どこからやって来たのか?1300年前の群馬にいた渡来人集団 多胡郡の謎

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古代ずんだミステリー

古代ずんだミステリー

Күн бұрын

Пікірлер: 180
@maelific2598
@maelific2598 5 ай бұрын
「むかしをかたる、たごのこひ」上毛カルタでしか知らんかったから参考になりました(倉渕村在住)
@qant8330
@qant8330 5 ай бұрын
羊太夫が奈良に上る際の中継所として名古屋の羊神社に屋敷を構えていたそうです、羊神社は群馬と愛知にしかありません
@野山美咲
@野山美咲 5 ай бұрын
群馬と愛知は方言が同じものが有ります
@かんらからから-h4c
@かんらからから-h4c 5 ай бұрын
群馬県南西部地域(西毛地区)には 渡来人の子孫と言われる【多胡】【田子】【高麗(こま)】【小間】姓の方が多数在住している。
@miya9816
@miya9816 5 ай бұрын
群馬町が高崎と合併する前には、群馬県群馬郡群馬町が、ありました。
@浄門道場
@浄門道場 5 ай бұрын
@@miya9816 千葉県千葉郡千葉町みたいな感じですね。大正10年までありました。
@りか-d4h
@りか-d4h 10 күн бұрын
ギャグもありましたね。グンマー人が東京で補導されて住所を訊かれ「群馬県群馬郡群馬町…」と答えたら嘘つくな!と怒られた。ってやつ
@miya9816
@miya9816 10 күн бұрын
@りか-d4h     そんな時は、「国会議員の福田さんに、聞いてくれ。」か、「福田赳夫国会議員の生家の住所だよ」と言った方が良いです。
@box6082
@box6082 5 ай бұрын
群馬の群の字にも羊の文字が隠れていますね。 羊の君(ひつじのきみ)。
@ひげさん-i4j
@ひげさん-i4j 4 ай бұрын
「羊太夫の伝説」というものがありまして。吉井の奥地に領地を持っていたと言われている渡来人ゆかりの豪族だったらしく、 毎日、都の朝議に空を飛んで参加していたという伝説が。有る時、政敵が空を飛ぶ道具を奪ったか盗んだか、朝議に参加できなくした。それを朝廷に「叛意あり」と疑われて、大群で攻め滅ぼされたという。
@なた豆-n4y
@なた豆-n4y 4 ай бұрын
めちゃくちゃ納得した
@天月龍
@天月龍 4 ай бұрын
ほ、ほー
@tare8863
@tare8863 3 ай бұрын
君の羊で我が君、つまり天皇の羊という意味かもしれないよ。
@元ラーメン屋のナガさん
@元ラーメン屋のナガさん 4 ай бұрын
高齢の母の旧姓が多胡なので、他人事とは思えず視聴させて頂きました😊1000年以上も語り継がれる名前で歴史のロマンの延長線上に自分たちが生きていると思うと、有難くて仕方ないです😆気付かせてくれて感謝です😌
@柳花-z8n
@柳花-z8n 5 ай бұрын
ちなみに現在の多野郡の名前の由来は多胡+緑野です。 最近修復して亀裂と前後逆にくっつけられた笠石をもとに戻したそうです。 逆に接着した理由はGHQに接収されないように近くの桑畑に埋めて、戻した時に間違ったためだというのを聞いたことがあります。
@SEE-BOSS-burst
@SEE-BOSS-burst 5 ай бұрын
小池都知事と同い年の伯母は、「子供のころは野ざらしで墨と紙をもって行き、自由に拓本取れた。」といっています。 実家には残っていませんが、吉井で聞き込みすれば、多胡碑から直接取った拓本出てくると思います。
@roger0908haruhi
@roger0908haruhi 5 ай бұрын
ずんだもんが勉強熱心でにこにこ笑顔。 変わった説には変わった説だとちゃんとことわりを入れたうえで解説する。 ゲストの解説役が否定を殆ど用いない柔和な人たち。 そんなこのチャンネルが好きになりつつある。
@tamachan8587
@tamachan8587 5 ай бұрын
群馬県民のDNA分析をすると興味深い結果が出るかも
@たかし-y6p
@たかし-y6p 4 ай бұрын
昔小島伸幸って言うハーフみたいな顔立ちのサッカーのGKいたけど その人の出身も群馬だったなぁ
@neosaburo
@neosaburo 4 ай бұрын
あの辺り、群馬県と埼玉県境付近は、「郡」が細分化されて密集しているんですよね。それだけ、土地からの「上がり」が多かったという事だと思います。こういった細分化された郡は、他では九州の筑紫平野、畿内、吉備、千葉付近に見られます。いずれも古代の有力者がいたと言われる地域ですね。
@sss9731
@sss9731 5 ай бұрын
ほかにも群馬で言うと甘楽(かんら)が加羅のから来た人の地名だったりっていうのも聞いたことあるような
@美穂飯田-i6i
@美穂飯田-i6i 5 ай бұрын
邑楽(おうら)もあるよ。
@NI-oy9om
@NI-oy9om 4 ай бұрын
愛知には設楽(したら)がある。
