武士の忠告を無視した素人の決断で全てが崩壊した戦い|保元の乱

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上から見た合戦史

上から見た合戦史

Күн бұрын

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@古の生もの
@古の生もの Жыл бұрын
頼長は決して無能な人物では無かったし寧ろ辣腕寄りなのだがなまじ才覚を持っていたが故にその道に長けた人間の提案を容れられなかったのが運の尽きだったのだろうな。
@真月遼
@真月遼 Жыл бұрын
自分は戦の素人なのに専門家の意見を受け入れない思い上がり器の小ささが敗因。
@上人雑食-n9j
@上人雑食-n9j 4 ай бұрын
@@古の生もの 南北朝の時、楠木正成を湊川で戦死させたのも公家が口出したのが理由ですね、
@直人鈴木-h8v
@直人鈴木-h8v 4 ай бұрын
三国志で言うなら二宮の変、曹丕と曹植、劉表では劉琦と劉琮、司馬炎と司馬攸ですな。
@darkeknigt147
@darkeknigt147 Жыл бұрын
藤原道長の時代から続いた藤原摂関家による摂関政治から院政へ そして、保元の乱や平治の乱がきっかけで平氏政権から始まる武士の世へと流れていく・・・ まさにターニングポイントですね。 保元の乱はもっと取り上げられてもいいと思う。
@AKIRAuz-v1r
@AKIRAuz-v1r Жыл бұрын
藤原氏、権力を失っても藤原氏が滅んで無いから氏族として優秀。
@たろう-d4o
@たろう-d4o 11 ай бұрын
司馬遼太郎の小説「義経」の一条長成の持論を思い起こすね 「武によって一時の権勢を誇るものはやがては武によって滅びる」 「人生は平凡なるがよい」
@NK-bk6qh
@NK-bk6qh 11 ай бұрын
この時代に藤原が全国各地で政治や行政に山ほどいたため、区別するために「佐藤(左衛門尉の藤原)」などの苗字ができたらしいですね。
@木場俊介-b9j
@木場俊介-b9j 6 ай бұрын
藤原氏そのものが、特に北家は栄え人数も増え過ぎて、同じ藤原氏ですら身分格差が広がり過ぎていて、多くが地方豪族化していたのが実態。 武家としても、源氏、平氏の影に隠れ、鎌倉時代以降は、藤原道長の頃の全盛期の面影は無くなりますね。 優秀な人はやはり出ましたが、藤原氏だからではなく、本人の実力。
@たろう-d4o
@たろう-d4o Жыл бұрын
鳥羽にとって子供であるはずの崇徳は祖父の白河の子… だから叔父子か…凄まじいな
@おもち-h4d3p
@おもち-h4d3p Жыл бұрын
大河ドラマ、平清盛で観ましたけどこれで武士の力が強まった戦いでもありますけど、平氏も源氏も親族同士で戦う姿があまりにも残酷でしたね。
@直人鈴木-h8v
@直人鈴木-h8v 4 ай бұрын
後の応仁の乱と似てるわ。
@type-r5617
@type-r5617 Жыл бұрын
前九年、後三年の役に続く武士が台頭するきっかけとなった戦。 知ってるようで割と知らない。何故かあまりクローズアップされないので、詳しく知れてよかった。
@岡村浩司
@岡村浩司 Жыл бұрын
清和源氏八幡太郎義家の話ですね。 源頼朝は嫡流の子孫😊
@商魂込めて-w4d
@商魂込めて-w4d Жыл бұрын
滅ぼした奥州藤原氏が"世界遺産"に認定されたのはなぜでしょうか? "鎌倉"は国宝だけですよね。 これは後の評価だと思いますがね。
@武田信治-k6e
@武田信治-k6e 4 ай бұрын
前九年、後三年は、清和源氏にとっては重要な戦いだったかもしれんが、中央から見れば、まだまだ鬼退治レベル。
@ゴンベエ-c1l
@ゴンベエ-c1l Жыл бұрын
日本史で度々起こる、現場のプロの意見を無視して素人が介入し全てが崩壊するパターンやな。
@低力非摩擦ボルト
@低力非摩擦ボルト Жыл бұрын
南朝の連中は年貢の中間搾取者たる武士層の存在を根本部分で否定していたので行政での武士発言権の伸長を拒絶していた 秀吉死後の豊臣政権末期では天下の纏め事は既に家康に握られていた事を認識していたので、下手に家康の命を危険に晒す攻勢具申をしてくる田舎武士に家名存続戦略のタクトは握らせたくはなかった 江戸幕末では薩摩長州の海外勢撃滅思想など子供の興奮に過ぎないと中央は認識していたから開国の手順の段階を研究していたに過ぎず後から薩長がそれを真似した 昭和に至っては参謀本部という現場の連中が滅茶苦茶な山賊経済圏伸長政策を独断専横して数年後には深淵なる世界から袋叩きに会い国の牙まで抜かれた 現場の具申とは瞬間的刹那的な優位を作るに留まった無責任野蛮な欲望に過ぎない
