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八代目 林家正蔵『吉原雑話』 小山觀翁撰集

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観翁撰集 Kanou Collections 小山泰生象翁 編

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Күн бұрын

1976昭和51年11月5日
代官山小山亭
におけるライブ録音です。
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林家 彦六(はやしや ひころく、1895年5月16日 - 1982年1月29日)は、落語家。
東京府下荏原郡品川町(現在の品川区)出身。生前は落語協会所属。本名は岡本 義(おかもと よし)。前名の林家正蔵としては8代目。俗に「彦六の正蔵」。
出囃子は『菖蒲浴衣(あやめ浴衣)』。噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」と呼ばれた。妻は岡本マキ。息子は日本舞踊家花柳衛彦。芝居噺や怪談噺を得意とし、「林家正蔵」の名を更に高めた。
経歴
1907年 尋常小学校卒業。
1908年 質屋、ホーロー工場、木地屋などを丁稚奉公で転々とする。
1912年 2代目三遊亭三福(後の3代目三遊亭圓遊)に入門し「福よし」を名乗る。
1914年5月 師匠三福が「扇遊亭金三」に改名し「扇遊亭金八」に改名。
1915年 この頃から大師匠4代目三遊亭圓生の弟弟子2代目三遊亭圓楽(後の三遊一朝)に稽古を付けて貰う様になる。
1917年1月 師匠金三と共に4代目橘家圓蔵の内輪弟子となる。
1918年2月 二つ目昇進し「橘家二三蔵」に改名。
1919年4月 圓楽が「三遊一朝」に改名し、圓楽の名を譲られ二つ目のまま「3代目三遊亭圓楽」襲名。この頃は桂小南らの三遊分派に所属。
1920年6月 真打昇進。結婚。
1922年2月 師匠圓蔵死去に伴い、3代目柳家小さんの預かり弟子となる。その後3か月ほど2代目桂三木助の元で修行し『啞の釣』『莨の火』などを教わる。
1925年9月 兄弟子初代柳家小はん、柳家小山三(後の5代目古今亭今輔)らと共に「落語革新派」を旗揚げする。
1926年1月 落語革新派解散。
1927年 東京落語協会(現落語協会)に復帰、兄弟子4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)の内輪弟子になる。
1928年4月 前師匠小さん引退に伴い、師匠馬楽が4代目柳家小さんを襲名し、馬楽の名を譲られ「5代目蝶花楼馬楽」襲名。
1929年10月以降の世界恐慌による不景気の影響で、寄席も客が大幅に減る。馬楽は芝居の脚本の朗読会「とんがり会」を開いていた[1]。また、この頃、徳川夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、木下華声らと漫談の修行をしていたこともあった[2]。
1950年4月22日 一代限りの条件で海老名家から正蔵の名跡を借り「8代目林家正蔵」を襲名する。
1963年12月 第18回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞受賞。
1965年 落語協会副会長就任。12月 第20回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞受賞。
1968年11月3日 紫綬褒章受章。
1968年12月 第23回 文化庁芸術祭(1部・大衆芸能部門)芸術祭賞受賞。
1970年2月からの隔月(偶数月) 「芝居噺 林家正蔵の会」を、東京・岩波ホールにて開催(この模様の一部は、16mmフィルムで記録映画として撮影された)。
1971年1月 日本テレビ演芸番組「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以降1981年まで不定期に出演。
1972年4月 9代目桂文治、6代目三遊亭圓生と共に落語協会顧問就任。
1974年4月29日 勲四等瑞宝章受章。
1976年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
1980年9月20日 林家三平死去。9月28日「正蔵」の名跡を海老名家に返上。正蔵として最後の口演は『旅の里扶持』である。
1981年1月 「林家彦六」に改名。4月 昭和55年度第1回花王名人大賞功労賞受賞。11月7日日本橋たいめい軒で行われた一門会の『一眼国』が最後の高座となる。
1982年1月29日 肺炎のため東京都渋谷区の代々木病院で死去。86歳没。その日の夕方まで病室にいた2代目橘家文蔵が言葉を聞き取れず問い直すと「バカヤロー」とどなられたという。叙・従五位、賜・銀杯一個(菊紋)。生前から白菊会に加入しており、遺体は医学研究用に東京医科歯科大学に献体、角膜は慶應義塾大学病院のアイバンクへ提供された。
来歴・人物
母方の祖父は、鎌倉河岸の船宿「岡本屋正兵衛」に生まれた息子だったが、岡本屋を飛び出して鳶職・火消しになってしまう。祖母は武士の家出身で、その二人の間に生まれた娘が、岡本義(後の8代目正蔵)の母親である。
稲荷町時代の逸話、名跡の返還など古き良き噺家として名を残した事でも知られる。「かくしゃくとした老人の噺家の代名詞」としてビートたけしなどに引き合いに出され、秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」では「彦六みたいな奴だ」との台詞が登場する。
独特な人柄、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。語尾を曖昧にせず常に明瞭に発声する独特の語り口は、若いころに三遊一朝に徹底的に芝居噺を仕込まれたためだと本人は語っている。
弟子である林家正雀は彦六の物真似が得意で、寄席の高座で披露することがある。また、正雀の兄弟子である林家木久扇も二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「彦六伝」を十八番としている。
