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【ゆっくり歴史解説】邪馬台国一万二千余里の謎を解く
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れーしch【歴史】
Күн бұрын
Пікірлер: 128
@wajin5695
4 ай бұрын
大月氏の16370里(長里)は歩測であり、川を使い、オアシズ沿いに進むので、直線距離の2、3倍になるやも。一方、女王国は海峡、他国につき歩測できないので、一寸千里法という天文観測による。 長里は測量を行った時代によって異なり、概ね1里は400から560里でしょう。一寸千里法は、南北2箇所の棒の影長を寸で測り、2箇所の陰長差を里数とし、1里が77mだと知らなくても短里で測れるのです。シミレーションすると沙里院は21.53寸で、巨済島南端は15.93寸、この差の5.6寸は南北5600里を意味し、ピタゴラス三角より5/4倍をかけると斜め7000里になります。 一寸千里法は原理的に南北のみ測れ、東西・斜めは三角関数で計算するしかない。よって。都市と都市の距離を測るのは不可能で、せいぜい九州なら北部、中部、南部位と粗め、短里の距離はデタラメに見えたはず。短里を長里に置き換えるため、会稽東治と同緯度の場所を探し当てたのが、沙里院より南9600里の九州本島の川内川ということです。7000里も同じで、洛陽と同緯度が巨済島南端としているのです。 7000里に1000里を足して10500里辺りが女王国(入口)なのです、すでに到着したので、これ以上の距離の説明は不要、範囲は九州北部のどこかでしょう。なお、呼子(末盧国・待機港)を上陸点とすると、真東に500里・100里・100里に井原・吉武・岡本と遺構が一列に並び、通れる道も南東・南東・東となります。長くてスミマセン。
@shou-sho
Жыл бұрын
つか渡邉先生みたいな漢文の専門家ですら「『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置はわからない」って言ってるのに、「俺は『魏志倭人伝』を読み解いた!」という人の多いことよ
@kei.suzuki
Жыл бұрын
これは言える 渡邊義浩はKZbinのとある動画に出演していて、「三国志の地理の記述は結構いい加減」と言ってます
@may23k68
Жыл бұрын
当方は 素直に読んで九州以外です。
@かかしやまだの
10 ай бұрын
@@may23k68 女王国のモデルは大坂城です。卑弥呼(ひめおう)と読んでください
@紋太-f6v
2 ай бұрын
柄何某先生が言ったから他の大多数の人が言った事は、間違いだ、というのは、賛成できませんな。
@snack-gon
Жыл бұрын
もうこうなったら、れーしさんが邪馬台国ゆかりの地を訪ねて、それを「邪馬台国ゆかりの地を行く」とかいうシリーズ動画にしたらどうだろう。もちろん、ナレーションはいつものゆっくりで「ここの食堂で食べた卑弥呼定食は絶品だったんだぜ」とかやって欲しい。
@oguray7285
Жыл бұрын
れーしさんの考察はすごく面白いです。 歴史の本読むより楽しい。
@essauouo5251
Жыл бұрын
魏としては大月氏国に匹敵する国に接触したというのが重要であって、その他はあんまり気にしてなかったのかもしれませんね 後世の懐良親王の日本国にしても、倭寇の取締ができそうな勢力との関係構築という明の都合と、鎮西将軍府の都合が折り合ったから冊封に至ったんでしょうけど、日本国王の支配がどこまで及んでいるとかについては気にしてない感じですし
@ぽぽ-f5n
Жыл бұрын
そもそも中華以外は辺境としか思ってないのでどうでもいいのでしょう
@やまびこ-l3l
Жыл бұрын
九州説の立場の大学教授は、井上光貞教授あたりまで。あとは、専門外の学者。小説家。自費出版のアマチュア。
@pappakappappappar
7 ай бұрын
帯方郡からじゃなく帯方郡を通ってじゃないでしょうか? 魏の人が読んで何で途中の帯方郡からの距離なんです?
@zennin357
9 ай бұрын
松浦や唐津を末盧國とするには壱岐からの距離が近すぎるんだよね。 千余里には到底足らずせいぜい五百余里しかない。
@mkoichi1970
Жыл бұрын
私もいつもこのチャンネルのUpdate楽しみにしています。いつか十字軍遠征周り(個人的には特にボードウィン4世が面白いです)をして頂けると嬉しいです!