@健利石原
@健利石原 Жыл бұрын
現代が正にこのような時代なのかもしれない…ですね。
@jmy6767
@jmy6767 Жыл бұрын
ヒトラー 「せやな」
@largehill9736
@largehill9736 Жыл бұрын
ヒトラーが、国防軍のモスクワ進行に口を出し、モスクワ攻撃が遅れたことを思い出した。
@un-105x
@un-105x Жыл бұрын
ただ門外漢の素人が口を出すって事は、その問題に対して自ら対処しようという意思。 つまり貴族でありながら武士と同じフィールドに降りている訳で。 一方で後白河側は戦に関しては完全に武士に丸投げしていた。 ある意味これは『血生臭い事は武士にやらせればいい』『自分が手を汚す事は無い』 という差別意識の表れでもある。 実際後白河がそういうスタンスだったから戦には勝てたが、問題はその後。 義朝に父の為義を処刑せよと命じたのは後白河。 いくら敵対し、敗れた側とはいえ、子に父を殺せなどと非情な事を命じたのは 武士など虫ケラ同然としか見ていなかったという何よりの証拠だろう。
@hitoshiyamauchi
@hitoshiyamauchi Жыл бұрын
動画をありがとうございます。どう武士が台頭してきたかは抽象的に習った気がしますが,こういう歴史だったと知って面白かったです。😀
@ーおだいじに
@ーおだいじに Жыл бұрын
4:42 他の方も指摘していますが、崇徳と後白河の母親は共に藤原璋子です。崇徳が白河院の息子だったとしても後白河とは少なくとも血を分けた兄弟なのです。
@un-105x
@un-105x Жыл бұрын
崇徳は白河との子だけど、その弟の後白河は間違いなく鳥羽との間に生まれたからね。 その頃には鳥羽の寵愛は近衛の母の方に移ってはいたけど、近衛は子を為す前に早逝、 それで鳥羽はやむなく、妻はアレだけど自分の血を引いた息子の後白河を選んだと。
@32ayashi
@32ayashi Жыл бұрын
崇徳上皇側が勝利していた場合歴史はどうなっていたのかが以前から気になる。 いわゆる「歴史のif」でもあまり考察されていないので。 史実では一度も実権を握ったことが無い崇徳上皇の為政者としての手腕はどのくらいだったのか。
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 6 ай бұрын
源為義に清盛ほどの政治力が在ったとは思えないから、すぐに武家社会には移行できなかったかもですが、武士の力によって事態を収束した事実に変わりはないので、遅かれ早かれ武士がどんどん力を持っていったんじゃないでしょうか。 ただ、清盛が行った朝廷から高い官位を受け取って、朝廷の実権を握る武家政権なら他の武士でもある程度は出来たかもですが、頼朝のように朝廷と武士を完全に分離させての幕府という政治体制を作るに到れる人物が他に出てきたかと言われると、難しい課題だったかもですが・・・
@なゆた-u7k
@なゆた-u7k 6 ай бұрын
IFを考える上で重要なのは、嵯峨天皇の御代からこの保元の乱まで300年ほど死刑制度がなかったことです。 死罪は後白河方の信西入道がこの乱を以て復活させました。つまり帝方が負けても、清盛、義朝はまるまる生き残る可能性があったということです。 『台記』にあるように、悪左府頼長は国益を第一に考える人間だったため、敗者方である清盛、義朝が生き残る可能性は十分にあると考えられます。 その後は重仁親王vs二条天皇ですが、順当に重仁親王が帝になり、崇徳院が院政を敷きます。 もう一つ重要なのは、後白河と比べるとどんな院、帝でも名君になってしまうことです。 「文にも非ず武にもなし、芸もなく能もなし(byパパ)」「和漢の間比類なき闇主(by近臣信西)」「日本一の大天狗(by頼朝)」 安元―寿永の後白河院の動向を見てるとアホ・クズとしかいいようがありません。 尤も、封建体制が古代から中世へのパラダイムシフトだとするのであれば、後白河は紛れもなく時代を加速させた御仁です。 少なくとも文、芸、能にあって、故事にも明るい崇徳院が治天の君となっていればいわゆる平安時代が延長され、封建制への移行は100年以上先になっていたと思います。 昨今の一部の研究で封建制度への移行のターニングポイントとなっていたのでは?といわれることもある平治の乱ですが、 これは保元の乱が崇徳院方の勝利で終われば絶対に起きなかった戦です。 よって平安末期のグダグダな院政期が続き、東国国家論、権門体制論論争などが起こる余地はありません。 次の本朝史のターニングポイントは元寇です。 院政期が続けば、北条時宗の様な若き武門の宰相は現れず、日本は高麗の様にシナ大陸にあった王朝の餌食になっていたことでしょう。 元寇は、刀伊の入寇の様に地方の一武人でなんとかなるものではありません。 結論 保元の乱で崇徳院側が勝っていれば、日本が消滅している可能性がある。 長文大変失礼しました。
