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moka studio2020です。この動画は、三方ヶ原の戦いと浜松城について説明した動画です。
1569年、家康は遠江を統一すると、岡崎城が領国経営の上で西に寄り過ぎていたため、1570年に引間城に移り、引間城を取り込む形で浜松城を築城します。浜松は、複数の街道が交錯する陸上交通の要となる地でした。また、浜名湖を介した水運も発達し、港の管理と防衛を、浜名湖周辺に築いた諸城で行なっていました。
1572年10月、信玄は甲府を出立し、遠江に侵攻します。10月下旬には遠江の中心である府中を、11月末には二俣城を攻略します。12月22日、二俣城を攻略した武田軍は、複数の部隊に分かれて南下を始め、浜松城に迫ります。この時武田軍の兵力は2万、徳川軍は織田軍の援軍を含めても8千人だったとされています。ところが武田軍は、浜松城の手前で方向を変え、西に進み始めます。家康は、信玄が自分の領国を押し通っているのに、何の手出しもしなければ、遠江どころか三河衆の信頼も失い、存亡の危機に瀕するとして、家臣達の反対を押し切って決戦を決断します。なし崩し的に始まった戦闘は、徳川軍が押す場面もあったようですが、武田軍に中央を突破されると、後は各個個別に撃破されたようです。武田軍は徳川軍を執拗に追撃しますが、家康にとって幸運なことに、戦闘の終了には、既に辺りは真っ暗になっており、土地勘のない武田軍は、家康を取り逃がしてしまいます。信玄は、三河に侵攻すると、1573年2月には東三河の野田城も陥落させ、いよいよ家康は追い詰められます。ところが信玄は既に病のため進軍は不可能になっており、4月12日に陣中で没します。信長と家康は、最大の危機を脱することが出来たのです。
浜松城は、三方ヶ原台地の端部を利用して作られています。家康が築城した当時は石垣や天守はなく、土塁に囲まれた曲輪だったと考えられています。現在は開発が進み、主に残っているのは、天守曲輪と、本丸・引間城の一部です。天守曲輪の石垣は、家康の後に城主となった堀尾吉春によって築かれたと考えられ、野面積みの石垣は、天正期の雰囲気をよく残しています。
浜松城は、天正期の石垣を中心として、良好に残っています。中世以来連綿と続く城の在り方を一目で見られる城郭です。
【参考文献・サイト】
『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』 平山優 NHK出版新書2023年
浜松城の特徴 hamamatsu-ieya...
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