【ゆっくり解説】 西周滅亡 瓦解する周王朝と東遷の謎 西周史(後編) 【周 西周 東周】

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鳥人間 中国史三昧

鳥人間 中国史三昧

Күн бұрын

西周の滅亡と東周成立までの諸説について語ります
※申侯と晋の文侯の画像が同一のものになってしまっていますが二人は別人です。使いまわしてしまい、申し訳ありませんでした。
チャンネルメンバーシップ、はじめました。
/ @c-history
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Пікірлер: 105
@air5042
@air5042 11 ай бұрын
大学で専攻した人は別にして、ここまでありとあらゆる文献及び資料を使って、西周の歴史を解き明かしてもらえるとはいい時代になりました。ありがとうございます。 西周王朝は更に新資料が出てくると思いますので、その時を楽しみに待ちたいです。
@まんまるあやちゃん
@まんまるあやちゃん 11 ай бұрын
以前、周王を一人一人列伝形式で語って頂けたのもとても勉強になりました。 また、今回の様に一つの大きな流れとして語って頂けたのもまた、歴史の移ろいが際立ち、運命論と云ったものも見えて来ました… 考える事が沢山あり過ぎて纏まらない程勉強になりました。
@ずるん-z4r
@ずるん-z4r 11 ай бұрын
幽王の話は『嘘つきの羊飼い』そのまんまだし、この逸話はギリシャ文化が古代から中華に届いていたということになるのかな? それとももっともっと古い原典のある汎人類的な寓話なのか?
@qoamb410
@qoamb410 11 ай бұрын
幽王のオオカミ少年的話しは(笑)、脚色がある話しなのが納得出来ました。「清華簡」も2000年代に清華大学へ渡ったなんて書かれていたので、新史料の発見の可能性は高そうですね。周王朝は、連邦国家の盟主的な存在だったんだと感じました。王が在位していなかった時代があったり、お話し面白かったです。
@IsNova-yz8hg
@IsNova-yz8hg 11 ай бұрын
内容は別にして、最後の「終わり」が何故かツボにハマります。
@ラインライン-w9d
@ラインライン-w9d 11 ай бұрын
褒姒のエピソードを楽しみにしてたんですけど 全部見た上でやっぱり褒姒の存在そのものを疑ってしまいたくなりました 当時の資料などが出てきてるんだろうなとは思ってたけどまさかKZbinで解説してくれる人がいるなんて 毎回驚かされます 周王朝にたいするイメージが変わりました これからも中国史の動画楽しみにしてます
@kappanouen
@kappanouen 11 ай бұрын
『褒姒の逸話がフィクションの可能性が高い』という話であって褒姒、少なくとも幽王が新しい太子とした伯服(伯盤)の母親は確実に存在していました(史記では突然のこの太子の変更を伯服の母親、つまり褒姒の色香に迷ったせいである、と道徳面から批判的に書いてあるのでややこしくなる) 実際は幽王の太子を巡っての周辺を含めた政治闘争という側面が強いのかもしれません😗
@ラインライン-w9d
@ラインライン-w9d 11 ай бұрын
@@kappanouen 伯服の母に関する金文などが見つかれば大発見ですねいつの日かそんな日が来るかもしれませんね
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
@@ラインライン-w9d 褒国が存在したことは事実で、遺跡から遺物が発掘されてます。青銅器では、孚(浮)と表記されてます。現在でも、地名(褒河、褒河鎮、褒城県など)として残ってます。
@ラインライン-w9d
@ラインライン-w9d 11 ай бұрын
@@intelljp その情報確かであれば褒姒かあるいは褒姒に相当する幽王の側室にあたる人物の存在が出てくる可能性に期待が持てますね これだから考古学はおもしろいですね
@よう15さん
@よう15さん 11 ай бұрын
何か西周の最後も、殷の滅亡と同じく、他方面の征伐で頑張ってたら、警戒してた敵(殷の場合=周、西周の場合=犬戎)に隙を突かれて、 都と君主を滅ぼされた流れが一緒ですね。 殷も西周も、諸侯の人心を失って、最後の君主自体はそんなに暗愚じゃなかったかも知れないけど、最後の君主以前には王朝自体の求心力を失ってた感じがしますね。 全体的に西周の歴史は、金文の実際の歴史より、史記などの儒教的な価値観が入った、後世の文献で粉飾されている可能性が高そうですね。
@user-scorpioak
@user-scorpioak 11 ай бұрын
いつも興味深い動画をありがとうございます。今回も大変勉強になりました。 鄭の武公の動きはこの頃はどうだったのでしょうか?
