衝撃!邪馬台国が日本の歴史書から消え、場所すら見つからない本当の理由

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古代ずんだミステリー

古代ずんだミステリー

Күн бұрын

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@bananaapple338
@bananaapple338 Ай бұрын
実に面白かった! いろんな見方があるんですねえ。
@biradical2343
@biradical2343 2 ай бұрын
大学1年の時、再受験で合格された元研究者との対話で、「科学者としてイロハのイは何だと思いますか?」との問いに答えを見つけるのに苦労しました。彼は「批判精神です」と教えてくれました。その時、彼の言葉に深く納得しました。確かに、高校までは「答えありき」の思考が求められることが多いですが、科学者は権威である常識や教授、博士の意見に左右されず、自ら批判的に考えることが求められます。アインシュタインがニュートン力学の枠を越えて一般相対性理論を創出した例は、この重要性を象徴しています。 邪馬台国の畿内説や九州説といった議論においても、同じ批判的思考が必要です。従来の枠組みに囚われず、新たな証拠や視点から問題を検証することが科学的進歩につながります。たとえ東大の教授であっても、批判的思考を欠いたままでは、学者としての役割は果たせても、科学者としての資質は疑問視されるべきです。
@yasu6669
@yasu6669 2 ай бұрын
たしか吉野ケ里遺跡は集落としては大きいけど周辺と合わせても人口5000人程度しかなかったはず。 邪馬台国とするにはあまりに小さすぎるし、軍事施設だった可能性が高いんじゃなかったっけ?
@須山亨
@須山亨 Ай бұрын
古い情報ですけど、墓の形状などから、吉野ヶ里の文化は後世とは断絶していると考えられるとか。
@ときわたる
@ときわたる 2 ай бұрын
とても面白かったです! 「アニミズム→記紀神話」の間に記紀神話に至るまでの原型の信仰観念があり、それを魏志では卑弥呼とし、大和朝廷は天照大御神とした、という流れでしょうか。 この考え方、今までなく、とても新鮮でハッとさせられました…!
@マスター刑事
@マスター刑事 2 ай бұрын
アマテラスではなく神功皇后の可能性も大きいですね。神功皇后は九州での活動が記紀内で多く神格もかなり高いので。
@wayamato9226
@wayamato9226 2 ай бұрын
​@@マスター刑事 卑弥呼は呪術で政務をした盟神探湯占い🔮〜武器を取って先頭に立って半島へ攻め込んだ神功皇后とは性格が違う〜古事記の編者は魏志倭人伝三国志を知っていて200年前に倭国女王が魏に朝貢したと知っていたが大和朝廷の中にそれらしき女王が見当たらない〜卑弥呼の時に邪馬台国の南方の国の卑弥弓呼という男子王と交戦中と言う記述が出てくる〜甲冑をつけた神功皇后とは性格が異なる🗡️
@UnidentifiedFloatingObject
@UnidentifiedFloatingObject 2 ай бұрын
ヤバい!このチャンネルの1番の柱が折れるw
@愛国者-f2u
@愛国者-f2u Ай бұрын
一里な何メートル?は確かに、漢王朝(基本)→魏王朝(漢王朝滅ぼすが、ある程度継続した、卑弥呼と交流した時代)→西晋の時代(陳寿の書いた時代)で距離が変わる、陳寿はどの時代の一里で記録したのか?で変わる
@原田二郎-y4k
@原田二郎-y4k Ай бұрын
なぜヤマト国の位置は特定できないのか →これで喰ってる人がたくさんいるので、どちらかだけに決めると困るんです
@tomosugi-im3vd
@tomosugi-im3vd Ай бұрын
真理だね、そりゃ🤣
@オールドタイプ研究所
@オールドタイプ研究所 Ай бұрын
利権乙。あと、神聖な場所だからはぐかせとかんとな。
@グルメ旅夢気分
@グルメ旅夢気分 Ай бұрын
単純に魏志倭人伝の示している位置がそもそも日本なのかも分からないだけ。
@o9q-b7h
@o9q-b7h Ай бұрын
金印のレプリカ見たけどあんな小さいもの発掘されても絶対気づかず捨てる自信あるわ
@池田裕-e9h
@池田裕-e9h 2 ай бұрын
おもしろいですけど、陳寿が他の周辺国についても創作して書いているのか、他の弥生時代の王は神社に祭られているのか、説明を聞かせていただけたらと思いますです。
@surinngo4129
@surinngo4129 2 ай бұрын
九州の真ん中なんだけど、家の近所に4mくらいの石棺の蓋みたいなのがあるけど、放置されてる
@世利智英
@世利智英 2 ай бұрын
卑弥呼さんの墓かもね。
@会計士くん
@会計士くん 2 ай бұрын
いつか拝見してみたいです。 案内を頼めませんか
@あぱまん-g3b
@あぱまん-g3b 2 ай бұрын
元々石棺の蓋かもですね。お城の普請の為運び出されたが、途中で断念とかじゃないでしょうか?
