Пікірлер
@user-wc7fp2hm7u
@user-wc7fp2hm7u 2 күн бұрын
現在の教育も医療も理性/非理性の構造の延長にあってそこを打破する道の発見を急がねば、人間の存在意義が分からなくなる時代がやってきますね… とても分かりやすい動画をありがとうございます😊
@user-bh2mn7ey8x
@user-bh2mn7ey8x 6 күн бұрын
読了しました。基礎知識がないと、ウパニシャッドやショーペンハウアー、ニーチェの理解はかなり難しい。本著のエスプリは第7章なので、挫けそうな方はそこだけ読むのもアリかも。
@user-ChoanOfArc
@user-ChoanOfArc 8 күн бұрын
中近世の西洋では、セム系一神原理が(申し訳程度に)根付いていて ユダヤ・キリスト教には「罪」の概念があったんですよね 神道の穢や仏教の厄みたいに、全ての人間が祓えない理性の欠落に生涯付き纏われるという前提 つまり「人間はどうせ完璧じゃない」という事 それが近現代に一変して 西洋人は、文明の地盤にある価値観、アーリア系多神原理 特にヘレニズム/ギリシア文明を見直して、さらに剥き出しにしていきました 自由の女神やオリンピックみたいに、目指したのは完全再現で こうなると神人獣が連続で、理知性万歳の啓蒙時代 ・神々とは優れた人間 ・人間とは優れた動物 逆に ・動物とは愚かな人間 ・人間とは愚かな神々 「一寸の虫にも五分の魂」で、ヴィーガンの種にもなったでしょう 福祉目的で「目覚めた人(々)」による専制、寡頭も引き起こす様に 私は十年ほど介護施設で働いたんですけど 古株の職員は特に、入所してる高齢者に対して 幼児扱いの言葉遣いで、それが大嫌いでしたね 最近は改善してる施設も多々ありますけど そうした事態の起源について、良く分かりました
@user-el5ef3qb5m
@user-el5ef3qb5m 11 күн бұрын
シオラン…… 報われて欲しい……
@Ysd-half
@Ysd-half 14 күн бұрын
「エクリチュール」、書かれたもの、ないし記録された声、というものは不確実である。けれど、それが悪いというわけではない。 「パロール」が唯一無二の真理へと至る手段であるとし、常に優位にあるとされる背景がある。 大事なのは、「エクリチュール」が優位であるということというよりも、二項対立を超えることである。 対話によって生起する話者間の間違い(miss take)や誤り(error)を訂正可能な事実と、記録装置や郵便を介する話者間の訂正困難があるという事実は、優位を定める決定的な要因ではなく、むしろ多様性をもたらし新しい世界への可能性を開く揺らぎである。
@jk770415
@jk770415 22 күн бұрын
すごい!
@jk770415
@jk770415 22 күн бұрын
すごい!
@3-sys62
@3-sys62 24 күн бұрын
そんなことだったのか。オレ、脱構築できとった。
@user-ri8eq1hz7e
@user-ri8eq1hz7e 26 күн бұрын
人間は要らないねー。地球を汚す元で有るだから神も人間を滅ぼそうとしているわかりやすい‼️
@user-uz7lk8lr1i
@user-uz7lk8lr1i Ай бұрын
リゾームないし機械がどういう条件で接続するのかがずっと疑問なのです……
@spaceman1551
@spaceman1551 Ай бұрын
自殺に対する理論が脆弱に感じる。 芸術家や偉人の自殺は社会的に好意的に解釈されている。
@矢口あきら
@矢口あきら Ай бұрын
脱構築の対象になる自分なんて、何処まで脱構築しても制度の内面への変形した写像でしかないで。だから幻想でしかない。
@bankeisan9951
@bankeisan9951 Ай бұрын
相対主義とは絶対的なものないと言う考えであり絶対主義とは絶対的なものはあると言う考え。正しいと言うためにはその確かな根拠を示さなければならない。これが正しい答えだと言うためにはその確かな根拠を示さなければならない。しかし答えには絶対はない。答えは必ず条件で変わる、ゆえに答えは相対主義であることは正しい。しかし絶対があるのはその根拠なのだ。つまり根拠には絶対があると言えるのだ。ですから理由、根拠は絶対主義が正しいと言える。つまり絶対善である根拠に合致していることが常に正しい答えと言えるのだ。答えは常に変わる、万物は変化すると言う事。しかしその根拠は絶対に変わることのなく絶対である。この世は絶対に変化しないものと必ず変化するもので成り立っていると言う事。
@user-kh2el2nf4h
@user-kh2el2nf4h Ай бұрын
大変よくわかりました。ありがとうございます😊
@Udocoffee9
@Udocoffee9 Ай бұрын
この本の解説で一番腑に落ちました ありがとうございます
@植松京子
@植松京子 Ай бұрын
7:30カント
@tu-zp5rg
@tu-zp5rg 2 ай бұрын
いいチャンネル見つけてしまった。
@user-uw4op7bl9q
