【ゆっくり解説】大名級なのに大名ではなかった家!!

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にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】

Күн бұрын

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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願いします。
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説

Пікірлер
@kinoshitayoshiaki2503
@kinoshitayoshiaki2503 7 ай бұрын
御三家の附家老五家、成瀬・竹腰・安藤・水野・中山のケースも有り。
@takeda20000
@takeda20000 8 ай бұрын
ところどころ?な感じですね。御三卿は3家で10万石ではなく、それぞれが10万石相当では?又毛利減封は関ヶ原後であって大阪陣後の事ではありません
@manacish
@manacish 8 ай бұрын
御三卿は大名じゃなかったけど、米沢新田藩1万石や土佐新田藩1万3千石なんかは御三卿のように領地もなく米だけもらって家臣も本家から派遣されててもれっきとした大名だったことを考えると面白い
@jc1711224
@jc1711224 8 ай бұрын
北海道民からすると、日高の静内に流された稲田家(淡路島を統治)もそうですよね。 当時の徳島藩・蜂須賀家との確執や、徳島藩の領土だった淡路島が明治時代に兵庫県に編入される経緯も面白いと思います。
@VENEZUELAN_POODLE8000
@VENEZUELAN_POODLE8000 3 ай бұрын
都道府県が今の形になる手前、徳島県が名東県だった一時期は淡路島が名東県の一部でしたよね。
@tomokasa8405
@tomokasa8405 8 ай бұрын
`長州藩の成立は関ケ原の戦い後の1600年、大阪夏の陣は1614年。 毛利家お取りつぶしの危機に対する広家の奔走は1600年の話で、大阪夏の陣は関係ないと思います。
@toshis3972
@toshis3972 8 ай бұрын
吉川家関連の調査しました?毛利家は関ケ原で減封になったのに大坂の陣まで関連していることになっている。しかも吉川広家は輝元と不和どころか長州藩の執政になっているよ。大坂の陣で毛利秀元が首謀している事に抗議して執政を引退。秀元が変わって長州藩執政になったが独裁体制を築いてしまう。輝元・秀就親子は窮し広家に助けを求めている 広家は息子広正を送り込み多数派工作をして秀元を追放している。広正は一度執政を退くが秀就の懇願で再び執政の座に就いている。初期の長州藩は吉川家を頼りにしている 吉川家と毛利家の中が悪くなったのが吉川家が独立運動を起こした岩国藩4代藩主広紀から こんだけ世の中に解説動画溢れて史料も無料で読める時代。もう少し調べましょうよ
@tier1flyer680
@tier1flyer680 7 ай бұрын
なるほどっ!
@ユウジノモト
@ユウジノモト 24 күн бұрын
岩国領が藩になったのは幕末だか維新後じゃなかったかな? 昔の水戸黄門でも黄門様一行が岩国に行った場合のサブタイトルは「岩国領」。(藩ではない)
@本多照子
@本多照子 8 ай бұрын
御三卿は将軍家家族の扱いだからある意味大名より上です、だから問題ないですよ、
@アメアメフレフレ
@アメアメフレフレ 8 ай бұрын
御三卿は幕臣のポスト確保のためとも言われているね。藩にしたら幕臣ではなくなってしまうから幕臣の立場を維持しつつポストを増やすためこういう形にしたらしい。
@ませあきたつ
@ませあきたつ 8 ай бұрын
清水徳川家からは1910年に代々木練兵場にて、アンリ・ファルマン機で初飛行に成功した徳川好敏が出ている。
@juuxlb9401
@juuxlb9401 8 ай бұрын
明治維新で大名になれなかった没落士族だっけ?
