バーチャルYouTuberとは誰か?哲学的に分析した論文がおもしろすぎる。#29

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ゆる哲学ラジオ

ゆる哲学ラジオ

Күн бұрын

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@yurutetsugaku
@yurutetsugaku Жыл бұрын
【参考文献】 ◯フィルカル amzn.to/3pe94qy ◯会話を哲学する www.valuebooks.jp/bp/VS0063352166 ◯独学の思考法 amzn.to/3qP2rM8 【サポーターコミュニティができました!】 ⁠⁠⁠yurugakuto.com/tetsu 【公式Twitter】 ゆる哲学ラジオのTwitterアカウントがあるので、是非フォローしてください! ⇨ ⁠twitter.com/yuru_philosophy 【おたよりフォーム】 皆様からの楽しいおたよりをお待ちしています! ⇨ ⁠forms.gle/n72HW8ZAaAZu5TM96
@mampuku1285
@mampuku1285 Жыл бұрын
Vのオタクなので楽しく聞かせていただきました。 一般的に、みんな建前上では虚構的存在として接していて配信者説を振りかざすのは無粋という文化がありますよね。
@thesaito2721
@thesaito2721 Жыл бұрын
…唐揚げうま代のあぶらっぽ哲学ジョークが気になり過ぎる、オモシロ過ぎるのでぜひトキヒロさんには受肉してほしい…
@magnet999
@magnet999 Жыл бұрын
Vtuberの世界で伝説的に扱われてるロールプレイの一つに「私で隠さなきゃ」というのがあります。 配信画面の事故を自分のアバターを拡大することで隠す、という「キャラクターでもない、配信者でもない」という存在論的二面性の不可思議さに遭遇しました。 それから強く惹かれて追うようになったクチなので今回のテーマはドンピシャに刺さりました。
@CrowNecoYah
@CrowNecoYah Жыл бұрын
にじさんじの星川サラさんが「最近星川みたいな服を着るようになった」と言っていたのを思い出しました。多分他のvtuberも似たような傾向はあるのだと思います。
@ysohep2395
@ysohep2395 Жыл бұрын
大変興味深く拝見しました! 台本に沿って演じるアニメ等と異なり、Vtuberのパーソナリティは当人の反応や思考によって形作られていくところが大きいですね。 これは、いわゆる動画勢(録画素材を編集して公開するスタイル)から配信勢(ライブ配信)に主流が移ったことで、より顕著になったかと思います。 視聴者の多くも、内面ありきで受け入れていると思われ、 印象的な事例として、過去にはアズマリムさんの運営側の方針変更に対する当人の告発であったり、 ゲーム部の面々の演者入れ替えによる炎上、 バーチャル蟲毒と揶揄されたオーディション企画などがありました。 今回のラジオで仰っていた「別のガワを使ったり、逆に中身が入れ替わったら同じVtuberを言えるのか」は、根源的で大変面白い問題だと思います。 「中の人」という表現を避けて定着したであろう「魂」という呼び名がありますが、上記の問題を「生まれ変わっても同一人物といえるのか」「別の人格に乗り移られたら、同じ人といえるのか」と置き換えてみると、言い得て妙かもしれませんね。 それから、Vtuberの黎明期には、だいたい同時期に盛り上がった「VRChat」のアバター文化とあわせて、身体論やアイデンティティー、VTuberとはどういう現象・存在なのか、等についての考察が多数言及されておりました。 (Vtuverとは歌舞伎的な見たての遊びである、とか、異性のアバターを纏うことでの行動の変化、とか) いま読んでも面白いと思いますので、お時間あれば2018~年あたり(?)の記事を検索してみることをお勧めします。 ちなみに、 17:18 “日本だけというワケではない?”→VTuberの論文数ではインドネシアの勢いがすごいらしいです。 もちろん実際に活動する海外Vtuberも沢山いて、日本のフェス的なイベントに中国のVtuberの方が出演したりなどもありますよ。 また他の方のコメントにもありますが、Vtuberという呼称によらず、本人像として絵や3Dモデルを使う手法は、多くの配信者に取り入れられているようで、本人の露出の有無や前後関係などにより多くのパターン、そしてそれらのグラデーションが存在しています。 「Vtuberとはだれを指すのか」は、知的興味だけでなく、 例えばVtuberへの誹謗中傷問題でも話題に上がったり(「人ではなくキャラクターを貶しているだけだから問題ない」といった言い分ですね)、 将来的に配信者・タレントだけではなく一般の生活にまでアバター利用が広がる可能性が考えられるなど、実社会に還元可能な有意義なテーマでもあると思います。 この度の動画を機に、お二人にも少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。 以上、眉唾な乱文・長文、失礼いたしました。 最後に、サムネのV体めちゃくちゃ似合うと思います。それで一本撮られる気はないでしょうか?