通称「トンガリ」。曲ったことが嫌いで、すぐにカッとなるところから来ている。弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。
若い頃は、学があり理屈っぽいことから噺家仲間から「インテリ」「新人」(学生運動団体の新人会から)と呼ばれ、「菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている」と陰口を叩かれた。実際に日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ。」とのことであった。自身が贔屓にしている共産党金子満広などに、参院議員時代の7代目立川談志が侮辱的な野次を飛ばして辞職後も場外で続けていたことを快く思っておらず、会えばしょっちゅう喧嘩になっていたという、いかにも通称「トンガリ」らしいエピソードがある。その一方で談志については、選挙活動を手伝ったり、「自殺するのではないか」という危惧を親しい知人にしばしば漏らしていた。なお、談志本人も自殺願望があったことを後に認めている。詳細は立川談志の項を参照。
30年以上に亘って朝日新聞を愛読したが、紙上で落語評論家が当代の名人について、5代目古今亭志ん生・8代目桂文楽・6代目春風亭柳橋・10代目金原亭馬生の名を挙げ「ここまでくると次の指が折れない」と書いたことに激怒し、執筆者に宛てて「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と書いた葉書きを速達で送りつけ、朝日新聞の購読を停止し、しんぶん赤旗を取るようになった。
江戸、明治の香りを持った人物だが、オフの時は英国調に洋服も着こなし、意外に現代的な面があった。巡業に出ると必ず昼食はカレーライスで[注釈 1]、客が自宅に遊びにくると「どうです。コーシー(コーヒーの下町訛り)でも。」と勧めていた。朝食は必ずジャムを塗ったトーストにコーヒーだった。
無駄使いを嫌い、新聞の折込みチラシの中で片面印刷のチラシを見つけたら切ってネタ帳の代用していたという逸話があるほど。
仕事で頻繁に寄席へ通うため「通勤用定期券」で地下鉄を利用していたが、「これは通勤用に割り引いて貰っているんだから、私用に使うべきでない」として、私用で地下鉄に乗る際には別に通常乗車券を購入し、改札口では駅員に突きつけるように見せていた。談志もこの律儀さには呆れつつも感心し、国会議員当時に「世の中にはこんな人もいる」と国会で彦六の逸話を紹介している[4][注釈 2]。
せっかちな性格で、飛行機を使って東京に帰った時、たまたま羽田空港が満員のため、しばらく上空を旋回したことに「てめえの家の玄関先まできてて入れねえって法があるもんけい。」と腹を立て、爾来、飛行機を使わず鉄道で地方巡業に行くようになった。それでも、出発の1時間前にホームに向かうので周囲から早すぎると止められても、「遅れることがあるんだから、間違って早く出るかもしれねえ。」と言って意に介さなかった。
5代目柳家小さん名跡の襲名をめぐり、彦六は弟弟子9代目柳家小三治(後の5代目小さん)と争ったが、当時の大御所である8代目桂文楽に若いながらも見込まれていた9代目小三治が5代目小さんを襲名することになる。替わりに貰うことになったのが、空き名跡だった8代目の正蔵であった。この際に浅草の金看板だった「山春」山田春雄は興行の関係で彦六と縁があった関係で法界悋気を病んだと「聞書き」の中で北村銀太郎は説明している。
稲荷町の住居は昔ながらの四軒長屋の隅の家で、近所に銭湯があり、まさに落語の世界そのままだったという。玄関には「林家」の暖簾がかかっており、春夏・秋冬で2色あった。現在、長屋は取り壊されコインパーキングになっている。銭湯は近所の「寿湯」が昔風の銭湯の印象を残した建物で営業しているが、向かいの同潤会上野下アパートメントは「最後の同潤会アパート」として惜しまれながらも2013年に解体されている。
「正蔵」襲名と「彦六」への改名[編集]
「正蔵」襲名の経緯については「林家三平_(初代)#林家正蔵の名跡」を参照
いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし、自らの死後三平に返上する事にした。しかし1980年三平急逝に伴い、正蔵の名跡を海老名家に返上、「彦六」に改名する。「彦六」の由来は木村荘十二の監督した映画、『彦六大いに笑ふ』(1940年)で徳川夢声が演じた役名「彦六」から。
得意ネタ
馬楽時代にはSPレコードも吹き込んでいる。
『火事息子』『中村仲蔵』『蔵前駕籠』『文七元結』『怪談牡丹灯籠』『真景累ヶ淵』『鰍沢』『山崎屋』『一眼国』『ぞろぞろ』『淀五郎』『紫壇楼古木』『権兵衛狸』『あたま山』。芝居噺では『菊模様皿山奇談』『雪の戸田川』『引窓与兵衛』『双蝶々』『名月若松城』『新助市五郎』。新作では平岩弓枝作の『笠と赤い風車』、正岡容作の『髑髏柳(どくろやなぎ)』、自作の『すててこ誕生』『年枝の怪談』『二つ面』等がある。
出典:ウィキペディア

Пікірлер: 3
@user-yh9qs6gz3s
@user-yh9qs6gz3s 3 жыл бұрын
とても貴重な「北里」の証言ですね。 はじめは彦六師匠の口跡を楽しむのを目的としていましたが、次第に内容に興味は移り拝聴していました。 貴重な音源のアップ、いつも感謝しております。
@koukei0642
@koukei0642 2 жыл бұрын
このような貴重な話の出来る咄家はもういませんね!
@tetsuokiyama6509
@tetsuokiyama6509 Жыл бұрын
彦六の正蔵師匠が住んでいたという稲荷町の四軒長屋の、師匠も通っていた銭湯「寿湯」によく行く僕ですが、幼少期に新吉原のすぐ脇に暮らしていたと聞きとても親近感を感じた。 というのは、大門口があった場所から100mもない場所にあった待乳山小学校へ通っていて吉原最後の特殊飲食店 (引手茶屋) やカフェ―スタイルの女郎屋などを営んでいた者と同級生だったからだ。
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