@333redredred
@333redredred Ай бұрын
その下を掘り返してみたら? 巨大な岩山のてっぺんが平たく削られてるだけかもよ。
@kuri-r5l
@kuri-r5l 2 ай бұрын
卑弥呼は個人名じゃないんじゃない? 巫女 姫御子 等々 家臣は女王に限らず身分のある 女性の名前は知らないと思う。
@えみり-l8s
@えみり-l8s 2 ай бұрын
日巫女、陽巫女の字だったのかなあと思います
@ブラックホーク-h7v
@ブラックホーク-h7v 2 ай бұрын
基本的に古代中国は外国や外国人を蔑称で呼ぶから卑弥呼が本名は無い。卑なんて使わんよ
@もとちょ男
@もとちょ男 Ай бұрын
役職名でしょ。神に使える祈祷師のような仕事が「巫女(みこ)」日の神に使えるから「ひみこ」 漢字は単なる当て字でしかないから、音だけ気にすればいい。
@gedachtnis6274
@gedachtnis6274 Ай бұрын
役職名だったら台与も卑弥呼だろう
@じろーしめ
@じろーしめ Ай бұрын
クソド田舎の辺境の民族と見下してて通訳とか正解に出来てるとは思えない。天照大御神という日の女神を信仰しているから、日の神子、女王になったんやろね。 歴史素人だけど日本書紀をある程度信じて考察すると、卑弥呼の時代前には日本武尊が九州の熊曾建を打ち倒して大和王朝が九州にハバを効かせるようになっているはず。
@yosi6tokyo
@yosi6tokyo Ай бұрын
結構しっくりきました。特に天照の事を指しているというくだりです。
@itk6587
@itk6587 Ай бұрын
姫に巫女をやらしてたから、中国に伝わった時にそれが人物名的に伝わり、当て字でひめみこ→卑弥呼になったのではと思う
@okametti_U80
@okametti_U80 2 ай бұрын
いい考察ぢゃん👍
@udonko
@udonko Ай бұрын
えぇショック まぁ神社で伝えられてないなら元々無かったって説のほうが納得できる
@zuuk5053
@zuuk5053 Ай бұрын
記紀を書いた時代の人も「邪馬台国? 何処だよそれ?」って全員思ってたから、卑弥呼が一切出てこないのかもね。
@ak47andak74
@ak47andak74 2 ай бұрын
よく工事中に遺跡が出てきても、工事中止になるのを恐れて秘かに埋め戻しちゃうなんてことがあるなんて聞くけど、ひょっとしたら「親魏倭王の金印」なんかもすでに出てるんだけど、こういう歴史とかに興味ナッシングな土木業者とかによって隠蔽されてんじゃないかと思う時がある。
@ふぁーにゃK2
@ふぁーにゃK2 2 ай бұрын
ウチの家を建てる時に住○林業の営業が「遺跡が出てきても何も出て来なかったという事で工事します」って言ってたわ
@molosszer
@molosszer 2 ай бұрын
発掘費用が地主や工事会社持ちやからね 工事止められて金まで出せってなったら、そりゃねぇって思うよ 人が定住できる場所は、その後も人が住み続けてるだろうからビルの真下とかにあるんじゃねって思う
@electriclion0107
@electriclion0107 2 ай бұрын
石川県在住の友人に聞いた話ですが、金沢郊外に大きいショッピングセンターを作る計画の際、遺跡が出土して工事が4年ほど延びたらしいです。(津幡町アルプラザ平和堂)
@沙流汰彦
@沙流汰彦 2 ай бұрын
土木業者を差別したい気持ちだけは伝わったがそもそもそんな独善的な性格してないから他人の為に体使って働いてるんやで。むしろ頭脳労働ばかりして自分の体を見てない人の方が無自覚にストレスを抱えて不正をやらかす。
@ak47andak74
@ak47andak74 2 ай бұрын
@@沙流汰彦 どこら辺が差別なんでしょうか? 実際にそういう事例があったというコメントもいくつかいただいてるようですが。 それともあなたの考えでは「全肯定以外は受け入れない、ちょっとでも批判したら差別」なんですか?
@oniwakamarukumano8328
@oniwakamarukumano8328 2 ай бұрын
この動画で抜けていたけど、中華王朝の史書は前王朝の記録を元に皇帝の勅命によって編纂されるもの。 陳寿は魏、呉、蜀の宮中に保管されていた記録書と当時の臣官からの供述で編纂したのやろう。 邪馬台国も卑弥呼も陳寿が考えたのでは無くて、魏で記録を書いた書記官が考えて記した可能性もある。 似たようななもので、隋書に「多利思比孤」って倭国王が記されてるけど、これが誰なのか?も古代史で論争が尽きないですね。
@coffee-369
@coffee-369 4 күн бұрын
確かに現代に卑弥呼の名を冠する神社無いのはおかしいな
@mituami_megane
@mituami_megane 2 ай бұрын
古い日本語の方角を表す方言を手掛かりに距離(移動日数)と方角をたどって特定した人がいませんでしたか? 奈良より少し東だったと記憶していますが
@talksoldier8059
@talksoldier8059 2 ай бұрын
卑弥呼が実在したかどうか情報を知っている人こんなとこにいねえよ!!!! ...コメントしたら自分は「卑弥呼が実在したか情報を知っている人」だと思っている狂人になるじゃねえか
@user-mono.katari.hiro-chan
@user-mono.katari.hiro-chan 2 ай бұрын
卑弥呼、卑弥弓呼などの指すものは肩書。だから卑弥呼神社はない。巫女神社がないように。卑弥呼たちが祀っていたものは太陽神のはずで、それはあちこちにあるよね。
@チュンジャッキー-t2k
@チュンジャッキー-t2k Ай бұрын
太陽神は天照大御神でしょうね では天照の次に祀られている神はだあれ?
@もとちょ男
@もとちょ男 Ай бұрын
3位?菅原道真ですか?1位は応神天皇
@cinukarkur
@cinukarkur 2 ай бұрын
21分後半、「当時から馬がすでにいた。埴輪で表現されている」のあたり。?です。形象埴輪って、魏の時代からあったんですか?