@桜井久-h4l
@桜井久-h4l Жыл бұрын
哲学者サッカーから来た新参者です。 私の感覚ではVtuberの前に顔出し配信の文化があります。配信の方法が顔出し配信からVtuberに変化したことで、2つの効果を生みました。 1、かわいく、うつくしく、かっこよくなれること 2、配信者(特に女性)のリスク(身バレ)の低下 つまりアバターは自己をよく見せる化粧のような性質とプライベートと配信を分離するための変装のような性質を合わせ持っています。 またVtuberが拡大していく過程で2つの変化が生まれています。 1、なぜ配信者の情報を発信するか?=アバター(キャラクター)のRP(ロールプレイ)をしないか? 2、だれがアバターを作っているか? 1、前提としてRPと配信者の情報は相反関係だと考えて議論を進めます。アバターは、リアルの容姿よりも美麗の個人差が少なく、差別化が難しくなっています。そのためVtuberが増えていく過程の中で自身の情報を発信し差別化する必要が出てきました。配信者が自身の情報を発信することは、リスク(身バレ)の大きい行為ですが、配信のリスクは、顔出し配信をするよりもVtuberで下がっています。見方を変えると顔出ししないことによって「別のリスクを取る余裕ができた」。つまりVtuberが個人情報を発信するかしないかは、その配信者のリスク許容度によって変化しています。その結果リスク許容度が高い配信者は生放送を主体に活動し、差別化のために知識や内面を表現する傾向にあり、逆にリスク許容度が低い配信者は自由に編集できる動画を主体に活動し、差別化のために緻密なRPを行う傾向があります。 2、Vtuberにはキャラクターに配信者が応募したパターンと配信者がキャラクターを作る(要望をデザイナーに伝えるも含む)パターンが存在します。初期のVtuberは費用が高く前者の場合が多かったです。現在は、技術システムの向上でアプリなどでも作ることができるようになりました。配信者自身がキャラクターを作った場合、必ず自己の理想や願望がキャラクターに投影されています。また長く続けているVtuberは、新衣装という形で新しいアバターを配信者自身が作っています。 1,2で私が何を言いたいかというと、そもそもアバターには配信者の自我が投影されているということです。配信者からだんだんとキャラクターに自己が投影されていると感じるのは、初期のVtuberが借り物のキャラクターを使っていたためであり、配信者が変わったのではなく、キャラクターが変わったからです。またVtuberが増殖していく過程で他者との差別化のために内面を表現する必要に迫られたためだと考えられます。
@arcsin1203
@arcsin1203 Жыл бұрын
・俳優で言えば最近は 橋本環奈 → 橋本環奈 役 藤原竜也 → 藤原竜也 役 阿部寛  → 阿部寛 役 と思うようになりました ・ウェザーロイドのポン子というキャラがいまして 中の人がバレているのに中の人とキャラクターが別人という体裁で進行していて斬新だと思いました。 確かに配信者とキャラが分離している あとは「堀元みえる」というVTuberがオススメです
@毒肉どくにく
@毒肉どくにく Жыл бұрын
VTuberの中には、活動開始前から付けられた元々の設定と、演者が乖離した行動を取り、かつそれが倫理的な範囲で受け入れられる『公式が言ってるだけ』現象がまま起こるので、配信者からもキャラクターからも独立したものになる、というのはやはり納得ですね。
@voice_actors_academia
@voice_actors_academia 9 ай бұрын
ゆる言語の流れで最近ゆる哲学ラジオも聴き始めました。 Vライバーの事務所をやってるので興味深く聞かせていただきました。 最近ちょうど、山野さんの『VTuberの哲学』の書籍を見つけて興味を持っていたので、この機会に読んでみたいと思います。
@KIKKOMANamawa
@KIKKOMANamawa Жыл бұрын
家族に学校での振る舞いが家のそれと全然違う事を指摘されるようなシーンを見聞きした事があったのですが 状況やグループなどによって性格を多少変えちゃいますよねぇ 就職面接の時に友達と話す感じには成らないですし 先輩の立場や後輩の立場でも態度変わりますし
