【古代史探索の旅Ⅱ】第2話 失われた歴史/九州王朝(後編) 根拠となる史跡・資料をまとめています

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これはどうでしょう

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Күн бұрын

太宰府周辺の史跡を訪ね、行けなかったところも含めて資料を集め、その裏付けを整理してみました。
その中で多くの研究家の方がこのテーマに取り組まれていることを知りました。
この場を借りてお礼申し上げるとともに、今後この歴史観がより多くの方と共有されることを願っています。

Пікірлер: 115
@fujiwaragayouato
@fujiwaragayouato Жыл бұрын
正確で熟成されてる
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
ありがとうございます。熟成?(笑)。
@60beginmyself71
@60beginmyself71 5 жыл бұрын
後半待っていました。 編集お疲れさまです。北部九州の水城は失われた四世紀を埋めるには十分な根拠がありそうですね。  私も行ってみたくなりました。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 5 жыл бұрын
早速にありがとうございました。そうなんですね。空白の4世紀が分かれば、前後する3世紀、5世紀の真実が明らかになるんですけどね・・・。まだまだ勉強不足です。
@オリオンビブレ-x6s
@オリオンビブレ-x6s 4 жыл бұрын
お疲れ様でした。とてもよろしいんじゃないかなと思います。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
ありがとうございます。素直に嬉しいです。
@naminori_jhonnio
@naminori_jhonnio 4 жыл бұрын
古代日本は国が複数有ったという説が現在は有力になってますよね。そして初期ヤマト政権は連合国家であったと。北九州の金印の奴国は有名ですよね。水城を作った年代が複数の可能性が有るのは初めて知りました。勉強になります。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
多数のムラから、複数のクニ、そして統一王権へ。 それらについてヒントを与えてくれるのが記紀をはじめとする史書ですが、一方で実像を教えてくれるのが、地道な考古学の成果だと思っています。 寒い日、そして炎天下の発掘作業。感謝です。
@小林正己-v3r
@小林正己-v3r 4 жыл бұрын
倭国は卑弥呼の国であって。卑氏の国であると思う。大和(巻向遺跡)は天氏の国と解釈しています。卑弥呼は九州に国があったと思っています。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
そうかも知れません。 卑弥氏という方もいらっしゃいますね。
@takumi1999
@takumi1999 Жыл бұрын
基肄城の映像は面白い。博多方面と筑紫平野が見れるというのは、今でいえばスマホの基地局みたいな。奴国と筑紫平野連合国(邪馬台国?)で連絡し合ったり。怡土(いと)城・大野城・基肄城の連絡網は、伊都国を支配下に置くにはちょうど良さそう。大宰府羅城は太宰府を守るためなのか、筑紫平野を守るために、水城に次ぐ第二の防衛線なのか興味深いですね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
この辺りの地理は、歴史背景を知ってるととても面白いですね。 スマホの基地局・・・・無敵ですね(笑)。 これから先、もっと色々な物が発掘されるのでしょう🎵
@uesugi_kenshin_
@uesugi_kenshin_ 4 жыл бұрын
夫婦仲よさそうでとてもうらやましいです。こんなおしとやかで良識ある女性をみつけて楽しい老後を送りたいです。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
おしとやかな女性かどうかは?ですが、仲良くさせてもらっています。 当然?ですが、この旅シリーズに引き込む前は、彼女の古代史への興味はゼロでした(笑)。
@田中健一-s1c
@田中健一-s1c 3 жыл бұрын
羨ましいっすなぁ
@植山秀行
@植山秀行 3 жыл бұрын
@@これはどうでしょうは
@notexy21
@notexy21 4 жыл бұрын
「九州王朝説」は対象とする年代が長いんですが、私は金印をもらった漢委奴国王が何代かに渡って九州北部を統治してたのは確実だと思います。 大和王権が確立した後も、九州では熊襲・隼人の離反、大陸への対応といった畿内とは別の政治を行う必要がありました。畿内との政治姿勢の違いが蓄積して、磐井の乱につながっていったんだと思います。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
そうですね。同感です。 私は磐井の乱の前後の動きが、真実を解くカギだと思って、勉強中です。
@kmike892
@kmike892 Жыл бұрын
以前から半島南部は倭の一部だったので、白村江は日本語で「はくすきのえ」と読むと聞いていたのですが、「はくそんこう」と読む理由を知りたい。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
現地の読みは知りませんが日本語で普通に、はくそんこう、はくすきのえ、と読みます。 理由は私は知りません。
@gc8zacc3
@gc8zacc3 4 жыл бұрын
行かんといかんばいw 言いますよそれ あと、古代の海岸線とかも重要だと思います。 それと福岡市の島・離島ですね。 小呂島と能古島っていいます。どっかで聞いたことないですか? 私はこれがオノコロ島だと思ってます。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
なるほど、小能古呂島ですか。素晴らしい発想です。 間違いない!!
