「語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶」総集編<完全版>

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豊見城市歴史民俗資料展示室

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映文連アワード2019 「ソーシャル・コミュニケーション部門 部門優秀賞」 受賞!!
2019年第93回キネマ旬報ベスト・テン「文化映画ベスト・テン」ノミネート!!
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 沖縄県豊見城市は、那覇市の南側に接する人口約6万の市です。1945年の戦争で大きな被害があった地域でもあります。その戦争と体験した方々も高齢となり、多くの方々に語ることが難しくなってきた現状があります。そこで平成29~30年に31名の証言を撮影し映像化しました。
 動画リストには、総集編が完全版と短縮版の2種類、個人の証言を31名分あります。全てが戦争前の平和な状態、戦争直前の変化、戦争中、収容所生活、戦後復興の時系列で撮影しております。軍隊従軍や学童疎開、山原疎開に南部避難など、地域によって年齢によって多種多様な体験をされた方々の証言を見て、豊見城市における沖縄戦の一側面を知って頂ければ幸いです。
「語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶」のアンケートを行っております。感想や活用方法のアイディア等をお教えてください。
・アンケートリンク<docs.google.co...
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豊見城市公式ホームページ「豊見城市と沖縄戦」公開しました。
<www.city.tomigu...
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沖縄県豊見城市教育委員会文化課 所蔵
H29・30年度 戦争体験等映像化事業
沖縄振興特別推進市町村交付金事業(一括交付金)
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【ナレーションテキスト書き起こし】
証言のテキストは文字数制限のため入れることが出来ませんでした。
動画を参照頂けると幸いです。
「語り継ぐ 受け継ぐ 豊見城の戦争記憶」
沖縄県の各市町村、字では、村史で戦争編を発刊し故郷の沖縄戦を記録しています。
豊見城でも、豊見城村最後の年に「豊見城村史戦争編」を発刊。豊見城の戦争の特色と体験者の証言がまとめられ、貴重な一冊が残されました。
しかし、年々、戦争体験者が少なくなり、沖縄戦の記憶の継承が課題となっています。豊見城市では、戦争を知らない世代に故郷の沖縄戦を伝えようと、二年間にわたり、戦争体験者の話を映像に記録しました。
戦前、戦中、戦後。戦争体験者の話を通して、豊見城の戦争とは、どのようなものだったのか。31名の証言で振り返ります。
沖縄本島の南に位置する豊見城市。
那覇市と糸満市に隣接します。
豊見城村から豊見城市になったのが2002年。
昔からの集落と海に広がる新しいまち・新しい豊見城は、今、6万人が暮らす大きなまちです。
豊見城村だった当時の人口はおよそ9000人。
当時は、大きい字が11あり、その中に、小さな23の字がありました。
米作りに、野菜、さとうきび、畳の原料や塩づくり等、県下でも有名な農村として名を馳せていました。
戦前、豊見城には、二つの学校がありました。
豊見城第一尋常高等小学校、通称「一豊」今の長嶺小学校です。
豊見城第二尋常高等小学校、通称「二豊」今の座安小学校です。
当時は今と違い、小学校は、尋常科6年、高等科2年、合わせて8年間。今の中学2年生までのこども達が、小学校に通っていました。
1941年、太平洋戦争開戦の年に
二つの学校は「国民学校」と名前を変えます
国民学校になり、教育が大きく変わります。全ての学校で、子ども達に、軍国主義教育が徹底されていくのです。
1944年3月、日本軍(第32軍)が創設されます。
沖縄に続々と軍隊が配備されます。
