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木管五重奏 五重奏 ミニョンヌ(スロー・ワルツ)
Joseph F. Lamb作曲
MIGNONNE VALSE LENTE
Respectfully dedicated to my mother
編成はFl.、Ob.、Cl.2本、Bsn.です。
サックス五重奏、金管五重奏、クラリネット五重奏版は発売中です。
20世紀初頭のアメリカン・ワルツ作品を、ぜひお楽しみください。
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参考音源
• 木管五重奏 五重奏 ミニョンヌ(スロー・ワルツ)
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/ @hiroakise6023
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「ミニョンヌ・ヴァルス・レンテ」は、ラグタイムのジャンルに貢献したことで知られるアメリカの作曲家ジョセフ・F・ラムによるピアノ曲です。
ラムは、スコット・ジョプリン、ジェームス・スコットとともに、クラシック・ラグタイムの三大作曲家の一人でした。
タイトルと形式:
タイトル「ミニョンヌ・ヴァルス・レンテ」は、英語で「ダーリン・スロー・ワルツ」と訳されます。
これは、この曲がワルツ、つまり三拍子のダンスであり、特にスロー・ワルツであることを示しています。
スロー・ワルツは、速いワルツに比べて、よりリラックスした叙情的な性質を持っています。
献辞:
この曲はラムの母親に捧げられており、作曲家にとって個人的な意味を持っていることを示唆しています。
音楽作品の献辞は、多くの場合、音楽と献辞対象者とのトリビュートまたは特別なつながりを示しています。
音楽スタイル:
ラムは主にラグタイムの作曲で知られていますが、「ミニョンヌ・ヴァルス・レンテ」は
ラグタイムの典型的なシンコペーションのリズムから逸脱しています。
代わりに、3拍子を強調するワルツ形式に従っています。
音楽分析 構造:
ワルツである「ミニョンヌ・ヴァルス・レンテ」は、導入、いくつかのテーマまたはセクション 、コーダを含む典型的な構造に従います。
各セクションは通常、明確な旋律的アイデアを提示し、多くの場合、ハーモニーとテクスチャにバリエーションがあります。
ハーモニー:
この曲は、7度和音、変調、半音階の使用など、後期ロマン派音楽に典型的な豊かなハーモニー進行を採用しています。
これらのハーモニー技法により、豊かで感情表現豊かなサウンドが生まれます。
メロディー:
ワルツのメロディー ラインは通常、ダンスの優雅さと優美さを捉えるように設計されており、流れるような叙情的なものです。
「ミニョンヌ・ヴァルス・レンテ」では、メロディーはラムの母親への献身を反映して、優しく愛情深い性質を伝えることが期待されます。
リズム:
ワルツのリズムは、3 拍子で特徴付けられます。
MIGNONNE VALSE LENTE
「MIGNONNE VALSE LENTE」は、Lambが母親に敬意を表して献呈したワルツ曲です。
曲名の「MIGNONNE」はフランス語で"かわいらしい"を意味し、「VALSE LENTE」は"ゆっくりとしたワルツ"を指します。
この作品は、3連符のリズムと優美なメロディーが特徴的な、典型的な19世紀後期のヴァルス・ランタンのスタイルで書かれています。
母への愛情を込めた情緒的な曲想が、当時の家庭的な音楽会での演奏に適していたと考えられます。
ワルツを親しい人に捧げることは、19世紀の作曲家に一般的な習慣でした。
作品を両親や家族に献呈することで、作曲家の尊敬と感謝の気持ちが込められていました。
Joseph F. Lambが作曲した「MIGNONNE VALSE LENTE」は、美しく情緒的なワルツです。この曲は、彼の母親への敬意と感謝の念を込めて書かれました。
ラグタイム作曲家として知られるLambは、ポピュラーな曲から複雑な技巧的な作品まで、様々なジャンルの音楽を手がけました。
「MIGNONNE VALSE LENTE」はそのような彼の多様な作品の一つで、優雅でロマンティックな雰囲気を持つワルツです。
この曲のタイトルは、フランス語で「かわいいゆっくりとしたワルツ」を意味します。母への愛情を込めた柔らかく心温まる旋律が特徴的です。
当時のピアノ教則本にも掲載されるなど、広く人気のあった作品でした。
Lambは「Big Three」と呼ばれるラグタイムの三大作曲家の一人 で、この「MIGNONNE VALSE LENTE」は彼の代表作の一つとして知られています。
●ジョセフ・フランシス・ラム Joseph Francis Lamb (1887年12月6日 ~ 1960年9月3日)
クラシック・ラグタイムの ビッグ3 と呼ばれるアメリカ人のラグタイム作曲家の一人。
(他のビッグ3、すなわち スコット・ジョプリン Scott Joplin と ジェームス・スコット James Scott が共に黒人だったのに対し)
アイリッシュ系アメリカ人のラムは、東部(ニューヨーク近郊 ニュージャージー)で一般人として生活しながらも
生涯に渡って優れたラグタイム作品を数多く作曲しました。
Joseph F. Lambは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家です。
彼は主にピアノ曲を作曲しており、特に優雅で気品のあるワルツで知られています。
その作品群は、20世紀初頭のラグタイム時代から第二次大戦後のラグタイムリバイバルに至るまで、彼の終生に渡って発表・出版されました。