@kazukazu4681
@kazukazu4681 8 ай бұрын
毛利減俸は大坂の陣は関係ないですよね
@ほほほたか
@ほほほたか 8 ай бұрын
仙台藩伊達家も、領内の各地に1〜2万石の領主(伊達家の分家や戦国時代の重臣の家系が統治していた)がいたけど、大名ではなかった
@ませあきたつ
@ませあきたつ 8 ай бұрын
あくまでも藩主に仕える陪臣に過ぎなかった。
@菅沼域雄
@菅沼域雄 8 ай бұрын
伊達一族なんだけど、独立した大名として認められていたのが、 宇和島伊達家。
@kazukazu4681
@kazukazu4681 8 ай бұрын
陪臣で1万石以上って全国にけっこういましたね
@ほほほたか
@ほほほたか 8 ай бұрын
@@菅沼域雄 四国の宇和島藩伊達家は10万石あったので完全に独立していましたね 仙台藩内部の伊達家の分家は1〜2万石の領地を持ち、藩内各地に分散していました
@菅沼域雄
@菅沼域雄 4 ай бұрын
​@@ほほほたか様へ。 そうそう! だから、仙台の伊達本家が、明治維新後、華族に列せられた時、 伯爵で貴族院議員になるには伯爵同士の選挙で当選しなくてはならなかったのに対し、 四国の宇和島伊達家の殿様は、 イユ矢侯爵に列せられて、 当主は必ず貴族院議員に成れましたね。
@MUSASI40
@MUSASI40 8 ай бұрын
宰相殿の空弁当は 輝元の養子 秀元のエピソード 岩国藩の立藩を許可したのは明治新政府 松平定信が抜け落ちていた件と言い 歴史動画を作るならもうちょっと 細部を詰めた方がいいよ
@bluestar_1213
@bluestar_1213 9 күн бұрын
22:08 マジか。松平の松と前田の前からとって、松前だと昔に聞いて信じてたわw
@user-ce8qx5hg1t
@user-ce8qx5hg1t 7 ай бұрын
御三卿は各家10万石 徳川宗武公は3男ですね。
@上原隆則-l9k
@上原隆則-l9k 8 ай бұрын
勉強になりました😮
@user-hirotaka0123
@user-hirotaka0123 8 ай бұрын
松平定信も田安出身
@二見裕司-r6t
@二見裕司-r6t 3 ай бұрын
幕末の松平慶永も。
@ななしのファン
@ななしのファン 2 ай бұрын
その人は松平春嶽として紹介されてます。
@shinbo-enryo
@shinbo-enryo 11 күн бұрын
定信は28歳で老中になったんだよなぁ。
@日野四十朗
@日野四十朗 7 ай бұрын
御三卿の時代だと、下手に天領を藩として独立させると、一揆が起きる事態だでな~(天領の年貢は格安なので、領民は下手に藩として独立させたくない)。 関ヶ原って、東軍主力が上田で足止め喰らっていた関係で、布陣図だけ見れば軍事専門家は西軍が勝つと判定しているし… 吉川広家は、西軍勝利の邪魔をしただけではなく、毛利家存亡の危機を招き入れた元凶だし… 松前藩と言うか柿崎家は、富裕な家として知られていましたな~。1万石の表高で、10万石級の収入だから…
@霧の女王
@霧の女王 13 күн бұрын
けっこう内容に正確ではないところがあって面白いね どこかで修正の動画あげてるのかな?
@866083
@866083 8 ай бұрын
知行と領地はイコールではない・・・・ごっちゃに説明してるような・・・
@レスター-d6t
@レスター-d6t 4 ай бұрын
江戸初期から中期にかけて後継ぎがいなくなった藩は改易させられたがそれにより務める藩が無くなった浪人などが江戸に集まり江戸の治安が徐々に悪化、江戸後期になると幕府も捨て置く事も出来ない事態になり藩主がいなくなった藩は他藩との養子縁組を率先して行い改易させられる藩が減っていった
@ajisaichotta5187
@ajisaichotta5187 3 ай бұрын
加賀藩前田家にも万石以上の家臣がたくさんいますよ! それと「蝦夷」が「えみし」と発音されているとことがありますが「えぞ」と「えみし」では全く意味が違ってきますよー。
@土屋真一-r1p