@morita11960
2 ай бұрын
一万二千里は阿波です。
@鈴木二郎-x6l
Жыл бұрын
魏志倭人伝が書かれたのはに西晋の時代 陳寿は邪馬台国に行ったわけではなく、邪馬台国に関する各種文書をまとめただけ
@AtomMonado
7 ай бұрын
方三千里の中華世界は、東西南北各五千里の世界のまちがいではないでしょうか。京師から北五千里が楽浪郡、及び帯方郡の南境界。郡を経て南一万二千里で邪馬台国。合わせて一万七千里です。 大陸の北五千里は一寸千里方でtan^-1(80/21)=75.29°夏至正午の太陽高度がこのようになる緯度x°は、200年頃の地軸の傾きと推定される23.67°を考慮して、 90°-x°+23.67°=75.29° これを解いて、x°=38.38° 39°Nが平壌.38.5°Nが沙里院ですからその少し南です。この緯度が境界であり、郡からの出航地と推定されます。 方三千里を中国哲学書電子化計画というサイトで検索して探しているのですが見つかりません。よければどこに書いてあるか教えてください。
@serfdom221
Жыл бұрын
逆に16370里で本当に大月氏国まで着けるんかいな
@近藤功-g6x
Жыл бұрын
文中で述べられていますが、邪馬台国が朝貢した当時は魏の曹叡の時代で、外交担当が西の大月氏が曹爽、東の倭が司馬懿担当だったそうなので大月氏より距離が遠くないと司馬氏に都合が悪かったらしい。また当時は呉が存在したので司馬氏としては洛陽から見て呉のさらに向こう側から使者が来たことにすれば大きな功績になるので、(所謂プレスター・ジョン的発想)大枠で誇張して報告したのを陳寿が記録したのかな?と思います。むしろ地名と位置関係から細かく追っていく主様の説明の方が納得できます。
@hiromihasegawa311
10 ай бұрын
「政治が歪める」って今でもあるんじゃない?「魏が一目置いた倭国が北九州の市町村レベルの連合体のわけがない!奈良を中心にした国家連合だった!(はず)」とか。あとふるさと創生、町おこしで海山な話でも「卑弥呼はここにいた!」と言って耳目を集めれば勝ち...っていう。行政があとは野となれで、税金使ってシンポジュウムとかやめてほしい。
@gorinbasi
5 ай бұрын
まぁ〜魏志の記載がいい加減と言いながら個人の私感で曲解するのは良くないよね、先ずは先入観や願望抜きで当時の魏の一里435メートルで辿り全ての可能性を検証するべきだと思うよ。
@偽蘇芳
Жыл бұрын
投馬国の候補として、筑紫平野の八女市の北に下妻群、上妻群があるのでそこかな、と 八女市の南東の筑肥山地を越えて南東に菊池市がありますね
@keeperofthe7keyspart
Жыл бұрын
中国史研究者の渡邉義浩氏の「魏志倭人伝の謎を解く、三国志から見る邪馬台国」は非常に平易な文章で読みやすくて面白いのでオススメです。 距離の矛盾は朝鮮半島や九州を巨大な陸地や遠方の島々として見積もっていたとするほうが納得が行きます。 帯方郡の南の韓の地が方四千里でこの時点でかなり巨大ですからね。 一万二千里は西晋の陳寿の理念というよりは、魏略にもあるので曹魏からの伝統的な認識である可能性が高いのでそれを引き継いだのでしょう(「魏志倭人伝の謎を解く」にもそう書いてある)。 魏略を見ると北九州にある女王国でわかりやすかったのが、西晋の時代になってヤマト王権の情報や具体的な地名が入ってきて記述が混在したと思われます。
@kei.suzuki
Жыл бұрын
あの本の白眉は「一大率」「刺史」に関する解釈だと思う
@osamuarima1118
2 ай бұрын
どこかの部分で、都から目的地までかかる時間や距離をまとめて書く必要があるよね。そう考えるとわかるんじゃないの。 倭人は距離を言うのに日数で言うとある、距離標期は中国流の距離の測り方であり日数で最後にまとめてあるのは、「倭人の流儀で表記すると」という言葉を補って考えるべきだと思いますね。
@かかしやまだの
4 ай бұрын
海洋船が一日に進む距離単位が千里 帯方郡から女王国まで直接船で行けば一万二千里12日ぐらいの距離です。
@水野公博-l3x
Жыл бұрын
九州には大河が多く、洪水を避けるため河口に居住不可能 菊池川、緑川、白川、球磨川
@らがざ
Жыл бұрын
魏志倭人伝を陳寿が一人で書いたと考えるのが間違いだと思う!50年前の研究者の話だが文字が違うから途中から書いた人が違うと記憶してます。特に外国のことだから陳寿の弟子が数人で書いた可能性がある!と言っていた
@やまびこ-l3l
Жыл бұрын
古代史三倍説。面積を三倍。時間を三倍。王朝を三倍。皇帝を三倍。事件を三倍。おなじ元ネタの繰り返し。
@show_kazitani
Жыл бұрын
このシリーズほんま楽しいわ〜
@def7079
Жыл бұрын
別の人の動画見ると、短里ではなく長里を使ってる説が距離を忠実に読み取った説に思えたわ( 九州説ではない)。ただ魏志倭人伝より後の中国の古代書では、魏志倭人伝は短里を使用してると判断してると思われる記述があるようで、ほんにわからんのう。
