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【古代史探索の旅Ⅱ】第4話 邪馬台国の所在地を最も正しい(と思う)方法で推定しました
14:37
【若一調査隊】邪馬台国の有力候補地 奈良・桜井市「纒向遺跡」衝撃的な大型建物群は卑弥呼の宮殿だったのか?古代史最大の謎に迫る
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【古代史探索の旅Ⅱ】第3話 卑弥呼は九州にいた/邪馬台国が北部九州にあったことを結論付けることができました
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これはどうでしょう
Күн бұрын
Пікірлер: 661
@urlinkin55
4 жыл бұрын
平塚川添遺跡が生動画で見れてよかったです。1度行ってみたいところだったので。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
それは良かったです。 もっとたくさん撮影してたのですが、割愛してしまいました。 是非、行ってみてください。
@tomusan6837
Жыл бұрын
平塚川添遺跡は吉野ヶ里遺跡から車で1時間足らずで行けました。平地と丘陵の違いがあっていわゆるクニを彷彿とさせるのは断然吉野ヶ里でした。しかしどちらも未だ発掘調査半ばなのでこれから何が見つかるか楽しみです。
@これはどうでしょう
Жыл бұрын
時間はかかると思いますが、まだまだボコボコ出るでしょう(笑)。
@kikikitotomo
3 жыл бұрын
吉野ケ里遺跡懐かしい!高床式倉庫の下で勾玉づくり体験した記憶あります笑 小学生のころ夏休みの自由研究でポスター発表の題材にしました!
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 私はこの年になって、勾玉をつくってみたいと思っています。
@takashiumeda6276
2 жыл бұрын
吉野ヶ里を超える環濠集落が発見されたのですね。初めて知りました。 出土遺跡から見ると、平塚川添と吉野ケ里は性質の違う集落である可能性がありますね。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
平塚川添遺跡の周辺は、まだ多くの未発掘の地域があるようです。 そして筑紫平野一帯は、吉野ヶ里も含む広域ネットワークエリアが形成されていたことも考古学的に推定されている(→シリーズⅢ第10話)ので、今後の発掘活動などに期待したいです。 (コメント着信通知が滞っていて返信遅くなりました)
@ジャルディーノチャンネル
4 жыл бұрын
正しいか間違いか我々には定かではありません。ただ、誠のことを誠と知り、誠ではないことを誠でないと言える存在で有りたいですね。興味深い内容で楽しい物語でした🤗ありがたき
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
ありがとうございました。 その通りだと思います。
@橋本拓真-y2k
3 жыл бұрын
漢字めちゃくちゃミスってるぞ
@mejio3070
4 жыл бұрын
伊勢は糸島から移転されました 同じ夫婦岩があるんですが、糸島の方が2つの大きさのバランスが良く、伊勢の方がアンバランスで取ってつけた感じがあります また糸島は伊都志摩の当て字であり、糸島の海辺は志摩という地名が多くあります 加えて糸島の王墓から見つかる副葬品が天照を思わせるものであることからも、伊勢は糸島(伊都志摩)から移転されたことがわかります
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
同感です。 私も両方の夫婦岩を見ましたが、糸島の方が美しさを感じました。 ただ伊勢神宮は丹後の籠神社から移されたとも言われていて、歴史的な流れは不思議いっぱいです。
@urlinkin55
4 жыл бұрын
糸島の夫婦岩の近くにある櫻井神社の境内の奥というか脇にもう一つお社があって、その櫻井大神宮の材料は伊勢神宮が式年遷宮で建て替えたときの廃材で立てられているそうです。ご祭神は天照大御神と豊受大御神で、由緒では櫻井神社創建以前に1625年に建てられたことになっています。 ですが、この地は「與止姫(よどひめ)宮」がかつてあった場所でもあることから、本来のご由緒はもっと古いはずです。それを黒田家ゆかりに変えたと考えられます。私見ですが、この與止姫が伊勢内宮の「荒祭宮」のかつてのご祭神ともされる瀬織津姫とかかわりがあるように思えてなりません。いずれにしても伊勢神宮には隠されている歴史があります。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
神社には色々隠れた歴史があるようですね。
@yutakayasunaga8054
3 жыл бұрын
伊勢はAD600年位ですね(遷宮記録から)おっしゃるように糸島→伊勢ですね
@古屋公夫-s9s
4 ай бұрын
朝倉市の平塚川遺跡は邪馬台国や卑弥呼とは関係ありません。 邪馬台国はヤマト国と発音して、 現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代に、奈良県では崇神天皇を中心とする大和政権があり、後に京都に遷都されるまでの間、歴代天皇が倭国を治めていました。 邪馬台国の女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女であり、正式な名前は倭母母曽毘売命と言います。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 邪馬台国は奈良県の大和政権にほかなりません。
@kurakichinishiyama8203
4 жыл бұрын
思い切って簡略化した説明だとは思いますが本質を突いているように思いました。今まで真剣に考えたことはありませんでしたが若い頃読んだ神話で東征に関する話が多いわりに中部以東の関係がうかがえないところから大和朝廷の主体は大和以西から瀬戸内沿いに浸透してきたのではないかと考えたことがあり九州地方に軍事経済の強国があったと想定すると自分的にはドラマが浮かんで楽しいです。今後も研究結果を発信していただけることを願っています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 私の場合、研究というより多くの方々が研究されたことをできるだけ勉強して、自分が”謎”と思ってきたことに自分なりの結論を得たい、というものです。 それに合わせて旅を通して遺跡・博物館を見学できれば妻とともに楽しめる、という狙いです。 今後の興味は九州から畿内への王権移転ですが、畿内の歴史はまだまだ知らないことが多く、少し原点に返って勉強しているところです。
@古屋公夫-s9s
3 ай бұрын
邪馬台国が北部九州日本あったとする説は誤りです。 邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代の奈良県には、初代神武天皇が橿原神宮で紀元前60年に即位されて以来、大和政権があり歴代天皇がいらっしゃいました。 また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
@takashiumeda6276
2 жыл бұрын
5:40 地図、遺跡出土品分布図ともに、今まで見た動画で一番見やすく、分かりやすかったです。 邪馬台国の会というのがあるのですね。 参考させていただきます。 ありがとうございます。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
参考にして頂けたようで嬉しいです。 邪馬台国の会は安本美典氏を中心にした会のようです。 私もよく勉強させてもらっています。
@yasu496
3 жыл бұрын
魏志倭人伝の描写は九州っぽい感じだし記紀で何人も出てくる九州のシャーマンがまさに卑弥呼のような存在だからな。さらには九州の女酋長が三種の神器を掲げて天皇に投降するなどの描写もあるし実に卑弥呼っぽい。みやま市の山門県なんかは邪馬台国候補として有力だと思う。神功皇后の熊襲征伐で最後に出くるのが山門県の田油津媛で、田油津媛が殺され熊襲征伐が終わる。田油津媛が卑弥呼の後継でこれが邪馬台国の終焉ではないか
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
そうですね。私も旧山門郡ではないかと思っています。 第4話でそのような動画を上げてますので、よろしければご視聴ください。
@yo2trader539
3 жыл бұрын
12代景行天皇の九州巡行に関する記紀・風土記の登場人物に、日田の久津媛・比佐津媛のようにご当地の媛が多いです。政治・祭事の「まつりごと」の言葉の由来が一緒なのは、古代は同一視されてたかららしいですけどね。ヒミコ・トヨのようなシャーマン的女性が九州各地に、国(≒地区)ごとにいたのかもしれませんね。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
@@yo2trader539 さん、 確かにそういうことでしょう。 男だけだと争うばかりで、一向に収まらない、ということでもありますね。 今でも日本の男どもは、山の神にはかなわないし(笑)。
@user-me5ie4my9p
2 жыл бұрын
邪馬台国は日本ではありません。
@まあちゃん-n7l
5 жыл бұрын
賛成。その通りだと思います。
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
ありがとうございます。 賛否両コメントを頂く事を覚悟しておりますが、まず賛成1票ですね(笑)。
@ザントログ
3 жыл бұрын
卑弥呼
@遊飛ちゃんねる
4 жыл бұрын
三角縁神獣鏡の国内生産説は一旦置いておき、古墳、集落、土器という別の考古学観点から見てみてはいかがでしょうか。 近畿には箸墓古墳を始めとする最古段階の前方後円墳が存在し、近年の古墳の年代観(より古い時代へと引き下げ)を鑑みると卑弥呼の墓がこれらの最古段階の前方後円墳の中にあると考えられる。 また、纒向遺跡の広大で都市的な機能をもった性格を考えると、邪馬台国の所在地として適当であり、これに対して九州にはそのような3世紀前半の有力な遺跡が無く、3世紀後半以降の大和の影響を強く受けた遺跡しか見当たらない。 さらに、3世紀は庄内式土器が近畿から全国に広まる時期であり、近畿ではこれと反対に各地の土器が発見されている。これは、近畿を中心に全国と人の往来があったことがわかる。 これらの考古学的資料から九州に邪馬台国があった可能性は薄くなると思われます。 ちなみに、副葬品に勾玉が出土するのは縄文時代でもありますから、これを三種の神器とか言うのは暴論にも程がありますよ。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
丁寧なコメントありがとうございます。 ご指摘頂いている内容が、これまで言われて来た「畿内説の通説」として認識しているつもりです。 先日、これについての考えをまとめて動画としてアップしましたので、じっくりご視聴頂き、その上でご批判頂ければ有難いです。 kzbin.info/www/bejne/f6PQiXyBj7aajaM
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
庄内式土器の流布と共に前方後円墳も流布し始めます。3世紀中庸とされる那珂八幡古墳と原口古墳の扱いを九州説ではどう解釈されるのか伺たものです。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
@@田中健一-s1c さん、 難問ですね。ともに三角縁神獣鏡が出土した纏向型前方後円墳と見られる墓ですから、当然、ヤマト王権とは何らかの関係は否定できません。 第5話でも紹介したように、平原王墓の鏡と、黒塚古墳の三角縁神獣鏡との関係や、平原王墓と桜井茶臼山古墳から出た巨大な内行花文鏡などなど、色んな仮説を考えさせられる興味深い事実ですね。 三角縁神獣鏡と前方後円墳の広がりは、卑弥呼以降の日本を知る上で大事な要素だと思いますので、今後の研究に期待したいと思います。
@平林修二-s3f
3 жыл бұрын
考古学の年代決定は、結構幅を持たせているので、50年位なら動く事も有り得ます。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
あるほど、そうですね。 そこを頭に入れとかないと、おかしな結論を引き出してしまう。 了解しました。
@mari-od1ym
7 ай бұрын
纏向の件もありますからね、年代測定法は正確ではありませんね
@asa01053
5 жыл бұрын
鉄の矢じりは初めて知りました!これだと九州エリアになりますね!当時は中国から朝鮮から最先端の文化が入ってこれますよね!
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
まさに、そういうことですね。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
鉄器が北部九州に偏在するのは当然といえば当然。列島の鉄器使用は前4世紀北部九州に始まり以来鉄器の輸入元ですからね。歴史的に鉄素材の蓄積は厚かったのでしょう。弥生時代後期になると他地域でも鉄器利用が盛んになります(考古学的事実)。池上曽根遺跡では鉄器工房の後も確認されています。遺物としての鉄は酸化して失われやすい、との特徴がありますのし、単に「鉄製遺物数」が多いことを根拠に「ヤマタイ国」と比定するには短絡的に過ぎると思いますが。北部九州に偏在しているとご指摘の「鉄製遺物」の年代は全て「3世紀」のものなのでしょうか?そうであれば納得がいきますが、弥生期を通して多い、というのであればヤマタイ国比定根拠にはなり得ないかと。
@古屋公夫-s9s
5 ай бұрын
邪馬台国のヤマト国と発音し、現在の奈良県を指しています。 当時奈良県には大和政権があり、今上天皇に続く天皇がいらっしゃいました。 邪馬台国の女王卑弥呼の正式名称は倭母母曽比賣命です。 倭母母曽比賣命賣孝霊天皇の皇女であり、紀元115年に生まれ位置98年に84歳で崩御され、箸墓古墳に葬られました。
@チャンネル凛々-z9y
4 жыл бұрын
日本の古代史はロマンに満ち溢れていますね‼︎ 楽しく拝聴させて頂きました‼︎ とても興味深い内容です。時間をかけて考察されているのがわかります^_^ すごくわかりやすく編集をされていますね‼︎いろいろ勉強になりました‼︎
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
ありがとうございます。 このテーマは多くの方が興味を持たれているので、時間をかけて考えてみました。 結果、こういう結論にしかならなかった、という訳です。また、よろしくお願いします。
@チャンネル凛々-z9y
4 жыл бұрын
私は四国に住んでいますが、古田さんの著書を読んでから邪馬台国は九州にあるのかな…と思いました^_^ 実際に見た吉野ヶ里遺跡は魏志倭人伝の世界そのものでした。動画づくりは大変でしょうが、これからも頑張ってくださいね‼︎
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
古田氏の九州王朝説は圧巻ですね。この説に続いて、古代九州を解き明かそうとする多くの研究者の方々がいらっしゃって、今後も楽しみです。
@チャンネル凛々-z9y
4 жыл бұрын
これはどうでしょう 住む地域は違えど私も大いに期待しています(^^)
@60beginmyself71
5 жыл бұрын
北部九州説、地名・距離感ともなるほどとは思います。西都原も捨てがたく、勉強不足の自分には何ともまだわからないことばかりです。今回の動画 1回、2回と見させてもらって、出雲の回も含め感じいるばかりです。
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
いつもコメントありがとうございます。今回も「感じ入って」頂いて嬉しいです(笑)。こんな動画をアップしている一番の理由は、「日本の古代史を考えてみるって、楽しいよね」というのを伝えることです。日本人にとっての古代史は自分達のルーツ探しのようなもので、もっと身近に感じていたい、そんな思いです。学者、専門家の方々の議論に首を突っ込んでいる形ですが、やめられましぇん(笑)。
@hoka5579
4 жыл бұрын
西都は重要だと思います‼️ 葛城氏から仁徳天皇の皇后が出てるくらいですから、無視は有り得ません‼️
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
@@hoka5579さん、 宮崎方面は勉強不足で、5世紀は今今勉強中です。 だから、すみません。ちゃんとした返答ができません。ごめんない。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
西都原はあり得ないですね。4世紀から5世紀の古墳群で、卑弥呼の時代=3世紀の相当の遺物が出ない。少し南の生目は西都に先んずる遺跡ぐんですが、これも4世紀を遡れない。残念ですが。。。
@go7993
4 жыл бұрын
自分も邪馬台国には興味があっておっしゃるとおりだと思います。 あの当時のクニのスケールと統治のレベルなら大和政権は遠すぎる。 あの当時の日本には複数(2つ)の勢力があって九州と畿内。 それりなぜ畿内説が有力なのかが謎です。 日本史の謎は邪馬台国畿内説に至る学閥の病巣です。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
私は学者じゃないので、学会の状況は実際には知らないのですが、 「学会は畿内説で決まり」という話を聞くと、本当に学会で邪馬台国が議論されているのか、疑問に思います。 第5話で思いっきり畿内説を否定する動画をアップしましたので、そちらをご視聴下さい。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
考古学的事実を積み上げていった結果ですよ。皆様あまりにも九州以外の「倭人」達の国々を過小評価しています。弥生時代を、地理的に俯瞰しながら丁寧に時間的変遷を追えば自ずと結論は出ます。出雲は半島からの日本海ルートを牛耳り隆盛した。吉備は瀬戸内海をぎゅうじり巨大な墳丘墓を築造できるほどの経済力があった。畿内は「銅鐸文化圏」への「銅鐸供給センター」だった。九州に負けず劣らず「強国揃い」ですね。そこに伊予から尾張・越前までの国々も集まりスクラムを組んだ。盟約の証は「前方後円墳」。ヘッドクォータは「纒向」。ここに諸国連合としての「倭国」が誕生する。これが通説です。プロの査読に耐え抜いた論考だけが残り通説となる。ネットのど素人のよもやま話とは訳が違う。「何故畿内説が有力なのか謎」ならばご自身で謙虚に学ばれた方がよろしいかと。
@YAMAUCHID
Жыл бұрын
動画ありがとうございます。 その山に丹あり 黒キジがいる 青石がでる 東千里に別の倭人が海を隔てて存在する 海が近い環境 帯方郡より距離12000里 会稽東治のまさに真東 大小、入れ墨がある 満たしていますか?
