遺跡群)からの水行は御笠川の遡上を考えています。 また、20日、10日、1月の合計2か月の日程は、後世の書き換えという説です。
@tetsuro6733
5 күн бұрын
いつもながらお見事な推察です!!
@J-history
5 күн бұрын
いつもありがとうございます!
@岡上佑の古代史研究室
5 күн бұрын
アップ有難うございます! 成務天皇自体、かなり怪しいですからね! 日本書紀のセリフから、紀年や親子関係を考えるのは非常に有意義だと思います。
@J-history
5 күн бұрын
岡上さん、ありがとうございます。 自分で言うのもなんですが、無事績年削除法で縮めると、系譜とかもけっこう合理的に復元できるのです。 成務天皇の非実在説などもよく語られますが、7年間の治世を想定しています。 この復元法は基本的に機械的な作業であり恣意的な操作がほぼ入らない、というのが売りですので、勝手に変えられないのです。 それで復元した「原日本紀年表」をもとに天武天皇による改変を考察して修正した編年は一応「伊藤式古代史編年表」ということにしています。
@岡上佑の古代史研究室
5 күн бұрын
@ さん 私自身、無事績年の考えに賛同ということではないんですが、けれども、日本書紀を読むなら延長された紀年をどう客観的にふくげんするのかというは、非常に大切な視点だと思います。
@J-history
5 күн бұрын
@@岡上佑の古代史研究室 そうですね。それは誰でもぶつかる壁(問題)だと思います。
@ファビラスラフィン-i2x
7 күн бұрын
紀元250年に邪馬台国がどこかにあった。九州ぬあったとすると、大和朝廷による熊襲征伐などの九州征伐がある前に邪馬台国がないとおかしい。熊襲征伐で九州は大和朝廷の支配下にはいる。邪馬台国が倭国の代表として魏に行けない。近畿にあってももちろん大和朝廷の支配下にある。よって大和朝廷ができたのも紀元200年~400年ぐらいでは?。
@J-history
6 күн бұрын
ヤマト王権の成立は301年と想定しましたが、日本武尊の九州遠征のころには、卑弥呼や壹与を共立した30国の連合体である女王国は瓦解していたのかもしれませんね。
@藤井正昭-j1b
10 күн бұрын
楯築フォーラムお疲れ様でした。僕はフォーラムだけの参加でしたのでご挨拶できませんでした。 神功皇后が実在しなかったとなると全国に残る神功皇后伝説はどのように理解すればいいのでしょうか? うちの近く(神戸市北区)に唐櫃(からと)という地があり、三韓征伐からの帰還中に金鶏を埋めたとされる布土(ぬのど ふど)の森という場所に祠があります。 また応神天皇の父母は誰だとお考えでしょうか? 日本書紀編纂者と当時の皇室にとって不都合な真実があったのでしょうか?
@J-history
10 күн бұрын
楯築フォーラムにご参加いただきありがとうございました! 多くの方にご来場いただき(新聞報道で240名)とても感謝しております。 (以下、神功皇后については多くの反論があることは承知の上での話です) 神功皇后が卑弥呼に準えて創作された女帝であるとすると、必ずしも復元した紀年(4世紀)にはそのような女帝がいなかったと仮定してもよいと思っています。 ほんの1、2か月で三韓を征伐するのも不自然ですし、西征した主体は仲哀天皇であり、その仲哀天皇の崩御は隠されたとされます。どの時点まで隠されたかは記されませんが、それが真実だとしても、一般の民は神功皇后(息長足姫)の存在をそれほど認知していなかっただろうと思います。神功皇后の男装といい、『日本書紀』の記述にはかなり無理があると思います。 『日本書紀』の紀年延長操作が行われる8世紀初頭の数十年前の661年には斉明天皇が瀬戸内海を西征に向かいます。その記憶はまだ残っていたと思われますので、その伝承が『日本書紀』完成までの期間あるいは完成後に神功皇后の記事と錯綜していったのではないかと思っています。 これも反論が多いのはわかっておりますので、普段はあまり触れないようにしておりますが、神社のご祭神など(風土記の成立時期も含めて)もいつ定められたのかは不明です。『日本書紀』の神功皇后摂政紀成立後の可能性も高いのではないかと思っています。 応神天皇の父母については、応神天皇と仁徳天皇の兄弟説から考えると、仲哀天皇と高城入姫の可能性が最も高いと思っています(現在のところ)。 これについては、「応神天皇と仁徳天皇は親子ではなかった!〈シリーズ倭の五王〉【日本書紀の界隈022】」(kzbin.info/www/bejne/eGq4lH5tZd6Vmc0)をご覧いただければと思います。 神功皇后については、王朝に特に不都合があるわけではなく、『日本書紀』の信憑性を唐に対して担保するために、卑弥呼に準えながら決して大王ではない(卑弥呼のように遣使朝貢したことを記すことは非常に不都合です)女帝を創作したに過ぎないと考えています。 今後ともよろしくお願いします。
@ファビラスラフィン-i2x
11 күн бұрын
「なぜヤマトを目指したのか」明らかに初めからヤマトを目指していた。大阪で負けても回り道してでもヤマトに入ってる。「東方にいい土地があるそうですよ」そんなことで東征するとは思えない。神武天皇が東征したときにはヤマトが「いい土地」だというしっかりした情報があった。日向にいる神武天皇がヤマトの情報を得るチャンスがあったのは、景行天皇の「熊襲征伐」しかない。景行天皇は「日向」と名付けたとか非常に日向と縁がある。西都原古墳群には前方後円墳で宮内庁が管理している「男狭穂塚・女狭穂塚」がある。これは景行天皇の墳墓だという説がある。「熊襲征伐」時に景行天皇が死に大和朝廷が敗れた。(だから景行天皇と次の天皇の在位期間がおかしなことになってる)熊襲の酋長が天皇を倒して大王になった。大和朝廷(いい土地)の事を知った大王は大和朝廷の大王(天皇)になるためにヤマトに移ることを決めた。初めからヤマトが目的地だった。 時代は、紀元250年の「邪馬台国」の後に「熊襲征伐」がないと「熊襲征伐」で九州は大和朝廷の支配下にはいるから魏に倭国代表として使者をだせない。 「神武東征」があったのは、紀元4~5世紀の事になる。こうして大和朝廷を乗っ取り、神話の頭にいろいろ付け加えて正当化した。こうして「日向」の名づけと共に神話の国となった。 へんぴな宮崎から東征するのは不自然。はじめから日本列島の中心となる近畿や関東に天孫降臨しないのは不自然。宮崎から始まるには史実がいる。
