【ゆっくり解説】魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所とは?

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にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】

Күн бұрын

Пікірлер: 132
@ひきがえる-e8i
@ひきがえる-e8i 7 ай бұрын
申し訳ありません、拝聴していろいろ考えていると長くなってしまいました。 「魏志倭人伝」中の行程内「到」の使用は2カ所だけで、「到」は「至」とは違った使い方がされているようです。「到其北岸狗邪韓國」の「到」は、狗邪韓國に着いたのと同時に「倭人の地」に着いたことを示すと考えられます。また、もう一カ所「東南陸行五百里 到伊都國」の「到」は、伊都國に着いたのと同時に、「女王國」に着いたことを示すと思われます。それは「伊都國」の説明の所に初めて「女王國」の名前が出てくることからも推察されます。それでは「女王國」はどういう国なのかを考えると、博多湾に面し、背振山地と三郡山に囲まれている「伊都國」「不彌國」「斯馬國」「奴國」の連合国で「邪馬壹國」(大連合国)の中心をなしていたのではないでしょうか。「魏志倭人伝」中の「邪馬壹國」を説明している「官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮」の4名の「官」の名前に呼応しているように思われ、「女王国」はこれらの4か国の代表で構成されているように考えられます。 また、「魏志倭人伝」中の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」の「南至邪馬壹國」の解釈は「帶方郡」を南の方角に出発したことを示し、「女王之所都」の「都」は首都という意味ではなく、「取りまとめる。統率する。」という意味があり「大連合国を統率する」の意味ではないでしょうか。「水行十日 陸行一月」は、「水行一日」を1,000里と考え、「帶方郡」から「狗邪韓國」までの7,000里を7日、「狗邪韓國」から「末廬國」までの3,000里を3日と考えると、「水行十日」は九州に上陸するまでの船による日数となります。「陸行一月」は、大連合国である「邪馬壹國」内の国々20数か国を巡るのに歩いて1月かかるとの意ではないでしょうか。里程で表した12,000里が、卑弥呼に謁見した魏の遣いが辿った道程であると考えられます。
@yam7243
@yam7243 7 ай бұрын
そうですね、魏志倭人伝の元になった資料が古くからの方角と日程と、新しい使節が残した里程と戸数の2つがあります。 女王國より北までは里程や戸数が表せたともあるので、逆に言えばそこに里程がわからない行程はないって事です。 日程の部分は帯方郡の南に倭人の国があるよ、30日くらいかかるかなで一セット。 悩む部分なんて一つもないですよね。 が元の文ですね。
@ひきがえる-e8i
@ひきがえる-e8i 6 ай бұрын
@yam7243さん、里程と日程の解釈の違いを理解していただきありがとうございました。 ちなみに「南至投馬國 水行二十曰」の解釈は、「水行二十曰」の内「水行十日」は邪馬壹國までの、帶方郡から末廬國までは同じで、末廬國から海岸沿いに九州を東に回り、十日で至る場所は宮崎と考えています。
@katumoku10
@katumoku10 4 ай бұрын
想像するのは自由ですが、事実に基づかない想像は空想とか妄想です。「邪馬壹國」(大連合国)と倭国の関係はどうなっているのでしょうか? 人が容易に持ち運べる遺物は補助的な物証ですが、卑弥呼の墓や卑弥呼に関する遺構や伝承・地名などがないと推論が正しいとは考えられません。書かれたものが無いならばウソと考えていいと思いますが、勝手に空想しても卑弥呼の墓にはたどり着けません。まずは候補となる墓、つまり径百余歩の冢をいくつか見つけて、どこがいちばん妥当性があるのかを議論する必要がありますね。卑弥呼の墓はどこですか?
