【若一調査隊】“邪馬台国”につながる意外な関係性も⁉日本を代表する弥生時代の環濠集落「唐古・鍵遺跡」の魅力を徹底調査!

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読売テレビニュース

4 ай бұрын

奈良盆地の中央、奈良県田原本町に日本を代表する弥生時代の環濠集落遺跡「唐古・鍵遺跡」があります。約700年もの間続いた巨大都市では、ものづくりに加え交易も盛んに行われました。さらに、古代史最大のミステリー“邪馬台国”につながる意外な関係性も⁉ 雄大な歴史ロマンに迫りました。(かんさい情報ネットten. 2024年 2月21日放送)
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Пікірлер: 119
@user-uq2sk9ek6i
@user-uq2sk9ek6i 4 ай бұрын
奈良県だからこそ、復元・保存が出来るんであって、千葉県は遺跡や古墳の復元・保存なんかより都市開発が優先であるため、重要な古墳や遺跡跡が消滅している。市原市の中台遺跡では、独立棟特柱建物跡が見つかっており、その近くには神門古墳群も見つかっている。
@setsuna0217
@setsuna0217 3 ай бұрын
唐古・鍵を採り上げてくれるのが嬉しすぎる
@user-cy5ys6zp2q
@user-cy5ys6zp2q 4 ай бұрын
8:58 掘立柱建物は縄文時代には既にあります。 三内丸山遺跡の柱は「直径1メートルのまっすぐな栗木」
@user-pi1wq3ki3u
@user-pi1wq3ki3u 4 ай бұрын
そうです 光通信の位置きめですよ 銅器の三点 銅鏡 銅鐸 銅矛 を使います
@user-cy5ys6zp2q
@user-cy5ys6zp2q 4 ай бұрын
我々が 縄文時代の日本人から継承した「木材を使った建築方法(森を育てたり・大木を加工する技術を含む)」は、大陸(中国・朝鮮)の古代人のものではありません。
@kei.suzuki
@kei.suzuki 4 ай бұрын
唐古・鍵遺跡と纒向遺跡は隣町と言っていいほど近いので、何らかの繋がりはあったに違いない
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 4 ай бұрын
伊都国歴史博物館で拝見しました✨
@user-gz7do7hg7o
@user-gz7do7hg7o 4 ай бұрын
愛知県清洲市にある大型弥生集落の朝日遺跡も銅鐸が結構出土しています 銅鐸文化は特別なアイデンティティーをもった集団である  それと水銀朱と銅鐸は切っても切れない関係があります 土器の分布とはまったく異なるのである 鳥(見)山明 愛知県名古屋市出身 漫画家
@user-ii3lo4sw4l
@user-ii3lo4sw4l 4 ай бұрын
発掘1割でこの出土品の質と量、全体となるといろいろ期待出来るけど、発掘は現実的にはかなり厳しいですよね
@user-uq2sk9ek6i
@user-uq2sk9ek6i 4 ай бұрын
発掘費用は行政が出しているのではなく、自治会もしくは住民から集めているから厳しいですね。
@user-in7qx4ly6f
@user-in7qx4ly6f 4 ай бұрын
神宮から八木で大阪に出ますから、田原本は滅多に通過しないですが、道が難儀な印象ある独特の立地と経路ですよね…。観に行ってみたいです。
@user-qv2jt3sh8g
@user-qv2jt3sh8g 4 ай бұрын
近畿の吉野ヶ里というか、、こんな遺跡があるのは知りませんでした。奈良の中心という場所も争いもなかったという事実も興味が尽きなく、邪馬台国の終着点でしょうか?
