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第22回『設楽原の戦い』やっぱり武田は無謀な突撃?三段撃ちはあった?信康はPTSDなのか…… !?#どうする家康 #考察
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『長篠の戦い』信長は謙信の策略に嵌っていた……?鉄砲三段撃ちとかどうでもいい!
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SENGOKU BANASHI【Mr.BUSHIDOU】
Күн бұрын
Пікірлер: 108
@masanobuokuda5837
Жыл бұрын
上杉本洛中洛外図屏風、先月米沢の上杉博物館で見てきました。将軍の館だけでなく多くの建造物や人々、祭りなど様々なものが描き込まれた大作です。 もし信長が謙信に送らず、例えば安土城に置いていたら、城と一緒に焼失していたかもしれません。 謙信以降も上杉家がよく保管してくれたものだと思います。
@cancan5892
Жыл бұрын
以前”歴史科学捜査班”という番組で、信長の長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちを実際に火縄銃保存会の人達により検証していました。その結果、三弾撃ちは火縄銃の性能上、発砲の度に多大な煙が発生し、前方さえ見えない状態になっていました。実際の映像でも、煙がもうもうと上がって真っ白になり、標的どころかちょっと先の物さえ全く隠れてしまい、隊列の人を誤射しないかと案じられたほどでした。保存会の人も、懐疑的な感想を述べられていました。それ以来私は、この戦法は実際には行われなかったのでは?!と感じています。この番組は、歴史上の出来事や建築物の構造などを科学的に証明するような(実際に建築可能か?)とても納得のいく面白い切り口の番組でした。
@kaiganseki5201
Жыл бұрын
鉄砲隊の数が圧倒的であれば、何も三段打ちがなくとも余裕で騎馬に打撃を与えられていたのかもしれませんね。それと、柵の前には二重三重の壕(堀)が掘られていたことが、騎馬隊に決定的な影響を与えていたのではないかという説も言われていたと記憶しております
@kaiganseki5201
Жыл бұрын
鉄砲隊の数が圧倒的であれば、何も三段打ちがなくとも余裕で騎馬に打撃を与えられていたのかもしれませんね。それと、柵の前には二重三重の壕(堀)が掘られていたことが、騎馬隊に決定的な影響を与えていたのではないかという説も言われていたと記憶しております
@cancan5892
Жыл бұрын
@@kaiganseki5201 さん 堀(濠)のことは、知りませんでした。教えて下さり、ありがとうございます。
@erwinrommel8915
Жыл бұрын
三段撃ちは無かったかもしれませんが 弾幕射撃は狙って撃つ物ではありません。そもそもライフリングされていない火縄銃では弾道は安定せずに狙っても当たりません。 ナポレオンは3段撃ち戦術を行っていますが凄い煙で見えなくても有効な戦術でした。
@cancan5892
Жыл бұрын
@@erwinrommel8915 さん 弾幕射撃という戦術があったのですね!初めて聞きました。皆さん、お詳しいですね。ありがとうございます。
@user-akatsuki2434
Жыл бұрын
織田に対する突然の上杉謙信の敵対は「まあ謙信だし」で片付けられがちでしたが実は長篠の合戦を誘発していたという考えは面白いですね。 信長もきな臭い中で勢いの衰えない武田相手に退かずにきちんとした戦術と物量で押し返したあたり流石だと思います。
@yukihisayoshino2169
Жыл бұрын
来週、長篠と浜松をめぐる旅行してきます。 長篠の現地では、やはりあの「馬防柵×三段打ち」を推してるようですので、そこは割りきって楽しんできます。 31年前に初めて見た大河ドラマの「信長 KING OF ZIPANGU」の長篠の合戦のシーンに思いを馳せてw
@キライキライ大スキ
Жыл бұрын
信玄が死なずに西上作戦が継続していたら、謙信が病没せずに信長と決戦していたら、その後の歴史はどうなっていたんだろう。信長、運強すぎ。
@周-t4i