@tatewaki84
@tatewaki84 2 ай бұрын
​@@美穂飯田-i6i FC邑楽って言う全日本少年サッカー大会の強豪がありましたね。
@ak47andak74
@ak47andak74 5 ай бұрын
上野国一宮の貫前神社の主祭神の一柱である姫大神も、当地に移住した高麗系渡来人の養蚕・機織りの神様だったという説もあるそうですね。
@熊猫太郎
@熊猫太郎 4 ай бұрын
群馬って岩宿遺跡とか古墳時代遺跡とか凄いのがあるんだが何故か調査が進んでなくて、この面でも秘境なんですよ。
@osamuarima1118
@osamuarima1118 5 ай бұрын
群馬県には大胡とういところもあるんだぜ。
@白猫ロイ
@白猫ロイ 5 ай бұрын
群馬を考察すると、現代の地図よりも海や船着場(津)が内陸へ入り込んでいた事で変わってくると思います。また、日本武尊の東征や坂上田村麻呂の蝦夷討伐は大和朝廷と敵対関係の国が存在していた事を意味します。貞観地震や富士山の噴火等の大災害があったために記録等がかなり少ないのが大変残念です。
@nora-ou7gd
@nora-ou7gd 5 ай бұрын
まぁ…例の徳川埋蔵金の話しの頃は、高崎市まで、船で来られたようですしね~ うちの親戚が、倉賀野町にありまして、昔々なので、今は無いのですが、家の裏に、階段があって、桟橋と船着場跡だと、亡くなった祖母の母親の兄?だった気がする爺さんが、その船着場跡で、釣りをしていて、教えてくれましたよ。
@ひげさん-i4j
@ひげさん-i4j 4 ай бұрын
@@nora-ou7gd 倉賀野から北に分岐すると、吉井。ここは「吉井がね」という火打ち金の産地として有名だった。火をおこす時に打ち合わせると、大きな火玉が1尺以上、ころころと転がったという…
@たかまる-v3u
@たかまる-v3u 5 ай бұрын
羊の年、羊の日、羊の刻に生まれたので羊大夫。藤原鎌足の後胤なんて伝承もあります。 凄いのは産業発展への貢献と考えられます。 まずは石工技術。 古墳の石室なんかが目立ちますが、実用性としては山野の斜面を平らにする際に使われ、住居や田畑を作ることに活用し重宝されたことでしょう。 次に養蚕、機織り。 これも技術者集団たる渡来人の得意分野です。明治時代、隣町に富岡製糸場ができ、殖産興業、富国強兵で絹の輸出による外貨獲得、国力増強ができたのも偶然ではないでしょう。ちなみに、桑の実はこの辺ではどどめと言い、子どものおやつになっていたと思います。 3つ目に物流。 馬を中央までの拠点ごとに置き、乗り継ぎにより長い距離も短時間で移動できることになればそれは革命的なことだったと思います。 馬の生産地である毛野から信濃、美濃へと繋がる中山道の往来も増え、宿場(宿馬?)が賑わっていくことになったのかもしれないと思うとロマンを感じます。 その物流網に秩父で取れる天然露出銅、つまり和銅を乗せて毎日運ばれてくるとなれば、それは元号を変えてお祝いするほどの成果と認められたのでありましょう。
@rokumatsu
@rokumatsu 5 ай бұрын
和同開珎が出来たのは馬による物流網の構築と鉱山開発に支えられたものだったのですね。ということは羊太夫の権勢も機動力も大きなものになったと思われますので、朝廷が警戒して撃ち滅ぼしたという伝承も納得です。
@桃太郎-b2q
@桃太郎-b2q 5 ай бұрын
ずんだもんの古代歴史ミステリー、とっても面白いのだ。😃
@TM-bu5zp
@TM-bu5zp 5 ай бұрын
多胡郡には馬庭念流という古武道もあって400年程の歴史がある
@野山美咲
@野山美咲 5 ай бұрын
馬庭念流は柳生新陰流の元なったんですね
@のぼちゃん-b1z
@のぼちゃん-b1z 4 ай бұрын
@@野山美咲 念流と陰流は別系統。
@さん宿さん
@さん宿さん 4 ай бұрын
地元の馬庭小では念流の授業があり運動会で演武披露します
@そりゃバーラミ
@そりゃバーラミ 5 ай бұрын
群馬では、更に昔の古墳時代をみると、馬の埴輪や(千葉の芝山古墳ほどではないけど)ユダヤ人のような埴輪がありますよね。 馬はいないといっているのに馬の埴輪があります。更に軍人のような人々。 また、120m以上の大規模古墳の数も奈良や大阪に次ぐ、岡山と同じ13. 何かあるのかもしれません。
@black_Lights1
@black_Lights1 4 ай бұрын
千葉は量がとても多いですよね。 群馬県も量は多いですが、大きさもでかいですよね。なんか東日本一位とか。なんとか。
@さかとし
@さかとし 5 ай бұрын
音楽プロデューサーの多胡邦夫さんも高崎出身
@マリン-h7u
@マリン-h7u 5 ай бұрын
現吉井町だね 風格の漂う石碑ですね
@genchadego
@genchadego 2 күн бұрын
群馬は魅力的な県ですね。海進期の水際の位置とも考えると、昔の栄え様について想像するのはとても楽しいです。 その後も、大陸の政局から渡ってきた人達が影響を及ぼし続けていたとかいうことを考えると、文章に残らないロマンが詰まっているように思います。 さすが、”秘境”です。