@yo2trader539
@yo2trader539 3 жыл бұрын
はくすきのえ(白村江)での敗戦後、唐軍の侵攻に備えて対馬・壱岐に防人を配備したり、長い年数をかけて巨大な防衛施設を広範囲に建造したのは相当な危機意識の顕れですね。近年の日本の国防状況に通じるものがあります。大宰府周辺のみならず、熊本の鞠智城など全国で労役・重税が課されたんだと推測できます。防人歌が有名ですが、主に東国から強制的に徴兵された防人は税免除もなく自己負担で赴任せねばならず、悲惨の極みででした。幸い、後の時代の元寇で高麗軍・南宋軍の兵士が九州侵攻した際には、遺構が役に立ったようです。 白村江の戦いより半世紀前に派遣を決めた遣隋使の目的は、情報収集だったという説があります。遣隋使・遣唐使は当時の国家予算を食い潰すぐらいの巨費を投じた一大国家事業でした。しかも超危険な航海だったので、正使・副使と複数の船を用意して派遣。華北を数百年ぶりに統一した隋の動向を調査し、(日本が権益を有していた)朝鮮半島への戦略を知る事が当初の狙いだったと考えられます。その隋も2代で滅びたのは、重税を課し大規模な兵力を動員した高(句)麗侵攻を何度も繰り返し失敗した事にあります。隋を滅ぼした2代目の「煬帝」という諡号は、『民を虐げた悪い皇帝』という意味が込められてると聞いた覚えがあります。日本が国書を送った「日没する処の天子」とは、煬帝の事です。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
Yo2 Traderさんは、その辺りの歴史にもお詳しいんですね。 私などは、「九州王朝説!」なんて紹介していますが、実際は今今勉強中で、なかなか6、7世紀までには届きません。 今後もご教示よろしくお願いします。
@藤村清彦
@藤村清彦 4 жыл бұрын
素晴らしい内容で考えさせられました。古代史を考える時、現代史から類推すると面白いです。 先の大戦に敗れた時、連合国の総司令官マッカーサーがすぐに我が国に進駐してきて、名目上の傀儡の吉田政権を、GHQが実質動かしていましたね。663年に白村江で敗れた政権には、大規模な防衛土木工事をする財力、求心力も無かったと考えるのは自然ではないでしょうか。もちろん、我が国の防衛施設が整備するまでの数年間、あの唐が進駐を待ってくれるでしょうか。チクリが好きな新羅が黙って見過ごしてくれるでしょうか。そんなお人好し、寛大な戦勝国があるでしょうか。すぐに敗戦国に進駐して、財宝を奪い、軍事施設を破壊し、賠償を求めたと考えるべきではないでしょうか。しかし、我が国の学会の定説は、白村江敗戦後に、疲弊した敗戦国政権が、防衛力強化のために多数の山城を建設、太宰府整備をしたと主張しています。これほど不思議な解釈は世界に通用するとは考えられません。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
本当にそうですね。 そこの所は学者先生方は事実を知りたくない、としか思えませんね。 先生方が耳を塞がれている間に、市井の研究者の方々の資料・論証も拡充し、最後は史実として結実するのかも知れません。 考古学の積み重ねは、ただただ敬意を表するばかりですが。
@狐狸仙人
@狐狸仙人 4 жыл бұрын
秀逸な御意見、拝読。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
@@狐狸仙人 さん、よろしくお願いします。
@elelsse
@elelsse Жыл бұрын
九州王朝説の元になっていると思われる、旧唐書の倭国伝の記述には倭国は 周囲を海に囲まれた一つの島で、東西5月行・南北3月行 と記され、東西南北比が5:3の横長の 島と記されているのですが、これは九州島には当てはまらないんじゃないでしょうか。 また、日本国が倭国を併した・・とあるので、旧・倭国領は全て日本国により併合されているはずですので(つまり旧・倭国領は全て日本国の管理下にある)、倭国であった場所にに唐の統治機構である都督府が設置されている事は矛盾していませんかね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 唐が太宰府に都督を置いたのは、白村江の戦いの後だと思われますので、この戦いの主体が北部九州であったであろうことが想像できます。 当時の日本国全体の統治の実体は、今後解き明かされていくと思いますが、その当時外から見た倭国の首都が、大宰府に見えたということかも知れません。 また旧唐書に記述される頃の倭国は、弥生時代と違って西~中部日本全体を指していた、ということで横長?の認識になっていたのではないでしょうか?