@Henry_Norman
Жыл бұрын
だいたい、その通りと思います。
@セカイK1
Жыл бұрын
魏志倭人伝の記述では帯方郡からの出発が帯方郡の南の端の海岸であり郡治からではない 帯方郡の南の端の海岸から狗邪韓国の海岸までが7000里 狗邪韓国の海岸から対馬国の北端の海岸までが1000里 対馬国の北端の海岸から対馬国の南端の海岸までが800里(方400里なので) 出発地点が帯方郡の南の端の海岸なので国の端から端までの書き方になってるので 対馬国や一大国の半周分を行程距離に入れる必要がある なので7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000里となり 伊都国と奴国の国境付近が12000里の地点で伊都国、奴国付近が女王国です。
@箒木
Жыл бұрын
邪馬台国の位置を確定できない。というのは、情報を統合しない限り正しい。
@寿野郎0610
Жыл бұрын
そう言や月氏って蒼天の拳にも名前出て来たなあ🙄
@shirohyashiro3362
Жыл бұрын
里数と日数が混ざっている理由は隋書を読めば分かります。随書には「夷人(倭人)は里数を知らず。ただ日を以って計る。」とあります。 魏の使者は倭国の位置、人口、風土、特産品などを正確に本国に報告する必要があったはずですが、行ったことのない場所は里数では報告できません。 なので、使者が通った道筋や想定できる距離は里数で、そうでない場所は倭人から説明された日数をそのまま書くしかなかったのでしょう。 しかし、日数というのが曲者で、陸行にしても平地、湿地、山道で大きく変わりますし、水行だと海か川でも変わります。さらに、海なら海流や風、川なら下るのか上るのか、流速は?などでも大きく変わります。 なので、交通路が整備されていない時代に日数で距離を割り出そうというのが無茶だと思います。 方向に関しても、うp主は東と言うと真東を想定していますが、正確な地図もない時代に正確な方角など分かるはずもなく、±45°位の誤差は想定しておくべきだと思います。
@高橋邦雄-z2u
9 ай бұрын
100短里は7.57キロで長里100里43.4キロで計算して見てください伊都国吉野ヶ里から奴国久留米まで7.57キロふみ国日田まで筑紫川をさかのぼって長里で舟で行けます
@高橋邦雄-z2u
9 ай бұрын
日影から直線距離で万二千里としており会稽東治の東の薩摩仙台になり吉野ヶ里伊都国から南に水行10日になります
@dry301
Жыл бұрын
邪馬台国を訪ねて一万二千余里たぶん順路とは無関係でしょうね!
@oguray7285
Жыл бұрын
1万2千里って具体的な数値ではなく、八ヶ岳や八百万の神のような漠然とした数で「すごく遠い所」という表現なのかなって思いました。
@kyokatayama1845
Жыл бұрын
「中国の範囲外だから攻めていこうとか思うなよ」って感じの表現かもしれませんねぇ 唐は大月氏国の方まで攻めていきましたが……
@丸山康平-l2f
Жыл бұрын
正解ですよ。世界を捉える枠組
@ラッキー純-h2x
Жыл бұрын
突然失礼します。 まず【魏志倭人伝の示す邪馬台国】には水銀朱やカササギの記述があり、九州や機内説はその時点であり得ないです。 また【魏志倭人伝の示す邪馬台国】の距離や方角を素直にたどれば阿波(徳島)になります。 断定はもちろん出来ませんが【阿波説】が一番、魏志倭人伝の記述と整合性がありますね。 距離や方角はかなり正確です。 ANYAチャンネルに詳しいです。
@nekono_mimikon
Жыл бұрын
@@ラッキー純-h2x 邪馬台国が千戸程度の小国ならそうかも知れないけど 倭の国としては比類なき大国なのだから瀬戸内ぐらいは広大な領域の一部かと 九州説にしても畿内説にしても四国説にしても魏志倭人伝に反して狭い土地に押し込めたがる意図が分からない
@ラッキー純-h2x
Жыл бұрын
@@nekono_mimikon 倭国連合国と邪馬台国を混同されてますね。
@安田一悟
Ай бұрын
一万二千里ということは、九州ですよね。この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。関心があれば、誰読んで下さい。
@shou-sho
Жыл бұрын
末盧国は松浦市ではなく肥前国松浦郡のことです。早めに言っとけばよかったですね。 (たぶんここは九州説も畿内説も同意すると思います) 現在でいうと唐津市の競艇場あたりですね。
@eishistomotomo
3 ай бұрын
1万2000里は、中華の徳が及ぶ範囲という意味で、中国人が実際に距離を確認したのは、女王国の窓口の北九州まで。そこからは、距離を測る方法を知らなかった倭人のいう、陸行と水行の情報をそのまま採用した。
@FREEDOM-vv3wu
Жыл бұрын
匈奴によりバクトリアあたりにまで追いやられた大月氏?
