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グーグルマップで見つかった巨大な前方後円墳!? “邪馬台国は福岡の田川エリアにあった”説 現地取材で分かった事実 / (2023/06/15 OA)
15:29
【ゆっくり解説】親魏倭王
22:42
Cat mode and a glass of water #family #humor #fun
00:22
How Strong Is Tape?
00:24
Sigma Kid Mistake #funny #sigma
00:17
Этот бой - Самое большое РАЗОЧАРОВАНИЕ за всю КАРЬЕРУ БУАКАВА!
01:00
【ゆっくり解説】邪馬台国放射説
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れーしch【歴史】
Күн бұрын
Пікірлер: 142
@安田一悟
2 ай бұрын
伊都国から放射説は、投馬国が宮崎にあると説明できます。この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。関心があれば、誰読んでみて下さい
@lightory5931
Жыл бұрын
4:39 奴国が東南、不弥国が東ですので放射説だとこの図の奴国と不弥国の位置関係が逆なのでは? 多分、通説の伊都国=糸島、奴国=福岡平野、不弥国=宇美の方角観に引っ張られているのかなと思います これからも動画楽しみにしてます!
@hirouchida3068
Жыл бұрын
なるほどその図か確かに
@lightory5931
Жыл бұрын
@@hirouchida3068 事実かどうかは別として魏志倭人伝内で陳寿さんは会稽東治の東(南九州辺り)と想定しているので、同文献内で旅程を破綻なく説明するために伊都国放射説は優秀だと感じます
@aaaaaa-sq3se
8 ай бұрын
7:19 辺りの部分は渡邉義浩氏が随分昔に既に指摘してる所。陳寿が距離盛ってる以上正確な道程と距離を測る事が無理な話。 魏、西晋にとって重要なのは「旧文明にも拘わらず金印を受け取るだけの規模のデカいヤベェ国を従えている」という事だから。
@ザコシャア
Жыл бұрын
30年前に宮崎に6年住んでいたので西都原の現地調査wを繰り返したがココが九州最大人口の投馬は無理 いや3世紀の九州の問題点は農業生産力で吉野ヶ里、博多、宇佐、肥後のどこであろうと本州勢力に対して劣勢 投馬は日本海側の出雲か瀬戸内の吉備かなぁ 個人的には前者を押す 徳島には8年住んだが魏誌を素直に読んで阿波に着くは草
@あや-t2v9v
Жыл бұрын
フィールドワーク素晴らしいですね。私も、できることなら昔の船を再現して水行十日や二十日でどこまでいけるのか、試したいという妄想をしています。
@lightory5931
Жыл бұрын
本州勢力に対して農業生産力の面で劣勢というのはその通りですね ただ、西都原だけでは無理ですが宮崎平野全体だと良い線いっているのではと感じます(投馬、邪馬台国どっちも可能性があるかも)
@kei.suzuki
Жыл бұрын
九州説の言うとおり魏志倭人伝を素直に読んだら奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万余戸となり、1戸あたり最低二人で計算しても28万人 だが弥生時代末期の九州の推定総人口は約10万5千人(文化人類学者小山修三、経済学者鬼頭宏等の調査による) なので素直に読んだらこれらが全て九州に収まることは絶対にあり得ない >農業生産力で本州よりも劣勢 その通り >阿波に着くは草 阿波説は前方後円墳の墳形に影響ある点を過大評価しているに過ぎない 古代史ファン的に知られている萩原2号墳は確かに前方後円系の円形周溝墓ですが、前方後円墳は他地域の様々な墳形(出雲の四隅突出型墳丘墓、吉備の楯築墳丘墓等)を参考にしていると思しいので特に根拠にはならないです
@show_kazitani
Жыл бұрын
ヤマタイ位置関連ワーワーやるのが楽しい説
@takedaharuki
Жыл бұрын
パッチワークの結果など、いろいろな理由があって、仮に投馬国や邪馬台国が放射説だったとして、奴國と不弥国についてはおそらく直線だと私も予想します。短里で考えると東南100里と東100里の角度の違いなんて、歩いて1時間もかからないくらいだと思うからです。
@yunyuki3789
Жыл бұрын
動画見てます!パッチワーク説も良いですよね、邪馬台国動画はどれも見てて楽しい!
@lightory5931
Жыл бұрын
いつも動画見てます! スイス、イタリア、オーストリアのように3国の国境が接していると考えると在りうるかなと思います。 通説通り伊都国=糸島とすると直線で考えないと破綻してしまいますが。 個人的には放射説と"伊都国=糸島"は相容れない考えのように感じてます。
@kenn8438
Жыл бұрын
短里で直線だと奴国二万余戸がありえなくなります。
@lightory5931
Жыл бұрын
@@kenn8438 伊都国-100里-奴国-100里-不弥国と考えれば武田さんの予想も成り立つかなと思います。 ただ、仮に放射説の立場を取った場合に奴国と不弥国だけ直線とするには別途合理的な理屈が必要ですね。
@セカイK1
Жыл бұрын
里程も日程も帯方郡を起点に直線で読むべきでしょうね。
@jsetagaya1482
Жыл бұрын
著者が直接邪馬台国まで行ったわけではないので伝言ゲーム失敗した説
@あや-t2v9v
Жыл бұрын
島根県隠岐島に残された地名「都万(つま)」も気になるところ
@may23k68
Жыл бұрын
糸島市なら南に水行できない。 西か東に行って南になる。 伊都国の位置が違うのか?
