Пікірлер
@星三平
@星三平 Ай бұрын
やこうろれ 夜行列車復活してほしい…とくに名古屋博多間の金星を!
@チュワンロン
@チュワンロン 8 ай бұрын
KATOMIXでこのころの情景を再現して リアルではLCCに乗って青森などに3000円で行くのが令和流か。
@広-y9z
@広-y9z 9 ай бұрын
49年前、鉄道少年でした私は岩見沢の叔父宅に遊びに行く際、家族は飛行機でとの意見を押し切り 横浜自宅から八甲田~おおとりで岩見沢まで行きました。冬でしたので青森手前から雪が激しく窓枠(木枠?)に 粉雪が積もりだしたのを(車内側)鮮明に覚えています。 動画+スライド良いですね、スライドの時は色々思い出を考えることができました。 ありがとうございました。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 8 ай бұрын
コメントをいただきありがとうございます。 私は3回連絡船を利用しましたがすべて夏場でしたので、冬場に津軽海峡を渡られたのは羨ましい限りです。
@user-mu3dz3iv6q
@user-mu3dz3iv6q 11 ай бұрын
1:16「元気でいろよォ」という声が旅情をさそう...
@917k8
@917k8 Жыл бұрын
当時、この地平ホームにて全ての旅客と職員に現状をアナウンスしてた方に感銘です。 鉄道少年の頃、「危ないですから少しさがって写真撮ってくださいね」空かさず次、トーサンバン○○レ○分です。 何処で見て制御しているのか、何時来てもあの声で和む。到着列車の乗客に告げる あの味わい深い声。 それを聞けてとても嬉しくなりました、ありがとうございます。
@yancan5175
@yancan5175 Жыл бұрын
私が2度の北海道へ二回とも行きか帰りに乗車した八甲田 もう14系客車でかなりきれいな客車になっていましたが、それでも酒盛りなどが始まったりしてました。
@とみおいとう
@とみおいとう Жыл бұрын
懐かしい思い出です。 小学校6年の夏休みに東京まで急行で約6時間、上野から急行八甲田で浅虫へ。台風災害の影響で浅虫から青森は代行バスでした。 盛岡からSL牽引に替わり、全開の窓から煙の匂いと煤が客室内に入ってきて、寝られませんでした。 そして青函連絡船に乗り継いで初めての北海道、函館まで21時間ほどかかったのですね。 今はフェリーで苫小牧まで40時間。
@elbuenos143
@elbuenos143 Жыл бұрын
♪ネオンライトでは燃やせない~  ふるさと行きの乗車券~
@さすらいのアルバトロス
@さすらいのアルバトロス Жыл бұрын
動き始めた 汽車の窓辺を 流れてゆく 景色だけを じっと 見ていた~🎵
@あいうえお-o6s1f
@あいうえお-o6s1f Жыл бұрын
上野駅から函館駅まで何もかもが懐かしく美しい。💖✨ 初めての長旅を親から許されて、青函連絡船から降り立った初めての北海道。😌 私も、あの感動は一生忘れることは有りません。😊 貴重な写真、音声ばかりですね。ありがとうございます。🙇
@CYuuzuru
@CYuuzuru Жыл бұрын
時間をかけて行くからこそ得られる感動が、この当時の鉄道旅行にはありましたね。 昭和の高校生から見ると、北海道は未知の大陸のような存在でした(^^)
@あいうえお-o6s1f
@あいうえお-o6s1f Жыл бұрын
@@CYuuzuru 様、 返信ありがとうございます。 現在なら、北海道ヘ行く人の90%以上が飛行機の時代ですよね。飛行機を否定するつもりはさらさら有りません。ですが、飛行機による初めての渡道では、連絡船による渡道での感動には及ばないでしょうね。🙄 主様おっしゃるように、私にとっても北海道は未知の大地でした。💖✨
@蛮場晩
@蛮場晩 Жыл бұрын
矢吹丈が紀ちゃんに別れを告げドサ周りに旅立つ姿が見えてきそうです。
@pekosakura2222
@pekosakura2222 Жыл бұрын
素晴らしい。この録音は・・・。写真も、素晴らしい。
@CYuuzuru
@CYuuzuru Жыл бұрын
ありがとうございます。賑わっていた夜の上野駅を想像していただければ幸いです。
@高木健-q5x
@高木健-q5x Жыл бұрын
札幌の少し東から乗車、函館、青森、東京を経由して浜松そして東海道線に乗り換え、まる一日かかった。
@CYuuzuru
@CYuuzuru Жыл бұрын
東海道・山陽新幹線しかない時代と現代とでは距離感がまったく違いますね。 この当時の北海道は異国の地に近いイメージがありました。
@クラップクラップ-c4o