@saburoutanba581
11 ай бұрын
「死せる孔明生ける卑弥呼を走らす(孔明が死んだ事で遼東に派遣された司馬仲達が公孫淵を滅ぼした為に、卑弥呼は支配者が交替した帯方郡に使者を派遣した)」 訳ですね。確かに、帯方郡から狗耶韓国まで七千里(1里=約72m)と言うのはおかしい。蜀漢出身で父親が諸葛孔明の下で働いていた陳寿にとって立場上、 当時孔明と戦っていた司馬仲達(初代皇帝司馬炎の祖父)を持ち上げて、西晋の帝室をヨイショする必要があったのかも知れません。
@buluemoon2008
3 ай бұрын
「自郡至女王國、萬二千餘里。」読んで字の如し。 「狗邪韓國」まで7000里、「末盧國」までで1万里。あと2000里しかない。 2000里は「狗邪韓國」から「一大國」の距離。 小学生でも間違わない。なんで謎になるのか不思議。
@ayemyamu
Жыл бұрын
会稽は今の浙江省の紹興あたり.東治は福建省の福州・台湾と大陸の一番短距離は福州だそうです.会稽と東冶の東に東鯷人が住んでいる記載があった.今の地図から見れば琉球.しかし古代の台湾へ大陸の人がおとずれるのは大部おそかった.そはは台湾海峽の海流と台風の影響だったです.每年台湾の颱風の動向を私はテレビで見ていた.大抵の進路は北上、.遼東半島、朝鮮半島へ .日本の九州に北上するのも多いです.台湾から台風が正西の福建省に向かって行く台風がめったにありません.おだやかな日でも福建から出航して微風にたよっても北上するのはあたりまえのコース.まして強風の日に北に突進する事も当然のすじです.空海が唐に渡る時. 上陸の地点は福州、それは風のせいで南下したわけです.鑑真和尚の東渡の六回の中に.一回は海南島まで辿りついた、二人とも季節風と海流によって海路がはずれたのでしょう. 明の時代に出来た坤興万国圖も日本を浙江省的正東に位置付けられている事が見えます.人間の距離感は行程の日数にも影響されています、空海が長安までつくのは十二日間も時間かかったそうです九州から福州まで三日か四日間位です..
@あや-t2v9v
Жыл бұрын
西暦200年ごろの九州全体の推定人口は約10万人です。まあ近畿地方全体でも約10万人と言われていますが。 魏志倭人伝に出てくる地名は、東海、近畿、山陰、山陽、四国に及んでいます。これら全ての国を合わせなくては、推定人口数的にも計算が合いません。九州は1600年頃でも125万人ですよ。狗奴国まで九州にあったというのは、現実的では無いのです。
@ぽぽ-f5n
Жыл бұрын
記述がそもそも現実的じゃねぇんだよ
@あや-t2v9v
Жыл бұрын
魏志倭人伝の中で済州島は「馬韓の西」と記載されています。実際は南であり、筆者が90度近くも角度を誤っている証拠だと考えられます。魏志倭人伝における南は東であり、東は北であるということです。 15世紀の世界地図「混一疆理歴代国都之図 」ですら、九州が日本最北端に描かれた日本図があり、日本の形に対する従来のイメージが強固であったことを窺わせます(※この時期には正しい向きの日本が描かれたものもある) 3世紀では「会稽東治の東」まさにその位置に本州があったと、本気で中国では考えていたのでしょう。 そして邪馬台国が九州にあり狗奴国まで九州内にあったら、とんでもない人口数となりますよ。奈良、平安の時期よりも多い人口が3世紀の九州に暮らしていたというのは、ちょっと考えにくいです。
@kinkin0421
Жыл бұрын
中国の歴史研究家の見解の動画がありますが、やはり邪馬台国は北部九州だとのことでした。何故なら記載しているのは北部九州のことばかりで畿内のことなど一言も触れていないという、至極真っ当な意見でした。混乱の元となっているのは、魏志倭人伝は複数の著者によるものであることから、割と詳細な記述と、おおざっぱな記述が混在しているのが原因だろうと。水行10日陸行1月というのも具体的にどこの何を指しているのか不明である以上、それはノイズとして扱い、その部分を除いて総合的に考えれば良いとのことで、簡潔明瞭な話しぶりでした。そもそも中国の歴史書なのだから中国人の歴史家に聞くのが一番妥当だと思いますね・・・。畿内の考古学者の意見など恣意的なものではなくて。
@鷹の爪団員ジャステス
Жыл бұрын
水行を瀬戸内海を行くと読めば解決するかな?