@これはどうでしょう
Жыл бұрын
魏志倭人伝の記述内容がすべて当てはまる所がないので、300年かけた議論になっている訳ですね。 (青石という記述はないと思いますが)
@kouzmo10
Жыл бұрын
卑弥呼には興味はないのですが諏訪大社で明治初頭までやっていた儀式が聖書と同じという話を茂木誠氏の動画で見て少し古代史に興味が湧き色々見ているところです。 客観的な考察が見事ですね。長浜浩明氏も北部九州との結論に至っているようです。
@これはどうでしょう
Жыл бұрын
ありがとうございます。 諏訪大社は私も大変興味があります。 多くの方が推察されてるように・・・なんですかね。
@kouzmo10
Жыл бұрын
@@これはどうでしょう 日猶同祖論は過去に何度か目にしましたが、どれもこじ付け臭くて興味が湧きませんでした。 しかし、諏訪大社の儀式の件は掻き立てられるものがあります。 聖書を背景にした人が渡来して影響を与えたのか、はたまた大陸に渡った人が持ち帰ったのか。 どこかから文字でも発掘されないかと思っています。
@これはどうでしょう
Жыл бұрын
日ユ同祖というより、そういう人々がいつの時代かに来日したのだろうと思っています。 驚きはその人々がその時代まで文化・習慣・(民族)を維持していただろうことです。 時代の流れで同化してしまうのが通常だろうに、と思うのです。
@sacchannnnnn
3 жыл бұрын
福岡に住んでますが、知らない事が沢山出て驚きまた‼️
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
私も勉強する度に、へ~~ということばかりで、とても楽しいです。
@53wakataka
4 жыл бұрын
邪馬台国は北部九州だと思います。でも、あくまでも九州の豪族であり、邪馬台国との関係は分からないけど、神武東征みたいなことがあり、大和を制圧したのでしょう。 邪馬台国はどこか?っていうのはミステリアスだけど、あまり日本史的にはそんなに影響しないのではって思っています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そういう一面、確かに言えると思います。 邪馬台国も卑弥呼も中国文献にしか出て来ない訳ですからね。 ところが、それが九州にあったとしたら話は別です。 畿内にあったのなら、昔から中国で倭国と言われていた国が畿内にあり、それが倭(やまと)と言われるようになって大和朝廷に繋がっていく・・・そしたら、邪馬台国があっても無くても日本史には大きな影響はないと言えるかもしれない。 九州の場合だと、その女王連合国は同時に倭国ですから、大和王権が日本と名乗るまでの中で、どんな歴史があったのか? 神武東征みたいなことが実際にあったのか? ・・・ とてもダイナミックな歴史がまだ明かされていない、ということだと思います。
@kazudog1
4 жыл бұрын
僕も邪馬台国は北九州だと思います。 纒向遺跡が発見されてから大和説が勢いづいているみたいだけど、纒向を邪馬台国にするには規模が大きすぎると思いますね。その時代における巨大なクニであったことは間違いないでしょうけど。 魏志倭人伝に載っている内容、環濠集落があちこちに点在して争いを続けていた・・・という痕跡が纒向にはみられませんから。 それに神武東征との関係ですね。 素直に考えれば、九州になにがしかの王朝があって、それが大和へ移った。あるいは合併したと考えるのが自然かなあと思います。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
全く同感です。 邪馬台国 畿内説というのは、もはや学説ですら無いのでは・・というのが私の今の感想です。 学説というのは反論に対して反論できることだと思いますが、畿内説の方々は反論すらされなくなっているのではないでしょうか。 (個人の感想です) 纏向の建物が東西方向に・・とか、桃の種が・・・とかがお好きなようですが・・・。 (先生方に怒られそうですが)
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
魏志倭人伝には「環濠集落」とは書いていませんよ。「宮室・楼観・城柵厳かに設け」とあるだけです。吉野ヶ里遺跡の復元様にイメージ引っ張られていません?
@taka3399-n6n
8 ай бұрын
この北部九州説に賛成です。邪馬台国は筑後川流域にあった。朝倉の川添遺跡~久留米の高良祇園山遺跡辺りがその中心だったのでは。邪馬台国奈良説は国策。国の始まりを3世紀に早め、全て畿内奈良平野にまとめたいから。毎年莫大な発掘予算で奈良平野を発掘をしている愚策。何か少しでも出てくるとマスコミに大々的に報道させる。奈良盆地の東には海がなく鈴鹿山地、南は狗奴国なのに吉野熊野の険しい山間地では?卑弥呼の墓も大きな円墳と書いてあるのに箸墓古墳は前方後円墳では?奈良盆地の遺跡群は邪馬台国と同時代に存在したまさに東の海の向こうの別種の倭人の国々。鉄と稲作の北部九州とは違い銅鐸文化の牧歌的な国々だったのでは。故に後年九州勢力が鉄の武力で東遷した際、割と容易く征服された。間違いない。
@これはどうでしょう
8 ай бұрын
おっしゃる通りですね。 でも過半数?の学者諸氏は畿内説で決まりという。 でも対立議論になるとタジタジだから議論はしない。言いたいことはマスコミに書かせる。 先日のNHKスペシャルも酷い内容でしたね。
@天地夕映え-m1q
4 жыл бұрын
「卑弥呼」所在と「邪馬台国」は九州北部 (貴方の動画内で見た「不弥国」比定の趣味人独自解釈) 「倭国」の九州内範囲 「博多湾、唐津湾、伊万里湾、九十九島湾、佐世保湾、大村湾、長崎湾、橘湾、八代海、島原湾、緑川、木山川、菊池川、有明海、筑後川」に面した範囲が、魏志倭人伝による「倭国」範囲です。 「不弥国」の国位置 魏志倭人伝文章では、九州北面の「末盧国、伊都国、奴国」の次に「不弥国」を表記し、次は、「南、水行で投馬国と邪馬壱国」へと移動方向を不明にしています。 しかし、残りの国々表記の先頭で「斯馬国(伊万里湾と九十九島湾を国内にする)」表記の後、残りの国々は、「有明海、島原湾、橘湾、八代海」面に反時計回りに奇麗に並んでいます。 そして、最後に二度目の「奴国」が書かれています。これは、一度目に書かれた「奴国」と同じで「倭国」内を一周すると「奴国」に戻ることを表現していると思います。 二度にわたって表現された「奴国」が“女王の境界尽きる所”で、その南に「倭国」と戦争している「狗奴国」がある事を表現しています。 〇「狗奴国」…関門海峡から博多湾を国内にした「奴国」の東側境界まで。 〇「投馬国」…熊本県の緑川に囲まれた範囲と三角港囲った「大矢野島、維和島、戸馳島と宇土半島」を国内にする。 〇「邪馬壱国」…吉野ヶ里遺跡のある有明海北面と久留米市下流の筑後川両面地域。 ※;「倭国」倭王体制と「南」漢字の共通点。(東南、東、以北は省略) 「倭国」本来の初代歴代の倭王組織は、「邪馬壱国」の官で表記された四官の内の三官です。「倭国」初代歴代唯一の「倭国統一三ヶ国盟主王連合」です。 〇「伊支馬(弥奴国王=大村湾、橘湾、島原湾に囲まれた領土)」…倭国内七ヶ国の盟主王。 〇「彌馬升(斯馬国・九十九島湾と伊万里湾を国内にする)」…九州内の「狗邪韓国・移民国」六ヶ国と「対馬国、壱岐国」の盟主王。 〇「彌馬獲支(好古都国王)=天草上下島」…八代海周囲と緑川、木山川面七ヶ国の盟主王。 ※;四官目の「奴佳鞮」…三官を監視軟禁する「狗邪韓国」棟梁。 上記「倭国統一三ヶ国盟主王連合」を「邪馬壱国」が国内に軟禁して、「倭国統一三ヶ国盟主王連合」の倭王権を代行しているのが「倭女王・卑弥呼」です。 「投馬国」の「官;弥弥(狗奴国王)」は、「邪馬壱国」が軟禁した「倭国統一三ヶ国盟主王連合」を収容して連合し(卑弥弓呼)、「卑弥呼」と同じ代行倭王を取得しましたが、「官;弥弥」は、「倭国」を統合して「邪馬台国」を構築した「狗奴国王」です。 二度目に書かれた「奴国」の南は、「邪馬台国」統一王となった「官;弥弥」の母国である「狗奴国」を指します。 つまり、方角文字である「南」は、代行倭王権取得国と代行倭王権取得者に使われていて博多湾に面した「奴国」の東には、「倭国」に属した国は無い事になります。 では、「不弥国」は何処だ、というと、博多湾に重複して福岡湾を「能古島、志賀島、玄界島」が囲っています。 私は、福岡湾を囲った「能古島、志賀島、玄界島」を「不弥国」に比定しています。 「志賀島」から「奴国王」が後漢から貰った「漢委奴国王」の金印が発見されました。この意味を考えてみます。先ず、文字並びの「不弥」について考えてみます。 不…否定する。 弥…(倭王権が)広く行き渡る事。 解釈…広く行き渡った倭王権を否定する国、と読む事が出来ます。 つまり、「伊都国の糸島」内で倭王権を振るう「卑弥呼」を拘束して「卑弥呼」の持つ倭王権を「奴国王」が代行した。そして、年月の経過により、この代行倭王権を「卑弥呼」に獲り返されて「奴国王」が後漢から貰った「漢委奴国王」を持ったまま「不弥国」の「志賀島」に拘束軟禁されて生涯を終えた。そして、金印が志賀島に残された。 「古事記、神代七代」を次のように考えています。… 1、「代行倭王・国之常立神(奴国王)」、 2、「代行倭王・豊雲野神(卑弥呼)」。 3、「代行倭王・宇比地邇神(卑弥呼)、副倭王・妹須比智邇神(伊都国王、末盧国)」。 4、「代行倭王・角杙神(伊都国王、末盧国) 、副倭王・妹活杙(卑弥呼)」。 5、「代行倭王・意富斗能地神(卑弥呼)、副倭王・妹大斗乃弁神(烏奴国王)」 6、「代行倭王・於母陀流神(烏奴国王)、「副倭王・妹阿夜訶志古泥神(卑弥呼)」 7、(邪馬台国)「伊耶那岐神(台与、奴佳?)」、「妹伊耶那美神(倭国統一三ヶ国盟主王連合)」 上記系列では、「邪馬台国」完成時に「卑弥呼」は、倭王権を外されて「不弥国」の島内にいることになりますが、 ともかく、倭王権を取られた「卑弥呼」や「卑弥呼」体制に倭王権を獲り返された国王は、「不弥国」のどこかの島に拘束されたと思います。 ちなみに、「古事記」に記録された最初の「卑弥呼」の神名は、大層な前書きを持つ「宇摩志阿斯訶備比古遅神」で「天之常立神」は「斯馬国・伊万里地区王」であると思っています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 深く考察されているようですね。 そういう考えもあるんだということで、参考にさせて頂きます。
@rino_japanese
2 жыл бұрын
昨日から一気見を決め込んでるのですが、再生リストの上部2つの配置が違っていてちょっと混乱しました。 今後見に来る人のために修正しておいた方がよろしいかと・・・🙂 それにしても凄い気力体力ですね。 でもまぁ、一緒に行ってくれる人がいる分精神的にはだいぶ楽だったかもしれません。一人でこれをやったらさすがに途中で嫌になりますよ😫 私も、記紀や邪馬台国の話は大好きで完全素人ではありますが多少持論もございます。それは動画をすべて見てからにしましょう☺
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
ご指摘ありがとうございます。 何故か順番が狂っておりました。 修正しました(笑)。 もともとこのシリーズは夫婦旅のつれづれに記紀などのお話を勉強しながら、神社も訪ねながら・・・という主旨でスタートしたので、元々が同伴者前提なのです。 お陰で旅を楽しめています。
@yunyun9886
3 жыл бұрын
其山有丹に該当する水銀鉱山がなく水銀朱の出土が少ないね。 この観点からいえば、この説は却下されます。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
日本中で真珠と翡翠と水銀がとれるところはありません。 これらは当時流通していたので、日本列島のこと、と考えています。
@yunyun9886
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう そう考えないと、説が通りませんからね、強引ですね。 それがあるのですよ。3種とも揃ってしまう地域が。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
どこでしょうか?
