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【歴史解説】MONONOFU物語
Күн бұрын
Пікірлер: 229
@KOWLOON1983
Жыл бұрын
下手に大名になるより2000石くらいの旗本が最強だと聞いた
@yh6146
Жыл бұрын
4:55 幕府は参勤交代の費用を抑える様に命令していたのに見栄と意地で抑えなかったから大名たちは財政難。手伝い普請が免除の御三家や加賀藩でも財政難になっていた。
@ひーばあちゃん
Жыл бұрын
参勤交代がかち合う事は稀であったかもしれませんが、本陣を巡ってのダブルブッキングはよくあったようですね。 江戸からお国入りする時など今の旅行代理店のような業者に依頼していつどこの本陣に泊まりたい、とか言うと 「その日は◯◯藩が既に押さえています。」と言われてその次の宿場に変えたりしたとか、ちなみにそれらの業者は複数の藩を担当していたり 大事な行事の時にはお城に呼ばれたりしていたと藩の記録に残っているようです。
@SRDMSK
Жыл бұрын
自分の地元の福山藩は表高10万石に対して実高は15万~30万石相当だったらしく、規模のわりには豊かだったらしい
@user-Yuruyuru
Жыл бұрын
港町・鞆の浦の繁栄を見れば福山藩が豊かだった事が良くわかりますよね。黒船来航時に時の福山藩主の老中・阿部正弘がペリー提督に名物の保命酒を供した話しは有名ですね。
@Nullpo08
Жыл бұрын
加賀藩は自分の落ち度で旅の計画が狂ってたのを筋を通して譲ったと言うので気品に満ちてると思いました。 軍隊でも階級は絶対・・・
@さとうたかゆき-z1z
Жыл бұрын
私の間違いかも知れないが とうじょう ではなく とじょう と読むはずです すみません ケチを付けるつもりはありません
@碧落一洗
Жыл бұрын
大名行列でお金をいっぱい使ったおかげで、日本全国、特に街道筋の経済が潤ったわけですね。でも、メジャーな東海道や中山道は良いとして、甲州街道は使う大名の数が少なかったおかげで、あまり潤わなかったらしいです。そう言った「街道格差」も有ったかも知れませんね。
@青木芳夫-t8c
Жыл бұрын
日光東照宮に行ったとき 全大名が入る部屋を見学した 高い所に将軍が そしてご三家を筆頭に畳に並び末席の大名はずっと 後に 凄い格差を感じた
@技矢無剣舞風亜
Жыл бұрын
将軍の食事で出される味噌汁は、将軍の前に出される前で何度も毒見係にチェックされる間にすっかり冷めてしまい、「味噌汁は冷たき汁の事」と将軍は認識していた記録があるそうだね。
@小山義一-x5e
Жыл бұрын
将軍裏技馬術の稽古と言って城🏯を出て買い食いする。 お忍びで他の大名屋敷や旗本に合うと言って変装して買い食いする。
@199019901990ism
Жыл бұрын
金のない奴には権力を与えて、権力のある奴には金を与えない相互にマウントとれる制度設計なんだよな。そこらの貧乏な禰宜の官位が外様大名より上なんてザラで、加賀みたいに金も権力もあるのは例外
@sidetonegawa5252
Жыл бұрын
②番目は 金のある奴には権力を与えない じゃないかな
@ズート
Жыл бұрын
学術的に言うと三河以来の庄屋仕立て
@bf-u7e
Жыл бұрын
権力があれば皆んな媚びへつらうから金は集まってくる。 金のない奴には権力でなく権威を与えるんだよ。
@Gooogle-user
Жыл бұрын
加賀藩前田家は外様でありながら、徳川家と姻戚関係を結ぶことによってその権力や領地を安堵されていたようです。
@schimitch3277
Жыл бұрын
薩摩と長州は「軍事・経済力+藩主が王朝時代(もっと言えば古代氏族)からの家柄」だったから倒幕に踏み切れたのはあるでしょうね。
@mokugyo129jp
Жыл бұрын
どうもありがとうございます。殿様は苦労がかなりあるのは、同意です。殿様が一番苦労したのは、改易の恐怖だと思います。飢饉がきて、百姓一揆や直訴でもされたら、取り潰しがありますね。農民にも支持されないとならず、人格者の殿様の話が、美談として残っているのだと思います。
@なかたにさとし
Жыл бұрын
加賀百万石は 金持ち喧嘩せず を実行しててカッコいい。
@Igara101
Жыл бұрын
松平健が「余の顔を見忘れたか」と言っているけど、伏したままの拝謁しか許されないなら、割と理不尽なイチャモンだったんだな。
@naomichi0929
Жыл бұрын
余の顔を忘れたのか?これ、将軍家の家臣団 旗本…達は直接、将軍と顔を合わせるから、おかしくはない
@yh6146
Жыл бұрын
@@naomichi0929このドラマでは何故か家老でも将軍の顔を知っていた。
@究極の救連皇
Жыл бұрын
徳川幕府は基本政策として石高の低い大名に高い位を与え、逆に石高の高い大名は位を低く抑えていた様ですね。
@yh6146
Жыл бұрын
6:44 この当時の加賀藩主は五代藩主吉徳の末っ子で本来藩主に成れる立場では無かったから僧侶になっていた時期があったから謙虚だったと個人的には思っている。
@マヤ平
Жыл бұрын
吉徳死後、加賀騒動が起きる
@御神誉黎
Жыл бұрын