@elelsse
@elelsse Жыл бұрын
@@これはどうでしょう ではup主さまは白村江の戦いの後、倭国は唐・新羅連合との間で本土決戦を行い、九州を舞台に戦闘が繰り広げられた後に唐に征服された・・・とおっしゃられるのですか。 こちらの印象としては、白村江の後、倭国は唐・新羅に降伏したように感じられ、九州は直接には武力侵攻される事なく唐の手に落ちた・・・(つまり唐への賠償として割譲された)と思われるのですが・・。もし九州全土を舞台にした戦闘が行われていたなら、当時の戦闘の痕跡や唐・新羅軍が持ち込んだ遺物(武具など)が九州各地で発見されているでしょうし、そのような大事件は民間レベルでも語り継がれ、昔話として九州各地に伝えられているんじゃないでしょうか?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
白村江の戦いは半島での話であり、九州での戦闘があったとは思っていません。 倭国が唐・新羅に降伏したが故の、大宰府への都督配置です。 元々のご主張は何でしたっけ? この「大宰府への都督府設置」が何かと矛盾するということでしょうか? 唐から見て大宰府に駐留して抑えておけば、倭国は言いなりになると考えただけのことではないでしょうか? 実際にすぐにそうなり、唐軍はすぐに撤収しました。 日本を統治する考えなどなかっただろうと思います。
@elelsse
@elelsse Жыл бұрын
@@これはどうでしょう 最初のコメントで”この戦いの主体が北部九州であった・・・”と書かれていましたので、up主様は九州で本土決戦が行われたと考えている・・と思ったのですが・・? それと、唐軍はすぐに撤収したわけではないと考えています。すぐに撤収するつもりならわざわざ都督府を造ったりはしなかったんじゃないでしょうか。 恐らく唐が九州から撤退したのは大宰府(筑紫都督府)が解体された時だろうと考えています(唐滅亡の約10年ほど前だと資料で読んだことがあります) こちらの主張としては、唐・新羅との闘いで倭国は九州を唐に割譲する事になったが、その時点では滅んでおらず(九州は倭国の本拠地では無かったため) その後も何十年かは継続したが、弱体化は避けられず、最終的には7世紀末に新興勢力の日本国(畿内発祥)に併呑され滅んだと考えています。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
筑紫が長い間、唐に割譲されたままだった、というお考え興味深いです。 記紀にはそんな記述はないだろうと思いますが、あの頃対外的に起こっていたこと(白村江の戦いなど)と、近畿を中心に起こっていた内乱(乙巳の変、壬申の乱など)、白村江の戦いのあと築かれる多くの山城(大宰府防御用に見える)・・・と、腑に落ちないことばかりです。 歴史の大きな闇があったとしても、不思議ではないと思っています。 そう言う意味で、面白いお考えだと思いました。 私自身はまだこの領域の勉強が進んでいないので、個人的な考えを持っている訳ではないのですが、その内にその深い闇にも挑戦したいと思っています。
@巌流島男
@巌流島男 4 жыл бұрын
倭国=九州王朝、後の大和朝廷。倭国から移住した王族が作ったのが奈良王朝。奈良王朝が8世紀に途絶えたので、火山の危険が無い安全な畿内に本家が移住してきた。その際に大仏と多くの寺を一緒に持ってきた。大宰府と平城京は徒歩一日の距離。平城京と宇佐神宮は徒歩三日の距離。和気清麻呂は伊勢神宮に行くわけがない。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
そのあたりの検証結果が欲しいところですね。 勿論、仮説は重要ですが。
@girasole4172
@girasole4172 3 жыл бұрын