@user-th9rr3zy6r
@user-th9rr3zy6r Ай бұрын
この向かいにあったライダーズカフェによく行ったなぁ(現在は三重県に移転)。遺跡も2度ほど散歩したけど、こんなにすごい場所だったとは思いもしなかった。
@allowhead738
@allowhead738 27 күн бұрын
技術者集団が転居するために環濠を埋めた理由は、信州松代の大本営建設に向かう目的があったのかもしれない…。周囲の古墳は、硬い岩盤を砕いた破片が飛び散る様子を示したようにも見える。 時代は異なるが、高い技術力が国家を支えてきたことを教えてくれる。😭🕊️⛏️
@user-jj2ly9eh5h
@user-jj2ly9eh5h 4 ай бұрын
高床は水害対策の避難所を兼ねてるのでは? 南海トラフに備えて、似たようなのが鉄骨製で造られている。
@user-mh6qm1yj9r
@user-mh6qm1yj9r 4 ай бұрын
お!久々の古代史
@uni9431
@uni9431 5 күн бұрын
日本史選択の人は誰もが暗記した唐古・鍵遺跡
@totekoko3360
@totekoko3360 4 ай бұрын
この場所だと水田ではなく陸稲で、縄文から続く狩猟メインぽい。山の中だから今よりも野生動物沢山いそう。日本独自の文化を歩み始めた、日本全体を支配(集約したり統治)し始めた、後の権力者(大和王権)の出所としては興味深い。屋根の先の形とかも、法隆寺にそのまま繋がりそう! ただ、邪馬台国を滅ぼした勢力なんだよな。近畿地方だけ見ていても真実は見えてこない。
@kubo0621
@kubo0621 4 ай бұрын
邪馬台国につながると思うと胸熱だな!
@user-hw9iw3pm3b
@user-hw9iw3pm3b Ай бұрын
巻向遺跡が邪馬台国の卑弥呼と関係のあるようなことをマスコミは報道しますが、勉強不足も甚だしいと感じています。考古学上の物的証拠と魏志倭人伝の記述を重ね合わせれば、邪馬台国は北部九州にあったであろうと考えるのが真っ当で、奈良の地は異なる文化圏であったと考えるべきでしょう。今後も各地で発掘調査が進むと思いますので、次第に巻向遺跡が卑弥呼の墓などという説は論拠を失っていくものと考えます。
@user-sv8kq4yd2q
@user-sv8kq4yd2q 23 күн бұрын
3世紀には北部九州はすでに畿内勢力の勢力圏に入ってるのでそれはないですね 考古学の世界で畿内説はもはや定説です マスコミは独自の意見を流してるのではなく、考古学の世界の見方を映像化してるだけです
@yuzoaloha
@yuzoaloha 4 ай бұрын
真実がわからない方が皆が幸せ
@kanaria_0525
@kanaria_0525 3 ай бұрын
天皇が変われば宮も移していたわけだし、唐古・鍵から巻向に皇位が変わったと共に移動した可能性はあるのかも……?
@user-tq7tm3mi7b
@user-tq7tm3mi7b 4 ай бұрын
欠史八代の大和王権と関係ありそうですね
@artvagabond6515
@artvagabond6515 2 ай бұрын
せっかく内容のあるテーマだったのに、最後に無理に「邪馬台国か」とした段階で興覚めしました。
@kubo0621
@kubo0621 3 күн бұрын
全然無理ではなくね? 入れ違いに栄えた纏向の土器で環濠が埋め立てられていて纏向に引っ越していったと考えられていて その纏向遺跡は邪馬台国の最有力候補地なんだから
@futuugayoi
@futuugayoi 10 күн бұрын
無理に邪馬台国に結びつけなくても良いと思いますね。 魏志倭人伝に描かれている邪馬台は、銅鐸文化の稲作社会とは違う印象が強い。
@nadeshiko5689
@nadeshiko5689 4 ай бұрын
見たいけれど、ナレーターイントネーション一部変〜😮👋👋
@user-qe3mo7lc8w
@user-qe3mo7lc8w 2 ай бұрын