@@マヤ平 加賀騒動は黒田騒動と伊達騒動に並ぶ、江戸の三大お家騒動ですけど 色々読み物とかにされ、俗説がありますが 実際のところは、藩財政の立て直しに動いた大規内蔵充ら。若手の進歩派と 古参の前田直みらの対立だったわけであり いろんな話がありますが 俗説が多く、どれが本当かはわかりませんよ
@schimitch3277
Жыл бұрын
井伊直弼とか徳川斉昭とか八代将軍吉宗とか、部屋住みから主にのし上がった人は結構いますよね。苦労が作り上げたような面々ばかりで。
@ポールマッカ
Жыл бұрын
😅
@新妻正美
Жыл бұрын
この話をコミカルに表現したのが映画 超高速 参勤交代 でしたね 元々、参勤交代は外様大名に経費を使わせて財政を圧迫するのが目的で 関ケ原合戦以降に同じ戦が起きないように考案されたもの つまり、毎年多額の金を使わせれば幕府に逆らえるほど蓄財できないと考えた しかも、渡航途中の宿場町にはお金が落ちる仕組みになっていて交通の要所が潤う 徳川の時代に御国替えで徳川に親密な大名ほど江戸に近く逆は遠くに配置された だから、ゆったりしている行列もあれだけの家臣に付き添われて、遠方ほど 長い時間かけて行き来するのは相当にお金が必要だったはず
@浩三芝崎-t8v
Жыл бұрын
ある珍事。宿場に着いたはいいが宿、全部先客あり。橋の下ならと思たら…… そこにも先客がいた! ラッキーだったのは、殿様同士が仲がよく「○○殿、○○殿!一緒に飲まんか! お家来衆も一緒じゃ!」❜
@最初の名字で活動します
Жыл бұрын
動画を拝見しました。 江戸時代の「格」や「心理」と言う話を詳しく編集されてて分かりやすくて有り難いと思います! やはり「徳川一門」様や「譜代大名」様は別格の存在だと思った所です。 後は、「外様の大物大名」様や「室町時代高家」様なども存在感が違います。 面白い動画を拝見できて良かったと思います!
@御神誉黎
Жыл бұрын
武家の格というのは、なんといっても石高だが 石高を実態に合わせるのは難しい。 例えば大名筆頭に置いた御三家を最高の石高にしようと思えば、百万石の加賀藩以上の石高が必要になるが。 幕府の石高だって六百万石程度だ。御三家を全て百万石以上にすれば御三家自体が幕府の脅威にもなりかねない勢力になるし そもそも幕府の石高を削るのも都合が悪い 制限のある石高と諸大名の力を調整するためには、石高を簡単に高めるわけにもいかないわけだ その辺を調整するために官位というのを幕府は使う事にしたわけで、江戸城内の序列は官位で決められていた
@最初の名字で活動します
Жыл бұрын
@@御神誉黎 様、コメントありがとうございます。 「石高」で比べ合いをする時代は中々良いと思います。 「徳川」家関連や、「前田」家、「島津」家、「肥後細川」家「福岡黒田」家辺りの石高は他国に自慢できる石高だと思う所です。 石高調整は難しいと言う所ですか。。 「官位」は特に「大名」でも憧れがある印象があります。 「江戸城」での序列争いも当時注目が集まる事かと。
@Lyijykyyneleet
Жыл бұрын
面を上げよの号令で顔を上げてはいけないトラップの件は初めて聞きました。 就活の私服トラップとか、ヤクザの仁義の「お兄いさんからお控え下すって」みたいだと感じました。 日本人は良くも悪くも昔からややこしい礼儀作法が好きなようですね。
@もらもら2
Жыл бұрын
「今日は無礼講!」みたいなトラップ。
@著著
Жыл бұрын
加賀藩が綾部藩に譲った話、後で綾部はんはめちゃくちゃお礼に行ったんだろなー笑 じゃないと怖くて寝れん笑
@新井甲子勝
Жыл бұрын
参勤交代をテーマにしている小説で浅田次郎著の「一路」は面白いよ。NHKのドラマは今一だったけど小説は別物!繰り返し読んでます。
@チンした食パンで歯が折れるパンダ
Жыл бұрын
チェーン店「トクガワ」の店長はツラいな。偉そうな本社と言うこと聞かないバイトくんに、ライバル支店のイヤミな店長たち。。。
@iriyaanko8149
Жыл бұрын
序列や礼儀を厳格化する。江戸時代にいたるまで行われてきた血で血を洗う争いに終止符を打った知恵ですね。家康すごい。
@han-penguin
Жыл бұрын
「おもてをあげよ」で顔上げちゃいけないの初見殺しじゃんw
@BB太郎
Ай бұрын
その辺は幕府の礼節を仕切る「奏者番」と言う役職の人間がキッチリ指導しているから。
@torukiuchi666
Жыл бұрын
こんな厄介な仕来たりが更には京都の御所ではもっと複雑。吉良家は高家筆頭として諸大名に有職故実他仕来たりを教授する役柄。松之廊下の刃傷沙汰は本当はどっちが悪いか分からないらしい。忠臣蔵はあくまで庶民受けを狙った読本。浅野内匠頭はかなりの癇癪持ちだと後世の研究で判明したらしい。
@ジューシーフルーツ
Жыл бұрын
勉強になるし楽しい動画😃💯💥
@hesscoll10
Жыл бұрын
慎重過ぎて役立たずや粗暴な家臣など雑多な人たちを指揮する家老・中間管理職の人たちも、殿様同様さぞかし大変だったのでしょう・・・
@yh6146
Жыл бұрын
7:10 会津は徳川一門で格上だったけど相馬は鎌倉時代初期からずっと相馬の領主だった名家だったから不満だったかな?ちなみに相馬の今の当主の奥さんは麻生太郎の妹。
@うんこプリニツカヤ
Жыл бұрын
麻生家は皇室にも嫁いでいて凄いですね!
