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【#41】東京の加賀百万石!名園の名残を日本の最高学府に探して
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東京歴史散歩
Күн бұрын
Пікірлер: 24
@tokyo_historical_walk
2 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます!!「◯◯藩ゆかりの地」にハマっているアルマです(笑) 土佐・水戸に続いて、今回は加賀藩の面影を求めて歴史散歩しました♪ いかがでしたか? ご質問・コメントがありましたら記入してください♪ 高評価👍とっても励みになります❤︎ 可能な限り週1ペースで東京の歴史をご紹介していますので、まだの方はチャンネル登録もお忘れなくです♪
@住吉志郎
Жыл бұрын
動画も興味深いですが、アルマさん美人さんだねー笑
@tokyo_historical_walk
Жыл бұрын
@@住吉志郎 さま、ひぇぇ〜〜恐縮です😂
@user-kiki13gh333
7 ай бұрын
この番組は大好きで、語りのアルマさんの声がまた良い。脳を江戸時代、明治、大正に戻す様な仕草をすれば、日本の時間軸の壮大さを感じますね、素晴らしい動画です。
@高矩-s9k
Жыл бұрын
東京大学本郷赤門(大学入口は少し上です)の中の場所は、昔は加賀藩の上屋敷があった場所です。敷地内には加賀藩の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷もありました(加賀藩屋敷地の一部を富山藩と大聖寺藩が借用していた)。富山藩上屋敷と大聖寺藩上屋敷があったのは現在、東京大学医学部附属病院がある辺りです。2012年から2014年にかけては内科研究棟の建て替えに合わせて東京大学埋蔵文化財調査室が発掘調査も行われ、富山藩邸には100を超す地下室に洞窟があり外国製陶磁器の名品が出たり、考古学的趣味は少し持ち合わせており、其のな中でも興味は、富山藩邸の不忍池に面した庭は本郷台地の崖の一部を削り取る大胆な造成が行われていた痕跡が認められ、不忍池の全体が見渡せるという話です。上野の山も一望に見渡せた訳です。今、東京大学の本郷台地の場所は、加賀藩の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷があった場所で、「赤門」も加賀藩上屋敷の御守殿門です。赤門は水戸藩の他に結構あります。ちなみに、加賀藩と富山藩・大聖寺藩の関係をご説明すると、徳川幕藩体制が築かれた時点では富山藩も大聖寺藩もなかった。寛永16年、加賀藩第3代藩主・前田利常が隠居する際、家督は長男の光高に譲るとともに、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て、それを幕府が認めたのです。こうして出来たのが富山藩・大聖寺藩であり、俗に言う「加賀百万石」が誕生したのもこの時で実は加賀藩は120万石を誇っていたのです。幕府も不安だろうと、言うならば幕府の心中を〝忖度〟した前田家側が自ら藩領をする分封を申し出たというのがこの異例の事態の真相なのです。いずれにしても、富山藩と言い大聖寺藩と言うも、いずれも元は加賀藩の一部で、分封後も藩主を務めていたのは加賀前田家の眷族ですから、実質的には分封には当らないと、思ってるのです。仙台藩と一門の関係に近いようです。仙台藩には亘理伊達家とか水沢伊達家とかいろいろな分家があるけれど、殆ど違いがないような気がします。こうして誕生した富山藩と大聖寺藩ではあるのだけれど、旧富山藩領の住民では無く、これが意外にも旧加賀藩領の住民なのです。というのも、富山藩の領域はザックリ言えば住民が生れ育ったのはJR富山駅から車両で15分というような場所で、この場所は「平成の大合併」で人口が41万人に膨れ上がる前の、正真正銘の富山市に含まれる(因みに、その当時の人口は約32万人)。しかし、なんとその場所が藩政時代に遡ると加賀藩領だったのです。