@J-history
11 күн бұрын
神武東征は基本的に「吉備の事代主神による大和奪還作戦だった」と考えています。初代天皇(彦火火出見尊=神武天皇=崇神天皇)は、大和の天孫族である饒速日命(饒速日命は天孫ですが、当時は二代目饒速日命=可美真手命と想定)に対する旗頭として求められたのだと考えています。初代天皇は天孫(瓊瓊杵尊)の子だからです。事代主神と初代天皇をつないだのは、吉備の塩の商人であった塩土老翁だと考えています。吉備の塩は畿内から九州まで交易されていたと思います。 塩土老翁は事代主神からの伝聞や実際に大和まで足を運ぶことで、大和を熟知していただろうと思っています。
@ファビラスラフィン-i2x
12 күн бұрын
紀元260年ごろの話だとすると、邪馬台国が同じころに存在してたと「魏志倭人伝」に書いてあるんだから、邪馬台国がどこにあろうがおかしなことになると思うが。
@J-history
11 күн бұрын
コメントありがとうございます。 邪馬台国は壹与の時代になっていたと思いますが、九州北中部に存在したと想定しています。饒速日命はそこから出ていった人物だと考えています。
@abcdwxyz5678
13 күн бұрын
一つ質問させて下さい。末盧国伊都国から上陸して奴国不弥国そして河川航行され投馬国。そこから有明海を少し南下して直ぐに上陸して今度は陸行して邪馬台国熊本説で方保田東原遺跡に到着だそうですが、この場合、魏からの使者達は大変難義な旅程ですね。それより伊都国あるいは末盧国から海岸線伝いに長崎の方を周って有明海に入り熊本平野に上陸し陸行した方が一行にとっては楽ではないかと想いますが如何でしょうか?
@J-history
12 күн бұрын
コメントありがとうございます。 伊都国で臨検したのちの行程については、魏志倭人伝に記されたルートが最も安全で効率的なルートだったのだろうと思います。 長崎を回り込んで有明海に入る海路が安全なルートとして確立されていた(中継拠点の集落なども)らそのルートを選択した可能性もあると思いますが、そうではなかったのでは、と考えるほかありません。
@abcdwxyz5678
10 күн бұрын
ご返信有難うございました。そこで更にご教示下さい。ご返信の仰せの通り、安全性と効率化こそが邪馬台国への道の二つのキーワードです。肥前国海岸沿いの水行は貴方が斯馬国巳百支国伊邪国に天草は濔奴国にそれぞれ比定されており海岸沿いの拠点集落も安全だと考えます。魏からの下し賜った品物(銅鏡百枚など)は大変な荷で船に積んだまま熊本の海岸に到達できるのは何より効率的なのでは。従って内陸を陸行しまた船に積んで河川航行さらに有明海を水行し上陸また歩く。これはどうみても非効率としか見えませんが如何でしょうか?
@J-history
10 күн бұрын
@@abcdwxyz5678 ご返信ありがとうございます。 伊都国での臨検がマストであるとして、そこから先、おっしゃる海洋ルートが安全であり、一行が経由する拠点集落も整備されていたとすれば、そのルートを選択する可能性もあったと思います。そうであれば、(郡使の報告書が魏志倭人伝の原史料となったのであれば)魏志倭人伝の行程記事はそのようになったはずです。魏志倭人伝の行程記事が現在のようになっているということは、伊都国以降、邪馬台国までのルートが奴国、不彌国、投馬国を経由するように整備されていたのでは、と考えるしかないと思っています。 外海の航海はできるだけ避けたかったのかもしれません。下賜品を全喪失する可能性もあるので。
@宮本孝正
15 күн бұрын
上の方に1792470→1797420、√1797420≒1340.,,が儀鳳歴 11:33 総法の値で神武東征*667〜天武即位の翌年674に相当する(のでほぼ確定)とありましたが、247→742は恣意的過ぎます。√1792470≒1338.83、東征開始は*667/10月なので*666.25。1338.83-666.25=672.58。大凡672/7月下旬=壬申の乱集結の時に当たります。また1340が目標であれば√1795600に近い√1795620あたりが最適です。1792470の179:倭国大乱、247:卑弥呼没であることを再度喚起したいと思います。(以上は江口洌説の敷衍です。)
@J-history
14 күн бұрын
>上の方に1792470→1797420、√1797420≒1340.,,が儀鳳歴 11:33 総法の値で神武東征*667〜天武即位の翌年674に相当する(のでほぼ確定)とありましたが、247→742は恣意的過ぎます。 はて、いったい何のことでしょうか? 別動画の「神武天皇が東征出発した年は瓊瓊杵尊の天孫降臨から1792470余年経った年である」と記される1792470は1794270の2と4を誤って記したものであろうという仮説のことでしょうか? そうであれば、まったく、おっしゃっているようなことは申し上げておりません。 儀鳳暦の基準年である664年を起点に儀鳳暦の総法1340を二乗した年(1795600)をさかのぼった年を天孫降臨の年に定め、そこから東征出発の年を算出すれば1794270が得られるので、1792470は誤記ではないかと考える説です。 ところで、倭国大乱179年は特定されていないのでは? 倭国乱は「歴年」としるされていますし。
@宮本孝正
14 күн бұрын
@@J-history 総法に由来する664は私の理解不足です。私は1340は*670-670→*667-673に使われたと解釈しています。倭国大乱は確か178-183(?もう少し後か)だったと思います。ウル神武紀大数は1337弱が現行の1339弱になりました。672の前は670(日本成立)だったからです。
@宮本孝正
14 күн бұрын
@@J-history1795600-664=1794936→1794936-1794270余=666-余、というように、東征開始(*667)の翌年以降になりませんか?
