小田原合戦で秀吉に敗北した北条氏政の見どころ+氏政があの名将たちに籠城戦で勝利できたのはなぜ?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第11回)

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Күн бұрын

Пікірлер: 55
@magrander
@magrander 8 ай бұрын
小田原北条氏の最大版図を築いたのはこの人
@miyakoshim.4443
@miyakoshim.4443 3 ай бұрын
北条を滅ぼしたのも、この人w
@krkm9004
@krkm9004 Жыл бұрын
北条氏政「ご先祖様、この氏政に力を!!」
@yurara105
@yurara105 Жыл бұрын
伊東潤兄貴!!
@ガウ-l7l
@ガウ-l7l Жыл бұрын
実は優秀だったのかな 氏政さん 放送楽しみにしてます
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j 3 ай бұрын
終わり方が悪かったですね。 それに、氏政ほどの有力者にだけに、権力者からは、出来る限りのネガキャンして堕としたい対象でしょうし。
@今泉一郎
@今泉一郎 Жыл бұрын
ビジネスマンの組織における心構えが再確認でぎて参考になりました。 また、何かにチャレンジしている時に上手くいかない時はあきらめずに、好機到来するま打開策考えて、模索する重要性が理解できて良かったです。
@剛司小林
@剛司小林 Жыл бұрын
待ってました。😊
@pianochandaisuki
@pianochandaisuki Жыл бұрын
謙信を独力で関東から追い出したのは氏政の時代だからなあ。最大版図も築き最盛期を迎えた手腕はなかなかだよ。信長にも臣従して織田政権の枠組みの中で北条家が生きていこうと模索したし。秀吉に容易に降ろうとできなかったのは、関東に既にシステム化された北条の政治に介入されたくなかったのと国替を恐れたからだろう。北条のアイデンティティーの全ては関東だから。北条滅亡後、優れたシステムを継承したのが家康だね。
@miyakoshim.4443
@miyakoshim.4443 Жыл бұрын
秀吉に臣従したとて国替えなど無かった思いますよ。 長宗我部、上杉、毛利、島津、徳川、織田信雄などは、かつて敵対していて臣従したわけですが国替えなどありません。 北条滅亡後の関東を治めるため、徳川を移封させ、徳川の旧領には織田信雄を移封(拒否したので改易)させましたが、北条が臣従していれば彼らの移封(国替え)もなかったでしょう。 上杉を移封させる案も有力(三成や関東の諸将が推していた)で、もし上杉の移封とかになっていたら、やはり前田が上杉の旧領にところてん式に移されていたかもしれません。
@pianochandaisuki
@pianochandaisuki Жыл бұрын
@@miyakoshim.4443 徳川北条の勢力を温存させるほどお人好しではないよ秀吉も。彼らをそのままにすれば天下統一といえるかは疑問だし。小田原合戦のきっかけの名胡桃事件も秀吉の罠とも言われてるし、特に石田三成は北条討伐にかなり積極的だったようで、北条側の落ち度を懸命に探していた。後、信雄は移封に賛成してたが、家臣と国人の反対や運動にあってそれを抑えきれず改易にされたのが最近の説で、これも秀吉は狙ってた可能性は高い。
@miyakoshim.4443
@miyakoshim.4443 Жыл бұрын
@@pianochandaisuki そんなことはないでしょう、北条氏直が氏政が天正17年12月に上洛すると伝えていた通りに、約束通りに上洛してればよかっただけです。家康のように忠勤ぶりを見せつければ安泰だったでしょう。 徳川や北条が連合(ありえないですが)したとしても、どうということもありません。家康が臣従した年の初めに秀吉は諸事情により延期になったものの関東への陣触れを発し(徳川と北条を討つ)ており、北条と同盟しても万に一つも勝ち目がないと判断した家康は秀吉への臣従を選択しています。 名胡桃事件が秀吉の謀略というのも小説の読みすぎですね、同時期に北条氏邦(猪俣邦憲の親玉)が宇都宮国綱を攻撃しており、これも惣無事令違反です。 上洛して臣従することなく、法令違反(惣無事令)を繰り返していたわけなので、討伐せざるえない状況です。 (名胡桃と同時期の天正17年9月には北条氏邦が8000の兵でが宇都宮を攻撃、城下を焼き討ちしたあと多気城を攻撃してますが、氏邦は豊臣への臣従がいやだったのでしょうか、氏邦のせいで滅亡したようなものです)