豊見城の各集落に日本軍の部隊が駐屯します。
日本軍は、全島要塞化を目指し、陣地壕づくりと、
飛行場建設を同時に進めていました。働ける住民はすべて労働力として動員されます。
豊見城でも、陣地壕、戦車壕、与根飛行場の滑走路づくりに子どもから大人まで、全ての住民が動員されます。
1944年7月、沖縄県は、学童集団疎開を決定します。
豊見城の学童疎開先は、宮崎県。
8月に二豊58人が北郷村へ疎開。
9月に一豊179人が岩戸村と上野村へ疎開します。
1944年10月10日、米軍は延べ1400機の艦載機で奄美諸島から沖縄・宮古・八重山まで、南西諸島の飛行場と港湾を破壊、市街地を攻撃します。
早朝から午後4時頃まで長く続いたこの大きな空襲で、那覇はほとんど焼き尽くされてしまいます。
一豊の子ども達を宮崎へ送り届けた疎開船もこの空襲で撃沈されます。空襲後、豊見城には那覇から避難民が押し寄せます。
米軍が沖縄近海を取り囲みます。
艦載機からの銃爆撃、軍艦からの艦砲射撃が開始されます。
豊見城グスクの第二野戦病院壕では、3月23日、看護教育を終えた私立「積徳高等女学校」の女子生徒25名が従軍。5月下旬、糸満に撤退するまでの2か月間、傷病兵の看護にあたります。
米軍は3月26日から29日に慶良間諸島全域を支配します。
米軍の沖縄攻略部隊は、空母40隻、戦艦30隻をふくむ艦船およそ1500隻、上陸部隊18万2800人。後方支援部隊を加えると54万8000人。それに対して日本軍は防衛隊や学徒隊合わせてものべ10万人でした。
4月1日。
ついに米軍は沖縄本島に上陸します。
米軍上陸後、戦況は日ごとに悪化。
5月27日、遂に首里の日本軍の司令部は南部へ撤退します。同じ日、豊見城グスクの第二野戦病院壕も南部の糸洲壕へ撤退。
5月下旬、豊見城では、目の前に迫る米軍から逃れようと、村内の壕に避難していた多くの住民が南部へと避難していきます。
5月28日、海軍太田司令官は豊見城の海軍司令部壕に移動します。6月4日、米軍は、小禄半島に上陸、6月6日には小禄飛行場を占拠します。
隣接する豊見城の住民も米軍に包囲され逃げ場を失います。
海軍の戦況電報には豊見城に迫る米軍の姿が報告されています。
日本兵と住民が入り乱れた南部に、米軍は容赦ない攻撃を加えます。その結果、住民に多くの犠牲者が出ます。
南部で捕虜となった人々のほとんどが、まず豊見城の伊良波の収容所を送られました。伊良波収容所は、一時的な収容所でした。
米軍の捕虜となった住民は、陸から海から中北部の各収容所に移送されます。
収容所から豊見城に戻ってきたのは、1945年12月ごろです。
しかし、戻れたのは、自分の集落ではなく、伊良波、座安、渡橋名の三か所の収容所でした。
集落に戻ることが出来たのは、1946年4月~7月頃、各字によって違いました。
米軍部隊の施設があった字は、戻るのが遅れます。豊見城で焼け残った家は、116戸。戦前の集落の家々は、9割以上を焼失していました。
沖縄戦が終わった後、残された不発弾は1万トンと言われています。
終戦直後、不発弾の爆発事故が相次いで起りました。
戦後、収容所から字に戻った人々は、食べものの生産と調達、家づくりを進めていきながら、同時に、集落に散乱する遺骨を拾い集め、納骨する慰霊の塔を作っていきます。
真っ先に建てられた「魂魄の塔」はかつて二豊の校長でもあった金城和信・真和志村長が主導して建てられました。
沖縄戦で亡くなった豊見城の人々はおよそ3600人。当時の人口のおよそ10人に4人が犠牲となりました。
そのうち、豊見城村内で亡くなったのはおよそ1100人。
多くの犠牲者が出たのは、沖縄戦激戦地の南部にあって、那覇市に隣接し、軍事施設、都市攻撃への余波を受けたこと、また、日本軍の南部撤退の影響がありました。
ふたたびあの戦場を歩きます。
あの日を振り返ります。
私たちも振り返らなければなりません。
まだまだ語っていない人がいます。
その人に会いに行くのは誰でしょうか。
話を聞くのはいつでしょうか。
話してもらうために、聞いて下さい。
聞いてもらうために、話して下さい。
豊見城の戦争を語り継ぐこと、受け継ぐこと
今、豊見城にくらす、ひとりひとりにかかっています。

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