@J-history
14 күн бұрын
@@宮本孝正 紀元前667年は664年の1330年前です。 そして、その1794270年前が、瓊瓊杵尊が天孫降臨した1795600年前(儀鳳暦の基準年664年からみて)となります。余年の「余」はなくぴったり一致ということになりますが。
@宮本孝正
14 күн бұрын
@@J-history ①降臨から「1794270(余)年経っている」は「1794270年前」と1年違うのでは?②*667-664=1331=11×11×11であって古代人は「1330年前」とは言わないのでは?③明らかに異質の数を加えた上で(A×A+X)それの( √)を開く(=1340)所に強引さを感じます。④1792470と1794270の誤記という解釈で1340が導かれたことに真実性を感じられたのでしょうが、これは江口説に比べ数の遊びのように感じました。但し紀年作成者は数の遊びを乱用しているので、即誤りということではありません。⑤総法1340は書物で見かけましたが、664の説明に接していません。疑問は頭の片隅に置いておきます。
@岩本浩也
15 күн бұрын
伊豆に事代主の妻が祀られている天馬駒神社という小さな神社があります。下田市蓮台寺という場所です。海の方へ行くと恵比須島という地もあります。伊豆一宮は三嶋大社であり、御祭神は大山祇命と事代主、木花開耶姫です。 流刑なのか、交易なのか分かりませんが古代史と伊豆の繋がりが興味深いです。
@J-history
14 күн бұрын
コメントありがとうございます。 『日本書紀』に登場する神々を祀る神社は東国にも広がっていますね。 とても興味深い事象ですが、どう判断してよいのか、なかなか難しい問題だと思っています。 たとえば、(私見ですが)「事代主神」という名前は『日本書紀』編纂時期に与えられた神名だと思っているからです。 引き続きよろしくお願いします。
@宮本孝正
15 күн бұрын
御著書156頁編年表によれば、継体25=531が継体没年で、異説534は無視(割愛)されていますが、この異説をどう扱うかは無視できない問題と思います。534が(紀の記述としては)正しく531は別物という気がします。
@J-history
15 күн бұрын
コメントありがとうございます。 まずは本文を信じてみるのが筋だと思います。このあたりは、歴史の真実→『原日本紀』→『日本書紀』というように編年が二転三転させられた時期です(私見)。 異説と言われるものは、編纂過程の注意書きが最終的に削除されずに残っているだけ、という可能性もあるのでは。
@宮本孝正
15 күн бұрын
@J-history この機会に 継体の次の安閑について。記では安閑528-535ですが紀は安閑534-535で、貴著は532-535と修正されています。ここは無事績年削除の反対です。以前崇峻について588-592ではなくウル崇峻は588-591だと指摘しましたが、削除の逆のケースもあるということでしょう。辛亥の変531を根拠に継体没以降の二王朝並立説があるわけですが、貴著は507-525仁賢武烈朝としていて、独創的ではありますが、何となく机上の推論で通説より弱いと感じてしまいます。(妄言?多謝)
@藤井正昭-j1b
15 күн бұрын
1/18のフォーラムに参加させていただくので予習復習をしているところです。笑 楽しみにしております。
@J-history
15 күн бұрын
楯築フォーラムにご参加ありがとうございます! 大雑把なテーマしか決まっていないライブですので、どうなりますか、楽しみでもあり心配でもあり・・・。 来ていただいた方に楽しんでいただけるとよいのですが。
@小谷展宏
15 күн бұрын
天照彦火明命、、、、と、天照は男神になっている。これは私の隣の町のたつの市にある粒座神社で、天照が祭神。竹之内文書でも同じその男神の名前で記載されている。またホツマツタエでもアマテラスは男神である。 天皇家でも天照は男神として祀られている。 卑弥呼はまちがいなく女性である。 そして、人間である。天照は神である。 天照は、古事記の造化三神の高皇産霊神と同神である。 姫路市にある高照神社では、高照稲荷大明神が祭神となっている。 これは高皇産霊神、天照、稲荷、大明神が全て同じ神ということだと言ってる。 参考までに。
@J-history
15 күн бұрын
コメントありがとうございます。たつの市ですか、わがふるさとです。 天照大神(『日本書紀』本文では大日孁貴)は『日本書紀』では明らかに女神として描かれています。一方、『古事記』では男神と読めなくもない記述となっています。 このチャンネルは『日本書紀』本文に信憑性を認めています(天武天皇が命じた正史として、という意味です)ので、それを基本テキストとして考察しています。 「天照彦火明命」は、名前からすれば『日本書紀』本文の記す、瓊瓊杵尊の三人の子供のうち、第三子の火明命を指しているように思われます。
@六原六
16 күн бұрын
そもそも記紀の神武東征の吉備ルートが大嘘 神武東征の真のルートは、高千穂→鷹ヶ崎(高崎山)→伊予久米(大伴氏)→讃岐琴平(珍彦)→淡路島洲本(物部)→摂津の四国ルートだ なぜなら神武天皇を纒向へ導いたのは、四国を本拠とするニギハヤヒの一族だからだ 吉備国の王は伽耶の鳴海一族で、大国主命に娘を嫁がせて、出雲王朝直系の大国となっている 神武王朝など、入る隙がない これを東から攻撃したのが、丹波を滅ぼした神武王朝の垂仁天皇と吉備津彦 神武王朝の勢力版図は、戦国時代の三好氏そっくりである
@J-history
15 күн бұрын
コメントありがとうございます。 はじめて聞きました。
@小谷展宏