人はなぜか話の接続詞に「ちなみに」と言うのだけれど、これは心理学的に掘り下げてみる価値があるのか、加賀藩領と富山藩領の領域は概ね川を境に分けられてはいたものの、一部、そうではないところもあって、そうした場所には塚を築き、松を植えて境の目印にしていたそうで、この松を「お境の松」と呼んでいたとかで、その内の1本が住民が通っていた小学校のすぐ近くについ最近まで(昭和60年代を「つい最近」と言えるのならば残っていた。今ではコンクリートで固められて面影がなく、アタッチメントだった地蔵尊は残されていて、少しばかり曰くのある場所であることを偲ばせてます。もっとも、案内板がある訳でもなくよもや昔この場所に〝国境〟があったとは道行く人は気が付かないのです。そのようなこともご説明した上で、さて、そのような旧加賀藩領に暮らす住民Aとしては、少しばかり藩に対して物申したいことがあるそうです。それは、幕末政局への対応について、存在感がないにもほどがあるのではないかと。加賀藩といえば、もう大藩です。富山藩・大聖寺藩を含めた石高120万石は、徳川家は別格とすれば、薩摩島津家の77万石、仙台伊達家の63万石、肥後細川家の54万石、筑前黒田家の52万石を軽く凌駕して正に「大国」だったのです、加賀藩という藩は、いわゆる「薩長土肥」が束になってもと云うレベルです。それほどの国力を誇っていた。それがなんの存在感も発揮できなかったお話です。いや、正確に言うならば、存在感はあった。あるいは、存在感だけはあった、と言うべきか、というのも、当時、横浜で発行されていたジャパン・ガゼットという英字新聞には加賀藩の動向がたびたび報じられていたそうで、しかも、これが少し度肝を抜かれるような内容です。たとえば1868年5月29日付け記事(なお、この時代のジャパン・ガゼットの現物はほとんど残っていなく国立国会図書館に所蔵されているのも1874年以降のものだけです。しかし、当時、アメリカ・カリフォルニア州で発行されていた新聞が日本の内戦を報じるに盛んにジャパン・ガゼットの記事を引用しており、それによって報道内容を知ることが出来ます。なんと、加賀藩と仙台藩を盟主として北方諸侯が同盟を結成したと。そして、それは南の同盟よりも強力であると。言うまでもなく、加賀藩と仙台藩を盟主として北方諸侯が同盟を結成したという歴史的事実はない。仙台藩を盟主として北方諸侯が同盟を結成したという歴史的事実ならばあります。そう、奥羽越列藩同盟の結成です。続く
@ks4735
Жыл бұрын
歴史研究で修士号をお持ちなんですね。流石です。
@tokyo_historical_walk
Жыл бұрын
ありがとうございます!好きが高じて…の取得でした😉
@高矩-s9k
Жыл бұрын
そのニ しかし、どういうわけかこの新聞記事にはそこに加賀藩が加わっていたと。しかも、加賀藩と仙台藩を盟主として――なのですから、その主役は他でもない、加賀藩ということになります。しかし、単にこれだけなら、単純な誤報ということもあり得ます。ところが、実はこのニュースには続報があります。加賀藩の領土は本州の⅓であり、仙台藩は残りの⅕を占めます。この両藩が最近の政変に対する最も断固たる反対者となった。そして、加賀藩は既に百戦錬磨の指揮官に率いられた25,000の大軍を急派しており、更にこれと同程度のもう1つの部隊も編成中で、こちらは一橋(徳川慶喜)が自ら指揮することになっています。もし北部が勝ったら、新たな大君(将軍)が徳川家から選ばれることになるとの記載です。こうなると、誤報とかなんとかいうレベルではなく、完全なるフェイクニュースと言うしかない。しかし、こういう記事が当時、横浜で発行されていた英字新聞の紙面を飾っていたというのは紛れもない事実。ちなみに、筆者の見立てではこれは「会津のスパイ(spies of AIDZU'S)」(やはり、当時、横浜で発行されていたジャパン・タイムズ・オーバーランド・メールの1868年8月22日付け記事でこういう表現が使われている。ちなみに、こちらは現物が残っており、ぺりかん社版『日本初期新聞全集』第17巻に収録されている)によるプロパガンダ情報――ということになるのだけれど、この件についてはここでは深入りしません。興味のある方はぜひ『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』をお読み下さい。いずれにしても、当時、横浜で発行されていた英字新聞には盛んにこの種のニュースが掲載された。こと存在感だけは大変なものだったのです、われらがKangaは。