また近年においても未発表曲を集めた楽譜集や初の伝記が出版されるなど、
ラグタイム分野を中心にアメリカ音楽界の注目を当世でも集め続けています。
これらの事実を考慮するならば、アメリカ音楽史に名を残すべき偉大な作曲家として評価され、知られるべき音楽家です。
ラムは、1887年の年の瀬 12月に、ニューヨークの南西隣に位置するニュージャージー州モントクレア Montclair で、
大工を営む家庭の4人兄弟の末っ子として生まれました。当時のアメリカは華々しい成長期 - いわゆる「金ぴか時代」を迎えており、
娯楽文化の発達とピアノ製造拡大・様々な印刷楽譜(シート・ミュージック)の大量流通が大きな市場を生み出していた時代で、
裕福な家庭だったラム家の二人の姉もご他聞にもれずピアノを習っていましたので、ラム自身も音楽が身近にある環境で育ったと思われます。
彼自身は正規の音楽教育を受けることなく独学で(また、姉達に教わりながら)ピアノ演奏をマスターしていったようですが、
その一方で早い時期から作曲も始めていたと推測されています。(五線譜の使い方を覚える以前から「黒玉の羅列で曲を書いていた」という逸話があります)
12歳の時(1900年)に父が亡くなると、彼はカナダのオンタリオ州バーリン Berlin (※1916年に Kitchener と改名)の
学校に寄宿生として入学することになり、1904年に(恐らく中退で)学業から離れるまで彼の地で過ごしました。
この頃から本格的に作曲を始めており、未出版の曲が1900年付で作曲されている記録があるほか、
1903年には初めて「ラグ」と銘打たれた作品が作られています。(「Walper House Rag」、タイトルは学校があったバーリンの著名なホテルに因んでいます)
学校を辞めたラムは、故郷のモントクレアに戻って働き始めます。一時期、兄を訪ねてサンフランシスコへ足を運んだものの、
1906年には(歴史的なカリフォルニア大地震の発生前に)故郷へ戻り、新たにニューヨークで音楽出版者に雇われることになりました。
当時のニューヨークでは音楽産業が著しい成長を遂げている最中で、多くの出版社がラグタイムを筆頭に様々なピアノ楽譜(シート・ミュージック)を
出版・販売し市場に音楽を提供していました。(往時はまだレコードも発達して無かったので、音楽は「楽譜を通じて」社会に流通していました)
また、スコット・ジョプリンのヒット作を扱っていたことで今日にも名を残している 「スターク社」 も、
同じ1906年に中西部のセントルイスからニューヨークへ進出し販売店をオープンさせましたが、
ジョプリンのファンだったラムもこの店に足しげく通うようになります。
そんなある日、いつものようにジョプリンの楽譜を買い求めに来た際に
「ジョプリンの曲が大変に好きなので、持っていない楽譜は何でも欲しい」という話を、店にいたスターク婦人に話したところ、
店内に居合わせた黒人の男性が話しに加わって「どの曲を買えば良いか」アドバイスしてくれたそうです。
お礼を言って買い物を済ませたラムが、帰り際に「一度、尊敬するジョプリンに会ってみたいものですね」と付け加えると
「あら、そうなの」とスターク婦人が答え、先ほどの男性を指差して告げました。「彼が、その人よ」
その日、ラムはジョプリンと共にニューヨークの町並みを歩きながら音楽談義に花を咲かせ、
以来、ジョプリンは彼の親友・師として(1907年に亡くなるまで)様々なアドバイスをするなど親交を深めたのでした。
なお(公式に知られた)ラムのデビュー作である 「センセーション Sensation 」(1908) の出版の際も、
当初は渋っていたスターク氏に対して曲を推薦し、編曲者の名義を貸すことで販売支援をしたとされる逸話が残されています。
その後、1919年までの約10年に渡ってスターク社はラムのラグタイム作品を積極的に出版・販売し続け、
先行して取り扱っていたジョプリン及びジェームス・スコットと並んで、ジョセフ・ラムは後に「ラグタイムの3大作曲家」とし
て評されるようになります。彼の作風についての評論は他に譲りますが、
ジョプリンの緻密な構成力とスコットのピアニスティックな技巧を混ぜ合わせながら、
独自のメランコリックな哀愁を多様なリズムの中に活かす作風 が感じられることでしょう。
私生活では、1911年にヘンリエッタ・シュルツ Henrietta Schultz と結婚、彼女の実家があるニューヨークのブルックリンで新たな生活を始めます。
ラグタイム作品の作曲に併せて編曲者としての仕事も行う等の音楽活動は継続していたものの、
1914年に安定した収入を求めて家具関係の貿易会社に職を得ると、ラム自身は会社勤務の一般人として暮らしながら
演奏会や音楽・芸能界等とは一線を画す生活を送るようになります。(もともと、作曲と出版以外の活動はほとんどしていなかった訳ですが)
そのため、後にラグタイム・リバイバルが起きた際にも
「ラムというのは、ジョプリンのペンネームである」と信じれられていたとの逸話が残っているくらい、彼個人については無名のままでした。
それに加えて、1920年にヘンリエッタが病気で亡くなると、5歳になる一人息子のジョセフ・ジュニアを連れたラムは故郷のニュージャージーに戻り
姉のアナスタシアの一家に身を寄せることとなります。なお、ラム自身が伝えるところによれば、
この転居の際に多くの楽譜が行方知れずになってしまったそうです。仕事はニューヨークで続けていましたが、
ちょうどその頃から時代は新しい音楽「ジャズ」を求めるようになり、ラムも自作出版という表舞台から、徐々に遠ざかるようになりました。
アトリエ・アニマート
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