@zennin357
10 ай бұрын
糸島は距離も方角も地理的条件も戸数も全く一致しないのに語呂合わせだけで決められた場所のように感じる。 福岡を奴国とするためという結論ありきな解釈のようにも思える。
@iricotaketo2138
8 ай бұрын
参考・太平御覧「魏志倭人伝」 ◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸 ◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離 ◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利 ◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之 ◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也 文頭に「又」があるため放射読み出来ない 投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める) 狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない)
@セカイK1
Жыл бұрын
帯方郡起点で里程と日程は並列 「自女王國以北 其戸數道里可得略載」と書かれてるから初めは道里ではない日程は無かったんだ 日程は別の資料から後で追加挿入されたもの 通常の魏の里ではない短里(1里80m)が使用されているのでそのことを示す為に日程を書き足したんだ。
@古屋公夫-s9s
4 ай бұрын
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代に奈良県には大和政権があり歴代天皇がいらっしゃいました。 紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来歴代の天皇がいらっしゃいました。 そして都が京都に遷都されるまでの間天皇在住が続きました。 又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。 投馬国は宮崎県の都万を指していると思います。
@newmarimo
Жыл бұрын
使者が現地で聞いた話をテキトーに混ぜ合わせたような気がする
@かかしやまだの
4 ай бұрын
帯方郡から末虚国までが水行10日 末虚国から女王国までが陸行一月 帯方郡から女王国まで船で直接行けば1万2千里12日ぐらいの距離です。
@toshirouhorino
Жыл бұрын
中国史書の行程記述には道行き法に依るというルールがある。漢書をまとめた班固もそれに従って書いている。 それは出発地から道行きに従って主線行程を述べ、その折々に傍線行程(至る〇〇の行き止まり行程)を付加し、 目的終点に至らば、四肢(東西南北)の情報を「至る〇〇」と、軽く提供して終わる、という形式だ。 これを知らずして読むのは羅針盤なき漂流、知って読めば倭人条は簡単に解ける。卑弥呼の所都は阿蘇高千穂之宮。
@yosiyukimk2ysyk
Жыл бұрын
距離が里で書かれている場所は中国の方でも把握している場所で日数で書かれている場所は倭人から聞いただけだと思う。 魏志倭人伝にも倭人は距離を日数で表すとあるし。 聞いた話とあるものの内容は大雑把にはあっている程度で考えた方がいいと思います。
@akiyoshi5907
Жыл бұрын
そもそも宮崎中北部はあまり人がいなかったんじゃないですかね、人口が増え出すのは日向国造以降のことで西都原古墳群もそれ以降の古墳ですね、当時は神武生誕地に近い都城盆地近辺と大和王権成立以前から在ったと伝わる宮崎神宮のある宮崎市近辺に多くの人がいたと思われます、それでも流石に五万戸はキツイかも知れません😢鹿児島や他の別の地域をプラスすれば可能でしょうけど😊
@ごろう丸-e7j
Жыл бұрын
魏が日本を九州と勘違いしてたら、福岡、久留米佐賀あたり。
@gc8zacc3
Жыл бұрын
説得力あると思います!
@shinchangreen36
Жыл бұрын
なるほど忖度まみれの歴史書を大勢の人が必死に読んでいるわけですね。
@toshirouhorino
Жыл бұрын
熊本県菊池市には「臺」という集落があり、「臺」郵便局もある。 明治のころには「砦村」と呼ばれ、今も「とりで保育園」がある。 白鳥庫吉師はここが邪馬台国だったと論じた。
@空健二
Жыл бұрын
放射説だと不弥国が記載される意味がわからないです。奴国、投馬国、邪馬台国の流れ全て大国です。小国の不弥国は港のある国だったように思えます。奴国から投馬国の間にあったと思えます。
@besuhof9360
Жыл бұрын
Shikoku is the place of 投馬国. Shikoku is the place of Tsukushi's capital.
@wajin5695
11 ай бұрын
魏志倭人伝の里数は何故か1里を77mとすると、デジタルマップに符合します。これは実測したからこそ当てはまるのであって、陰陽五行説や概念的な里数とすると、不自然です。一寸千里法という天文観測で距離を測ると、必然的に1里が77m付近とな里ます。これをシミレーションすると、呼子(待機港)より真東に、概ね500里、100里、100里の間隔で井原・吉武・岡本が一列に並びます。 また、井原と種子島(侏儒国?)は4000里となり、これは九州の最南端の緯度とも捉えられ、真西に会稽があるかもしれません。もう一つ会稽の東の候補地として、沙里院から南9600里の女王国を指しているかもしれません。 以上、九州域は里数で測量可能な区域なので、邪馬台国は九州外かもしれません。240211
@はかせ-w5i
Жыл бұрын
魏志倭人伝が事実を正確に書いてると なぜ言える?