@GomaQchan
@GomaQchan Жыл бұрын
個人的な考えとしては、すべての「人物」:=「『誰か?』という質問の回答になりうる対象」というものは、回答する人それぞれが個別に保持しているものだと思います。 例示から書きますが、動画であげられたVTuberに近いものとしては、アイドルがあると思います。アイドルが別のグループに行った(また更に、違う名前で活動する)ときなどに、そのアイドルの以前のファンが、同一存在として扱うか、あるいは別存在として扱うかなどはファンごとに変わってきますし、結局それは個別のファンそれぞれが「そのアイドル」の定義を持っているから起こることだと思います。 もっと一般にも、例えば昔好きだったAさんという人に久しぶりに遭って、見た目や振る舞いなどか変わっていて「以前の好きだったAさんはもういないんだな」と思うのも、見る人が個別に持っていた「Aさん」という存在との乖離が発生しているからでしょう。 人が「人物」を規定するときには、見た目とか声とか振る舞いとかの、無数にある様々な要素それぞれに重みをつけて認識していて、その「要素と重みの対応関係」こそが「人物」の実体なのではないかと思うのです。そして、その要素ごとの重みの値が見る人によって異なっているため、人によって「人物」の捉え方が違うということだと思います。 通常であれば、身体やその時間的連続性によって同一性を保証することが多いので、このような「人物」には曖昧さがないように見えますが、それは先程述べた「重み」が身体やその時間的連続性については非常に大きな値になっているからではないでしょうか(法的責任の所在という意味での「人物」も、通常通りこの身体の時間的連続性を重要視している)。 なので先程のAさんの例であれば、「好き」という感情において大切だった要素が、身体とその連続性ではなくて、見た目や(振る舞いから想定される)性格であったとするならば、その観点においては確かに「別人」であるのだと思います。 同じように、身体が見えないオンラインだけの環境で「人物」に曖昧さが出るのも身体性が欠如しているからであって、「人物」を規定する環境が大事なのでしょう(動画の藤井聡太さんの例であれば、その環境とは「将棋ゲーム」であるから、「人物」を規定するときに最も重みの大きい要素は「将棋のプレイスタイル・将棋の能力」となる)。 そしてVTuberであれば、その「人物」を規定するときの要素が、通常とは異なり配信者だけでなくキャラクターの見た目(別の身体)などの人間とは分離した対象にまで及ぶので、「誰なのか?」という疑問が発生したのでしょう。
@ePhSh
@ePhSh Жыл бұрын
KZbin検索してもあー、あー、あー、あーが付いてるやつが見つからないので今のところ私の中ではよしのぶさんのが正解として認識されている
@keisukesugi5085
@keisukesugi5085 Жыл бұрын
きんに君さんについては翔二のほうで呼ばれたら本職のビルダーモードに切り替わりそう いや、切り替わったという仮面をつけた芸人モードかも
@TheSimontea
@TheSimontea Жыл бұрын
初見ぺこら、良いですね。 知っている人間には繰り出せないニュアンス
@hironb8c970
@hironb8c970 Жыл бұрын
お二人の三層理論の読み解きに違和感がありましたので、コメントさせていただきます。 哲学を勉強した訳でない全くの素人なので、間違っていたらすみません 三層理論って、パーソン(中の人)→メディアペルソナ(キャラクターではなく、視聴者が観測出来る限定的な配信者の一面)→フィクショナルキャラクタの順でレイヤーを重ねて対象を観測していることを指しているのと思います メディアペルソナは、公的な状況で見せる自身の社会的役割も鑑みた人間性といった意味合いだと思われます VTuberで言えば、長期間に渡ってキャラクタを完璧に演じきるのはあまりにも難しいので、大小の差はあれど中の人の私的な言動を表に出さざるを得ません キャラクタのイメージを崩しきらない程度に中の人の人間性を視聴者に見せている状況です パーソンとキャラクタは両立は出来ないけど切り離せもしないので、中間に両者を接続のためのメディアペルソナがあるのだと思います