Жыл бұрын
信長が三河の長篠へ急行できた背景には、長篠の戦いの前月4月に、本願寺軍の支城である新堀城を落として香西長信を捕らえ、河内高屋城主の三好康長を降伏させるなどの戦果を上げて、区切りがついていたことも大きいと思います。それから長篠の戦いの時点では越前の一向一揆もいましたし、越中には椎名康胤がいて、上杉と織田が激突できるほど勢力圏が隣接していなかったと思います。もちろん信長が謙信に気をつかって、友好を維持しようと努力していたのは確かですが。 謙信の方では、関東管領として関東を転戦し、長篠の戦いの前年の1574年にも関東へ出陣していました。謙信は上州の膳城を落とすも、北条方の由良氏の金山城を落とせず。また上杉方の下総関宿城を北条に奪われ、上杉方の武蔵羽生城を維持できないと謙信が判断して放棄せざるをえないなど、苦しい展開でした。謙信が武田を攻めて、武田の同盟国の北条が、上杉方の関東の重要拠点の上州厩橋城へ攻め寄せて武田を援護した場合、謙信は武田攻めをどうするのだろうと思っています。
@野球3アウト
Жыл бұрын
とにかく今までの映画や大河で、広い高原で騎馬で突撃してガンガン火縄銃でヤラレる映像が間違いでしたよね。 現地に観光に行きましたが、狭くてぬかるみもある場所で8時間も戦ってるし武田も竹束で防御しながら進んでいるし、激戦が繰り広げられてますね。 まあ勝頼を引き摺り出して、この戦を発生させた信長はさすがです🎉🎉
@大蔵忠石
Жыл бұрын
桶狭間の戦いも、謙信が鎌倉で「管領就任披露宴」するのに、三国同盟の真ん中では自殺行為なので、今川を潰して三国同盟の一角を崩すために、謙信が信長に指示してやらせた、という説もある
@voler011
Жыл бұрын
一般的には「義」の人として知られている謙信だが、狡猾な面も持ち合わせていた、という感じの説はなかなか興味深かったです。 謙信だって戦国の世を生き抜いてきた人物ですし、それぐらいしたたかじゃないとな、という感じですし。
@船木祥啓
Жыл бұрын
まず、揺るがしがたい事実としては、織田徳川勢は陣城を構築して、さらに、自身の勢力を秘匿していた事 酒井別動隊が鳶が巣砦を急襲し、長篠城包囲を打破、城兵と共に包囲勢を打破した事 何をもって三段構えと言うのか? 一応鉄砲隊編成があったとされる(佐々、前田など)対して武田勢は弾薬が早期に尽きたとされる。 突破力が優れた武田勢に対し、陣城で応戦し、耐えしのぎ、長篠城包囲を打破し武田勢後方を脅かした。長篠の合戦で重要なのはこの事実だと思いますよ。 率直に、現地の現在の地形を見ても、一晩で鳶が巣砦まで行き急襲し長篠城を開放する、これはかなり難しい作業だと思います。それほど小勢力ではなかったと言う伝承もあるし 酒井の進言を軍議で信長が罵倒したとか言う言い伝えも、長篠の合戦との対比に思える。(信玄は称賛し謙信は看破する) そして、多くの武田家重臣が討ち死にし、織田徳川勢の死傷者も多いものの主だった家臣の損耗は避けれた。
@まつけん-l1t
Жыл бұрын
武士道様いつになく熱のこもったお話でした。何かで見た話ではこの頃から織田の経済力が他を圧倒し始めて投入物量の差で戦争にドミノ式に勝っていくようになったと聞いています。サムライの力や知恵や武芸で勝つ時代から、経済力と常備軍がモノを言う近代戦争へと転換したのが長篠を含めた元亀天正の動乱だったのかも。
@猫飼犬君
Жыл бұрын
長篠古戦場を発掘したところ斜面を段状にし柵や逆茂木で防御しているのが分かっています。「三段撃ち」も(斜面の)段からの鉄砲や弓矢による攻撃のことだったのかもしれません。
@うにいくら
Жыл бұрын
桶狭間で謎の迂回奇襲説が喧伝されることが多い一方で長篠での酒井隊金森隊の迂回奇襲がそれほど言われないのは不思議な気がします
@三宅猫之助
Жыл бұрын
鉄砲三段撃ちとか色々持ち上げられていますが、織田・徳川の兵力は武田の二倍以上はあり、勝敗を決したのは兵力差であるという何の面白みもない判断をしてもよさそうですね。
@yuuki436
Жыл бұрын
三方ヶ原もそうだけど少数の敵を野戦に引きずり出すのも将才ですよ 尾張は弱兵なんて評判も敵をつり出す戦略だったりして
@okada0715ya
Жыл бұрын