@reb8722
Жыл бұрын
の順番も意味がないわけではないと思いますが、どちらかと言うと、 1.至 2.行至 3.行至 をどう訳すかという話ではないでしょうか? 1.については動作を意味する行や渡という漢字が無いことから、単に伊都国からのにがあることを表しており、 2.は「東行至不彌國百里」部分の記述方法であり、直前に記述されている奴国を起点として「さらに東へ進むと不弥国がある」という意味で 3.は伊都国までの記述からわかる通り。実際に移動している。という感じでしょうか? ※部分の「行」はあくまで説明であり、実際の移動を意味しないと考えております。例えば「南至投馬國水行二十日」は「(伊都国の)南に投馬国があり、水行で二十日(かかる)」と訳すと考えております。 まとめると 末蘆国-->伊都国 伊都国-->奴国-->不弥国 伊都国-->投馬国 伊都国-->邪馬台国 連続説でもなく放射説でもなく何説でしょうか?修正放射説?
@bakermaria3231
Жыл бұрын
実は、出雲が、投馬国では?
@kei.suzuki
Жыл бұрын
出雲か吉備でしょうね 邪馬台に次ぐ規模の地域は当時はそのくらいしか無い 荒波の日本海云々は、陸地の見える沿岸部の航海よりも、陸地の見えない外洋に出る方が危険度が高いのは明らか、よってその仮定はあり得ないですね たかだか日本海沿岸部の航海さえおぼつかないようでは外洋になんかとても出られないですよ
@megane-tetugaku
Жыл бұрын
日本海は季節によっては、荒波もなくてしかも、海流に乗れば今の出雲へ流れ着きやすい。 海岸沿いに海流や風に乗れば安全。 春から、台風シーズンまではわりと穏やかな海なんだよ。 出雲まで行きは船で帰りは徒歩でも海岸沿いならば山道通るよりは安全。 時代は下がるけど江戸時代でも日本海側航路は1つの重要な航路でしたね。
@kinkin0421
Жыл бұрын
投馬国は番外の別ルートとすれば出雲でも南九州でも問題ないでしょう。ただし出雲が水行20日のルートに該当すると、畿内説は成立しないということになります。(水行10日、陸行1月のルートがどこなのか説明できなくなるため) 動画主の見込みとおり、水行10日は長崎廻りで柳川市に向かうルート、陸行1月はもしも魏の使者たちが来た場合の大名行列のペースで伊都国の人が想定して回答したと思われます。実際、糸島市~福岡市~宇美町~大宰府~鳥栖市~佐賀市~柳川市の道程を、弥生時代の道路も整備されていない時代に徒歩で大名行列で向かう行程ならば「ざっくり1月」と答えても全然違和感はないと思います。
@やまびこ-l3l
Жыл бұрын
投馬国=対馬国。昔の雑誌で、その説を読んで、びつくりしました。ムー。
@taka3399-n6n
8 ай бұрын
水行は海以外に川もある。筑後川も菊池川も球磨川も古代から明治辺りまで水運が普通だった。個人的には邪馬台国はやはり広大で豊かな筑後川流域、その中心は朝倉川添遺跡~久留米高良祇園山遺跡辺り。その連合の国々は宇佐地方まであった。対立戦争した狗奴国は南の熊本菊池川流域にあったはず。その中心は山鹿の方保田東原遺跡から南限は城南塚原古墳群辺りでは。奈良平野の遺跡群は同時代に存在した東の海の向こうの別種の倭人の国々では。鉄と稲作の争奪戦が続いた北部九州とは違い奈良平野は銅鐸文化の平和な牧歌的倭人の国々だった。ゆえに後年、朝鮮半島の動乱の影響で九州勢力が東遷したら割と簡単に征服された。応神天皇たちが倭の五王として4~5世紀に東征し河内平野に巨大な古墳群を造営した。彼らが初代ヤマト王権を樹立したのだ。間違いない。
@隆一西
Жыл бұрын
斯馬國(旧志摩町)が伊都國と別なら、新町・御床松原遺跡(硯出土)あたりが中心地ですかね?🤔なお、個人的には、旁國で已百支國=佐世保湾一帯(ハヤキと読めば土蜘蛛ハヤキツヒメがいたとされる早岐付近?)ちなみに古代史新説チャンネル伊藤先生も比定されてますね。姐奴國=さが國(3種の神器がセットで出土した大和町の七ヶ瀬遺跡付近?)、對蘇國=とす國(鳥栖市柚子遺跡群あたり、後の大和政権ゆかりの赤坂前方後方墳もあり)、躬臣國=くす國(四日市遺跡付近?)と、九州ゆかりの國名並ぶ事から北部九州説1択です( ・ิω・ิ)
@水野公博-l3x
Жыл бұрын
伊能忠敬級の地図を明の時代まで中国は不保持。粗末に南北に九州と本州の配置があり、四国と北海道は欠落の古地図 を使用していた 5万戸とか7万戸は倭人による沢山の概念伝聞を記録した、当時の倭人は数、距離とか暦は不知(水行10日、陸行1月) そのまま素直に読み込むのがよいのでは
@オグリ一着
Жыл бұрын
これも東遷説同様半世紀前くらいの説で今更感が半端ないのですが😅 魏志倭人伝の解釈ではもう埒があかないのでそれは一旦置いておいて、私が10数年前だったか、古代史に関して読んだ本で記憶に残ってるのが寺沢薫氏の王権誕生というのがあるのですが、これが非常に秀逸な書物で今世紀からの邪馬台国論争の起点となるのはまずこちらからと考えて私は良いと考えます。
@kei.suzuki
Жыл бұрын
半世紀どころか75年前ですよ 初めて唱えたのは榎一雄という歴史学者で、1948年、昭和23年のことです 古い説だからダメとは言わないけど、いつまでこんな牽強付会な解釈を支持するのやら、、、
@あや-t2v9v
Жыл бұрын
