『奥州藤原氏』黄金文化の歴史と栄華 金色堂に眠る藤原四代のミイラの謎

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ハテナ見聞録

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Күн бұрын

Пікірлер: 48
@梅の花サルトリイバラ
@梅の花サルトリイバラ 4 жыл бұрын
三十年ほど前には中尊寺で藤原氏のミイラ発掘調査のブルーフィルムを 境内の蔵で上映していました。 今となっては大変に貴重な動画です。 三年前までKZbinで個人が載せてくれていましたが 今では削除したらしく見当たらないのが残念です。
@ctotot
@ctotot 4 жыл бұрын
東北生まれの私にはとても嬉しい動画でした。ありがとうございます。
@369ミロク-v8g
@369ミロク-v8g 4 жыл бұрын
自分の地元から近く、何回も行ってる所なんで嬉しいです♫(笑) めちゃめちゃ良い所なんで、機会があれば訪れてみてください♫ 金色堂は別世界みたいに神々しいので。
@nasukawaseikotuin
@nasukawaseikotuin 4 жыл бұрын
奥州市出身で、子供の頃から毎年中尊寺に初詣へ行っていました🙏 身近すぎて知らない事がまだまだありそうです✨ 沖縄在住ですが里帰りした際は色々見て歴史を感じてみたいと思いました😊
@米沢理恵
@米沢理恵 4 жыл бұрын
素敵な動画をありがとうございます😊 東北は母の出身地です。 とても好きな場所です。 また楽しみにしてます。 ご自愛下さいませ😌
@murahatena
@murahatena 4 жыл бұрын
そうですね、義経が生きていたらどうなっているか、興味のある所ですね。
@alantracy3
@alantracy3 4 жыл бұрын
同じ平安時代の国宝で福島県いわき市に有る白水阿弥陀堂をご存知ですか? 永禄元年、藤原の徳姫が建立した阿弥陀堂で極楽浄土の庭園が見事でした。 ところで、いわき市は以前は平(たいら)と言う地名でありそこの内郷に在り 平の白水、つまりは平泉という事で金色堂に劣らぬ素晴らしい阿弥陀堂の事 も是非、調べてご紹介くださると宜しいかと思います。 じつは東日本の時に長期でいわき市にボラに入り心身 共に疲れ滅入った時にたまたま訪ねて心洗われました。
@niwaka8263
@niwaka8263 4 жыл бұрын
お疲れ様です。 山の民 先住民 アイヌ 蝦夷 鉄だけではなく、金 銀 銅 水銀 などの金属資源が豊富な東北 日高見国です ミイラ 水銀と意味ありですよね。 歴史の編纂があちらこちらに 金売り吉次 次回も楽しみにしてます。
@masarukawada
@masarukawada 2 жыл бұрын
いいねと チャンネル登録 させて頂きました 😃🇯🇵😃
@yoshiohurukawa3929
@yoshiohurukawa3929 4 жыл бұрын
以前、東北地方に仕事で行った事が有り、その際、中尊寺金色堂も観光しました。 確か、金色堂は、日本の国宝第一号じゃ無かったっけか? そんな事が、パンフレットに 書いてあった気がします。 当時は、結構荒れてて、修復して、現在の威光を放ってるとか何とか、 これまた書いてあった気がしますが(うろ覚え) 木乃伊とか首とか、本当に安置されてたんですなぁ。 一種の即身仏に近い思想なんだろうか? とか、思った記憶があります。
@Hiro1207-d9b
@Hiro1207-d9b 4 жыл бұрын
自分、岩手なのでとても興味がありました。^_^
@hiroshiheiwa7135
@hiroshiheiwa7135 2 жыл бұрын
』黄金文化の歴史と栄華はいいですね。ご案内ありがとうございます。
@yoshich.2nd
@yoshich.2nd 4 жыл бұрын
ちなみに、納豆発祥の地の一つとされる場所は、後三年の役があった場所からほど近ところで、こちらも藤原家と関わりがあるんですよねぇ。
@super-ocean1884
@super-ocean1884 4 жыл бұрын
いつも楽しみにしています。 「MARU」さんの語り口も優しく丁寧で、心が安らぎます。 今後も応援しています。
@ザンゲきょみ
@ザンゲきょみ 4 жыл бұрын
アカホヤ火山灰の影響で西日本が停滞した頃は、東北地方が文化の中心だった。 その歴史を西から来た渡来人達から隠すために、古事記や日本書紀が書かれたと聞きました。 古事記等を書いた藤原氏が東北地方を治世してたのですから、やはり東北地方は重要だったのですね。
@元祖りんりん-j1p
@元祖りんりん-j1p 4 жыл бұрын
私は日本の由来が東北地方と信じています、大和政権が日本を名乗るのは大化の改新以後からです。 日本を使用していたのは東北の文献のみです。奥州の国家が一番最後に統合されるのです。 此の歴史が繰り返し民族を変え繰り返すのです、地政学ですね。
@大原太
@大原太 4 жыл бұрын
ハテナ姐さん、落ち着いた語り口でついつい聴き入ってしまいました。とても良い話をありがとうございました。😊
@佐藤寛-t3h
@佐藤寛-t3h 4 жыл бұрын
奥州藤原に使えた佐藤庄を出たのがわが一族我が家は800年の歴史がある!