唐古・鍵から纏向、邪馬台国へと繋がっていくことになればいいですね。
@sunsun2181
@sunsun2181 4 ай бұрын
はー、畿内とか出たらすぐ「邪馬台国」「卑弥呼」とかいうのやめてもらいたい。 だって、畿内はそもそも大和朝廷だし、神武天皇の以前にニギハヤヒもいたし、1世紀には忌部氏も移住していたんだから。後、普通に日本国内あちこちに縄文人が住んでいたんだから。
@user-wp4hl2jz6p
@user-wp4hl2jz6p 4 ай бұрын
邪馬台国が一番有名なんですよ
@nailnail4291
@nailnail4291 4 ай бұрын
右~左メディア同盟群 「いちいちこだわる癖がある人って、資本主義が土台のわが国ではいろいろつらくない?w」
@user-yq9cy6ln8s
@user-yq9cy6ln8s 3 ай бұрын
結局すぐに邪馬台国と騒いでる奴らは歴史的真実などどーでもよくて、街興しになる観光スポットが必要なだけなんですよね
@centraljapanadventure8460
@centraljapanadventure8460 4 ай бұрын
そう、この遺跡を最後に近辺(近畿地方)で環濠集落は消滅している(纏向遺跡然)。平和になった証拠。それに対して、この遺跡より時代が下った人である卑弥呼は環濠集落に住んでいたと魏志倭人伝に記述されている。戦の真っ最中だったからね。即ち、卑弥呼は平和なこの地方にはいなかったのだ。これは覆しようのない考古学的事実だ。近畿地方の人はこの近辺が邪馬台国周辺に先駆けて平和な時代を築いたことを誇りに思った方が良い。
@kei.suzuki
@kei.suzuki 4 ай бұрын
考古学的事実からどうやって「卑弥呼は平和なこの地方には居なかっ」たと結論づけられるんですか? 当時としては規模の大きい集落だから別にいてもおかしくないと思いますけど
@centraljapanadventure8460
@centraljapanadventure8460 4 ай бұрын
@@kei.suzuki 大きな遺跡だから卑弥呼がいた?その安易な発想は危険です。この地方では纏向遺跡の時代には既に環濠集落が消滅しています。戦が無いから防御に必要な環濠が不要なんです。魏に援助を要請しているほど切羽詰まっていた卑弥呼とは全く状況が異なるでしょう。そんな平和な時代を切り開き巨大な纏向遺跡を築き上げたこの地方の勢力を称賛すべきです。
@centraljapanadventure8460
@centraljapanadventure8460 4 ай бұрын
@@kei.suzuki 大きな集落だから卑弥呼がいた?そんな短絡的な発想は危険です。卑弥呼は魏に援助を要請するほど切羽詰まった状況にありました。それに対して、唐古・鍵遺跡ではわざわざ環濠を埋める、纏向遺跡では最初からは防御に必要な環濠が無い、等全く状況が異なります。卑弥呼の存在と同年代にいち早く平和な時代を切り開き、巨大な纏向遺跡を築き上げたこの周辺の勢力を称賛すべきです。
@centraljapanadventure8460
@centraljapanadventure8460 4 ай бұрын
@@kei.suzuki 規模が大きい集落なら卑弥呼がいても良いなんてそんな短絡的な発想は危険でしょう。環濠の役割は治水もあるかも知れませんが基本的には防御です。唐子・鍵遺跡ではそれをわざわざ手間を掛けて埋めています。生活するには環濠が無い方が便利だから。そしてそれ以降纏向遺跡を含め環濠は造られていません。不要である、即ち、戦が無いってことでしょう。魏に援助を求めるほど切羽詰まった状況の卑弥呼とは全く異なりますね。卑弥呼がいたと同時代にどんな勢力がこの地に平和をもたらしたのか非常に興味があります。
@a369258147z
@a369258147z 4 ай бұрын
@@kei.suzukiさん。 卑弥呼は争いが絶えなかった時代をまとめた。争いに対応していない「簡単に渡れる段がついた環濠」だから卑弥呼の集落ではない、違うという事なのでは?