@yunyun9886
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 調べてくださいね。
@elelsse
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 青玉 の事を翡翠とされているようですが、その根拠はどういった物なのでしょうか?
@cocoa1906
4 жыл бұрын
吉野ヶ里遺跡だ!私も行った!
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
なかなか素晴らしい遺跡公園でした。
@大谷主水-l6t
10 ай бұрын
平塚川添遺跡は環濠集落で6壕張り巡らし、400軒を数える大規模さが判っている比類ない集落ですね。 魏志倭人伝は2口の5尺の剣も下賜しています。このうち1振りは吉野ヶ里近傍の三津から出土しましたが 残念ながら人手に渡り詳細な出土状況が不明です。長崎道東脊振インターに近いので工事中にでも出たのかも知れませんが扱いが雑すぎるので残念です。ここら辺りは甕棺墓が莫大な量埋まっています。水田と思っていたら子供用の甕棺墓だらけだとか極々普通の処です。あ、近くに住んでいます。mond
@これはどうでしょう
9 ай бұрын
え~~、おっしゃってる五尺の剣の紛失事件は最近の出来事なんですね。本当に残念です。 しかし考えてみると、古代史に興味を持っている方でも甕棺墓を知らない人は多いでしょうね。
@yutakayasunaga8054
3 жыл бұрын
不彌国より南へ98,9KMといえば山門でしょうね!
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
私もそう思って、第4話にアップしました。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
吉野ヶ里遺跡は立派に復元されて圧巻ですが、同規模の環濠集落は近畿だけでも10以上観察され他にも吉備・讃岐、出雲、尾張など密集地は北部九州に限りません。池上曽根遺跡では鉄の工房後が出ていますし吉野ヶ里では観察されなかった「方位」を意識した建物群が観察されました。唐古・鍵遺跡は古墳時代まで続く遺跡です(時代が合わないとするご見解は誤りかと)。 弥生時代、北部九州が先進地域であったのは間違いないですが、環濠集落の密集を根拠に「ヤマタイ国」を比定するのはいささか早計に過ぎるかと。また、環濠集落は弥生期の集落形態としては必ずしも一般的では無い(結構珍しい)集落形態であることも書き添えておきます。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
唐古・鍵遺跡は土器編年での庄内式期(纏向型前方後円墳の時代)まで勢力維持をしていたそうですので、この辺りを古墳時代とすればそうとも言えますが、私は箸墓以降が古墳時代と考えていますので、弥生時代と区分して考えています。 (後期というより終期かもしれませんが) ただ、考えて頂きたいのは、 魏志倭人伝では、狗奴国との攻防に困った卑弥呼の要請で、魏の軍旗を持った張政が邪馬台国に出向いています。 もし、唐古・鍵や纏向が邪馬台国で、張政がそこに到着したのなら、何と思うか! 「どこで誰が誰と戦っているのですか?」、と。 その時代のこの地域は、水田開発が最重要なテーマで、各地の人が集い、工房も営まれ、一所懸命に王の墓も築造している。 戦っている暇は無いのです。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう さま、鉄鏃分布の件、原典にに当たりましたが酷いですね。3世紀までのデータとしながら意図的に畿内のデータカウントしていませんよね?箸墓に先立つとされるホケノ山からだけでも60本も出てますよ、太刀・刀剣類も多数。纒向型前方後円墳は4世の築造だとおっしゃりたいんですかね?ホケノ山からは銅鏃も出ていて、武具満載!戦う気満々に見えるんですが?
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様。え、いきなり首都攻防戦ですか?紛争は国境地帯で起こるもの。狗奴国の比定地は尾張。纒向は笠置山地があり上野盆地を挟んでさらに鈴鹿山地もある天然の要塞です。わざわざ環濠を設ける必要性は低いでしょう。 何故、九州では弥生時代を通じて環濠集落が営まれたのかわかりますか?それは隣村同士いがみあっていたからです。極々狭い範囲で。何故、池上曽根遺跡が消滅したかわかりますか?それは隣村同士のいがみ合いをやめたからです。弥生後期には和泉・摂津・河内・大和辺りのエリアが一まとまりになって一つの勢力圏を形成する。エリア内に平和が訪れて域内に環濠は必要なくなりました。今一度環濠集落について学ばれてはいかがでしょう? ir.soken.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=2119&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=29&block_id=155
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
邪馬台国の会さんのデータベースでは、弥生時代の出土分を整理されています。 一方私の考えは、布留式土器が出土しているホケノ山古墳は箸墓と同時期の布留式期と分類する考えに賛成ですので、古墳時代と思っています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
その通りです。畿内はその頃、ずっと平和な地域でした。 隣近所と争うより、河内から考えて行けば、大和川を上ることで新しい土地を探すことができ、水田開発をすればしただけ大きく勢力圏を広げられます。 戦争などしてる暇はありません。 卑弥呼の前の倭国の王達が争い、卑弥呼の時も、そのあともずっと争っている間に、畿内は大きく発展することができたのでしょう。
@abcdwxyz5678
Ай бұрын
関川尚功先生の研究では箸墓古墳は4Cが妥当とされていますので参考にして下さい!つまり卑弥呼のお墓では無いと云うことです。
@これはどうでしょう
Ай бұрын
私も参考にさせてもらっています。 卑弥呼の墓ではないですね。
@angelagabriel5874
2 жыл бұрын
「吉野ケ里」の会合の場(レプリカ)では、きちんと盛装?しているようですが、中華文書では当時「貫頭衣」のように記述されているのでは? 第4話いきます。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
貫頭衣の話は私も何かで読んだことがあります。 しかし、卑弥呼の時代に絹織物も献上している訳ですから、王達はそれなりだったのでは、と思いますね。
@angelagabriel5874
2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう そういう「不自然」さが、古代史(神話)の「謎」であって、大陸史の某解釈では、初めて中華王朝へ遣いを出したとき、周囲の人々の着衣が盛装であったことに対して、自身たち(倭族)の身なりが「貫頭衣」であったので、身分も低く見られ(粗野)、自身たちも恐縮した(ので、慌てて身なりをそれなりにするよう百済等から工人を集めた)という「説」があります。 実際「単純」な衣でなくとも、雅やかな盛装でもなく、とってつけたような形式だったのかも知れません(手塚治虫の漫画が参考になります)。 各説紛々時代設定をしており、時期決定説が無い。 主な争点は「有力者」が、まず何処にいたか?その人物は実在したか?誰と誰を比定できるか?という「論説」にあり、その各説に従って時代もズレる(ズラす)というふうです。>>>こういう観点では未だかなり曖昧模糊としています。 時代を(ズラす)のは、倭史のみならず、中華史、韓史それぞれに生じている・ということが、現動画の集大成から導くこととなります。(里程問題と一緒です) 動画を観ていてもう一つ「気になる」表現に「稲作の始まり」がありますが、これも厳密に「陸稲」と「水稲」を区別すべきです。一意に「稲作」としています。 DNAによる縄文人の同定も始まったばかりですし、縄文人が「陸稲(≠水稲)」をしていたことは、かなり決定的になっています。「馬」「鉄」等の使用(輸入・飼育/原産)についても、明示的ではありません。出土するから(~だろう)で、各地の整合性を説明するには至っていない・と考えます。 1990 頃以降、次第に考古的発想が地方に芽生えてきたので、最近地方公演等が頻繁になり、かつ混迷してきた・と見えます。 「%」の低い「説」=「シュメル」「イスラエル」を持ち出す動画が絶えず、「本気」の度合いも図りかねます。 日本人が持つDNAと類似している箇所は「チベット」のみとされているくらいなので、「他民族同祖」はかなり難しいでしょう・・・ただ、民俗(神話)学的に、世界中に類似部分のあることは確かなので、エジプトのイブの末裔が広がる過程で「記憶すべき何か」と遭遇し、口伝されてきた可能性はあります。 文字についても、現モンゴル自治区で使用されている文字は、古アラビア文字、ヒンドゥー文字(インド)、古ヘブライ文字、他(可能性>西夏文字にも)に似ています(縦書き横書きの違い)。 これらは「子音」しか持たず、+「母音記号(を付すこともある)」で表されます。 古代エジプト語もまたそうです。 >>だからといって「同祖」とするのは早計です。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
多岐にわたる解説ありがとうございます。 私は中々広い視点を持つことができず、今はヤマト王権の成立過程が気になって、先にすすめません(笑)。
@nap3392
4 жыл бұрын
「今、使訳通ずる所三十国」というところだけみても、当時の国の規模を考えれば邪馬台国が近畿地方だったとするとあまりにも少なすぎて、自然なのは九州だと思っていました。 倭人伝の記述が伊都国以降急に簡潔になっていること、先日糸島周辺を訪れた際に感じた情景が「山島に依り国邑を為す」という表現そのままだったことから、今では倭人伝の情報源になった人は伊都国までしか行っておらず以降は伝聞ではないかと考えてます。 いずれにせよ、現地を実際訪れて自分で感じて考えることは大切だと思いました。今後も楽しみにしています。とてもおもしろかったです。ありがとうございました。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
共感して頂き、嬉しいです。 歴史を感じられる土地に赴き、古代にあったかも知れない事柄と、現在に残る風景を重ねると、当時の情景が目に浮かんだります。ワクワクの瞬間です。 また早く旅にも出れる状況になってほしいものです。 ところで、 卑弥呼が魏に使者を送った翌年に、帯方郡の太守が卑弥呼と会っているとされているので、その人達が伊都国止まりだったかどうかは、分からないと思うのですが・・・。 謎は尽きません(笑)。
@nap3392
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 邪馬台国を訪れた人はいたと思いますが、その数は少なく情報も限られたものではなかったかと考えています。これは僕の仮説ですが伊都国に一大率を置いて検察し、諸国がこれを畏憚していること、文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らしていることから当時の伊都国は江戸時代の出島のような機能をもっていたのではないかと想像します。 だから伊都国に往来した郡使が常に駐していたり、邪馬台国と友好関係ある国が伊都国を通してしか貿易できない状態になっていたから使訳通ずる所が旧百余国から三十国になっているのではないかと想像します。 結果、伊都国までの情報は豊富にあるけれどもその先は・・・ということであのような記述になったのではないかと。さっきまで草が多すぎて前を行く人も見えないとか言っていた人が肝心なところで寡黙になっているのがずっと違和感でしかないんですよね(笑) 長々とすいません。周りにこういった話ができる人が全くいないもので(笑)
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 伊都国=出島論、面白いと思います。 魏志倭人伝でも伊都国が特別な国であることが書かれていますが、実際、伊都国から出土する遺物にも、国王級といえる中国由来の物が数多くあり、それを証明していると思います。 そもそも、卑弥呼を始めとする倭国の王達が中国に遣使を送ったのは、半島、大陸との通商利権が主目的だと思いますので、貿易拠点としての出島論はあり得ると思います。
@nap3392
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。 そういえば先日糸島を訪れた際に、伊勢と糸島に二見ヶ浦があって夫婦石があるというのは知っていたのですが、現地でそこが志摩という地名だと知り大変驚きました。他の動画を観てて繋がってるんだなと感じましたが、まさにそんな感じでした。 伊都国の大陸との関係、当時の倭国での立場その後のヤマト政権との関係、考えるだけでわくわくです(笑)
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
去年、私達も二見ヶ浦の夫婦岩を見学しましたし、そこが志摩だということも知っていたのですが、その組み合わせは気づきませんでした。 ん~~、また課題が出来てしまいました。 ホント、ワクワクが止まりませんね(笑)。
@稲吉貞利
4 жыл бұрын
古代、川は交通路。伊都国で外洋船から川舟に乗り換え。御笠川を堰き止めながら川舟を馬で引き遡上。宝満川との分水嶺域が投馬国(現大宰府)。宝満川に達した時、馬を投げ放ち川下り。当時の筑後川は暴れ川で筑紫平野は大湿地帯。流路は降雨の度に変わる。水路を読みながら邪馬台国まで水行10日。陸路は筑後平野辺縁を時計回りに迂回し1カ月。福岡県の山門が邪馬台国だと思います。日本武の征西時、家来として同行した尾張之田子稲置(大屋田子)が末盧國造矢田稲吉です。稲置イナギは収穫した稲を保管する場で河川の近くの高台にありこの場を管理する人が稲置。後に稲城、稲木、稲吉等と呼ばれた。福岡空港付近に「稲城」という交差点(大宰府から続く丘陵の先端部)、志免町横枕遺跡の投石集団はシュメール人(志免人)?小郡市「稲吉」地区は七夕伝説の地。去年中国の研究で秦始皇帝の頭蓋骨は白人系と判明。稲吉の地名は全国に在り、日本武の征西東征に関係しているようです。スメラミコト、イナンナ神、稲吉を探求しています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
「山門が邪馬台国」私の考えも同じです(→第4話)。 邪馬台国時代に馬がいたかどうかは?ですが、経路についてもほぼ一緒と思いました。 色んな歴史を手繰り寄せれば、面白い事実が浮かんでくる可能性がある訳ですね。 勉強になりました。
@稲吉貞利
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 古代馬は船には乗せず、頭を海面に出すように舟に繋ぎ運んだようです。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
へ~、知りませんでした。 当時の船は小舟だったでしょうから、てっきり仔馬の時に運んだものと考えておりました。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
平原王墓出土の内行花文鏡は「後漢」の鏡。漢鏡の出土は平原遺跡をはじめとする北部九州に偏在するのは事実ですが、卑弥呼が朝貢したのは後代の「魏」(後漢は3世紀初頭に滅び三国時代になる。漢の都「洛陽」を引き継いだのは「魏」)。以後の舶載鏡は「三角縁神獣鏡」をはじめとする「魏鏡」が中心となりこれは近畿に偏在して出土します。3世紀以降北部九州での鏡の出土数は極端に少なくなる。と言う考古学的事実をどうお考えになりますか?