とても興味深く面白い話でした‼️ ここまでの解説をする為にどれだけの本を読み勉強を重ねたのか、本当に感服します。 そしていつも通りに、歴史を単なる出来事の羅列ではなく時代の背景、前後の繋がり、群雄割拠してる中での微妙な人間関係も含めて考察されているので本当に分かりやすいです。 週に何本もの動画をアップされるだけでもかなりの労力と察しますので、またお身体にを気をつけて活躍なさって下さい❗️ あべのしんさんとの配信もとても楽しいですよ❗️😆
@yomogimochi11
Жыл бұрын
鳥居強右衛門の命を賭けた伝令で長篠城兵の士気が多いに高まり城が落城しなかったのと、酒井忠次別働隊が長篠城救援に成功し長篠城兵とともに武田軍の背後をとった段階で、長篠設楽原の戦いの勝敗はほぼ決したと思ってます。
@中三川
Жыл бұрын
戦国のメロス鳥居すいねもんさんの、話は、知ってる。長篠城のために、走った話だね。どうする家康では、鳥居すいねもん役は岡崎体育さんだね。楽しみです。
@erwinrommel8915
Жыл бұрын
4.煙で標的が見えなくなる? そもそも、ライフリングも無く、弾道をジャイロ効果で安定させる事が出来ない銃は精密射撃は出来ないので、戦術は弾幕射撃になり正確照準の意味は薄れる 5.火縄銃を持ったまま隊列の入れ替わりはスムーズに行かない?左回りに統一したら問題無い 6.一列になっていたら側面から6.回り込まれたら脆弱?実際武田軍もそれは考えていて山縣晶景は側面攻撃を仕掛けているが、織田徳川軍も考えていて大久保忠世に阻まれている
@仲村渠達也-g1k
Жыл бұрын
信長公記でも長篠・設楽ヶ原の戦いの前日は小雨が降っていて地面が少しぬかるんでいて、三段撃ちは不可能だったのではないかとも言われていますよね。
@otaru6042
Жыл бұрын
長篠の戦いで疑問として挙がる部分は、説明される内容に前日まで行われていた前哨戦が全てカットされているのが大きいと思います。 勝頼を心配して連絡をしてきた長閑斎に対する返信の書状(日付は長篠の戦の前日)に前日までの戦いの状況が記載されていますので、そちらの内容も含めて解説すればもっとよい解説動画になるのではと思います。
@yc5084
Жыл бұрын
新研究では、長篠の戦いは、織田・徳川連合軍の鉄砲3000丁と、武田軍の鉄砲1000丁の戦いだったようですね。勝敗を分けたのは、連合軍はまるで城のように柵を3重にして武田軍の突撃をある程度防いだことにあるとの事です。
@峻-k5k
Жыл бұрын
この長篠の戦い、武田家の重臣達が積極的に決戦を主張したという話もありますよね。 武田家家臣達は独立心や領土欲、名門意識が強い者が多い。 そんな彼らが素性の怪しい上にまともに戦っていない織田や、その織田を後ろ盾に持ち、三方ヶ原で破った徳川を相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか、当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制。 そんな中で勝頼が決戦を強行なんてできるのか、決戦は重臣達の総意だったんじゃないのかという疑問があって然るべきです。
@ひーばあちゃん
Жыл бұрын
ごもっともです。私もずーっとそう思って来ました。
@CHOCOBOLIA
Жыл бұрын
同意。そもそも遠征費って 自前ですよね? 武田家が負担してくれてます? 長篠の城を奪うのに 来援が来たので撤退する言うても 手柄も褒美も無いまま 遠征費マイナスのまま、賛同できるのか? 決戦させろ!と息巻いて結局は大敗 それでいて「四郎大将のせいで負けた」と 吹聴したんでしょうね
@峻-k5k
Жыл бұрын
@@CHOCOBOLIA 馬場信春が殿を務めて討ち死にしたとされてるのも、自分が決戦を主張して負けたからその責任を取ったからじゃないのかと思いました。
@峻-k5k
Жыл бұрын
@@ひーばあちゃん 仮に撤退したら、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦いもせずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝して三河や遠江の国衆達の離反が加速してたでしょうね。 甲斐や信濃の国衆達も、信玄の時代からの重税や金山の枯渇などで困窮する中わざわざ遠征したのに、何の戦果も無しに撤退したら恩賞が貰えないし、城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や、戦で討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払って臨時収入を得る事ができない。 その事に不満を持ち何をしでかすか分からないですよね。 遠征費は武田家から出るのではなく、自腹ですし。