@ちょこみんとあいす-s8q
Жыл бұрын
もっともっとシンプルに考えてみると 「広島までどんぐらいかかる?」 「んー、車で2時間電車じゃ4時間くらい?か」 みたいに書いただけなんでわってたまに思う 船なら10日で到着するけど歩くと長いぞ一家月みたいな みんな船で行った後1ヵ月歩くって解釈するけど
@オグリ一着
Жыл бұрын
大月氏の説は私も昔読みましたがあくまでそれも推測でしかなく素直に魏志倭人伝の記述通り読めば帯方郡から女王国まで一万二千余里、伊都国は女王国に属し魏の使者が滞在する所と書かれてるので単純に帯方郡から伊都国までだいたい一万二千余里と考えればよいと思いますよ😅 女王国の東の海渡ること千余里又國あり倭種というのも北九州から東の海渡ると倭種の国があるみたいだと伊都国で聞いただけの話でしょう。 しかし邪馬台国はおそらく大和国で畿内だと思われますよ。 水行10日陸行一月も帯方郡から邪馬台国までのことでしょう😅 つまるところ我々が全て先入観を持って魏志倭人伝を読んでるからこれもさまざまな説が飛び交うだけで、邪馬台国までの里程がすべて連続性があると思ってること、女王国を邪馬台国と同一視してること、 そしてなにより一番大きな先入観は我々は日本列島の形を正確に知ってますが当時の人々、かつ中国人が知ってるわけないのに、我々の地理感覚で考えるからよくわからなくなるだけだと思いますよ😅
@YO-high
Жыл бұрын
動画お疲れ様です。 「陳寿は曲筆をしてる」って、同年代や少し下った時代の人たちが言うように、西晋に阿ってるのは事実。 なので、そのあとの「後漢書」を書いた「范曄」なんかは、「曹操」をわざわざ「悪人」として書いてるって話もあります。 (※でもそれってお前も「曲筆」してるとも言えるのでは?と個人的には思うんだけれど。) 范曄が、後漢書で「倭国」の南じゃなくて「東」に「狗奴国」があるって書いたりするのを見ると、陳寿をやんわり否定してるんだろうなぁと思うんですよね。 まぁそれは、「南宋(劉宋)」に「倭の五王」が朝貢してるってことから、倭人に聞いた正しい情報なのかもしれませんね。 邪馬台国だけじゃなくて、古代のことを調べると、「深い深い沼」に陥るって、よくわかります。 陳寿が「邪馬台国」を「洛陽の東17000里」としたのは「事実」ではなく「願望」ってのは、よくわかります。 魏志だけ見て古代史を語ってる人が多いのは、安易に人の意見に騙されやすい人だなぁってのも、よくわかります。 面白かったです。
@岡村浩司
Жыл бұрын
おお、大月氏国に気が付いてたか? 親魏王の称号は倭と大月氏のみ。 倭との外交は司馬氏、大月氏は曹氏の功績とされる。魏と普の関係は無視出来ない。
@katumoku10
Жыл бұрын
いい解説をありがとうございます。魏志倭人伝はコテコテの政治文書ですから、まともに読んでも邪馬台国にたどり着けませんよね(;^ω^) 考古学や民俗学の成果から邪馬台国の場所を発見しましたので、よろしければ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。お邪魔しました(^_-)-☆
@影森治-e1h
Жыл бұрын
当時の測量技術で海の向こうにある日本列島までの距離と方角を正確に測った地図を描けるわけもなし。 坤輿万国全図でようやくアレなんだから、会稽の東なんてすごくザックリした感覚での記述でしょうよ。
@山田カイチ
Жыл бұрын
その前の国の水行20日があるのが困るけど、水行10日陸行1月は洛陽からの距離だと思う。
@kei.suzuki
Жыл бұрын
洛陽「ワイから水行10日陸行1月で邪馬台国や」 帯方郡「え、、、ワイの立場は、、、」
@seiji5431
Жыл бұрын
水行10日は不祢国(中津市)から南に水行10日で四国宇和島に着いてそこから陸行1月で阿波の倭京跡地に着きます。また、壱岐から千里まつら国は松浦までは500里しかありません。千里は宗像市松浦潟で神代時代からの交通要所です。宗像から南東いつ国(伊都国)はみやこ郡で日本書紀と豊前風土記にいつ国(伊都国)の記載があります。
@satoshitanaka7655
Жыл бұрын
とにかく南を東に読み替える畿内説はダメですけどね。 それから、現在の感覚で陸行一月を考えるから遠くに外れてしまうわけ。 当時、これと言った道も無く、案内人もいなかった場合、深い九州の山は歩くのが大変。 隊列を組んで多くの荷物を抱えての歩きで1日5㎞も歩けないでしょう。 山の1日は短いですから、明るいうちに野営します。 土地の村に出会えば、1~3日留まるかもしれません。 要するに、そんなに遠くではないと言うこと。私見ですけどね。
@kei.suzuki
Жыл бұрын
水行を意図的に無視するのはおやめ下さい 九州説の悪い癖ですね 山?そんな山奥にあるんですか?7万余戸の国が?