@abbtk14
@abbtk14 4 жыл бұрын
江戸時代や昭和初期まで貧しく陰鬱な雰囲気を漂わせていた東北地方ですが、この時代の奥州がどれほど栄えていたか、中尊寺を見れば判りますね。江戸時代の大陸との密貿易は元手の数倍儲かるというほどで、この時代は経済が未発達とはいえ大変な利益があった事でしょう。泰衡が義経に軍を任せていたら独立国が生まれていたかも…。
@nyt7282031
@nyt7282031 4 жыл бұрын
江戸時代の東北地方は、他の地方と比べてとくには貧しいわけではありませんでした。 会津藩などは幕末まで長崎貿易などで相当な利益を上げ、日本屈指の雄藩と称されていましたし、仙台藩(伊達家)、秋田藩(佐竹家)など足利以来の有力大名も存在します。 (米沢藩上杉家は関ケ原の因縁から幕府に睨まれ、かなりの困窮生活を強いられていたようですが・・・) 東北地方が中央政府から疎外され貧困に陥ったのは、明治維新の際に薩長に逆らい賊軍とされたからです。
@鮭児-n6z
@鮭児-n6z 4 жыл бұрын
待ってました取り上げて頂きありがとうm(_ _)m🙇平泉と言う地名を知ったの頼朝の討伐軍に追われていた義経を武蔵坊弁慶が仁王立ちで弓矢を防ぎ立ち姿のまま絶命した地として知った子どもの頃亡婆ちゃんと見た絵本やった🙄牛若丸と弁慶の物語やった
@岡村俊幸-k7y
@岡村俊幸-k7y 4 жыл бұрын
藤原の始まりは、時の豪族安倍家から。 海を渡ってきたユダヤ一部と、それを迎え入れた安倍家との交流で藤原という姓が出来たと言われています。 ですからその時、西欧文化・文明を取り入れた藤原は栄華を極められたのです。 日本にユダヤの名所が有るのも不思議な事ではありません。 ですが安倍家は大國主の系列なので、時の朝廷とは仲違い。 依って安倍の姓を名乗ることは控えたのです。 藤原さんって、どことなく西洋人的な顔形の方が居ますでしょう⁉ 宮城県田代島に系列系図が有ります。 御参考までにコメント入れました。 爺ジより👴
@sanaesato-b3x
@sanaesato-b3x 3 жыл бұрын
あべめりあ
@sanaesato-b3x
@sanaesato-b3x 3 жыл бұрын
アベ マリアのアベと 安倍氏のアベと、つながりあるでしょうか? 青森にはキリストの墓と言われている場所があります。 何となく、安倍氏とマリア様を呼ぶ時のアベ マリアは繋がっているように思うのですが‥。
@岡村俊幸-k7y
@岡村俊幸-k7y 3 жыл бұрын
@@sanaesato-b3x 様 それでは、私がお聞きしました話を・・些か長文になりますが御許しを。 先ず、石巻市田代島には聞き慣れない地名がたくさんあるということを覚えていてください(後々、後述しますので・・) 田代島、御存知ですか? あの震災後、猫🐱がたくさんいる猫島で有名になった島です。 そしてアベマリアの「アベ」と「安倍」の関係性ですが、 聞くところによると、無きにしも非ずであります。 その経緯としまして古来より伝えられてきた神々の伝説、古事記等に記される「荒神」と「奥神」についてです。 以下は抜粋引用となりますが・・ 奥神と荒神は札所の守護神で、鶏の目の部分にあたり、視線は京都方面にある。 奥神は奥津彦命(オキツヒコノミコト)である。 荒神は三宝荒神となっていて、両神とも同じ祠に祭られてある。 三宝とは起源はフィンランドの神話からきており、サンポーとは「磨臼(スリウス)」のことで、そのまた起源は古代インドの「スカンバ」にある。 