@wajin5695
@wajin5695 4 ай бұрын
横からすみません、御説では合計10500里で女王国(入口)に到着したということでしょうか、であれば賛同します。女王国に到着したら、そこから先は距離の積算は不要だったと思います。万二千里は女王国が㑹稽東治と同じ緯度であることを、示そうとしたもので九州本島の何処かではないかと思っています。
@ひきがえる-e8i
@ひきがえる-e8i 4 ай бұрын
返信ありがとうございます。女王國(入口・伊都國)に到着するまでの里数の合計は、私は11,900里と考えます。それは「至對馬國・・・方可四百餘里」と「至一大國・・・方可三百里」の記載から、二つの島を正方形とみなし、その二辺を通ったと考えて、それぞれ800里、600里を合計に入れると、女王國の入り口まで11,900里となります。最後の100里は女王國内の移動の里数と思われ、伊都國から不彌國までの東行(行くという動詞がある)100里で、陸行や水行の表記がないので、魏の使者たちを迎える舟だったのではと考えます。彼らに長い距離を歩かせることはしなかったのではないでしょうか。  「女王国が㑹稽東治と同じ緯度である」とのことですが、魏志倭人伝に記載の「計其道里 當在會稽東治之東」の文の「計」とあるように、「道里を計ってみると」と解釈できます。これは帯方郡から女王國までの里数を単純に真っすぐ南に延ばすと、中国側では㑹稽東治辺りになると記載されていると思われます。里数で考えたとき、魏の使者たちは南方向だけでなく、東方向にも移動しているので、帯方郡から12,000里の場所は博多湾岸になると推察されます。
@yam7243
@yam7243 7 ай бұрын
魏志倭人伝の元になった資料が古くからの方角と日程と、新しい使節が残した里程と戸数の2つがあります。 女王國より北までは里程や戸数が表せたともあるので、逆に言えばそこに里程がわからない行程はないって事です。 日程の部分は「帯方郡の南に倭人の国があるよ、30日くらいかかるかな」が元になった資料の地の文なんでしょう。 大筋では悩む部分なんてないと思うのですが?
@yam7243
@yam7243 6 ай бұрын
裏取りに後漢書東夷伝と比較してみましたが、倭王のいる邪馬臺国は楽浪郡(帯方郡)から万二千里で、その北西の境界となる狗邪韓国まで七千里とあります。 楽浪郡から半島が七千里で、海を渡って倭王のいる邪馬臺国まで残り五千里って事です。 この事からも魏志倭人伝で九州北部で到着となる里程表記万二千里の後に書かれる日程が、それに続くものではない事がわかります。 倭王のいる邪馬臺国は万二千里で到着ですから。 問題をややこしくするのは、後の時代に書かれた史書は後のヤマト政権の主張をとりずっと昔から近畿に首都があったに記載をあわせている事ですね。 旧唐書は倭と日本の関係に疑いをあらわしていますが、他は面倒だし昔の事などしらんからかスルーしてます。 魏志倭人伝の日程表記は全体日程を書いたものか、後の時代の当時の首都近畿と読めるように書き足したものかどちらでしょうね?
@Beijaflor89
@Beijaflor89 7 ай бұрын
やっぱ宇佐に行き着くか。
@ユタカカワバタ
@ユタカカワバタ 7 ай бұрын
それはない!
@Beijaflor89
@Beijaflor89 7 ай бұрын
@@ユタカカワバタ ありまくり
@MIOWEST-s4v
@MIOWEST-s4v 7 ай бұрын
卑弥呼は豊国宇佐の豊玉姫で有る事は間違いありません。但し本人が九州は出先で奈良に本体があると魏に言ってる。金印のある場所が邪馬台国なら可能性が有るのは、宇佐安芸宮島奈良天橋立鈴鹿となる。意外と鈴鹿の可能性が1番高い。台与は宇佐女→ウズメとなって椿大神社で暗殺された。
@katumoku10
@katumoku10 23 күн бұрын
女王国の東渡海千余里でまた、倭種の国が在るという文章を勝手に無視することはできないですよ!九州説なら周防灘に面した皇室の祖廟宇佐神宮の在る宇佐説が最有力ですね!その奥座敷の宇佐市安心院町で卑弥呼の墓三柱山古墳が発見されてます🎉
@さっとん-x3t
@さっとん-x3t 7 ай бұрын
邪馬台国は本当は邪馬という国で、中国の使者「ここなんて国?」 邪馬の人「邪馬たい」 で邪馬台国になったという福岡説すき
@世利智英
@世利智英 7 ай бұрын
耶馬溪と言う地方もありますねえ。その当たりなのかも?