@kenzenitti
@kenzenitti 5 ай бұрын
多胡の地名は残ってますよ大字ですけどね。多胡小学校も私の母校です(大字塩ですけど)。    辛科神社という大宝年間創建の神社も歩いていける範囲にあります。新羅系の人々による神社らしいですね。 レトロ自販機で有名な七輿山ドライブインも羊太夫由来の地名ですね。裏に立派な古墳が有って羊の家族が埋葬されています。 そういえばですけど、外国人にしか見えない地元の人が居ましたね。親父さんとその娘さんが西洋人の様な彫りの深い赤ら顔でしたね。45年以上昔ですから当時は外国人など全く観ない田舎でしたけど、その家族は普通に生活してましたね。戸籍上全くの日本人なんですけどね。
@鈴木章子-x1h
@鈴木章子-x1h 4 ай бұрын
地の塩、世の光 山田郡が何故みどり市に?足尾銅山! 迦葉山天狗、多くの古墳、長崎、御牧。興味深いワードばかり!
@鈴木章子-x1h
@鈴木章子-x1h 4 ай бұрын
穂積・藤原etc.
@鈴木章子-x1h
@鈴木章子-x1h 4 ай бұрын
私の母は大間々・桐生出身。 子供の頃から不可思議さを感じていた。
@manbaken879
@manbaken879 5 ай бұрын
多胡さんって名前の知り合いがいる。胡(えびす)人が多いって地名由来かな。
@ひらがな-t2d
@ひらがな-t2d 5 ай бұрын
なるほど‥
@youyah7440
@youyah7440 5 ай бұрын
名前から察すると大昔に今のトルコ系あたりが来たのかな?
@manbaken879
@manbaken879 5 ай бұрын
知人だけかもしれないが堀深く目の大きめな美人(昔は)なのでそうかも
@key7star
@key7star 4 ай бұрын
群馬在住ですが、群馬には歴史的な神秘が多く魅力的ですが、天狗やダイダラボッチなどのオカルト的な神秘も多くあるので夢が尽きることがありませんw
@りか-d4h
@りか-d4h 10 күн бұрын
赤城大沼の大蛇伝説も気にいると思います。吾妻鏡にも群馬が多く登場する。 武尊山は山岳信仰から成るヤマトタケルの山ですし、天狗は山岳信仰から発生した修験の山伏です。 天狗で有名な沼田の迦葉山は、昔は幕府の庇護下にあり大変栄えた歴史を持ちます。
@野生沖田
@野生沖田 4 ай бұрын
前橋自身が昔は厩橋ですからね。 南牧の地名など馬🐴が多かったのでしょう。 馬が多いということは軍事力があるということ。 昔は南より北の道路がメインだった。古墳も多いし、ハ―ト型土偶など他の地方に無いものも多い。 関係ないが総理大臣の出身地も群馬が1番。 昔から日本の中心地の一つと言って過言では無いかな。
@鈴木章子-x1h
@鈴木章子-x1h 4 ай бұрын
そんな高崎市金古に統一教会過激分派サンクチュアリ協会日本本部がある危険⚠
@NI-oy9om
@NI-oy9om 4 ай бұрын
総理大臣を一番輩出しているのは群を抜いて山口県ですね。第二次世界大戦以降であれば群馬県ですが。
@mmk2165
@mmk2165 5 ай бұрын
一つの市や町を見てみると、戦後に非常に発展した中心街は、その後車社会になって郊外の方が発展し、中心街はひどくさびれているところが多い。また国単位で見ても中世に発展した都市は現代では全くさびれてしまっているところが多い。 群馬県も当時は東日本の中心的な役割を負って、経済的にも中心的な存在だったのだ。その後江戸時代以降南の東京湾近傍が中心となり、北関東は重要度が下がり現代に至っている。現代の関東平野の人口分布が南にかたよっているのは江戸時代以降の日本の歴史のためなのである。 古墳時代から平安時代頃の歴史を見るには、大きな古墳が点在する北関東をもっと詳細に研究する必要がある。
@Dengyo-yd2de
@Dengyo-yd2de 5 ай бұрын
八高線高麗川駅のあたりは、約1300年前に高句麗から渡来人が来て高麗神社が設立されているので、多胡碑と関係あるかも
@宇宙人-u2z
@宇宙人-u2z 5 ай бұрын
高句麗と高麗は別国なのに高麗神社なんですね🤔
@nora-ou7gd
@nora-ou7gd 5 ай бұрын
​@@宇宙人-u2z 高麗の王族が、逃げてきて、そこに住んだんじゃなかったかな? 高麗の高貴な人達が住んでいたので、神社⛩️に祀ったじゃ無いかな? なので、近くに流れている川が、高麗川だった気がする
@タキタロウ-f1g
@タキタロウ-f1g 5 ай бұрын
木暮(コグレ)さんは高句麗から来た渡来人らしい。
@本人もお箸もクルンッ
@本人もお箸もクルンッ 4 ай бұрын
​@@タキタロウ-f1g  そうなると、面白いのは木暮の発祥されている地区から、北へ車で5分ぐらいのところに田子さんが住んでいる地区があるので、関連がありそうですね。
@新チャン-o7u
@新チャン-o7u 4 ай бұрын
我の高校時代の同期生に戸来君と言う名前があったね! 渡来人の子孫かもね!