17 күн бұрын
邪馬台国は四国にありますよ。 徳島県名西郡神山町神領字高根に卑弥呼の城趾があります。 墓は気延山頂上にあります。 古事記にあるように、淡路島、四国が日本の先進国ですね。神山町の山上に卑弥呼の城趾があるのは、城は山上に造るのが当たり前です。巻向は平地で、敵から攻撃されますからね。
@renren5491
18 күн бұрын
各地の発掘が進み、3世紀の博多湾交易拠点遺跡で最多に見つかっているのが朝鮮系と並んで畿内系土器。次に山陰・瀬戸内系と続き、地元九州産土器は少ない。古墳発生期の前方後円墳である福岡市那珂八幡古墳が三角縁神獣鏡を伴って早くも登場している。他の北部九州の遺跡でも畿内系土器の発掘が相次いでいる。もうそんな時代だった。
@J-history
18 күн бұрын
交易ネットワークはかなり広がっていたでしょうね。 那珂八幡古墳の年代特定はなかなかむずかしいのでは?
@renren5491
18 күн бұрын
@@J-history 土器や鏡・古墳の編年を50年100年とずらして主張する九州説論者ですが、当たり前に肝心の有力遺跡が九州に存在しないため、「あり得ない近畿説」という論法に終始しています。
@J-history
18 күн бұрын
@@renren5491 ご返信ありがとうございます。 このチャンネルは九州説(熊本説)ですが、当時、畿内に女王国(邪馬台国)より強力な国があってもよいという考えです。ただ、史書の記録に残らなかっただけかもしれません。 邪馬台国は、『三国志』魏志倭人伝の中に存在する国です。そこに記された行程記事がたどり着けないのであれば、そこは邪馬台国ではないと考えています。
@renren5491
18 күн бұрын
@@J-history 倭人伝には邪馬台国の住所が記されています。「会稽東冶之東」会稽郡東冶県の東は、現在の福建省福州市の東海上。台湾北部の沖合になります。 九州説はこれを九州島に当て込んでいるに過ぎません。何も合致していないのです。 そして遺跡もない。古来ヤマトコクと呼んできた邪馬台国。新井白石が同じ読みの地名を見つけて理由も示さず九州説を始めたのが古都の始まりに過ぎません。 俗書ではない中国正史『北史』『隋書』には倭人伝をわざわざ訂正して 『北史』居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。 『隋書』都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。 などと、飛鳥時代の都である大和を指して、魏志が言うところの邪馬台国はここですよと教えてくれています。 隋の使者裴世清が大和を訪れたときの記事です。
@renren5491
18 күн бұрын
倭人伝には邪馬台国の住所が示してあります。「会稽東冶之東」に邪馬台国があるとしています。 会稽郡東冶県の東は、今の福建省福州市の東海上になります。これは台湾北部海上です。さらに風俗も南の現在の海南島に相近しとしていて、明らかに南方のイメージです。 『北史』『隋書』など俗書でない中国正史は、 『北史』居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。 『隋書』都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。 などと、飛鳥時代隋の遣いで帰国する小野妹子と共に倭国にやって来た裴世清の記事に記していて、その中で都のある大和が魏志の言う邪馬台国だよと教えてくれています。
@bbnokoya
18 күн бұрын
古事記はキリスト教の聖書と同質。 男系男子による天皇信仰聖書。 聖書を事実と照らし合わせるキリスト教信者はいない。
@J-history
18 күн бұрын
コメントありがとうございます。 『古事記』については来歴が定かでないのでなんとも言えませんが、『日本書紀』は天武天皇が自身の王朝の正統性を、日本の正史の中に確定させようと、諸家に伝わる帝紀などを一本化しようとされたものだと思われます。 だから、天武天皇の求めた『原日本紀』(天武朝にほぼ完成と想定)は、いくつか改変はあったと思いますが、おおむね諸家に伝わる帝紀から逸脱しない範囲で、実年代に沿ってまとめられていたと考えています。
@サイの尾猿田彦
20 күн бұрын
日本による倭国の乗っ取り 藤原京も平城京も藤原不比等の進言によって建設された。その目的は宮崎県にいた百済王を奈良に呼び寄せて倭国王とすり替えるためであった。藤原京は百済王をかくまうのによい場所がなかった。 「藤原不比等は壬申の乱で同行していた高市皇子に平城京の建設を持ち掛け、高市皇子は平城京建設に向けて動き出した」という伝承がある。 不比等は宮崎県に亡命した義慈王(中大兄皇子の兄)の子孫を三笠山の中腹(春日大社)に招きかくまう目的で、春日野の西に平城京を建設するよう高市大王に進言した。 宮崎県美郷町南郷にある神門神社の案内板。 718年は聖武天皇を奈良に呼び寄せる目的で、倉吉にいた大王を見張らせるため、山上憶良を倉吉に行かせていた年である。 正倉院と同一の銅鏡が神門神社に残っていた。正倉院の宝物はすべて聖武天皇の物とされる。聖武天皇はここに住んでいた。 禎嘉王は百済の義慈王の流れである。禎嘉王をここに案内したのは藤原鎌足と言われている。 藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳は百済様式なので、藤原鎌足は百済人であった。鎌足の子である不比等は禎嘉王の子孫の聖武天皇を奈良の春日大社に呼び寄せた。 春日大社は藤原五摂家(藤裔会)の聖地でる。