【新府城】武田家最期の城は最高技術を用いた巨大な城だった!なぜ勝頼は未完成の城を焼き払ったのか?

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かいのすけ 歴史

かいのすけ 歴史

Күн бұрын

2年ほど前に訪れ紹介動画を作成しましたが、どうしても気になって再び訪れてしまいました。
山梨県韮崎市。ここは甲府から西にしばらく離れた小さな町で、ちょっと郊外に出れば田んぼが広がるとても静かなところです。
この町で目立つのは七里岩と呼ばれる巨大な崖。このようなゴツゴツの岩による地形がずっと続いているんですね。七里岩は昔富士山より高かった八ヶ岳の頂上が噴火によって吹き飛び、その土砂を川の流れが削ってできたと言われています。なかなか他では見られない地形ではないのでしょうか。戦国時代の終わりごろ、この川に挟まれた細長い台地の上に巨大な城が造られました。その名を新府城と言います。その名の通り、甲斐の新しい中心となるべくこの城は、戦国最強と呼ばれた武田家の最後の当主勝頼によって、最高の技術を用いて築かれました。しかしその力は発揮されることなく、未完成のまま勝頼の手によって焼き払われてしまいます。新府城が地上に姿を見せていたのはわずか68日。まさに幻の城なのです。
なぜ武田家最大の城、新府城は、完成を待つことなく焼き払われてしまったのでしょうか。また、その後武田勝頼の運命はどのようになったのでしょうか。今回は幻の新府城と武田勝頼のその後を追ってみます。