@クラップクラップ-c4o Жыл бұрын
酒とつまみと写真等があれば朝まで70年代の上野駅を語れる人がいそう。
@上一-q9k
@上一-q9k Жыл бұрын
幾らでも語れるよ!13〜15番ホームでよくアルバイトしてたよ、某◯倉高校行ってたから! 懐かしいな〜
@えんど3
@えんど3 2 жыл бұрын
子どもの頃に見た懐かしい風景です。青函連絡船が廃止される数年前に乗った時、摩周丸の船長さんが、サイン入りカードを配ってました。コインと共に大事な宝物です。
@横高頑張れ
@横高頑張れ 2 жыл бұрын
1984年に友人が上野1950発ゆうづる1号(583系)に乗って青森駅に。青森駅から津軽線で三厩駅に。三厩駅から青森駅に行って青森駅から急行八甲田号で上野に帰ってきたそうです。車中で2泊3日の強行旅、自分には絶対無理です。誘われないで良かったです。金もなかったけど。
@cadeau999
@cadeau999 2 жыл бұрын
初めての北海道旅行は1910発の八甲田を利用しました。青森までの道のりは本当に長かったです。 飛行機に乗ることは金銭的に困難な時代で、ひたすら耐えるしかなかったです。 今は飛行機も安価になり、二時間で釧路や女満別まで行けてしまうのは夢のようです。
@gu-gu8884
@gu-gu8884 2 жыл бұрын
ハイケンスと車掌さんの訛った放送が素晴らしい!この当時は上野からの通しの乗務だったろうから大変でしたね。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
ありがとうございます!八甲田の編成は青森客車区の所属で車掌さんも青森の方だったと思います。到着前の丁寧な車内放送を聞いて長旅の疲れを癒されました。
@越前大岡-i5m
@越前大岡-i5m 2 жыл бұрын
今も函館〜青森間を、連絡船に代わる規模は小さいが フェリー🛳運航しているのだろうか❓(道民)。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
詳しくは存じませんが、青森ー函館航路はトラック輸送のメインルートで大間ー函館間のフェリーも運航されていると思います。
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 2 жыл бұрын
動画主さんのおっしゃる通り、青森~函館は青函フェリーと津軽海峡フェリー(共に毎日8往復24時間運航)、大間~函館は津軽海峡フェリー(毎日2往復)あります😉
@アイスぴの
@アイスぴの Жыл бұрын
青函フェリーと津軽海峡フェリーがあります。 どちらも、函館駅と青森駅は離れてますが…。(泣)
@8739ccs
@8739ccs 2 жыл бұрын
1977年12月31日の八甲田51号(上野14:41発)に乗車し、青函連絡船に乗りました。 古きアルバムを整理中です。思い出をありがとうございました。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
こちらこそコメントをいただきありがとうございます。年末の八甲田51号は昼間に上野を出て深夜に青森駅着というダイヤだったのですね。冬の北国へ一度は旅をしたいと思いながら、国鉄時代には実現できなかったのが残念でなりません。
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 2 жыл бұрын
@@CYuuzuru ↑昭和61年3月に北海道行ったオッサン。多少ダイヤ乱れたけど予定通り回れたよ😉
@sunami808
@sunami808 2 жыл бұрын
この時代普通の人は列車しか選択肢が無かったからねぇ。今の基準からすれば、車内で飲酒や喫煙当たり前で東南アジアや中国以下の低モラルだったし、やたら混んでててキツかった思い出しか無いですね。もう昔は懲り懲りかな?多分今こんなクーラーもない列車に長時間とかノーサンキュー
@welcometohakodate4713
@welcometohakodate4713 2 жыл бұрын
願わくば、我がライブカメラも、ここまで巻き戻したい!(泣)
@ststkg14
@ststkg14 2 жыл бұрын
青森駅で蛍の光ですか。出合わせた人は現在の飛行機や新幹線にはない旅の情緒を感じておられたんでしょうね。
@naomoro610
@naomoro610 2 жыл бұрын
記憶の彼方に急行岩手に乗ったなあ、懐かしいなあ
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