春日大社のある場所は、誰かを隠すには絶好の場所である。宮崎県から連れてきた聖武天皇をここでかくまっていた。食材などは710年に藤原不比等が建てた興福寺から持ってきていた。 歴史を強奪することにも喜びを感じる百済人の藤原不比等は百済王が宮崎県から奈良県に移ったことを遷都だとし、主役を倭国初代の神武天皇に置き換えて、神武東遷を日本書紀に書かせた。神武東遷の史実は聖武東遷であった。 百済王が宮崎県から奈良県に移ったことをもって遷都だとし、主人公を倭国初代の神武天皇に置き換えて、神武東遷を国史に書かせた。津田左右吉は「神武東遷はヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられた」とする。 扶余族の百済人は強奪することに喜びを感ずる一族(三国志魏書・高句麗伝)である。金品だけでなくなんでも強奪する。地名も人名も系譜も歴史も、良い評判も。強奪したものをより支配を固めるために利用する。倭国歴史書原本を入手して、大王を大臣に変えた。新羅を百済に変えた。聖武東遷を神武東遷に変えた。 日本書紀の中にある「大臣」はすべて「大王」であった、として見直してみた。当時は天皇とは言わず大王である。従って、大臣とされている、武内宿禰、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我入鹿(蝦夷)、高市、忍壁、穂積も大王であった。武内宿禰の子、平群都久と葛城之曾都毘古も大王であった。 天皇の生年月日と同じとして共通点を見出そうとするところに「何かおかしい」と違和感を感じた。仁徳天皇は平群都久であり応神天皇は葛城之曾都毘古であった。 また、15代は葛城之曾都毘古で間違いないが6男より4男の方が後に来るのはおかしいと思い、仁徳天皇は14代とした。仁徳と応神を入れ替えると、日本書紀の系譜は、履中は応神(仁徳)の第一王子、反正は応神(仁徳)の第三王子、允恭は応神(仁徳)の第四王子、安康は允恭の第二王子、雄略は允恭の第五王子となる。 すると、倭の五王は、讃は(履中)・珍は(反正)・済は(允恭)・興は(安康)・武は(雄略)となり兄弟・親子関係が中国史書と一致する。 大臣が大王であったのだからその間の、景行・成務・仲哀・顕宗・仁賢・武烈・継体・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・持統は倭国王ではなく百済王となる。舒明までは朝鮮半島の百済に住んでいた。 今の天皇が皇太子時代、韓国で、「天皇家のルーツは百済にある」と言った。その通りであった。 そうなると、顕宗・仁賢の舞台は百済であったという説や、欽明の時に仏教が伝来したとするのは年代がおかしいとする説や、崇峻が殺されたのに、蘇我馬子に何のお咎めもないのはおかしいとする説や、遣隋使についての隋書は男王であるのに、日本書紀は女帝の推古であるのはおかしいとする説、の説明ができる。 藤原不比等は大王や側近を徹底的におだて、相手の判断が鈍ったところで毒殺した(六韜による)。不比等と鸕野讃良は多くの要人や大王を暗殺している。高市大王(在位686~696)、忍壁大王(在位696~705)、穂積大王(在位705~715)は在位期間が短いので暗殺されている。 不比等は宮崎県にいた聖武天皇を奈良の春日大社(藤裔会)に呼び寄せるため、715年に穂積大王を殺した後、倉吉にいた次の大王を監視させるため翌年、山上憶良を倉吉に派遣する。憶良が倉吉にいる間に聖武天皇を宮崎県から奈良県の春日大社(藤裔会)に呼び寄せた。721年に倉吉から帰ってきた憶良は春日大社(藤裔会)で倭王朝の儀式(新嘗祭・神嘗祭など)のやり方を聖武天皇に教えて倭国王のように振舞わせた。しかし、親倭派になっていた憶良(歌でわかる)は長屋親王暗殺計画の邪魔になったので726年、筑前に左遷される。729年に長屋親王暗殺。亡命百済王朝(日本)は734年、倭(鳥取県中部)にいた大王(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)を奈良は安全になったと言って帰らせる途中で殺害し、聖武天皇とすり替えた。
@麺五郎
20 күн бұрын
「その山に丹あり」丹とベンガラは全く違います。丹=辰砂=水銀朱=希少高価。ベンガラ=酸化鉄=豊富安価。 中国は建物にベンガラを豊富に使うほど有りました。わざわざ倭人伝にかきますかね? 魏の使者は王の命令で不老不死、死者が蘇るの薬、丹を求めて邪馬台国へ来ました。そこが阿波だったと思います。 話せば長いのでここまでにします。 それにしても色んな人の古代史考察は面白いですね。
@J-history
18 күн бұрын
コメントありがとうございます。 いくら阿波の水銀朱でも、「以朱丹塗其身体如中国用粉也」のように普段使いできるほどふんだんに精製できていたとは思えないのですが。引き続きよろしくお願いします。
@宮本孝正
20 күн бұрын
孝昭(114)孝安(137)孝霊(128)孝元(116)[ ( )内は宝算です ]について。記の崇神(151-318)の前年150を開始点として上記孝*天皇の宝算を逆の順序で加えてみます。150+116=266,266+128=394,394+137=531,531+114=645です。266:トヨ遣使、394:記の応神末年、531:辛亥の変、645:乙巳の変。これを偶然と呼びたい人は呼んでも良いですが、私は紀の紀年がこのようにして作成されたのだと考えています。
@J-history
20 күн бұрын
コメントありがとうございます。 「崇神の前年150を開始点として」とされていますが、崇神天皇の崩御年が318年というのは確定でしょうか? また、151年とは? 崇神天皇の宝算は記されていましたか?
