【ゆっくり解説】邪馬台国90度回転説

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れーしch【歴史】

れーしch【歴史】

Күн бұрын

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@PS-ot4bx
@PS-ot4bx 11 ай бұрын
九州論者なのに畿内論の要の回転説をめっちゃ詳しく解説してくれる主マジで尊敬
@tea5778
@tea5778 Жыл бұрын
沖縄に行ったとき現地ガイドさんが「沖縄方言で東をアガリと言います。太陽が上がって来るから。なので西は太陽が入るのでイリ。北をニシと言うんですよ。」と聞いて、「だから『イリオモテジマ(西表島)』と言うのか!」とナゾが解けたことがあった。そういえば南がフェーまたはハエ。南風原(ハエバル)町があったね。
@デルアラン
@デルアラン 11 ай бұрын
北は枕を向けない位置。ニシをひっくり返したら、シとニになります。
@asa01053
@asa01053 5 ай бұрын
​@@デルアラン北枕が健康法です
@User-QJePQUpkQM
@User-QJePQUpkQM Жыл бұрын
この動画では北を常にニシとしていますが、方言みたいな感じで九州と近畿(本州)で方角の表現が違っているとしたら、仮に若狭あたりに上陸するまでは九州で雇った九州の水先案内人がいて、その人の話を聞いて現地の地名を記録した。上陸後は現地(本州)の案内人がいて、その人の話を記録したとすると、動画の途中で方角の解釈が変わるんじゃないかと思いました。使節の人も記録した土地すべてに実際に赴いたわけではないと思うので。
@平善之-b4o
@平善之-b4o 10 ай бұрын
松浦郡の東西南北に関しては完全に間違っていますよ。あれは大きな松浦郡があってそれが「東西南北」に分割されたのでは有りません。Wikiにも書いてありますが、元(明治初め頃)は唐津県、厳原県、佐賀県(第1次)、小城県、蓮池県、平戸県、福江県だったものが廃藩置県や合併に際して松浦郡になったものです。そして長崎県庁に聞いたら正しく教えてくれるはずがありません。なぜならあの辺は佐賀と長崎が分捕り合戦をしていた地域ですから。多少(分捕り合戦の都合上)範囲がずれたりしますが、概ね元は佐賀(正確に言うと伊万里県)の領域が東松浦郡と西松浦郡でこの範囲の中での東と西、長崎(昔の長崎県)の領域の中が北松浦郡と南松浦郡でこの範囲の中での南と北、つまりそれぞれ(明治初期の県)の中での方位であって他県の同名の郡とは関係が無く、長崎の松浦から見て佐賀の西ではないのです。そんな大人の事情を県庁の人が正直に言うはずが無く、また若い職員は知らないと思います。今の人には分からないと思いますが、長崎は江戸時代には佐賀の竜造寺氏にいじめられていて相当に恨みが有ります。長崎新幹線(正式名称は違いますが長崎の人はそう思っています。)は佐賀の部分は新幹線ではないでしょう?よく長崎の古い人は「佐賀んもんの通ったあとはくさもはえん(生えない)」と悪口を言ったものです。だから方位を間違えたわけではありませんよ。
@のうない-e5e
@のうない-e5e Жыл бұрын
邪馬台国に敵対する国の首長の名前が上代東国語で解釈できるとか何とかで,回転説もなかなか説得力を持ちますね
@kats.sakuma
@kats.sakuma Жыл бұрын
これもうだいぶ前(30年くらい前)に知った話なんですが、未だに一般にはあまり知られていないんですよね。
@kumo-main
@kumo-main 11 ай бұрын
魏志倭人伝には、実際に魏の人たちが行動した部分と、、現地人(現日本人)から伝え聞いた部分があるのではという説を動画で見たことがあるので、そう考えると、部分的(主に倭国以降の部分)の方角の食い違いは一考の価値があるかもとも感じます。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
動画「遂に解明」邪馬台国はココにあった(15:20~)の「中華古文の道行き記述ルール」で倭人伝を読めば、正しい行程がわかる。 則ち、唐津末盧国からは、主線行程東南陸行500里37.5km で佐賀大和町川上の伊都国に到る。 其の東南傍線行程100里の佐賀城付近には奴国2万戸があり、 再び主線行程の伊都国にもどって、東行100里して吉野ヶ里不彌国に至る。 不彌国からは四至(東西南北)の周辺国説明となり、南至の宮崎投馬国と、同じく南至の熊本邪馬台国女王の都が併記されている。
@あや-t2v9v
@あや-t2v9v Жыл бұрын
3世紀の日本はそれまでの日琉祖語から「日本語族」と「琉球語族」へ分岐しようとする時期と考えられています。分岐後、琉球祖語の話者たちは何百年間かは九州内部に留まっていたと考えられており、沖縄へ下ったのは10〜11世紀と言われています。3世紀の九州では、現在の沖縄に残る言葉の原型が数多く話されていたのではないでしょうか。
@あしがる-x9f
@あしがる-x9f Жыл бұрын
言語の解釈からひも解くというのは、考古学だけでは難しいので新たなアプローチとして面白いし、核心をついているのではとも思います。 他の文献や方言から検証ができれば面白いのですが。
@ジンジャー-e2e
@ジンジャー-e2e Жыл бұрын
北を西と呼ぶなら、まさに西側が南蛮になりますね。面白い!
