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松菱の閉店から20年、浜松の一等地が更地のまま放置されている。昔ここ(中区鍛冶町)には老舗百貨店「松菱」が営業していたが、平成13年(2001年)11月に閉店した。同店は店舗面積25,271㎡、本館と新館からなる百貨店で、昭和12年(1937年)にオープンした。県西部を代表する百貨店として確固たる地位を築いていたが、1988年には浜松駅ビル「メイワン」と遠鉄百貨店の相次ぐ開業により競争が激化していた。1992年にはその対抗策として、地下1階、地上10階建ての新館を増築して、県下最大の売場面積を有する百貨店となったが、商環境の変化などから経営不振に陥り、2001年11月14日に328億円の負債を抱えて経営破綻した。また、1994年に丸井浜松店、1997年には西武百貨店浜松店が撤退するなど中心市街地の求心力の低下が囁かれはじめた時期でもあり、松菱が閉店した日は隣接するザザシティ浜松がグランドオープンする1週間前のことだった。閉店後の2003年には浜松市のアサヒコーポレーションが開発事業者に内定し、土地を取得して同社による再開発が行われることになった。2007年には百貨店の大丸が出店を表明し、2010年11月のオープンを目指して、アサヒ社、大丸、浜松市の三者による基本合意がなされた。しかし、2008年のリーマンショックによる景気の先行き不安などの理由により、大丸の計画は白紙に戻されてしまった。その後具体的な動きは止まっていたが、2014年にアサヒ社は、地上8階建て、延床面積30,000㎡の市内最大級のオフィスビルを2018年夏に完成させることを表明したが実現に至っていない。
なぜ、再開発事業以外の選択肢として、土地の売却や分譲マンションにすることもできず、20年経った今でも前に進むことができないのだろうか。それは、2004年から始まった「松菱通りB-3ブロック第1種市街地再開発事業」がいまだに継続中であり、大丸計画に掛かった調査費や設計費など一億数千万円の補助金が浜松市からアサヒ社に既に支払われているので、法律上では商業施設を建てなければならない状況であるということが変わっていないからだ。アサヒ社に対する非難の声も聞くが、リーマンショックにより大丸の出店が白紙になるなど、ある意味不可抗力であるという側面も否定できない。ここまで来たら、浜松市とアサヒ社が歩み寄って解決しなければならないところだが、浜松市の鈴木康友市長は SNSで、アサヒ社に対して侮辱とも捉えられてもおかしくない発言をするなど、修復不可能な関係ではないかと推測できる。
問題なのは松菱跡地を何とかしようというマインドが低くなったということで、ほとんどの政治家は松菱跡地のことに触れることはない。あの人に睨まれたら選挙で勝てない。長いものに巻かれるのではなく、是々非々でなければ街はよくならない。
浜松市長鈴木やすとも事務所オフィシャルTwitter「松菱跡地の活用について」2019年3月30日
質問者「松菱跡地の活用方法について何かお考えがあれば教えていただきたいです。」
市長「あ〜これがね〜本当難しいんで。ま〜元々の経緯からいきますと、松菱が破綻した後、ある不動産会社が商業施設として再生するっていう提案して採択されて結局そこが松菱の跡地をを買ったんですね。ところがそれが実は真っ赤な嘘ということで、全く実現性のないもので、いつまで経っても商業施設としての活用もできなかったんだけども、結局、民間が持っている民間の土地で、我々も手は出せないんですね。いろんな提案はできたとしても提案も受け入れるかどうか分かりませんし、今、私たちが考えているのは、強制はできないけども勧告を出すことができる。その不動産会社に対して、松菱跡地の再生に向けてですね、積極的に取り組みなさいと。本当はですね、そこを取得をして再生してくれるところがあればいいんですけど、絶対に売らない、という方針のようでございますので、なかなか他の所がそこを買い取って再生するが難しいと、色々な知恵を絞って何とか再生に向けた動きが出るようにと、頑張っていきたいなと思っています。」