@宮本孝正
20 күн бұрын
@J-history 記の崇神は宝算168没年318なので(151-318)になります。実は318説258説の2説があるのですが、記の(19n)を根拠として318であることを述べました。これが私の古代史にかんする唯一の公的論文なのです。記の紀年に関しては何であれ私にご相談下さい🤗
@J-history
20 күн бұрын
@@宮本孝正 ご返信ありがとうございます。 『古事記』の宝算は本文記述ですので、信用されるのはよいことだと思いますが、それと崩年干支を組み合わせてしまうと、雄略天皇の宝算124から誕生年は366年となってしまいます。 とてもではないですが、崇神天皇の崩年318年は無理があるのではないでしょうか。
@宮本孝正
20 күн бұрын
@@J-history 別の所で書いたように、雄略記:124,紀:64、継体記:42,紀:84(数えと万で数え方は異なる)というように意図的に2:1の比が使われています。注記や後付だから信頼できないではなく、注記後付をも考察に加える必要があります。例えば倭王武の55,66,95国征服の記述がありますが、366,455,460(=366+94)が雄略関連の紀年に用いられてあたかも武=雄略だと思いたくなりますが、これは記紀制作者の策略なのです。古事記をも問題にしだすと収拾がつかなくなる恐れはありますが、私は記紀の関連を調べている最中なのです。
@宮本孝正
18 күн бұрын
@@J-history 崇神の宝算。記の151-(即位年不明)-318,紀の*149-*97-*30の関係を見てゆきましょう。 *149-*97-*30を(+300)移動すると記に近づきます。 151-203-270-(318) この270は紀の応神(270-310)初年を連想させます。この(+40)が意味を持つ関係は他にあるか。 479紀雄略,527記継体 487紀顕宗,535記安閑 539紀宣化,587用明 これら在位末年の組が48年差ですが、これを偶然とは見なさず、このようにして記紀の紀年が作成されたと考えているのです。
@十蘭コメント
21 күн бұрын
明治維新政府は、絶対天皇制の国体を創り上げて、古事記を聖典にした大日本帝国を創設した。
@J-history
21 күн бұрын
『古事記』『日本書紀』を利用したのは確かなのでしょうが、なんとも・・・。
@宮本孝正
22 күн бұрын
確かに『古事記』序文には手が加えられているようです。読みの注記にしても確か殆どが上巻に関するもので、上巻にはかなり手が加わっていると思えます。しからば上巻は何を語ろうとしているのか。記は下巻推古で終わっていますが、推古の次の舒明と皇極を上巻のスサノオとアマテラスに配置してみて下さい。やや大まかではありますが、ニニギ・ウガヤフキアヘズ・神武が、草壁・文武・聖武に相似形であることに気付くでしょう。新しい事象を古い時代に移動させるのを「加上説」と称しますが、記の構造は上巻の神話の寄せ集め全体が加上説で成り立っているのです。
@J-history
21 күн бұрын
「加上説」、すごい説ですね。そういうこともあったかと思ってしまいそうです。 ちなみにですが、相似形が系譜のことであれば、瓊瓊杵尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神武天皇の相似形は天武天皇・草壁皇子・文武天皇ではないでしょうか? とにかく、序文を信じるなら、天武天皇記がないのがあまりにも不自然です。
@宮本孝正
21 күн бұрын
@@J-history 返答有難うございます。更に仮説を追加させて下さい。アマテラス対スサノオは天智系対天武系を表しています。結局天武系は根の国に追いやられて天智系が皇統を独占します。天武主体の古事記のはずが上巻の徹底的改変により天智系のための物語に変えられてしまいました。これが古事記神話の秘密だったのです。稗田阿礼は人麿と不比等の二人を合成した人物像であるという梅原説を私は指示しています。古代史の専門家に支持者がいないことは知っていますが。
@山下明彦-v3i
21 күн бұрын
屋上、屋を架す。🎉
@宮本孝正
22 күн бұрын
倭王武は「自ら使持節都督倭百済新羅…倭国王」と称し「海北95国を平らげ」と上表している。武=雄略などはあり得ない。
@J-history
22 күн бұрын
自称の「百済」は認められませんでしたが、それ以外は認められていますね。
@宮本孝正
22 күн бұрын
@@J-history 「海北95国を平らげ」の部分は記紀には一字も書かれていないはず。結局「百済」を名乗ったことは妄言ではなく、武が不安定な「倭韓連合王国」の一員であったことを示していると考えます。天動説から地動説まで常識の変化が150年を必要としたように、江上波夫説(但し大幅な修正が必要ですが)が受け入れるまで百年単位の期間が必要と予想します。(J-historyさんの細かな考察には讃辞を惜しみませんが、例えば「辛亥の変」の真相が読み取れないならそこの部分の無事績年削除法による推測は余り評価できないのではないでしょうか、というのが私の疑義です。私も結構細かな計算を試みたので妄言を呈しているかも知れません、ご容赦を🙏)
@宮本孝正
23 күн бұрын
倭王讃421以前〜=仁徳、珍438=反正433、済443=允恭438、興462=雄略、武(=昆支)478=x473、男弟王494=①清寧490②継体506、になります。xは記の紀年362-473-582の473で、或いは九州王でしょう。5年のズレは、*662橿原奠都起点が*667ウル神武即位起点に変更して紀年ぜんたいが(-5)移動したことに依るものです。『原日本紀』の想定は一仮説として結構ですが、『古事記』全面否定は誤りだと考えます。但し現行『古事記』に対し『原古事記』を想定すると『原日本紀』と同様収拾がつかなくなって、古代史ファンが簇出する恐れはありますが😮💨