@土屋真一-r1p 8 ай бұрын
岩国藩毛利秀元と長州藩毛利秀就は元々義理の兄弟だけど仲が悪かった。
@おしゃべりゆっきー
@おしゃべりゆっきー 8 ай бұрын
毛利秀元は長府藩ですよ。 もう少ししっかり調べてください。
@m19s1d
@m19s1d 4 ай бұрын
@@おしゃべりゆっきーさん 岩国は吉川領
@honda10102004
@honda10102004 7 ай бұрын
徳川将軍家の直臣で将軍家から預かった領地が一万石以上が大名、以外が旗本です 将軍家の直臣とは将軍家から預かる領地の印知を貰います、つまり将軍家と直接主従関係を結んでいます 御三卿や付家老は将軍家と直接主従関係を結んでいないので大名とは言わないのです つまり陪臣(大名の家臣)はいくら石高が一万石を超えても大名ではありません 一番代表的なのか岩国吉川家です 毛利家の家臣だったので幕府からは正式に大名とされていません 外様大名格という中途半端な地位でした 毛利に名君なしとは知られた格言 輝元は自分の器量不足から元就に天下を望むなとの言葉を裏切る事に
@masaf2717
@masaf2717 8 ай бұрын
おもしろかったです。 でも、毛利が山陰・山陽全ては治めていません。 一部、強い影響下にはありましたが、備前と美作、備中半国は宇喜多ですし、播磨は違います。但馬・丹後・丹波も違いますね。
@miyabi-eh9ns
@miyabi-eh9ns 14 күн бұрын
御三卿田安家出身者に例を挙げるとすれば確かに幕末の賢侯のひとり松平春嶽(慶永)は有名だけど、まずは寛政の改革を推進した老中首座松平越中守定信でしょう
@komei1582
@komei1582 7 ай бұрын
御三家は、本来徳川宗家、尾張、紀州だと読んだ記憶があります。なので、宗家が絶えた場合は尾張家か紀州家から選び、水戸家は将軍家補佐(いわゆる副将軍)に徹すると。 一応徳川慶喜も御三卿の一橋家に養子に出てから継いでいますし。 御三卿の設立も「尾張に渡すものか」って意志が垣間見えるような笑
@芳博
@芳博 14 күн бұрын
徳川御三家は本来宗家、尾張、紀伊家を言い水戸家は入っていません。水戸家は宗家補佐の役目があり藩主は江戸在住で参勤交代はありません。水戸黄門漫遊記はあくまでも架空の物語です。
@芳博
@芳博 14 күн бұрын
ちなみに尾張とする場合は紀州ではなく紀伊、紀州とするなら尾州となります。
@根岸明-v5v
@根岸明-v5v 8 күн бұрын
いろんな分析があって、いいじゃないですか。
@雨宮雅人-h3o
@雨宮雅人-h3o 8 ай бұрын
御三家御附家老や前田家の本多・長家等の八家、吉川家等々、大藩の家臣には3万石クラスの身代が居たが、あくまでも彼らは陪臣でしか過ぎなかった。
@ませあきたつ
@ませあきたつ 8 ай бұрын
但し、吉川家は主家から独立した領土支配権を持ち、当主自身や徳川将軍の代替わりには江戸へ参勤交代を行っている。
@amidalapadme2004
@amidalapadme2004 8 ай бұрын
面白かったよ。
@daik1622
@daik1622 8 ай бұрын
ニートの御三卿😂
@松平秀康-j3u
@松平秀康-j3u 8 ай бұрын
御三卿は、各家10万石です。その為伯爵になっています。
@ませあきたつ
@ませあきたつ 8 ай бұрын
御三卿が成立したのは、江戸幕府が成立してから100年経って、徳川宗家と御三家との間の血の繋がりが薄れてきたからだ。 因みに御三卿の家老は若年寄の管轄下だった為、御三卿は大名というより、旗本に毛の生えた様な物だった。 因みに御三卿の内、田安家、一橋家が1868年に明治政府から立藩を許されたが、翌年版籍奉還された。
@アルミニウス-r4z
@アルミニウス-r4z 8 ай бұрын
領地は無いから部屋住みの延長みたいな物だし
@juuxlb9401
@juuxlb9401 8 ай бұрын
田安亀之助→徳川家達公爵
@honda10102004
@honda10102004 7 ай бұрын