@佑樹石田-n3i
Жыл бұрын
距離の問題を等閑視しても、倭人伝には九州の地名しかでてこないし九州に上陸して以降「渡海」してないのだから九州の何処かにあったに違いない 。さらに侏儒国の位置関係から種子島説が強いが考古学的物証として広田遺跡の人骨は符合する。
@sagammin-ch
Жыл бұрын
他の陳寿の書物の記事の数字は事実と同じだったのですか? それによって数字が「適切だろうと推測した数値」か「実測に基づいた数値」か判断できるのではないですか? 間違えようのない中国の土地の距離ですら実は間違って記載されていたと言うのなら当然邪馬台国の距離も間違ってる訳だし…
@shou-sho
Жыл бұрын
漢王朝は広大ですから日々使者が行き来しています。 その移動距離は1日50里(約20km)と法によって定まっています。 よって中国内の距離についてはおおよそ正確だと考えられます。
@sagammin-ch
Жыл бұрын
@@shou-sho 解説ありがとうございます。という事は具体的な数字が出てるとこまではほぼ正確といっていいみたいですね。
@ぽぽ-f5n
Жыл бұрын
@@sagammin-ch中国国内と言ってるじゃないですか
@ulojjyu
Жыл бұрын
これまで色々とコメントしてきましたが結局UP主様と全く同じ考えでありましたか・・・
@party7norix
Жыл бұрын
隋書倭国伝に阿蘇山が出てくるらしいよね。そこまでいって、奈良のヤマトじゃ辻褄が合わない。よく調べると逆に奈良のヤマト説はこじつけがかなりあることに気づく。最近の酷いのは桃の種がたくさん出たとか。。。それがシャーマンに関連するとか。。。酷いよな。
@nnkk8888
Жыл бұрын
桃の種がたくさん発掘された場所に卑弥呼がいるって根拠になるなら邪馬台国は吉備ですねって思いました。土器から交流をみると単に桃が名産品だった吉備と交流があったからが答えのような気がします。
@地球寒冷化
Жыл бұрын
隋書倭国伝を読んでないからこそ、そんなことを言えるんですよ。読んでたら、恥ずかしくてそんなこと言えませんから。
@福岡-q8t
Жыл бұрын
隋書倭国伝に阿蘇山は出てきますが、7世紀はじめに隋やってきた倭国の使者の記事の中に登場します つまり、卑弥呼の時代(3世紀頃)のことではなくて、6世紀末・7世紀初頭の倭国の情報という想定です この時代はもう推古天皇の時代なので、大和政権の話であるのは動かし難いです この記事には後漢書など過去の文献から参照した情報が混線しているらしく、うまく記紀や考古学と合致しなかったり、本当かなという話も多いのですが、大和朝廷の勢力圏内にある有名な火山である阿蘇山が話題として出てきても不自然ではないです 数年後、裴世清が倭国に派遣されます ここでの記述だと、竹島、対馬、壱岐、筑紫(らしき国々)を経由して、さらに東に向かい十余国を経て海岸につくとあります 通過した場所のことしか書いていないので、北九州に着いたあと、瀬戸内を進んで畿内の海岸についたんだなと想定でき、奈良の大和政権のことで十分辻褄があうと思います
@may23k68
Жыл бұрын
道がないとかの仮説なしでの話も聞きたい。 あったとしてお願いします。糸島市あたりに持って行こうとしていませんか? 文献でなく遺跡や平原とか遺跡基準に 合わせていませんか?
@右向左
Жыл бұрын
途中からまた聞きみたいな記述になるんだよなぁ。帰路で纏めてて、解らなくなったんで適当書いたんじゃね? 何時の時代も役人のやる事はあんま変わらん気がします(笑)
@yoshihiro_sugimori
Жыл бұрын
魏略にも(万ニ千里は出てこないものの)言わゆる短里で奴国までの距離が書かれている。これを見ると三国志(魏志倭人伝)の記述とまったく同じであることが分かる。つまり魏志倭人伝に関しては、陳寿が著者と考えるより、陳寿も魚豢(魏略の著者)も同じ文章をコピーしたものなのです。 なので渡辺さん?の大月氏国にも1万2千里だから~とかって話は、その老人の単なる妄想でしかないわけです。 あ、あと末盧國から伊都國の陸行ですが、梯儁は一支國から伊都國に水行しています。単純な話しでしょ。
@juniortrump2887
Жыл бұрын
女王の都する所、水行10日、陸行1月とある。つまり北九州からそれだけかかるというのは瀬戸内海の行程だ。当時は神戸港がなかったから吉備国あたりまで船で行き、そこから東へ向かい奈良盆地東南部へ到着したのだ。
@masasuzu0024
Жыл бұрын
【邪馬台国の場所】邪馬台国=女王国? 初心者が陥る大誤解 kzbin.info/www/bejne/Y56tg2iYqLagjM0
@紋太-f6v
2 ай бұрын
邪馬台国まで万2千里とは、何処からもってきたのかが全くわかりません。陳寿は、女王国までが、万2千里と言っていますよ。どう逆立ちしたって、邪馬台国まで、万2千里とは読めませんよ。邪馬台国まで万2千里と、女王国までが万2千里は、全く違いますよ。 13:27
@mannganninc
Жыл бұрын
水行十日陸行一月とは帯方郡から邪馬台国への全行程を指すのでは無いかと。 また当時は緯度経度の考え方もなく、地球儀を俯瞰することも出来なかった。会稽東治の東を示す位置はほとんどアバウトでしょう。
@kenn8438
Жыл бұрын
帯方郡から水行十日でどこまで行けるとお考えですか? たいして行けないですよ。
@mannganninc
Жыл бұрын
@@kenn8438 旅程のトータルでという意味です。
@kenn8438
Жыл бұрын
@@mannganninc もしかして朝鮮半島内を陸行したとお考えですか?