@GAMES-hi2wr
@GAMES-hi2wr 4 ай бұрын
群馬ってお前どう考えてもハーフだろってゆう顔の戸籍上純日本人結構いるよな
@MrKapchik
@MrKapchik 5 ай бұрын
少なくとも1700年代から農民として先祖代々この辺に住んでるワシ 多胡碑に限らずここら辺数キロ内では古墳やら遺跡が大量にある 5年ほど前にも多胡碑から5キロ位の所で道路拡張に伴ってそこそこ立派な遺跡が出て発掘調査していた(T007遺跡) 江戸以前は引っ越しなどは簡単には出来なかったと思う故、ワシの家系は土着民だと思っているが、羊氏が連れてきた6000人の末裔なのかは全く不明 遺伝子検査によれば、ワシと親父のハプログループはD1a2a1c系統で縄文由来の日本固有種(Yap+)で、いわゆる渡来系ではなかった 情報元が眉唾だが物部氏の末裔に見られるグループとのことだが謎は深まるばかり…
@浄門道場
@浄門道場 5 ай бұрын
素晴らしい。父方が、縄文系なのですね。もしかしたら群馬県に大和朝廷の支配以前から先住していた、八束脛の末裔かもしれません。八束脛って、実は縄文系弥生人だそうです。八束脛の骨があるという伝説の水上、八束脛洞窟遺跡から、縄文系弥生人の再葬墓が発見され、最近の遺伝子研究では縄文系と判明しております。八束脛は足の長さが八束、握りこぶし8つ分。それくらい足が長かったそうです。足が長いのも縄文系の特徴です。
@MrKapchik
@MrKapchik 5 ай бұрын
@@浄門道場 私事に反応して頂き嬉しく思います 先述のハプログループは、100%の縄文系のようです この件を少し追って調べた所、wikiに多胡羊太夫は藤原家に関わり、物部氏の後裔説(吉田説)があると見つけ、驚いています 当家の家紋が「下り藤」であり、藤原家と何の関係があるのか全くの謎でしたが 上杉氏と武田氏が凌ぎ合い、織田家~前田家が治めていたこの土地にありながら、大昔の先祖たちが多胡羊太夫伝説にあやかり称したかも知れないと思うと、浪漫が溢れます 私の一族の足サイズは全く普通ですが、八束脛洞窟遺跡から出土したのがご先祖たちで、ここに流れ着いた末裔であれば嬉しいものです ありがとうございました
@socks_cat356
@socks_cat356 5 ай бұрын
そう言えば、多胡と言う名前の人がいた。
@うっかり八
@うっかり八 5 ай бұрын
神の子羊って言う意味ならイエスの血筋かも知れないですね。
@ua1472
@ua1472 5 ай бұрын
あー、胡が渡来人で馬を扱う人ならなんかイメージ湧くな 長野の牧がつくところは馬を育てて献上してたっていうし。馬を扱う術を教えてもらって馬を育ててたのかもとか想像したわ
@nora-ou7gd
@nora-ou7gd 5 ай бұрын
確か…長野県と群馬県との県境辺りから、とても大きな荘苑があって、その荘苑の主が、群馬県側で馬を生産して、大陸に、戦の時に馬を補充?売っていたのか?解らないんですが、大陸に馬を出荷していたという話しは、ありましたよ。 在郷の民俗学かな?そんな人の蔵書?冊子に、書かれていたと思います。
@上野武彦-o8t
@上野武彦-o8t 4 ай бұрын
家の母方は群馬県藤岡市日野地区の、山間地のその羊大夫🐏の 末枝らしいのですよ。
@saek343
@saek343 4 ай бұрын
この地域や埼玉の渡来人が坂東武者の先祖の一つ説は濃厚ですね。
@うめだ-w2g
@うめだ-w2g 5 ай бұрын
勝道上人伝という漫画がこの動画の話をさらに広げる素材が盛りだくさんです。楽しみに待ってます。
@工作と修理で遊ぶ
@工作と修理で遊ぶ 2 ай бұрын
現物を 見てきました 疑いようが 在りませんね 分からないが 凄い歴史ですね。
@風魔忍者ぶきみ丸
@風魔忍者ぶきみ丸 5 ай бұрын
ヒッタイト→秦→秦氏→長宗我部という説もあるのだ❤
@なた豆-n4y
@なた豆-n4y 4 ай бұрын
羊って名付けた理由がキリスト教で説明できそうな気がする。神社の存在も、カモフラージュだったら面白いな。
@libraxx666
@libraxx666 5 ай бұрын
倉渕の権田村って、もしかして権田栗毛由来なんですかね?