@80saigon
Жыл бұрын
昔の経営者は会社あっての『一国一城の主』と威張れたものでした。 今はPCを家に何台か並べて、収入は経営者たちに肩を並べる人もいます。ただ大名の石高と同じで精算してこその実入り、そしてちゃんと税金を払えよな(笑)
@takesis3211
Жыл бұрын
会津藩と相馬藩は、槍を忘れたのが逆の話もあるようですね。忘れたのは相馬藩の槍持ちの話もあるようです。実際はどっちだったのでしょう。
@サンロクカメラ
Жыл бұрын
この話は真意がわからないって事になってるね。 その事もしっかりと動画で語ってほしいな
@ATA133PCI
Жыл бұрын
こういう予備知識を入れて忠臣蔵の松之大廊下のシーンを見たりすると、一層楽しめる事でしょう。 刃傷に至った浅野内匠頭や斬られた吉良上野介の心中をより深く察する事ができると思います。
@御神誉黎
Жыл бұрын
吉良家は高家筆頭の家であり。石高は旗本並だが、並の大名を凌ぐ官位を与えられ 江戸城での序列は浅野内匠頭より上位にある。 もともと三河の国の守護大名だった家だ。徳川家の前身の松平家は吉良家の分家って事になっているのではなかったかな? そういう事にしないと徳川家は河内源氏の裔と言う事にはならなかったから
@sidetonegawa5252
Жыл бұрын
吉良上野介は自分の領地では治水工事なども進めて農民のためになることをして良い殿様として慕われていたそうです。しかしその費用の多くが江戸で各大名から送られた賄賂だったとかとも言われています。やはり舞台裏では結構汚いことしてたのね。
@御神誉黎
Жыл бұрын
@@sidetonegawa5252 賄賂云々はよくわからないが 汚職は江戸時代を通じての問題だったからな 吉良家だけの問題ではないでしょう 浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こした時 吉良は、浅野が乱心したと言い立てた 乱心なら、事は浅野内匠頭一人の隠居と幽閉などの処分で済んだのだ。 それを内匠頭が「吉良に恨みがあった」と言い出したものだから 事態は内匠頭の切腹と取り潰にまで至った。 吉良が騒ぎを抑えようとしたのを台無しにしたわけだし 原因は何にせよ。取り潰まで至ったのは浅野側の問題が大きかったとは思っている
@炭酸好き
Жыл бұрын
まあ世が世なら将軍家を継ぐ権利のあった家だからな、徳川家は吉良の分家の今川の家臣だったからぞんざいには扱えないのは確かだな
@yh6146
Жыл бұрын
@@御神誉黎 現代なら問題になるけど、当時は金品を受けとるのは当たり前だった。そもそもそうしないと石高が低いのに家格が高いから生活できない。
@WickedTkl
Жыл бұрын
おれだって気持ちは一石一畳の主だぜ
@ああ-y9t2s
Жыл бұрын
参勤交代の義務がありその分見栄で多くの出費を強いられた数万石の大名より 6000石などの大身の旗本が経済的には潤っていたようですね
@taraaa5570
Жыл бұрын
今現存してる城って復元も含めてすごい少ないですが 本来は戦争用含めてとんでもない数があったんですね。江戸時代という平和を維持するためとはいえ 多くが失われてしまったのはとても残念です。 まあ多少多く残っても税金が無くて維持できなかったり 太平洋戦争で焼失してたかもしれませんが・・
@韻踏みたい
8 ай бұрын
各藩の先頭係の人たちで飲み会したら皆んなめっちゃ仲良くなりそう。
@クレナイ-u2l
Жыл бұрын
地元のお城は本来は5層の立派なお城だったらしいが、完成から13年で爆発炎上し消失した。 再建するにも「一国一城令」が壁となり再建されることはなかったとよく聞かされた。 まぁ、その後隅櫓を改修し「天守」として今も残ってはいるんですけどね
@まちかぶ日記
Жыл бұрын
弘前城のことでしょうか。
@クレナイ-u2l
Жыл бұрын
@@まちかぶ日記 わかる人にはわかるんですね。 さすがです。
@焼津まぐ朗
28 күн бұрын
参勤の際にかち合ってはいけない家。南部と津軽、細川と黒田、伊達と上杉、そして尾張と紀伊。
@ToroInoue-c5y
Жыл бұрын