そんなあなたには言語学からのアプローチをおすすめします。 地名や人名が東国語なのか関西語なのか九州語なのか、これらが推定出来るだけで今までと違う世界が見えてきます。
@オグリ一着
Жыл бұрын
いやいや、古代史なので文献が少ないので少ない文献から皆あれこれ推測するのでこのようなカオスになってしまうので、 主軸を考古学に移して見ると先程申し上げた寺沢薫氏の王権誕生の中にたしか纏向型前方後円墳という箸墓よりひとつ前の古墳形態があり、それが東日本から南九州まで伝播してるようなので、 魏志倭人伝の世界観を九州限定と捉えるのはもう20世紀以前の考え方で、 畿内を中心に既に連合国家体制が邪馬台国の時代に存在したと考えざるを得ないと思われるので、 卑弥呼を各国が女王として共立したという魏志倭人伝の記載がそれにあたり、邪馬台国の位置論争はもうほぼ終結しているというのが10数年前の流れだったと記憶しておるのですが、 時が流れた今、時代に逆行して邪馬台国放射説や東遷説といった邪馬台国九州説や阿波説といった位置論争がまた活発化しだしてるのが不思議でならないのですが、 吉野ヶ里でなんか発見があったのが影響してるのでしょうか? 最近はもう私は古代史から離れ気味なのであまりチェックしてないので疎いのですが😅
@趣味-j7l
Жыл бұрын
@@オグリ一着 古事記、日本書紀に卑弥呼の記述がないのは何故ですか?ヤマト王権なんですよね 卑弥呼の墓に前方後円墳の記述が明確にされていないのも何故ですか?
@YO-high
Жыл бұрын
放射説、面白かったです。 考え方としては、資料A、資料B、資料・・・とあって、陳寿が「すべて」を書き込んだのではないかと思っております。 で、「投馬国」「邪馬台国」は「倭人に聞いた情報」でしかないってこと。 なので、邪馬台国に関しては場所も距離も書いてないってことかと存じます。 「魏略」の内容をそのまま書き込まないで、いわゆる「後漢書」のソース資料もあったんじゃないかなぁ。 倭人が「どこで」魏の役人に言ったのか?ってことだと思います。となると、洛陽か、帯方郡か、伊都国だよなぁ。 そこから「水行20日」と「水行10日、陸行1月」なんだと思う。なので、放射説もアリといえばアリなのか。
@yoshiz6620
10 ай бұрын
そもそも現代考察は当たり前に「地図」を使うが、当時は地図など無かったんだよね? 「距離の単位」にしても大陸と倭国の間で「統一規格」なぞ無くてガバガバだったんでしょ 一応記録してあるから、記録者がいただろうけど なんとなく まぁ、これくらい?、って感じでかなり適当に記したんじゃないだろうか どうせ誰にもバレないだろうから、それっぽく書いとけばいいだろ、と それを真に受けて考察しても、永遠に答えは出ないと思う。
@toshirouhorino
Жыл бұрын
弟子が原稿を搔き、それを陳寿が監修したのだろう。 そのとき陳寿は、半島~倭国の絵地図を見て、再構成・編集してる気がする。 原典通り、東南500里の佐賀川上に伊都国、吉野ヶ里に不彌国を置けば、スルスル謎が解けるよ。
@けんろ-l2z
Жыл бұрын
マツロ国は長崎県松浦市ではなく佐賀県唐津市です。 松浦市には広い平野が無く稲作生産力が有りませんが、 唐津市には松浦川河口のそこそこの平野が有ります。 稲作発祥の地「菜畑遺跡」は唐津に在ります。 当時の国力はコメ生産力が全てを決めます。 博多駅北東傍に「御笠川」が在り、小舟で遡上すると 大宰府の街中に通じます。そこから、ひと丘越えて 数キロ歩くと「宝満川」の河畔に辿り着き、これを下ると、 久留米市対岸の筑後川本流に出られます。結構大きな川です。 フミ国は宇美市の南端である後の大宰府と仮定すれば、 水行10日+陸行一月は、宝満川・筑後川沿いの村々での 「ご歓待」に費やした日数とすれば、ヤマタイ国候補の 筑後山門郡にも日田市にも好適な旅程になります。 大宰府は玄界灘と有明海の水運の結節点であった事から 大和朝廷から九州の中心地に選ばれた事が推定できます。 これは大宰府の街を踏査すれば実感できるでしょう。 吉野ヶ里遺跡も筑後川支流の城原川&田手川の傍なので、 大宰府からだと鳥栖経由より川船の方が楽に行き来できます。 ヤマタイ国連合は「筑後川」経済圏と考えると、全てが 辻褄が合います。今現在も「グレーター博多」経済圏です。 それと豊前と豊後は「トヨの国」です。ヤマタイ国は トヨの時代に宇佐に遷都したと考えると、今も地名が 残されているのが観て取れます。なので、奈良時代でも 宇佐八幡神宮の権威が保たれているのが理解できます。 宇佐主神の「大姫神三柱」こそがヒミコ・トヨ・その後の 最後のヤマタイ国の女王で、それを滅ぼした応神天皇と 神功皇后が両脇で三柱を「羽交い絞め」にしてる宇佐神宮 社殿のヘンテコな作りも説明できます。天皇権の根幹は今も ヒミコに発してる証拠です。
@toshirouhorino
Жыл бұрын
唐津市から西の玄海町にかけては、東松浦半島という。だから古代、西の松浦市もマツロ国だったのだろうね。 倭人条は、その長い海岸沿いの「浜山海」で半農半漁を営む津津浦浦をひっくるめて末盧国4000余戸と書いたのではないか。 しいて主たる国邑はと云えば、伊万里かな。
@zennin357
10 ай бұрын
松浦も唐津も壱岐からの距離がちょっと足りないね。 距離的には博多湾から福間海岸の範囲の方がしっくりくる。 伊万里もいい感じの距離。 なんで末盧国だけ方角が書いていないんだろうね?