御三家は徳川将軍家の家臣で大名 御三卿は将軍家の家族であり家臣ではないので大名ではありません
@wa33785
@wa33785 8 ай бұрын
越前家、尾張家、紀伊家、駿河家、水戸家の德川一門、加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙臺藩伊達家、、、にも一萬石越える附家老や分家家臣がいた。
@豊作田平
@豊作田平 8 ай бұрын
岩国の吉川氏は、立藩は毛利家との関係性で出来てない だけど、幕府からはほぼ藩扱いで参勤交代も領の運営も独自でしてるし特殊な所 家老や分家家臣(完全な陪臣)と単純に比べられないよ・・・この動画の説明が悪いのが原因だけど
@hirohiro1770
@hirohiro1770 8 ай бұрын
一応各藩調べたことがあるけど、30万石以上だと1万石以上の知行を持つ家臣の家がある。それ以下だと確認できず。1万石以上の家臣の家は維新後に男爵になってて華族扱い。 吉川家以外でも御三家の附家老家は維新後すぐに大名扱いされてるし、徳川幕府からも一応大名扱いされてた(段々薄れていったという説もあるが)。吉川家と附家老は子爵扱いだったはず。
@芳博
@芳博 14 күн бұрын
@@豊作田平元々は吉川広家が長州(長門、周防)を領有する予定だった。
@tekikaku8675
@tekikaku8675 7 ай бұрын
大名であるより、徳川家に気に入られるのが重要😊
@弾正だんじょう
@弾正だんじょう 8 ай бұрын
冒頭の信頼できる家臣に土地を与え代わりに支配してもらう。と聞くと代官のような感じもするな。 とはいえ採れた米は、その藩の物で将軍には参勤交代で軍事的奉公やから、やはり諸侯なわけか。
@yamato3228
@yamato3228 14 күн бұрын
一橋家に後継ぎがいなかったから、慶喜が養子に入れたんだろな 皇族でも、次男三男は長男のスペアだがら、それらが源氏や平家になっている 長男に子が出来たとしても、当時の乳幼児の死亡率は高いから、次男三男もそれなりの女性と生殖活動していたかもしれないが、そんなに養子の口もないだろから、その子らの身の処し方が気になる 幕臣の最下層の御家人の次男三男は商家に奉公して町人になったらしい
@kazuenokamikato3171
@kazuenokamikato3171 12 күн бұрын
倒幕は水戸家(御三卿を介して間接的に)から将軍が出て早まったという説があります。家康の構想は水戸家は将軍は決して出さずに勤皇に徹する役割だったようです。それを壊した元凶が吉宗。自分の血筋で将軍を独占することには成功しましたが、結果的に幕府の寿命を縮めた可能性があります。6代の将軍が自分の子孫。慶喜の一橋家入りは父の烈公徳川斉昭の野望でしょうね。
@島秋春
@島秋春 7 ай бұрын
最初の大名の定義からして?ですね。1万石以上の領地を持つ者で親藩は徳川家の血筋、譜代は徳川の家臣で1万石以上になった者(家臣団でも三河以来、安城以来、岡崎以来などと言い合ったりする)、外様は徳川が領地を安堵した者(関が原以前以後で分けるのはおかしい)で徳川から領地を貰ったわけではない。主従関係はかりそめでしかない。でないと幕末の薩長は主人を討った謀反者となってしまうね。
@小明神
@小明神 8 ай бұрын
ところどころ字幕との読み違いがあるので、修正希望です。
@nanashinogon2011
@nanashinogon2011 20 күн бұрын
逆にうちみたいに5000石なのに大名扱いされて参勤交代もさせられていた
@ほほほたか
@ほほほたか 7 ай бұрын
23:09 自分用
@岩本泰向
@岩本泰向 8 ай бұрын
水戸家は、副将軍で将軍家には、当初ならない家。
@吉野正洋-k5g
@吉野正洋-k5g 6 ай бұрын
新田藩。 岩崎藩三万石(秋田藩で世子無き時は此処から入る) 米沢新田藩一万石。 (此処も本家に世子無き時は此処から入る)
@susa2439
@susa2439 4 ай бұрын
夏の陣の件は吉川広家はブチ切れて隠居したんじゃない?