一国一城に唯一反したのが、仙台の伊達家でしたね。幕府には、政宗の「隠居邸」と届け出て、実際は城だったというw 唯一無二の「一国二城」ですね。補足すると、城の設計図を幕府に届け出なければならず、城は幕府に丸裸にされていたんですね。 大名格差ですが、石高で序列がついていたような解説ですが、どちらかというと、武家官位によりませんか? 徳川宗家は代々「内大臣」 尾張徳川家と紀州徳川家が「大納言」 水戸徳川家が「中納言」の官位を得、以下、官位に応じて、江戸城内での序列が決まっていたようです。だから石高が少なくても親藩や譜代は官位が高かったし、逆に石高が高くても官位が低いので、江戸城内では外様の部屋だったんですよね。
@tetsumichi
5 ай бұрын
一国一城にもけっこう例外がありましたね 熊本藩は幕府から八代城が認められてましたし 加賀藩も小松城が認めれて小松城を築きましたし、しかも金沢城より支城の小松城の方が大きかった(笑) 御三家の尾張藩も二城で附家老の成瀬氏が犬山城を平成の世まで個人所有してましたね まぁ今の持ち主は財団法人ですが理事長は成瀬氏なので、ほぼ個人所有みたいなものですが。。。 紀州徳川家は。。。 たぶん知ったら驚きますよ! 官位もさすがに石高が大きい外様は初任で四品以上でしたから同じく初任四品以上の親藩と同じ大広間が詰所だったりと 拝謁以外ではそれなりの待遇だったと思いますよ 前田家だけは例外中の例外で極位極官が従三位参議で外様で唯一公卿にまでなれる家でしたから御三家に次ぐ大廊下-下が詰所で 実際数人は前田家当主は従三位参議にまでなってたはずです 意外と官位は外様の中で、くっきり分けられてる感じだと思います
@cheekogreeneyesnike
Жыл бұрын
江戸城のそんな事から浅野内匠頭が殿中刀傷を起こして御家改易。多いし内蔵助たちの吉良家討ち入りが発生したのだと思いました。
@carmix6721
Жыл бұрын
うわー江戸時代めちゃくちゃタイムスリップしてみたい笑
@まま-j3w
Жыл бұрын
東照宮でも格差があったらしいが、 徳川四天王はどんな扱いされてたんだろ? 10万石扱いのままなのかな?
@u4ss785
Жыл бұрын
よく分からないくらい離れていたから、将軍とコロッケが入れ替わっても分からなかったのですねw
@鳶沢成美
Жыл бұрын
『将軍家光忍び旅』w
@honda10102004
Жыл бұрын
興醒めになるので時代劇では描かれませんが将軍が直接大名に話しかけるのは御三家、加賀、薩摩くらいでした それも『それへ』『達者で何より』位で大名が返答する事はありませんでした 吉良上野介義央と浅野内匠頭長矩は官位が違い過ぎて諍いなど起こり得ないのですけどね
@u4ss785
Жыл бұрын
廊下も離れていたんでしょうか?
@csny0627
Жыл бұрын
「書院番頭」と書いて「ショインバンガシラ」と云います。
@上田侑加-c3e
Жыл бұрын
城持ち大名ではないたったの1万石の小大名でしたが元旦に初登城の折、将軍からの一番盃を受けるのは私の母の祖父、私からは曽祖父。 それ故、一文字大名と呼ばれていました… 陣屋大名ですが🤣🤣🤣 別名、脱藩大名
@paul935ctc
Жыл бұрын
相馬氏は、徳川(松平)氏が三河国の土豪どころか祖先すら全く辿れない平安時代から続く武士の名族なので、徳川の宗家ですら無いたかが会津の御連枝ごとき…という思いが奥底にあるんですよね。天下を取った徳川氏は武士の中では「ぽっと出の新興勢力」だったというのが話を複雑にしている。そうであるがゆえに、徳川幕府は家康以来、高家枠を設けて没落した旧名家に特別待遇をしているのだけれどね。
@mokomoko4399
Жыл бұрын
実際がどうかわからないけど 顔を知られなければ、暗殺を防いだり影武者も立てやすくなりますね 今の某将軍も影武者説ありますものね
@HigashiNanigashi
Жыл бұрын
写真も動画も無い時代ですから影武者は高そうな着物を着せて殿って呼べばOK
@吉野和壽
Жыл бұрын
9分20秒辺り、1石は180㎏、この当時、一年間で大人は3石前後食べていました。近年は米の消費量が減っているので、そんな実感が湧きませんが。
@Z777-h3p
Жыл бұрын
将軍「そのほうたち、面を上げよ・・・頭が高い!」 生徒「どうすりゃいいのよ・・・」
@dkadka2853
Жыл бұрын
ファンタ飲めよ。
@u4ss785
Жыл бұрын
3年G組 将軍先生
@yh6146
Жыл бұрын
某KZbinチャンネルで当時のファンタのCMに突っ込みを入れていた。
@光城平
Жыл бұрын
福山城は今で言うリサイクル城、表門は京都伏見城だったかな、後は神辺城、水野勝成は家康の従兄弟だったから江戸時代でも立てられたのかな。