@sigurehuru9763
@sigurehuru9763 Жыл бұрын
平治の乱に比べると人間関係が複雑だがほんの些細なことから藤原摂関政治が崩壊したことが解かります。
@wayamato9226
@wayamato9226 11 ай бұрын
弱肉強食合従連衡
@nakka1682
@nakka1682 11 ай бұрын
学生時代は複雑すぎて諦めたところでした。対立構造が分かりやすかったです。平治の乱もお待ちしてます
@chint19lin
@chint19lin 11 ай бұрын
「保元の乱」というと、その戦後処理で、源氏側は平氏側より多くの人間を処罰したため、その後の源氏と平氏の力関係に変化が生じ、平治の乱を経て平氏一強の時代になった上、さらに後の源氏直系断絶につながったという話を何かで見た事があります。
@satootto
@satootto 4 ай бұрын
河内源氏は、身内同士の争いで潰れたようなものだからなぁ~ 一番有名なのが、頼朝と義経兄弟の争いだな。
@ats4wd
@ats4wd Жыл бұрын
現代でも崇徳上皇を題材にした小説は多い。 御霊神社に祀られるだけのことはある凄まじい怨霊。
@cronoss416
@cronoss416 6 ай бұрын
あ、やっぱり話に出てきた崇徳天皇って怨霊の崇徳上皇だったのね
@二見裕司-r6t
@二見裕司-r6t Ай бұрын
江戸時代も、「雨月物語」に収録された話があります。
@おごうさん-u6y
@おごうさん-u6y 6 ай бұрын
馬謖「兵書通り高い山から攻め下るのが上策」 王平「何言ってんだコイツ。山が囲まれたら終わりなのに」 諸葛亮「俺の大業がああああああ」
@二見裕司-r6t
@二見裕司-r6t Жыл бұрын
後白河天皇は崇徳上皇の同母弟だった記憶がある。
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Жыл бұрын
正解です
@user-fn3112ux4t
@user-fn3112ux4t Жыл бұрын
のち湊川の戦いでも繰り返す
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 6 ай бұрын
公家なんて、いつの時代も基本そんなもんかと。 無駄にプライドだけ高く相手を見下すけど、結局その見下している相手の力頼り。
@tohokami-j2f
@tohokami-j2f 4 ай бұрын
白河は父の路線を継承したわけではないです。 忠通の母親は白河の元愛妾で、一目惚れした忠実が恋の病にかかって伏せったため忠実の母親が白河に頼み込んで譲り受けたという記述もあります。 また、後の待賢門院はもともと白河から忠通の妻にと話があったのを忠実が断っていますし、同時期に忠実の娘を鳥羽天皇に入内させるように白河から求められたのを断っています。 白河は摂関家とそれなりに良好な関係を保とうとしていたのにそれをことごとく潰したのは忠実なのです。 他にも様々にやらかしてすっかり白河に嫌われ権限の多くを奪われて忠実は宇治に引きこもるしかなくなったのです。 院政は摂関政治から天皇家へ権限を戻すことを狙って後三条・白河が行ったように授業では習いますが、実際は白河が忠実を見限ったことでそうなったというべきものです。
@sa-oq7ci
@sa-oq7ci 6 ай бұрын
源義朝と為義の経緯が非常に興味があります。ぜひ動画を作ってほしいです。
@laughingswordfish3665
@laughingswordfish3665 Жыл бұрын
考えてみれば後年の関ヶ原の戦いと同じく、どちらが勝っても「家」が残るように分かれたとも言えるかも。
@ひなただよー
@ひなただよー Жыл бұрын
真田家のこと?