@吉田昇-q3f
@吉田昇-q3f 9 ай бұрын
氏政に変わった時に謙信も上洛への道筋が出来たから、関東地方へは牽制するのみだった。だから、関東地方の反北条勢力は佐竹義重にシフトした。 武田勝頼も上杉景勝も領国を守るのに手一杯だったから氏政は歴代で一番の領域を確保した。 ただし、名胡桃城事件で有力大名の座から墜落したというだいどんでん返しとなった。
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j 3 ай бұрын
@@miyakoshim.4443さん 関東管領の名門たる、上杉家が、越後から会津に国替になっていますし、 北条は普通に国替を恐れていたと思います。 氏規が、のちに、北条家を大名として復活させましたが、関東から遠く離れた、畿内の河内の国ですし、 北条を関東から切り離すのは最低限の方向性だったのでは。 そりゃ徹底抗戦しますよ。
@フォード-i1w
@フォード-i1w Жыл бұрын
「戦」はそんな強くないけど「戦争」は強い 和睦という名目から実利を得るタイプだからゲームや映像的には全く映えない 里見とは和睦で上総下総ごっそり割譲&当主義弘の弟?の次代の里見義頼に氏政娘が嫁ぐ(=強く口出しできない) 宇都宮・佐竹との和睦(小牧長久手の延長線上で起きた沼尻の戦い)では下野の皆川氏の服属で下野西半分割譲・常陸内で国衆の江戸氏・大掾氏・真壁氏間で内輪揉めで佐竹は国内+蘆名絡みもあったりで身動き取れなくなる 佐竹や上杉はボロボロだったからこそ天下人秀吉への依存度高まり、北条はそれに対抗(+大国故に依存の必要性あまり無し)して家康と組んだのが勝敗の分かれ目になるという…
@平岡昭彦
@平岡昭彦 Жыл бұрын
もう少し北条が粘っていたら秀吉軍の方が先に兵糧が尽きていたらしい。
@ダンドレジーラウール
@ダンドレジーラウール Жыл бұрын
独眼竜政宗とか偉そうにしてるけど秀吉に日和っただけ
@砂川真一-m7n
@砂川真一-m7n Жыл бұрын
氏康存命中の話かもしれませんが、武田信玄や上杉謙信などの名将と渡り合った点は凄いと思います。
@真島吾郎-i2r
@真島吾郎-i2r Жыл бұрын
上杉謙信に関しては氏康死後の関東での勢力争いで上杉勢追い出して完全勝利してますからね氏政 謙信もよっぽど悔しかったのか氏政について 「雑魚」だの「自分の力量も知らずに俺様に挑む身の程知らずの馬鹿」だの書状でボロクソ貶してる模様
@砂川真一-m7n
@砂川真一-m7n Жыл бұрын
@@真島吾郎-i2r そこまでは知りませんでした。 氏康死後に謙信を関東から追い出したのはすごいですね。
@pianochandaisuki
@pianochandaisuki Жыл бұрын
​@@真島吾郎-i2r以外に知られてませんが、氏政は謙信をやり込めたのは凄いですよ。長篠で大敗した武田勝頼が武田北条上杉の同盟を画策するも謙信に武田とは同盟してもいいが北条とは無理だと氏政に嫌悪感を示していますね😮
@abcdefgghcnok
@abcdefgghcnok 11 ай бұрын
@@真島吾郎-i2r上杉謙信を追い出したは誇張しすぎ。 単に上杉謙信が北陸への攻勢を強めて関東への介入を減らしたから。 それに上杉が関東への介入を抑えたころには佐竹を中心とした北関東諸将だけで北条に対抗出来ちゃってるし、謙信が氏政を嫌っていたのは越相同盟を破棄されたことに対してでしょ。 氏政の言い分もあるだろうが、謙信からしてみればそれまで蜜月だった佐竹や里見との関係を断ってまで結んで関東での戦を終わらせたのに、裏切ってまた北条が敵になったんだからそりゃ怒るでしょう。 謙信は越相同盟と引き換えに反北条勢力からの信用は失ったのはかなり痛かったはず。
@吉田昇-q3f
@吉田昇-q3f 9 ай бұрын
​@@abcdefgghcnok 関東地方の戦国史ファンは畿内が中央政権を握っていて、それに注力してるというのを 重要視してないからね。 関東地方以西の中部地方の大名は畿内重視で関東地方は二の次だから。  上杉謙信は越相同盟を成立した翌年に徳川家康との同盟を成立させて足利義昭を支える織田信長との友好関係を継続してたから武田信玄への牽制は織田徳川に任せる体制が出来たので、北条と上杉との同盟は意味がなくなっていったから。