三韓征伐を行った神功皇后は、2世紀頃だったと思います。 熊襲と戦ったと言う記述もあり、と言う事は、九州南部は制圧出来ていなくても、北部は大和政権傘下にあって、太宰府がその後の半島出兵や、外交の拠点となっていたとしても、おかしくはないと思います。 神功皇后が産んだ応神天皇から始まる河内王朝の天皇が、いわゆる倭の五王と呼ばれている大王で、その頃の実権を握っていた葛城氏は、皇后と三韓征伐を行った竹内宿禰の子孫で、半島や九州に勢力を持っていました。 北部九州には、応神天皇に関する遺跡がとても多いです。 全く関係ない人をあんなに沢山祀るのは、ちょっと不自然です。 大和朝廷系の有力部族が、太宰府周辺を抑え、半島との往来の拠点として使っていたとしても不思議ではないと思います。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 私も神功皇后や応神天皇、武内宿禰は北部九州の人じゃないかと思っています。 ただ、大宰府は日本書紀には7世紀からしか出て来ないので、位置づけがはっきりしません。 今後、古代史探索の旅Ⅲ(これから第2話ですが)にて、その辺りの時代を皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。 意見交換にご参加ください。 蛇足ながら、2世紀には大和に大和政権はまだ誕生していません。考古学的な資料からの結論です。
@girasole4172
@girasole4172 3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 返信ありがとうございます。 年代については、古代の表記は不明な点が多く、2世紀と書いたのも、ウイキペディアで、生年月日西暦169年と書かれていたのを参考にしたので、かなり怪しく、失礼致しました。 応神天皇が生まれたのは、若井俊明氏によれば、仲哀天皇9年(西暦367年)。 ここから見ても、2世紀はありえないですね。 しかし、神功皇后の母、葛城高額媛のルーツを天之日矛とし、記紀にも新羅との関連性を詳しく記述してある点から見ても、古代より半島と日本列島とは行き来が盛んで、九州は勿論、山陰、北陸、瀬戸内海とも往来が沢山あった事が伺えます。 大和王権がどう言う形で成立したかは色々不明な点は沢山ありますが、古來より、三輪山や葛城山周辺に有力豪族が根を張っていた事は否まれず、葛城一族と深い繋がりのある神功皇后も、九州出身と言うより、そちらから半島出兵の為に九州へやって来たと考える方が自然かなと思えます。 竹内宿禰に関しては、孝元天皇から出た皇別氏族にあたり、元々大和王権側の人間でしょう。 その時代にどこまで制覇をしていたかは別として、後に言う「大和王権」の血統であると言う意味です。 そして、歌舞伎のように、「竹内宿禰」の名を世襲して来たと言う事ですが、九州及び半島に勢力を張った葛城襲津彦は、神功皇后と一緒に半島へ出兵した竹内宿禰の子と言うのが定説であろうと思います。 第73世竹内宿禰の竹内睦泰氏は、お亡くなりになったばかりですが、代々伝わっている口伝からは、九州出身であると言う感じは全く受けませんでしたので、ちょっと違和感があります。 私としては、もっと古い時代、ウガヤフキアエズ朝などが、本当に九州にあったのではないかと、ロマンを持っています。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
色々ご示唆ありがとうございます。 今現在私も勉強中ですが、知れば知るほど頭の中はグチャグチャです。なんとか整理をしたいと、日々妄想しています(笑)。
@girasole4172
@girasole4172 3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様 律令制に移るまでは、大和王権と言っても、諸国の豪族の緩い連合体で、その上に権威としてまとめる役割として大王がいたと言う方が、あっているかも知れません。 地域ごとに豪族達が、自らの土地と民を持っており、大和を中心とする仲間と協力してやって行くか、その仲間に入るのを拒否するか…と言う違いだったようにも感じます。 北九州でも、いくつもの部族がそれぞれのを勢力を張っており、早いうちから大和族と協力体制にあったものもいれば、かなり後まで抵抗していた勢力があったと想像します。 神武東征の頃から協力していた北九州の部族もいます。 逆に、吉備は大和に徹底交戦した、とても大きな勢力で、闕史八代と言われている時代は、吉備との戦いでかなり苦戦していたため、一番重要である妃と皇子女の名前のみが記されていると、竹内睦泰氏は説明されています。 太宰府と言う名前が歴史書に出て来なくても、その地域がそれ以前から、半島との繋がりの役割を担って来た事は、想像に難くありません。 そこを誰が支配していたかを突き止めるのは、夢のある楽しい作業でありましょう。 繰り返しますが、大王が直接支配していた地域はとても少なく、殆どは地元の豪族の支配であり、その豪族が親大和か、反大和かなのではないかと思います。 