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Жыл бұрын
実際には現実的に家を構えていたか どうかで判断されますね 例えば沼田真田家と上田真田家 この二つには数日徒歩でかかる距離があり全くの別家です。もし一家を簡単に割れるなら関ヶ原で滅びる家は無かった筈です。
@un-105x
@un-105x Жыл бұрын
平家の側にはそういう打算のようなものもあったかもだけど、源氏はどうかね…? 源氏は為義始めその子達は総じて崇徳に付き、後白河側に付いたのは義朝一人だけ。 もしお家の命脈を保つためならここまで極端に偏った分裂はしないだろう。 そもそも源氏が分裂したのは為義が義朝と不和だった事が最大の要因だったし。
@nanashinogon2011
@nanashinogon2011 Жыл бұрын
日本の場合、トップをお飾りにしてしまう 天皇をお飾りに 太政大臣をおがざりにし 公家をお飾りにし 将軍をお飾りにし 執権をお飾りにし
@memejiro7147
@memejiro7147 Жыл бұрын
そうして 責任者が誰なのか分からなくなる 最後はトカゲの尻尾切り😅
@gunren2052
@gunren2052 Жыл бұрын
7:24 日本史このパターン多すぎて草
@雀-n8t
@雀-n8t 5 ай бұрын
足利義政、、
@darknesskingofNation
@darknesskingofNation Жыл бұрын
崇徳上皇と鳥羽法皇との関係は小学生の歴ヲタにはなんでこんなに嫌うのか理解に苦しんだが 大人になって親子じゃないと言うことで全て上手く納得出来た 清盛後白河法皇を含めた3人は白河法皇のご落胤説を当てはめれば全て納得出来るのよね
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu Жыл бұрын
御落胤説も平家物語などにもあるので、信憑性は仕方ないにしても、嫌でも有名ですからね。
@ootsubo3873
@ootsubo3873 7 ай бұрын
頼長は政治力は高かったが戦においては世間知らずだったな
@高橋宏明-s7f
@高橋宏明-s7f Жыл бұрын
考える事が一緒の場合、決断する上の判断が勝敗を分ける。 藤原氏の衰えもあるのでしょうね。
@ikedasingo5074
@ikedasingo5074 Жыл бұрын
その道のプロの意見を無視して、お偉いさんが素人なのに無茶苦茶な指示を出して失敗する 震災の時の原発とか今の日本にも当てはまりすぎて、歴史から学ぶのはやっぱり大事だなと思ったり
@kt4539
@kt4539 Жыл бұрын
菅直人かな?