よしのぶさんが言っていた三位一体が近いように感じます VTuberとは全く関係ない部分で中の人のスキャンダルが暴かれた場合でも、地続きであるメディアペルソナはもちろん外装であるフィクショナルキャラクタも道連れに評価(視聴回数や登録者など)は落ちます メディアペルソナの部分が叩かれば主体たる中の人は傷つくでしょうし、メディアペルソナに接続されているキャラクタの評価に影響します フィクショナルキャラクタが貶されれば、それを自身の外装としてる中の人は傷つくでしょう 二元論では説明しきれないから三層理論が出来たのだと思います 演じるのではなく装う、の装うは○○をよそおって、まねをする、ふりをするのよそおうではなく、身なりを着飾るほうの装うではないでしょうか? 男装や女装のように人身の性格などを変化させるのではなく所作による変身といった意味合い、または仕事に行くのにスーツを着て気持ちを切り替える、というのも近しいように思います これは役者が役を演じるのとは違い、自身の装いに応じた振る舞いをとるものです 以上、Web上にあったナンバユウキ氏の三層理論のページを見て感じたものコメントしてみました 長くなってしまったうえ、まとまりも悪くなってしまいすみません 的外れな意見でしたら申し訳ありません
@Oganessons
@Oganessons Жыл бұрын
昔ゲーム部プロジェクトが魂(中の人)を交代して炎上したときや、キズナアイさんが分裂したときにこの議論が盛り上がっていましたね。VのオタクはみなVTuberを人格として扱っていた記憶があります。 哲学の目線から観ることができてとても面白かったです。
@hiroyukinagamachi6114
@hiroyukinagamachi6114 Жыл бұрын
映像というか、動画の技術が向上してきたからVTuberという形で表出しているけど、構造としては例えばSNSで複数のアカウントを取得し、それぞれのアカウントでは名前も話題も文体も異なっているような場合でも生じうるようなアイデンティティ論かなと思いました。
@miaza658
@miaza658 Жыл бұрын
なかやまきんに君の本名は「中山翔二」さんで、ボディビルやフィジークの大会では本名名義で参加しているようです(なかやまきんに君のKZbin参照)。 また、それらの大会では観客から「〇〇番~!」と声を掛けられますが、それにもきちんと反応します。大会ごとにアイデンティティが生まれ、大会が終わるごとにアイデンティティが消滅すると言えるかもしれません。
@c7na
@c7na Жыл бұрын
Vtuberってアバターを使ってるという一側面だけをとって別物をごっちゃにして呼んでいると思うので ①配信者が公開されていて配信者のバーチャル体としてのVtuber(HIKAKINとか) ②台本があって完全に演じてるVtuber(配信メインになる前の黎明期に多かった) ③配信者とは別存在としつつも配信者の性格や経験がある程度反映されてるVtuber(現在のいわゆるVtuberと呼ばれているもの) に分けると結構考えやすいと思うんですよね。 ①は配信者説、②は虚構的存在者説が強くなると思いますし、③はその中間みたいな感じなので両立説になってしまうのかなと思います。
@Lambda_deep
@Lambda_deep Жыл бұрын
演者をキャラクターというフィルター越しに見ているものがVtuberだと思ってます。 例えばVtuber四天王のうち、ねこますさん以外の4人はこのフィルターがかなり分厚い印象があります。対して近年流行っているストリーマー系のVtuberはフィルターが薄い傾向にあり、公式設定は飾りだったりします。
@dkdk_village
@dkdk_village Жыл бұрын
VTuberは視聴する側の人間にとってはプロジェクションという概念で捉えられそうな気もしました🤔 プロジェクションについては推しの科学という本に詳しく書いてあります!
@iamacat9729
@iamacat9729 Жыл бұрын
自己紹介というか、自発性・主体性一般について、強制は原理的に不可能、みたいな議論はできそうですね
@Tomo_Kanada
@Tomo_Kanada Жыл бұрын
平田さんの名言はここから始まったのですね!?