@sakaejumo6757
@sakaejumo6757 2 ай бұрын
馬形埴輪が見られるのは5世紀後半からなので、魏志倭人伝が記された3世紀末からは200年近くあとの時代になります。 馬形埴輪だけでなく甲冑や弓を持った武人等の人物を象った埴輪も5世紀後半ですから21分後半の魏志倭人伝の頃に既に馬がいたという説明には無理がありますね。
@爆弾鬼斬り
@爆弾鬼斬り 2 ай бұрын
日本に牛や馬が出てくるのは4世紀の空白の150年の後ってよく言われてますから、それより前の日本にはいなかったと思いますよ
@ak47andak74
@ak47andak74 2 ай бұрын
弥生時代からあるのが確実な銅鐸にも、鹿や猪は描かれてるけど馬が描かれてるのは聞いたことがありませんな。
@ネオファームDリュー
@ネオファームDリュー 2 ай бұрын
この動画の卑弥呼様は可愛い❤😂🤣🎼🎵‼️
@pagosu1469
@pagosu1469 2 ай бұрын
hi mi ko = hi mu ka 卑弥呼=ひむか(日向)の音訳。つまり女王卑弥呼ではなく、ひむか(日向)の女王。 ということで、邪馬台国とは律令国以前の、宮崎+鹿児島の領域にあった古代のひむか(日向)国の事では?魏志倭人伝に記載のある方角、旅程、距離に近いし。 それだけではない、この古墳時代の南九州は、大和朝廷に対しては独立を保っていた。日向隼人、薩摩隼人、大隅隼人の支配地域だ。奈良時代の隼人の乱平定まで独立地域だった。 「ひむか」は国の地名だから、「ひむか」神社なんてのは無い。神社は基本まつられる人(神)中心だから。卑弥呼神社が無いのは「ひむか」の音訳と言う証拠になりえる。 宮崎市の生目古墳群には、箸墓古墳と同じ時代の140m級の前方後円墳が存在している。宮内庁の参考陵墓にはなっていない。 この最古級の古墳群に行ってみると、驚くべきことに、山を削って作られている。平地に土を盛ったものではない。こっちが原型なのでは?と思われる。
@remy777slot
@remy777slot 2 ай бұрын
伊都には日向という場所があります。 伊都から見て太陽の登る場所。 畏くも筑紫には日向があり木々の先に小戸という場所が有り、 黄泉の国からの禊を行い、その泡から神が生まれたとされる神社もあります。
@番義勝
@番義勝 2 ай бұрын
問題は卑弥呼=日向の国だとすると邪馬台国の国名に説明がつかなくなる事じゃないかな?。 ヒムカの国の女王で十分に説明出来るのに邪馬台国なんて国名をわざわざ使う意味が不可解ですよね。 邪馬台国の女王卑弥呼って事になっているみたいだから卑弥呼=日向の国だと「邪馬台国の女王は日向って国です」と記述してある事になると思うんだけどそこに整合性の説明が欲しいかな。
@ヨッサーン
@ヨッサーン 2 ай бұрын
場所については同意見です。
@sakaejumo6757
@sakaejumo6757 2 ай бұрын
西都原古墳群や南端の串間にも古墳があり多くの史跡があることから古墳時代には栄えていたのは間違いないでしょう。 日向は神武東征の始まりの地として記紀に記されており、日向が大和王朝にとって何の意味もなくただ書いてみただけということはないでしょうから、勢力を拡大した邪馬台国あるいは取って代わった新たな勢力が日向の地から出発して出雲や吉備などの勢力とともに畿内で大和王朝を作り上げたとかも考えられます。 個人的には日向の勢力が大和王朝に加わったのはたしかと思ってますが記紀にあるような活躍ではなく口八丁の外交で他の勢力を取り込んでちゃっかり大和王朝の代表に座ったとかもありかなとか想像しています。
@pagosu1469
@pagosu1469 2 ай бұрын
@@番義勝 ちがいますぜ、ヤマト(国)の「ひむか」の女王ですよ。魏志倭人伝の頃の倭国には、南九州の隼人勢力(ひむか)と、奈良地方の大和朝廷勢力が事実としてあり、魏から見れば、どちらの勢力も倭人と言うくくりの国の中の地方政権どうし。しかも、ひむかは、神武東征の出発地だから元祖ヤマトなわけ。つまり、魏から見れば隼人のひむか国こそが、元祖ヤマト国だから、ヤマトのひむかの女王と記したわけよ。その心は、楽浪郡より以南の朝鮮半島で、奈良の大和朝廷の遠征軍が三韓征伐をやっている時期に重なり、魏の楽浪郡支配を脅かしていた。そんな敵性の大和朝廷と同盟や朝貢関係を持つだろうか?否である。 したがって、魏が正式に認めるのは、大和朝廷と敵対関係にある、隼人のヤマト国である「ひむか」国となる。 この古代の国際情勢を無視して、邪馬台国を探すなんてナンセンスな話でしょ。
@adgjmptw889
@adgjmptw889 Ай бұрын
卑弥呼時代の魏の年号が畿内から出てるから日本書紀の魏志倭人伝、晋起居注は合ってる。 邪馬台国(大和朝廷)は元々暦がないから追贈天皇達と外国文献王達の間の年代のズレが大きすぎる。 応神天皇まで仙人みたいに長寿なのも南朝から元嘉暦が来るまで、干支すら知らなかったんだろう。
@tyama1894
@tyama1894 Ай бұрын
邪馬台国論争 たしか当時の日本が統一国家だったのか少数分立国家だったのかの話であって、邪馬台国って都の正確な位置情報が論点という訳では無いんだよね。
@sei3362
@sei3362 Ай бұрын
東方見聞録の「ジパング」並みに信用できないってことぉ??
@ねこねこ-k4g
@ねこねこ-k4g 2 ай бұрын
陳寿「わい、色んな書物を編集しただけだし……」
@jiaz4
@jiaz4 Ай бұрын
邪馬台国論争はいつの時代も楽しいよね😊
@すさなさきゆうき
@すさなさきゆうき 2 ай бұрын
銅鐸などがある以上、そこに人がいて何らかの政治活動はあったはず。魏志倭人伝がデタラメだとしてもヒミコと名乗る人物なりヤマタイコクと呼ばれていた場所があってもおかしくは無い。魏志倭人伝で行ったとされる場所と別の場所にそんな場所があった、、、のかも?