@うめだ-w2g
@うめだ-w2g 5 ай бұрын
菅原道真みたいなストーリーですね
@浄門道場
@浄門道場 5 ай бұрын
千葉県の多古町はアイヌ語タプコプが語源と言われてる。
@チーズホンデュー
@チーズホンデュー 4 ай бұрын
アイヌ語と言ってもそもそも北海道アイヌはカムチャッカ方面から14世紀(1,300年代)以降のイヌイット渡来人(DNAで証明されている)。 そのアイヌ語という表現はいささかおかしい。この多胡(緑埜)や千葉一帯は大和政権と戦った蝦夷が残り集められ特殊集落が点在した記録がある。 (いわゆる白山神社と東光寺)言葉に関しては「蝦夷語」と言った方がシックリ来ると思う。
@浄門道場
@浄門道場 4 ай бұрын
@@チーズホンデュー 千島アイヌはわからないけど、北海道アイヌは縄文人に近いらしいです。(DNAで証明されている)y染色体、ミトコンドリア、核ゲノムDNAでみたら、オホーツク人の末裔だといわれる樺太ニブフ族との混血が少し見られますが、ベースは縄文系です。 人骨の形質的には縄文人、続縄文人、擦文文化人、アイヌと連続性が見られます。 あと、アイヌ語じゃなくてエミシ語ではないかという意見もあるが、エミシ語という言語は文字資料がなく、どういう言語が話されていたのかわからない言語コードにもないのでアイヌ語としています。 また、シムクル、西の人、日高アイヌのことですが、彼らは東北地方から北海道に移住したという伝承があり彼らの話す沙流方言は、本州アイヌ語の流れをひいているという説もあります。 また、上総下総では9世紀に蝦夷の俘囚が配置されて集落があった記録がありますがその後東北に帰ったみたいで、特殊部落は、千葉県は関東地方の中でも特に少ない県になります。
@kazupon1967
@kazupon1967 5 ай бұрын
千葉県成田市の方に多古町ありますね。関係は?
@zinhara68
@zinhara68 4 ай бұрын
多胡碑記念館の女性職員に景教について尋ねたところ、「その件についてはお答え出来かねます」でした。キリスト教伝来の歴史を覆す事実については、肯定も否定もしませんでした。多胡羊太夫については、旧吉井町出身なら誰でも知っている話で、多胡碑記念館には上野三碑のレプリカが展示されています。入口は見落としがちですが、皆さん是非、連休中に多胡碑記念館に訪れてみては如何でしょうか?
@のぼちゃん-b1z
@のぼちゃん-b1z 4 ай бұрын
上野三碑(それぞれは別々の物)が渡来人集落の結界を成していた、という説もあるね。 その前の「車郡」の由来はなんだろう?車輪を作るには高度の技術が必要だから、やはり渡来人系集団由来かな?
@雨人-l4o
@雨人-l4o 5 ай бұрын
渡来人が多く住んだ土地、それは何も無かった土地だからこそ、なんでしょうね。 群馬は昔から日本海側の新潟や長野との(どちらも山があって険しいルートであるにも拘らず)往来が盛んであったとも言われてますので、そっちのルートから渡って来たのかもしれませんね。三碑だけでなく渡来人所縁の神社や古墳なども多く見られますので、歴史好きな方々には群馬県は面白い土地かもしれません。
@すなこ-h1e
@すなこ-h1e 5 ай бұрын
大宮の氷川神社まで海に繋がる湿地帯だったそうだから、群馬との往来は川経由で海路に繋がっていたのでしょう。昔は埼玉に海あった笑
@加藤と鉄道の物語コメント専
@加藤と鉄道の物語コメント専 4 ай бұрын
多胡辺りは私の地元です。ちなみに隣の甘楽郡という名前も朝鮮由来の名前です。
@従五位上
@従五位上 5 ай бұрын
尼子氏に仕えた武将で多胡って居たね
@山手線-g3o
@山手線-g3o 4 ай бұрын
文武の名将で多胡家家訓を記した「多胡辰敬」。上野多胡郡が名字の地で祖父の代に応仁の乱で活躍し出雲に領地与えられ移住。
@セッター-t9s
@セッター-t9s 4 ай бұрын
富岡製糸場に行ったついでに見に行ったことある。 1300年以上昔の碑に現代人にも読みやすいフォントにびっくり。 歴史好きの方は草津温泉など群馬を観光したついでに見に行くといいよ。
@jsetagaya1482
@jsetagaya1482 4 ай бұрын
まだまだ群馬には未開の地があるのですね
@たろ翔-s4g
@たろ翔-s4g 4 ай бұрын
群馬は今も昔も外国人を受け入れる場所なのか?