@crowold3025
Жыл бұрын
長篠の戦いの実態と本質は、織田と徳川が武田に仕掛けた巧妙な「陣地戦」であり、鉄砲が主役でなく、鉄砲を「陣地戦」に使用すると絶大な効果があった事を実証した戦闘と理解したほうが良い。後の「真田丸」も同様だ。鉄砲の三段うち等は後講釈だろう。馬は鉄砲の大音響に驚き騎馬兵は十分な働きができない。これは西洋でも同様で、鉄砲の発射音に馬が慣れるまで、かなり訓練を必要としたらしい。また敗走する武田軍を追い、柵から出ていった徳川織田軍はそこでかなりの被害をだしてしまう。そしてこれらの戦いは第二次大戦におけるクルスクの戦車戦と同じだ。当時、世界最強を誇るドイツ戦車軍団を、ソ連は堅固な対戦車陣地にドイツ軍を巧妙に引き込み勝利をえるが、敗走するドイツ軍に襲い掛かったソ連軍との間で凄惨な戦車同士の超接近戦がおこなわれた。戦車同士がすれ違いざまに発砲するようなメチャクチャな戦いだったらしい。双方に大きな損失が生じた。長篠の戦いも同様だったと思う。
@wwjofバイロン
Жыл бұрын
三段打ちや馬防柵などではなく白兵戦だろう、近年発掘調査も行われた結果、弾丸の鉛も予想に反する少なさだったことが判明、信長の戦術の巧みさなんじゃ、謙信も同じく戦術に長けた武将
@ichironagatomo5539
Жыл бұрын
信玄時代の重臣が大勢死んだから大した戦いではない事はない。両軍が鉄砲隊を持っていたのは事実っぽい。 どちらかといえば、信長が経済力を背景に鉄砲数と弾薬量の物量戦で武田軍を圧倒した戦いではないか。
@nakai5074
Жыл бұрын
とても興味深い話で面白かったです。謙信が策略を行うイメージ無かったですが確かに可能性はありますね😊またお話聞かせてください!
@グリーンアイ-q5l
Жыл бұрын
今日の話は面白い視点で非常に興味深かったです。
@dazz2001x
Жыл бұрын
三段撃ちはしていなくても、射手1人に装填手2人で1組とかは普通にあり得るだろうなぁと思う。 その3人1組の編成が三段撃ちに変じたというのは十分にあり得るのではないかと…
@恙恙
Жыл бұрын
殿様が二挺持ちで小姓に装填役をさせた時点で普通に思い着けそうですよね😊
@masizu
3 ай бұрын
雑賀衆の「組撃ち」やね
@CHOCOBOLIA
Жыл бұрын
15:32 奥平の家伝では 家中分裂は、もっと前 元亀4/天正1 の1573の頃 徳川への再属の話だそうで 再属せずに残留したのが少数派 この長篠籠城組から 再分裂の話なんて聞いたことない
@タカトラくん
Жыл бұрын
天然峡谷の長篠の戦い・・ちょっと窪地になってた設楽原の戦い・・何度か戦地に行ってみたりしましたが、あの距離で三段撃ちと言われる撃ち方が可能?と感じました。いろんな説が後年出てきて検証実験等も行われ、個人的に局地戦が好きなので興味は尽きません。信長にしてはいい加減武田軍の西進を止めないとそれでなくてもあちこち火種があるのにここで決着を・・でしょうね・・そして家康に駿河~三河までを盤石にしてもらわないと・・よってこの長篠~設楽原の戦いは信長にとっては大事な戦いであった・・と感じました。
@峻-k5k
Жыл бұрын
武田にとっても長篠は大切な戦いだったと思います。 元々勝頼の出陣は家康の長男信康が城代を務める岡崎城の奉行大賀弥四郎が家康に不満を持ち武田に内通しての謀略を受けた岡崎城乗っ取りが目的だった。 しかし大賀の謀反が家康に露見して岡崎城乗っ取りが頓挫。 ならば三河と遠江の分断を狙い今の豊橋付近にあった吉田城を攻めて失敗し、そこからの長篠城攻めです。 しかしなかなか長篠城は落ちず、家康を引っ張り出そうと挑発を繰り返しても乗らず、それどころか畿内でまだ本願寺勢力と戦っている筈の織田が徳川の援軍に来た。 しかも信長が自ら軍勢を率いているらしい。 