@安田一悟
@安田一悟 2 ай бұрын
なぜ見つからないのでしょうか?その答えは、キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探し、にあります。
@すずか神月
@すずか神月 2 күн бұрын
日本書紀には、神功皇后が北九州山門国の女酋長を討伐した、という記述があるんですが。
@kasumin001
@kasumin001 Ай бұрын
卑弥呼って各都市の祈祷師的な役職だったんじゃあ…
@kms8218
@kms8218 2 ай бұрын
「ヤマタイコク」「ヤマトコク」当て字の違いなのではないか。
@えあおqk
@えあおqk 2 ай бұрын
この手の説だと帥升さんとかはどういう扱いになんの?
@たまたまたまな
@たまたまたまな 2 ай бұрын
やまたいと呼んでるけどそれって昔のヤマトの呼び方なんじゃないかって説があるらしいね そうなると九州も畿内もヤマトだから邪馬台国だよ
@naokiaren5657
@naokiaren5657 Ай бұрын
そもそも魏志倭人伝を中立的な見方をしてる・・・これ自体おかしいでしょ
@magicianlefty
@magicianlefty 2 ай бұрын
愛新覚羅氏の子孫に出逢って スゲー(⁠ ⁠╹⁠▽⁠╹⁠ ⁠)と思ったら 宇喜多秀家直系子孫に出逢い スゲー(⁠ ⁠╹⁠▽⁠╹⁠ ⁠)と思い 先日物部氏の子孫に出逢い スゲー(⁠ ⁠╹⁠▽⁠╹⁠ ⁠)と思ったので もっと遡るには 卑弥呼の子孫に出逢うしか ないなぁ…って感じてる 昨今です♪
@takp9965
@takp9965 2 ай бұрын
九州にあり、どこかのタイミングで本拠地を近畿に移したとかはないのかな?
@saga6054
@saga6054 2 ай бұрын
佐賀県の吉野ヶ里遺跡の近くで昭和50年代にダム計画があったが、計画地に生きたオオサンショウウオが発見された。(NHK佐賀のフィルム映像) 本来なら工事は中止されるはずだが、ダム工事は決行された。 昭和50年代に発見された遺跡も鉄道や高速道路、開発事業を優先させるために、佐賀大学の学生が徹夜で発掘作業をしたが、工事は中止されなかった。
@kikaiserseasonform
@kikaiserseasonform 2 ай бұрын
同一人物の生まれ変わりが同時代に複数存在するのは ヒンズー教 的にはおかしくないらしい
@user_kisaragiyayoi
@user_kisaragiyayoi Ай бұрын
元歴史学徒ですが、15年前の講義では学説的には近畿でほぼ固まってると習いましたよ
@ナニカツクルちゃんねる
@ナニカツクルちゃんねる 2 ай бұрын
ヒミコを祀る神社は宇佐神宮と指摘する説もありますね。 正体不明の女神が宇佐神宮の中央で祀られています。
@TheKzit1969
@TheKzit1969 2 ай бұрын
宇佐が倭国連合の一部だったのは間違いないわけで、祀られていても不思議じゃない。 都がどこだったかは別にして。 例えば天照大神は出自は関係なくたらい回しにされた挙句伊勢で祀られてるし。出雲の大国主は阿波八鉾神社→丹波出雲大神宮→島根の出雲大社、阿波八鉾神社→内裏→大和大神神社だし。
@tzukarov
@tzukarov 2 ай бұрын
ほかの関連動画にもコメントしたが皆は東夷「倭人」の条しか見ずに議論しているがほかの東夷三韓(弁辰とか馬辰)とかとの比較をしていない。三韓は魏の帯方郡から近いはずなのに、非常にあっさりと軽く書いてある。習俗の描写もほぼない。なぜ倭人条だけ具体的で詳細なのか。やはり創作・伝聞か何かの書き写しとしか考えられない。 もう一つ新たに言うと魏の使者がイト国に留め置かれるということである。鎖国中の江戸時代でさえ、朝鮮通信使やオランダ商館の館長は、権力の中心であるところに招れ権力者に拝謁する。畿内説はおろか、九州説でさえ拝謁していない。卑弥呼が会わないにしても、まつりごとを取り仕切っていた弟くらいは会わないと使者に失礼であろう。親魏倭王の金印と銅鏡100枚もってきているのだから。 後漢書や隋書のほうが納得できる。
@北キツネ-e6d
@北キツネ-e6d 25 күн бұрын
なるほど確かに…変だなとは思う そもそも縄文とか弥生とかの時代から邪馬台国なんて邪悪な馬的な名前日本人が付けるかなと 卑弥呼も日本人の名前じゃないし 中国人が勝手に妄想して行った事無い国を書いたのも頷ける嘘は得意だからね
@remy777slot
@remy777slot 2 ай бұрын
12:50 移転説は正解かも。 九州と関西に類似した地名が方角含めて残ってるし、 住吉神社など移転したっぽい建造物もある。 移民先で地名を被せるのはアメリカなんかもそうだし、 天照大神を卑弥呼とすれば祀られてないとも言えない。 そもそも最古のスタイルと言われる神社は北部九州に集中してるし、 安曇族なんてのもある。 何らかの理由で移転してたのかも。 阿蘇山と日食なんか関係してるかも
@remy777slot
@remy777slot 2 ай бұрын
@@aiueiueo 出雲大社 国譲り 中国地方ではたくさんの戦いで死んだであろう骨が出てきてるし、 穢れ、御霊信仰と相まって封印されてるのでは。 そもそも昔の歴史書焼かれてるし。
@remy777slot
@remy777slot 2 ай бұрын
だったかな?なんかで見ましたね。 日本海沿岸の中国地方から出土した人骨に 争いによって起きたであろう人骨も多数あったと。 かめかんか何かにあったんでしょう。 銅剣や銅鐸も多数見つかってるそうだし。 もう一度個人で調べてみます。 自分はとうぜん専門家ではなく、 知識も聞きかじり程度なので 酒上の話のネタ程度で見て貰えたらと。。。 妄想出来るところがロマンあるというか楽しいし。 自分は邪馬台国=大和朝廷だと思いますね。 ふたつやいくつかの均衡する勢力があったと考えるより、 北部九州、出雲、大和と移動して行ったと考える方がしっくりします。 なので自分的に大和王権が融和的= 邪馬台国が融和的だと考え、 やっぱり現地の人と多少争いはあったにせよ、 インディアンの土地を開拓して行った白人のように、植民を増やして言ったのだと思います。 インディアンと白人と違って同人種だしね。 昔の日本人はなんかあると遷都したがるしw 長岡京王国と平城京王国とか平城王国が平安王国を飲み込んだとか考えると変な話になるし。