@満典富永
@満典富永 7 ай бұрын
将軍の代替わりで取潰された大名はどのくらいいるのですか? 家康から秀忠。   この時は親藩、譜代も。 秀忠から家光。 家綱から綱吉。 綱吉から家宣。 家継から吉宗。 吉宗から家重。 家定から家茂。 他にもありますか。 まさかーーー将軍家の御家騒動で。 綱吉の時はーーー。 相手は下馬将軍と云われた酒井忠清。 5代将軍には京都から。 というのは本当ですか? それを阻止したのが堀田正俊ーーーですか。 井伊?は。 黄門様は? 隠居してーーー跡目は兄の息子。 何かあったのですか? (それにーーー黄門様の兄はーーー確か跡目が継げずーーー黄門様が。 いつでしたか?) この時は譜代、外様含めて相当な数の大名が。 上杉が知行半減。 藩主が吉良からとなったのは。 いつでした? 元の藩主はどうなったのですか? 改易されたのは外様より譜代の方が多いーーーというのは本当ですか? まあ御家騒動。 勝てればいいですが。 応援してくれた大名は譜代でも、外様でも。 親藩、御三家でも。 優遇? それが普通ですか。 反対側についた大名は。 改易ーーーということは? 親藩、譜代、外様などーーー関係がーーー。 綱吉の時は。 紀州は。 尾張、水戸は? 6代家宣の時は。 紀州は藩主で兄の綱教(1705年5月)も頼職(よりもと1705年9月)も急に。 父親の光貞(1705年8月)もーーーですか。 そしてーーー父や兄たちに疎まれていたーーー。 四男の吉宗がーーー疎まれていたのに? 紀州藩主に。 大変?てしたか。 まあいいか。 こういう事はよくあるのでしょうか? 応援してくれた大名は優遇されたのでしょうか? まあーーー思いつきです。 14代家茂の時はーーー。 確かーーー。 慶喜が14代を争い。 よく薩摩も水戸もーーー大丈夫だったのですか? 反対派の大名は潰さないとーーー幕府の政権維持がーーーといったことは。 他の誰かをたててーーー謀叛ーーーなどということは。 その後、薩摩と水戸の脱藩浪士による桜田門外の変。 薩摩と水戸の藩主が急に。 跡目もーーーどうでしたか? 一橋は? まあ将軍家の御家騒動などーーー表には。 まあーーー冗談です。
@yorksonoda
@yorksonoda 8 ай бұрын
御三卿は「御家族」とも言うね
@満典富永
@満典富永 6 ай бұрын
大名の家臣の禄高はどうなっているのですか? 何人くらいいるのですか? 例えばーーー。 ◯◯万石なら家臣は何人。 家老は何人で禄高はこのくらい。 奉行なら。 百石取りが何人、 二百石取りが何人とか 決まっているのですか? 大石内蔵助は確かーーー浅野53000石の筆頭家老で禄高1500石。 大石自身の家来(陪臣)は何人いたのですか?その禄高は? 大名は古は名田を多く有せるものの称なりしが、 あと転じて守護地頭の称となり、 徳川氏に及びては家禄万石以上のものを称す。 古事類苑13 p1663(国会図書館) ◯摂津微書 巻86-87 関白摂津分限帳 摂津寺社領 古事類苑41 産業部 p186 付農人 p189 松の落葉 によれば 百姓の名の由来が。 しかし班田収授の頃は◯◯と農民しかいなかったんですか? 藩士人名辞典(国会図書館)を見ると。 二本松藩十万七百石では。 家老が16人もいるんですね。 その知行は。 さらに 二本松藩史(国会図書館)  p742 家中知行(戊辰当時)によると。  p740 兵制ーーーというのも。 いろいろーーー。 和歌山史要  p50あたりにもいろいろと。 職制ですか。 目付はこのような役割りをーーー。 とか。 町奉行はどうですか? 禄高は。 他の藩はどうですか? まあいいか。 殿様の取り分は? 旗本ではどうなっているのですか、 適当な資料が? 国会図書館デジタルーーー  分限帳(沼田分限帳というのもあるようです) 検索条件を追加 クリック タイトル 分限帳  検索。 他にも 藩史 県史 知行 で検索してもーーー。
@桂鶴禿
@桂鶴禿 4 ай бұрын
松平と前田から取って松前と名乗ったとも。
@花村政彦
@花村政彦 Ай бұрын
蝦夷松前藩ですね 元は蝦夷武田家。 1600年に松前性を権現様よりいただきましたが1800年代に22年程磐城梁川藩となり再び松前藩に戻り「廃藩置県」まで納めておりました
@harukasama76
@harukasama76 8 ай бұрын
皇室も1~3万石の御料地を有していましたよね。もちろん徳川将軍のほうが名目上は臣下なんですけど。
@user-hirotaka0123
@user-hirotaka0123 8 ай бұрын
喜連川藩は? あと、万石級の陪臣でも成瀬氏は前田とかの陪臣とは事情が違うから紹介に値する藩だと思います
@darumayun6448
@darumayun6448 8 ай бұрын