@toshirouhorino
@toshirouhorino 10 ай бұрын
そうすると、倭人条の末盧国の全体は、 東松浦+西松浦=伊万里県と見るのが無難な処でしょうか??
@Lfaksd
@Lfaksd Жыл бұрын
日数になっている投馬国と邪馬台国の起点を帯方郡とした場合は90度回転説だと投馬国が済州島(済州島だとしたのは「投馬」の上古音がいくつかの再構では耽羅につながりそうな「トムラ」と読めそうなものとなっているため)、邪馬台国が豊前で、倭種の国は山口県あたりとなり、伊都国もしくは不弥国からだとしたら投馬国が出雲、邪馬台国が讃岐あたりでこちらの場合倭種の国が岡山県あたりになりますね。
@iricotaketo2138
@iricotaketo2138 7 ай бұрын
江戸時代に長崎で出版された「九州九ヶ国之絵図」というかなり正確な地図も、北が西側にズレてます
@ちゅん太-f2e
@ちゅん太-f2e Жыл бұрын
邪馬台国論争の中で混一彊理歴代國之図はしばしば取り上げられ、畿内説補強に使われてきたが正解だと思う。またツヌガアラシトは「角がある人」のことだとする説が妥当だろう。そして一大率は後の大宰府の「大宰」という訳だ。七万戸を奈良と周辺に充てるのも、奈良時代の人口想定によく合う。
@te2ya2039
@te2ya2039 Жыл бұрын
90°回転説、私の記憶では、30年前に廃刊したワンダーランド誌(ムーのライバル雑誌)で、あすかあきお氏のショックサイエンスという連載漫画で見たのが初見でした。面白い漫画だった。
@バカボケ男
@バカボケ男 11 ай бұрын
ワンダーライフですね。
@舘田真弥
@舘田真弥 Жыл бұрын
遂にKZbinでこの説が取り上げられ、嬉しい限りです。(もしかしたら他の動画が上がっているのかも知れません💦)飛鳥昭雄氏の逆転日本史説がいよいよ日の目を見る日がやってきましたね。
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
最も信憑性が高い説ですからね
@ren11270
@ren11270 Жыл бұрын
読み物としては、面白いです。客観的証拠が何一つ無いので、一つの考え方であり妄言とも言えますがロマンはありますね。
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
@@ren11270 フィリピン海プレート形成が約2000年ですが 逆に2000年前の日本列島がどの位置に有ったか 日本列島が移動した痕跡が有りますので 海底地図を見たら面白いですよ
@yasu6669
@yasu6669 11 ай бұрын
@@ren11270 客観的証拠が無い? 日本や中国の古地図で日本が逆さまに書かれているという物的証拠が提示されているんですが?w
@o9q-b7h
@o9q-b7h 3 ай бұрын
薄い証拠ですね…
@nurechin
@nurechin 2 ай бұрын
12:49 この地図の中央下の小さな島がぎゅうぎゅうに集まっている場所が上海で、そこから左に海岸線を進んだ角にある大きな島が海南島です。 つまりこの地図は上半分は上が北になっていて下半分は右が北になっているという歪んだ地図なのです。 ウリカトル図法を信じてはいけません。
@harukasuzuki3939
@harukasuzuki3939 11 ай бұрын
面白いです
@keeperofthe7keyspart
@keeperofthe7keyspart Жыл бұрын