@unkind-higashida
@unkind-higashida Жыл бұрын
こういう話題で思い出されるのは月ノ美兎の百物語配信2019だな。あの配信はこの動画で言うところの身体的・倫理的・物語的アイデンティティとキャラクターを奪われたゾンビ(=配信者)がそれら「月ノ美兎」を取り戻そうとする。しかしゾンビはこれまでの活動(=物語的アイデンティティ?)やキャラクターを提示されても「それは私じゃない」と否定して自分は「月ノ美兎じゃないんじゃないか?」と視聴者に問うてくる。 この配信は最終的に視聴者達の「月ノ美兎はこうだ!」というめちゃくちゃな規定に簒奪者月ノ美兎が逃げ出し、視聴者達の想定するイメージとキャラクターと身体的倫理的物語的アイデンティティを身にまとうことを容認したゾンビが「月ノ美兎」を取り戻すことで幕を閉じる。論文も何も読んでないが、つまりこれが「メディアペルソナ」を「装う」ってことか?と思った。
@愛知-m5j
@愛知-m5j Жыл бұрын
Vtuber兎田ぺこらさんの所属するホロライブには『儒鳥風亭らでんさん』という人も所属していますね。 噺家の卵なだけあって弁が立つ、美術館巡りが趣味(学芸員資格持ち)で知識も豊富、九州出身なので、 お2人とはウマが合いそう・・・
@masin2505
@masin2505 Жыл бұрын
アニメのキャラクターと中の人の乖離で絶望した経験があまりなくて、『攻殻機動隊』の草薙素子(CV田中敦子さん)、『エヴァ』のアスカ(宮村優子さん)、『鬼滅』の胡蝶しのぶ(早見沙織さん)などで声優さんのファンになることが多いです。Vtuberはキズナアイ以外知りませんけども、もし好きなVtuberができて中の人を知ることになればそうしたキャラクターを演じられる能力を含めてファンになることもあるだろうなと思うのでアニメの世界との違いがあまり分かりません。
@sakanaSahara
@sakanaSahara Жыл бұрын
演じることと装うことの違いは本人の意思で発話してるかどうかなのかなと思いました そういう意味ではあのちゃんは演じているのかなと
@りんりん-o3f
@りんりん-o3f Жыл бұрын
面白く拝聴しました。 もっと勉強したいと思ったのですが、どのようなジャンルなのか気になりました。 人が認知するヒトはどのような要素を持つものなのだろうか?という問いに対しての一つのアプローチだと感じました
@yurutetsugaku
@yurutetsugaku Жыл бұрын
ありがとうございます! ジャンルとしては、物語論や他者論とよばれることが多いと思います。
@Oganessons
@Oganessons Жыл бұрын
置かれている状態によってアイデンティティが複数存在するのは、一般人にもよく当てはまる現象だと思います。 skypeで知り合った友達と話しているときは、アイコンをキャラクターとしたVTuberとなっているような状態だと言えそうです。違ったらごめんなさい
@かさたて-s1h
@かさたて-s1h 11 ай бұрын
多分私と同じ世代だと非実在青少年や表現の規制という言葉が思い起こされ、この種の議論が現実的な問題になることを知っているから、私はこの種の研究って大事だと思っちゃいますね。
@chokkaku890
@chokkaku890 8 ай бұрын
「私が消えちゃった」はマニュアル化されてそう
@usaru_0413
@usaru_0413 Жыл бұрын
内容を聞く前にVTuberにある程度触れているだけの身として自分の感覚を書いておくと、アバターだけでも中の人だけでもそのVTuberとしては成立しないものだと思っています
@babatakuna
@babatakuna Жыл бұрын
Vtuber、個人的には自我をインターネットに移す事だと思ってます
@pottetor4793
@pottetor4793 Жыл бұрын
今回の話とずれているかもしれませんが、以前別のKZbinで錦鯉の渡辺さんとマジカルラブリーの野田クリスタルさんの対談があったのですが、漫才など他の話題では意気投合していたのに、唯一VTuberの話題でだけかなり揉めていたのが印象に残っています(後日野田さんが「あの話題だけ空気が悪くなった」と振り返っていました) 野田さんは中の人込みでVTuberを好んでいるのに対し、渡辺さんはVTuberそのものを好んでいる(中の人はいない)というスタンスの違いでだいぶ揉めたそうです
@ATI_PC
@ATI_PC Жыл бұрын
阪大のロボット工学の石黒教授は御自分にソックリなアンドロイドを作り、ソレを使って遠隔授業などをされているようですが、 次第に自己と、アンドロイドとの境界が薄まっていくような錯覚に陥るというお話をされていて、Vも似たような感覚なのかなぁと思ったりしました。 アンドロイドを撫でられると自身が撫でられると感じたりするらしいです。 同様に、ファントムペイン研究のラマチャンドラン教授も鏡を使った幻肢痛治療をされていたり、脳をハックするような感覚は有るのかなぁと。 役者さんは憑依型の人は、与えられた役に入り込みすぎて自分がよくわからなくなってしまうという方も居るらしいので、 人間の自我、意識というものに関して、興味深い考察ですね。 マクロンさんがこうした知識を応用して政治を行っていたとすると、恐ろしくも有り(笑)