@らがざ
Жыл бұрын
ちょっと待て!曹真は三国志演義では敗北したけど、史実では活躍してるから! 三国志演義の被害者やで!
@之下
Жыл бұрын
古地図からみるに 古代中国から見た日本は、位置的にここでいいだろ的な存在。 対岸の朝鮮と違って、意識的にもあっても無くてもいいぐらいの地域。 魏志倭人伝においても、政治的な考えで ここにあれば呉に圧力与えられるってぐらいの曖昧な感覚で記述したと思う。
@じつどうだいすけ
Жыл бұрын
正史三国志の記述であっても、史料を鵜呑みにしてはいけない。必ずといっていい程、後世の史家によって手が加えられているからである。魏志倭人伝も、その例外ではない。南朝の東晋時代の史家である孫盛は、魏の権臣で郭淮の同郷でもある孫資の玄孫。司馬懿の庶子(妾の子)である司馬伷の血統である東晋にとって、都合な事実は伏せらている。魏志倭人伝の記述も、東晋以来の南朝の価値観で改竄された可能性が高い。 外交の観点からみれば、武都・陰平が蜀に取られたのは小事に過ぎない。正史三国志の中、武都・陰平を取られたのは郭淮で、曹真の不手際ではない。魏が蜀に負けているのは、諸葛亮が狙い撃ちされていた郭淮絡み、それは史料を丹念に観ていけばわかる事。因みに、武都・陰平と直接的な利害関係にあったのは、羌と氐。外交には、軍事に直結する目的がある。羌や氐に圧力をかける為、大月氏に外交使節を派遣したと考えられる。 官職に関しては一致していても、力の及ぶ範囲と業績の解釈は、魏・西晋時代と南北朝時代(南朝の東晋・劉宋)では大きく異なる。南朝時代の権臣に関連する記述は、明らかに誇張。 230年曹真が外交軍事のトップである大司馬(大将軍より上位)に就任した時と同格の権限を、司馬懿が238年文官位の大尉と内外諸軍事(武官としての外交軍事全権)として掌握していたのは確かだから、皇帝の代理で遼東征伐の仕置きをしていた司馬懿が、邪馬台国に親魏倭王を与えてもおかしくない。当時の時代背景で精査すると、司馬懿の権限には文飾の余地がないである。 最も、邪馬台国に関しての戸数や距離に関しては、東晋などの南朝が正統朝であると誇示する為、伝聞された事を文飾しているのは否めない…だから、記述通りに邪馬台国の場所を特定しようとするのは、ナンセンス。当然、古代倭国に関する事にも、大和朝廷にとって不都合な事実がある。情報のソースが藤原不比等の古事記・日本書記に当てはめても整合性が取れないのだ。
@shirohyashiro3362
Жыл бұрын
捕捉しますと、伊都国から先の水行・陸行というのは移動方法というより距離と考えたほうがいいでしょう。 随書に当時の倭人は距離を里程ではなく日程で表していたとありますので、倭人から聞いた距離をそのまま記録したのでしょう。 ただ、陳寿は報告から邪馬台国までの距離を想定しています。「計其道里 當在会稽東治之東」という一文で「その道すじの距離から計算すると、(きっと邪馬台国は)会稽東治の東にあるのだろう」なり、その計算した距離が万二千余里となるという事でしょう。 これらの事から陳寿がどの様なつもりで魏志倭人伝の各国の位置を書いていたのかが推察できます。
@hir-pk9fo
Жыл бұрын
投馬国は対馬だな 帯方郡から水行二十日で対馬→水行十日で日本上陸 →陸行ひと月で何処か? 朝鮮半島→日本列島という単純な行程
@仁科利幸
Жыл бұрын
阿波説を、考察してみては?