@太田資暁
@太田資暁 Жыл бұрын
いつも有難うございます。大フアンです。いずれ三楽斎資正のことをお聞きしたいです。」
@rosan617
@rosan617 Жыл бұрын
氏政も決して無能ではありませんが、相手が悪かった。 秀吉にはこれまでの常識が全く通用しない。
@北川裕治-l4g
@北川裕治-l4g Жыл бұрын
氏政は小田原五代で唯一のバカだとか言われてるが、本当は優秀なんでしょうよ。バカを相手にさすがの秀吉も大軍を自ら率いて攻めるわけがない。
@ダトウアキシノ
@ダトウアキシノ Жыл бұрын
北条方は、20万もの大軍で攻めれば兵糧が底をついて退却せざるを得ないだろうと踏んでいたのでしょうね。実際、謙信や信玄もそうやって退却したわけですので、「二度あることは三度ある」と思っていましたが、豊臣側には石田三成などロジスティクスを得意とする官僚がいましたし、秀吉自身も持久戦は望むところでしたでしょう。
@kN-bx1so
@kN-bx1so Жыл бұрын
北条氏なんて大河ドラマで扱えるぐらいネタも豊富やと思うのになんで家康をこするのかがわからへん…
@吉田昇-q3f
@吉田昇-q3f 9 ай бұрын
やるとしても伊勢宗瑞(北条早雲)一代でいいでしょう。
@レッサー-v1x
@レッサー-v1x 7 ай бұрын
@@吉田昇-q3f資料なさすぎやろ
@吉田昇-q3f
@吉田昇-q3f 7 ай бұрын
ゆうきまさみ氏の漫画「新九郞、奔る」はどうですか? かなり史料を参考にした漫画ですが。
@曜-u6u
@曜-u6u 7 ай бұрын
北条氏政ってもし秀吉に降伏したら領土は伊豆 相模 武蔵三国くらいになって大老なったりできたのかな?
@高田健一-l7l
@高田健一-l7l Жыл бұрын
武田も上杉も山道で運ばざるを得なく、兵糧の確保に限界があった。 一月も経てば底をつくので帰らざるを得ない。 秀吉は船を使っていくらでも運べただけでなく、海岸線を確保して北条側の補給を阻止した。 中世であっても補給能力は非常に重要である。
@おかポン太郎ー0kaponTarou
@おかポン太郎ー0kaponTarou Жыл бұрын
うさぎさん。かあいい。(*´▽`*)
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j 3 ай бұрын
現実路線の弟、氏規とは異なり、氏政、氏照の兄弟は、中央政権に頭を下げるという方針は基本的に無かったと思われます。 織田政権に臣従したと言われていますが、織田家から姫を迎える話も、信長から軽くあしらわれ、また、甲州征伐の際にも、織田軍からの協力要請は、北条は後回しでしたし、 滝川一益を関東に置いたのも、北条との間の信頼関係の希薄さも伺えますし、本能寺の変後の、神流川合戦にも繋がっていったのかと。 もし、心から織田に服属するつもりならば、滝川を援護しながら、織田軍に恩を売る行動に出たでしょう。 その流れから、織田政権の後継の羽柴からも、原則として、北条は警戒対象でしたし、仮想敵ではあり続けていたと思われますね。 かくして、家長たる、氏政の徹底抗戦の路線で家中はまとまります。 秀吉が、西国の長宗我部、毛利まで動員して、反対側の関東まで行かせているので、 秀吉の本気度がすごいです。待ってましたと言わんばかりです。 動員された大名とて、関東に領土が得られる訳ではないだろうに。 やはり、北条は最後まで関東王国の主として貫き通したかったんでしょうね。 そして、氏政の辞世の句は、やり切った清々しさに満ちていました。
@yogorouza1979
@yogorouza1979 Жыл бұрын
北条氏政と武田勝頼は過小評価武将の双璧。 どちらも最大版図を達成している点で同じ。 逆にそれが裏目に出て滅亡している点も興味深い。 無能の極潰し今川氏真が生き残るというのが歴史の面白い所。
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j Ай бұрын
勝頼、氏政の更に共通項としては、天下の趨勢が決まる時点で、天下人の仮想敵としての立ち位置から外されることを許されなかったことでしょう。駆け引きに失敗したというのもあります。 織田には武田の首級は宿願だったし、 豊臣には、北条の関東退去は宿願でしたし、これをもって、天下に号令出来る印でした。 国力の差から考えたら、犠牲の山羊以外の何者でもないのですが、 見せしめに使わされたのでは。 有力な大将を失った今川では、ただの、元おぼっちゃまでしかなく、殺したとて、取れるものも無かった。