@宮本孝正
23 күн бұрын
雄略宝算124を以て記は信頼できないと言われるが、紀の応神(201-310)仁徳(x-399)をどう考えるか。仮にx=250だとしても仁徳宝算150、応神仁徳の誕生年の差49になる。兄弟の年齢差が48。古代人には超能力があったのか。
@宮本孝正
23 күн бұрын
記の雄略について追加。宝算124の内実は、366-(455)-457or458-(460)-462-489没。458-489の場合、応神363-394との差は95。457-489の場合仁徳395-427との差は62。ここに紀の雄略の宝算62が出てきます。124に1000を加えて1124-711(神武生誕)=413(ウル允恭初年)。雄略95年は460。3(66),4(55),(95)の数字は倭王武の制圧した国(55,66,海北95)を連想させます。これらは紀年作成者が「倭王武=雄略」に確信を持たせるための作為であって、この辺りの記述に問題があることを窺わせます。
@J-history
23 күн бұрын
いつもコメントありがとうございます。 そろそろこのチャンネルの紀年復元法をご理解いただければと思います。 允恭天皇以前の暦日は文武天皇朝以降に儀鳳暦を用いて推算・創作されたことが、小川清彦氏(および森博達氏)の研究で明らかになっています。 このチャンネルでは、歴代天皇紀の事績・出来事の記されない年は、紀年延長によって生じたと考え、それを削除すれば天武天皇の求めた「実年代に沿って編纂された『原日本紀』」が復元できると考えています。 もちろん、天武天皇の意向によって改変された部分もあると思われますので、その復元紀年をもとにいろいろと考察を進めているわけです。
@宮本孝正
23 күн бұрын
@@J-history ご著書101頁を見ると、531=継体8年とあり、大問題の辛亥の変は無かったかに見えますが、この箇所の復元法は誤りではないかとの疑念を抱くわけです。吸収すべき解釈があればとてお説を拝見し続けているので気を悪くなさらぬようお願い致します🙏
@J-history
23 күн бұрын
@@宮本孝正 ご返信&拙著ご購読いただきありがとうございます。 101ページの年表は「原日本紀年表」というものです。 簡単に説明しますと、それは天武天皇の意向によって、継体天皇朝と仁賢・武烈天皇朝の並立を直列化したものです。仁賢天皇即位507年から欽明天皇崩御571年を定点として、その間で並立した19年間を間引いて調整した編年だと考えています。 歴史の真実は156ページの編年表のようであったと推測しています。
@宮本孝正
23 күн бұрын
@@J-history 返答有難うございます。が156頁の表だと「辛亥の変」と称される紀の注記が意味の無い記述になってしまう(『百済本記』が誤りである)と思われます。(これは誰も解決していない問題なので、返事はなさらなくても結構です。)
@lebaronde3204
24 күн бұрын
古市古墳群は応神天皇の母系である息長氏、田道氏(ヒボコ末裔)、百舌鳥古墳群は仁徳の正妃である磐之媛の実家である葛城氏が後援した古墳群という考えが浮かびました。葛城氏の積極的な後援を受けていない応神の陵墓が、百舌鳥に当初予定されたというのは、個人的には否定的です。
@J-history
24 күн бұрын
百舌鳥古墳群と古市古墳群をまったく同じものと見ずに、lebaronde3204さんのように論理的に解釈することが大事なのだろうと思います。
@佐藤裕太-b1o
25 күн бұрын
確かに、動画中の欠史八代伝承の後世挿入論には説得力を感じます。しかしながら、私はそこから欠史八代伝承が限りなく捏造に近い感じで創作されたものではないと思っています。 それは、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作つまり捏造と断定するのはもったいないでしょう。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・提供そして分析・集約されたと考えてもいいと思うからです。
@J-history
25 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 神代の具体的な物語(神話)や系譜および東征の経緯、そして崇神天皇以降の事績や出来事が詳細に語られているのに、欠史八代がほぼ系譜のみというのはあまりにも不自然だと思います。
@佐藤裕太-b1o
24 күн бұрын
@J-history あらためましてあけましまておめでとうございます。
@nomitake-sf4fm
25 күн бұрын
物語の内容が日本書紀の記述とかなり異なるのに天皇の系図だけは日本書紀と寸分たがわず同じというのが奇妙。このへんに謎を解く鍵がありそうな気がします
@J-history
25 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 おっしゃる通りと思います。 景行天皇と日本武尊、応神天皇と仁徳天皇は、どちらも本来兄弟でしたが、文武天皇朝以降に行われた紀年延長操作によって親子に改変されたと考えていますが、『古事記』でも兄弟になっていますから、同時あるいは『古事記』の方があとに編纂された可能性があると思っています。