@yh6146
Жыл бұрын
9:38 この石高のランクは一部の大名には当てはまらない。御三家は別格だし、井伊家は官位では正四位上左近衛権中将で正四位下左近衛権中将の会津越前と同様に同じ石高の外様どころか島津と伊達よりも格上だし、12万石の高松藩は島津と伊達と同格だし、前田と島津と伊達以外の国持は家督の数十年後に従四位下左近衛権少将になっているのに尾張紀州の分家の3万石の高須藩と西条藩は家督翌年には従四位下左近衛権少将になっている。
@山ちゃん3世
Жыл бұрын
粗さがしお疲れ様。 自分でチャンネルやれば?(笑)
@白吉-j4d
Жыл бұрын
細かいことを言えば、石高、官位、江戸城控間、名乗りの独占や優先、大名行列の槍などの持ち物、藩内での一国一城令例外の城、家臣の将軍家拝謁、拝領屋敷の場所や規模などたくさん大名の格差を示すものはある だけど、そんなのあまり詳しくしても動画を見た方を混乱させるだけですね 表高は豊臣秀吉時代の検地した田畑の石高がもとにその後幕府や大名が少し変更させたものでしょう その後、開墾したところが多ければ実高は多くなり、太閤検地でうまく立ち回れなかった大名の領地は実高より表高が少なかったりしたのでしょう 太閤検地では石田三成、浅野長政などの五奉行が行っていますが、検地のいざこざがもとで宇都宮氏が滅ぼされ、子孫は水戸藩重臣となったという話が残っています
@rin.moka.p-chantati
Жыл бұрын
凄いな~!私もそんな感じな授業を大学で勉強したかったわ(文系好きだった看護婦…)
@ひろたかし-w8m
Жыл бұрын
@@白吉-j4d 宇都宮氏は大名としては滅びましたが、水戸家に拾われたことで歴代当主は家老となり、陪臣になったのにも拘わらず御三家の家老ということで従五位の官位をもらっていたりします。でも、個人的に陪臣ではなく、せめて大友や最上のように旗本として残ってほしかったです。 関係ない話書いてスミマセン。
@HigashiNanigashi
Жыл бұрын
まあ官位も徳川幕府が斡旋したのでしょうから、禄高と官位と云う二重権力構造を作った理由が謎
@ぽん-t6i6n
Жыл бұрын
大名の格差を可視化したら、反乱を起こさないようにするに対して逆効果な気がするけどなー
@御神誉黎
Жыл бұрын
大名同士の対立を煽る意義がある。 カースト上位の大名はそれを守りたい、カースト下位の大名は上位の大名への反感を煽り 結束を防ぐって効果的なやり方だ
@御神誉黎
Жыл бұрын
@Y Y まあ、封建制度の時代は上下関係をしっかり示すのは当たり前のことなんだが そもそもの質問が、反乱を起こすのではないかって事だったから 上位カーストにしてみれば自分の権威を守りたい、下位カーストにしてみれば上位への反感を煽る事ができるので このやり方は反乱を防ぐには有効と返しただけだよ
@非理法権天-t4o
Жыл бұрын
大名も1万石以上5万石未満。5万石以上10万石未満。10万石以上と大きな格差が横たわっていましたね。 それによって城持ちか陣屋か。官位の極官の違い。江戸城内の控えの間の違い。就任できる幕府役職の違い(親藩・譜代大名のみ)。等々。
@sakupon2917
Жыл бұрын
喜連川藩「皆さん大変っスね。」
@メルカッツ提督-x6n
Жыл бұрын
私の地元、佐賀県鳥栖市は対馬藩でした。どれくらいの石高だったのかは分かりませんが…。
@三宅康弘-x3e
Жыл бұрын
尾張藩は2つお城がありましたね 名古屋城 犬山城 唯一大名で無い成瀬家が所有していましたね
@himikt
Жыл бұрын
割とつい最近まで成瀬家の所有でしたよね。 友達に「今日うち来ない?城だけど」って言ってみたい。
@佐藤光-e6s
Жыл бұрын
確か、参勤交代は石高の1割程度の負担が生じると高校日本史で学びました。 後の八代将軍となる徳川吉宗公も、紀伊藩主時代に相当の負担が生じられたと考えられます。
@hhave6854
Жыл бұрын
天下泰平の世なら身辺警護で配下20人くらいで参勤交代したいね。 見栄より実を取りたい
@dolgaa
Жыл бұрын
おもろかった
@たかし-u9m
Жыл бұрын
暴れん坊将軍は近いなぁ!爺や大岡越前は友達みたいだった。
@takaharatakaha
Жыл бұрын
相馬の話は全く逆バージョンも伝わってたはず
@度会眞
Жыл бұрын
対馬藩には、田代領と浜崎領があったと聞いていますが、ここも無高だったのでしょうか?