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
平原1号墓から出土した40面の鏡のうち、漢代の舶載鏡と結論付けられているのは2面だけです。超大型の内行花文鏡を始め、多くは糸島周辺で製作された仿製鏡と思っています。 勿論600面を超える三角縁神獣鏡は、国産品とも思っています。これは畿内に起きたヤマト王権の鏡で、3世紀以降のヤマト王権の勢力拡大を表していると思います。 このあたりの鏡についての考察は、このシリーズの第5話で述べていますので、ご参照頂ければありがたいです。
@トラにタヌキにカバさんよ
3 жыл бұрын
吉野ケ里遺跡懐かしい。大学時代発掘されて、よく夜中いってたな~~ 朝倉の卑弥呼の湯も行ったことある。 朝倉の地図みると山などの配置が奈良とそっくりなんですよね~~ ところで ひみこ って個人名なんですか?役職名なんですかね? 音でいうと役職なんですけど、その生死の記述みると個人なんですよね~~
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
卑弥呼、個人名なんでしょうね。 卑弥族という部族が居た、という方もいらっしゃいますね。 卑弥呼の湯は、行った当時は水害の後でまだ本格営業ではなかったですが、泉質は最高でした。 うちは結構温泉好きなんですが、 少しイオウの香りがする、ツルツルの炭酸温泉でした。 この条件が揃う温泉はそんなにないのでは、と思いますね(笑)。
@トラにタヌキにカバさんよ
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 卑弥呼が背中流してくれます。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
でしょうかね(笑)。
@yutakayasunaga8054
3 жыл бұрын
北部九州が元大和三山で古いですね
@miredmire
3 жыл бұрын
邪馬台国が何処かは何処でも良いと思っています。邪馬台国の時代の稲作が労働集約型の水田耕作でない前提なら、日田盆地も有力かもしれません。平らな盆地に川が蛇行し三日月湖が自然に形成され続けるには絶好の地です。水筒ジャポニカ種を撒いておくだけで定期的な収穫が見込める地です。洪水時の退避場所としての小高い丘も在り退避場所の土盛り(古墳)を造る必要も無さそうな地です。無論当時は樹木で殆どが覆われていた可能性も在りますが川となった所と三日月湖だけは大木はなくなっていたことでしょう。溜まって天然の腐葉土も農業には有効です。川伝いの水運の要衝で天領と成っていた地でも在ります。遺跡はもう川に流され続けていて全く出ないでしょうけどね。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
「遺跡はもう川に流され続けていて全く出ないでしょう」に、目から鱗・・の思いです。 確かに筑後川の中流域は夜明けダムが出来てもなお、洪水はよく起きます。 昔はさぞ頻繁だったことですよね。 卑弥呼の館も墓もそうなっている可能性もある。 だからといって論拠にも何もならないのですが、気持ちは少し楽になりました。 大変気づきを頂けるご意見でした。 もちろん日田盆地もあり得ますね。
@miredmire
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 有難うございます。古代の川は誰も土手は築きませんから、通常流量では流れが早いところのみ川底を削りつつ緩いところには土砂を積上げてしまいます。盆地の形成自体を考えたら、洪水時の流れの勢いで削りとったものも含めて、盆地には多くの土砂が溜まり扇状地化するので、運が良ければ埋まって遺跡が保存されることも在るのですが、軟な人が造ったものは確率的に削られて流される確率がより高かったかに思うのです。それに近世まで残っていたとしても、水に困らない盆地は、溜池より農地を好んだでしょうから盛土も均して三日月湖を水田にしてしまったことでしょうね。近世以降は干拓埋立てが行なわれ農地を増やして行きましたから今の平地内の盛土遺跡は全て喪失したでしょう。上手く埋まり地中に保存された所だけが遺跡として発掘対象に成っているだけかと思います。縄文期から言えば万年単位で自然は削り埋めて、遺跡を壊し保存して来ましたし、残りは人が均し破壊しました。 だから発掘した遺跡のみで描ける世界は全体のほんの一部だけ、「○枚の鏡」で学説を立ててもその数を超え、他所でも発掘がされると想いだけが残ることに成ります。天変地異も含めて考えると古代の権力体制が今の我々が思う程には、固定的で長く続くものだったとして考えることも問題だとも思います。伊都国と奴国の位置と範囲は流動的であったものとも思っています。国の長なんてその個の能力次第で権力も変わったことでしょう。 多分生業として観ると海にそれを求める文化も山に求める文化もそして水田に求める文化も永く共存し、民族的には別の存在として併存していたと考える方が自然に思います。文化が異なれば日常の会話内容は代わりますし言語的な一致をベタに求めるのも野暮と言うものとも思います。台湾も日本が統治する前はそういう雑居地でした。 まああんまり広げ過ぎると何も言えなくなりますが今の記紀や史書による紐付けは一度全て切離して、純粋に地層の変異と年代測定による実年代の考古学的推移のみで見直してから、司書は主観的創作物として参考にする程度に留める方が学問的には正しい方向性の様に思っています。その意味で史実はどうであれ、九州王朝説は貴重です。邪馬台国そのものは大陸の史書のみによる論争です。距離が出て来ますか、それはどうやって測ったのか。可能性として半島内は過去の往来で水行なら往復日数等で決めたのかもしれません。でも対馬壱岐松浦ルートの水行は聞取りかもしれません。九州に入ってからの陸路は時間か歩測かもしれません。そして水行も航法により時間も変わります。帆船、ろこぎとオール内陸の竹竿で状況は激変します。牛馬に引かせたらどうでしょう。当時の測量術として緯度変化を距離としたとの推定も可能ですが一度の測定で正確に出せたかは判りません。方角も磁石による羅針盤はまだ無かったと言われますし北極星の候補も今とは別の星であったと言います。晴れていたら朝と夕の太陽から比較的正確な南北を認知出来たでしょうがそれは晴れた日に一日滞在した場合だけでしょう。それを推定するには村の建物建付け、木の切り株の年輪くらいです。まあ、偶然渡り鳥の飛行方向を視て判断したかもしれませんが、列島側に測量図が在りそれにより数値を書いた可能性もゼロでは在りません。使節の往来も実際在ったのかも疑うなら、貢物は海人族の半島での現地調達品であった可能性ね在りますし、朝貢の下賜品目当ての騙りの可能性も出ます。マルコポーロの様にジパングを語ったに過ぎないのかもしれません。史書という読み物に考古学を符合させるのではなく、地層の徹底した年代特定を基盤に考古学上の年表に史書との関係性を吟味する様になることが本来の歴史学的アプローチかと思います。村興しの動機は当時の歴史とは無関係ですから。 今後の発掘で木簡が大量に発見されることになれば大騒ぎに成るでしょう。年代測定が近ければ此処だと必ず言う人は出ます。人はそういう生き物だからです。でもそれに邪馬台国と断定される記述が無い限り確定は出来ないのです。九州説もそれは同様かと思います。楽しんでいる自分がここに居ますけどね(笑)。本当によく調べまとめていらっしゃいますね。凄いと思います。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
多くのご示唆、ありがとうございました。 やはり客観的に言えることこそ大事、ということですね。 学問や研究の地道な進展に期待したいと思います。 私自身はただの古代史ファンなので、勝手な推測をすることもあるのですが、その時でも色々な可能性を残しておくことが重要だと痛感しました。 固定観念を持っていての推測では、真実にたどり着けない! ですね。 ありがとうございました。
@miredmire
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 でも、新たな知見を加えながら地道に時系列に沿って事象を整理して居らっしゃる姿勢にはファンの域を抜けるものを感じています。考古学、歴史学はそうやって一歩前に進んで行くものと思いますよ。記紀等の史書は書物ですから背景の道標の役割は果たしても証拠としては「伝聞程度」に過ぎません。埋蔵文化財と言う物証から立証出来なければ、学問的には「思い込み」を披瀝するに等しいものと思っています。大和朝廷視点での支配が地域視点ではマウントされている認識すら無いことも現実には在った筈です。神でも神と理解ってもひれ伏さない人は何時の世にも居ますからね。これ言うと異端者と感情で決めつける人も居るのも現実ですけどね。それは全てスルーしたいものです。 自分が埋蔵文化財の全権を持つならば、都市開発時の地質調査の地層コア標本は。全て集中保管し後の研究に役立てる様にしたいですね。そうすれば古来より利便性の高い平地の天変地異が細かく時系列の中に落とし込めるからです。埋まった下には遺跡が保存された可能性が高いのです。保管コストは大変ですが、開発時の土地所有者への負担と比べると小さな負担の様に思います。木の切り株や年輪、花粉にプラントオパールと宝の指標は地下に在ります。その様な集中的な調査研究が一つの都市ででも成されるなら、考古学の在り方も変わって来ると思います。自分が生きている間は無理かな。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
お誉めのお言葉恐縮です。 ご提言にあるような地質調査を、例えば太宰府とかでやれるものなら、とても面白い古代史資料が得られるかも知れませんね。 皆さんの声がより届くようになればいいですね。
@隆一西
Жыл бұрын
興味深く拝見させて頂きました( ・ิω・ิ)✨私は魏志倭人伝の記述や、九州人という事もあり頑として九州説1択ですwwなお、吉野ケ里遺跡は規模からして抜きん出てますので、一大率が置かれた伊都國ではないかと考察していますが厳しいですかね(¯―¯٥)笑
@これはどうでしょう
Жыл бұрын
吉野ケ里遺跡は、発掘済みの遺跡としては随一の規模ですが、筑紫平野にはまだ一部しか発掘されていないけど、吉野ヶ里クラスの大規模集落が多数あるとされています。 畿内説の人も、纏向を全部掘れば凄いのだ、とおっしゃってはいますが・・・(笑)。
@沙路ひろあき
4 жыл бұрын
賛成?そんな気もしますね。吉野ヶ里には行きましたが朝倉に行ってみたいですね。コロナが終わって福岡空港に行って見ます。それからバス🚌?
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
是非、行ってみて下さい。 バスの経路は知らないので調べました。 福岡空港から甘木ICまで高速バスで38分。 ICから平塚川添遺跡まで1kmほどです。 (これどう旅行ナビゲーター・・笑)
@康一久保
5 жыл бұрын
九州人としては、そうであってほしいΨ( ̄∇ ̄)Ψ
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
そういう願望は皆さん少なからずお持ちかと思います。それは置いといても「九州に間違いない」と思っています。
@irimiki4607
3 жыл бұрын
平塚川添遺跡の本当の姿がどの程度なのか。そこが吉野ケ里以上なら本命の可能性がある。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
そうですね。福田台地、掘ってもらいたいですね。(勝手ですが・・・)
@funasanlibra
4 жыл бұрын
私も北九州説の方が論理的だと思います。ただしあと一点疑問があるとすれば、当時多くの人を支えることができた食糧調達の問題のみです。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
邪馬台国でも稲を栽培していた、とありますから、数百年間で徐々に水田を増やし、結果としては北部~中九州にかけて広大な地域に多くの人々が住んだ痕跡を残すことになった、というのがこの地域の弥生時代、だと理解しています。
@匡-t6c
4 жыл бұрын
福岡県糟屋郡久山町に山田と猪野と言う地名があります。 Yamada とino Yamadaをyamata と読みつなげると Yamata ino となります。 邪馬台のだと思います。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
なるほど、面白いですね。 邪馬台国をyamato国と読む説もあるようです。 中国人では無いのでそのあたり疎いです。
@daikozuru6969
4 жыл бұрын
久山町在住のものです。山田のトリアスモール横に、新幹線のトンネル工事当時に一部削られた巨大な山があります。鳥居があり「かため(かた)やま」と呼ばれ人工的にかためて作られたのでこのように呼ばれ、私は古墳だと信じています。ただあまりにも高さが一般の古墳と違いすぎて、形もオニギリのようにきれいな丸なので異色です。それと猪野神社から見ると真っ直ぐ一直線にこの山があり(風水的?)なんらかの関係があるように思えます。このように古墳と思われないお墓が実は卑弥呼の墓だったりして、と空想をめぐらして楽しんだりしています。発掘できれば良いのですが。あと近年、国の史跡文化財に指定された首羅山遺跡からも中国、韓国など大陸との関係を示す遺物が発掘されています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
へー。 面白そうなので、地図で調べてみました。 猪野神社は伊野天照皇大神宮で、 かためやま、は黒男山と記載されている高さ50m位の山でしょうか? 確かにおにぎりの形ですね。 この山が人工的に・・・というのは何か伝承とかからでしょうか?