@tooeti8208
@tooeti8208 6 ай бұрын
台は、魏では中央官庁のあるところの意。台の読みは、卑弥呼の次の女王が台与(とよ)から分かるように、邪馬臺の読みはやまと。邪馬は、日本語の音で、ヤマ、つまり意味では山。邪馬臺は、中央官庁が山のなかにあるところ。例えば奈良。
@gorinbasi
@gorinbasi 6 ай бұрын
魏志記載の行程における「一里」は435メートルですよ、中国史研究家からも魏志の現代語訳からして疑問符がついており、そもそもスタート地点が帯方郡ではなく当時の魏の首都である洛陽から計算すれば自然とたどり着ける模様ですね。
@とも酉
@とも酉 7 ай бұрын
色んな思惑から自分の意とする所にしたいから解決しないと思われます。 この様に目的地までの距離を素直に解釈すれば、ある程度目的地の場所が解り、宇佐神宮があるのも納得です。邪馬台国の範囲は個人的には 両豊方言を使う豊前豊後の範囲に近いのではと思う。
@マッカレル-y2p
@マッカレル-y2p 7 ай бұрын
私も宇佐が有力と思います。 途中宇佐の近くに、書き方読みが違うが、耶馬渓(やばけい)という地名もあるし
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u 23 күн бұрын
吉野ヶ里が伊都国で水行10日185キロで薩摩川内20日黒潮利用して投馬国宮崎となります放射説を採用している陸行1ヶ月228キロで日田フミ国となります
@紋太-f6v
@紋太-f6v 7 ай бұрын
三国志(魏志倭人伝を含む)の評価は、新井白石以来、現在まで、分かりにくい、謎だらけの文章と評価されていますが、1800年前の評価として、文は、司馬相如ほどでは無いが、無駄無く、丁寧に書かれている。よって、陳寿の家に、文官を集めて、これを書き写させた。と言う、当時の皇帝の言葉が、今に伝わっています。又、三国志と、同時期に、魏書を書いた人物が、自分の書いた魏書を脇に置いて、三国志を読んだところ、読み終わった途端、自分の書いた魏書を放り投げた、と言うエピソードが、今に伝わっています。即ち、当時の史書を書くプロから見て、非常に優れた文章だったと言う事も分かります。何故、新井白石から、現代迄の魏志倭人伝に対する評価と、1800年前の評価が、こんなにも違うのでしょうか。そこには、現代の魏志倭人伝に対する読み 方に、非常に大きな齟齬が あるとしか、考えられま せん。本来、魏志倭人伝に 書かれている内容は、無駄 無く、分かりやすく書かれ ている筈です。当時の皇帝の言葉に従って読んで行けば、中学卒業程度の現代国語の学力と、高校で習った漢文の知識くらいで、無駄無く、丁寧に、分かりやすく書かれているのが、はっきり分かりますよ。読む視点を現代の地理的常識から、当時の地理的常識に、発想を変えるだけの事です。九州北、本州が南に連なって描かれている地図は、南水行なら、九州を真っ二つに分断して、水行し、その先に大きな陸地があったと、当時の人が、信じこんでいただけの事ですが、ただ、九州を真っ二つに分ける訳にはいかなければ、九州のへそを中心にして、80度から、90度時計回りに回転した地図を当時の人が信じこんでいただけの事で、そ の、水行の先の大きな陸地の果に、邪馬台国が、有ったと言う事に過ぎないと言うことです。本州も、九州に従って、80度、から、90度、時計回りに、回転していた、地図を当時の人達が、そのように、信じ込んでいたと言うだけの事ですよ。即ち、その陸地の果てに、邪馬(と)が有ったと、当時の人達が、信じ込んでいただけの事です。