これ以外にも、たとえば東叡山寛永寺の貫首で上野戦争後、奥州に逃れ、奥羽越列藩同盟の「盟主」に奉じられた輪王寺宮公現法親王が加賀中納言(前田斉泰)と金沢宰相(前田慶寧)宛てに発給すべく起草された令旨なるものが残されているし(真如院蔵。大久保利謙編輯『江戸』第6巻に写真が掲載されている)、また同書所収の「上野輪王寺宮執当職大覚王院戊辰日記」を読むと、奥羽越列藩同盟サイドは慶応4年6月11日には加賀藩への使者派遣を決定していることも裏付けられます。奥羽越列藩同盟としては、なにがなんでも加賀藩を同盟に引き込みたかったということ。しかし、結局、この使者派遣は、東京大学史料編纂所准教授の箱石大氏が「奥羽越列藩同盟の加賀藩遣使計画が頓挫した理由」(『石川史だより』第47号)に記すところによれば、北越戦争の過程で制海権を新政府側に奪われ実現しなかったという。とにもかくにもこうしてその存在感だけは抜群のものがあった加賀藩ではあるけれど、しかしその実態はどうだったのか? ということを、以下、少しばかり意外な事実があって、実は輪王寺宮の周辺ないしは奥羽越列藩同盟がそこまでの期待を加賀藩に寄せる根拠というか、必然性みたいなものはどうやらあったらしいのです。当時の加賀藩主・前田慶寧は少なくとも慶応3年11月時点では「予が本心においては、何処迄も徳川家を助け」たいとの思いを持っており、さらには鳥羽・伏見の戦いが勃発した時点でも王政復古宣言は「薩州家奸臣共」の謀であるとして、「内府様、御協力」するために出兵することも決めているのです。これらはいずれも『加賀藩史料』所収の一次史料で裏付けられるファクトです。ここでは慶応3年11月朔日付けの「御親翰留」なるものを引きます。これは10月14日に大政を奉還した徳川慶喜が諸侯会議招集のためとして10万石以上の大名に上洛を要請したことに対応するもので、この際、加賀藩は他のほとんどの藩がそうだったように様子見を決め込み、慶寧も病気を理由に猶予を願い出ています。そして、藩主代理として年寄・本多政均を派遣することとした。この「御親翰留」はその本多政均に与えられたもので、この時点での慶寧の本音が綴られた非常に興味深いものです。 藩主がそういう思いを持っていたのならば、輪王寺宮の周辺ないしは奥羽越列藩同盟が熱い期待を寄せるというのもあながち理由のないことではなかったと言えます。そういう思いは持ってはいても、それを実行できるかどうかはまた別です。この時も、病気を理由に代理を立てるという、この優柔不断(前田慶寧という人物に付いて回る4文字)。もっとも、慶寧にも事情はあったらしい。というのも、この時、藩内は佐幕か勤王かで真っ二つに割れていたとか。ここは『金沢市史 通史編2』が解説するところを引くなら「家中では、佐幕と勤王の両端に意見が割れていたというが、藩主の真意に沿えば、徳川家に味方するのが藩の基本的姿勢ということになろう。しかし、当時一般的に領国における藩主の統率力は衰えていたし、家中内部は対立の様相が色濃く、藩論の統一は極めて困難であった。従って加賀藩の方針は、一応が藩主の真意により徳川家のために尽力することになっていたが、情勢次第で常に変化しうるものであった」。しかし、藩内が勤王・佐幕の両論で割れていたのは加賀藩だけではない。仙台藩だって同じです。当時の殆どの藩がそう。なにしろ薩摩藩だって佐幕派はいたのですから(『鹿児島県史料・忠義公史料』第4巻には藩の方針を批判するさる藩士の手稿が「佐幕ノ俗論」として掲載されている)。しかし、仙台藩にしても薩摩藩にしても最終的にはそれぞれ「佐幕」「勤王」で藩論を統一し、圧倒的存在感を以て幕末政局のそれぞれの陣営におけるキープレイヤーとなった。だから、藩論が2つに割れていたことは、言い訳にはならない。第一、どれだけ決断を先延ばしにしようが、時至れば旗幟を明らかにせざるをえない。それが武門の習いというものです、慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発するや、徳川慶喜は加賀藩に対し出兵を要請してこれを受け遂に加賀藩も肚を決め、兵を派遣することを決めました。再び『金沢市史 通史編2』が記すところを引くなら「ただし在京家臣の進言により出兵は近江今津辺りまでとされた。万一朝廷の不審を蒙っても、申し開きができる為です。出兵のタイミングについて、在京家臣らは、刻一刻と変化する情勢を考えるとやや遅く十五日頃が良いが、他藩と比べて遅すぎるのもよくないと伝えます。