@覇王花-r9u
@覇王花-r9u 11 ай бұрын
ここの魔理沙って王朝の崩壊を語る時は饒舌になるよねw あれ?申侯と文侯の画像が…と思ってたらやっぱりそうだったのねw
@ななしのよっすん
@ななしのよっすん 11 ай бұрын
ここのチャンネルの滅亡史と暴君暗君悪人変人紹介が心のオアシスです
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
褒姒は、前779年に褒国を攻めた際に手に入れたものです。伯服は翌年出生で、西周滅亡の前771年にはまだ7歳です。 褒国は、一説によれば、母系社会だったとも言われてます(「婦人称国及姓」)。
@kappanouen
@kappanouen 11 ай бұрын
【17:18~】これ(幽王の死)に先立って申侯・魯侯および許の文公が平王を申の地で擁立・・・ ↑これは佐藤伸弥氏の『周ー理想化された古代王朝ー』にも挙げられた竹書紀年を引用した『春秋正義』からの引用となるんですが、氏は後著で「これに先立って」が原文には無く春秋正義に引用時の私見注釈の可能性も指摘しています 平王擁立時期が多少変わる程度の話なんですがここから氏は「竹書紀年って…難しいね🙂」と結論してます(マジ)
@kappanouen
@kappanouen 11 ай бұрын
上記コメでは文章を短くするため簡単に書きましたが 「これに先立って」がある場合は平王派と西周との対立が決定的(分裂)になっていることとなり 無い場合は「王も太子(平王の弟伯盤)も〇んでしまったので」『仕方なく』平王が即位した・・・と、(いう”体裁”は少なくともつくろえることに)なります
@sunandsun
@sunandsun 11 ай бұрын
中興の祖が同時にやらかすパターンは初めてみた 面白いですね
@影森治-e1h
@影森治-e1h 11 ай бұрын
後輩に唐の玄宗がいるね 長く在位した君主が名君のままで終わるのは簡単なことではないようだ
@パオパオ-r2q
@パオパオ-r2q 11 ай бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
いつもご支援いただき、まことにありがとうございます!!! 大ッ変!励みになっておりますッ!!
@yo-sea-private
@yo-sea-private 11 ай бұрын
待ってましたー地下からの新資料
@yu521xuan
@yu521xuan 8 ай бұрын
kzbin.info/www/bejne/mZikkItrfr2hgrMsi=dSuv3I_6gYNiOJTs 東周王朝の春秋時代を参照できます。
@bwjbb475
@bwjbb475 11 ай бұрын
こんばんは。トリポリ港の戦いとはこれまた通な物を持ってきましたねえ。トリポリは少し余裕こいて隙を疲れた感じがします。油断は禁物ですね。 西周滅亡後編キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! なるほど前半は守ったら負ける!攻めろ!だったのに後半は上手く行かなかったのね宣王。 なんとまあ典型的な暗君なんでしょ。幽王。お!でも違う話をしてくれるのか魔理沙。あ!なんだかんだ典型的な内輪揉めで政治混乱させるのは立派に暗君ww 後継の東周も成立までにそんなんじゃ諸侯に置いていかれるわなあ。もう仕方ないね。歴史ブートキャンプ霊夢ww
@mukutinausagi
@mukutinausagi 11 ай бұрын
次は東周史でしょうか? 他の王朝解説も楽しみにしています
@武闘派のび太
@武闘派のび太 11 ай бұрын
一番乗り。夏の桀王、殷の紂王、そして西周の幽王で国が滅んだところが共通している。特に殷と西周は、作り話とは言え滅亡に女が絡んでおり、パクリかと疑いたくなる。これだけではないが、こういうの見るにつけ、史書の鵜呑みは禁物であることを肝に銘じたい。