@remy777slot
@remy777slot 2 ай бұрын
​@aiueiueo 古代の日本と半島は密接な関係だったと思いますよ。 あるいは、出雲には半島系の人がいてそれを駆逐しながら日本人が団結統一していったのかもと妄想も出来る。 九州から大分中国地方近畿と遷都というか移動しつつ大きくなっていったと妄想すれば色々辻褄も合う。 神獣鏡なんて九州で魏からもらった鏡を 日本人特有の魔改造で量産したと考えると分布に納得いくし、 銅鐸は祭事の道具とされているが、 最初は三国志漫画出よく見る戦いの合図に使ったのかもしれない。 ジャーンジャーンげぇっみたいな。 近畿に近づくにつれ武力争いも無くなったため 祭事に使うようになったとか妄想は膨らみます。 古墳も文化圏の違いというよりただのアップデートだと思われ。 大化の改新で仏教で行くぞとなって 古臭い慣習は捨て去ったのかも。 明治にも似たような事あったし、 日本人は結構ミーハーというかそういうとこありますよね。 まだそれやってんのーみたいな。 Facebook笑インスタ使わないの? みたいな。 価値観は大事にするけど新し物好きみたいなw
@マスター刑事
@マスター刑事 2 ай бұрын
@@aiueiueo 移転ネタなら記紀に出てくる神武天皇の東遷神話が当てはまりますね。
@マスター刑事
@マスター刑事 2 ай бұрын
@@aiueiueo そもそも移転した時期が卑弥呼の時代ではなく、記紀の書かれている東遷の年代と実際に東遷の元ネタになったであろう九州から近畿へ移住開拓が行われた年代自体が異なっているという可能性。九州から近畿に移住開拓したとしても経済(農業生産)がしっかりしていないと大きな集落をつくること自体難しいと思うから、移転したのが卑弥呼の前の世代(祖父・父親世代以降)で開拓が進み近畿地方に大きな集落がつくれるぐらいには発展した時期に卑弥呼が登場したんじゃないかと。
@nagi_kygnus
@nagi_kygnus Ай бұрын
まあ、歴史書なんて勝った方の都合の良い歴史しか残らんよな 特に中国なんて国がコロコロ変わってるんだから、正しい内容かどうかなんて定かじゃない それはそれとして邪馬台国の卑弥呼にはロマンがあると思し あって欲しいなって思うし 福岡生まれのワイは九州だったら良いな、と思う
@擬音-c2r
@擬音-c2r Ай бұрын
もう完全に特定されてるってムーの三上さんが言ってた
@YulSicable
@YulSicable 2 ай бұрын
以前から信憑性に疑問を持ってました。というか何で学者さんとかそこまで信じてるんだろと思ってた。
@山下明彦-v3i
@山下明彦-v3i 2 ай бұрын
川内と書いて、センダイと読みます。😅
@ごろう丸-e7j
@ごろう丸-e7j 2 ай бұрын
邪馬台国の位置はわからないし、あるかわからないけど、あったと考える方がロマンがあるよね。
@allenwalker3878
@allenwalker3878 Ай бұрын
ひみこは日の巫女で、天照大神で間違いないでしょう。 ちなみに、体に塗るとか柑橘系が取れるとかは徳島説なら網羅してる。
@tang6swi
@tang6swi 2 ай бұрын
そもそも存在しなければ見つけようがないから、そっちの線が濃いような気がしてきた
@爆弾鬼斬り
@爆弾鬼斬り 2 ай бұрын
上に神社とか立ってると簡単に発掘出来ないから、そう言う線もあると思うよ
@akanuta0820
@akanuta0820 Ай бұрын
そもそも、中国人が残した書物で数行文しか触れてない情報だけを以て『あった』前提で話を進めたことが全ての間違いなんじゃないの? それに、書き写しの度に起きる誤写を認識してるなら両説論者共妄想を含めての主張をしてることになるし、タイムマシンが完成でもせん限り本当の答えは分かるまい。
@consadole10yamase
@consadole10yamase 2 ай бұрын
卑弥呼は孝霊天皇の娘というのは真実なのだろうか
@neobossnet
@neobossnet 2 ай бұрын
すげぇゲストだなズンダモン!! 特にネコの下敷きになってる専門家。面白いぜズンダモン!!
@wan6347
@wan6347 16 күн бұрын
もう見つかってますよ。 卑弥呼の最初の墓は安心院下毛の三柱山古墳です。 魏志倭人伝にある150メートルの日本最大の円墳です。 この規模の円墳は日本中でここだけです。 隣接する知野はかつて血野と呼ばれ、殉葬者100人を殺した場所です。 近くの宮ノ原遺跡には卑弥呼の父親の赤坂比古の墓もあります。 三柱山古墳は急ごしらえの古墳だったらしく、後に宇佐神宮の地下の亀山古墳に移葬されました。 宇佐神宮大元神社からも近い場所で、八幡神降臨の山袋稲積山もあります。
@333redredred
@333redredred Ай бұрын
邪馬台を「やまたい」って読んでるうちは見つからないわな。素直に「やまと」と読めば簡単な話だよ。
@鈴麗リンリー
@鈴麗リンリー Ай бұрын
うん、そうすれば記紀に書いてある通り元々の本拠地が九州、政治をとっていたのが近畿で話は終わりですね。
@もうとくそう
@もうとくそう 2 ай бұрын
神功皇后が卑弥呼ではないかとwikipediaには書かれている。それならば八幡神社が卑弥呼の神社に該当する。三韓征伐したから朝鮮の情報は詳しかったことを考えれば、魏に使者を送るのは当然かもしれない
@OlegBatov
@OlegBatov 2 ай бұрын
それはロシア対外情報庁によるウィキの改ざんです。彼らはウィキで偽情報工作を展開することで歴史的事実そのものを歪め、大和民族のアイデンティティを奪うことでロシア民族の一員に作り替えようとしているのです。 私の故郷はもう二度と蘇ることはありません。日本の皆さんはどうか祖国を大切になさってください。
@山芋太郎-v1m
@山芋太郎-v1m Ай бұрын
卑弥呼より前の時代の金印「漢の那の倭の国王」が見つかってるのでまったくの創作でも無いのでは?