@tagomanzo
@tagomanzo 4 ай бұрын
じいちゃんからは先祖はモンゴルからきてるって言われてたのと藤原つながりでうちの家紋は下がり藤なんだよって聞いてたなぁ。後、国定忠治と遠縁って言われてたからその子孫の人達も含めてDNA鑑定してみたら何かわかるかも。
@ryu_sagami
@ryu_sagami 5 ай бұрын
流石だなグンマー
@complexbaby6312
@complexbaby6312 4 ай бұрын
甘楽町には「高麗」と書いて「こうま」読みは「コオマ」姓が多く定住しています
@mizsus
@mizsus 4 ай бұрын
呉越の子孫は弥生時代に朝鮮半島からきているだろうが、日本の越はコシの国で超えてたどりつくところ。 越とは関係ないでしょうね。ちなみに呉人の村なら徳島にあるし呉人の苗字も四国に結構あるよね。広島の呉くれは阿波の国から行った人たちが作ったと神社関係調べていた時に聞いたことあるよ。徳島の呉人の村はもしかすると兄媛弟媛伝説とのかかわりがあるかも?
@いち私有宗教家
@いち私有宗教家 4 ай бұрын
法隆寺の隣町の奈良県安堵町には、胡内という苗字がいっぱいある。多胡碑と何か関連があるのか?
@user-hm9nm4uy6z
@user-hm9nm4uy6z 5 ай бұрын
シルクロードを渡ってきたペルー系の人達が祖先だとすると現在ではかなり薄くなってるかもしれないけど、この辺りは容姿が少しエキゾチックな方達が多かったりするのかな?
@ttamurinn3902
@ttamurinn3902 5 ай бұрын
シルクロードは中央アジア ペルーは南米でナスカの地上絵が有る所⁇距離感が……
@user-hm9nm4uy6z
@user-hm9nm4uy6z 5 ай бұрын
ペルシア系の間違いですね。
@shamrock6378
@shamrock6378 5 ай бұрын
チリ地震の時に高知まで津波が来たから南米から波に乗ってきたのかもしれん
@tenkafun17
@tenkafun17 5 ай бұрын
櫻井敦司………
@ノラエモン-w7m
@ノラエモン-w7m 5 ай бұрын
多湖輝はスマトラ島出身
@Saitama-kenmin
@Saitama-kenmin 5 ай бұрын
群馬県と言うと文化水準の高い土地と言うのと上州新田郷三日月村・木枯し紋次郎から連想する博徒の地っつう相反するイメージが在ります。あとは高崎ハム、赤城乳業、スバル(笑)🙄🤔🤨😁😜🤣
@かなりブンブン
@かなりブンブン 5 ай бұрын
赤城乳業とか言うトラップ
@りか-d4h
@りか-d4h 5 ай бұрын
赤城乳業は埼玉
@渡良瀬ペンギン
@渡良瀬ペンギン 5 ай бұрын
深谷はまぁ群馬だからw
@shamrock6378
@shamrock6378 5 ай бұрын
ああ、大宮まではOK👍 そこから上はだいたい群馬栃木
@ひげさん-i4j
@ひげさん-i4j 4 ай бұрын
スバルというか富士重工の前身は、零戦の中島飛行機
@北アルコル
@北アルコル 5 ай бұрын
千葉にもタコという地名あるよね、たこ米の
@蒼美彩
@蒼美彩 5 ай бұрын
ここのコメント欄拝見していると 吉井町出身の私から見ると とても、親近感がわきます(˶'ᵕ'˶ )‪︎
@tks6908
@tks6908 5 ай бұрын
渡来人が東山道を通って入ってきたのは想像できる。道中の諏訪も渡来系の影響を受けているし。甲子夜話の話、お達しを出した藤原不比等でなく石碑を作った一族が十字架を埋めたと見るのが確かにしっくりくる。余談。BUCK-TICKの異質な世界観、子孫かも。
@kennyby
@kennyby 5 ай бұрын
群馬は未開の地じゃねえぞ。埼玉の羽生みたいなところよりはずっと都会だぞ。
@チーズホンデュー
@チーズホンデュー 4 ай бұрын
結局こうやって渡来人が訪れる(侵略する)ということは原住民(広義の縄文人)は追い出される。その人たちは蝦夷エミシ(夷エビス)と呼ばれ同化せず反故した者も。 それを集められたものが特殊集落(別所)というわけで。この多胡地域でいえば近所の緑埜(美久里)の別所となる。 そのすぐ隣に鬼石という地名があるがオニ(エミシ)氏といい、つまりエミシ(エビス)の集められた別所由来の地名である。
@コボルイッツ良夫
@コボルイッツ良夫 5 ай бұрын
多胡って、苗字の人 知り合いに居ますよ。任那の人が 帰ってきたんじゃないですか?
