「いき」も畢竟、民族的に規定された趣味であつた。從つて「いき」は勝󠄃義における sens intime によつて味會されなければならない。「いき」を分󠄃析して得られた抽象的槪念契󠄅機は具󠄄體的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過󠄃ぎない。「いき」は個々の槪念契󠄅機に分󠄃析することは出來るが、逆󠄃に、分󠄃析された個々の槪念契󠄅機をもつて「いき」の存在を構󠄃成することは出來ない。「媚態」といひ、「意氣地」といひ、「諦󠄂め」といひ、これらの槪念は「いき」の部分󠄃ではなくて契󠄅機に過󠄃ぎない。それ故に槪念的契󠄅機の集合としての「いき」と、意味體驗としての「いき」との間には、越えることの出來ない間𨻶がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潛勢性と現勢性との間には截然たる區別がある。我々が分󠄃析によつて得た幾つかの抽象的槪念契󠄅機を結合して「いき」の存在を構󠄃成し得るやうに考へるのは、旣に意味體驗としての「いき」をもつてゐるからである。 意味體驗としての「いき」と、その槪念的分󠄃析との間にかやうな乖離的關係が存するとすれば、「いき」の槪念的分󠄃析は、意味體驗としての「いき」の構󠄃造󠄄を外部より了得せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適󠄃切なる位地と機會とを提供する以外の實際的價値をもち得ないであらう。例へば、日本の文󠄃化󠄃に對して無知な或る外國人に我々が「いき」の存在の何たるかを說明する場合に、我々は「いき」の槪念的分󠄃析によつて、彼を一定の位置に置く。それを機會として彼は彼自身の「內官」によつて「いき」の存在を味得しなければならない。「いき」の存在會得に對して槪念的分󠄃析は、この意味に於ては、單に「機會原因」より外のものではあり得ない。しかしながら槪念的分󠄃析の價値は實際的價値に盡きるであらうか。體驗さるる意味の論理的言表の潛勢性を現勢性に化󠄃せんとする槪念的努力は、實際的價値の有無または多少を規矩とする功利的立場によつて評󠄃價さるべき筈のものであらうか。否。意味體驗を槪念的自覺に導󠄃くところに知的存在者󠄃の全󠄃意義が懸つてゐる。實際的價値の有無多少は何等の問題でもない。さうして、意味體驗と槪念的認󠄃識󠄂との間に不可通󠄃約的な不盡性の存することを明かに意識󠄂しつつ、しかもなほ論理的言表の現勢化󠄃を「課題」として「無窮」に追󠄃跡するところに、まさに學の意義は存するのである。「いき」の構󠄃造󠄄の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる。 しかし、曩にも云つたやうに、「いき」の構󠄃造󠄄の理解をその客觀的表現に基礎附けようとすることは大なる誤󠄄謬である。「いき」はその客觀的表現にあつては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表はしてゐるとは限らない。客觀化󠄃は種々の制約の拘束の下に成立する。從つて、客觀化󠄃された「いき」は意識󠄂現象としての「いき」の全󠄃體をその廣さと深さにおいて具󠄄現してゐることは稀である。客觀的表現は「いき」の象徵に過󠄃ぎない。それ故に「いき」の構󠄃造󠄄は、自然形式または藝術󠄃形式のみからは理解出來るものではない。その反對に、これらの客觀的形式は、個人的もしくは社󠄃會的意味體驗としての「いき」の意味移入によつて初めて生かされ、會得されるものである。「いき」の構󠄃造󠄄を理解する可能性は、客觀的表現に接觸して quid を問ふ前󠄃に、意識󠄂現象のうちに沒入して quis を問ふことに存してゐる。およそ藝術󠄃形式は人性的一般または異性的特殊の存在樣󠄂態に基いて理解されなければ眞󠄃の會得ではない(二〇)。體驗としての存在樣󠄂態が模樣󠄂に客觀化󠄃される例としては、ドイツ民族の有する一種の內的不安が不規則的な模樣󠄂の形を取つて、旣に民族移住時代から見られ、更󠄃にゴシツクおよびバロツクの裝飾󠄃にも顯著󠄄な形で現はれてゐる事實がある。建󠄄築においても體驗と藝術󠄃形式との關係を否み得ない。ポール・ヴアレリーの「ユーパリノス或ひは建󠄄築家」のうちで、メガラ生れの建󠄄築家ユーパリノスは次󠄄のやうに云つてゐる。『ヘルメスのために私が建󠄄てた小さい神󠄃殿、直ぐそこの、あの神󠄃殿が私にとつて何であるかを知つてはゐまい。路ゆく者󠄃は優美な御堂を見るだけだ――僅かのものだ、四つの柱、極めて單純な樣󠄂式――だが私は私の一生のうちの明るい一日の思出をそこに込󠄃めた。おお、甘い変身メタモルフオーズよ。誰も知る人は無いが、このきやしやな神󠄃殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女の數󠄄學的形像だ。この神󠄃殿は彼女獨特の釣合を忠實に現はしてゐるのだ(二一)』。音󠄃樂においても浪漫派󠄄または表現派󠄄の名稱をもつて總括し得る傾向はすべて體驗の形式的客觀化󠄃を目標としてゐる。旣にマシヨオは戀人ペロンヌに向つて『私のものはすべて貴女の感情󠄃で出來た』と吿げてゐる(二二)。またシヨパンは「ヘ」短調󠄃司伴󠄃樂の第二樂章の美しいラルジエツトがコンスタンチア・グラコウスカに對する自分󠄃の感情󠄃を旋律化󠄃したのであることを自ら語つてゐる(二三)。體驗の藝術󠄃的客觀化󠄃は必ずしも意識󠄂的になされることを必要󠄃としない。藝術󠄃的衝動は無意識󠄂的に働く場合も多い。しかしかかる無意識󠄂的創造󠄄も體驗の客觀化󠄃に外ならない。卽ち個人的または社󠄃會的體驗が、無意識󠄂的に、しかし自由に形成原理を選󠄄擇して、自己表現を藝術󠄃として完了したのである。自然形式においても同樣󠄂である。身振その他の自然形式は屢々無意識󠄂のうちに創造󠄄される。いづれにしても、「いき」の客觀的表現は意識󠄂現象としての「いき」に基礎附けて初めて眞󠄃に理解されるものである。