@佐竹ラスベガス
@佐竹ラスベガス Жыл бұрын
でも戦術や戦略の天才だったナポレオンも結局はロシア遠征をしてとんでもない失敗をして紆余曲折あって孤島に隔離されるし その道のプロが間違えないなんて幻想なのよ むしろ専門家の方が自分の立証が間違っていた時、無理矢理正解にしようとしてくるから厄介 むしろ専門家の方が現実性のない夢物語を書いていてそれに民衆が惑わされているのが日本だよ そうでないなら政治も省庁の仕事も専門家にやらせたら完璧な国になる でもそんな国は存在しない、これが現実だ
@tetrarchiaconstantinus7150
@tetrarchiaconstantinus7150 Жыл бұрын
暇空にカンパしてそうな人発見
@那須酔遅
@那須酔遅 Жыл бұрын
問題はそういう素人はえてして歴史から学ばないということなんよ
@kirin4126
@kirin4126 11 ай бұрын
まあそれの一番でっかい例が先の大戦なんだけどまあそれいうと妄想右翼があばれるからなあ
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 6 ай бұрын
大河ドラマの清盛なんかだと、清盛が主人公というのも影響してるでしょうけど、保元・平治の乱では特に公家たちの無能ぶりがかなり印象付けられてますね。藤原摂関家などの公家の没落は、武士の力が増した以上に、当人たちの無能ゆえの凋落に見えますね。
@あうら-g2j
@あうら-g2j Жыл бұрын
卑怯な作戦を嫌って正々堂々と勝負しようとした、と言えば立派ではあったんでしょうけれど、これから野蛮人が台頭してゆく時代にはそぐわなかったわけですね……。
@wayamato9226
@wayamato9226 11 ай бұрын
一生懸命武士の時代自力救済しかない
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 6 ай бұрын
立派というか、劣勢な立場&プロの意見という、採用するしか道がなさそうなのに選ばない辺り、ただ単に現実が見えてなかっただけかと・・・
@あうえぁうう
@あうえぁうう 6 ай бұрын
​@@酔狂-i9oそうですね。プロの意見を採用して一般人の多く住む街にアメリカ大統領が原爆投下を指示したのは素晴らしい判断で、アメリカ人がその判断を賛美する理由もわかります😂😂😂😂😂😂😂😂
@MsIrina24
@MsIrina24 5 ай бұрын
現代に続く正義も何も存在しない末法の世が始まったのです
@ジャックスミス-x2r
@ジャックスミス-x2r Жыл бұрын
でも、戊辰戦争の長州軍の指揮官は医者だからね。素人がやった時が上手く行く事もある。まあレアなケースだけどね。
@あうら-g2j
@あうら-g2j Жыл бұрын
大村益次郎は「医者なのに指揮官もできた」じゃなくて「医学も軍学も修めていたエリートなので医者も指揮官もできる」のほうなので……。
@池谷暢明P
@池谷暢明P Жыл бұрын
長州軍の指揮官ではなく、明治政府軍の指揮官。幕府彰義隊を1日で壊滅させたのは大村益次郎の才覚。最新兵器で数式に立て替えた戦術を使い精神論は無用。長州人にとって憎し薩摩兵を激戦が予想される黒門前に配置した。幕府彰義隊と当然大激戦になり多数の薩摩兵が戦死。西郷隆盛に薩摩兵を皆殺しにするつもりかと問われた大村。その通りですと回答したのは有名。
@ルーピートートロジー二重帝国
@ルーピートートロジー二重帝国 6 ай бұрын
むしろ当時の武士は医学で例えれば Γ医者の子供、末裔で 生物学を形式上学んで 顕微鏡が魂」 みたいな人たちで 臨床なんか任せられない
@katuragi123
@katuragi123 4 ай бұрын
@@ルーピートートロジー二重帝国 大村益次郎は武士の生まれじゃないんだが・・・・
@ルーピートートロジー二重帝国
@ルーピートートロジー二重帝国 4 ай бұрын
@@katuragi123 だから 医学も戦争も 実戦派だよね、 と言ってるの
@おやすミタパン
@おやすミタパン Жыл бұрын
ちょっと本筋から離れるのですが、後白河法皇の後ろ楯だった美福門院が玉藻前のモデルになってる原因はどうしてなのでしょう?