十日、重臣村井長在が先鋒として近江に向って出陣した」。早すぎず、遅すぎず、タイミングを見計らって、10日を出兵の日取りと決めた。加賀藩領の家臣は恥じます。鳥羽・伏見の戦いはわずか3日で終わった訳ですが、朝廷は在京の家老・前田孝錫を呼び出して厳しく問い質したのです。藩の動向がすべて「佐幕之国論」によるものと見做され、朝廷において「甚御疑念深」かった為です。これに対し孝錫は、加賀藩は藩主・藩士一同勤王であると断言します。奇しくもこの日、国許から徳川家加勢のための出兵を決めた知らせが届き、在京家臣団はパニックに陥った。徳川家が「朝敵」となった今、徳川家加勢の為の出兵は「御国之興廃」に関る一大事であると、出兵を止めれば、使者が国許へ急派された。京都から加賀藩医まで、おそらくは北国海道(西近江路)を行ったのだけれど、早馬を何頭乗り潰したのか。その甲斐あってか、使者が国許に到着した時、村井長在率いる先鋒部隊は小松にいて「早すぎず、遅すぎず」で出兵の日取りを調整した甲斐があった、ともあれ、こうして急転する中央政界の最新情報が国許にもたらされ、村井隊は小松から金沢に引き返すことになりました。加賀藩の幕末政局への対応を踏まえた上で、改めて、大政奉還→王政復古→鳥羽・伏見の戦いという怒濤の展開をなぜ加賀藩の幕末政局への対応はこうお粗末だったのか、藩主・前田慶寧が示した危機管理においては「ポンコツ」と満天下に証明したのです。如何に臨もうが誤魔化せない。激動する時代で右往左往し続けた加賀藩が、昔にあったのです。
@遥かに想う鳰の海
Жыл бұрын
文京区はよく歩き回りましたが、その時は加賀藩には全く興味がなくてスルーしてましたw じっくり見たらなかなか興味深いですね。 私は本郷辺りは文豪の旧居跡を歩き回りました。 東大の学生として、また教師として東大に通った学者や文士がたくさんいたためか、この近辺には歴史に名前を残す人たちの旧居が集中しています。 私がいちばん感動したのが「炭団坂」の上にある「坪内逍遥旧居跡」。 それが逍遥が引っ越した後に愛媛県の旧松山藩が東大に通う旧藩士の子弟のための寄宿舎を建てます。 そこに住んでいたのが正岡子規であり、彼の親友だった夏目漱石もしばしば訪ねています。 そして! 同時期にこの坂の下、炭団坂と菊坂に挟まれた薄暗い路地の奥に、作家になる前の少女の樋口一葉が住んでいたんです! 父親が借金まみれで急死したため、一葉は女戸主として母や妹を養うために懸命に働き、近くの質屋「伊勢屋」の常連であったほどお金に困っていました。 政治家や博士を目指して松山から夢を抱いて上京してきた正岡子規、そして夏目漱石と貧窮する一葉。 その対比が坂の上下に現れていてなんとも言えない気持ちになりました。 もしかしたら炭団坂を下る子規や漱石と、坂を上る一葉がすれ違ったこともあったんじゃないか?なんて想像もしてしまいます。 この時期の子規については名作「坂の上の雲」で有名ですし、一葉さんと夏目漱石の不思議な縁については司馬遼太郎さんが「街道をゆく 本郷散歩」に書いています。一葉さんが漱石の義姉になっていたかも?という驚きの顛末が😅 樋口一様という人は一生を文京区と台東区の中だけで終えた人です。 お墓だけは明大前にありますが。 一様さんゆかりの地を歩いたら楽しい動画になると思います。
@tokyo_historical_walk
Жыл бұрын
アドバイスありがとうございます!文学作品はちょっと疎いもので、そんな人間が動画作っていいのかと…(笑)少々怯んだりしております💦『坂の上の雲』は小説もドラマも見て、まさに幕末・明治の激動の時代に、ワクワクした憶えがあるのですが。 正岡子規と夏目漱石、そして樋口一葉。すれ違っていたとしても、何の不思議もないですね〜〜 歴史にタラレバはない、なんて言いますが、歴史のタラレバを考えると、妄想が尽きないですよね!一葉さんの動画、いつか覚悟が決まったら、検討させていただきます🙏
@遥かに想う鳰の海
Жыл бұрын