@しなもん-y8v
@しなもん-y8v 3 ай бұрын
保渡田の古墳群あたりは色素の薄い人達が生まれます 茶髪色白茶瞳で聞いても純日本人だよーって言うんですよね 歴史の古さや昔からの地名などからミャオ族やミンチャ族から来たのかなと推測します
@ハッピー半被
@ハッピー半被 5 ай бұрын
千葉のお米の話かと思ったらわが群馬県のお話だった >多古米
@ピーソニ
@ピーソニ 5 ай бұрын
多胡郡の胡に月が、入っていますね。月氏では?
@ktom8142
@ktom8142 5 ай бұрын
「八束小脛」だけど、八束は約64cm、小脛はスネのことだけど、今身長170cmの自分の股からくるぶしまでが70cmほどなので、すねだけで64cmは巨人すぎるので、足全部の長さが八束なら、当時としては背が高い人 もしくは騎馬民族で生活のほとんどを馬の上ですごしたとしたら、スネまでが64cm程度 の2つの説が、名前だけからでも考えられる
@ネギトロー
@ネギトロー 5 ай бұрын
そういえば。 沼田に八束少脛が掘ったという穴だらけの大岩があるのだけど、実際には水の浸食で出来たものらしい。 ちなみに近くに天狗伝説がある迦葉山がある。
@ミヤマサ-w4x
@ミヤマサ-w4x 5 ай бұрын
DNA調べれば分かるのでは?
@ひげほげ
@ひげほげ 5 ай бұрын
かつての倭国には馬と羊がいなかったとのことですが、じゃあ「ひつじ」という言葉はどこから発生したのか?が気になりました。 「うま」は古代中国語(≒漢字の音読み)の「ま」が入ってきたものですが、羊はそのルールだと「やん」とか「やう」に近くなるはずなのがそうでなく和語オリジナルっぽいので。 あと、群馬の国際色豊かな場所といえば、現代では大泉町のブラジル化が思い起こされます。(エリアも由来も関係ないですが)
@サブカル庁長官
@サブカル庁長官 Ай бұрын
KZbinは、TVよりも小回りが効く
@西尾秀司
@西尾秀司 5 ай бұрын
確か昔は吉井駅で多胡碑の拓本が買えたよ!
@ブンフン
@ブンフン 4 ай бұрын
群馬県 多野郡 上野村Ueno-village クソ動画の百倍楽しいです最高です やゆは
@tokyokamen
@tokyokamen 5 ай бұрын
昔からグンマーだったのか
@masayanezayan1600
@masayanezayan1600 5 ай бұрын
ポーネグリフは?
@野菜之星
@野菜之星 5 ай бұрын
天狗は、ユダヤ人説が有ります。
@須藤昌之-x2c
@須藤昌之-x2c 5 ай бұрын
奈良時代に入り仏教推しが進み滅ぼされか?
@満々満足一本満足
@満々満足一本満足 5 ай бұрын
高崎市民だけど、多胡のこひってのがある事しか知らなかった( ̄▽ ̄;)伝説とか初耳
@ひげさん-i4j
@ひげさん-i4j 4 ай бұрын
上毛カルタの読み札の裏の解説文を読み返すんだ!(^^;
@上野武彦-o8t
@上野武彦-o8t 4 ай бұрын
5世紀頃から、中近東から、シルクロードをとうって、日本に入ってきた、5000から6000人て大規模に日本に入ってきたらしいよ、古墳時代の初期にね。😊
@MrNozza1919
@MrNozza1919 5 ай бұрын
羌族が関係あったりするかな? まあ証拠がないから妄想にすぎないけど
@アーミーバタリアン
@アーミーバタリアン 5 ай бұрын
全部妄想だけどな、ダブっていたり似ているだけで一切証拠がない。選民思想と起源説の好きで都合良く偏向歪曲したいのが居るんだろう🤣。
@Marmelo-pe1tw
@Marmelo-pe1tw 4 ай бұрын
あれ? もう白衣観音が布教してまわっているキリスト像にさえ思えてきたわ。
@花の星-l8v
@花の星-l8v 4 ай бұрын
サムネのキャラバンサライどこいった?期待してたのに
@quiztales-koikoisan7038
@quiztales-koikoisan7038 5 ай бұрын
グンマーの話か!?
@いさっちADV
@いさっちADV 5 ай бұрын
隠れキリシタンは古墳とかで活動していた。
@無名-o1h1n
@無名-o1h1n 5 ай бұрын
前橋が見えてきたら…
@ひげさん-i4j
@ひげさん-i4j 4 ай бұрын
前橋は江戸期を通してのたばこ産業の中心地。滅べば良いのに(暴論)(^^;
@たけいいちろう-b6s
@たけいいちろう-b6s 4 ай бұрын
うむっ、コメント欄が県人会化しているな。 俺も混ぜてくれ。 (前橋生まれの愛知県人)
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 ай бұрын
越は事実という根拠はないんじゃ?