「スカンバ」とは宇宙のすべての物を支えているとある。 石が二つある臼の軸、即ち「スカンバ」がずれると大地は荒れる。 荒神はそのことをさす。 岩手県奥州市衣川の磐神社は、荒覇吐(アラハバキ)神であり、安倍一族の守護神である。 宮城県多賀城市の荒神は、荒脛巾(アラハバキ)神で、それぞれあてる字が異なっている。 多賀城の脛巾(ハバキ)とは足の脛に巻く布製のキャハンのことで、長髄彦(ナガスネヒコ)「古代大和民族」のスネに関連がありそうである。 庶民の底流にある繋がりに、衣川の男石様と女石様、多賀城の炉辺(ロバタ)「おがり物」が見受けられる。 荒神については江戸時代、荒神様は鶏が好きといって、鶏の絵馬が奉納されたと云う。 鶏については(注:時代と共に改竄編集されたのかもしれませんが・・)キリスト教聖書箴言30 29-31に、堂々と前進するもの(注:奥州には安倍貞任という豪族が居ました)に、尾を立てて歩く雄鶏と軍隊を率いる王があるとある。 因みに真言宗の原点は、キリスト教の箴言にあると聞いたことがある。 出雲美保関の事代主命(コトシロヌシノミコト)と日穂津姫の鶏に関する伝説。 最後に、伊勢神宮の神の使いは雄鶏である。・・・・・・ ・・・・以上、何気なく抜粋しましたが、その当時・・三宝は御存知ですよね?あの祝い事に使う物。それの起源がフィンランドの神話からだと言われると、大陸から渡ってきたユダヤ人?と大和日本人とは繋がりがあったということ疑えなくなってきます。青森県にある西洋的な遺跡?・・も、納得せざるを得ないのです。 キリストの墓は分骨かな? そして奥州に関しては、大国主命の子孫である事代主命、その子孫が朝廷との怨恨によって逃れ奥州に辿り着き、時の豪族安倍一族と親睦を交わした・・と聞いております。 もう1つ、大陸から渡ってきたユダヤ人はどうだったのかというと、追われ逃れてきたであろうそのユダヤ人達をやはり、手厚くもてなしたのが安倍一族であった・・という話もチラホラ。 ですが安倍一族とユダヤ人が婚姻すれば当然、青い目の子が生まれても不思議ではありません。 そうしますと、朝廷もそうですが大和日本民族の人は見たこともないような異国?の人と排他的な感情も生まれます。 ですからここで、この人達は安倍一族の子孫であるということを強く伝えるために、別名として「藤原」という姓を設けたのではないかとも推察できるのです。 藤原の代は、ユダヤの英知がふんだんに含まれているからこそ、あのような栄華きらびやかな時代を築くことができたのではないでしょうか・・。 長くなりましたが、「安倍」とアベマリアの「アベ」は何かしらかの繋がりがあったとしても、疑いの余地がないことなのかも知れませんね・・。  不尽
@まさやん-i1y5d
@まさやん-i1y5d 2 жыл бұрын
昨日旅行で行きました(*^ω^*) 撮影禁止だったんで、眼に焼き付けて来ました✨ 本当に美しく、金色堂観て感激しましたよ!
@ひろくんふろむ金沢
@ひろくんふろむ金沢 4 жыл бұрын
よく九州が古代日本の古里だと言われていますが…当時の九州地方はカルデラ火山等が🌋相次ぐ危険な地方でしたが… 東北地方は比較的安定しており当時はまだ暖かく居住するには適した地方だったと聞いています。 この様な土地を見過ごすはずは無く古代日本の首都的地方だったと思っております。
@サザエさんさ迷える
@サザエさんさ迷える 4 жыл бұрын
凄く聞きやすかった!