Пікірлер: 30
@user-ju3mb5iu5y
@user-ju3mb5iu5y Жыл бұрын
新府城が完成した姿を見てみたかったですね城は大変興味があるから
@user-sm7ee8lg1m
@user-sm7ee8lg1m Жыл бұрын
新府城の縄張りは確か真田昌幸がやったと記憶しています。 稀代の智将であり築城の名手でもある昌幸の築いた城に武田勢が立て篭って戦っていたら、一矢報いることもできたのではないかと考えてしまいます。
@user-uy1sk3vh2e
@user-uy1sk3vh2e Жыл бұрын
甲斐は1度行きました。また行きたいですね。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Жыл бұрын
富士山も見えてとても良いところでした!
@user-ph3ve8xh2p
@user-ph3ve8xh2p Жыл бұрын
勝頼は凡将ではなく部下を思う勇猛な戦国武将だと思います。高天神城には2度激励に行ったり信玄よりも版図を増やしています。しかし、そんなに石高が高くない甲斐にあって、父信玄にさんざん国力を消耗された後での相続。領国経営はさぞ難しかったのではないでしょうか。ただ、プライドが高く家臣の意見を取り入れる余裕がなかったのが残念です(設楽が原の戦いなど)。 新府城は未完成ながらここより他に抵抗できる堅固な城はもうないので、ここで織田軍と一戦交えて欲しかったと思っています。遺構が昔ながらによく残っているので侵入と防御を妄想するのによい史跡ですね。
@mugakuninn
@mugakuninn Жыл бұрын
「日本万歳」 真田が築いた堅固な山城に籠れば悪天候で信長軍は自滅したろう、 という意見が在りますね。大金投じた城を燃やすのは愚かな行為。 平野人間の信長は山奥の風雪を知らなかったらしい。 兵力で無く天候を用いる戦法を理解してれば武田は信長に勝てた・・・かも?
@user-mz8fg1st3p
@user-mz8fg1st3p Жыл бұрын
信長が有能と評しているから、信玄ほどではないけど、それなりに優れていたはず。若い信玄(晴信)クラスだったのかも。
@supersaiyazin5
@supersaiyazin5 Жыл бұрын
貴重な考察の数々、有難う御座います。チャンネル登録しました。
@user-tg4tu9uz6l
@user-tg4tu9uz6l Жыл бұрын
かいのすけさんお疲れ様デス私は武田流馬出しだけかと思いましたが遺構がまだありましたね知りませんでしたありがとうございます👍
@user-zo5nj3hx8x
@user-zo5nj3hx8x Жыл бұрын
信玄も自分の死後のことを想定し北条みたいに隠居生活や立派な城を築いて置けば良かったのに…
@drkarimu
@drkarimu Жыл бұрын
新年の動画、ありがとうございました!、新府城に高遠城、戸石城に海ノ口城などなど、甲斐信濃の城はタイムスリップして見たくなるような魅力的な城が多いですね。勝手な依頼、、どんな状態か、ただの廃城の可能性もありますが、小笠原家の林城の動画、希望です。大河ドラマ「風林火山」で出てきて、自分でも調べてみたのですが、よくわかりませんでした。 もし、動画にされているかも、なので、調べてみます。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Жыл бұрын
コメントありがとうございます。林城チャレンジしてみようと思います。
@drkarimu
@drkarimu Жыл бұрын
@@kainosuke-rekishi 本当に身勝手なお願いだったのに、返信、ありがとうございます! 私の出身大学が信州大学だったのですが今は遠い場所に住んでいるので、かいのすけさんの山梨、長野の城の動画がとても懐かしい感じと勉強になるのとで、助かっています。無理をなされないこと、安全に動画をアップされることを祈りつつ、楽しみにしています!!
@user-vo5vx1jp2j
@user-vo5vx1jp2j Жыл бұрын
結局は信玄のワンマン経験が死後後継者問題とかある意味棚上げにしたままにしてきたのが武田滅亡に繋がってる 諏訪の血を後継者に「出来ない」にしろ せめて御旗楯無使わせれたら家臣団、一門の分裂離反もここまで酷くは無かったのでは無いかと 上手く立ち回って織田と和睦いや降伏出来れば一応は一門扱いで甲斐一国位は与えられるかも知れんしその後の働きで信濃も貰えたらかも知れない どちらかにしろ手脚を縛られた「陣代」の勝頼が出来る事って信勝が家督継ぐまでに領土拡大して渡す位、「陣代」より黄泉の信玄の命が大事の宿老達 信玄頂点のヒエラルキーが崩壊すれば衰退は避けられないし勝頼が滅亡を先延ばししたと考えたらそれは評価に値すると思う、領土拡張は宿老達に対する唯一の意地だったのかも知れない そして決定的なのが諏訪頼重の孫と言う事 負の遺産を背負わされた勝頼 武田家は滅ぶべきして滅んだと思う
@kumosukeponsuke
@kumosukeponsuke Жыл бұрын
甲府城や躑躅ヶ崎館は行ったけど、新府城はまだ行けてないんだよな。。田野と合わせて行きたいですね。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Жыл бұрын
新府から田野までちょっと距離がありますが、勝頼公が辿った道を行くのもいいですね!
@SuperK55555
@SuperK55555 Жыл бұрын