@カルボキシ
@カルボキシ Жыл бұрын
原初のvは完全な虚構の存在として台本通りに演じてましたねい 今は外見を変えて事務所移籍することもザラですが、大半のファンは中の人目当てで付いていくよ(円満移籍の場合ですが)
@天才の証明
@天才の証明 Жыл бұрын
話逸れるけど 今考えると、その人達や某ブンブンハローの人でさえ中堅以下の生主でしかなかった旧ニコニコって、本当に人材が豊富だったんやな
@RagiLaboratory
@RagiLaboratory Жыл бұрын
Vは「配信者のペルソナの1枚」というイメージです。
@doctorz7988
@doctorz7988 7 ай бұрын
身体的アイデンティティはともかく、倫理的アイデンティティと物語的アイデンティティは芸名(?)を使って、キャラを演じているKZbinr全てに当てはまりそうですね。 VTuberは声と体が作られた物で、振る舞いが演者なのに対して、俳優は声と体が本人の物で、振る舞いが作られた物、という意味で真逆の関係かなと思います。 恐らく、VTuberだけを見て論じるのは難しいので、こうした対比を用いるのが良いのかな、と思います。
@なごみ-k7z
@なごみ-k7z Жыл бұрын
哲学を学んだことがないのですが、形而上学と私は相性が悪い気がしていたのですが、私の好きな方向性が分析哲学かもーと ちょっと思いました。 あとこの動画で「私」という概念が単数の代名詞と説明されていますが、その解釈は個人的には納得しかねているのですよね。私的には、「私」の指し示す範囲は一つの個体という細胞集団を指すと認識しています。(本質的に「私」は「私達」と同様の概念で、適用範囲が異なるモノと解釈しています。)この時、その集団が一つの個体の範囲内で増減しても「私」は同じ集団として認識されます。なので、バ美肉を受肉したりして私が拡大しても本人にとってそれは同じ「私」という集団と認識され得ると考えられます。 (参考図書「自我の起源」真木悠介)
@hiron5375
@hiron5375 Жыл бұрын
人としての形が必ずしも重要なわけではないし、vでなくても俳優の演じるキャラクター、漫画のキャラクター、どころか普段から接する友達、親兄弟でも存在の同一性というか存在の曖昧になる境界はあるなぁ、という気がする。さらには誰が演じるでもない不動のぬいぐるみや仏像、状況によっては単なる石ころでもやっぱり同じものを感じられる時があるし、結局私が感じる存在とはなんなのだろうか? 極端な話、目の前で喋ってる相手ですらいろいろな刺激情報から脳が作り出した認知によって成り立ってるわけだから虚構ともいえるし、表層的なところは人によって対象によってある程度明確に違いが説明できるが、どれも本質的な違いはさほどないきがする。
@sf4460
@sf4460 Жыл бұрын
黎明期のキズナアイさん辺りは虚構的存在というか、「キズナアイ」というキャラクターがまずあってそれを中の人が演じているという感じでしたが、 今は申し訳程度にキャラクターの絵を貼ってるだけでほぼほぼ中の人そのままという人も増えてる印象ですね。 手軽に配信出来る環境になった、数が増えた、その配信者型の増加によって手間のかかる従来の虚構的Vをやるのが割りに合わなくなった、というのが原因なのかなあと個人的には思ってます。 ただ、黎明期から、Vの楽しまれ方としては、中の人要素が漏れ出ると盛り上がったり中の人を考察したりというのがあったような気もします。 既存のキャラクターのV化のような、全く中の人要素を見せず全て台本でやってるようなVはほとんど人気出てないですしね。(もしかしたら私が知らないだけかもですが)
@sf4460
@sf4460 Жыл бұрын
様々なVが「アニメキャラクター的なものをアバターとして使っているKZbinr」であること1点で一括りされているのが現状で、これを一括りに語るのは無理があるのかもしれません。
@天才の証明
@天才の証明 Жыл бұрын
そもそも昔の生主状態の方が楽だからってのもあるでしょ
@tika0314aoj
@tika0314aoj Жыл бұрын
Vtuberとは誰なのか そんな野暮な誰でもいいんじゃないかな、と思う心は置いといて、うまくまとめられないけど 個人的には受け取り手とのリレーションシップで生まれた幻想なのでは??という結論に至るような うまく言い表せないけど、声や姿(イラストと呼ぶのは野暮)と人格と、いろいろあるし、それもそうなんだけど、視聴者とか仲間とかいうものがVtuberを作っているわけだし、 キャラが持っているイラスト的なデザインやイメージもあるし、 Vtuberとは誰なのかでVtuberだけ見てれば見えないような気がする 水槽の脳 じゃないけど、他人なんて自分のセンサーが頭の中に構築したものなんだからとも思うし という哲学分野がありそうだから探してみよう 多角的に捉えたらそりゃいろんな結論が出るのはあたりまえなのだが 現状の自分の結論としては、視聴者の前にいる存在がVtuberです!!!!