少なくとも、河内王朝時代には、現在でも世界最大級の古墳とされる天皇陵がいくつも建設され、その多くは大陸から大移動して来た秦氏を中心とする帰化人の働きが大きく、その多くの人達を半島から受け入れる物理的なルートとしても、北九州が既に大和王権によって抑えられていたと考える方が自然かと思います。 白村江の戦いより、ずっと以前の話です。 九州はまだまだ知られていない古代史の宝庫だと思っています。 貴方のように現地に行かれ、その実態を映して下さる事は、とても貴重で、素晴らしい仕事をなさっていると思います。 本や資料では分からない、現場の様子が浮かび上がり、益々空想が膨らみます。 楽しい謎解きを、これからも頑張って下さい。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
応援ありがとうございます。 今今、なかなか旅にも出れず、妄想ばかりしております(笑)。 「大王が直接支配していた地域はとても少なく、殆どは地元の豪族の支配」 の考え方、賛成です。 その上で、(多分4世紀以降)宗像ルートは抑えていると思います。それ以外がどうだったのかが、私の今の課題です。 6世紀に磐井は新羅と繋がっていたようですし、その前の5世紀がどういう時代だったのか? と。 3話以降の邪馬台国シリーズもよろしくお願いします。 (ちゃっかり宣伝!)
@angelagabriel5874
@angelagabriel5874 2 жыл бұрын
「畿内が先」「九州が先」という前後説が主力ですが、どちらにも並行して強力豪族が居て、「どちらかが優位になった説」を、ほとんど聞いたことがありません(古田武彦氏は‐ここだ論争の端翼で少し・・・‐)。 出雲の説話が一大イベントとして残っていることを考えると、関ヶ原以西には、主な風土記があるように、多部族が対立しており、最終的に「ヤマト」という組織を残した・さういうふうに感じます。 動画中にあるように「或る種城跡」の配置をみますと、ご指摘のとおり「畿内守備」にはみえません。また「倭国」の本拠は半島にあった説も近年幾つかでています(それなりに是也)。 同様の話は 大陸の西端仏英国にもみられます。 英国の本拠地はブリテン島ではなく、現在の仏国内にあり、イングランドは王家統治下の土地でしかない。支配する貴族が、英国王の臣下となり、国王の一部となった・ということです。之を逆にみれば、半島内に「命」家が居り、そこから列島内に土地を持つ豪族を臣下にしていた時代があった・可能性説もあります。 <<とすれば、列島への第一歩となる「地」に守備隊を配置する・ということになるでせう。回を重ねるごとに、状況説明が「らしく」なり、貴重です。  では第3話いきます。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
私達が教わった日本の古代の歴史では、古墳時代になると大和を中心にした日本が出来ていった、と。 今も大筋ではそういう流れが通説だろうと思いますが、そうじゃ無かったかも知れない。 そう考えるようになってきました。
@ドミニオンパワー
@ドミニオンパワー 4 жыл бұрын
邪馬台国は大宰府の下層ではだめなのか?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
ダメではないと思います。可能性はあると思います。都府楼跡の発掘調査された地層のもう一つ下の層に、3~5世紀の都の跡があるはずだ、と主張されている研究者もいらっしゃいます。
@miredmire
@miredmire 3 жыл бұрын
大野城は朝鮮式山城であちらの知識で造られたとの思考をする人も居ますが、半島に頻繁に行き来していた海人族には九州も半島も元から無かったかと。必要な技術を持つものが居たら、捕獲して連れて来て目的を果たしただろうし、それは逆も真だってでしょう。  道の存在は基本的に軍事用途で発生し役目が終わると消えてしまう。しかしそこには土木技術の指揮が出来る人材が一定数居ることが必要です。道は人と言うより騎馬軍用で博多湾との間の伝令が走る通信経路が日常的役割だったかと思います。  自分も奈良政権の遺跡の存在は認めますが、大宰府もを歩くと都そのものが九州にあり長く政治の中心地だったのような錯覚に襲われます。