ついこの前のブラタモリで若狭湾がでてきてましたね。 奈良時代に渤海からの外交使節が敦賀に頻繁に来てたとか、琵琶湖よりも波が静かで港しての利点があったとか興味深い内容でした。 20:26 「(大率は)伊都国を治所とし刺史のようである」という記述が魏志倭人伝にありますが、これを邪馬台国の近くに伊都国が無いためだという文献解釈があります。 興味のある人はゲームさんぽの三国志専門家でもおなじみ渡邉義浩氏の「魏志倭人伝の謎を解く~」の第五章を読んでみてください。
@hu6064
@hu6064 Жыл бұрын
歴史への招待で軽く触れられていた説ですね。
@デルアラン
@デルアラン 11 ай бұрын
投馬国は音の感じなら、対馬!?。邪馬台国は大和大国、すなわちヤマト(朝廷)!?。このゆっくり解説を観ながら、そう感じました。
@kghr_9001
@kghr_9001 Жыл бұрын
とても興味深く見させてもらいました
@雲竜寺ミサキ
@雲竜寺ミサキ 11 ай бұрын
琵琶湖は近江だから昔は海扱いでいい気がする
@武田佳裕
@武田佳裕 Жыл бұрын
確かに、邪馬臺=ヤマタイならば、日本列島上の北海道から沖縄迄の何処に有ったとしても構いませんよ。でも『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国とは、3世紀当時の中国人が聞いた倭人の発音を表音表記したもので、現在の日本語表音では『ヤマト』です。また、魏志倭人伝で、伊都国=糸半島=当時は糸島を起点として東西南北 の方位表記が90度反転されているのは、魏志倭人伝が記された時点で、厳然として、魏王朝の最大敵対国としての『呉王朝』が健在であり、どうしても呉王朝の東岸沖合の地に魏王朝の親藩国としてのヤマト国が存在しなければならなかった からです。現実に、当時の呉王朝側は、東岸沖合に存在する筈の幻の邪馬臺を探し求めて『大船団』を派遣している訳ですよ。
@sayanerogoo
@sayanerogoo Жыл бұрын
「太陽が登る方向が東」というのは古代でも間違うことはないと思うんですよね そのうえで北のことを「ニシ」と呼んでたとしてもそれが北を意味してることは魏の使者の世話人になるような人なら当然理解してるわけで 魏の使者に自国と周辺国の説明をするときに方角を90度ずらして説明することはないのでは 方角が古代では正しく判別し難いものならともかく、とてもわかり易く簡単に判別できるんだから回転説はないんじゃないかなあと思ってます ずいぶん後になりますが「日出処の天子」の時代には中華の東に倭国があることは大和の人も隋の人も理解してますよね この間のどこかで方角を正しく認識し直したのならそれにまつわる逸話がなにか残ってるのではとも思います
@nnkk8888
@nnkk8888 Жыл бұрын
この方言で思うのは沖縄の方言で北をニシ、西をイリもしくは別の言葉で呼ぶと成立しないし、北をニシ、西もニシと呼ぶと方位の説明ができませんよね。
@takeshi492
@takeshi492 Жыл бұрын
弥生時代の言語の基礎をまとめた長田夏樹氏の「邪馬台国の言語」ではヒナ(西)は「右」を意味してアヅマ(東)は「左」を意味したとありました。これはアルタイ語系の言語に見られる特徴で進軍する際に左翼右翼と中央後方の本軍に北と東西を同義語で表す習慣が古代朝鮮語や上代日本語にも同じく残っていたそうです。多分沖縄のニシは「主ぬし」の意味だと思います、私の住んでいる千葉県では「あなた」を「ニシ(お主)」と言います。ルーツをたどると、ニシは進軍する際の主軍の位置を指していたのでしょう。
@無用天地-s8p
@無用天地-s8p Жыл бұрын
90度回転説は、昔 飛鳥昭雄の漫画であったな~
@浅井勝幸
@浅井勝幸 Жыл бұрын