@アレクシオス-p7t
@アレクシオス-p7t 11 ай бұрын
江青「全く、権力者の妻が個人的恨みで家臣を粛清したり、無茶な政治で人民を苦しめるなんて、どう考えても作り話なのに、無知蒙昧な反革分子はそんな嘘を何故信じるのかしらね。」
@TaroG2
@TaroG2 11 ай бұрын
「女が政治に口出すと碌なことがない」という風潮が今でもあるのは、昔の儒教精神が歴史を通じて伝わってきたからだと思いますね。それは中国、朝鮮、日本で顕著で、それが少子化の原因と言われてますからね。 まあ、現代史でも文革で毛沢東の妻・江青や、ルーマニアのチャウシェスク大統領の妻・エレナが夫の権力を傘にやりたい放題やってたので、この「女性が政治に…」が一概に間違いではないのも難しいところですが。あ、そう言えば安倍首相の昭恵夫人もそうかな?😅
@ナスタラン
@ナスタラン 11 ай бұрын
女に耽溺しすぎると、自らを破滅させる。とりわけ王のような至高の地位にある人物がそうなると、自らの身どころか…国をも破滅させる、というのを教訓として創作したのでしょうかね?
@正太郎-i3q
@正太郎-i3q 4 ай бұрын
同感です。褒姒にたぶらかされて滅びるって話はあれ、史実ではないって事実に衝撃受けましたよ
@ハンブラビ法典
@ハンブラビ法典 11 ай бұрын
褒姒といえば、原初の混沌から陽の気が取り出された後に残った陰の気の化身として生まれたという、九つの尾を持つ獣の姿をしたアレを思い出します。 幽王が死んだ際に家族を失った若き刀鍛冶は、復仇の執念からその身を槍の柄に変え…
@伏拉夫-r4g
@伏拉夫-r4g 11 ай бұрын
褒姒 was born from the union of the dragon's saliva and the maid of the palace.
@ドラゴンツッチー
@ドラゴンツッチー 11 ай бұрын
西周も殷王朝みたいに、中央集権化を目指した結果諸侯の反発を招いて、反乱が頻発するようになって、その内の一つに滅ぼされてしまった感じですね。宣王の時はまだ反乱を鎮圧できていたし、犬戎などの異民族などの襲来も何とか撃退できていたが、たびたび敗北しているあたり、限界が近づきつつあったように思います。幽王が太子を変えたのも外戚になりかねない申候の権力増長を防ごうとしていた可能性もあると思います。まあ、根回しが不十分だったので、反乱が起きたのでしょうけど…。(申候の反乱に手を焼いている内に犬戎が攻めてきた可能性が高そう。幽王の予想以上に反乱勢力の抵抗が強くて、本来犬戎対策用の兵力も反乱鎮圧に回したのだろう。) 史記で東周への以降がスムーズに行ったように書かれてしまったのは、司馬遷の時代には東周への以降の過程が諸説ありすぎて、どれが有力な説か決められなかった司馬遷がやむなくそのあたりの描写をカットした可能性があると思います。 個人的には携王と平王のどちらが正当な王か争っていて、最終的に携王が晋の文侯に殺された事で、やっと平王が即位式を挙げて正式に王に即位で来たんじゃないかと思います。(まあ、携王は虢公の傀儡だっただろうし、平王は申候の傀儡だっただろうから、どっちに転んでも周王の権力と権威はこれまで以上に失墜しただろうな…。)
@shou-sho
@shou-sho 11 ай бұрын
『史記』が二王並立を記さないのは正統の王は一人しかいない建前だからですよね
@m袖
@m袖 11 ай бұрын
Thanks!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
ご支援いただき、いつも有難く思っております……! ありがたや……ありがたや……!!