ちなみに、南は、東の誤字ではありません。現代の常識の東水行を当時の人達が、南水行と、信じ込んでいただけの事です。今の別府辺りに、末羅国が、有った事になります。但し、一大国の南千里に末羅国が有った、と書かれている事から、当時の地理感は、回転させた九州を更に、百数十キロ程、そのまま西に、スライドさせた地理感を持っていたということになります。よく一大国と、末羅国の実際の距離が、千余里とされている魏志倭人伝の記述より、短いのではないか、と言われますが、これで、解決出来ますよ。
@shyrook
@shyrook 4 ай бұрын
九州の松浦辺りは地名の方角が「90度ずれている」と言う話もあって、当時は日本列島自体が時計回りに90度ズレていたとか、古地磁気を調べると方位が変わった痕跡もあって、そんな話の根拠にもなっている。
@cowboym941
@cowboym941 7 ай бұрын
もう一個思うのが中国人の国と日本人の国の価値観かな…本当に国家としての国で良いの?国だったら邪馬台国に案内する理由がないと思うの。
@wajin5695
@wajin5695 4 ай бұрын
里数の部分は、1里を77m位(短里)とすると何故か近代地図に符合します。短里は制定されいないのに、なぜ77mを使ったのでしょうか。実は一寸千里法で測量を行うと、必ず短里になります。方法は簡単で、南北2箇所の、80寸棒の影長の差を寸で測ると、これが里数になります。1里が77mというのを知らなくてもOKなのです。  例として、糸島と種子島の陰長差は4寸、つまり4000千里を意味します。一寸千里法は、原理的に南北距離のみ測れ、東西は三角関数等で計算するしかないです。一寸千里法は工夫次第で、毎日測れ、雨天回避、一人の測者、無線通信不要、長里と短里の変換が行えます。  なお影長はExcelでも計算可能、80 x ta(緯度-23.44度) 洛陽34.75度で影長は16寸となります。 追伸:関門海峡が安全に通れるようになったのは明治からと思います。
@世利智英
@世利智英 7 ай бұрын
当時の距離はともかく、方角は間違えないと思います。
@SSD2000G
@SSD2000G 4 ай бұрын
邪馬台>ヤバタ>ヤハタ>八幡 宇佐が女王国ですね。
@PK-rl2jk
@PK-rl2jk 6 ай бұрын
あのね、 宮内省が もう少し 古墳、調べてOKとか あと、古事記、日本書紀をもう少し噛み砕こうとか そう思えたら 2/3くらい 判明するんちゃう? と 思う 今のアタシ達さえ 古代の物語の書記 違うんちゃう?本当はこーなんちゃう? って想像できるでしょ?
@iricotaketo2138
@iricotaketo2138 2 ай бұрын
方向も距離も地名を規模も何も合って無い
@ねるさん-c1k
@ねるさん-c1k 7 ай бұрын
朝鮮半島や対馬国や一支国まで南東と書かれていて方角も南東へ行っているのに、末盧国から南東と書かれているのに何で北東へ行くの?次も南東って書かれているのに北東へ行くの?そもそも末盧国の場所が違うから合わないんじゃないですかねえ。今の地名に似てるからというのは安直かもしれませんねえ、出雲大社も明治に杵築大社から出雲大社へ改名してたり、橿原神宮も明治に創建されてますし、明治にいろいろ名前が変わってるかもしれまんから。
@かたひらかたひら-s1l
@かたひらかたひら-s1l 7 ай бұрын
関東で何故茨城県だけが畿内説を信じてるの? 現在の教育がわるいのか??