@user-uq4he1he5g
@user-uq4he1he5g 4 ай бұрын
唐古鍵遺跡は行った事があります。  あそこは纏向遺跡の主導者によって征服された地です。  そう言う意味での繋がりはあります。 唐古鍵遺跡の特徴は王墓が存在せず、共同墓地があるのみ、と言うところです。  すなわち、王国ではなくまだ共同体の段階にあったと言う事です。  一方卑弥呼は女王で、その国はもとまた男子を王としていたと言うれっきとした王国です。   それは、卑弥呼は奴婢千余人を抱えていた、魏に生口(奴隷)10人を献上した、と記述されていたように、奴隷制を根底とした厳しい階級社会です。  王や上流支配階級と奴隷が仲良く共同墓地に葬られる、などと言う事はあり得ません。  しかし、唐古鍵遺跡には共同墓地しかない。  つまり、魏志倭人伝に描かれている奴隷を根底とする厳しい階級社会が唐古鍵遺跡や周辺の大阪平野の遺跡群には存在しないのです。  したがって、唐古鍵遺跡や畿内地方は、まだほとんどが共同体の段階で、国家の形成以前の社会状況にあったのであって、つまり、邪馬台国はもっぱら畿内には存在せず、厳しい階級社会だった北部九州地方にあったのです。
@hir-pk9fo
@hir-pk9fo 4 ай бұрын
纏向遺跡にはそれがある 邪馬台国前夜は唐古鍵遺跡だけじゃなくて滋賀の伊勢遺跡もそう
@user-yo6vh2oi9b
@user-yo6vh2oi9b 3 ай бұрын
邪馬台国が畿内でないからといって、九州だとは限らないですよ
@user-ub4pg2wm9g
@user-ub4pg2wm9g Ай бұрын
生口が捕虜を意味すると知ると倭国は日本を意味していないと思うようになります。
@user-yo6vh2oi9b
@user-yo6vh2oi9b Ай бұрын
邪馬台国の遺跡なんてどこにも存在していないのに、弥生時代最大の水田を有する大和朝廷と同列にするのが間違ってる。
@user-yo6vh2oi9b
@user-yo6vh2oi9b Ай бұрын
そもそも邪馬台国について魏志倭人伝では会稽の東にあると記録され、位置的には台湾か沖縄になる。 特産物も亜熱帯である中国の海南島に似ているとされる。 刺青の風習もあったようだけど、沖縄では明治あたりまでその風習があった。 また人々は裸足で過ごしていたとされているけれど、九州北部は日本海に面しているので冬は雪が積もるので、裸足なんて更々ムリ。 だから邪馬台国は九州ではない。
@honda10102004
@honda10102004 4 ай бұрын
案内人が『作家』の時点でお察し
@akb2301
@akb2301 4 ай бұрын
そんなん関係ないわ。まちの古代史好きの学芸員もどきの人間でも。 誰がどうという事が大事なんでなくて古代史には正解なんてないから思う信念の通りでいい。 ただ正解を追求するなら。自論なんて挟む余地は誰にもない。 教科書が更新されないなら、天皇の事は宮内庁の見解を正史の日本書紀見て理解するのが筋や。 正史が作られてる以上、それを訂正する正史が出ない限り基本的に誰にも否定できない。
@user-yq9cy6ln8s
@user-yq9cy6ln8s 3 ай бұрын
明治天皇の玄孫を自称するおっさんなんかより遙かにマシ
@user-yq9cy6ln8s
@user-yq9cy6ln8s 3 ай бұрын
そもそも古代の遺跡というとすぐに邪馬台国と結び付ける風潮はいかがなものか その前に魏志東夷伝(倭人伝の部分だけじゃないよ)をちゃんと読め
@iriyaanko4783
@iriyaanko4783 4 ай бұрын
唐古、異文化、争いがほとんどない畿内に似つかわしくない環濠集落、徐福が引き連れてきた人たちの村じゃないかな、きっと4C以降ヤマト王権の勢力がおよぶにあたりつぶされたんだな
@kei.suzuki
@kei.suzuki 4 ай бұрын
徐福が日本に来た証拠は無いです
@iriyaanko4783
@iriyaanko4783 4 ай бұрын
@@kei.suzuki 中国側の史書『史記』/「淮南衡山列伝」に記載があり歴史上の事実、ただどこに来たのかわからない。この遺跡は規模からして候補になりそうです。
@elbertcraig3242
@elbertcraig3242 4 ай бұрын
@@iriyaanko4783 ある仮説があります。もし許福が本当に日本に到着した場合、彼はまず九州で隠居し、3000人の子供たちを育て、子孫を繁栄させ、人数が多く力も十分になった後、東征するでしょう。中国に背を向けた九州の日向は隠居には最適な場所です。日本の神話と比較すると、その後何が起こったかがわかります。3000人の子供を連れて奈良に移住することは不可能です。とても危険です。
@iriyaanko4783
@iriyaanko4783 4 ай бұрын
@@elbertcraig3242 説のご紹介ありがとうございます。奈良付近は漢書、後漢書にある呉地:東鯷国と比定されている領域です。この遺跡は若狭湾(後の京都への玄関口)経由で入植した呉人がつくった集落の跡である可能性もあります。
@nailnail4291
@nailnail4291 4 ай бұрын
ところで環濠って (天下泰平の世でも大名の中には内堀・外堀を大切にしつづけたおっさんがいただろうし) 古代も趣味で環濠をつくったとか、「この環濠で水をまわすと山からながれてきたひゃっこい水がぬくくなるから、その水をいろいろ使うんや」みたいなこと言う人 いてたんちがー?