@leilaibrahimfaiza9659
@leilaibrahimfaiza9659 Жыл бұрын
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
@hiroshisato7885
@hiroshisato7885 Жыл бұрын
うーん、崇徳・頼長陣営に勝ち目があったかなぁ。 為朝らの進言を受け入れていたとしても勝ち目は無かったんじゃないか。
@masashihoshika9802
@masashihoshika9802 5 ай бұрын
同感です。共に夜襲を提案し合っていたわけですから、夜襲を仕掛ける道中で遭遇して戦闘開始・・・しかし、最終的には数に勝る後白河陣営の勝利となっていたのではないでしょうか。為朝が強かったのは間違いないと思うのですが、さすがに保元物語の記載は誇張し過ぎでしょうし。
@松尾健治-b2i
@松尾健治-b2i 6 ай бұрын
今の時代のせっかんは「摂関」ではなく こっちの「折檻」ならわかる
@上人雑食-n9j
@上人雑食-n9j 6 ай бұрын
為朝の言う通り夜襲やってたら😢
@おごうさん-u6y
@おごうさん-u6y 6 ай бұрын
島津義弘「よく分かるよ」
@ピヨライサ
@ピヨライサ 6 ай бұрын
自分は世界史選択だけど英傑大戦のおかげで人物像は分かりやすく、理解しやすかった。 為朝は流石武力10なだけあるなぁ。
@TukadaKagami-cs5jc
@TukadaKagami-cs5jc 4 ай бұрын
最悪の派閥争いが、平家物語の序盤の山場だなんて。
@AKIRAuz-v1r
@AKIRAuz-v1r Жыл бұрын
昔の天皇は、タネを撒き放題だけど近代はそうは行かないなくて 後継者確保は、難儀、
@岡村浩司
@岡村浩司 Жыл бұрын
中臣鎌足の息子藤原不比等の次男である房前(北家)が摂関家の祖。平安時代が最盛期ではあるが、第二次世界大戦時の首相近衛文麿は、五摂家筆頭の当主だった😮
@satootto
@satootto Жыл бұрын
今では、摂関家は単なる名家で表には全く姿を見せなくなったな。 東条英機は、戦犯として責任を取らされたけど、そもそも太平洋戦争に突入する羽目になったのは近衛文麿の外交政策の失敗が原因だから、あまりいい印象は無いな。本人は責任を取る事なく死んでしまうし。
@KokonTouzai-Rekisi-Channel
@KokonTouzai-Rekisi-Channel 10 ай бұрын
@@satootto 地方自治体の首長をやってる佐竹や井伊のほうが今も実権がありますね。五摂家の人たちは名誉職ではあるがずいぶん格の高い上級国民をやってるから江戸時代と役割分担が同じで面白いw
@ハネ虎
@ハネ虎 7 ай бұрын
ウィキペディアみたら誰でもわかることをいちいち書くなよ
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu Жыл бұрын
※すべて悪左府の責任です
@jmy6767
@jmy6767 Жыл бұрын
為義はん気の毒やな。わしは勘弁やで(1333年 新田義貞)
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Жыл бұрын
味わい深い面白さ。乙
@ききる
@ききる Жыл бұрын
鳥羽上皇、ワザと調停してない説
@よよよ-r4s
@よよよ-r4s 6 ай бұрын
崇徳上皇は讃岐で没したのか🤔
@yhara6284
@yhara6284 5 ай бұрын
流された現香川県坂出市では,刺客に暗殺されたと言い伝えられています。上皇が幽閉されていた場所,殺された場所なども。
@yasu0130f
@yasu0130f Жыл бұрын
Big Mon IN に空耳するたびに 笑ってしまう
@滝口小次郎
@滝口小次郎 Жыл бұрын
崇徳上皇と後白河天皇は同母兄弟だろう
@るるむ-r6d
@るるむ-r6d 6 ай бұрын
異父兄弟
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Жыл бұрын
続きますよね?(強要
@戸田賢司
@戸田賢司 Жыл бұрын
まあ、戦力的には後白河側が圧倒してるから別に・・。
@too669
@too669 Жыл бұрын
貴族は自ら貴族が中心の世を捨ててしまった 貴族は貴族、武士は武士という形で、貴族が武力を持たなかったことが武士の世を呼び寄せた
@eclipse-en2cf
@eclipse-en2cf Жыл бұрын
もともと「兵(つはもの)」は貴族の下級官吏で有り、武士が在地領主から発展して貴族との対立勢力になったとの説は学術的にはとっくに破綻してますが…?
@BarbraLemaile
@BarbraLemaile Жыл бұрын
貴族の武力がもののふ(武士)だったのでは?武士と貴族が並び立つなんて、某隣国の両班制じゃ無いんだから日本では成立しなかったので🎉は?