私も一度だけ、上野を23時台に出発する急行いわて3号に小牛田まで乗りました。懐かしいですね。
@利-y8w
@利-y8w 2 жыл бұрын
夜行急行「八甲田」「津軽」の並びなんて、この上ない「最強」の並びでした。感涙ものです。私の父が山形の天童出身なものですから「津軽」は定番の列車でしたね。「八甲田」は東北本線廻りで「津軽」は奥羽線廻りでした。上野発車後、しばらくは旅の始まりの期待と昂ぶりで車内もざわついていますが、夜半ともなると、気怠い雰囲気に包まれておりしました。冬場は軒並み雪害の為、大幅に遅延しておりしました。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
ありがとうございます。 八甲田と津軽1号の並びは夜行列車ラッシュのオープニングに飾る壮観なもので、何度も見に行きました! 発車してしばらくは暑さのため客車の窓を開けている人が多かったですが、黒磯から北は7月でも窓を閉めないと寒い位でした。 その頃には車内の会話も少なくなり、暗闇を流れる数少ない民家の灯りをぼんやり眺めているか、単調なレールの響きを子守唄にうたた寝している人が大半だったように思います。
@akita1934
@akita1934 2 жыл бұрын
昭和47年秋田から進学で上京し「津軽2号」はよく利用しました。秋田ー都内の運賃が1750円+急行券300円でした。対面4人掛けで通路に新聞紙を敷いて寝ている方もいました。所要時間9時間位で到着時間の関係でやはり秋田以北の利用が多かった。「出稼ぎ」の方の帰省・上京で混み車内は上野発車前から一気に「お国訛り」に溢れましたね。青春の思い出としてかなり比重が高いです。
@nyanpeco462
@nyanpeco462 2 жыл бұрын
国鉄時代のSL列車の雰囲気がよく出ています。俊足のC57なら時速70km/h位は出ているでしょう。風と共に石炭の粉塵も窓からはいってきたことも今では懐かしい記憶です。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
直線が多く駅間が長い室蘭本線では、老いたりとはいえC57がその快速ぶりを最後まで発揮していましたね。おそらく70〜80km/hは出していたと思います。
@不自然なユウスケ
@不自然なユウスケ 2 жыл бұрын
0:37 0:55 上野駅のホームに「奥の松」の看板が設置されていたことに驚きました。 「奥の松」といえば福島県の二本松にある酒造会社なので、福島県民の私からすれば嬉しい限りです。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 2 жыл бұрын
よく気付かれましたね!現在の上野駅にも清酒「奥の松」の看板はあるようです。 鉄道博物館の国鉄上野駅再現コーナーの柱にも、このプレートが設置されています。ロゴの書体は故森繁久彌さんが揮毫されたそうです。
@Oマサユキ
@Oマサユキ 2 жыл бұрын
北から南まで新幹線網ができたために夜行列車はなくなりましたね(´・ω・`)
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 2 жыл бұрын
かろうじて「サンライズ出雲・瀬戸」だけだね😉
@万太郎くん
@万太郎くん 3 жыл бұрын
2021現在寝台特急、急行もない カシオペアも北斗星も消えた
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 2 жыл бұрын
かろうじて「サンライズ出雲・瀬戸」だけだね😉
@toyohiko5800
@toyohiko5800 Жыл бұрын
そのサンライズも、いつ廃止になってもおかしく無い状況です。 新幹線を🚄ご利用下さいって! ああ〜つまらん
@D5120-w7x
@D5120-w7x Жыл бұрын
カシオペアもカシオペア紀行として頑張っている。
@愛知るおじさん
@愛知るおじさん 3 жыл бұрын
天地茂さんが唄っていた名古屋ブル―スがすごく聞きたいです神様お願いします🙏
@青春18きっぷ-c5r
@青春18きっぷ-c5r 3 жыл бұрын
昔、東北ワイド周遊券で急行八甲田乗りました。 あと、EEきっぷでも急行八甲田乗りました。 青函連絡船は青春18きっぷで往復しました。 懐かしいです。
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 2 жыл бұрын
EEきっぷ🎫は便利だったっすね😉
@TheReimmy
@TheReimmy 3 жыл бұрын
青森到着の放送が実に味が有りますね!すばらしい!