@なおなお-g1n
@なおなお-g1n 7 ай бұрын
12000余里という距離の記述が正しいなら畿内はありえないからね
@yam7243
@yam7243 6 ай бұрын
後漢書東夷伝は万二千里で倭王のいる邪馬臺国に到着しますね。
@たこやきイズム
@たこやきイズム 7 ай бұрын
歴史書って言っても100%真実ではないだろうね。 ましてや辺境の国の記述なんかはあいまいなことが多いと思うけどね。 朝廷側としては遠くの辺境地まで威勢が届いていると多めに書いてもおかしくないしね。 派遣された人物も辺境の地に送られるなんてやりたくないだろうから、行程も適当な可能性も 有るし、多めに言って朝廷に自身の仕事の困難さを主張したり、朝廷の意向を汲んで報告した可能性もあるからね。 報告の概要に沿った遺物でも発見されないと答えは出ないだろうね。
@fujidido27
@fujidido27 6 ай бұрын
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが? 理由は下記です。 道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。 よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。 また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。 末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。 詳細を記述したホームページは「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
@爆弾鬼斬り
@爆弾鬼斬り 6 ай бұрын
魏の人間は実際行ったのは「いとこく?」とかどっかそこらへんまでで、あとは倭人から聞いた大体の位置の方位と掛かる日数だけ大雑把に記述したって話聞いたことあるけど、大分だと「いとこく」から行くの簡単だから直接行けばよくね?  東に海があるって記述と山に囲まれてて行くのが面倒な宮崎が1番可能性高い気がするんだがその説はどう思います?
@イトーヨーcard
@イトーヨーcard 7 ай бұрын
魏志倭人伝📖は話半分で聞いた方がよい😅
@鈴麗リンリー
@鈴麗リンリー 5 ай бұрын
本拠地が九州、実際政治をとってたのが近畿。以上
@あいう工夫
@あいう工夫 5 ай бұрын
意味不な主張ですね❤
@鈴麗リンリー
@鈴麗リンリー 5 ай бұрын
@@あいう工夫 イミフもクソも日本書紀に書いてある通りですよ。 九州から東征して橿原の地で即位した。
@あいう工夫
@あいう工夫 5 ай бұрын
本拠地とはなんですか? 実際政治をとっていたのは本拠地とは違うのですか? 九州が本拠地なら、橿原とかで即位しても、ずっと本拠地は九州で良いのですね? どうのこうのいう前に 他人の査読に耐える文章を書くのが先だと思います。
@鈴麗リンリー
@鈴麗リンリー 5 ай бұрын
@@あいう工夫 そっち? 日本書紀の神武東征読め。 自分がむしろ言いたいのは 台与がトヨなら邪馬台はヤマトなんじゃねえの普通にってとこかな あと年代は持ってるとしても東征自体は歴史的事実を元にして書かれてると判断しました。
@あいう工夫
@あいう工夫 5 ай бұрын
まともな日本語の文章書けるようになってから、何かを主張してください。 日本書紀とか読んてるかも怪しいと思われる知性を疑われるレベルの文章です。
@cowboym941
@cowboym941 7 ай бұрын
使者の記録には聞いた話や又聞き憶測も混じってるとかそもそも使者は行ってないとか…
@matukawatositane
@matukawatositane 7 ай бұрын
司馬懿の功績に関わるのでな(西方平定した曹真よりも大きい功績にしたいので
@hogohogehage
@hogohogehage 7 ай бұрын
USA o彡゚USA o彡゚USA o彡゚
@カムイ-j3p
@カムイ-j3p 4 ай бұрын
どっちもどっち。阿波あたりかな。
@moipa808
@moipa808 7 ай бұрын
四国
@トミヤマサキオ
@トミヤマサキオ 7 ай бұрын
邪馬台国の一番ダイレクトにかかれた情報は70000という戸数ですよ。それと卑弥呼が用いた鬼道。この条件を満たせるのは畿内しかないけどな。
@あいう工夫
@あいう工夫 7 ай бұрын
何故、畿内しか無いと言えるのか判らないが。 畿内確定と言える能天気さが裏山しい
@トミヤマサキオ
@トミヤマサキオ 7 ай бұрын
@@あいう工夫 そりゃ神獣鏡が畿内中心に出土するのだから。三世紀の鬼道イコール初期道教以外に何があるの?魏志倭人伝しか読まず三国志の事を理解しようとしない連中が私には全く理解できないですね。
@あいう工夫
@あいう工夫 7 ай бұрын
北九州・丹後・越のすでに農業や工芸にまで鉄器を使用している鉄器文明にくらべ纒向なり奈良は石器時代として差し支えない度人ランドなのだ 世界史上、一度でも石器文明が鉄器文明を凌駕したり、政治的・軍事的影響力を行使した例があるか挙げてみろ 纒向なりも含めてだ! 寝言を抜かすな
@トミヤマサキオ
@トミヤマサキオ 7 ай бұрын
@@あいう工夫 まあ戸数と鬼道について本当に反論出来ない、という事ですね。
@低力非摩擦ボルト
@低力非摩擦ボルト 7 ай бұрын
お前ら倭人伝のせいで一族殺されでもしたのか?