喜連川藩はむしろ逆では? 1万石に満たないのに大名扱いされていた。
@もりけん-x9f
@もりけん-x9f 6 ай бұрын
5千石で10万石格だったと思います。
@catcider
@catcider 4 ай бұрын
諸侯と将軍の関係性が違うと思います。
@友之森田
@友之森田 8 ай бұрын
輝元君、大阪城で、こっそりと、悪巧みをやらかしてらしいんだが、
@森岩光
@森岩光 8 ай бұрын
徳川幕府ご三家の付家老()たちも 大名並み。 ちょっと変わった?ところでは 最後の切腹事件となった 徳島藩のお家騒動の元となった 藩主の蜂須賀家と 筆頭家老の 稲田家との関係。 そもそも蜂須賀家は 木曽三川地域の土豪(地侍、国衆)だった 蜂須賀小六を祖とする家。 この蜂須賀小六さんと五分五分の義兄弟の契りを交わして付き従ったのが 稲田某氏。 羽柴(豊臣)秀吉と行動を共にして 出世街道をかけ上った二人。 義兄の蜂須賀小六が大名となる際、 義弟の稲田某氏にも同様に大名へ冊封する打診が当然有りましたが、 義兄弟の信義を押し通して 大名には成らずに 蜂須賀小六に付き従う事を選んだ。 蜂須賀家が阿波国20万石と淡路国6万石余を領する大守、大名となって 稲田家はその信義に報いるため、 筆頭家老の要職に加えて 藩内の最重要な要所(生命線)である 脇町(藍の集積地)と淡路国(淡路島産米は一級~特級をキープした高ブランド(高く売れる)米)の約1万3千石?の知行を与え 須本(洲本)、脇町の城代とした、 稲田家にもたくさんの家臣団が居り、 今の正社員と派遣社員の様に 本藩の家臣団と 家老家の家臣団がほとんど同様の仕事をしていて、 蜂須賀藩の中に 稲田藩がある様な無いような 鬱々とした関係(家老家家臣団は本藩藩士らに卑下された)が燻り続け 幕末迄つづいていた それに油を注ぎ煽った形となったのが 明治維新となり 廃藩置県の大号令 藩主の家臣(士族)にはわずかながら一時金の配給が保証されたが 藩主の家臣(家老家)の家臣は藩主からすれば陪臣にあたる 卒族とされて 一月程の報祿の雀の涙もない裁定に 稲田家家臣団は 淡路国を分離立藩して 卒族~士族へのグレードアップを企図して キャンペーンを展開したところ 稲田家老家が押さえている 生命線の脇町と淡路島が無くなる事は 徳島蜂須賀藩の破綻を意味する事や そもそものプライドが許さない 急進派の一団が洲本城下の 稲田家家臣団らをいきなり襲撃して 120名もの死傷者(稲田家家臣団側はほとんど無抵抗だった) を出す大惨事となった。 、、、庚午事変
@tuturatosonami-na8015
@tuturatosonami-na8015 8 ай бұрын
私の総年収は20石です✨@中小メーカー社員45歳😂
@pashirin
@pashirin 8 ай бұрын
10kg¥5000として150万円?😭
@だピョン
@だピョン 8 ай бұрын
関ヶ原の戦いで敗北した西軍の宇喜多秀家が、八丈島に配流され、刑が解かれた後、前田利常から10万石の大名への復帰を打診されるも、これを断って八丈島に留まったと伝わっていたり、山形・庄内には「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」なんて俗謡がある。「大名」なって享受するメリットって一体何か?
@弾正だんじょう
@弾正だんじょう 8 ай бұрын
旗本も殿様と呼ばれた。
@だピョン
@だピョン 8 ай бұрын
おやおや、ここでいう「殿様」とは、庄内藩酒井氏であることをご存じないとは困ったものだ。「旗本」どころか、れっきとした「譜代大名:徳川氏の家臣団のなかから大名に取り立てられた者」だ。
@岡澤泉
@岡澤泉 8 ай бұрын
徳川御三家は確かに徳川幕府にとって重要な「親藩大名」であったが同時に「紀伊徳川」「尾張徳川」については西国にあった事から徳川将軍家にとっては滅亡した豊臣氏に変わる「脅威=仮想敵」の存在にもなった。この2家が有力外様大名や京都の朝廷と結ぶ事を怖れたとか。
@えすい-v4q
@えすい-v4q 8 ай бұрын
でも幕府を倒幕に追い込んだのは 水戸学を始めとする尊王思想水戸徳川家という皮肉
@もりけん-x9f
@もりけん-x9f 6 ай бұрын
その尾張徳川家を仮想敵国としたのが三河岡崎5万石の水野忠善です。尾張徳川家が謀反を起こすことを想定して軍備の強化を行なったそうです。また、「例え尾張徳川家が攻めて来ても岡崎から一歩も通さない」と豪語していたという話もあります。
@まな-d9j
@まな-d9j 10 күн бұрын
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