@谷元邦弘
@谷元邦弘 3 жыл бұрын
休みに成ると何時も周遊券で乗ってたから懐かしいよ
@youichikawasa
@youichikawasa 3 жыл бұрын
新幹線が開通する前の上野駅って、とても賑わっていた。 みんな嬉しそうに列車へ乗っていくんだよね、お土産とかビールをたくさん抱え込んで。 あの時の音をしっかり残してくれている人がいて感謝感激!
@カルボナーラシノティ
@カルボナーラシノティ 3 жыл бұрын
確か私は1976年夏に八甲田の臨時に乗りました。21時過ぎに上野をでて青森には8時半頃だったような気がします。上野出たときには満員で持って出た簡易の椅子にしばらく座ってました。青森に着く前に車掌さんが連絡船の乗船名簿を配りにきてました。9時50分ころの連絡船で函館に向かい北海道1周がはじまりました。博多駅からワイド周遊券使いました。学生時代のいい思い出です。
@4wdvista140
@4wdvista140 3 жыл бұрын
1972年3月に始めて渡道するため、東北本線は1Mはつかり583系昼席運転に乗り、青函1便に乗り継いだ。この筋なら函館の朝イチの特急、急行に連絡するからだ。 鉄道好きだが八甲田はのろく、青森から函館に着く時間は遅すぎる。 八甲田は、上りで途中下車仙台などの目的利用しかしなかった。1Mも485系なら良かったのだが仕方ない。 20回位北海道へ行くなかで、急行十和田、津軽も寄り道などのため利用したことはあるが、下り八甲田は気乗りしなかった。急行としては頑張って走る列車だったことには違いないんだが。 今から思うと少し遊びが足りず、もったいなかった。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
一時期583系の寝台をセットせずに運転されていた「ゆうづる」が1往復だけあり、渡道する際に青森まで乗車しました。 冷房付きとはいえ、リクライニングなしのボックス席では熟睡出来ず辛かった記憶があります。
@ボンクラ13
@ボンクラ13 3 жыл бұрын
俺は警視庁特捜部の会田刑事。血に飢えた狼のように犯罪に挑む。人は言う、虚しくないか、悲しくないかと。俺は背を向け、拳銃の感触が俺を励ます。今日も生きてやる、俺の正義の為に。
@今何時-p9s
@今何時-p9s 3 жыл бұрын
上野発の夜行列車 津軽海峡・夏景色
@thunderbird1691
@thunderbird1691 3 жыл бұрын
急行越前が見えます。一度上京する時に往復で乗ったんですが、あれは酷かったあ~。もう乗りたくない。ただ、周遊券1枚で乗れたから、高速バスのない時代一番安かった。故郷の駅と上野を結ぶ唯一の列車だっただけに貴重ではありました。北陸新幹線が延長される日がまもなく来る。けれど、今度は中京関西へのアクセスが劇的におかしくなる。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
急行越前は21時前に上野駅を出て、福井到着は翌朝7時過ぎでしたね。 旧型客車のボックス席での10時間は身体に応えますが、あの頃は老若男女が夜行列車を利用していたのですから皆さん忍耐強かったのでしょう!
@hiroring1163
@hiroring1163 3 жыл бұрын
俺の正義のために…。良いセリフですね。これこそハードボイルドです。
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
そうですね。広島の原爆投下で両親を失い、姉は米兵に強姦された後に自殺したという、人物設定そのものがハードボイルド過ぎます!