@たふたふ-s1p
Жыл бұрын
肥前国府近くに大和(やまと)があるからそこでどうですか?
@海童-g4l
Жыл бұрын
一筆啓上 『後漢書・倭』に以下の件があります。 「・・・国皆称王世世伝統其大倭王居邪馬臺国楽浪郡徼去国萬二千里・・・」 多くの識者は「国」の直後に句点を付ています。「国」の直前に句点を付して書き下して見てください。違った世界が見えてきます。 「萬」の直前に「一」という数詞は記述されていませんが、日本の歴史家には、書かれていないものが見えてしまう霊能者が多くいるようで、「(一)萬」と書き下しています。 「萬」は広さの意味を持つ言葉でもありす。これに似た言葉で「方」があります。 顔師古は『漢書』に注をして、「方千里を規(くぎ)りて最も王城に近き者を甸服(でんぷく)と為す。即ち四面五百里なり」と言いました。 これに従えば、「国萬二千里」は「国の広さは四面千里」であると言っていることになります。周尺で計算すると、1里は405mという事ですから、倭国は周囲長405kmの国になります。山梨県の周囲長が405.9kmです。 「方」を四角となして、縦✕横の面積の国だ、と早合点しないでください。 蛇足ですが、『後漢書』の「萬二千里」が、「一萬二千里」に見えてしまった歴史家が表した史書は以下のニ史。 『隋書・倭国』『北史・倭』には「一萬二千里」と書かれています。 『後漢書』は西暦432年。『隋書』は西暦636年。『北史』は西暦659年に完成されたと言われています。 ちなみに、「邪馬臺国」と4文字表記されているのは『後漢書』のみ。他に「邪馬」をふくんだ4文字表記を探せば以下の通り。 『三国志』は「邪馬壹国」。『隋書』は「邪馬臺者」。『北史』は「邪馬臺者」。さらに「邪馬」は間違いだとして『梁書』では「祈馬臺国」と表記されました。 「邪馬臺国」。探して見つかる国なのでしょうか。『後漢書』の誤読によって生まれた「まぼろしの邪馬臺国」でなければ良いのですが・・・。 また『後漢書』に出でくる「会稽」「硃崖」「儋耳」は遼東にも存在しました。 「会稽」→『山海経・巻之十三・海内東経』。 「硃崖」→『山海経・巻之十・海内南経』。 「儋耳」→『山海経・巻之十七・大荒北経』。 また「儋耳」は「臨屯郡」だったという証言が『漢書・昭帝紀・元始5年後』に記述されています。 長文失礼しました。何かの参考にしていただければ幸いです。 恐慌頓首。
@sonnawakana
Жыл бұрын
邪馬台国がメジャーになったのは、卑弥呼が女性の王であり、鬼道を使ったとかミステリアスなスターになったからで、もし男王でみんな入れ墨してただけの勢力なら「そりゃ九州だろ」でとっくに決着している問題じゃないかな?