@トンカラリン-y1y
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 伊野天照皇大神宮は、倭(ゐ)の天照皇大神宮の意味でしょう。 「倭(ゐ)の天照皇大神宮」には神功皇后の斎宮もあることから、伊勢神宮(天照皇大神宮)の元祖だと思う。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
@@トンカラリン-y1y さん そうですか。勉強になりました。
@asamico2716
25 күн бұрын
魏志倭人伝に書かれてるのは吉野ケ里遺跡。本拠は平塚川添遺跡で、隠していた。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
鉄器が北部九州に偏在するのは当然といえば当然。列島の鉄器使用は前4世紀北部九州に始まり以来鉄器の輸入元ですからね。歴史的に鉄素材の蓄積は厚かったのでしょう。弥生時代後期になると他地域でも鉄器利用が盛んになります(考古学的事実)。池上曽根遺跡では鉄器工房の後も確認されています。遺物としての鉄は酸化して失われやすい、との特徴がありますのし、単に「鉄製遺物数」が多いことを根拠に「ヤマタイ国」と比定するには短絡的に過ぎると思いますが。北部九州に偏在しているとご指摘の「鉄製遺物」の年代は全て「3世紀」のものなのでしょうか?そうであれば納得がいきますが、弥生期を通して多い、というのであればヤマタイ国比定根拠にはなり得ないかと。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
魏志倭人伝で鉄鏃を用いていたと記載されているのは邪馬台国の特徴ですが、倭国相乱で鉄鏃を用いたのは、3世紀以前もそうでしょうし、邪馬台国の周辺国もそうでしょう。 畿内の弥生時代の遺跡から鉄製品が出土することはあっても、鉄鏃がほとんど出土しないのは、鉄鏃だけ酸化・消失した訳ではなく、戦いが少なかったことの証しでしょう。 畿内での文明進化→ヤマト王権の誕生の形態からは、倭国相乱は想定できません。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様、鉄鏃が少ないのは弥生後期まで鉄の流通を北部九州が牛耳っていたからで、纒向に集ったと思しき国々(出雲・吉備・讃岐・丹後・畿内・尾張)を総じてみれば数は拮抗します。鉄の流通を北部九州勢力に握られている事を心良く思わない東方の国々が結託して北部九州に対抗しようとした、とは考えられませんか?それこそが倭国大乱出会ったとは?奈良盆地は天然の要塞とも考えられ、それこそ周りを取り囲む様に環濠集落はそんざいするのですが。。。。また、弥生中期以降瀬戸内に高地性集落が密集するのは北部九州の侵攻を警戒したため、とは考えられませんか?
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
瀬戸内地方にも当時いざこざが起こっていたことは想像できます。故の高地性集落だと思います。 しかし、軍事的集結をしていない纏向の卑弥呼・邪馬台国が、群雄割拠している北部九州の国々を支配できる道理がありません。 弥生時代の多くの人々、権力が船に乗って瀬戸内海を西から東に移動していったことも想像できるわけですが、当時の船で瀬戸内海の東西を権力支配することは物理的に難しいと考えています。 兵士を送るにも水行30日もかかる場合、兵糧だけでも大変なことになります。 鬼道だけで統治できる道理はありません。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様。卑弥呼には弟王がいたとあります。彼が俗事を預かっていたのでは?何度もいいますが、纒向型前方後円墳からは沢山の鉄鏃をはじめとする鉄製武具が出土します。これは3世紀中庸のものです。3世紀の纒向の支配層は総じて「武人」であったとおもわれるのですが?
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
@@田中健一-s1c さん、 卑弥呼が死んで武装しても遅いのでは?
@ginjitakumi4569
4 жыл бұрын
ほぼ賛成。私も筑紫平野が一番可能性が高いと思います。貿易都市の伊都国。そこを押さえるには、近いところでないと。畿内説を取るなら西日本を支配しないと、伊都国を押さえていることにならない。故古村豊氏曰く、卑弥呼は測量技術を持っていたのでは?と。氾濫した筑後川を整備した卑弥呼の一族。測量で暦も司ったり。 筑後川の上流に、日田盆地というものがあります。ここで鉄鏡が発見されています。曹操の鏡に近いもの?という話題も。再現CGを見ると、銅鏡と比較にならないほど凄さを感じます。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
賛同のご意見頂き、ホッとしています。 (最近時、否定意見がかなり増えたので) 日田の鉄鏡。レプリカを写真で見たことあります。 まあ、美しかったですね。実物を是非見に行きたいです。ちょっと遠いですが・・・。
@ginjitakumi4569
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう さん。40年来の筑紫平野派です。伊都国の近くで多くの人が住めるのは筑紫平野ぐらいですし。 畿内・四国説を取る方は北部九州も支配していた証明が必要ですね。伊都国を押さえる=北部九州を押さえるということですし。 実は実家が鉄鏡出土地の近くでして。地の利を考えれば、筑後川を使って朝倉等を船で攻めやすい場所が日田盆地。 作家の関裕二さんも、日田の地形と鉄鏡のことは著書で引用されていたり。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
なるほど、日田から筑後川経由で筑紫を攻める、ですか。面白いですね。 今は夜明けダムがあって川の様子がよくわからないですが、昔は日田と筑後間を船が往来していたんでしょうか? 標高差をみても、せいぜい10数mくらいに見えます。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@ginjitakumi4569 様、直接伊都国では無いですが、福岡市 那珂八幡古墳、筑紫野市 原口古墳、いづれも3世紀中庸の前方後円墳で三角縁神獣鏡が出土します。前方後円墳・三角縁神獣鏡共に畿内に起源がある。少なくとも影響下にあった証左と考えますがいかがですか?
@ミステリー事件簿
4 жыл бұрын
good 押させてもらいました。ご自身で撮られた動画も織り交ぜてよい動画だと思います。 一つ質問があります、九州北部説の人たちはフミ国から船で1ヵ月かかったと記述されていたことに矛盾を感じないのでしょうか? 博多までは歩いてきたのに筑紫平野に行くのに、反対の方向のフミ国まで行って、そこからわざわざ舟に乗ってるっておかしくないですか? この答えをだれか教えてもらえないでしょうか。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
評価ありがとうございます。 この動画の元々の主旨が、古代史謎を探索しながら夫婦で旅をする、というものなので、こんな動画形態になっています。 で、不弥国からの水行ですが、第4話で紹介しているように、川船と解釈しています。 ご参考になれば幸いです。
@ミステリー事件簿
4 жыл бұрын
返信ありがとうございます。 早速見てみます!
@yutakayasunaga8054
3 жыл бұрын
帯方郡より一万二千里→不彌国まで一万三百里→残り七百里(1300X76=98,8KM)福岡県宇美町より98,9KMのところです!
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
私もそう思って、第4話にアップしました。
@higonokaze
3 жыл бұрын
取材時期明示は投稿時起点ではおかしい。自分は投稿されて1年半後に見ているからテロップの表示は何の役にも立たない。「2017年夏撮影」と書けば10年後に見ても撮影時期で迷うことはない。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
10年後に見て頂いても、2017年夏ごろ吉野ヶ里を訪問したのだろうと分かって頂けると思います。 時事情報を扱っている訳ではないので、こんな感じで運営しています。
@higonokaze
3 жыл бұрын
投稿年月から計算しなくては判断できないだろ?改善しなけりゃ見ないだけではあるが・・wW
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
何の判断をされようとしているのか理解できませんが、了解です。
@mabuhay3316
4 жыл бұрын
吉野ヶ里は委奴(イト)国じゃないですかねー。倭人伝記載の邪馬台(ヤマト)国は宮崎か徳島じゃないかと思いますねー。結局ヤマト国の台与ご一行は九州から逃れるような形で纒向に着いたんじゃないかと思いますので、その後以前の弥生系の勢力が九州にできたんですかねー。王は阿毎(天、安部?)とありますねー。日出る国の書簡を送った人の系統ですよねー。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
一大率を置いた伊都国の近くに津(港)がないと、帯方郡からの使者たちを検閲できません。 魏志倭人伝にはそう書いてありますので、吉野ヶ里は伊都国ではないと思います。
@mabuhay3316
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょうさん 東南500里陸行を普通に読めば吉野ヶ里になると思いますけどねー。
@mabuhay3316
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう さん 至ると到るの意味も微妙に違うのかもしれませんねー。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
大事な物品を携えた使者一行が、背振の山々を通るこはできず、迂回して吉野ヶ里へ行くのは大変です。 確かにこの「東南陸行五百里」は解釈が難しい記述ですが、伊都国については、 糸島は、昔、伊覩縣(いとのあがた)、その後怡土(いと)郡と言われた場所と志摩郡が合わさり糸島となったことや、この地域の圧倒的な出土物から考えると、伊都国の比定は疑いようがありません。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そこはよく指摘されるところですが、解釈が難しいですね。
@とよ-v7l
4 жыл бұрын
楊貴妃の墓は油谷町にあります。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
楊貴妃の墓は聞いたことがあります。佐々木小次郎も、さもありなん、ですね。卑弥呼の墓はどこにありますか?
@とよ-v7l
4 жыл бұрын
楊貴妃の墓は長門市油谷向津具下、の ニ尊院にあります。 佐々木小次郎の墓は、なんでか、阿部町福田にあるんです。 長門に行く時に、豊北町の人類学ミュージアムも見学されると面白いと思います。その先角島大橋もいいですよ! 卑弥呼の墓は下関にあると書きましたが、確認したところ、おのの小町でした。申し訳ありません。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そうですか。 ご丁寧に情報ありがとうございました。 角島大橋も一度は見てみたい、ですね。
@とよ-v7l
4 жыл бұрын
不確かな情報ですみませんでした。ネットでは下関市豊田町の安徳天皇陵墓や萩市西堂寺など卑弥呼の墓と出てきますね。関西の方にもある様にも出てきますが、どれが本当でしょうか謎ですね!これからも興味深くて楽しい動画楽しみにしております。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
いえいえ、楽しい情報ありがとうございました。 多分卑弥呼の墓は、お釈迦様の次に多いのではないかと思います。 だから当たる確率は低いかも知れませんね(笑)。
@一毛和
4 жыл бұрын
平塚川添では7万戸は養えないのでは。吉野ケ里も同様。九州の別の場所と思うが。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
どこも多少多めに語られているのだろう、と思っています。 比較的に考えると、この動画で言っているように平塚川添遺跡に隣接する福田台地はかなり広範囲に点在する遺跡群で、ここと吉野ヶ里は筑紫平野の中で分かっている集落跡遺跡の規模としては別格と思います。 ただ、第4話の方で別の場所を提言しています。
@urlinkin55
4 жыл бұрын
中国の数字は今も昔も信用できるとは言い難いので、正しければということですね。 「魏志倭人伝」に記される数字が正しければ、所在論争はこんなに起きていないでしょうしね。まあ九州には違いありませんが。
@youn7951
2 ай бұрын
九州説が明らかになってくると、奈良推しの先生方の手のひら返しがあると思ってます。邪馬台国は大した国ではなかったとか、小さくて中国の属国だったとか。中央の先生達が古代史を好き勝手にしているのでは?と思います。私たちは本当の日本の姿を知りたいだけなのに。 とても楽しく、とても勉強になりました。太宰府のそばに住んでいて、馴染みのある場所ばかりですが、知らなかった事ばかりでした。ありがとうございます😊 邪馬台国説で、どこが正解だったとしても勝ち負けを言ってくる人は本当の日本の歴史を探究している人ではありませんね。
@これはどうでしょう
2 ай бұрын
おっしゃる通りですね。 皆さん、基本的には地元押しで、大学の先生たちも研究費の関係かどうか知りませんが、学派をそのまま踏襲していらっしゃるようです。 ここ1世紀の間にも色んな物が発見されているのに、アカデミックに考えて関西は畿内説、関東は九州説・・・ということになるのは変ですね。
@原平次基
4 жыл бұрын
宗像周辺に上陸して 北部九州のどこかに邪馬台国。近畿や四国ではないと思いますよ。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
宗像上陸説も知っていますが、私は宗像ルートは、むしろ第2ルートではないかと思っています。 つまり邪馬台国勢力を避ける国内勢力の半島渡航ルートとして、神湊~大島~(沖ノ島)~対馬~朝鮮半島がその後開拓されたのではないかというものです。 まだ、全然仮説ですが・・・
@原平次基
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 そうですね。佐賀平野の勢力や博多の勢力がそれぞれ 大陸とのル-トを独自に持ってたんでしょう、しかし倭人伝の記述通りなら 魏使の宗像周辺の上陸が可能性高いとおもいます。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
神湊上陸説は知っています。 最近、福永晋三氏が唱えられているKZbin動画をよく目にします。 ただ、多くの地名比定話が多く、結局宗像上陸の根拠は、一大国から千余里は70kmで、距離的にはここが相当するということしか、頭に残りませんでした。 すごく研究されている方のようなので、残念でした。
@原平次基
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 福永先生の動画も見てるんですが、出発点は高木彬光さんの「邪馬台国の秘密」なんですよ。愛知県人だけど 北部九州へ散策行ってたりしてましたから。ただ 北部九州「邪馬台国」は確実にちかいでしょうね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そうだ! 昔読んでました、「邪馬台国の秘密」。 でも、内容も含めてすっかり忘れてました。ありがとうございます。 ところで大島も含めて、宗像は神秘的なところだと思いました。行ったのは一昨年でした。
@もっちもっち-g8g
4 жыл бұрын
徳島県にある説があります。徳島は発掘が禁止されてるからせこいですよね。データだけ見ると古代はあまり発展してないと込みたい
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
徳島説、最近気になりますが、どうも雲上の話のような気がしてしまいます。
@津上しょういち
4 жыл бұрын
そこは、徳島県についてはなにも知らないからですよ。と、だけ述べておきます。
@haniwa-f4r
3 жыл бұрын
製鉄や土器の製造のため木材を切り倒すため、木材の必要性で邪馬台国は移動していたみたいですよ。
@田中太郎-h3f4o
4 жыл бұрын
邪馬台国は、福岡県旧山門郡(現みやま市)瀬高町女山(ぞやま)近辺だと思う。吉野ヶ里遺跡や平塚川添駅遺跡は、邪馬台国のライバル国の遺跡だと思う。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
私も自然にたどると、その辺りではないかと思っています。ただ確証は無いので、漫然とした思いです。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
ウプ主様、鉄鏃分布の件、原典にに当たりましたが酷いですね。3世紀までのデータとしながら意図的に畿内のデータカウントしていませんよね?箸墓に先立つとされるホケノ山からだけでも60本も出てますよ、太刀・刀剣類も多数。纒向型前方後円墳は4世紀の築造だとおっしゃりたいんですかね?ホケノ山からは銅鏃も出ていて、武具満載!戦う気満々に見えるんですが? (追伸。。安本さんて流石は心理学者だけあって印象操作うまいですね(^^))
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
ダブりですが、返信しておきます。 邪馬台国の会さんのデータベースでは、弥生時代の出土分を整理されています。 一方私の考えは、布留式土器が出土しているホケノ山古墳は箸墓と同時期の布留式期と分類する考えに賛成ですので、古墳時代と思っています。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様、箸墓は4世紀に下ると? 件のデータベースでは「3世紀までの鉄器出土状況」とされていたように思います。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
田中健一さんからの他のコメントにて意見交換中に付き、返信は少々お待ちください。
@you55
4 жыл бұрын
こう考えると本当の古都は京都ではないですね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
確かにそうですね。 福岡県には京都(みやこ)郡もありますし。
@yutakayasunaga8054
3 жыл бұрын
北部九州→奈良→京都 ですかね !神社の歴史を見ると良く解りますね
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
@@yutakayasunaga8054 さん そういう流れでしょうね。
@ayabe9036
3 жыл бұрын
近畿の国の人「邪馬台国?ああ、あの九州の田舎の戦争ばかりしている蛮族の小国の集まりか」
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
@@ayabe9036 さん、 その見方。正しいと思います。
@もっちもっち-g8g
4 жыл бұрын
ひみこじゃなくいよのはかじゃない?