詳しく知らなかったので、とても参考になりました。城が完成し兵糧や武器を十分蓄えたなら、高台なのに水が豊富そうなので、織田・徳川連合軍に包囲されても1年ぐらいは持ちこたえかも。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Жыл бұрын
籠城戦になったらどうだったのか興味湧きますね!
@brigabiergerarb513
@brigabiergerarb513 Жыл бұрын
無理だと思います どれだけ資源があっても人が離れていたからとてもまともには戦えない 仮に離反裏切りが全く無かったと仮定したらどうかは分かりませんが
@KOUCYU2008
@KOUCYU2008 Жыл бұрын
今年もよろしくお願いいたします。 新府城址は実家から車で数分の場所にあり平時や4月のお祭りのときに石段を上り下りしました! その後の歴史は変わらなかったかも知れませんが、 この城が完成して機能をし、織田軍を苦しめたという文献も見聞きしてみたかったですね。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Жыл бұрын
韮崎はとても素敵なところでした。新府城で戦いが行われていたらどうなったのでしょう、また妄想します!
@riok2975
@riok2975 Жыл бұрын
勝頼は、田野で自害されたので小果実は、四国のあるところには、なんと、勝頼や、その夫人また、信勝の墓があります、もちろん名前は、変更しています、皆さんはどう思われますか、自分は、その場所に何度か行ったい事があります、場所は、なんと高知県仁淀川町、大崎というところで名前は、大崎玄蕃となのだそうです、でも完璧都市伝説ですよ 15:49
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI Жыл бұрын
かいのすけさん、今年もよろしくお願いします。 関東にいたころは、桃を買いに一宮町、南アルプス市とともに、新府城の北側すぐの所にある選果場を廻っていました。懐かしいです。 武田家滅亡時のマイナスイメージが強いですが、本当に見事な城です。もし土塁ではなく石垣だったらと、私も妄想してしまいますw 勝頼が焼いてしまった理由はやはり「放棄した城を敵に利用されたくない」だと思います。実際、後の天正壬午の乱で北条氏と争った徳川家康はこの城を本営としています。在城期間は勝頼より長かったかもしれません。 むしろ「勝頼はなぜ焼いたか」より「なぜここに城を築いたのか」が興味あります。甲斐を治めるには偏った場所ですし、幅約4kmのせまい谷間がさらに七里岩で分断されているので城下発展は東側だけなりそうです。もしかしたら領国の政治と経済の中心は甲府に残しておき、新府は軍事の中心にしたかったのかもしれませんね。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Жыл бұрын
コメントありがとうございます。そうですね、もし勝頼が甲斐をこのまま治めることができていたら、政治経済の中心は甲府が良いと思います。勝頼は「新府に城を築かなければならなかった」ということなのかもしれません。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI Жыл бұрын
@@kainosuke-rekishi さん 返信ありがとうございます。 勝頼は、武田軍全体を「地方の領地を治める部将たちの連合軍団」ではなく、より近代的な「主家直属の大軍を主体にした軍団」に変えるべく、その器として大規模な軍事基地を造営したのかもしれません。 あるいは単に「大国になった武田家の詰めの城が要害山城では手狭になってしまった」というだけかもしれません。 いずれにしても、かいのすけさんの >勝頼は「新府に城を築かなければならなかった」ということなのかもしれません。 というお言葉が新たな興味と妄想(w)を搔き立てます。ありがとうございました。
@user-ec7mo4dc9r
@user-ec7mo4dc9r Жыл бұрын
多くの方が間違った認識があるのが躑躅ヶ崎館を戦闘の城だと思っていますね。武田宗家の詰めの城は要害山城です。ただ、この城は規模が小さく、勝頼の頃の戦闘には向いていなかったと思います。中世短期戦闘においてはかなり上位の守りが堅い城です。 政務・戦闘を両立させる城として、また、甲斐1国では無く甲斐・信濃を治めるための城として築城されたのが新府城。 織田進撃がここまで速い事は予想外ですね。その反動が本能寺だと思えるほどの主力集結に耐えきれないのは勝頼の思考を崩壊させても致し方が無い。。。 新府城で籠城戦(みんな未完成って言うけど城としては完成していたので戦闘できる体裁はありました。)していれば結構歴史が変わってたのだけど・・・
@user-sm8cw9vv8m
@user-sm8cw9vv8m Жыл бұрын
血族で固めていたのに 重臣の多くは、逃げるか裏切った。 「求心力」が不足していたのだろう。
@takedasankuu
@takedasankuu Жыл бұрын
本当に勝頼公が持ちこたえて本能寺の変を迎えたら大大名で豊臣政権でも重鎮として残ってただろうなぁ。家康は単独で勝頼公には挑まなかったしなぁ。設楽原だって信長、秀吉、家康(勝家、光秀)相手に半数の兵で挑むのはやっぱり並の武将じゃないよ。
@pxlxfpaxra
@pxlxfpaxra Жыл бұрын
上杉家くらいにはなってたかもね。
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