@user-gr3zu7jq9l
@user-gr3zu7jq9l 4 ай бұрын
コメントを書くのが仕事なんだけどW
@user-gr3zu7jq9l
@user-gr3zu7jq9l 4 ай бұрын
今の日本もこう言う風に遺跡になりそう、災害とかも多いし、少子化とか、これが未来じゃね?
@user-mh6qm1yj9r
@user-mh6qm1yj9r 4 ай бұрын
きみ コメントする前に働きな
@user-ko3hq6bl1t
@user-ko3hq6bl1t 4 ай бұрын
別に国を選ばずとも今あるもの全部いつかは遺跡になるぞ
@nailnail4291
@nailnail4291 4 ай бұрын
口先で「こどもの数がああ」と言っている国々 「その遺跡の案内はAIロボットにやらせる予定です。人間はお客さんだけでじゅうぶん」
@ChianMindoSagi
@ChianMindoSagi 4 ай бұрын
あまりにも大陸すぎる。
@user-ml4yn7su1d
@user-ml4yn7su1d 4 ай бұрын
すまん、「大陸すぎる」と何かあるんか?
@ChianMindoSagi
@ChianMindoSagi 4 ай бұрын
@@user-ml4yn7su1d 最近はえらい縄文ブームだからなぁ。日本や皇室が大陸起源だと知ったら興醒めだろ。
@user-zs9sc9mg9t
@user-zs9sc9mg9t 4 ай бұрын
土器1つ見比べてみても縄文人とは全く違う人々だな こちらが我々の祖先なんだろうけど
@user-ju9qs3qg3b
@user-ju9qs3qg3b 4 ай бұрын
物だけで人を推し量るのはどうかと思うね ガラケーとスマホ、見た目は全く違うけど使っている人は全く変わらない
@user-zs9sc9mg9t
@user-zs9sc9mg9t 4 ай бұрын
@@user-ju9qs3qg3b まぁ縄文の遺跡で環濠集落は殆どないからね 大陸からもたらされたものだよ
@kei.suzuki
@kei.suzuki 4 ай бұрын
弥生時代って水稲工作が始まった3000年前くらいからなんだけど、その時代から土器の変遷を説明できるんですか? さぞ自信がおありのようですから期待してます
@user-zs9sc9mg9t
@user-zs9sc9mg9t 4 ай бұрын
@@kei.suzuki 肉厚で立体的な装飾が施されていた縄文土器と薄く作られ平面的な装飾の弥生土器はまるで別物です。当たり前ですが縄文土器から弥生土器に変化していくのであれば、その変化の過程の土器が大量に出土する筈です。また、縄文遺跡では殆ど環壕集落を見ることがありません。考え方が違う人々なのです。
@user-ju9qs3qg3b
@user-ju9qs3qg3b 4 ай бұрын
@@user-zs9sc9mg9t 明治維新で変遷なく銃や城郭、あるいは服装までもが変わりましたが、そこに住んでいる人々は 「全く違う人々」になりましたか?