@小杉武夫-d8b
25 күн бұрын
印綬と共に、下賜された鏡が百枚の銅鏡でないと、読み取れました。そうなると日田で出土した鉄鏡がその時の鏡と推察できますが、如何でしょうか
@J-history
25 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 このチャンネルの考えるように「梯儁たちが届けた鏡が、明帝の下賜した銅鏡100枚とは異なる少帝からの鏡であった」とすれば、その可能性もあるかもしれません。 ただ、日田の鉄鏡については出土状況が不明ですから、判断のしようがないというのが現実ではないでしょうか(後世に誰かが中国から手に入れたというような見方もあるようですから)。
@MedakaNoBoo
26 күн бұрын
序文で最大の謎は段落下げがあること、冒頭1文字空いていることかな 飛鳥時代の階級には「大・小」がついたので姓(かばね)とわかるようしたかったのかもね、ちなみに、「乾坤(卦の時間、前後や秩序のこと)」「陰陽(卦の空間、左右や土地の広がりのこと)」「小浜で諭[さと]し(言い負かし)」「ひるがえる旗は兵を耀[てら]し」、「日下(前面、陽の当たる側)」、「帯(後背、影のつく側)」だろうね、比較的平易な日常語であって、これらを文字資料があった痕跡とまでは言えない もちろん、四書五経の教養があればこうは読まない、かわりに時代考証がおかしくなるんだよ、例えば、卦(ぼく)は時代ごとに解釈が異なる、乾坤(天地)・陰陽(男女)という八卦が知られるようになったのは江戸以降だったと思うよ、だから序文は「江戸期に書かれた」なんてこと説いたら笑われちまうよ
@J-history
25 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 貴重なご意見をありがとうございます。 「小浜で諭し」だとすっきりしますが、角川ソフィア文庫版は「論」の文字が使われ「あげつらう」と訳されていました。 「日下」「帯」の件は、「日下」という字を「玖沙訶(くさか)」と読み、「帯」という字を「多羅斯(タラシ)」と読むが、その類のものはそのままにした、と書いていますが、では一体、稗田阿礼はどのように憶えていたのか?というのが不思議だったのです。
@ohsam4884
26 күн бұрын
いやはや、職人からの邪馬台国史!なかなか面白うございました🎉
@J-history
26 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 陳是の製造した紀年銘鏡の銘文を信じれば、こういう説もありかと思いました。 まあ、なぜか、すべて後世の製作という見解が有力視されていますが。。。
@masamasaict7312
26 күн бұрын
やっぱり、ふどきさんの動画の方が面白い。是非、見てもらいたい。やっぱ東国。まだまだ余白がある。
@J-history
26 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 東国は『日本書紀』にほとんど書かれていませんので、なかなか考えようがないというところです。
@山下明彦-v3i
21 күн бұрын
古史古伝の導入は、阿波説への道⁉️😅
@J-history
21 күн бұрын
@@山下明彦-v3i 阿波説ですか? 『日本書紀』は阿波のことをほとんど書いていませんから、このチャンネルでは研究対象にしようがありません。。
@山下明彦-v3i
21 күн бұрын
日向の橘の小戸の、阿波岐原は、何処に有りますか?✨…………其れは、福岡市西区の、今宿の、青木ケ原?✨😅
@宮本孝正
27 күн бұрын
百済の昆支は477内臣左平の位に付き478死んだ、と『三国史記』に書かれている。ここの「死んだ」は今でいう「亡命した」の意味で、倭国王としての地位を得たのであろう。蓋鹵王や昆支は「倭韓連合王国」に属していた。倭王武=昆支である。倭王興=昆支の兄弟。倭王済≒允恭。「≒」としたのは允恭がダミー(合成された人物)だからである。
@J-history
27 күн бұрын
いつもながら、理解の範囲を超えていますが、コメントありがとうございます。
@岡上佑の古代史研究室
27 күн бұрын
アップ有難う御座います! 古事記と倭人伝で題材は違いますが、研究手法というのが、極めて近いものを感じますね! 古事記は、正直食わず嫌い状態なのでもっと勉強していきたいです!
@J-history
27 күн бұрын
岡上さん、あけましておめでとうございます。 『古事記』についてはいつどのように成立したのか、来歴が定かではありませんので、深く研究するのは難しいと思います。そこを無理やり追究すると、あらぬ方向に向かう危険性を感じています。
@asunakazuma9166
27 күн бұрын
明けましておめでとうございます。 突然ですが、魏志倭人伝に那馬壹と書かれているのに、わざわざ “ヤマタイ" と読ませているのは恣意的に感じます。これはどう見ても “ヤマト" ではないですか?そろそろyoutubeだけでも "ヤマト" 表記にしませんか。
@J-history
27 күн бұрын
あけましておめでとうございます。 「臺」が「タイ」か「ダイ」か「トゥ」か「ドゥ」かわからず、「壹」が「イ」か「ト」か「トゥ」かわからない状況ですので、一般的に定着している「ヤマタイ」を使うのが誤解を招かない方法だと思われているのだと思います。 「ヤマト」というと「大和」のイメージが先行して、畿内説が連想されるのだろうと思い、このチャンネルでは通常「ヤマタイ」と発音しています。