@こいし-x6m
Жыл бұрын
イメージ的には平民農民商人は武家に虐げられてたみたいなイメージ強いけどホンマはそうでも無いのが面白いよね。
@小山義一-x5e
Жыл бұрын
松平同士でも大変なのに御三家水戸藩だけは、参勤交代していないので大丈夫だけど徳川家て子沢山だから葵のご紋が出て来た時には、逃げる此れが参勤交代時の鉄則で家格上(石高や官位役職が上)の藩が参勤交代して来た時には、葵のご紋が何処通っているか他の藩に教えて至りするだから大変で外様伊達(実は、譜代だけど外様扱い)藩は、親戚縁者の藩には、どの日程で通るて出して至りするから厄介事は、親類縁者同士で情報共有参勤交代て大変ですしね。 御目見え以外に個別呼び出しも有るので大名と言え江戸に居る時には、大変明日いきなり登城しろって言われるのが当たり前だしね。
@sw-lh6qt
Жыл бұрын
参勤交代中の謁見ってそんなに多かったのか…病欠とか認められてたのかな…
@rrm64621
Жыл бұрын
間違って徳川御三家の参勤交代列に出くわしたら、その大名は真っ青になりそうw
@小山義一-x5e
Жыл бұрын
水戸は、兎も角紀州だとかなりの大名が遭遇回避に大変だった更に紀州の支藩尾張の支藩に他の徳川将軍家分家藩にと有るから家格が同格の大名同士で連絡役や偵察役迄居た。 紀州や尾張に出くわすと大名と言え地面にひれ伏す必要が出来れば回避したい。 尾張の支藩でも紀州と出くわすとひれ伏す必要がだからね。 将軍家分家藩でも紀州尾張水戸と出くわすとひれ伏す必要がだから出来るだけ回避していた下に下にて聞こえて来れば大名と言え逃げていた。 下に下には、尾張紀州水戸だけが使えたからね。
@akihikoito9782
Жыл бұрын
石高で格付けはされても藩の豊かさは別物。一番豊かであった藩は石高無しの松前藩だったそうです。アイヌとの取引する場所を家臣に与え家臣はアイヌから北海道の産物を買い叩いて、それを物によっては買い入れ値の10倍以上で他藩の商人に販売したそうです。よって百数十人しかいない家臣は数千石の実収入が有ったと言われていますから凄く豊かでしたね。藩全体が貿易商だった訳で当然の結果でしょう。
@御神誉黎
Жыл бұрын
たいていの大名が表石より実石の方が多いですよ。 維新の立役者だった長州藩は表石は36万9000石ですが 実石は98万石以上 最大の大名の加賀藩に迫る石高だ 幕府が認めた表石に従い。大名の序列が決まったが、一方で普請など色々な役割が与えられるのだから 名より実を重視すれば石高は少ない方がよかったのでしょう。 幕府もこの実情には気づいていたと思いますが 中期以降はどこの藩も財政は火の車でしたからね 大目に見ていたのではないでしょうかね 松前藩は幕末にはロシアからの防衛で重要視され、三万石が認められ 格も松前城が建築されて城主大名の一人になっています。
@sidetonegawa5252
Жыл бұрын
しかし松前藩では米が取れなかったのでしょう。すると本州の他藩から買わなければならない。近くの藩だと東北の各藩だが冷害に遭いやすい土地でどの藩もさほどの収穫も無く自藩で食っていくのも厳しかったのではないでしょうか。こうなるといくらお金を積んでも米が買えなかったのでは。それとも大坂商人の仲立ちで遠い西国の米でも買っていたのでしょうか。
@ker9463
Жыл бұрын
松前藩って冬は地獄だったと思うよ今だって強烈な寒波来てるんだから
@yh6146
Жыл бұрын
10:09 5000石なのに10万石の大名扱いの喜連川藩と無高どころか領地が無かった新田藩の解説が無かった。喜連川藩は足利将軍の分家の名家で5000石なのに大名扱いでしかも参勤交代もお手伝い普請も免除の特殊な大名。新田藩は本家から分家の際に領地を分けられずに毎年1万石以上の米を支給されるだけの大名。一応江戸屋敷はあるけど居城や陣屋は無いから基本的には江戸定府。米沢藩分家の米沢新田藩みたいに米沢城の一部を居城として間借りしていた大名もいた。
@rin.moka.p-chantati
Жыл бұрын
凄いな!!そういうのはどうやって勉強されたんですか❔ ぜひこの番組でも取り入れてもらいたいですね😊😊😊
@ひろたかし-w8m
Жыл бұрын
喜連川藩は江戸幕府からは足利将軍家の後裔として扱われてました。実際に足利将軍家の血筋だった平島公方の扱いとは雲泥の差ですね。
@美濃守男
Жыл бұрын
確か、そもそも徳川家との主従関係そのものが無かったので、喜連川家は徳川家と対等な大名として存在していたと思います。
@武田亥三男
Жыл бұрын
本で読んだけど、関ヶ原の時徳川方についた真田信幸が父昌幸と弟信繁の助命に苦労したり、御家存続後も 後継ぎや領地財政問題で 苦心して居た。まるで中小企業の社長に見えた。 加賀家が九鬼家に宿場を譲ったのは無用な喧嘩をして 両成敗で領地移封や減封 悪くすると御家断絶を懸念したのでしょう。金持ち喧嘩せず なのでしょう。賢明です。長年経理担当でした。大企業が株主の場合は 会社の決算確定後経理部長が報告書を持って行くのだが、弱小会社や赤字会社には、好くて課長悪いと係長くらいが相手をする。「しょうも無い会社や、適当に聴いておけ。」と遣られるのです。極めつけは「其れで株主配当はなんぼですか…えっ 無配 はぁ~」と 言われたと先輩から聞きました。