@星屑-g3g
@星屑-g3g Ай бұрын
金印は国宝になってますが、作り方が江戸時代後期以降です。古代中国の人がタイムマシンを発明し、日本の業者に注文する必要があります。
@太郎すこ
@太郎すこ Ай бұрын
佐賀は吉野ケ里遺跡がそうだったように埋め立てられてるか、薩長土肥時代に遺跡の宝物を財源にしたんじゃないかと思う。佐賀んもんの通った道は草木も生えないという話があるほど財産を蓄え、佐賀鍋島藩は非常に裕福でした。実際に関東大震災の時は旧佐賀鍋島藩が大金を東京に寄附しています。
@アサヤス-w8v
@アサヤス-w8v Ай бұрын
「吉野ヶ里遺跡」の辺りは、一旦集落が無くなり極僅かな人しか住まない土地になりその上に古墳が出来たりして居るので、仮に『後の人が宝物を発掘』する様な事が有るなら、卑弥呼の時代よりも後のモノだと思います。 また仮に宝物が有ったとしても、『幕末まで盗掘も無く、佐賀藩が運良く見つける』なんて奇跡は有り得ないでしょう。 近年、遺跡が次々と出土して居るのは、『重機による土地開発で遺跡の一部が発見され、その後に本格的な発掘調査が始まった』と言う事に拠るモノですからね。 薩長土肥が豊富な財産を蓄える事が出来たのは、様々な「税制改正」や「専売制導入」などの改革を行った事が大きいと思います。 まあ薩長に関しては、それに加えて「商人からの借金踏み倒し」まで行って居たし、薩摩は琉球の黒糖を安く買いたたいたり、「密貿易」まで行って居ましたが。
@他力本願-s3g
@他力本願-s3g Ай бұрын
卑弥呼は居たよ、ただし2世紀にだけど、卑弥呼のモデルとなったのは平原遺跡に眠る女王、出土品も三種の神器を彷彿とされるものだし、量も半端ない!! それでもロマンを求めちゃうんだよね(^▽^;)
@JH-sq1tz
@JH-sq1tz 3 күн бұрын
九州沖縄説ですね。
@wintermute3357
@wintermute3357 2 ай бұрын
女王連合の基礎は2世紀後半に伊都国(今の糸島、明治までの怡土郡・志摩郡)で成立して その後、畿内の纏向に東遷という九州東遷説が強いかな。 東遷は平和裏には行われなかったと思われるが。 魏は265年まで存在していて卑弥呼が生存中に帯方郡(半島の北部にあった中国直轄の領土で楽浪郡など四郡あった) から張政が派遣されてる。 言葉も解らない陳寿が「ヒミコ」という日琉祖語を意味までわかった上で音訳出来たはずもない。 当時の中国は周辺の敵対国や朝貢国の国名・人名等を賤しい汚い字で表記する風習があったのは常識。 列島に牛馬が持ち込まれたのは古墳時代以降だ。それ以前では骨も馬具も一切発掘されない。 最後の方は…卑弥呼が実在したかどうかは神話では名前が変えられたか 日巫女は官職名で諱や諡は別にあった(ならば神社は腐る程ある) 或いは王朝交代で封印され解り辛いように祀られたか。 (纏向から伊勢神宮に移される経緯とか調べれば色々・・・)
@鈴原美沙
@鈴原美沙 2 ай бұрын
簡単なことだよ、見つかると今まで付き続けてきた嘘が白日の下にさらされて困る奴がいるからな。
@誠野村
@誠野村 Ай бұрын
ネッシーと同じで商業的、経済効果的なネタだから嘘でもなんでも続けるしかないと言う世知辛い理由な気がする。
@norice625
@norice625 19 сағат бұрын
卑弥呼=日巫女 説押し。 個人名でなく役職説。 オッカムの定理的に北九州説押し。 港からあまりに離れた場所というのは非合理的だから。 倭人章の下りは話を盛った説 押し。 遠ければ遠いほどエライことになるから。
@yasushifukai4212
@yasushifukai4212 Ай бұрын
ヤマタイの国。 ヤは、ヤハウェの尊称にして略称。 続くマタイは、新約聖書マタイの福音書に引用される旧約聖書時代からの預言者に関する記述と符合する古い名の引用に行き着く。
@イトーヨーcard
@イトーヨーcard 2 ай бұрын
邪馬台国や卑弥呼が実在したなら 九州地方だと思う🤔
@つげる
@つげる 2 ай бұрын
28:56 29:22 ←第二第三の「自称卑弥呼の生まれ変わり」をコメント欄に召喚しようとすなw
@道場門前
@道場門前 2 ай бұрын
阿曇磯良とか宗像三神なのでは・・
@domdom8179
@domdom8179 Ай бұрын
要は確たる証拠がないから誰もワカンネってことか!