@ray8bit396
@ray8bit396 Жыл бұрын
慣れてる人ほどアバターが消えた時にカメラトラブルとか言う印象があるけどなあ
@ysohep2395
@ysohep2395 Жыл бұрын
わかります。 始めたての人の方が「キャラクターでいること」を遂行しがちで、慣れてきた方があけすけだったり、メタなネタとか設定に反する言動をしてラフな笑いを誘うイメージ。 「私が消えちゃった」などは、ゲームの操作キャラがやられて「あ、俺死んだ」と言ったり、(幼稚という意味でとらないでいただきたいが)人形遊び的に自分の分身を私と表現して楽しむような投影の遊びの範疇であって、アイデンティティとはズレるかなと思いました。 また、このくだりで思い出すのは、月ノ美兎さんが活動の最初期に放った「わたくしで隠さなきゃ」ですね
@白梅みさと
@白梅みさと Жыл бұрын
VTuberは分からないけれど、「〇〇ママ」はママ友間で生まれて独立した物語があるような。
@ぼふぃ
@ぼふぃ 9 ай бұрын
不誠実だが考えが纏まらなかったからとりあえず第一印象を放り投げておく。 "メタフィクションに通ずるものがある気がする (論点がずれる気がするがSCP-2995-JPやVeleaferの提言も参考にしたい)"
@hiruyume-yaoki
@hiruyume-yaoki 10 ай бұрын
Vtuberとは、「声や動きや性格などの人間らしい部分と、ビジュアルや経歴(設定)などの人間離れした部分が同じ同一性を表す状態」と思う。 要は人間の肉体の一部と機械上のデータ群で新たに『1人』を作っていると思う。 私はその作られた『1人』を使って都合よく妄想するためにVtuberを見ている。 Vtuberを1人、2人と数えるならば、それを人間として、つまり共感や交信の相手として考えていると言えるだろう。 それに見合うだけの代替不能性(声、性格)や、 アイデンティティ(物でなく者であること)を見せつける力がVtuberにはあるのだと思う。 姿も、日常生活もわからない、ただ画面の向こうで虚構的存在に合わせた虚構か人間らしさかも分からない発言をする配信者と、可動域の制限された絵柄が合わさって、「誰なのか」と言わせたのだからすさまじいと思った。 実際に、つじつまが合わなかったり矛盾が生じる話が散見される顔出さない配信者が居たとして、「なんだこれは」となる。皮肉では「誰なんだお前は」と言うかもしれないが。 そして知らないキャラクターが置かれて、動いていたら、「なんだこれは」である。 それらが合わさった時、「誰」になったのだから、VtuberはVtuberであるから「誰か」なのではと思った。 ゆえに、Vtuberをそれ以上分解すれば、それは「何か」でしかないのではと思った。 Vtuberの要素には「誰」は居なくて、「何」があるだけの、人間と同じようなものだと思うと、私には都合が良い。 以降蛇足 そういえばあおぎり高校の大代真白とかいうVtuberが、バージョンアップ後の身体を別人に操作させてバージョンアップ前の身体でツッコむとかする3D配信をしていたことがある。 この時別人が入った方には「誰?」という反応があったと思う。 あと私は、Vtuberの3Dモデルが機械的なモーション流し込みで動いているとき、心地が悪いと思う。 また、ダンスや演技の指導のたまものを見た時も、なんだろうな...となる。 Vtuberの声が外見や設定的なキャラクターから外れた話をするのは、人間らしさの部分が人間離れした部分と違う同一性を指していることになるが、私は都合よく妄想するためにVtuberを見ているので、 その外見でそんな人間らしい部分があるのだなと解釈可能な限り、そう解釈する。 必要があれば私服も部屋着も妄想する。自分から遠いけれど、どこか近い部分がある存在にしようとする力が働く。 ところで、私が配信者をあまり見ないのは、人間に対して失望が大きいからで、Vtuberの人外的な外見で緩和されて配信のフィルタを通った人間的部分に縋っているからだ。 こんな人ばかりではないだろうから、決して都合の良い妄想をする人々だけではないと思っている。 よくVtuberに投げかけられる批判的に聞こえる語として、「設定どこいった」「絵じゃん」という両極端なものがある。 人間らしさの部分が設定を外れた時、「タートルトーク」こそがVtuberだと思っていた人は、「設定どこいった」と言うし、 台本や演技の都合で人間味が薄れると、「ある人間が着ぐるみを着ている」のこそがVtuberだと思っていた人は「絵じゃん」となると思う。 ただ私は、今人気なVtuber達は、何の話でも自分の「タートルトーク」になるような技術と「とある人間である」という属性を両方持つように思う。 以上、長文失礼しました。