ここで撤退したら、後詰めが来ただけで武田は尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するだけ。 甲斐や信濃の国衆達も信玄の時代からの重税や金山の枯渇などで困窮する中、わざわざ遠征したのに何の戦果もなく撤退したら、恩賞が貰えないし、城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や戦で討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払って臨時収入を得る事ができない。 その事に不満を持ち、何をしでかすか分からない。 仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 仕切り直した時には今以上の兵力で織田が徳川の援軍に来るかもしれない。 それどころか、織田が畿内を完全に平定したら、織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなると徳川も呼応するから、打つ手が無くなる。 ならば決戦するべきか? 伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と連携できなくなったとはいえ、まだ織田が本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない今のうちに痛手を与える、それができるのは信長が自ら軍勢を率いてきた今しかない。 しかし兵が窪地に隠れているのか、正確な数が分からない。 だが信長と家康を打ち取れればこの状況を打開できるかもしれない、仮に討ち取れなくても痛手を与えないと武田家としての面目が立たず、国衆達の離反が加速するだろう。 さあ、どうするかと勝頼も他の家臣達もなっていたと思います。
@ごんた-e8f
Жыл бұрын
歴史好きにはたまらない。
@exam2384
Жыл бұрын
土屋昌続が三重柵の二重まで突破したけど討ち死にしたとあるので、三段だったのは馬防柵ですね これに関しては三段撃ちの言葉だけが独り歩きしてる気がします 訓閲集には重撃ちという名前で三段撃ちの方法が書かれてるので三段撃ちそのものはあるみたいです あと、信長公記では選抜した鉄砲1000挺を鉄砲奉行5人に指揮させたとあり、更に別動隊の酒井へ鉄砲500挺をもった馬廻衆を貸し与えています これ以外に羽柴、佐久間、滝川ら諸将の隊も鉄砲を配備しているので通説で言われる3000挺の数は結構信憑性ありそうです
@urasimatarou
Жыл бұрын
本当に武田騎馬隊なんてあったんですかね。 フロイスは「西洋の騎士は馬に乗って戦う。日本の武士は馬から降りて戦う」と記述しています。 馬に乗るのは移動と物資運搬。戦闘時は伝令と退却、そして退却する敵を追撃するときだけと認識しているんですが。 騎馬隊があったとすると隊長がいると思うんですが誰なんでしょう。
@ひーばあちゃん
Жыл бұрын
山県昌景は山県隊の隊長、馬場信春は馬場隊の隊長、穴山梅雪は穴山隊の隊長、とそれぞれ隊を率いていてそれぞれに騎馬隊、足軽隊、小荷駄隊とかがついて、その間の伝令のためにムカデの旗指物を背負ったムカデ隊(旗色も赤、青、黄色など)が戦場を駆け回っていたと本で読みました。
@m.i.9104
Жыл бұрын
流鏑馬と言う伝統芸がある位ですから馬上で戦う事が全く無かったとは言えないと思います、それに馬上からの攻撃は単純に兵士を上から攻撃する型になるので戦いにおいて有利です。 確かに馬上での戦いは平衡感覚が要求されるので難しいのは確かですが逆に言えばそういう戦い方が出来る人間程重宝されると言う事も言えます。
@urasimatarou
Жыл бұрын
@@m.i.9104 返信ありがとうございます。 私の考えでは戦国期の戦いの主役は鉄砲と鎗です。しかし鉄砲の弱点は雨の日は使えない、高額ということがあります。同様に馬も高額だったはずです。武田家跡から出土した馬の埋葬はかなり丁重だったようで、財産として扱われていたようです。 しかも、馬に乗れる身分のものは限られています。 確かに馬乗りに上手な武将はいたと思いますが、(信長は馬揃えの際に見事な腕前を披露していますし、信長の部隊には黒母衣衆、赤母衣衆という馬に乗った伝令係が存在していました)しかし集団戦術化した戦国期では(戦場において)馬の数より人の数で圧倒していたはずです。そう考えた場合「騎馬隊」なる馬乗り集団が存在していたとは到底信じられないんですよね。もともと甲斐が馬産地であったこともあって、かなり盛られていると思っています。