@user-dw6xe4vc7l
Жыл бұрын
へえ本陣や脇本陣は部屋なんですね
@MR-ek7km
Жыл бұрын
参勤交代って大小の藩問わず毎回金掛かってたまらんかったやろな。
@tryo2115
Жыл бұрын
公共事業みたいなもんだからね。
@もらもら2
Жыл бұрын
金をたくさん使わせて、特に、遠国に多い、外様の大大名を、へろへろにするための制度ですから。
@雨宮雅人-u1s
Жыл бұрын
ご恩と奉公で有る以上は、参勤交代は義務。
@yh6146
Жыл бұрын
17:42 だから暴れん坊将軍の「余の顔を見忘れたか」はあり得ない。
@mamamakna
Жыл бұрын
時代劇なんて真面目に考えたらツッコミどころが多すぎて見てられないだろ。。
@cheetah7921
Жыл бұрын
時代劇は創作やで
@戸田賢司
Жыл бұрын
暴れん坊将軍でそのセリフを言われるのは、大体⚪⚪奉行とかで、しょっちゅう吉宗に会っている。
@fivepointedstar196
Жыл бұрын
ドラマの暴れん坊将軍の徳川吉宗だけど 「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」 江戸時代の旗本 勘定奉行 神尾春央の言葉。 苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが将軍、徳川吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし改革に貢献した功労者。 徳川吉宗の治世では享保の飢饉も発生。 餓死者は1万2000人。 また、幕領内67万人、諸藩は197万人、あわせて250万人強の人々が飢餓に苦しんだといわれる。 時代劇の謳い文句と違い、あまり天下泰平の世でもない。
@ひろたかし-w8m
Жыл бұрын
水戸黄門は印籠を出せば副将軍と分かり大抵は一件落着だけど、暴れん坊将軍は将軍と分かってもなお斬りかかられる始末。水戸光圀から徳川吉宗までの30年間で幕府権威が衰えたのかもしれませんね。
@高幸若槻
Жыл бұрын
参勤交代は現代人の目線からすると実に考えられた方策と断言します。 大名に金を使わせるばかりかランク 別に区分けされ、大名同士で妬み 僻み嫉みが渦巻く環境にすることで 結果的に将軍家の権威が高まるから 上から睨まれでもされたら理不尽な扱いを受ける可能性があるし、 Fランクの藩主ともなったらそりゃ藩主なりに江戸城下で肩身を狭く しているのは間違いなく、それすら よく知らない藩士がいたりするのは 如何にもありそうな話ですね。 藩士クラスなら同僚や上司との ソリが合わずに舞台裏で仲違いと 言うのもよくわかりますがね。
@九曜ウサギ
Жыл бұрын
陸奥守家の要害みたいに言い換えですり抜けた場合も大藩ではあったがな。
@omancho2
Жыл бұрын
暴れん坊将軍でみんな上様の顔を忘れてる(知らない)のも当然ですね
@kazuoga7418
Жыл бұрын
菰野藩、土方1万1000石、外様、幕末まで続いたとのこと。グッジョブだと思います。
@無無-g8x
Жыл бұрын
私の出身地である小泉藩、片桐家1万1000石も幕末まで続き、現在も当主は茶道石州流家元として小泉陣屋跡の一角に住んでいます。 そして息子さんは同級生でよく遊び、よく喧嘩もしました。世が世なら若殿様。今頃、当家は切腹、取り潰されてます笑
@DoReMiLight
Жыл бұрын
国会議員も選挙での得票率に応じて国会での座席や質問権や入閣で格付けすればいいのに。
@たけのコーン
Жыл бұрын
槍持ち「解せぬ」
@partisansoviet3874
Жыл бұрын
広域暴力団みたい
@拓也高瀬
Жыл бұрын
この解説(⌒0⌒)/~~為になる( ゚∀゚)ノ♪
@toshichika720
Жыл бұрын
城なし大名いたの知らんかった、プライドて怖すぎる、殺し合いになるの😢😢🥶
@満典富永
5 ай бұрын
大名の家臣の禄高はどうなっているのですか? 何人くらいいるのですか? 例えばーーー。 ◯◯万石なら家臣は何人。 家老は何人で禄高はこのくらい。 奉行なら。 百石取りが何人、 二百石取りが何人とか 決まっているのですか? 大石内蔵助は確かーーー浅野53000石の筆頭家老で禄高1500石。 大石自身の家来(陪臣)は何人いたのですか?その禄高は? 大名は古は名田を多く有せるものの称なりしが、 あと転じて守護地頭の称となり、 徳川氏に及びては家禄万石以上のものを称す。 古事類苑13 p1663(国会図書館) ◯摂津微書 巻86-87 関白摂津分限帳 摂津寺社領 古事類苑41 産業部 p186 付農人 p189 松の落葉 によれば 百姓の名の由来が。 しかし班田収授の頃は◯◯と農民しかいなかったんですか? 藩士人名辞典(国会図書館)を見ると。 二本松藩十万七百石では。 家老が16人もいるんですね。 その知行は。 さらに 二本松藩史(国会図書館) p742 家中知行(戊辰当時)によると。 p740 兵制ーーーというのも。 いろいろーーー。 和歌山史要 p50あたりにもいろいろと。 職制ですか。 目付はこのような役割りをーーー。 とか。 町奉行はどうですか? 禄高は。 他の藩はどうですか? まあいいか。 殿様の取り分は? 旗本ではどうなっているのですか、 適当な資料が? 国会図書館デジタルーーー 分限帳(沼田分限帳というのもあるようです) 検索条件を追加 クリック タイトル 分限帳 検索。 他にも 藩史 県史 知行 で検索してもーーー。