@kooota7455
Жыл бұрын
基本的に魏志などの記録は周辺の軍事勢力を明らかにする目的があると思います。 なので万単位の勢力がある倭国の国はあえて追加する必要があったのでは? って事で、投馬国や邪馬台国は女王国の勢力圏外だった可能性もあると思いますね。
@hirouchida3068
Жыл бұрын
女王之所都とあるので少なくとも邪馬台国は勢力圏内だったかと
@kooota7455
Жыл бұрын
そうかもしれませんね・・ぐらいと考えてます。 当時の女王国が魏に対してどれだけ重要なことを公開していたか分からんしね。
@hirouchida3068
Жыл бұрын
@@kooota7455 "金印"を渡す国の都の話ですよ? 首都の位置を偽って公開する国が歴史上どこか1ヵ国でもあれば反証にはなりますけど。。
@kooota7455
Жыл бұрын
政治的な都は伊都国であって、宗教的な都が邪馬台国じゃないかと考えてます。 聖地が離れていたりする事もあるだろうな~という私の妄想ですね。
@nakan_ohito
Жыл бұрын
放射能のくだりいるか?
@kinkin0421
Жыл бұрын
記述があいまいな部分は気にする必要はないと思います。邪馬台国は伊都国の南にあって、邪馬台国の南には狗奴国のクコチヒコ(熊本の菊地彦)がいて、東の海を渡ると和種の国々だから宇佐~大分までを含み、奴国(福岡市)が邪馬台国連合の境界だから北九州地域は含まないと。 これらから邪馬台国は筑紫平野を中心に、福岡平野と大分あたりまでを含んでいたというのは簡単に判ります。西側は松浦市は表記はありますが、佐世保・長崎は記述がないので不明ですね。
@隆一西
Жыл бұрын
古代史新説チャンネルの伊藤先生や他の方々も佐世保湾一帯を已百支國に比定されてます🙄
@toshirouhorino
Жыл бұрын
うん、伊都国放射説もいいが、北東の糸島~伊都国とするとどうしても解けない。 (糸島が間違っているからだよ。伊都国を佐賀川上にすれば、スンスン解ける) 行程については、どこかの動画に有った通り、中華史書定番の班固の「道行文」に尽きる。 渡、行、など行動動詞の有るところは順次行程、無いところは沿線情報紹介だね。
@他力本願-s3g
11 ай бұрын
水行10日 陸行一月は後漢書東夷伝にその記述があり、陳寿は何も考えずにただ書き込んだだけではないだろうか? 魏志倭人伝は適当に書かれた文書だとした方が納得もする、国や人の名前も魏側が勝手につけているように思う、 また日田市ダンワラ古墳から曹操の鏡との共通点の多い金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土しているが、魏志倭人伝にその記載がなく、 (曹操の物と同一の意匠であれば、曹操の一族かそれに近い人物にしか渡されない物)であればそれを下賜したとなれば大騒ぎとなっていたはずで、その記述が無いのはあまりに不自然、陳寿を過大評価しない方が良いのではないだろうか?
@あや-t2v9v
Жыл бұрын
3世紀の日本語では投馬は*doma 鞆か出雲のどちらかだと思う。 個人的には瀬戸内海を進んだと思うので鞆の浦派ですが、勢力を考えるとやっぱり出雲なのかなぁとも思えてくる 戸数の面でも西日本全体が女王国であったと思います。
@KeCN
Жыл бұрын
方角を無視する近畿説!
@cokura5273
Жыл бұрын
鞆の浦、地元から気軽に行ける距離なので魅力的な説です。 たぶん九州だろうと思いつつ、ちょっと期待もしてしまう。
@kei.suzuki
Жыл бұрын
西日本だったら後世にもそうなるはずだがそうはなってないので、奈良盆地の三輪山一帯でしょうね 神の坐す山の麓、だからヤマト
@kei.suzuki
Жыл бұрын
@nuko3chi ・海を超えた地域を管轄支配するなどということは当時は不可能、実際そんなことを示す物証はない ・7世紀に関係は清算済み これで何か気になることでも? それに足利義満の勘合貿易はどう解釈するんですか?事実上無意味な冊封(笑)でしたよねあれ
@hir-pk9fo
Жыл бұрын
投馬は中国語でどう読むかであって日本語関係ねえ
@toshirouhorino
Жыл бұрын
魏志倭人伝が事実を正確に書いてないと なぜ言える?