@m.i.9104
Жыл бұрын
@@urasimatarou 山内一豊が購入した馬は東国一と銘生まれた馬でしたが金10両でした(今の価値に換算すると200万から400万)これは馬揃えのために特別に購入した物なので特段高価だった可能性が高いですね、実際は半値から1割が相場だと推察しますね。 あとは考え方ですね、単騎から10数騎での先駆け及び乗り崩し(騎馬の突撃の後に混乱に乗じて兵を突入させる戦法)を含めて有りなら騎馬隊と言う概念は存在したと言えますし、数百騎数千騎単位で騎馬隊は存在したのかと言われると無しです。
@正治田中-z6j
Жыл бұрын
前々より上総の三千丁は歴史の事実ではないのは知っていたが、まさかの上杉輝虎の策略とは まったく思わなかった。面白い発見であった
@はるお-i9m
29 күн бұрын
そもそも武田には騎馬隊なるものは存在しなかったそうですね。馬を多く持っていたようですが 兵力差がありますから勝頼としては織田徳川にある程度打撃を与えてから撤退戦をするつもりだったのに織田徳川が徹底防戦するから逆に武田が疲弊し退却時に思うようにいかず大惨事になったのかなと、勝手に妄想しています。馬場や山県などの名将が討ち取られた場所も退却途中でした
@phoenixgold3593
Жыл бұрын
それより信長は24時間いくさ漬けというか、突っ走っていた感強しです。ここまで広範囲にやりまくれるのは才能ですな。秀吉や家康もしかり。戦国武将は大変です。ユーチューバーもかな。
@ゆうちよっち
Жыл бұрын
20年前、歴史の授業で織田軍の明智光秀がこの三段構えを考案し、長篠で大勝利をおさめたと習いました。なんて画期的な戦い方をするんだろうと、当時の私は感銘を受けたのですが、実際に専門家立ち会いの元、検証してみると三段構えでは武田の騎馬隊は封じ込めない可能性が高いことを知り、とても残念に思いました。エンタメとしては最高に様になるので、後世の人が創作に取り入れたのかなと思いました。
@nagisak8363
Жыл бұрын
三段撃ちは、文字通り3列になって時間差で撃つという話をよく聞きますが、これをするなら「狙撃担当」「弾込め担当」「掃除担当」の3人一組の方が効率的ではないかと思っていました。 仕事を分ける方が訓練も簡単ですし、空間に余裕もできて事故が減ると思います。 当時はこういった流れ作業的な発想は無かったのでしょうか?
@Inferno-d7k
Жыл бұрын
結構面白い説ですね。 上杉からすれば足利義昭や石山本願寺に恩を売ることができ、なおかつ織田と武田がやりあって消耗してくれれば美味しいところだけを上杉が叩けばいいだけの話ですから。 結局織田徳川連合軍が勝ったから上杉は織田を攻めたのでしょうけど、仮に武田が勝っていれば消耗した武田へ攻め込んだでしょうね。
@周-t4i
Жыл бұрын
織田と上杉の武田領挟撃ですが、武田領の配分を取り決めていた訳でもありません。武田信玄と徳川家康が今川領を挟撃した時に今川領の配分を交渉していたことと比べると、どこまで挟撃を真剣に考えていたか疑問です。 謙信は信玄死去の翌年1574年に関東へ出陣していますが、戦っている相手は専ら北条方で、西上野の武田には全くのノータッチです。西上野地域は、武田信玄が謙信から攻めとった所にもかかわらずです。謙信は1574年時点で勝頼との和睦を視野に入れていたのでは推測しています。。
@moikeru1
Жыл бұрын
史実と逸話?の可能性が高い話が複雑に混ざり合ってる、しかし、重要な戦いなので、解説がかなり大変ですね😅 先日、長篠城、設楽原古戦場、歴史資料館、見学に行きましたよ。新城ラブなので、月1くらいで行ってます。野田城にも今度行きたいです。 設楽原の戦いで一番痛かったのは、戦術無視の御旗楯無ご照覧あれと馬場信春の討死かな、と勝手に思ってます。
@kanepx
Жыл бұрын
ん〜‼︎ スゴイ❣️ 戦、というと、当事者だけに目が行きがちですが、その時どきの各地群雄の状況や時代背景、さらに 朝廷や幕府等 権威者との関係を幅広く鑑みると、さらい深い状況が見えてきますなぁ〜😂 素晴らしい説でした、ありがとうございます!