@tooeti8208
@tooeti8208 28 күн бұрын
魏志倭人伝で、なぜ方角がちがうのか、は航海の要となる羅針盤(コンパス、方位磁石)の発明が9〜10世紀なので、まだ羅針盤がなく、しかも地動説なので、太陽は東から上り、上下に動いて、東に沈むと考えたからです。 つまり、早朝に出発する時と朝10時頃出発する時、など出発時刻により出発方角は異なります。 倭国(福岡)は、その一族か、その系統が分かれて、奈良にできた国を倭国という、倭の中国語の意味が「小さく、馬鹿」だったので、九州の倭国からみて、奈良の倭国が「太陽と接するところであるので日本とした」と旧唐書や新唐書に記載されています。  後漢書東夷伝には、倭国(福岡)はやまと国の南端の国(または地域)と書かれています。
@ManamoYouko
@ManamoYouko Ай бұрын
後継者に譲った方が良いのでは? 喋りがもの凄く聞き辛い
@user-py8yz1ng6o
@user-py8yz1ng6o 4 ай бұрын
奈良に邪馬台国とか言うてる時点でアウト
@nailnail4291
@nailnail4291 4 ай бұрын
鹿とせんべだけで客あつめようとする奈良の根性もアウト それにしてもロシアの専門家中村逸郎と古代史の若一さん 関西のメディアは優秀な専門家の宝庫ですね。
@user-yq9cy6ln8s
@user-yq9cy6ln8s 3 ай бұрын
若一さんは別に古代史の専門家ではありません
@user-ob5te6jh3q
@user-ob5te6jh3q 4 ай бұрын
記紀は正しい派は邪馬台国は無かったと宣言して欲しい。 歴史として書いてないのだから。(参照してるけど) 邪馬台国はあったと言う人は、記紀は偽書と認めるべき。 歴史として書いてないのだから。(参照してるけど。)
@yskztkhs7986
@yskztkhs7986 4 ай бұрын
ちょっと違うのでは。だってさ、日本列島のどこかの勢力を邪馬台国と書いただけなわけ。記紀は大和朝廷自身の歴史を書いただけなわけだ。一緒かもしれないし別かもしれない。 書いた主体が別なのだから書かれたもの自体の問題ではないってわけだ。
@user-hw9iw3pm3b
@user-hw9iw3pm3b Ай бұрын
記紀に邪馬台国の卑弥呼が出てこないのは、神武天皇の先祖筋が邪馬台国の卑弥呼であり、卑弥呼は創世記神話の中に取り込まれているからだと考えます。日本書紀の編集者は日本の歴史を外(中国)向けに非常に古いものであると思わせるために、神武天皇の即位を無理やり紀元前660年に遡らせたためと考えます。しかし、これにより三世紀中頃の話である邪馬台国の卑弥呼はそのままの形では到底取り上げることはできず、かといって中国に対して魏志倭人伝のことを全く無視するわけにもいかず、仕方なく、日本書記で三世紀半ばのこととして記述している箇所で魏志倭人伝のことを書き記しているのだと考えます。
@junjun4919
@junjun4919 4 ай бұрын
女王國(=邪馬台国「やまとこく」)は九州の倭国 (わこく)に対し、倭(やまと)と呼ばれた。『倭人伝』では「やまと」を中国語の文字に1字1字あてはめ、「邪馬台」(やまと)と表記した。 ※邪馬台は日本語の発音1音を中国語の1字に当てはめた。よって日本語では「やまたい」ではなく「やまと」「やまて」「やまつ」など3音で発音された。 中国語では、文字は意味や形態などで表現されるが、中国語にない外国のものを外国人が表現するようにいう場合には、外国語の1音を中国語の1字で表現する。例:Elvis Presly ⇒ 中国語:猫王、外国人の発音の中国語の表記:猫王為什麼要叫猫王 ※邪馬台国の「邪馬」は日本語で「山」の意なので、邪馬台国は山中にあると推定できる。また邪馬台国の「臺=台」は魏では中央官庁の意なので、「邪馬(=山)の国」の中央官庁の置かれた場所であろう。あるいは「中央官庁」から「官庁」の意味が除かれ「周囲を山々で囲まれた所」と解釈できる。そこで邪馬台国は「邪馬(山)の国の中央政府」、あるいは「山々の真ん中」の意で=山台=山都(やまと)である。 奈良は九州より農業に適していたため、新しい都として発達した。女王國の風俗は大きく変化した。九州の時は半農半漁だったのが、農業主体の生活様式、服装などになった。 「倭(やまと)は国の真秀(まほ)ろば 畳(たたな)づく青垣 山籠れる倭しうるわし」(倭建命(ヤマトタケル)・古事記 712年)の「山籠れる倭」より、この時代の倭は、奈良にあった。 奈良では、倭(國) 「わ(こく)」※を「やまと」と読んでいたが、中国語の倭の意味が「馬鹿なチビ」なので、のちに文字を「日本」に替えて「やまと」と呼んだ。(壬申の乱 (672年) で勝利した天武天皇が、国号を「倭」から「日本」に変更した)
@user-ub4pg2wm9g
@user-ub4pg2wm9g Ай бұрын
アリストテレスは音と意味両方混在してます。前半は音を表してますが最後の徳は知識人によく使われる漢字で音は無関係。
@user-qt5ri4hc2f
@user-qt5ri4hc2f 3 ай бұрын
Oya.you.gozaimas.iitenki.ninattute.gohan.tabemacyita..benzyonomondai.suitaicitanokana?