@user-aoi2960
@user-aoi2960 Ай бұрын
金印にヤマタイ国と刻まれて居ないから、ヤマタイ国が有った証拠にならないのでは?🤔魏志倭人伝の作者が日本に来た事が無く伝聞による記述ならば、マルコ・ポーロの東方見聞録の日本の部分がめちゃくちゃなのと、似たようなもんですね。
@伊藤昌信-s2x
@伊藤昌信-s2x 2 ай бұрын
卑弥呼は、徳島の八倉比売神社に祀られています。
@kaisohou
@kaisohou 2 ай бұрын
三国志から見た邪馬台国の位置が興味深い
@abeyoshihiro0921
@abeyoshihiro0921 Ай бұрын
当時の日本語(上古語)では、は行はなくて、代わりにぱ行だった。 半濁音て、ぱ行だけしかないのは、そのせい
@hymd-myhobbies
@hymd-myhobbies 2 ай бұрын
卑弥呼はヒメ・ヒコのことをことではないのかな。「ヒミコ」なる特定の人物のことだったのだろうか。
@こーせー-m9w
@こーせー-m9w Ай бұрын
まぁ奈良やろなぁ
@yasutakakishida9628
@yasutakakishida9628 Ай бұрын
侵略性のある大国に自国の首都や重要人物は教えないだろ、九州は江戸時代の出島と同じ扱いだろ。
@369skysea
@369skysea 2 ай бұрын
ごくろうさんです。卑弥呼の実在したことを示す複数のリーディング結果があるので、実在は間違いないようですよ
@EL34244
@EL34244 2 ай бұрын
アッ福岡の天神アタリから西陣って道路工事したら遺跡だらけ…だったな。 凄く広い範囲だなと思ってたけど 遺跡の調査なんて無しですね。
@ak47andak74
@ak47andak74 2 ай бұрын
「卑弥呼神社がない」 当たり前だ。そもそも当時の日本には文字すらないんだから「卑弥呼」というのがそのままの名前のワケがない、中国人が聞いた当時の日本語の音写。 おそらく「姫御子・姫巫女・日御子・火御子・etc・・・」辺りが妥当(日向とかの転訛も含む) なので民俗学的に神社をもとに比定地を考慮するなら、「○○姫神社」みたいな名前が付いてたり、女神が主宰神になってて起源が記紀成立以前まで遡れるような古い神社は全て候補地になり得る。
@ymonolithus3360
@ymonolithus3360 2 ай бұрын
最初から無かったという説、とても興味深いですね。 勝ち側では無かったからの葬られたと考える事だけで無く、無かったから記述が無いと言うのは、新鮮な見方で面白かったです。
@momomomo6798
@momomomo6798 Ай бұрын
存在しないから見つからないんじゃないかな
@nakanonakano8897
@nakanonakano8897 2 ай бұрын
台をたいと読むか、ソレとも、とと読むかの違いで、台をと読めば邪馬台国はやまとぉ国です。魏志の書かれた時代の漢字を現代の日本人の読みで読み解くのはおかしいと思う。ちなみに、私は邪馬台国は霞ヶ浦の東側にあったと思います。
@すっきりスキニー
@すっきりスキニー Ай бұрын
後半のあたり。 埴輪を例に出して、魏志倭人伝が嘘と喝破しているが、 埴輪こそ時代が違うと思うんだが。なんか勘違いしてるのか俺? ただし、テキトーであろうという説は同意。根拠がアレってだけで。
@kazuomoriya348
@kazuomoriya348 2 ай бұрын
邪馬台国論争は殆ど政治的マターとなってるな。
@osamuarima1118
@osamuarima1118 2 ай бұрын
奴国は存在し金印まであるのに邪馬台国はないと言うのはおかしいと思う。 当時日本には紙がないので、金印を何に使うのかわからなかったと思う。
@couchpotateable
@couchpotateable Ай бұрын
金印の出自からしてあやしーと思ってます 。ぐぐってみてください。そんな古いもんが田んぼからひょいと出てくるのか・・・? ってところからしてかなり疑ってます。
@travelneurologist
@travelneurologist Ай бұрын
九州論者です。 ・七世紀以前の列島の姿が描かれた明代の「四海華夷総図」には、九州が「倭国」で本州が「日本」と明記されている。 ・九州につくまでは「海を渡る」という表記で、それ以降は水行と陸行のみ。つまり川と陸地のみで海を渡っていないので本州にたどり着けない。 ・中国からの使者は九州の唐津付近で自分たちの乗ってきた船を乗り捨てている。近畿に向かうならそんなことはしない。 ・貨幣経済の発達した江戸時代と異なり、この時代には一日数キロしか進めなかったという実証実験がある。九州北部から水行三十日、陸行一月では近畿までたどり着けない。 ・「女王国の東、海を渡って千余里で、また国が有り、皆、倭種である」つまり卑弥呼のいる場所から東に海が見えた。 ・邪馬台国の墓には槨がなかったと記されている。実際には奈良県の纏向遺跡の墓には槨があり、九州にはない。 ・正統竹内文書によれば、卑弥呼の墓は大分県の宇佐神宮だとされている。実際に宇佐神宮の上宮がある丘は魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓と大きさや形が似ており、そこには応神天皇よりも目立つ形で「女神」が祀られている。
@natsuco0
@natsuco0 2 ай бұрын
埴輪って弥生時代からあるの?