@mop09drg
@mop09drg Жыл бұрын
上杉謙信や武田信玄を籠城戦で「撃退させた」はおかしいでしょうw。「撃退した」で良いじゃありませんかw
@吉田昇-q3f
@吉田昇-q3f 9 ай бұрын
1569年の武田信玄の小田原城包囲は完全なカムフラージュでしょう。  1561年の上杉謙信の小田原城包囲も関東の反北条勢力が飢饉で兵站がつきて包囲を解かざる得なかったからね。
@smile-kc2ld
@smile-kc2ld 8 ай бұрын
撤退させた、と言いたかったのかもね。籠城戦では撃退にはならんし。
@mop09drg
@mop09drg 8 ай бұрын
@@smile-kc2ld いずれにしろ、日本語の使い方がおかしいと思います。細かいことかも知れませんが、いやしくもTV局の歴史番組なんだからきちんとしてほしいのです。
@りつでん
@りつでん Жыл бұрын
敗北の原因(自分の考える) 秀吉を格下と見下してた 格下と思ってる秀吉にプライドを捨てられず頭を下げられなかった。
@ジョンソンジェレマイア
@ジョンソンジェレマイア Жыл бұрын
籠城戦じゃドラマ的に映えないなからなぁ。大河ドラマで1年持たない。
@nachan2583
@nachan2583 Жыл бұрын
そもそも、北条は秀吉と争う必要がなかった。秀吉に従属するために氏政が上洛予定だった。ここで沼田領問題で裁定が下されるが、名胡桃城事件が発生して惣無事令違反を犯す。これで、同盟関係にあった家康が秀吉と北条氏の仲介を断念した。家康との関係の断絶が敗因。無能とは言わないが、有能な武将とは言えない。秀吉と戦うなら家康との同盟は必須、籠城で勝てると思った時点で前世代の戦国武将 でしかない。
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j Ай бұрын
降伏に応じると見せかけて一族処刑というのは、よくあった話なので、 豊臣の目的は、あくまでも、関東から北条を消し、豊臣系大名に治めさせる事だったと見ています。 氏直も氏規も、命は助かったものの、関東退去は必須でしたしね。 北条の家臣も、ほとんど拾われなかったので、徹底しています。
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j Ай бұрын
降伏に応じると見せかけて一族処刑というのは、よくあった話なので、 豊臣の目的は、あくまでも、関東から北条を消し、豊臣系大名に治めさせる事だったと見ています。 氏直も氏規も、命は助かったものの、関東退去は必須でしたしね。 家臣団が新しい領主にほとんど拾われなかったくらい、徹底していました。 関東武士の多くが武士を辞め、神職や、農家になりました。
@又兵衛-y2o
@又兵衛-y2o Жыл бұрын
北条氏政を無能とまでは言わないが、有能ではないだろ。 豊臣軍の兵站能力の高さは四国、九州征伐を行っているんだから分かりきってる。 毛利だって戦の仕様が変わった事に気づいて秀吉に従い家を大きくしている。 何で地続きしている関東を守りきれると思い込んだのか理解できない。 田舎大名で時勢を読めなかったと言われても言い訳出来ない😅
@真島吾郎-i2r
@真島吾郎-i2r Жыл бұрын
実は豊臣サイドとは従属交渉してて氏政が上洛して秀吉に頭下げる予定だったのは史料から明らかになってます 問題は取次との連携が上手くいかず秀吉に連絡行っておらず秀吉激怒&沼田裁定などでグダグダになって開戦してしまったという感じで本当は秀吉と交戦する気はなかったようです(まあ開戦避けられなかったの落ち度なんでそれでボロクソ言われても仕方ないですが) また毛利に関してはこっちも輝元が最後の最後まで豊臣に臣従するのを拒否してて九州征伐に関してもあくまで"同盟軍"としての参戦で臣従したのも実は徳川家康より後だったりします 小早川隆景の粘り強い説得でようやく臣従 北条にも隆景のような存在が居たら
@user-yt2dw6l
@user-yt2dw6l Жыл бұрын
​@@真島吾郎-i2rそうなんだよね。官僚政治の悪い所が出たというか氏政も上洛しようとしたけど資金の調達にも苦労してたみたいだし
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