@こーゆーのでいいんだよ
@こーゆーのでいいんだよ 4 ай бұрын
キリスト教徒は「羊」ですよ。
@たかあきのとぅじ
@たかあきのとぅじ 5 ай бұрын
今の川口市はどうなるのか?多胡の人達みたいに時間をかけたら、同化することが出来るのか?その前に反発を呼ぶことばかり聞こえてくるのだが。
@manbaken879
@manbaken879 5 ай бұрын
現在の経済難民や不法移民と、当時の渡来人では全く違う。
@たかあきのとぅじ
@たかあきのとぅじ 5 ай бұрын
@@manbaken879 その人たちが違うかどうかはわからないが、国としての対応は昔と今は違う。古代では武力を持って、同化を促すことも出来たが、今は法に照らし合わせ、外交という足かせもつけられながら、対応を模索中だと信じたい。何度もやってきた海外勢力を取り込み、文化を進化させてきた先人に学び、この局面を解決に導く事ができれば、世界の平和も見えてくるのかも知れない。救世主は日本から説を信じて、冷静に見守りたい。
@佐野みゆき-z7b
@佐野みゆき-z7b 5 ай бұрын
私もルーツが群馬にあるから群馬が川口みたいになるのは嫌です‼️ 伊勢崎に3年ほど住んでいましたが今では外国人が増えていると聞いて何となく哀しくなるのはいけないことなのかな?
@すなこ-h1e
@すなこ-h1e 4 ай бұрын
古代の渡来人は先端技術と文化を有した「上級国民」。
@hakua5854
@hakua5854 4 ай бұрын
馬が居ない って書いたなら、急に魏志倭人伝が怪しくなってくる。 古墳時代に馬の埴輪が作られてるのに馬が居ないって思う方がおかしい。魏志倭人伝の使節団はどんな場所へ行ってたんだよ?と寄り道なことを考えちゃうのと、なんでもかんでもまず渡来だろうと考えるの、考古学的にやめた方が良いと思う。 グンマーの山の方に純日本人なのにハーフっぽい人が出るのは本当で、でもアジア系じゃなくて米っぽい濃い顔が急に出てくる謎よな。
@はなゲイ
@はなゲイ Ай бұрын
人畜の埴輪が作られる様になったのは5世紀くらいで、魏志倭人伝が3世紀くらいだから、その間に大陸との交流で馬術が伝来したとしても何らおかしくはない
@江本彰一
@江本彰一 5 ай бұрын
多胡=多種類の外国人。
@userー1120
@userー1120 4 ай бұрын
縄文人はどこにいったのだ??
@ネギトロー
@ネギトロー 5 ай бұрын
土蜘蛛の別名を八束脛といって坑道を掘り、優れた製鉄技術を持っていたとされる。 でも時の権力者によって洞窟に住み、毒や疫病をまき散らす化け物とされてしまった。 製鉄の際に川が汚染されるし、海外から感染症ももたらされたとすれば辻褄が合う。
@rothmans022
@rothmans022 5 ай бұрын
確かに面白い説では有るけど、なぜ「群馬」?と言う事が拭えない。群馬は日本で数少ない「海無し県」であり「高崎」は日本有数の「高温地帯」。 渡来人がアクセスし易いか否かは結構重要だと思う。高崎に当時アクセスし易いと言えば利根川ルートだろうけど「中国」系の胡の人なら日本海に上陸するだろうし、キリスト系なら海のシルクロードで沖縄経由の太平洋ルートも考えられなくも無いけど、「群馬」である必要性が無いかな? 仮に湾岸には「倭寇」とかの海賊集団が居て危険だから内陸部まで逃げて来たと言うなら、道中に石碑文化が無いのも些か気に成りますね。
@kenzenitti
@kenzenitti 5 ай бұрын
1300年前は今みたいな高温ではないでしょ?私が小学生の時だってこんなに暑くはなかったし。 海なし県などと言うスケールの狭い話でもないですね。 昔から渡来人は入っている訳だし。辛科神社という神社も渡来系ですしね。多胡碑よりも以前からありますよ。 朝廷から土地を賜ったという訳だから、土地を与えられて入ってきたわけです。
@すなこ-h1e
@すなこ-h1e 4 ай бұрын
「縄文時代の関東の海岸線」を調べてごらん。縄文海進といい海が内陸まで入り込んでた。関東平野はほぼ無くて海。大宮の氷川神社のある大宮台地は海に突き出す岬だった。高崎や前橋辺りまで川を辿り船で行けたようです。
@MrKapchik
@MrKapchik 4 ай бұрын
Googleマップで見てみるとド広い平野で、現代の都市や経済活動を無にして考えた時、一等地に見える 領地やら村落の概念っていつ出来たのかはわからないけど、縄文海進まで込みで東征の時代にはまさにフロンティアに映っていたんじゃないのかな
@sa.renton1631
@sa.renton1631 5 ай бұрын
日本に石碑文化が無かった?いつ頃と比較して無かったと? まぁいいけど。歴史的に分かっていることは、やまとの他に日本という国があり、その日本国は騎馬民族だったということ。
@ココア-o2m
@ココア-o2m 4 ай бұрын
羊飼いは牧師の揶揄 身長2mの大柄な牧師とは考えられないかな?
@ライトアール
@ライトアール 4 ай бұрын
群馬は馬狩り場の歴史あり
ここまでわかった『出雲国風土記』
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