@nagino_matasaburo
Жыл бұрын
必ずしも評判が良いとは言えない「放射説」ですが、れーしチャンネルさんがおっしゃる通り、投馬国を考える上ではスンナリと収まりがいいですよね、確かに🤔
@岡村浩司
Жыл бұрын
投馬国は出雲では? 伊都国からの放射説も捨て切れない😅
@shirohyashiro3362
Жыл бұрын
説明が分かり難いですね。 魏志倭人伝の日本語訳しか読んでないと分からないですが、原文を読むと伊都国からの放射説というものは納得できます。 というのは伊都国までは「〇〇という方法で〇〇の距離を進んで〇〇国に至る」となっていますが、伊都国から先は「〇〇の方向は〇〇国に至る。距離は〇〇」と変わっています。 原文を素直に読めば放射説が出てくるのは自然な事でしょう。
@shirohyashiro3362
Жыл бұрын
「何処かを重視しようとすれば、必ず何処かにひずみが生じてしまう」と言っていますが、それは解釈に間違いがあるからです。 現代でもそうですが、文官の書く文書では同一文書内での矛盾はタブーです。陳寿は自分の知識や手元の資料を整理して、少なくとも自分自身としては矛盾の無い文書を書いたはずです(例え政治的な作為があったとしても)。でなければ文官としては三流となってしまいます。 また資料を読み解く場合には情報の信頼性に重み付けをする事が必要です。陳寿の想定は低く、資料をそのまま書いたと思われる場所は高く。距離感の様に狂い易いものは低く(特に使者が倭人から聞いた距離の信頼性は低い)、風習や産物などの狂い難いものは高くします。 あと、水行を伊都国から反時計回りとするのは無理があるのではないでしょうか。この辺りの海流は黒潮などと違って一方向には流れていません。風だって同じです。つまり右回りが出来るなら左回りも出来ます。出来ない様なお粗末な航海術では末盧国に辿り着くこと自体が難しいでしょう(第一、行ったら帰ってきますので一方通行では困ります)。 だとすると「何故、末盧国から伊都国まで舟で行かなかったのか」ということになります。壱岐対馬を経由して末盧国まで辿り着く技術があった訳です。だったら牛馬もいない土地で荷物を背負って歩く位なら舟で伊都国まで乗りつけるでしょう。つまり、末盧国-伊都国間は水行出来ない理由があったと考えるのが自然です。
@ひきがえる-e8i
8 ай бұрын
「何故、末盧国から伊都国まで舟で行かなかったのか」の理由として、連合国である邪馬台国の国々を確認する為、背振山地に登って行ったのではないでしょうか。卑弥呼の許可があったと思われます。頂上からは「對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國、斯馬國」等邪馬台国連合の北側の国々が確認でき、南を見ると「其餘旁國」の中の邪馬台国連合の南西に位置する国々を確認できたのではないでしょうか。有明海をも望むことができ、当時敵対していた「狗奴國」の様子を確認することもできたと考えられます。これが「東南陸行五百里、到伊都國」の理由と思われます。荷物を積んだ船は、唐津から海岸沿いに博多湾へ入り、「郡使往來常所駐」で合流したのではないでしょうか。
@mshth.9589
Жыл бұрын
漢文の読み方や解釈というものは決まっているので、現代の日本の歴史学者が「独自の読み方」をひねり出して「真実はかうだ!」と唱えるのは滑稽ですね。
@眞人木村
Жыл бұрын
奴国と邪馬台国は、接していると言う 記述が有りましたよね❤ それで、九州北部から 水行十日 陸行一か月で行けるところは、魏の首都 洛陽でしょう😊 魏の為の情報ですからね😜
@hirouchida3068
Жыл бұрын
そんな記述どこかにありましたっけ?南至邪馬壹國…の一文だけだったかと
@隆一西
Жыл бұрын
二万戸奴國と接しているのは、伊都国と不彌國なハズですが‥おそらく女王の支配の境界尽きる旁國21ヶ国最後の奴國の事を言われてるのでは(¯―¯٥)笑
@眞人木村
Жыл бұрын
具体的な、接していると言う 文章は有りませんね❗ 伊都国 奴国 ふよ国が 邪馬台国に 属していてその南に有るのだから 接していると考えるのは普通でしょう! 飛地だとしたら 邪馬台国に属さない国が邪馬台国の 周りに有るのは 不自然ですね❗ 勿論、いろんな人の話を聞いた上での 私の想像、考察です🤗🧐
@masamasaict7312
Жыл бұрын
茨城県説の方が面白い。
@ラッキー純-h2x
Жыл бұрын
魏志倭人伝の計測において、帯方郡ー狗邪韓國=釜山(7000里)、釜山ー對馬國=対馬(1000里)、対馬ー一大國=壱岐(1000里)などは、現在のGoogleアースを用いた計測値とほぼ誤差が無く正確だった事が証明されています。 1里=約75m ここまでは九州説・畿内説の方も異論はないかと思います。 ★ここから九州説・畿内説では、一大國( 壱岐)から千里(75㎞)離れた末蘆國を、現在の松浦半島(唐津)としていますが距離が(35㎞程)足りません。 阿波説では末蘆國は宗像と推定しており(その昔沖合に松浦の潟と呼ばれる場所あり)それならが距離が合致します。 ★また九州説・畿内説では、末蘆國(唐津)から東南五百里(38㎞)の伊都國を、現在の糸島としていますが距離が(18㎞程)足りなくて方角も東北となってしまいます。 阿波説では伊都國は行橋と推定しており、それなら距離と方角が合致します。 ★また九州説・畿内説では、伊都國(糸島)から東南百里(8㎞)の那国を、現在の福岡としていますが距離が(12㎞程)オーバーしており方角も東北となってしまいます。 阿波説では那国は豊前と推定しており、それなら距離と方角が合致します。 金印については真贋論争もあり、また見つかった場所=その国と確定されるものでもありません。 ★また九州説・畿内説では、那国(福岡)から東百里(8㎞)の不彌国を、現在の大宰府(九州説)や宗像(機内説)としていますが距離が(12㎞程)オーバーしており方角も南(九州説)や東北(機内説)となってしまいます。 阿波説では不彌国は中津と推定しており、それなら距離と方角が合致します。 ★魏志倭人伝はふつーに読めばふつーに邪馬台国が阿波(徳島)にあったと解釈できます。 陳寿がウソを書いたりややこしく書いたりする理由がまったくない。 魏志倭人伝の時代の古代中国では、渾天儀、周髀算経の一寸千里法といった測量技術がすごく発達していて、ピタゴラスの定理も編み出されており、地球上の一点から一点の直線距離をほぼ誤差なく計測できていました。 ★先ほども述べましたが魏志倭人伝の計測において、帯方郡ー釜山(7000里)、釜山ー対馬(1000里)、対馬ー壱岐(1000里)などは、現在のGoogleアースを用いた計測値とほぼ誤差が無く正確だった事が証明されています。 1里=約75m 阿波(徳島)を邪馬台国とした場合、帯方郡ー邪馬台国(12000里)の魏志倭人伝の記述は、現在の計測でも正確だったと証明されています。 また後漢書(東夷列伝・倭条)において、阿波(徳島)を邪馬台国とした場合、狗邪韓国ー邪馬台国(7000里)、楽浪郡ー邪馬台国(12000里)も、現在の計測でも正確だったと証明されています。 つまり魏志倭人伝の頃の測量技術は現在と遜色なく正確だったとすでに証明されているわけです。 畿内説・九州説派は、この計測の正確さを無視して、距離方角の記述を何ヵ所も恣意的に改ざんしているので話になりません。 ★これらより邪馬台国は阿波(徳島)にあったと考えるのが一番、整合性が取れます。 阿波説(徳島)では【※投馬国】の記述の一カ所だけを変えるだけですべてに整合性が取れるのです。 距離方角をイジる必要が一切ない。 ※投馬国の記述の変更にせよ魏志倭人伝の元ネタとなった「大平御覧」を参考にして【又南至投馬国】を【又南至(於)投馬国】に変えるだけ。 阿波説は(於)を加えるだけですべてに整合性が取れるのです。 さらに式内社(最古原初の元宮)の阿波への集中や、辰砂(水銀朱)の採掘制作遺跡など、強力な物的証拠も存在します。 魏志倭人伝における邪馬台国は阿波であり、阿波は倭国連合国の首都であり、その前後の時代に大和や日向や出雲など様々な土地に都市国家が存在していたと考えるのが妥当でしょう。 ちなみに女王国には3通りの意味があり、①倭国の代表的な国( 中国に代表国だと認められた国)、②女王を代表と認める国の連合、③女王の居る都がある国(邪馬台国 )、の3つではないでしょうか。
@nekono_mimikon
Жыл бұрын
google mapで測る限りでは、帯方郡から釜山まで960kmほどあるのでは。 当時は沿岸沿いに進む訳ですから、実際に試してみることをお勧めします。 あと三国志自体に俗に言う短里というものは使われていませんので、倭人条にだけ使われるという事はあり得ないでしょう。
@ラッキー純-h2x
Жыл бұрын
@@nekono_mimikon 帯方郡から釜山までというのは帯方郡のどこから貴方は計測された距離ですか?
@ラッキー純-h2x
Жыл бұрын
@@nekono_mimikon 直線距離ではなく沿岸沿いの累積距離を計測した証拠は? またその時の計測方法は? 貴方の計測では何㎞と推定されますか? あと貴方は邪馬台国がどこにあったと推定されますか?
@ラッキー純-h2x
Жыл бұрын
@@nekono_mimikon あと【三国志自体に俗に言う短里というものは使われていません。倭人条にだけ使われている】という明確な証拠をお願いします。
@之下
Жыл бұрын
@@ラッキー純-h2x 一里自体約300歩、だいたい400m それを70mに変えるのは全体未聞 中華の歴史書なのに朝鮮の基準で書くのも意味が解らない
@紋太-f6v
3 ай бұрын
そもそも、魏志倭人伝の何処に、邪馬台国までが、万2千里と書いてあるのかが分かりません。女王国までが、万2千里としか、かかれていないですよ。邪馬台国と、女王国が同一だとも、何処にも書かれていません。放射状説は、邪馬台国までが万2千里と、確定しなければ、成り立たない説でしょう。憶測の説ですな。
@zennin357
2 ай бұрын
魏志倭人伝には表記振れというか曖昧な表現があって解釈が分かれるんだよね 女王国を邪馬台国を宗主国とする連合国家と見るか女王国を邪馬台国と同一とするかの判断はなかなか難しい 個人的には前者だと思っているけど一部女王国を邪馬台国と考えないと成り立ちにくい記述があったりする
@raintrooper2699
Жыл бұрын
水行十日、陸行一月・・・・・ムー大陸に着きましたとさ(^^)/
@ユタカカワバタ
Жыл бұрын
投馬国は日向だと思います。島根の出雲は邪馬壹国とは違う文化圏ですね!
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