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
平原王墓は卑弥呼の母世代の墓だと言われています。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
鏡の件良い史料が見つかりました。 岡村秀典さんの「鏡が語る古代史」(岩波新書)です 氏は日本の古代鏡研究の第一人者で、その研究成果によると、九州に鏡が集積していたのは1世紀までで、2世紀に入ると中国鏡の集積は畿内にに移る、とあります。これかなり有名な研究で、多くの先生方が引用されてます。ご一読をお勧めします。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
「三角縁神獣鏡こそが卑弥呼の百枚の鏡」、と言われている岡村氏の主張があることは知っていますが、 三角縁神獣鏡については、そうではないのでは? とする考え方もあることから、今回の動画の中で鏡について提示させて頂きました。 「九州に鏡が集積していたのは1世紀までで、2世紀に入ると中国鏡の集積は畿内にに移る」は岡村氏の考え方だろうと思いますが、私は同意できません。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様、それこそ考古学的事実に反するのでは?岡村氏の膨大な発掘成果を整理されての論考は大方の指示を得てますけれど。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
岡村氏は三角縁神獣鏡の仿製鏡の存在を肯定しておられませんが、私が第5話で指摘させて頂いた「平原王墓の鏡と黒塚古墳の三角縁神獣鏡の共通性」について説明ができません。 弥生~古墳時代の鏡については研究が日々続けられており、これについての岡村氏の考えには同意できません。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様、維新財の故地については諸説あるのは承知しておりますが、集積地については膨大な発掘調査の成果であり岡村氏の仮説ではありません。1世紀に北部九州に集積の中心があったものが2世紀に瀬戸内・機内に移り、3世紀に畿内に移ることはについては考古学的事実であり誰しもが認めるところです。3世紀、卑弥呼の時代になって北部九州から維新財の出土が激減する、この事実を「九州説」はどう説明なさるのか?伺いたいものです。 2世紀までの「鉄」の偏在(発掘の成果)を持って九州説の根拠とされておられますが、3世紀以降の「鏡」の偏在(発掘の成果)について九州説はどう解釈されるのか?
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
「3世紀以降の鏡の偏在」というのは、畿内での布留式期以降の前方後円墳からの出土を言われるのでしょうか? ご存知のように布留式期の開始時期には諸説あり、3世紀中庸という意見から、4世紀末まで多様です。 三角縁神獣鏡の評価についても同様に多様です。それを第5話で申し上げました。 論証の間違いがあれば糺して頂きたいですが、種々ある考え方は、”それぞれ”です。
@yoshitome6648
2 жыл бұрын
到伊都國 丗王有 卑弥呼が居たのは伊都国です。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
この王が卑弥呼、ですか。
@yoshitome6648
2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 魏志倭人伝には狗奴国王と倭国王。 王は二人しか出てきません。
@fujidido27
4 жыл бұрын
邪馬台国、九州説は正しいとおもいます。以下、下記に邪馬台国、大分説を記載してます。 @t
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
ですよねー! でも、@t ?? (笑)。
@sakasaka3922
4 жыл бұрын
九州説、大和説・・・江戸時代では新井白石に翻弄され、明治では白鳥、内藤湖南に翻弄される。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
おっしゃりたいこと、何となく分かるような気もしますが、具体的にはどういうご感想・ご意見でしょうか?
@malkotoisu9730
2 жыл бұрын
東夷伝のスケール感があまり合わないような気はします。ほかの東夷はモンゴルとか高句麗とわいとか韓(百済新羅まとめて)とか一国がものすごくでかいじゃないですか?なんで倭国だけ一地方になってしまうのかちょっと苦しいように思う。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
スケール感の感じ様は人それぞれですね。 私は決して苦しくないです。
@malkotoisu9730
2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう ちょっと行けば、とてつもなくでかい古墳をつくって魏の鏡を大量に集めてる国があるのになぜそっちの国のことは書かないのかも苦しいと思う。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
その頃そこで鏡を集めていた人が居なかったからではないですか?
@malkotoisu9730
2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう その年代がちょうど3世紀ごろなんでどちらか決められないゆえんなんでしょうね。わざとかと思うくらい意地悪な歴史ですね。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
先日、第7話、第8話で見て頂いたように、漢鏡にしても三角縁神獣鏡にしても、大和の地で古墳に副葬するのが4世紀からだからです。 魏から見て1世紀先の話なのです。
@利根川幸雄-x4t
4 жыл бұрын
種々の解釈があって結論がでないのは、それが九州ではないから。多くの国の名前の名残があるのは四国です。九州は四国までの通過地点、休憩地点です。昔の移動手段と長期滞在を考えたら、物が出土するもの当たり前だと思いますけどね。残念ですけど。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 が、移動の痕跡と住んで墓まで作った痕跡は、根本的に違うと思います。 また。四国の国々の名前の名残がある・・・という剣山TVの動画を拝見しましたが、代表9国の似てるという名前の説明も、納得できるものではありませんでした。 残念ですが、邪馬台国は四国には無かったと思います。
@sibainukun5433
4 жыл бұрын
昨日四国説の動画を見ました。距離の出し方を主にした物でしたが その時少し納得していましたが、矢張り九州説が正しいのかなと思うけど 優柔不断な性格故、畿内説に傾く気もする。それが良いのかも知れないけど
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
魏志倭人伝も不正確な部分を含んでいるので、いろいろな解釈がこれまで生まれて来たわけですね。だから、触れる情報によっては考えも変わっていく・・・それでいいんじゃないでしょうか、我々歴史マニアは。
@イチエフ
4 жыл бұрын
魏志倭人伝には、伊都国を刺史のように書かれているらしい。つまり九州は首都圏でない。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
魏志倭人伝のそのような記述は知りません。 伊都国に刺史が置かれていたとしたら・・・どういうことなのでしょう?
@イチエフ
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 渡邉義浩先生のお話でした。 「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書 ページ154〜
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
すみません、馴染みがありませんでした。 掻い摘んで言うと・・・?
@イチエフ
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう ご存知でしょうけど、渡辺先生のお話です。三国時代の専門家で、邪馬台国の位置について述べているわけではありません。 kzbin.info/www/bejne/bJSai6qea9Fjr6M
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
三国志の全内容を理解できれば、このころの東アジアが俯瞰できる訳ですね。 ん~~、会員登録して勉強しようかな?
@10rst48
4 жыл бұрын
邪馬台国はどっちでもいい。 古代シナの歴史書は後の王朝が編纂するので同時代の記録ではないし、 ヒミコも姫巫女や日御子と考えて一般名詞とすれば特定人名では無いのかもしれない。 九州から近畿へ日本の中心が移った記憶を神武東征神話は示しているので、その時期がいつ頃かの方が重要。 近畿に日本の中心が移る前なら九州説が有力、移った後なら近畿説が有力となるが、 移った後の九州残存勢力の記述だと捉えるとどっちとも言えなくなる。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
おっしゃる通り、どっちの時の話だよ?ということだと思います。 ただ日本の中心が西から東に本当に移ったかどうかも確かめられていない(つまり、神武が仮に西に本当に居たとしても、その時そこが日本の中心だったかどうかはわからない)訳で、この頃の日本創生期の史実を知る為には、邪馬台国がどこにあったかは、重要な出発点になると思っています。
@testtest-r2b
4 жыл бұрын
諸派どの説もよく考えられていて、史実を追う研究者には頭が下がる思いです。 そのおかげで視聴者はいろいろな考察に思いを巡らせ想像して楽しむことができるからです。 いつか解明されるといいですね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
色んな発想の糸口にして頂ければ嬉しいです。 (解明されちゃったら寂しいですけどね・・笑)
@testtest-r2b
4 жыл бұрын
返信ありがとうございます🤩 たしかに寂しいですね(笑) 世界最古の王族の出自が謎に包まれてるなんて日本ぐらいのもんですからね🏯
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そうですね。 解明されちゃったら寂しい、とか言っといて、その謎を一生懸命解きたい矛盾(笑)。
@murt2286
4 жыл бұрын
出土品は都道府県で分けるより、旧国名で分けたほうが昔の勢力圏に近いと思う。ただ、前中後とどう見るかはよく分からないけど。越の国は越前、越中、越後になるけど元々まとめられていたのは1つの勢力圏だったとか。逆に実際はバラバラだったから後に分けられたとか。どちらにせよ今の都道府県は地政学的な面は反映せず、中央政府の都合だし。 京都、兵庫なんて南北に長すぎ。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そうですね。 確かにもっと細かな地域区分で分析できればより詳しい考察ができるかも知れませんね。 お借りしたデータでお話しているだけなので、贅沢いったらバチ当たりますが(笑)。
@205刹那
4 жыл бұрын
ほんま謎だよなぁ〜
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
ですね。
@fujiwaragayouato9303
4 жыл бұрын
真実は1つ 小林恵子氏の記述の通り
@真田信繁ゆきむら
2 жыл бұрын
九州説を唱えるに当たって、魏志倭人伝にかかれた地名とよく似た地名が現代の九州にはある。 まぼろしの邪馬台国は、面白かった。 私も、邪馬台国があったのは、九州だと思います。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
確かに末盧国、伊都国、奴国の読みが現在にも通じるなら、他の国名も多くが現在に繋がってるハズですね。 そこは今まであまり考えて来なかったので、検討してみます。
@古屋公夫-s9s
4 ай бұрын
平原古墳の被葬者は鵜草葺不合命の皇后の豊玉毘売命 でず。
@これはどうでしょう
4 ай бұрын
そうですか。
@諌山満伸
3 жыл бұрын
筑豊には天皇一族の負けた隠れ里が赤村や行橋の部落になったって語り部があり北九州を通り福井、奈良に財宝を持って落ち延びたと言われてます。はじめは誰も信じてませんでしたがナホトカのタンカー事故で海流的に在りえるなって一時期盛り上がってました。又、竹原古墳には馬の壁画があり恐らく外国馬と日本馬を掛け合わせた絵で貿易をしていたのではないか?投馬国の名前は偶然ですかね?暗い烏ノ尾峠は烏尾峠を表すのでは其処に居た巫女が卑弥呼ではないか?烏尾峠にはちょっと変わった神代文字や色んな伝説が残ってますよ。位置関係も山田市と沖出古墳の位置関係も庄内平野との関係も面白いですよ!!不弥国から竹原古墳まで水航したのでは投馬国とすると山田市まで91キロくらいでないか?ロマンですね(笑)
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
そういう説話が残っているとすると面白いですね。
@諌山満伸
3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 残念ながら山田市の名の由来は良く判らない部分がありますが現在の嘉麻市の名の由来は、「日本書紀」に筑紫鎌屯倉(かまのみやけ)がこの地域に置かれた事に派生してます。
@真田信繁ゆきむら
2 жыл бұрын
磐井の反乱も有名でしたよね。 熊襲の一族も熊本だったかな? 居ました。 日本武尊に負けてしまった😵💧
@mf5073
4 жыл бұрын
間違いなく、卑弥呼は私たちの心の中にいます。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そうかも知れませんね。(笑)。
@轟ゴン
5 жыл бұрын
畿内やと最初に陸行く意味がなく、まっすぐ海進めよってなる。 糸島行くなら唐津寄る必要性ないよ。唐津から糸島って今でも断崖絶壁の道なのよあそこ、歩けるわけないやん。まっすぐ糸島行けよとなるじゃん。 水行20日は何故片道と考えるのか? 当時の日本に何千人もの従者とお土産品やら動物やら連れて来てるのに一つの港にそんなに何百艘も船あるか? 何往復かしての20日と考えられる。 定説言われてるの無視したら、伊万里→武雄→白石→水行20日→玉名→水行10日→熊本→山都としたら最初に陸行する必然性もあり、 距離も、方角もすべてが魏志倭人伝に合致するのに。
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
なるほど、なるほど。魏志倭人伝の行程では、末盧国から伊都国への「陸行」の推論がずっと謎でした。不弥国からの水行二十日は、御笠川を人力で遡上し宝満川へ抜けたことを仮定すれば進路が見えます。轟ゴンさんがおっしゃるように、伊万里に上陸すれば、武雄まで陸行し、その後また水行することが継続できそうですね。ただその場合、伊都国を経由出来ないのが残念ですね。伊都国は王国で、発見されている平原王墓や三雲南小路王墓の副葬品からすると、有力な比定地だと思います。
@轟ゴン
5 жыл бұрын
糸島は博多や筑紫を守る場合、地理や地形的に攻める側守る側のどちらにも無視できる意味のない土地。 一大率を置いても王様も街も取られちゃいます。 その点から見ても糸島=伊都はありえない。それに伊都国は王国というほどの人口はいませんよ。3王のうちの一人の武の王はいたかもですが。 武雄は四方を山で囲われて佐賀平野の奴国、熊本の投馬、邪馬台国に行く場合に必ず通らないといけない地なので 要塞には好立地というわたしの持論ですね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
糸島で発見されている弥生後期の墓の副葬品が中国、半島との明確な繋がりを示している点や、同時代の日本の他の出土品と比較しても群を抜く質、量で王墓と言えるものであること、律令時代にこの地は怡土(いと)郡と言われて継続して栄えていたこと等から、この地を伊都国とするのは順当なことと思われます。また糸島は昔、島だったことや、珍しい当時の準構造船が発見されていることから、唐津湾~博多湾をつないだ沿岸域を監督する水軍拠点として、一大率が置かれたのではないかと思うのです。伊万里~武雄ルートも面白い切り口だと思いますが、考古学的な裏付けが出てくると、成り立つかも知れませんね。
@urlinkin55
4 жыл бұрын
魏の群使は唐津(末盧国)では降りず、経由しただけで伊都国に到り駐(とど)まっています。ただ、壱岐からだと松浦半島先端が最も近いので、古代ならまずその奥の唐津(末盧国)を記し、陸行だと伊都国まで500里の距離と記したといえます。 推測ですが、もしかしたら松浦川を遡って佐賀平野方面に行く「人」がいたために、唐津(末盧国)で下船させたのかもしれません。
@十蘭コメント
2 жыл бұрын
「 邪馬台国は、九州にあった!」のですね。すると、邪馬台国の女王・卑弥呼の塚は、九州内の何処かに、草生して、埋もれています。2世紀頃の塚を見つけるのは、大変困難な事業になります。手当たり次第の発掘が、必要になります。 それをやれば、必ずや見つかります。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
その通りですね。 一方で、久留米市の祇園山古墳も、確認されているの3世紀の墳墓としては、卑弥呼の墓の可能性がある有力な墳墓だと思います。
@村島至-p8y
4 жыл бұрын
皆さん、勘違いしてます。九州にいたかもしれない。その後、四国の徳島に移動したかもしれない。最終的には畿内に移動したかもしれない。倭国を治めるには色んな場所を移動しなければ統一は出来ないでしょう!九州説も事実でしょう。畿内説も事実でしょう。四国も…
@あシ-p2v
4 жыл бұрын
村島至 四国は現実的ではないなぁ。証拠がない、希望的観測に過ぎない。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 おっしゃるように、九州から畿内に移動した氏族がいたでしょう。徳島を経由したかもしれない。吉備の氏族も畿内で合流したかもしれない。 ただ、今回のテーマは「邪馬台国」です。 読み方は、”やまと” でもいい、”やまいちこく” でもいい。あった場所は北部九州に間違いないと思うのですが・・・ その後の歴史の動きは、これからまた皆さんと考えていきましょう。
@足柄山の出目金太
4 жыл бұрын
九州の各王家は卑弥呼より統一されたと書かれ要るが大和王朝仲哀天皇熊襲征伐に随伴した神功皇后が九州を統一し大和王朝に支配され邪馬台国が畿内に移ったとは考え辛い元々と畿内に有れば別だけど。
@elelsse
3 жыл бұрын
@@あシ-p2v では、あなたの認める証拠とは何?