@@tokyo_historical_walk さん お返事ありがとうございます。別に樋口一葉の作品みんなを読んでいなくても大丈夫。明治を生きたひとりの女性の痕跡を辿る歴史散歩として楽しんでいただけるはずです。 私も代表作しか読んでいません。 そもそも樋口一葉という人そのものがまるで小説の主人公のような生涯を送った人なのです。 私はそこに魅かれて彼女が暮らしたあちこちを散歩させてもらいました。 なんで樋口一葉を主人公にした映画を誰も撮らないんだろう、と不思議に思います。 一度台東区の一葉記念館をお訪ねになってみてください。 出来れば11月23日の一葉忌に。 おそらく作品朗読などのイベントが開かれているはず。 参考文献なども手に入ります。 記念館が建つ竜泉町は江戸から明治にかけての吉原の風情も微かに残っていて、散策するのも楽しいです。
@morris.hanmiru
Жыл бұрын
歩くと本当にいろいろ発見が、あります。 なんか😂飛んでますよ😅
@tokyo_historical_walk
Жыл бұрын
歴史散歩楽しいですよね〜〜❣️ はい、なんか飛んでます😂自撮りアプリもなかなかおもしろいです👍
@コタロウ犬の主人
2 жыл бұрын
前田家の遺構ですか。東大には数度行きましたが赤門以外は見たことが無かったです。江戸時代の息吹をそのまま感じることが出来る場所ですね。確か隣が水戸家の屋敷でしたね。次回は侯爵邸宅ですね。 アルマさん、たまには久しぶりに動画に登場して下さい!梅雨空がパッと明るくなります‼️
@tokyo_historical_walk
2 жыл бұрын
赤門はもちろんですが、三四郎池も改めて訪れたら素敵でしたよ✨(何年も前、夏の夕方に三四郎池に行ったら、草ぼうぼうで蚊に刺されてしんどかった記憶が…😂) おっしゃる通り、東大本郷地区の中でも、弥生キャンパスと浅野キャンパスの一部は、かつて水戸徳川家の江戸中屋敷でした🏡遺構は残念ながら残ってないみたいですけどね。。 はい、次回は侯爵邸です👍 登場したいところですが、登場するとなると撮影助手が必要でして…💦💦なかなかスケジュールがですね、、、(うちわの事情ですみません〜笑)調整、試みてみます✨
@T茂
2 жыл бұрын
いやー、おもしろかったです。映像もきれいで説明も的を得ており赤門や三四郎池は聞いて知っていましたが、こうしてあらためて説明をしてもらうと思いもあらたまります、ありがとうございました。
@tokyo_historical_walk
2 жыл бұрын
ありがとうございます🥰 赤門や三四郎池、存在は以前から知っていたのですが、加賀藩邸の頃からそのまま残る、これほどまでに貴重なものというのは、私も最近になって学びました✨ こうして日常の景観に溶け込む文化遺産というのも、素敵なものですよね💕
@TAKOMARU-JAPAN
2 жыл бұрын
アルマさん加賀百万石上屋敷の遺構に行こう(出た親父ギャグや~😥) ありがとうございました😃 大納言は赤門で中納言は黄門と思っていましたが三位以上だったのですね?😂 一部分の耐震性が心配って? 安政の大地震や(後から調べると明治36年に移築したそうですね) 関東大震災にも耐えて来たのでしょうから凄いと思います😃 次回も楽しみにしています😂
@tokyo_historical_walk
2 жыл бұрын
遺構に行こう!いいですね✨ 大納言と中納言…あんまり位階に詳しくなくて申し訳ないですが、国や文京区などの信憑性ありそうなサイト等で、三位以上が赤門、との記載がありました💻 黄門も見てみたいですねぇ🥰 耐震基準は変わってきているはずなので、現代の基準で大丈夫なのかという点と、そして逆に安政の大地震や関東大震災を経て、何らかの傷や歪み等が生じている可能性も考えなきゃですねぇ…💦(移築によって脆くなったのでないと良いですが。。😅) 次回は洋館をご紹介しますので、お楽しみに…👍
@szkyz
2 жыл бұрын
加賀藩の武家屋敷の遺構、素晴らしいですね!武家屋敷があったと思うと、映像観てて、ドキドキします。 門は閉めといたほうが、良いとは全く同感ですよ。締まって見えますね。 アルマさん、素敵です。
@tokyo_historical_walk
2 жыл бұрын
日本の最高学府がかつては武家屋敷だったなんて、なんだかワクワクしちゃいますよね♪ 門は本当に、閉まっている方が雰囲気ありましたし、文化遺産感強かったです👍(もちろん、使われることで価値を見出すものもあるんですけどね〜〜)
@kleberyoshihiroonoda3342
Жыл бұрын
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