@恙恙
Жыл бұрын
鉄砲三段撃ちとか布陣が困難過ぎる(待ってる最中は三交代制(当番+非番+工兵作業)で其処へ奇襲を受けたら一段撃ちしかできないので最前線には布陣できない😂)のでこれだけで決まったとは到底考えられません。 鉄砲を潤沢に持てれば普通に思い付けそうな戦術ですので、単に他所より先に鉄砲使用の標準化に成功しましたくらいの意味に取って居ました😊
@聖子-o7o
Жыл бұрын
武士道先生の授業、面白かったです。
@はんぺん-e2j
Жыл бұрын
信長相手に催促できるなんて謙信くらい
@erwinrommel8915
Жыл бұрын
三段撃ちが行われたとも言い切れないが、無かったとする幾つかの根拠は全て弱いです。 甫庵信長記が創作だとしても、小瀬 甫庵は何の手掛かりも無くナポレオンの天才的な戦術を思いついたのか? 不可能と言う人もいるが不可能ならナポレオンもアウステルリッツの戦い(1805年)や、その後の戦いで先込め銃で三段撃ちは出来なかった筈です 2.一列1000人もいたら号令が端迄届かず一斉射撃など不可能? どう考えても小隊規模のグループ毎に指揮官がそれぞれのタイミングで行っていた筈 3.横一列に一斉射撃しても、敵も横一列になっていないと効果がない? 2.の答えに被りますが敵が目の前、或いは斜め前にいない鉄砲隊迄撃つ必要は無い
@Pochi799
Жыл бұрын
今回もとっても面白かったです。いつも楽しく聴いています。からもがんばってね
@1122332508
Жыл бұрын
戦国合戦物の一番に出てくる武田信玄と上杉謙信って、結局何も成し遂げてなかったんじゃない
@雨桜-y4p
Жыл бұрын
昔、神君である家康を追い詰めた信玄は兎に角、凄い武将だった為、負けたのは仕方ないとする為にやたらと評価して、神君の名を傷付けない為にした。でも、信玄が凄いなら、何度も戦った謙信も凄い人物だった、という事になるから謙信の評価も上げていった…的な事を高校の時、日本史の時に家康好きな先生から聞いたけど、どうなんだろうね。
@ヨシヒコ-i6u
Жыл бұрын
信玄の跡取りとして武田家の家督を継いだとはいえ、正妻の子じゃないし、一度は他家に養子に出されているし、実績のある信玄の頃の重臣は、勝頼にとっては扱い辛い存在だっただろうなぁ。だから長篠の戦いで多くの重臣が亡くなったのは、勝頼にとっては不幸中の幸いという風に見る事ができる気がする。事実、長篠の戦い後、すぐに家臣団を再編成し直して、その後領土も拡大してるから、ある時点までで見たら、長篠での敗北は勝頼に取っては、悪い事じゃない気もする。
@峻-k5k
Жыл бұрын
山県昌景や馬場信春、内藤昌豊達が決戦を積極的に主張し、当主とはいえ信玄からの権威付けが不十分であり、武田家家中での立場が弱い勝頼はそれを抑えられなかったという話もあるらしいです。 彼らが討ち死にした事で大きな痛手を受けたが、勝頼の意見を武田家家中で通しやすくなったという側面は否定できないと思います。
@kokmr0522
Жыл бұрын
3段撃ちの創作は尾瀬甫庵の甫庵信長記からとどなたかの著書で見た気がします。 やはり戦国時代は、関東との中部がメジャーどころが沢山出てきて面白いですね!!
@花菱-z2o
Жыл бұрын
長篠の時に上杉が対武田で信濃や上野に出兵したら武田は長篠から引き揚げてしまいますから動かなかったのでは?
@高田健一-l7l
Жыл бұрын
信玄が織田・徳川連合軍に勝ってるから今度も楽勝と思い込むのはむしろ当たり前。 しかし、信長は常に新しい戦い方をする天才武将。 相手が悪かった。
@yuuji35430
5 ай бұрын
なるほど 納得たわ。
@yourpal9424
Жыл бұрын
むしろ政治劇の方がわかりやすくて深みもあって面白いです!