@mecom3450
2 жыл бұрын
邪馬台国四国は倭国大乱から神武東征までの亡命政府としてあり得たと思います。 栄えていなくても宗教的中心ならいいのです。 たとえ本家九州の分家だとしても宗教意識が維持されていればいいわけです。 五斗米道(鬼道)さらには古代ユダヤ教(物部、忌部)の影響の他に、 辰砂産出による経済的優位性もあったでしょう。 伝承を読むと神武は四国で生まれたと推測できます。 ただしいわゆる邪馬台国阿波説と自分は違い、古事記読解は阿波古代首都説の強化には不十分と考えます。考古学的検証が足りません。
@平島誠一郎
3 жыл бұрын
神武が皇太子になって、関西に行ったのは分家だったからだ。本家なら新しい王朝を開く必要も無い。神武の父は王だったが、本家ではなくうだつが上がらないから宮崎から関西に旅だったのだ。本家を取り込むのは白村江の戦いで九州王朝の王が唐に捕まり長安に10年幽閉されてる間に策略をやって700年ごろに併合する。唐が大和朝廷を認知するのは、701年で文武天皇は大宝元年として年号は令和まで続いている。大化、朱雀、白鳳は九州王朝の年号。中国は、認知していない国には年号は作らせていない。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
なるほど、本家の筑紫の国から分家として袂を分かち、山越えして高千穂の地に(神武の家として)降臨し、宮崎で本拠地を構えた、という筋書きでしょうか? 逆に質問してすみません。
@酒井紀喜-e5n
4 жыл бұрын
僕も天神に3年居て、博多に に4年居たから九州に居て欲しいけど、残念ながら四国で決定ですよ!
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
最近、四国だとおっしゃる方が多い気がします。 理由はよく分かりませんが・・・
@神谷昭利
4 жыл бұрын
酒井紀喜 その通りです。 日本経済の失速から挽回する為に、チェンジジャパンのユーチューブです 消費税と年金のトピックを見てくださいね
@酒井紀喜-e5n
4 жыл бұрын
kzbin.info/www/bejne/n3y4YnyphL58bc0
@notexy21
4 жыл бұрын
九州出身の人は九州説なんだと思う…自分は関西出身だから巻向遺跡で決定
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
古代史ファンなれば、それでいいのだと思います。私も九州出身ですし・・・(笑)。
@notexy21
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 卑弥呼は大和土着の三輪族の家長だったのだと考えています。出雲王朝または大和王権と連立で倭国を統治していたのでしょう。魏志倭人伝の「乃共立一女子為王」の記述が、卑弥呼の政治パートナーの存在をほのめかしています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
なるほど、連立といえばヤマト王権も連立政権と考えられていますね。でも邪馬台国の連立には30国が必要です。
@notexy21
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 記紀に明確に卑弥呼の記述が無いので、卑弥呼は今風に言うと「男系」の皇族では無いの確かそう。邪馬台国=大和説をとるならば、卑弥呼は三輪族が大王の外戚だった頃の家長的な存在だったんだと思います。三輪族も九州起源説もありますが… 「記紀は編年がデタラメ以外は結構実史に基づいている」という、私の推測ですが。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
多くの方々が推論をもち、いがみ合うことなく、喧々諤々。 古代史マニアの楽しいひと時ですね。 是非楽しみたいと思います。
@心の親父
4 жыл бұрын
邪馬台国と書いてある説は全部嘘です。臺(台)ではなく壹です。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
邪馬壹国説の方がいらっしゃるのは知っておりますがここでは広く、いわゆる邪馬台国と捉えてください。 字の話はしておりません。
@urlinkin55
4 жыл бұрын
「魏志倭人伝」はたしかに壹(壱)ですが、それ以外の原典や古代文献はすべてが臺(台)です。のちの学者たちが実際はどうなのか調べなおして、やはり「邪馬台国」と表現しているのです。ですから「邪馬台国と書いてある説は全部嘘」と決め付けるのは暴論ですね。
@心の親父
4 жыл бұрын
@@urlinkin55 魏志に基づき、邪馬壹国を推定するならあくまで「壹(壱)」で考察すべきです。他の出典が「臺(台)」だからと言うならば、そのことを記載した上で「壹」 は誤記であろうと書かないと科学的ではありません。
@urlinkin55
4 жыл бұрын
@@心の親父 様 ご返信はありがたいのですが、歴史を科学的だとかちょっと何をおっしゃられているのかロジックが分からないのでお好きにされてください。返信失礼いたしました。
@平島誠一郎
3 жыл бұрын
日本書紀の神武天皇の所に「歳十五にして太子となる」と書いている。皇太子になって、大和朝廷を作ったのは、本家では無かったことを意味する。だから関西まで行ったのだ。旧唐書倭国日本伝には、日本は倭国の別種で、倭国の地を併合したと書いている。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
筑紫の国ですでに太子になっていた、ということですね。 どっちかが本家でどっちかが分家ということでしょうか?
@asa01053
4 жыл бұрын
ユダヤ人の天武天皇が、奈良で活躍したみたいですね!秦氏の歴史がわかれば、古代の日本の歴史が見えてきますね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
ん~、その辺は詳しくないので・・・ 秦氏は興味ありますが。
@真田信繁ゆきむら
2 жыл бұрын
天武天皇がユダヤなら、天智天皇もでしょ。 天武天皇は、天智天皇の同母弟やし。
@黒嵜潤一郎
4 жыл бұрын
魏志に出てくる卑弥呼は、婆ちゃんで、人前には姿を現さなかったと言います。ボランティアで1000人が侍っていたとも。男子一人が身の回りの世話をしていたともあります。どこか宮殿の奥にいたのでしょうね。お墓は円墳だか方墳だかわかりませんが、130mくらいだったとも書いてありますから、それっぽいものが比定されないと説得力がありません。奴隷が数百人殉葬されています。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
当時の魏では単里が使われていたと思われますので、径百余歩は25m余りということになります。 いずれにしても、卑弥呼のものと思われる墓が発見される時がこの議論の終点ですね。
@黒嵜潤一郎
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 返信ありがとうございます。25mなんですか。予想していませんでした。びっくり。古墳時代前期の、岡山の茶臼山や苅田町の石塚山が130m位のサイズと言うことですし、もっと古い纏向石塚でも96mなので、25mだとすると卑弥呼の小物感が否めませんね。このへんはどう解釈したらいいでしょうか。 私は関東民なので、邪馬台国がどこにあっても関係ないだろ派ではありますが、とても興味があります。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
卑弥呼が大物だったか小物だったかは別にして、邪馬台国の統治範囲は、倭国の中でもそんなに広い範囲ではなかっただろうと考えています。 せいぜい北部九州一帯が倭国だったのだろうと。 ただここで紹介した平原王墓などは一辺10数メートルの方墳ですが、「大物感」は凄かったですよ。
@黒嵜潤一郎
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 魏志では邪馬台国は7万戸とあり倭国中では最大規模ですが、統治範囲は広くなかったと言うことですね。興味深いです。伊都国に一大率を置き、ここを大陸との窓口として治めていたようですから、そこが統治範囲の北限でしょうか。伊都が糸島なら、その南方に邪馬台国があったわけですから、邪馬台国は九州のどこかであったのでしょうね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
正にその通りだと思います。
@torishu111
4 жыл бұрын
どうして都級の遺跡が出てこないのですか? 送ってる奴隷の数からいうとこれぐらいの規模の遺跡では小さすぎて説明がつかないと思うのですが
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
都級の遺跡ですか! 無いと邪馬台国と言えないですか! 都を連想させるような記述は魏志倭人伝には無かったと思いますが。 それと、奴隷(生口)の数は10人でしたよね。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 都級の遺跡?ありますよ。それこそ纒向です。卑弥呼の時代に符合する都級の遺跡としては一番しっくりくると思いますがね。曰く、宮室・楼観・城柵厳かに設け。。。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
@@田中健一-s1c さん 纏向のトリイノ前地区のあの大型建物には、楼観は無かったと思いましたが。 庄内式期の纏向は比較的大型と言えると思いますが、河内や福岡にはもっと大規模な集落がいくつもあったわけで、纏向の発展はその後・・・ということでしょう。
@田中健一-s1c
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 「まだ全域発掘されていないので。。。」言い訳ですwww
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
田中健一さんからの他のコメントにて意見交換中に付き、返信は少々お待ちください。
@asa01053
5 жыл бұрын
刺青と裸足の生活は徳之島説が有力です。
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
それの説は知りませんでした。刺青(鯨面)は、土偶や埴輪から古代日本人に流行っていた風習とも言えますが・・・。
@asa01053
5 жыл бұрын
@@これはどうでしょう この時代に生き埋めしたり残虐なことしているのでかなり南方諸島のような文化的に未発達なエリアだと思います。だから邪というイメージ悪い漢字を使用していると思います。日本人は美化したいですが現実はもっと奴隷を渡したりかなり人道的ではない文化だと思います。
@これはどうでしょう
5 жыл бұрын
私も浅い知識ですが、このような殉葬や奴隷などの風習は、南方諸島というよりむしろ当時の古代文明社会とも言うべき、中近東、インド、中国、朝鮮で盛んに行われていたようです。
@asa01053
4 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 縄文時代は琉球とアイヌ民族のようですので入れ墨は古代の民族の習慣で虫除けとか魔除けとして描いてましたね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
よくわかりません。
@IRIS-uq4cd
4 жыл бұрын
遺跡行こ💗卑弥呼ファン💖💗 超能力者💗💖🐇 卑弥呼 神秘💖💗
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
自由に行けるようになるといいですね。
@kame949
4 жыл бұрын
「北九州で間違いないでしょう!」の根拠がいまいち分からなかった。 邪馬壹国までの行程の説明を外しての説明では無理があるのでは 「この辺で歓迎の宴で3日間入れて」って計算してる九州説の動画見たことありますが!! 「んなアホな!」って思ってしまいました。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
第3話では、行程の解釈抜きで北部九州であることを論じています。 行程からは、畿内説と九州説の決着がつかないからです。 行程については、第4話で推定しています。 ただ、北部九州に納得頂けない場合は、第4話はあまり意味が無いかも知れません。
@wajin5695
3 жыл бұрын
平原古墳の想像。 平原古墳は13m×8m(21m)の方形周溝墓で、魏使が円形と勘違いして半周歩いた100歩(70m、1歩70cm)を、後に直径百余歩と謝って解釈されたと思ったのですが。円周70mの直径は22mであり大変近いのです。 大体、墳墓の上を歩いて測るのは不敬でありますし、埋葬者は女性であり鏡も40面発掘されなど、高い身分であったようなので、平原古墳は卑弥呼の墓としてえ相応しい。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
推察ありがとうございます。 いかにも卑弥呼の墓のような平原王墓です。 時代がすこし早すぎるとされていますが、土器編年が見直されれば変わる可能性あり、と思っています。
@toomas92
4 жыл бұрын
侘び寂びもないコメントになってしまうけど 卑弥呼のお墓が比定されているのだから実際に中を調べればすぐわかりますよね 仁徳天皇陵とかもだけど、なぜ調べようとしないのかと