@qq9p9xw9k
@qq9p9xw9k 2 ай бұрын
普段中国人は信用出来ないと言われてても 中国の歴史書だけは信用されてるのが面白い
@rothmans022
@rothmans022 Ай бұрын
「文化大革命」以前の中国人なら多少は信用あっても良いと思う。 同様の事がウガンダにも言えなくもない。焚書坑儒はそれだけ悪い事に成る。
@浅井優也
@浅井優也 Ай бұрын
信用されとらんよ。 だが、記録がそれしかないから、複数を付き合わせて『同じ時代の内容を精査して推測している』だけ。 ついでに言うと『漢字文献程信用度は落ちる』。
@qq9p9xw9k
@qq9p9xw9k Ай бұрын
@@浅井優也 俺もお前の事信用してないから安心しなさい
@浅井優也
@浅井優也 Ай бұрын
@qq9p9xw9k 研究者にとって初歩の初歩、常識中の常識を指摘されて発狂してるとなると… もうちょっと上手に正体は隠そうね。
@qq9p9xw9k
@qq9p9xw9k Ай бұрын
@@浅井優也 正体?発狂?お前何と戦ってるの?w
@マスター刑事
@マスター刑事 2 ай бұрын
陳寿が外国伝を適当に書いていたかどうかは他の外国伝がどのように書いているのか、そしてそれが考古学的見地からどのように書かれているのか符合する必要があるかと思います。
@マスター刑事
@マスター刑事 2 ай бұрын
さらに、記紀の記述がある程度信頼できる(史実をもとにした日本側の歴史ファンタジー)内容だと仮定すると邪馬台国のあった時代の日本は神功皇后という事になる。つーか日本書紀では明らかに卑弥呼や邪馬台国を神功皇后や大和朝廷に結び付けようとしている節があるし。 そう考えると日本の考古学者って邪馬台国を探すのに神社や伝承どころか記紀すらも触れていないというのはおかしいし、存在しないというより記紀自体を歴史書として認めたくないという意識が強いのかね。
@ak47andak74
@ak47andak74 2 ай бұрын
昔読んだ邪馬台国本の一つに、それと全く逆の発想を唱えてるものがありました。 つまり日本書記は邪馬台国とか卑弥呼の事跡を徹底的に上書きして隠すために作られたもので、主犯は編纂責任者の舎人親王だと・・・ ちなみにその本の作者は邪馬台国を宇佐神宮に比定してましたが、これも八幡神→神功皇后という連想から来てるようでした。
@zennin357
@zennin357 2 ай бұрын
@@マスター刑事 史書を元に研究をするのは歴史学者の仕事 考古学者は史書に影響されず発掘結果を元に研究をするのが仕事 歴史学のひとつに歴史考古学という史書の内容を考古学的手法で研究する分野もある 発掘結果で邪馬台国がどうこうと適当なことを言って騒いでるのはだいたいこの連中
@user-me5ie4my9p
@user-me5ie4my9p 2 ай бұрын
​​@@ak47andak74 魏志倭人伝には邪馬台国は会稽,東冶の東の海の彼方にあるとされており、位置的には台湾か沖縄あたりになります。 九州北部から船で南に30日のところにあるというのも、このあたりであれば記録と合致しやすいです。 刺青の文化があったという記録もありますが、沖縄では明治初期あたりまで刺青の風習があったようです。 特産物が中国の海南島に似ているとあり亜熱帯気候であることが想像されますが、そうであるなら邪馬台国の人々が裸足であるという記録にも納得できます。 (九州でも冬は氷点下になるので裸足は無理かと…) そもそも邪馬台国は日本の本土にはなかったので、何十年も発掘しているのに、遺跡がまったく見つからないのではないでしょうか。
@nandai_ittei
@nandai_ittei 2 ай бұрын
個人的には邪馬台国と大和朝廷は無関係だと思っている。また、邪馬台国は九州にあったと思っている。 無関係だからこそ、日本(大和朝廷)の史書に邪馬台国も卑弥呼も出てこないのだろう。
@wayamato9226
@wayamato9226 2 ай бұрын
魏志倭人伝に倭には邪馬台国のほかに日本と言う国もあり全部倭種としている
@user-me5ie4my9p
@user-me5ie4my9p 2 ай бұрын
魏志倭人伝には邪馬台国は会稽,東冶の東の海の彼方にあるとされており、位置的には台湾か沖縄あたりになります。 九州北部から船で南に30日のところにあるというのも、このあたりであれば記録と合致しやすいです。 刺青の文化があったという記録もありますが、沖縄では明治初期あたりまで刺青の風習があったようです。 特産物が中国の海南島に似ているとあり亜熱帯気候であることが想像されますが、そうであるなら邪馬台国の人々が裸足であるという記録にも納得できます。 (九州でも冬は氷点下になるので裸足は無理かと…) そもそも邪馬台国は日本の本土にはなかったから、遺跡がまったく見つからないのではないでしょうか。
@靖彦上坂
@靖彦上坂 Күн бұрын
偏った考え方で探してもダメ
@kisaragi1331
@kisaragi1331 2 ай бұрын
言われてみれば北から南まで節操なく何でも取り入れて祀るのが日本人 そこに祀られておらず記述もないと…一気に怪しくなってきたな
@たかまる-v3u
@たかまる-v3u 2 ай бұрын
いや仙台じゃね?ヤマタイ、山台、仙台。
@ua1472
@ua1472 Ай бұрын
卑弥呼は日の国の巫女 日の巫女 又はヒメ巫女 邪馬台国 大和大国 だと思ってる
@hymd-myhobbies
@hymd-myhobbies 2 ай бұрын
邪馬壹という単語で大和と比定できない理由あるのかな?九州説苦しすぎるのでは。
@新貝紀光
@新貝紀光 Ай бұрын
吉野ヶ里遺跡のすぐ近く(10〜20km)に「山門」と書いて「やまと」と読む地名が存在するからです。 読みが一致するだけじゃ、ここも邪馬壹だけど?ってことじゃないでしょうか。
@passpawn21
@passpawn21 Ай бұрын
日本の書物に「卑弥呼」とか「邪馬台国」の記述がないのは当たり前。 自分の国や自分の国の王に「邪」とか「卑」とか悪い意味を持つ文字を使うはずがない。
@アサヤス-w8v
@アサヤス-w8v Ай бұрын
「記紀」では同じ人やモノを「幾つもの言い方」や「別漢字」で記したりしているので、関係無いと思います。 例えば「アマテラス」に関して、『古事記』で「天照大御神」「天照大神」と記していて、『日本書紀』では「日神」「大日孁貴」「天照大神」「天照大日孁尊」「大日孁尊」「日神尊」「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」「伊勢大神」など様々な呼称で記されて居ます。 また、アマテラスの父神である「イザナギ」に関して、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記されて居ますが、『古事記』では「伊邪那岐神」「伊邪那岐命」と”邪”の文字を使って記されて居ますよ。
@難波はじめ
@難波はじめ Ай бұрын
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