少なくとも白村江の戦い以降は、海人族の力は衰え分裂崩壊に向かったことは間違いないとは思いますが、だからといって遠い大和から九州をリモート支配出来たと考えるのは些か安易なことに思えて来ています。確かに労働集約型の水田農耕文化を基盤とする勢力としては関西が規模では大きいものが在りました。しかし関西からの遠征軍が到着してから九州が動く程に上位の権力を確立するには、天武天皇の治世よりずっと後では無かったのかとも思えるのです。実際には九州には依然として倭国が存在し、その与力として防人の派遣や通信用の道の整備を待って、倭の王族の実権を剥奪して行ったのではないかと想います。記紀の記載は多分に対峙する敵にマウントする為のツールです。唐に対して如何に大きく見せるかその為の編纂だったのかと思っています。紀伊半島に引き篭もっていたヤマト王権は、それを補う為に可能な限りの風聞を収集し書き上げたのが記紀だったのとするならば、九州倭国の逸話も含んでも可怪しいことではありません。そして今倭の五王がとの話にも成って来るのかと思います。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
当時の九州と大和との距離感について、同感です。 半島と往来しやすい北部九州の交易利権を遠隔地から奪取する為には、それなりの武力支配が必要です。 皇子が1回来てそれで決着、なんてことはありえません。 学説で小難しい用語を使って、それが簡単に出来てしまう説明になってしまう。 (これは邪馬台国・畿内説の話) 銅鏡1,2枚もらってハイどうぞ、なんていう世界感ではないと思います。 なんか愚痴っぽくなってしまいました(笑)。 道の話もなるほど、です。ありがとうございました。
@田中健一-s1c
@田中健一-s1c 3 жыл бұрын
弥生中期に現れる高地性集落を「山城」と認めて良いならば、その頃の高地性集落の分布は圧倒的に瀬戸内海沿岸に広がっています。貴兄の山城分布に重ねてみればその差歴然。故に山城の多寡を持って九州王朝説を唱えるのはいささか無理があろうかと。。。。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
ここで言う古代山城の石垣の組み方から、百済との関係性の指摘もありますので、これらは4~7世紀のものではないかと思っています。 弥生時代の高地性集落とは違うのではないでしょうか。
@田中健一-s1c
@田中健一-s1c 3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 様、北部九州の山城群および水城は対ヤマトのためのものであったとされるのですか?百済と結託してヤマトシフトを敷いていたと?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
可能性はあると思います。 半島にも目が向いていたのも間違いないとも思います。
@蓮露廉
@蓮露廉 3 жыл бұрын
コメントの中には記紀を前提に考えている意見が散見されます。それらの方々は何故記紀編纂時に諸国の書物を集めて焼いたのか考えてないのでしょうか。それらの書物に書かれていることと記紀の内容が同じなら焼く必要がありません。つまり、記紀の内容は史実と異なると考えるべきではないでしょうか。つまり、記紀はいつからか分からないほど昔から大和朝廷が日本を支配していたと主張していますが、実際はそうのではないということ。白村江の戦いで何故九州王薩夜馬が捕虜になり、九州には唐軍2000人が駐留して倭国側は毎日餓死者が出たのに、大和朝廷には一切お咎めがなかったのか。白村江の戦いが大和王家主導で行われたのであれば、考えられないことです。聖徳太子とは誰のことなのでしょうか。本名は何だったのでしょうか。「厩戸皇子」?、「豊耳皇子」?。そんな本名はないでしょう。仏教の導入に貢献したのだから、百済に百人の学僧を派遣した「アメタリシヒ(ホ)コ」でしょう。王だから「太子」じゃないって?達磨大使、弘法大使の「大使」ですよ。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
分かりやすいご解説ありがとうございます。 知識不足で私はそこの所の議論にまだ入っていくことができないのですが、邪馬台国の後の世界に自分なりの一定の解釈をさせてもらって、早くその辺りの勉強に着手したい、そう思っていますが・・・ 実際は北海道で旅遊びに明け暮れています(笑)。
@松岡博幸-q1p
@松岡博幸-q1p Жыл бұрын