@giantnioinoba2023
Жыл бұрын
幕府の居城である江戸城は、明暦の大火で消失して以降は天守を設けなかったので、平城として幕末を迎える皮肉💦
@yh6146
Жыл бұрын
大坂城も最大の大名で家格では御三家の次の加賀藩で金沢城も天守が火災で消失した。金沢城は幕府が開かれた前年になくなった。
@戸田賢司
Жыл бұрын
平城って平地に建ってる城だから、天守閣があろうがなかろうが平城だが定期。
@-msc
Жыл бұрын
闘争は同じレベルでしか発生しないというのが正しければ、小藩の大名が大藩の大名に対抗意識を燃やしたのは せいぜい参勤交代くらいだろう。 問題は同じ家格の大名間での先任、後任の家格争いのほうが激しかったと思われるな。
@yh6146
Жыл бұрын
薩摩藩主島津重豪が先に中将任官したのを仙台藩主伊達重村がくやしがり幕閣に贈り物をしたりして働きかけていた。
@tarou_etou
Жыл бұрын
マンデラエフェクトで、士農工商 身分制度が消滅して、商人の地位が上がって、「大・大阪時代」が出現したよ。
@AK-zu3mn
Жыл бұрын
うちの家系は、陣屋でした。
@kazuokoyama6435
Жыл бұрын
紀州藩家老、新宮城主は3万石でも大名じゃないからね。
@itasaku100
Жыл бұрын
今のサラリーマンと一緒だの〜😂
@オレの名はレイ
Жыл бұрын
いかにも会津藩らしい始末ですね。 カッコいい。
@user-go5sx2cq2o
Жыл бұрын
バカ殿の城もフジテレビのスタジオだもんな。
@森田長次郎
Жыл бұрын
格上!格下!確か、水戸黄門のドラマにもあったな。最初のドラマでは無くてもっと後にも合った。行列三組が江戸城、の正門に近づいて居たが橋の前で、何方が先か?で睨み合い!!一方は普通の大名。方や一方は幕府で役職持ちだが城無し大名!!三組目は、葵の家紋付の行列!!睨み合ってる家臣がふと、後を見ると御三家の家紋を見て後ろの籠へ知らせた。両方共に下がる!!乗ってたのは誰あろう。水戸の隠居!老公だった!御三家と言えども夫々に家紋は葵では有るが少しずつ違う作りに成ってる。水戸家は副将軍なだけに将軍と同じ家紋!!尾張藩、紀州藩、夫々丸だが少し違う見たい。さて橋を渡ったのは水戸の隠居が先になった。その後が役職持ち大名!!次が、城持ち大名!となる。水戸家は禄高低いが福将軍の地位は変わらずだった。次いで御三家筆頭の尾張藩!最後が紀州藩で有る。しかし、8代様事吉宗公がが将軍時代には逆転して紀州藩が3番目に橋を渡る。尾張は次になる。武家の世界は何かとややっこしいしきたりも有ったから、吉良が意地悪爺さんに見られて当然よのう!!!!
@rin.moka.p-chantati
Жыл бұрын
凄い✨物知りで良く覚えてられますね(*´ ³ `)ノ水戸黄門はばあちゃんと一緒にまったりしながら観てましたね(懐かし😊😊)45分過ぎの印籠を心待ちにしておりました😅♥️
@え同じ値段でステーキを
Жыл бұрын
大名行列といえば生麦
@えいじ英ちゃん
Жыл бұрын
「城」の定義ですが。この動画だと櫓、天守がその基準みたいに受け取れる内容に なっているようですが、実際はどうだったんでしょ?
@エムケイ-y3l
Жыл бұрын
「城」という言葉の語源は「土より成る」で、地面を掘り、土を盛って囲った区画が最初の城として理解される。 (財団法人日本城郭協会監修・日本100名城公式ガイドブック冒頭、「城の歴史」より抜粋)
@口うるさいが嘘はつかないおっさん
Жыл бұрын
大変なのは家臣
@社不-y2x
Жыл бұрын
相馬藩ぶっ飛んでて草
@克幸田母神
Жыл бұрын
とうじょう、でなくて、とじょう(登城)ね!
@ミニトマト-k9f
Жыл бұрын
殿様と言うより、その下々の方が苦労してると思う。
@ランランレイマチュピチュン
Жыл бұрын
薩摩藩って、、、、、、、、江戸迄行くだけでも、、、、、、、、大変
@戸田賢司
Жыл бұрын
いっそ船で木更津辺りまで行って歩いた方が速いのだが、江戸時代はデカイ船は禁止だから、薩摩藩の人数は無理だな。
@mamoruhiiragi7750
Жыл бұрын
こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、ヤクザの盃ってこんなところに由来するのかな?
@douga9996
Жыл бұрын
分断は権力者の常とう手段です。
@御神誉黎
Жыл бұрын
大名のカーストは石高で定めるのは政治的な位置づけに合わせるのは難しいから 官位で決めていたな 御三家の尾張と紀州は大納言、水戸は少納言 加賀藩は宰相 島津・伊達・会津など有力外様・親藩有力大名は正四位下中将 こんな感じだな
@pianochandaisuki
Жыл бұрын
水戸は中納言
@ひろたかし-w8m
Жыл бұрын
水戸黄門の黄門は中納言の唐名でしたね。
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