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 箸墓古墳、大仙山古墳のことを指されていると思いますが、それは天皇家の先祖の墓となっていますから、それを管理する宮内庁が許可しないのです。 天皇家は、古代にあったエジプト王朝や秦王朝と違って現存の家系ですから、当然かもしれませんね。 ところで卑弥呼の墓と比定されている墓はまだありません。それがどこにあるのか。日本の古代史の最大の謎です。
@spvol2mongen778
4 жыл бұрын
そうですよね~ 参る方も参られる仏様も 別人だったり 縁も無かったなら 失礼極まりないですよね。 天皇家や宮内庁は国民が知らない皇統を承知してるはずです。 ちなみに 京都東山区にある皇室の菩提寺泉涌寺霊明殿では 38代天智天皇を皇祖として 御位牌があります。
@mrmasadayo
4 жыл бұрын
大和朝廷はあくまで「大和朝廷」であり、「大和王権」ではない。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
私も学校で大和朝廷と教わってきましたが、官僚たちが日本の政治を行うようになってからが、朝廷ではないでしょうか? だから、律令国家となる前は、王権とでも言った方が正しいのでは、と思います。
@mrmasadayo
4 жыл бұрын
大和政権とするならまだしも、少なくとも王権は誤りです。 朝廷とは天子が執政する場、または天子による政務そのものを指し、君主制のもと、執政に関して臣下が天子に拝謁する体制をとる以上、機構的な官僚組織の有無に関わらず朝廷と呼ぶべきです。 天子は王とは異質であり、王から昇格するものでもありません。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
Wikipediaに解説されているようにヤマト王権が今の一般的な言い方だと思いますし、考え方として私もそれでよいと思っています。 「天子は王から昇格するものでもない」とおっしゃっていますが、まさにそれが議論の焦点で、王から天皇になられた時の歴史を知りたいのです。 天子はもともと天子である、と思ってしまうと神話から抜けられないと思うのですが。
@mrmasadayo
4 жыл бұрын
Wekipediaは、諸理由から「政権」または「王権」が一般的に使われるようになってきているといっているだけで、王権が一般的だと断言はしていません。 日本の正史である記紀に、神武天皇から天子が始まる記述が確かにあり、それは裏を返せば、天子は最初から天子だと記述されているのだから、それ以降は王権ではないとするのが普通の考え方です。 神話に基づき天子を最初から天子であったと、日本の国体を認めることと、その天子が現れる前の客観的歴史を知ることとは別物です。 天子が現れる前の客観的歴史を知るためには、記紀と万葉集との背景の不一致や、三国史、三国史記、旧唐書などの外国文献や、出土された物的証拠からの検証を要します。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
度々の返信ありがとうございます。 Wikipediaを見直しましたが、1980年代以降はヤマト政権、(或いは)それが王権であることを重視してヤマト王権と記述されるようになる、とあります。 一部の研究者により大和朝廷も使用されている、とも。 「朝廷」の解釈についてもWikipediaに倣っています。 私は言葉の定義の研究者ではないので、この部分についてはご容赦下さい。 また神話に基づき日本の国体を認めるお考えも、私は否定致しません。しかし、歴史というものは古代でも近代でも、常に検証されなければならない、と考えています。
@安-l5t
3 жыл бұрын
アップ主を否定する屁理屈の限りを尽くしたコメントには辟易させられるね。否定したいならもっと説得力のある自説を展開すればいいのに、それができないから重箱の隅を突くようなコメントだらけになるんだろう。
@これはどうでしょう
3 жыл бұрын
援護射撃と受け取りました。 ありがとうございます。 理不尽と思うコメントへも出来るだけ返するようにしていますが、たまに心が折れそうになることがあります。 励みになりました。
@原田大六-d6w
4 жыл бұрын
論証らしきものもないので何とも批評しかねるが、考古学資料を援用している割には事物の編年が一切なされていないのも科学に反する。吉野ヶ里遺跡はいつの時代の遺跡なのか。考古学の常識ではBC2世紀のもの。あれが500年後まで続いていたとは考えにくい。平原遺跡が登場したが、糸島地方ではBC1世紀の三雲南小路、須玖岡本遺跡、AD1世紀の井原鑓溝、などがあってそのあとにAD2世紀前半の平原遺跡がある。もっとも、これらは現段階での整理で今後新しい発見があるかもしれない。しかし九州の遺跡が魏の時代よりも古いことが証明されているのになぜ邪馬台国と結びつけたいのか。例えば内行花紋四葉鏡(前漢鏡)、方格規矩鏡(後漢鏡)、などを邪馬台国問題に持ち出すのは時代錯誤の一種である。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
原田大六先生からご指摘頂くとは、光栄です。 ただ、吉野ヶ里は500年以上継続して営まれた遺跡で最盛期が3世紀ですし、 平原王墓の年代は卑弥呼の死期と50年ずれるものの、副葬品の内行花文鏡は国産品であると伊都国歴史博物館の学芸員さんから説明頂きました。 ひとつご意見させて頂くと、貴兄の名前は不謹慎ではないか!
@fuoriyama6360
4 жыл бұрын
KZbinはほとんど九州説だね。これ日本と主流と違うようなんだけど、九州説を主流にしたいよね。神武天皇をどうにかはめ込みたいんだけど。福永先生に頑張ってもらわないとね。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
九州にいたことで間違いないと思っています。 ただ神武天皇がどういう関わりになるかは、今後の歴史解明に委ねることにします。
@タンポポ444
4 жыл бұрын
よしのがりの遺跡に赴いた折り 、卑弥呼より、お話しがありました。 霊的に交流できる方なら、間違いは有りません。人間の推測では真実は 見付かりませんね。 お話しの内容は、私は戦いは嫌いです。男たちがこのんで戦いをしていた ので致し方なく、祀り事をせざるを得なかったのです。 この様な内容でした。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そうですか、そういうことでしたか。 納得しました。 直接お話された時に、邪馬台国があった場所も聞いておいて頂ければ、よかったなー。
@oniwakamarukumano8328
4 жыл бұрын
若しくは「金印」は何処にあるのか聞いてほしかったですね。
@sakaikanbe6061
4 жыл бұрын
出土品を並べたら今更畿内なんてないわ ヤマトなんて5世紀ころまではただの地方都市だろ倭の五王だって天皇じゃないんじゃないの
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
確かに私もそう思うんですが、いまだに畿内説ファンの方から酷い論評を頂きます。議論する気は無いかのような決めつけゼリフで・・・
@sakaikanbe6061
4 жыл бұрын
楽しい動画をありがとうございます 事実を無視して議論する気のない人に対しては話の途中でもスパッとスルーしないとしんどいですよ 仁徳陵の近くで育った私も畿内だと嬉しいのですが無理がありますね
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
やさしいコメントありがとうございます。 心がスッと軽くなりました。 大仙古墳、見に行きたいです。古代史の旅Ⅲは近畿にしたいと思っていますので。
@平唱尊
4 жыл бұрын
和の五王は間違いなく天皇家とは関係ないですね。 天皇家を頂点とした奈良政府文書に唐風の王名は一つもありませんから。 「~天皇」と呼称したのも奈良時代ですからね。 下手をすれば奈良時代以前は北部九州に王朝があったのではとも思います。
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そういう可能性もあり、ですね。
@安田一悟
2 ай бұрын
邪馬台国は、北九州にありました。平塚でも吉野ケ里でも、宇佐でもありません。ズバリ、キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探し、に書かれています。
@これはどうでしょう
Ай бұрын
北九州市だったということでしょうか。
@リリアン天運
4 жыл бұрын
日巫女は歩き巫女だからね。 色々伝説あるのは当たり前なんだ
@これはどうでしょう
4 жыл бұрын
そういうもんですか!
@shunponsamurai
Жыл бұрын
?
@lfs9.083
2 жыл бұрын
間違いなく畿内ですね。ヤマトは7世紀の遣隋使の中国側の記録である隋書には耶靡堆、耶麻堆で魏書の邪馬台国と同一だと記録され、古墳時代中期の稲荷山鉄剣で大彦=意富比跪=オホヒコの孫の豊韓別=トヨカラワケを弖巳加利獲居(テヨカリワケ、恐らくトヨコリワケがトヨカラワケに変化)と記載、日本書紀でもヤマトのトに苔など比較的当時の中国語「トェ、テ、デ」や後の音読み「タイ」の字が宛てられているのでまず邪馬台の読みはヤマトです。魏志倭人伝に記録された当時の日本語(伊都=怡土、末盧=松浦、奴=那などの地名、ゴリ=牛利、ヒメ=卑弥、ヒコ=卑狗などの人名、夷守=ヒナモリ=卑奴母離、ミミ=弥弥、ミマワケ=弥馬獲支などの官名)の他、卑弥呼と男弟、推古天皇と聖徳太子、斎宮制度など姉弟共治のヒメヒコ制や女帝の邪馬台国と大和朝廷の文化は完全に一致しています。東南に進んでいる末盧〜奴の比定地が既に確定していて実際には東北に進んでいることがわかります。そこで中国側の認識(習俗など)として倭が遠い南にあると考えて末盧以降、時計回りに90°回転させた可能性が考えられ奴から北(魏志倭人伝では東)に伊都〜奴まで同じくらい進んだ不弥は宗像(弥生末から出雲〜北陸との交流が増加)、東に海岸沿いに20日間水行した投馬は出雲(於投馬、四隅突出型墳丘墓、弥生末から楽浪系土器出土)、さらに10日間水行した先は当時は丹波の但馬、丹後(距離も宗像〜出雲の半分)でそこから丹波篠山や北摂などを経由して陸行1ヶ月で大和。魏志倭人伝の邪馬台国の傍国(周辺国)は遠絶で距離や戸数が判らないと記載されていますが古墳時代に遡る地名だと東海西部(土岐=都支、美濃=弥奴(岐阜市内に卑奴母離の痕跡の比奈守神社)、好(奴)古都=額田国造、不呼=鹿深=甲賀、姐奴=佐那県造(三重県、佐那神社付近で銅鐸出土伝承))〜瀬戸内海(斯馬=淡路島→已百支=岩城島→伊邪=伊予)、四国(対蘇=都佐国造=土佐→蘇奴=佐那県主(徳島県、佐那河内村の大宮八幡神社社記に登場)→呼邑=カイフ→華奴蘇奴=和奈佐(徳島県海部郡海陽町芝遺跡)→紀伊=鬼)、山陽(播磨=巴利、吉備=支惟、吉備穴=烏奴、奴=山口西部)に当てることが出来ます。邪馬台が伊都国に周辺国、即ち北九州を監察する一大率(大宰府の前身の可能性もある)という役所を設置しているのも邪馬台が北九州なら不要なので実際に遠絶であることを裏付けます。最後に朝鮮半島の戸数や当時の遺跡の人口(列島全体で約300万人、一戸あたり少なくとも4〜5人)を考えれば戸数の突出して多い奴2万戸、投馬5万戸、邪馬台7万戸は奴は北九州東部〜山口西部辺りまで、投馬は安芸、出雲〜北陸或いは丹波までの日本海沿岸、邪馬台は傍国全て含んだ戸数が妥当だと思います。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 色んな解釈があっていいと思いますが、卑弥呼の時代に中国と交易していた痕跡が何も無い大和が邪馬台国であるハズはありません。 今も福岡県、佐賀県、一部熊本県に「やまと」という地名が各所にあることをご存知でしょうか? 当時の遺跡から「漢鏡」などが出土するこれら「各所」が邪馬台国だったことは、誰の眼にも明白だと思います。
@lfs9.083
2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう いいえ。例えば桜井茶臼山古墳では三角縁神獣鏡以外の中国鏡とともに正始元年の紀年鏡が出土しています。出雲では楽浪郡の漢式土器が出土していますしそもそも四隅突出型墳丘墓も大陸の影響を受けたものです。弥生時代末期には北九州-宗像-出雲-丹波(但馬、丹後含む)、北陸-畿内で地域間交流はあったこともわかっているので日本海経由で中国との交流があるのは不自然ではありません。そもそも邪馬台国が伊都国の周辺国(北九州)を監察するのにわざわざ一大率を置いていて更に邪馬台国の傍国(周辺国)は遠絶で戸数や距離が分からないと書かれているので北九州説は元々破綻しています。
@これはどうでしょう
2 жыл бұрын
正始元年銘の三角縁神獣鏡は、ご指摘の桜井茶臼山と山口県、群馬県、兵庫県で計4面発見されていますが、邪馬台国の時代と異なるこれら各地の古墳から出土していることで、何が言えるのでしょうか。 日本海側の交易は、弥生時代どころか遥か縄文時代から続いてはいますが、魏志倭人伝の記述とは何も符合しないし、四隅突出型墳丘墓の発祥は出雲ではなく広島県内陸部です。 特に西日本には非常に多くのこの時代の遺跡、遺物が発見されていますので、それらを出来るだけ俯瞰して考察されることをお薦めします。
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神武東遷(宮崎から橿原市までの神武天皇の歩み)
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