@diskokd5581
@diskokd5581 11 ай бұрын
オマージュには耐えていたんですよ。でもボクシングとかでも「完全に意識の外から打たれたんだ。耐えられまい🤔」ってあるよね。 唐突なSATSUGAIって霊夢のセリフにはやられました。
@軍鶏しゃも
@軍鶏しゃも 11 ай бұрын
幽王の最期は、「やればできる子」の傑や紂と違ってほんとボンクラなので愛嬌がある。
@wolverin00012
@wolverin00012 11 ай бұрын
ここから秦が統一するまで500年以上も春秋戦国時代という群雄割拠が続くのか…
@濱本貴寛
@濱本貴寛 11 ай бұрын
地下からの新資料…出るとしたら、魯・晋・鄭とかいった諸侯が可能性有りそうな気がします。
@taknar4020
@taknar4020 8 ай бұрын
つまり西周は後継者問題の末、宜臼特戦隊によって滅ぼされたってことか。
@yasufilooqula5051
@yasufilooqula5051 11 ай бұрын
結局、西周の最後の三代厲王、宣王、幽王は王権強化を図っていた節もあるが、漢の文帝、景帝や光武帝の様な撫民の試みは見られず、暴君・暗君である。
@長野業正-j9l
@長野業正-j9l 11 ай бұрын
そのうち東周の勃興から滅亡まで熱かった動画もお願いします。
@影森治-e1h
@影森治-e1h 11 ай бұрын
異姓の国・楚の記録に西周滅亡に関する詳しい異説(案外こちらが正しいのかもしれないが)が残ってるのが不思議
@茶聖
@茶聖 11 ай бұрын
宣王の在位期間が46年間なら、中興の祖的にはよく持った方じゃないですかね? これまた中興の祖である漢の宣帝は在位期間26年で、その後前漢が滅亡するまでに56年くらいですし、唐の中興の祖の宣宗は死後50年弱で唐王朝は滅んでますので中興の祖といっても、王朝の真ん中くらいの人物だと考えるから滅びるのが早く感じるだけなのではないでしょうか? まぁ…まさか周王朝がお家騒動で滅んでいたとは思いもよりませんでした。八王の乱=永嘉の乱のようにお家騒動の時に兵力供出のために犬戎を都の近くに引き入れて、チャンスと思った犬戎側がクーデターを起こしたり様々な混乱が女性によって国は滅んだ史観が誕生したのではないでしょうか?
@新党司馬遷
@新党司馬遷 11 ай бұрын
あるいはだけど、力を強めて文化的にも似通ってきていた犬戎を懐柔するために、王家に近しい女性を降嫁させてた、なんてこともあったやも。それが、王家のお家騒動に乗じて、援軍と称してやっちゃった、とか。
@gc8zacc3
@gc8zacc3 11 ай бұрын
数千年前の歴史は、こうして伝わったり途絶えたりしてるけど、現代の、特にデジタルのアーカイブは後世に残せるんでしょうかね・・・
@MrDeha6450
@MrDeha6450 11 ай бұрын
中興の祖がやらかして次の代に滅ぶ、そしてその後もごたごたして東周へと移行する。ここから周がさらに弱体化して春秋時代へと流れて、諸侯の中に「覇者」が現れる....そうこうしているうちに西の方で秦が徐々に力をつけていく(かなり長い停滞期もありましたが)流れになっている、と。
@yaekaki
@yaekaki 11 ай бұрын
「幽」なんて名前になるんだから、当時の人の認識として、ザ・暗君だったんでしょうかね。 諡号の動画も見てみようかな。
@harigane4773
@harigane4773 11 ай бұрын
まさかの霊夢だけ一差しどころかエンドレス舞www
@gundamTaro1192
@gundamTaro1192 11 ай бұрын
今回も面白かったです! 日本の古墳からももっと文字史料が出てくればいいんですけどねえ…
@ラインライン-w9d
@ラインライン-w9d 11 ай бұрын
日本の古墳から文字資料が出てくるのは本当にドキドキしますね どの程度漢字が古代に使われていたのか気になります
@cowcow47238
@cowcow47238 11 ай бұрын
埼玉古墳群の稲荷山古墳出土鉄剣とか震えますねー ワカタケル大王の字が刻まれてるとか正に歴史の真実とロマン!