@user-uw4op7bl9q 2 ай бұрын
現代の生きづらさの根源
@keppekin
@keppekin 2 ай бұрын
誰かのためになる素敵な動画を作成されてますね。
@user-kirby5pointed0star
@user-kirby5pointed0star 2 ай бұрын
異論あって愚論尽くめ。 害悪論から導き出された答えについて、言い方を替えて溜飲下がるものなのか?って呆れる。 況んや、人の物差しで引いた滅ぶに滅べないマンネリ化する人間社会を如実に表せてしまっている。 人間個人の話だと黙認する辺り、驕りに過ぎない。 人間全体、人という種を軸に、要不要どちらなのか選択すれば、不要の一語だ。 人間の所為で絶滅した種は幾つになる? 自然界は淘げる事により、不適応の生体は数を減らし軈ては潰える。が、人間のやる事が自然淘汰である筈はない。傍若無人な人間が居なければ、氷河期を脱した後だってマンモスはゆっくりと独自に進化して常温という環境に体質を整えられていただろう。つまりは絶滅せず世界の何処かで繁栄できた筈なのだ。 人間が生態系を狂わす。ゆとり無く足早に。性急に。      人間の誕生は悪だ。
@user-ln8mc6jm8j
@user-ln8mc6jm8j 2 ай бұрын
なんとなくわかります 人生は苦痛と絶望しかないとわかったいても、なかなか自殺には至れません…人間、生物には生きる本能があるから シオランも「越えてはならない一線」を意識していたのでしょう 結局人間は現世で「嫌だなぁ」と考えながら天寿を全うするしかないのです、多分
@user-mr8pm4bg3r
@user-mr8pm4bg3r 2 ай бұрын
美術史研究のため、言葉と物を読んでおります。私にとっては大変難しくて、もう美術史だけでいい!と思いながらこちらの動画を見つけました。大変助かっています。
@user-or3wr1dp6j
@user-or3wr1dp6j 2 ай бұрын
構造主義の凄さがより鮮明になる動画ですね。ありがとうございました。手から漏れ落ちるものを認識できるのも、おそらく手という構造があるからなのですね。生きること自体が多様性の世界と向き合うことならば晩年のレヴィ・ストロースが仏教に帰依したことと整合する気がします。私にとって仏教は生命倫理だからです。
@user-or3wr1dp6j
@user-or3wr1dp6j 2 ай бұрын
生成変化と社会的相転移の関連性について考えさせられるとともに、柄谷行人氏の交換様式の変遷A~Dをイメージしてしまいました。いずれにしても、ヒトの無意識の存在が大きく関与しているのでしょう。興味深い動画配信ありがとうございました。
@sjuu2476
@sjuu2476 3 ай бұрын
わかりやすすぎる!! 最高の動画ありがとうございます
@hanio01
@hanio01 3 ай бұрын
浅田彰さんが喋っているみたいだ😮チャンネル登録しました
@user-do7hl5yv7w
@user-do7hl5yv7w 3 ай бұрын
私はマゾです
@bainsan1
@bainsan1 3 ай бұрын
最近のジェンダー思想とかもそうですね 昔のアニメとかみると結構救われますね、自分は最低な人間なのではないか?と悩んだりしても 昔のアニメ、つまり昔の価値観では普通だったりして、結構この価値観によっていじめられて鬱になってる人が多いのではないでしょうか?
@user-zd9xd4nv5b
@user-zd9xd4nv5b 3 ай бұрын
スマホが監獄をぶっ壊す。立花孝志?。知の解放が急速に進む21世紀。フ―コ―、難しいけど?面白い人だな。受験はゲームは有る意味正解かもしれない?
@inspectormorse9337
@inspectormorse9337 3 ай бұрын
輪廻転生をしても また苦しむという概念は私にはないなぁ。輪廻転生して次は幸せな人生を送りたいと考えているから。
@羅号光祐
@羅号光祐 3 ай бұрын
自分がストレスを感じるのは他の人間だけだなあ。世界自体は面白く興味と探索の場である。自分のスキルも磨きたい。 興味の対象は他の人の営みも含まれ、要は多数の人間と個人的に深く関わって制約を受けたくはないというわけだ。 だからシオランの主張には全く賛成できず、彼は単なる甘ったれだと思うけど(実際、地方貴族の嫡男で生活に困窮したりはしていない) 4:30 「他人に対する無関心が、幸せや自由に繋がる」ってのは個人的には賛成かな。 ただソレは衰弱の果てではない。世界の探索や自分の鍛錬に忙しく制約を受けたくないからだ。 皆が自分のことに一生懸命で、緩い共感ていどで繋がり、お互いに縛らない世界がいいね。
@user-zd9xd4nv5b
@user-zd9xd4nv5b 3 ай бұрын
人は良いことをしつつ悪いことを行い、悪いことをしつつ良いことも行う。(池波正太郎)だったっけ?
@user-fy4pi5bz4s
@user-fy4pi5bz4s 4 ай бұрын
出身学校の偏差値だけで人の価値を判断するようなもんですかね?