@いでたかゆき-r8i
@いでたかゆき-r8i 7 ай бұрын
ーコメです
@あいう工夫
@あいう工夫 7 ай бұрын
何故、不弥国が海に面した港湾都市だと考えられるのですか? 論理的に答えにたどり着くのでは無く、 そうあって欲しいというモノに合せているからです あなたの行程では、末盧国や伊都国に行かず、一支国から不彌国なり、宗像方面に行けば良いですね 対馬海流が北側に流れるのでそのほうが簡単に航行できますし。 末盧国・伊都国・不彌国に立ち寄る必然的理由がない、 帰り道?ですか 軍事目的なら尚更です もう少しはレベルアップした言説にして欲しいモノです。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 7 ай бұрын
九州説近畿説は新説でもなんでもない。KZbinrならもっと面白いこと言おうよ。大学とかからお金をもらっていないのだから。 そもそも時代の違う記紀をいくら見ても邪馬台国は分からない。それはもう江戸時代から検証し続けてある程度結果が出ている。 どういう訳かほとんどの人が西日本しか見ていない。それは現代日本がある意味ヤマト政権の延長なのだからか。 例えば北九州が邪馬台国だとした場合、三韓の一つ分しか勢力範囲しかない。大月氏国に比類しない。四国も同じ。四国が皇統の一派なのは疑わない。 常陸国が邪馬台国。そして、日高見国であり、伊勢より古く鹿島香取神宮がある。狗奴国は千葉県。阿波忌部氏が数多くの前方後円墳を作った。 女王国は出雲から越、東北地方の日本海ルートに住んでいた東テイ人たちを含む東日本。 東テイ人は海洋民族で、出雲が耕作面積が少ないのに王国を作っていたのは漁業と海洋貿易で栄えていたから。
@あいう工夫
@あいう工夫 5 ай бұрын
私は、邪馬台国がどこにあろうが構わないが、 湯水の様に無茶苦茶に橿原や奈良・畿内説に資金やリソースを長年渡り他の候補地とは桁違いに投入しても、 出資者であるオーナーの国民は 畿内説を評価も信用もしていない。 そして、 九州説を支持している割合が高い。 そして、諸外国と隔絶した巨額の資金を欲しいままとしながら理論・論理無き姿勢から、諸外国からも「考古学では無い」と、批判されている状況です。 確率的情報量からも、畿内説は確定には程遠い、空虚で内容のないデータを膨大に積み上げたが、それ故、畿内説の情報の価値は、他の九州・丹後・高志のデータと比べ著しく、価値を失っています。 なので、国民の多くの支持が有る九州に優先的に公的資金を投入すべきであり、畿内説関係なり機関は縮小でよいと判断します。 だから、私はどの説を押すわけではないので、 関東説も支持する人が多数になったら予算配分されるべきだと思いますよ。
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