@hiroring1163
@hiroring1163 3 жыл бұрын
@@CYuuzuru そうした人物背景があったからこそ、巨悪(時には警察や政府さえも)を憎み「俺の正義」を会田刑事は貫き通せるのですね。一方で、裏表のない純粋な人物のクリーニング屋の太郎さんにはとても優しかった。特に第1シリーズ最終回のラストシーンはとても感動的でした。
@satoshiohki3838
@satoshiohki3838 3 жыл бұрын
そうですね。天知さん自身、少年時代に名古屋大空襲に遭遇して九死に一生を得た経験を持っているだけに、この役柄には相当なこだわりを持っているんですよね。
@茂日高
@茂日高 3 жыл бұрын
一回きいてきにいりました 天知茂といえば僕は明智小五郎 イメージですよ 50代でいってしまったのはおしまれ ます
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
ありがとうございます。会田刑事の時代はハードボイルド、明智小五郎の時代は渋さの加わったダンディズムを体現されていた天知さん。ご存命であったら60代以降も素晴らしい仕事をされたに違いないと思うと、早逝されたことが残念でなりません。
@asakusa3547
@asakusa3547 3 жыл бұрын
チャンネル発信者様と同学年ですね✌️私も同じ頃上野から八甲田急行電気機関車に乗って北海道目指して1人旅してました、青函連絡船の半鐘と蛍の光や函館に着く時には北島三郎の音楽が(うろ覚え)聴こえたような?懐かしすぎて涙が出ますよ💧
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
ありがとうございます。 あの頃の鉄道を使った北海道旅行には、遠いからこそ味わえる感動がありましたね。 サブちゃんの歌は「函館の女」でしたか? はるばる来たぜ函館♬という歌詞も、上野駅から列車と連絡船で旅をした人でないとピンと来ないのではないでしょうか(笑
@asakusa3547
@asakusa3547 3 жыл бұрын
懐かしいです八甲田、津軽乗りました、帰省の人多かった郡山で特急待ち合わで、降りる人が多くなると寂しさ感じたな、深夜の出発になる汽笛がなんともうら淋しく感じた1人旅、青森着く頃には知らない方と雑談青森から青函連絡船乗船名簿書いたりギリギリ乗船出来た、私の遠い思い出は、今でも走馬灯のように思い出されますね💧涙が出てきますよ18くらいのわかぞうだった頃が😃💡函館長万部で宿に泊まった時家出と思われ女将に説得されたな、その私も今じゃ前期高齢者なんとも…💧言っても言っても語り尽くせません💧
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
ご同輩から熱いコメントをいただき恐縮です。家出人と間違えられるとは貴重な体験をされましたね!? この旅行中、国鉄バスで屈斜路湖での休憩時間の間、撮影に夢中になっている内にバスが荷物を乗せたまま発車してしまうという事件がありました。途方に暮れている私に地元のご夫婦が声をかけてくださり、そのバスの終点である斜里駅まで車で送っていただき無事荷物と再会することができました。 八甲田号に揺られた長い道のりとともに、忘れ得ぬ旅の思い出となりました。
@carlosbandera7770
@carlosbandera7770 3 жыл бұрын
昭和51年ですか。太秦小学校4年生でした。嵯峨駅も花園駅もよく知っていますよ。丹波口がもう高架になっていますね。夏は友達と保津峡に川遊びに行って溺れかかったりしました。トンネル内は涼しい風が窓から思いっきり入ってきて汽車賃100円で大満足の日曜日で、小学生には贅沢な夏の一日を思い出しました。
@dai2asakaze
@dai2asakaze 3 жыл бұрын
梅小路の近くで育ったので 一つ目小僧のDD13の初期車とDD54は馴染みでした ところが、、、DF50は全然記憶がありません、、、 やっぱりゴーヨンのあの顔面のインパクトが強すぎました(笑) 今考えたらゴーマルの記憶がないってホンマにもったいないです、、
@R..T..
@R..T.. 3 жыл бұрын
夜行列車黄金時代… 何らかの理由で世界中で飛行機飛べなくなって、バスが走れなくなって、長距離移動の覇権を再び鉄道が握る時代がきてほしいとすら思ってしまう
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
JR各社がバスとの競争で優位に立てる列車を走らせてやろうという気概を持つならば、夜行列車の復権は不可能ではないと思います。
@sunami808
@sunami808 2 жыл бұрын
どこぞの🇨🇳みたく夜行バスの運行を法規制すればあるかも?中国の駅って深夜でも活気がある。高速鉄道でも寝台車や食堂車があるのは羨ましい
@yumenekotrain
@yumenekotrain 3 жыл бұрын
いいですね〜 画像もとても綺麗ですね👌😸
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
ありがとうございます!
@haisentetsudouryou
@haisentetsudouryou 3 жыл бұрын
植物がリアルで一瞬本物かと…
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
ありがとうございます。夏を迎えた北国の原野をイメージして製作しました。
@Omine.raillines01
@Omine.raillines01 3 жыл бұрын
国鉄時代すごいです!
@CYuuzuru
@CYuuzuru 3 жыл бұрын
ありがとうございます!
@stravarese
@stravarese 3 жыл бұрын
博多10時53分着か…今だったらやっぱり飛行機使ってしまうよな。