@toshirouhorino
Жыл бұрын
楽浪郡の時代から、万二千余里は慣用句だったんだろね。半島7千里、海峡3千里、上陸してから2千里の熊本さ。 最初から答えは出てるのに、我が学派の手柄にしたい教授先生がいっぱいいて、グチャグチャにしてしまったんだよ。
@masamasaict7312
Жыл бұрын
邪馬台国は日高見国のことで、常陸の国。ヤマト政権に北に追いやられた。文字も無くなった。
@kenn8438
Жыл бұрын
渡邉氏の考察ではまだまだ浅いです。 もっと進んでいる人は魏書に注目しています。 "陳寿"になりきっても妄想がふくらむだけです。"王沈、傅玄"になりきって考えるとようやく真実に近づいてきますよ。
@里安-j9b
Жыл бұрын
従郡至倭、一方、自郡至女王国、とあります。 「従」と「自」の違いを理解されてますか?意味が違いますよ。
@shou-sho
Жыл бұрын
違うというなら意味まで書きなさいね。 【漢辞海】 従:…から。よ-り。《時間・場所の起点を表す》 自:よ-り。(ア) …から。《時間や場所の起点を示す。同義の「従」とともに「自従(より)」とすることもある》 【漢語林】 従:よ-り。名詞などの前に置かれ、続く語が起点・経路であることを示す働きをする。 [訳]……から。 [類義語]自・由。 自:よ-り。(ア)続く語が、時間・場所について起点であることを示す働きをする。 [訳]……から。 [類義語]由・従。
@kenn8438
Жыл бұрын
@@shou-sho 從は途中経過を一つ一つイメージした数列的表現、 自は動物の鼻を起点とする描画的表現。 漢字の祖先、甲骨文字から考察するといいです。
@リノホス
Жыл бұрын
到と至を使い分けていたり、面白いですよね
@hogehoge4983
Жыл бұрын
4:20 「次に」水行10日、陸行1月で邪馬台国(女王国)……とは書かれていない。 つまり投馬国の次が女王国、ではない。 そういうところ、解釈が甘いよ。 ……つか、ちゃんと原文読んでる? 経路を説明している箇所(伊都国まで)は、「次、(どっち方向に何里で)◯◯国に至る」となっている。 あなたに限らず、多くの研究者が同じ状況なんだけど、まぢで原文の読み込みが足りない。だから畿内説だとかジャワ説だとか、トンデモ説が出てくる。
@wingertaka
Жыл бұрын
方角を無理矢理に曲解して近畿に行ったり、四国に行ったり、もうめちゃくちゃだからな。あの書物からは分からないはず。たぶん邪馬台国まで行ってない。伝聞をそのまま記述したのではないかね。
@seiji5431
Жыл бұрын
倭国は大海の孤立した島の上にある。周旋すれば5000里(76,5m×5000=383km)ですよ。四国ですよ。徳島県に倭国の首都の倭京の跡があり、倭大国魂神社(延喜式式内社日本1社)と倭大国敷神社(延喜式式内社、神紋は天皇の十六菊花紋)があります。そして、帯方郡、楽浪郡から直線12000里(76,5m×12000=918km)で徳島県の倭京跡地に着きます。よって邪馬台国の女王国首都は阿波になります。また、中国洛陽京から直線17000里(76,5m×17000=1300km)でやはり徳島県倭京跡地に到着します。
@kenn8438
Жыл бұрын
倭国が四国はありえません。 第一、周旋することができるなら陸行一月かけて四国を横断する意味がないです(笑) 四国一周は瀬戸内海の潮流を考えると郡使が実行するのは不可能です。 周旋とは別の意味で使われていますよ。
@seiji5431
Жыл бұрын
@@kenn8438帯方郡より南東方向に倭国ありと記載されてますし大海の孤立した島ですから四国です。 倭は阿波ですよ。古代文献にもきちんと阿波=倭と大倭=奈良と区別されてます。今で言う東京と京と同じです。また、阿波は倭大国魂神社で倭。奈良は大和坐大国魂神社(現在は大和神社)と神社の方も別の国の魂神社になってます。また、阿波には倭京跡地や卑弥呼居住地跡や吉野ヶ里よりも広いかんごう集落矢野遺跡、卑弥呼の墓、卑弥呼=いかがしこう(祟神天皇の母)の格式高い延喜式の式内社いかがし神社もあります。
@kenn8438
Жыл бұрын
@@seiji5431 帯方郡の東南方向に孤立した島はいくつありますか? 対馬、壱岐、大きさを変えれば九州も島になります。ポリネシアも含んでいいですか? また周旋は別の意味と言いましたが読みましたか? 文献は先入観を持たずしっかり資料批判の立場で読むことを学ぶべきですね。 倭人伝の倭国が四国の可能性は1000%ありません。
@seiji5431
Жыл бұрын
@@kenn8438 九州やポリネシアは帯方郡から南東方向ではありません。南方向です。南方向にはたくさんの孤立した島はたくさんあります。また、南東方向にもありますがその中で一番大きいのは四国です。また、四国西端宇和島から徳島までは直線300kmあります。また、四国の斜めの端から端まではおおよそ5000里になります。
@kenn8438
Жыл бұрын
@@seiji5431 方位なんて曖昧なものですよ。 もしかしてメルカトル図法しか知らないのですか? 第一日本地図を知らない状態で四国の横を舟で移動した時それ全体を島と認識することをあなたはできますか? 先人が地図を作ってくれたからようやく俯瞰できるようになり島とも捉える事ができるのです。 倭人伝の時代の島とは対馬や壱岐、ひと目で海に陸地が囲まれているとわかる場所の事を言うんですよ。
@はかせ-w5i
Жыл бұрын
そんな距離、適当に決まってるだろ笑笑 信じてるバカがいることが信じられない。 どうやって正確に測ったんだよ笑 なぜ正確に測る必要があるんだよ笑 書く側の気持ちになってみろよ。 なんとなくこれくらいってイメージで書いてるよ笑
@takaoki-wk4md
Жыл бұрын
茨城説に1票 kzbin.info/www/bejne/aoexeHl7maiEpqcsi=cUZ5ljJ2x7JXrQsp
@kabutarou39
Жыл бұрын
阿波だと思うな
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