@user-wm8ee9ub2d
@user-wm8ee9ub2d 4 ай бұрын
世界は必然性ではなく偶然性でできているのでしょうか? 差異(矛盾)という必然のような気がします。
@akimatentaka
@akimatentaka 4 ай бұрын
Very good!
@akimatentaka
@akimatentaka 4 ай бұрын
よくわかりました。
@akimatentaka
@akimatentaka 4 ай бұрын
You are a good philosopher.
@enpichan
@enpichan 4 ай бұрын
老荘思想とはまた別になりますか?
@user-co3ee2ge9e
@user-co3ee2ge9e 4 ай бұрын
すごくわかりやすかったです! ありがとうございます‼️
@user-bx5kk9zq5b
@user-bx5kk9zq5b 4 ай бұрын
監視する側が諸悪の元で腐った権力ならば、真に監視されるべきは支配者側である。善良な国民を騙し何でも奪い盗ろう、自分達の犯罪、悪事だけ隠そうとは矛盾してる。
@gv3767
@gv3767 4 ай бұрын
考え方は好きだけど競争とか資本主義がある限り否定されるやつ😢
@tadashiogitsu
@tadashiogitsu 5 ай бұрын
非平衡進化論というものを聞いたことがありますか?確か、日本人の澤さんというかたが提唱してある程度成功している理論だと理解しています。
@tadashiogitsu
@tadashiogitsu 5 ай бұрын
脱構築と生成変化の過激さと言う意味では哲学者は仏教を参考にする必要があると思うのは私だけでしょうか?社会情勢が変わると悪人正機説なんてすごいものが出ましたよね。あと、エクリチュールなんて言葉じゃなくて、書き言葉の解釈の仕方は色々あるよね、それはあなたの生きていた環境とかにもよるし、とか一般人に理解可能な説明の仕方が良いのではないかと思います。黒澤明の羅生門は良い例ではないでしょうか?
@sabrosaito82
@sabrosaito82 5 ай бұрын
すごく分かりやすく勉強になります。哲学のなかでも最新のジャンルであるポストモダンは何となく難しいというイメージが ありましたが、最近言われている多様性など現在の考え方そのものに影響を及ぼていることがわかりました。
@tadashiogitsu
@tadashiogitsu 5 ай бұрын
哲学者の言うところの同一性とは政治家に対して要求する揺らぎのなさと同じようなものであると解釈できますか?
@tadashiogitsu
@tadashiogitsu 5 ай бұрын
パロールとエクリチュールは、将来的にはあなたとAIになるのでしょうか?
@a24szk
@a24szk 5 ай бұрын
素晴らしいチャンネルです。 惹きつける力があるのと、文献をページまで示してくれているなど、 おっしゃっている内容が正しいのだろうと思わせてくれます。
@tarouyomogida6949
@tarouyomogida6949 5 ай бұрын
へぇボタンがあれば100回以上押してるわ😅
@jinmurayama
@jinmurayama 5 ай бұрын
このような考えさせられる動画をアップしてくださって、ありがとうございます! ただ、いくつかの言葉に誤用がみられるので、指摘させていただきます。 まず、エレンとアルミンの考え方の違いは、自由主義とは関係ないです。なぜなら、エレンとアルミンは、壁の中の社会と壁の外の世界との社会間の交渉・闘争の話をしているからです。これに対して、自由主義とは、個人が社会や国に対して主張するものです。では、エレンとアルミンの主張の食い違いは何なのか?それは、侵略主義なのか、平和主義なのかの違いです。ここで私が自由主義の捉え方を問題にしている理由は、自由とは、本来的に天から与えられた無制限の地位であって、同様に自由を有する他者の自由を害さない限りは侵されることのない地位だからです。この点において、侵略主義と平和主義のいずれを採用すべきか、という論点とは土俵を異にしています。 次に、相対主義です。相対主義は、自由主義でさえ絶対的なイデオロギーとは認めません。各人が何を考えようと、自由主義であろうが侵略主義であろうが、妨げない、これが相対主義です。逆に、自由という普遍的な価値を根本に据えるのは、合理主義であって、相対主義の反対概念になります。なので、自由をどうとらえるのか?という問いを立てた時点で、それはもう相対主義ではなくて、普遍主義・合理主義の立場に立っていることになります。 さらに、自由の制限についてです。自由は、他者の自由を害さない限りにおいて、その地位を保障される、というのは、元々、自由がその本質上備えている性質です。なぜなら、自由は、私だけが持っているものではなくて、他の人も持っているものだからです。他人の自由を侵害して自分の自由を主張するというのは、したがって、自由主義そのものに反することになります。ここで私がこの自由の性質にこだわる理由は、そのようにとらえないと、自由が委縮してしまうからです。「他人の迷惑になるから・・・」と自由を控えめにしか主張できないことになってしまうと、権力者の思うつぼです。他人の自由を侵害しない限りは、無制限に主張してよいのが自由です。その自由を許さない国家は交代できる、というのが近代以降の立憲主義です。