@yudaya99
Жыл бұрын
創作かもしれないがヨーロッパでほぼ同時期に反転行進射撃がオランダで考案されている。戦国武士たちが同じような考えに至るのは割りと簡単な話と思う。野戦築城とセットで運用されたんではないかなと思う。
@わたさと-o9c
Жыл бұрын
いつも勉強になります。ありがとうございます。 いつも不思議ですが、将軍の御内緒? 手紙は信長さんの監視をくぐり抜けて様々な大名の元に届いていたんだなぁと。優秀な配達員がいたのか、検閲する事自体が出来なかったのかと思ってしまいます。こういう手紙のやり取り、セキュリティの意識など特集されてましたら見てみたいです。
@田中徳和-n9q
Жыл бұрын
確か長篠設楽原の戦いの戦いでは攻める武田氏から見たら馬防柵や空堀の前に田んぼがあり、騎馬で突入出来る状態ではなく間のあぜ道を通って突入したみたいですよ🙇そして織田方は火縄銃を準備でき次第に射撃していたみたいですし、野戦と言うより城攻めみたいな感じだったみたいですけど🙇
@crowold3025
Жыл бұрын
私もそう思います。まともに野戦をしたら武田軍のほうが圧倒的に強いのは織田も徳川もしっているので、巧妙に「陣地戦」に武田をひきこんだのだと思います。
@dindon1969
Жыл бұрын
政治的背景の複雑さは初めて知りましたが、 やはり 「戦国最強と言われていた武田軍に どうやって圧勝したのか?」 がよく分かりません。 たしか近年?の発掘調査で、 鉄砲の玉がほとんど見つかっていないとか。 現代でも有能さが知られ始めた勝頼は、 なぜ無謀な突撃を繰り返させたのでしょうか? 分かれば分かるほど、 分からないことが増えていきます。
@峻-k5k
Жыл бұрын
酒井忠次らの鳶ヶ巣山砦奇襲によって退路を断たれた、最初は武田軍も鉄砲の撃ち合いから始めたがすぐに弾切れしてしまったとかの複数の事情があったらしいです。 鉄砲の弾を作るのに使う鉛や鉄砲を使う為に必要な火薬は武田領ではほとんど手に入らない。 火薬や鉛を輸入する為の港は織田家が押さえてしまった、長篠城周辺には鉛の鉱山があったけど徳川に戻ってしまったらしいです。
@dindon1969
Жыл бұрын
@@峻-k5k お教えいただきありがとうございます。
@ハンニバルバルカ-v6v
Жыл бұрын
今回の長篠の戦い。越相同盟があるにも関わらず、対武田で軍を動かさなかった時の上杉謙信と状況は似ているかもしれません。この時は北条側からの手切れでしたが。現実の上杉謙信の人となりを表しているのでしょうか?
@zubizuberpapa
3 ай бұрын
それなら意外に謙信は、信玄が死んだ時点で信長との同盟は不要と考えたかも。
@yk842
Жыл бұрын
三段撃ちはいったいだれが言い出したことなんでしょうか
@かほるちゃん
Жыл бұрын
毎回動画面白いけど、特にこの動画は面白かったです。 初めてみたのがムロツヨシの秀吉だったら、たぶんめちゃくちゃ嫌いになってたかなぁ😂
@タカタカ-e8m
Жыл бұрын
何でも、火矢で兵糧庫が焼かれたって聞いたぞ!
@鈴麗リンリー
Жыл бұрын
三段撃ちで三連射はできても回し撃ちは不可能ですね、時間が足りない
@雛毛
Жыл бұрын
いつも楽しく拝聴しております。 織田軍の革新的戦術、武田軍の無謀な突入ではないとすると、武田軍は拡大期にありながら、その後に影響するほどの大敗となったのでしょうか?
@山田カイチ
Жыл бұрын
武田の軍勢がいつ岡崎城に近づいたんだ?
@竜ちぇる
Жыл бұрын
こんにちは(*´∀`*)ノ 楽しみに待ってました(*^_^*) ならいました😌✌️
@fuu3561
Жыл бұрын
三段撃ちって最近文献の読み違いって言われてるよね?本当は鉄砲を散々に撃ったって書いてたって聞いた😢
@sf9374
Жыл бұрын
酒井忠次の山越えして背面の奇襲が1番のキーマンやろ?
@本橋寿夫
Жыл бұрын
地味ながらも調略は重要ですね 🐧(笑
@toshichika720
Жыл бұрын
武田勝頼、馬場信春、山県昌景、👍😍原虎胤、土屋昌次片手無双、
@ronkon1000
Жыл бұрын
単純な兵力差でしょ
@ゴッチン-i9s
Жыл бұрын
面白いけど、正攻法の謙信が、ちょっと姑息な手を使うか疑問❓
@tikatika1576
Жыл бұрын
長篠の戦いは日本の合戦史上一番多くの戦死者を出したし、武田の有力家臣も大勢死んだのだから大した戦いではないはずないじゃん。
@橋本喜次
Жыл бұрын
長篠って今で言うどの辺りですか?
@kazooo5057
Жыл бұрын
👍👍👍
@kuramotomami0029
3 ай бұрын
戦国時代といえど戦争は経済と経済の戦いでこの頃の織田信長の経済力は圧倒的だった、 上杉謙信の方はかなりの経済力がありそれに比べて武田勝頼の方はかなり経済的に疲弊していた
@cozy0170
Жыл бұрын
昔から三段打ちするなら一斉に打った方が3倍で強いじゃんって 思ってたのは私だけ?
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