昔、古代妄想と言われていたな。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
まだまだ謎多き「九州王朝説」です。
@康一久保
@康一久保 5 жыл бұрын
ドラえもんの「どこでもドア」があれば、確かめられるんですがね(笑)
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 5 жыл бұрын
ホント、そうですね。でも、ドアからその世界に入っちゃうと、それはそれで大変な事に巻き込まれそうです。また舟作ってるかも(笑)。
@makimurasame7271
@makimurasame7271 2 жыл бұрын
白村江までは九州に政権があったのでは 白村江で負けて大和→近江に首都移転は意味なさすぎ
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
白村江で負けて築いた城が基肄城と大野城なら、当時の首都は大宰府、とそのまま解釈しても良かったですね。
@irimiki4607
@irimiki4607 3 жыл бұрын
大和政権に匹敵するような「九州王朝」を想定しているとしたら、物証、証拠がなさすぎる。文献資料の面でも、三韓征伐をしたことや百済、新羅との関係など倭の五王の時代に相当すると思われる記事が記紀には載っている。それは、河内平野の巨大古墳群、応神天皇陵や仁徳天皇陵の出現時期ともマッチしている。よって、倭の五王は大和政権側の話しの可能性が高い。 大宰府の下に何かあると言うなら早く発掘調査をするべきでしょう。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
よくわかります。 倭の五王の時代の解釈としては、当然の解釈かと私も思います。 ただ、腑に落ちないことが多々あり、ここで九州王朝説として紹介しました。 一つの仮説とご理解頂ければ、と思います。
@Rekisi.Wo.Tadase
@Rekisi.Wo.Tadase 4 жыл бұрын
九州王朝ではなくて博多王朝でしょ。 全九州に勢力を及ぼしていないっ うそつき
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 4 жыл бұрын
一般に倭国と言われていた国が、九州にあったという説のことです。
@田中健一-s1c
@田中健一-s1c 3 жыл бұрын
やはり「北部九州王朝」と表すべきでは? 九州は日向の生まれですが、日向が玄界灘沿岸諸国に服属した証拠は無いですね。4世紀中庸から前方後円墳が築かれ初め5世紀には諸県の君牛諸井の娘が仁徳天皇に輿入れすると記紀に有ります。同時代の巨大前方後円墳「女狭穂塚」は大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の1/2コピー。ヤマトの王権に服属していたと見るのが妥当かと。弥生時代遺跡の分布からも「北部九州」王朝とすべきでは?(筑紫・肥・豊あたりいわゆる銅矛文化圏)。南九州には他にも熊襲・隼人など個別の勢力の存在も窺われますし。
@Rekisi.Wo.Tadase
@Rekisi.Wo.Tadase 3 жыл бұрын
@@これはどうでしょう 邪馬台国が九州北部にあった事は認めます。 天皇の出地は九州南部である事は古事記にのっていますね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
@@田中健一-s1c さんそうですね。 意味的には、北部九州王朝と言えるかも、ですね。 九州全体を治めたとも言ってないですし、まして日本全国を治めたとも言ってませんしね。 日向、薩摩方面の知識がないのでよく分かりませんが、やはりヤマト王権との繋がりはあるのだろうと思っています。 ご指摘の古墳の特徴などから、前方後円墳が広まっていった他の地方と日向との特異点などあるようでしたら教えて下さい。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 3 жыл бұрын
@@Rekisi.Wo.Tadase さん、そうですね。 でも私は噓を言っているつもりはありませんが。
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