@月見で一杯-t4w
@月見で一杯-t4w 11 ай бұрын
達人伝での滅亡のしかたが滑稽過ぎてもはやギャグシーンで笑ってしまった。
@mcfc2896
@mcfc2896 11 ай бұрын
春秋戦国時代の東周の様子も知りたいです
@雜賀由真
@雜賀由真 11 ай бұрын
確かに「愛人の為にのろし上げて滅びました」はアホ過ぎますよねー。
@伝説の麻婆豆腐
@伝説の麻婆豆腐 11 ай бұрын
時代に合わせて、正当化するために、話が作られて行ったんだなあって話ですね
@hietahappousai
@hietahappousai 11 ай бұрын
犬戎が秦なんじゃね?って説も聞いたことありますけど 仮に秦だったとすると結構秦ってサイコな国だなぁって...
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
秦が東遷した理由も犬戎(西戎)による圧迫が原因です。 通婚関係にあったりするので、文化的には近いのかもしれません。 西周滅亡・東周建国を期に、秦襄公は東周に服属して伯爵に任じられ、中華文化圏に入ることになります。
@バッヅョ
@バッヅョ 11 ай бұрын
HOGは俺もKYM動画見ていたので大好きだったぞ。
@ether10ful
@ether10ful 11 ай бұрын
東周の始まりあたりはどんな政治だったか動画観たい。
@EBIFRY20hey
@EBIFRY20hey 11 ай бұрын
一瞬のギニューに腹筋が無事タヒ亡
@madaisama9354
@madaisama9354 11 ай бұрын
もう国民総出で田畑を耕しつつ文献を掘り当ててはどうかな
@princ2024
@princ2024 22 күн бұрын
中国有960万平方公里除去山、河,还有近百万的平方公里的泥土地,这个任务交给你去办吧
@ちっちゃいちゃん-g6s
@ちっちゃいちゃん-g6s 11 ай бұрын
犬戎や鬼方は、馬に騎乗するという文化を知らなかったのかも(伝来してなかった)? 携王を伐った晋の文侯は尊王の志篤い名臣と言えそうだけど、彼も兄弟不和を起こして、子孫が家を乗っ取られる事になるとは、知るよしもなかったろう
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
周平王を擁立した際、「文侯之命」という文が作成され、晋文侯に秬鬯、彤弓・彤矢、盧弓・盧矢、馬が贈られてます。後の九錫の一部ですね。最初の覇者と言えるかもしれません(『国語』:晋文侯於是乎定天子)。
@小倉ネゲヴ
@小倉ネゲヴ 11 ай бұрын
うぽつです
@佐藤洋平-u5t
@佐藤洋平-u5t 11 ай бұрын
皆様に比べると低レベルな、重箱の隅をつつく類のコメントですが…晋の文侯の諱は仇のはずです。また、この時代は、他にも、杜伯(玄孫が士会)と宣王の死にまつわる話とか、鄭の桓公・武公とか、いろいろありますね。
@まめ-z4z5u
@まめ-z4z5u 11 ай бұрын
仕事終わりに、この動画でエネルギーチャージ😊
@pomelove9502
@pomelove9502 11 ай бұрын
内部勢力を叩こうとやっきになってたら外からの侵攻を受けた・・・やっぱり何らかの理由で狼煙が機能してなかったのかも?
@renngekisouhei8303
@renngekisouhei8303 11 ай бұрын
まってた
@yutakikuchi7633
@yutakikuchi7633 11 ай бұрын
殷も周も全盛期がかなり前半に偏っていると思いますが、 成文法もない時代に、祭祀を行い兵権等を分かち与えること自体が存在意義だった古代王権はそういう風に挫折していく定めだったのでしょうね それでもこの時代に始まる礼制という(まだこの時代まだ明文化されていない)規範意識がその後も永く影響力を及ぼしたのが 周の歴史的意義だったと言えるのでしょうか。
@ソクラテスくん
@ソクラテスくん 11 ай бұрын
どうも。 今日は誅殺、当日ですけども。 集合場所の鎬京に行ってきたんですけども、ただいまの時刻は紀元前771年を回りました。 ちょっと遅れて来たんですけども紀元前8世紀ちょっとすぎくらいに、鎬京に行ったんですけども。 救援の狼煙を挙げた後に行ったんですけども(烽火戯諸侯)。 命からがらまぁ驪山、待ったんですけども… 諸侯は誰一人来ませんでした。
@kappanouen
@kappanouen 11 ай бұрын
節子、それ幽王やない。零王や
@お多福-k7s
@お多福-k7s 11 ай бұрын
カスタム絵文字使いたいけど呼び出し方が分かりません 教えてください
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
コメントを書く際の左下の絵文字マークをクリックするとカスタム絵文字が出てくると思います!どうですか!?
