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義時の跡を継ぎ、執権となった泰時でしたが、義時の地位が全て継承されたわけではありませんでした。
叔父の北条時房とは、執権の地位をめぐって争い、さらに、正室の子ではないがゆえに、北条朝時をはじめとした弟たちにも領地を多く与えるなど配慮を余儀なくされます。
ですが、その立場の弱さゆえに、独裁ではなく合議制を目指し、御成敗式目を定めるなど武力に頼らない政治を目指しました。
その器の大きさゆえに、政敵を武力で排除することはなく、取り込んでしまい、泰時の死後には、将軍追放、宝治合戦という形で爆発してしまう結果にもなりました。
今回は、義時死後、身内、御家人たちを抑え、評定衆や御成敗式目を制定し、幕府政治の基礎を固めた、泰時の19年に渡る苦労の後半生を紹介します!
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参考文献
石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』
amzn.to/3XaNkZ6
本郷和人『北条氏の時代』
amzn.to/3Uo9Jzs
菊池紳一『北条泰時-東西文化を融合させた宰相-』(公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻) )
amzn.to/3OYT7Nx
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