@村山秀輝-o4n
@村山秀輝-o4n 4 жыл бұрын
東北地方は、朝廷にしたがわないから、みちのく(みちのくに)と言われる様になったり怪物や鬼門の方角など言われた見たいです。 勝って官軍負けて賊軍は昔からあったんですね。
@相沢岳
@相沢岳 4 жыл бұрын
子供の頃今の奥州市に住んでました。高橋克彦氏の小説を読むまで平泉の歴史に興味も関心も持てませんでした。ですが義経さえ居なかったらその後の歴史はどうなっていたのかイフは無いですけど思いを馳せたりします。
@ちいさい羽ばたき
@ちいさい羽ばたき 3 жыл бұрын
はじめに、日本はひとつである、という考えを無理に当てはめようとしますと  「2:38~ 奥州には朝廷に服属しない人々が住んでいました」という説明になりますが、実際、鎌倉時代まで朝廷の権力が及んでいた・掌握していた交通路支配権は西国にあり、東国は管轄外でした。 ですから「3:18~ それを無視して滞納するようになったため前九年の役が~」というよりも、世界でも稀にみる金銀豊富な東国を侵略した、というのが妥当だと考えます。宮沢賢治が源頼朝を大泥棒といっていたことも間違いではないと思います。 網野善彦氏によりますと『実際に 東国全域に別の権力が及んだのは鎌倉後期であり、(前九年の役・後三年の役の武力制圧を経て)北条氏が津軽から若狭までの要津をほぼすべて直轄地に置いたことにはじまりました。』(「日本海と北国文化」 海と列島文化1 34ページ) これらからも、東国の歴史はしっかり再考されるべきものだと思います。 ハテナ見聞録さんの動画には大事なヒントがいっぱい含まれています。本当の歴史を紐解いていくことのできる内容・または問題提起をいつも示してくださり、とても感謝しております。
@ポルコロッソ-s8p
@ポルコロッソ-s8p 4 жыл бұрын
初代を棺に入れたのは二代。二代を棺に入れたのは三代。三代を棺に入れたのは四代。では頼朝に滅ぼされた四代は誰が?
@たかしの部屋-j1j
@たかしの部屋-j1j 4 жыл бұрын
死んでから自分で入りました。
@nekochankawaiine
@nekochankawaiine 4 жыл бұрын
日高見国、扶桑国は興味深い。河内源氏も桓武平氏も主に関東以北で活躍してたわけだし、明治以降皇室が関東にあるのは「江戸時代の成り行きで」なんてのは理由にはならん。絶対に意味がある。将門、頼朝、家康みんな今の我々が知らない事実を知っていたはず。
@藤寅-v5q
@藤寅-v5q 3 жыл бұрын
泰衡が、頼朝の真意に、気づいていれば、義経の軍才で、防衛できた。その活躍を見たかった気もする。
@デンジ-p9m
@デンジ-p9m 4 жыл бұрын
金って何百年しても何も変わらないの?
@b.b.1373
@b.b.1373 3 жыл бұрын
イオン化傾向が低く王水とかヨードチンキとかの数種類(うろ覚えですが4~5種類?)の限られた薬品にしか溶けないし反応しないので、大気中で錆びることはまずありません。
@福田英人-v2w
@福田英人-v2w 4 жыл бұрын
ミイラに釘が打たれてた話はしないのね? (ll´・ω・`)
@ナナムジカ
@ナナムジカ 4 жыл бұрын
義経の責任のような語りですが、義経は頼朝に嵌められた様なモノです。頼朝は久し振りに会う弟の顔すら覚えていなかった。まぁ〜別れた時の義経は赤子だったからね。しかし、義経の天才的な戦時禍での戦い振りに頼朝は恐を抱いていました。義経は純粋に(兄に褒められい)ただそれだけでした。その為に義経の身に悲劇が待ち受けています。義経の活躍に対し褒美を授けよ!!とか朝廷に言われそれを義経に伝えます。義経の悲運は義経の側に軍師が居なかったことですね。義経はこの褒美を請ければ兄頼朝が喜ぶ!!と純粋に思っていたのです。兄の思惑は天皇からの脱却だったのですけどね。頼朝は、幼いころから1人で人質生活をおくっていたのですから暗い幼少期だったのでしょう。義経は平泉に匿われたけど、1人寺に入り弁慶に会うまで寺の常識しか知らない少年でしたよ。しかし、義経は母、兄を想い続けて過ごしていたのです。兄は肉親の情は端っからありません。