@お多福-k7s
@お多福-k7s 11 ай бұрын
あっ、 😮 出ました 出ました。わざわざの返信ありがとうございました。お忙しい中ありがとうございました
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f 11 ай бұрын
ドンドコドコドコどっこから ドンドコドコドコどっこから を思ひ出すOP
@ヤキメシ-k4s
@ヤキメシ-k4s 11 ай бұрын
竹書紀年に何度も言及してるのに、コウメが出てこない……だと……?
@伏拉夫-r4g
@伏拉夫-r4g 11 ай бұрын
Children's songs of the Western Zhou Dynasty:月将升,日将没;檿弧箕箙,几亡周国。There is no first half in history books, the author of《东周列国志》 should have added it.
@伏拉夫-r4g
@伏拉夫-r4g 11 ай бұрын
The apperance of 褒姒 and the fall of the 西周 are both in this nursery rhyme. Of course this is not possible, but it is certainly recorded in the history books.
@伏拉夫-r4g
@伏拉夫-r4g 11 ай бұрын
The source of this quote is the Records of the 《史记-周本纪》.
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
東周の平王の即位後、鄭の武公・庄公が大臣になったのですが、平王は鄭に支配されることを望まず、虢公😅を大臣に代えようと試みます。これを聞いた鄭庄公は上洛して、平王に圧力を加えます。平王は謝罪しましたが、鄭庄公が受け入れなかったため、王子狐を鄭に人質に出すことになります。 立場が逆転してるわけですね。体裁が悪いので、鄭側からも公子忽を人質に出して、人質交換という形で決着します。
@user-ryokutya03
@user-ryokutya03 11 ай бұрын
魔理沙はやらないんかい!!!
@奈良岡昭宏
@奈良岡昭宏 11 ай бұрын
というか・・・ 褒姒の性格悪すぎじゃない?
@ff-ff-ff-ff
@ff-ff-ff-ff 11 ай бұрын
遺影ぃ~!ww
@伏拉夫-r4g
@伏拉夫-r4g 11 ай бұрын
宣王之时童女谣曰:“檿弧箕服,实亡周国。”于是宣王闻之,有夫妇卖是器者,宣王使执而戮之。逃于道,而见乡者后宫童妾所弃妖子出于路者,闻其夜啼,哀而收之,夫妇遂亡,奔于褒。褒人有罪,请入童妾所弃女子者于王以赎罪。弃女子出于褒,是为褒姒。 当幽王三年,王之后宫见而爱之,生子伯服,竟废申后及太子,以褒姒为后,伯服为太子。太史伯阳曰:“祸成矣,无可奈何!”---《史记-周本纪》
@hakui4313
@hakui4313 11 ай бұрын
KKOKKOKKO
@いでたかゆき-r8i
@いでたかゆき-r8i 11 ай бұрын
ーコメ、ラスト
@kimjong-un8361
@kimjong-un8361 7 ай бұрын
1928年、河南省洛陽市金村に東周王朝の皇帝の墓と思われる墓地が出現したが、その中の文物はヨーロッパ、アメリカ、日本に盗まれた。 6台の馬車と一緒に埋葬されており、内部の文化財は非常に美しかったです
@山神新樹
@山神新樹 11 ай бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
ご支援いただき感謝感激です!いつも大変励みになっております!! 感謝……圧倒的感謝……!
@和田高明-w7s
@和田高明-w7s 11 ай бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
ご厚意、感謝!感激!です!!! いつも大変励みになっております~!!
@太田真-z7g
@太田真-z7g 11 ай бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
いつもご支援いただき、まこと感謝感激ですッ!! ご厚意、大変励みになっております……!
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