@showUmiracle
@showUmiracle Жыл бұрын
アーモンド!!!!
@一切衆生悉有仏性RX
@一切衆生悉有仏性RX 4 ай бұрын
途中でVtuberの絵が消えるって話したとき、「本体が出てきちゃう」って言ったじゃん。 その本体ってところにどっちも研究しなかったところに、二人の本音としての意見が隠れてたように思うわ。
@天才の証明
@天才の証明 Жыл бұрын
昔は虚構的キャラクター的な側面が強かったけど 今は配信者か両立寄りで時代と共に変わってるって感じだと思う 正直、偶に流れてくる切り抜きを見てる程度だと (俺が見てた範囲では)殆どの人は別にニコニコ時代とそんなにスタイル変わらない気がする
@mythamkuraspa3560
@mythamkuraspa3560 Жыл бұрын
要するに配信者がキャラクタの人格を想定して生成しているのであって キャラクタの人格が元々存在するという想定が間違ってるように思う 他者は例えばアニメのキャラクタなら、多量の情報量によって人格を他者が読む見る中で設定、生成するのであって 一方でvtuberのそれは明らかに事前に接種する情報量が少ない 絵や説明書きには稚拙な情報しか存在しない。 生成に対する認識が足りないと演じることに対する理解が間違ってしまうと思う 演者は自己の経験や人格を利用してキャラクタの生成をする(そうしないでキャラクタを表層することはできない) 要するに事前に用意されたキャラクタを想定して演じることは実はできないことであるし しかし、配信者の人格かというとそれは違う 配信者にあったことない他者は配信者の人格を知らないし、己の中に持たないわけで 配信者が新たに生成した人格だけを見てキャラクタを理解しているに尽きる 中の人の問題はvtuberにとってそれほど大したことではない 大層な問題だと誤認されるのは、他者の人格は表層でしか知ることができないのに 深層を知ることができていると勘違いしているからだろう とりあえず書き散らしました
@LIZ-oh8pj
@LIZ-oh8pj 9 ай бұрын
そんな今更「デーモン閣下とは誰なのか」みたいな話を…
@天才の証明
@天才の証明 Жыл бұрын
俺は寧ろニコ生主時代に追ってたから 逆に実況動画終わってなかったり、何も言わずにアカウント消して転生したのが悲しくて それを何回か経験して、トラウマで見なくなった...... 別にvは嫌いじゃないんだけど、今まで積み上げた思い出をゴッソリ消すぐらいだったら何か言ってほしかったな........
@Tomo_Kanada
@Tomo_Kanada Жыл бұрын
​@@天才の証明 すいません スレッドのつもりが間違えて返信になってしまいました  削除しました _(ーдー)_オワビ
@hinok5289
@hinok5289 Жыл бұрын
声優崩れの生主がガワ被って人格切り売りしてるだけでは…?
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Quilt Challenge, No Skills, Just Luck#Funnyfamily #Partygames #Funny
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When you have a very capricious child 😂😘👍
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