こんなに想いがチグハグな兄弟なのでしたからね。しかし、義経は兄をまるで疑っていませんでした。だから何故兄に討伐されなければならないのか解らないままで、木曽義仲の所まで逃げるのです。義仲も親類で 、兄弟の事情や気持ちを知っていたから、義経を匿い逃したのですよ。 それに、義仲は義経を気に入っていたみたいですしね。純粋に兄を慕う義経を不憫にも思っていたのです。兄頼朝は最初から義経を手駒としか見ていなかったし、義経を信用もしていなかった。だから、義経が褒美を貰ったのを兄への裏切り行為として討伐を命じたのです。勿論、義経が朝廷から嵌められたのも解っての討伐です。そんな義経が平泉を頼るのは必然だと思いますよ。義経は本当に純粋過ぎたと云うだけです。明るく、竹を割った性格で身軽に戦場を舞うように闘う、そんな彼に惹かれる者も多数出ていました。平泉は頼朝のことをいつか、朝廷に楯突くと感じていたのです。だから、義経を跡取りに…とか考えていたのでしょう。平泉は朝廷寄りだったからね。そんな思惑など考えもしないのが義経です。それで頼朝は恐怖したのでしょう。確かに義経を自死に追い遣っていますよ。でも義経は自ら自死しています。その時首を弁慶が持ち去ったとか自死まで追手を阻み続けたとか云われてますね。しかも、その追手が平泉の配下だったとか頼朝の部下だったとか云われてます。どちらにしても親類に裏切られた形になっていますが、本当… 儚いのは義経と静御前と弁慶でしょう。勿論、義仲、巴御前も…しかし、この2人は同じ地で倒れていますからね。静御前は義経を助ける為にワザと頼朝に捕まっています。その後頼朝の前で舞った舞で義経を想い続けて行く舞を披露しています。頼朝は静御前に横恋慕していたので殺しはしていません。が、後に静御前も儚くなっています。これで余計に頼朝は孤独に苛まれることにもなります。案外、頼朝は気づかない間に義経の存在に支えられていたのですけどね。失って大分してからそのことに気づくのですよ。遅いっつーの!!!
@naokunimoto5908
@naokunimoto5908 4 жыл бұрын
去年の夏、義経が幼い頃に修行していた 京都の鞍馬山に行きました。 険しい山の木の根っこにも義経への想いが重なって、また行ってみたいです。
@千種各務
@千種各務 4 жыл бұрын
日本の金は紀元前の頃にエジプトにあげちゃったやんけ
@電卓-q4u
@電卓-q4u 2 жыл бұрын
どゆこと?
@千種各務
@千種各務 2 жыл бұрын
@@電卓-q4u エジプトの始発が日本人だから援助してたんじゃないかって話があるんよ
@電卓-q4u
@電卓-q4u 2 жыл бұрын
@@千種各務 そんな話初めて知りました、 日本とエジプトってそんな昔から繋がりがあったんですか?。
@千種各務
@千種各務 2 жыл бұрын
@@電卓-q4u エジプトの初の王はトウヤで北海道出身、ツタンカーメンも洞爺湖周りに元々住んでたって話、太陽を赤く描くのは日本とエジプトだけやし彫られてる文字も神代文字の派生だから
@ハセパパ
@ハセパパ 4 жыл бұрын
地球は植物が支配していた太古の頃、植物系宇宙人と言った方が正しいのでしょうか、その植物系宇宙人の末裔が藤原家だと言う一説があります、今現在の地球も一番寿命が長いのは樹木です、そしてCO2呼吸の植物の為に酸素と二酸化炭素に変換する動物、植物の栄養となる動物の排泄物と死骸、竹内文書は植物の事が中心に書かれています、地球上で植物が発展する為にどうしたら良いかと言う事でしょう、日本の旧豪族藤原師の為に他の人間は存在していたのかも知れませんね、家紋には植物を模したものが多い事も物語っていますね、単なる個人の考えなのでご容赦ください 追記東北こそ蝦夷の女王邪馬台国卑弥呼の納めていた日高見の国=日本
@sanaesato-b3x
@sanaesato-b3x 3 жыл бұрын
初めて植物説をお聞きしました! そういえば人間は「青人草」 細胞レベルでは植物と動物、膜の違いが顕著なだけで他はほとんど共通していると理科でお習いしたような‥。
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