@wayamato9226
@wayamato9226 11 ай бұрын
下剋上油断大敵万人による万人の戦い⚔⚔ホッブズ
@Fireball-qq4gw
@Fireball-qq4gw 11 ай бұрын
​@@wayamato9226「リヴァイアサン」(笑) 権威主義の限界😢
@eclipse-en2cf
@eclipse-en2cf 11 ай бұрын
@@Fireball-qq4gw ホッブズの論旨は突っ込み所満載ですよね?なんつ〜か地動説に対する天動説みたいな? ←後世の人間は何でも言えますけどね?www
@マヤ平
@マヤ平 Жыл бұрын
実は、崇徳院は鳥羽院の御子ではなく白河院の御子
@sodajoe3137
@sodajoe3137 25 күн бұрын
唐突などんでんで笑ってしまったわ😂
@gonbe7
@gonbe7 Жыл бұрын
今の状況とよく似てますね。
@takanaka3228
@takanaka3228 7 ай бұрын
生兵法は大怪我のもと
@aiai4445
@aiai4445 Жыл бұрын
よろづにその道を知れる者はやんごとなきものなり (兼好法師)
@SPECIALASQ
@SPECIALASQ Жыл бұрын
摂政は、関白とは比べ物にならないくらい偉いよ。院政は、臣下に摂政をさせない為に創られたんだ。これにより、藤原家は関白までとなったよ。でも、藤原氏は’摂関家’というネーミングを、圧力かけられながらも捨てなかった。まぁ、1日でも摂政したなら、摂政の家柄とする気持ちは、仕方ないと思うよ。後の世では、臣下が摂政になる事は、二度とありません。
@Kaito5327
@Kaito5327 6 ай бұрын
私見だが、戦前・戦中に軍部が専横したとされるのは、保元の乱における文官・藤原頼長の失策が原因ではなかろうか。
@fujiwara_shino
@fujiwara_shino Жыл бұрын
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ
@酒井建-w2z
@酒井建-w2z 7 ай бұрын
色と欲と浅知恵で。いつの時代も、どこの国も、こういうのが上にいると非道い目に遭うのは庶民だね。仲良く分け合った試しなし。
@正木茂雄
@正木茂雄 6 ай бұрын
源為朝「賢しいだけの貴族が何を言う!」藤原頼長「賢くて悪いか!」崇徳上皇、源為義、後白河天皇、平清盛、「悪いわ!」
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Жыл бұрын
後白河院こそ日本史上最大の人物 大河5回分ぐらい濃い人生を歩んだ 中世の巨人。日本人には扱えないから海外の巨匠が作品化して欲しい 非常に素晴らしい天皇であり 政治家であり統治者だった。
@andoh01
@andoh01 Жыл бұрын
崇徳天皇が哀れな話
@kirin4126
@kirin4126 4 ай бұрын
なんだかんだ全ては白河法皇が悪いと思うの
@massa88m
@massa88m 4 ай бұрын
後白河天皇は崇徳上皇の同母異父弟
@かわら次郎
@かわら次郎 6 ай бұрын
保元物語は源氏寄りに描かれているので当てにならない。当時正四位下の平清盛と従五位下源義朝が同僚のようにされているが六階級も違うのだから清盛は司令官で義朝は前線の一将に過ぎない。だからこの戦いの後の論功行賞が清盛に厚かった。
@ひさよさとう
@ひさよさとう Жыл бұрын
白峯
@wayamato9226
@wayamato9226 11 ай бұрын
信長の縛りがなくなって日本国中荒れ放題〜信長は法律刑法だった〜⚔⚔⚔京都にいた宣教師ルイスフロイスの記録〜本能寺の変
@mandamnippon1
@mandamnippon1 Жыл бұрын
鳥羽上皇は実子である崇徳天皇の治世に対する無能さを見抜いていたので崇徳天皇を権力から遠ざけていたのでは?
@福岡-q8t
@福岡-q8t 4 ай бұрын
摂関家が政治の実務をとりしきることが常態化していた時勢に、「天皇の治世の能力」を考慮したとは考えられません もしそういう観点があるなら、ツナギとはいえ、天皇になるための教育も受けておらず、即位前から問題児であった後白河を指名するとは思えません
@asaki337
@asaki337 11 ай бұрын
今の爺民党と一緒
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