なるほどー。 当時の歴史書に書いてある記述は当時の地図で解釈しなければならないですね。納得。
@東西南北-d8s
@東西南北-d8s Жыл бұрын
その説には全面的に賛成です
@nnkk8888
@nnkk8888 11 ай бұрын
ただ、混一疆理図は邪馬台国の時代の千年後の地図で、方位が現在と同じ地図が複数見つかっているので、余白の関係で日本の方位をずらして書かれたのでは?と考えられていています。
@behappy510
@behappy510 Жыл бұрын
古代史系ゆっくり解説、飛鳥情報で他のチャンネルよりも早く真実に近づけるから頑張って欲しい。
@iharuhib3102
@iharuhib3102 6 ай бұрын
私の私見ではありますが地図が残っているのであれば解釈として成り立つと思います。それを踏まえ広がり方として鯨面文化、遺伝子、言語物理学、もちろん考古学も含めて総合的に見るなかで言語物理学を中心に見たとき、 遺伝子と言語物理学では縄文文化が関東以北、九州では大分、宮崎福岡、鹿児島で色濃く、残っています。 言語物理学と鯨面文化のない文化圏は四国(徳島、愛媛)、吉備(岡山)が色濃く見られます。 山陰、越(石川)あたり大陸からの移動によるものと考えられる言語の共通が多く見られます。 話がそれてしまってますが神武東征は90度回転させたら宮崎県高千穂から伊都国、つまり後に一大卒が置かれた場所ではないでしょうか?ハツクニシラスは伊都国と妄想してます。その後綏靖天皇からの欠史8代のおおむねを四国統一に費やし倭国大乱期は出雲王朝の討伐、開花天皇による東征はつまり四国から吉備との統合が東征にあたり、吉備と統合したヤマトによる出雲の討伐という国譲りと越神社でのハツクニシラスの祝詞発布。出雲討伐の同じ信仰(残党扱い)の部族ナガスネヒコどの戦いを経てヤマト中央集権化の一区切りではないでしょうか。 また倭迹迹日百襲姫は祭祀王の役目としてヒミコを名乗っていたのではないでしょうか。国(天皇または統治王)はヤマトにありましたが統治王開花天皇と祭祀王ヒミコは一大卒からヤマトまでをひとつにまとめあげたと妄想してます。ヤマト王権は統治王と祭祀王の両輪でなりなっていたと思います。 なので邪馬台国は(倭伊国、ヤマ卜イコク)伊とは聖職者の意味、また女性彼女の意味を持ちます。紀伊国、伊予国は聖職者、祭祀王の意味を持っていると思われます。ちなみに紀とは筋道や規則、まとまった意味を含みます。紀伊はあとからできた名でアマテラスを祀った後の呼び名と考えてます。 句奴国は90度回転させたらやはり諏訪、関東と思います。 ちなみに(毛毛)は百とも意味します。 百襲姫とは…祭祀王として何か百襲う功績があったのかもしれませんね。 私見でしたが90度回転させたらバチバチはまった気がしましたので妄想ですが長文失礼しました。 これからも楽しみに拝聴させていただきます😊
@asa01053
@asa01053 5 ай бұрын
鯨といえば、和歌山県の太地町立くじらの博物館
@asa01053
@asa01053 5 ай бұрын
襲うとは卑弥呼と同じように侮蔑していますので、縄文の民族ですね。
@alphinn111
@alphinn111 11 ай бұрын
私は鯨統一郎氏が短編小説としている180度回転説(厳密に言えば伊都国より先については北と南を読み替える説)が面白かった。それによると邪馬台国は岩手県にあったらしい。結構つじつまが合っているので「邪馬台国はどこですか?」興味のある方は一度読んでみてください
@楠ノ実
@楠ノ実 Жыл бұрын
近畿の国と関東の国同士でも当時の補給のメインは現地調達ですから不可能ではない(※戦略的に無理がないとは言ってない)ですね 途中の国を征圧するか同盟関係にある状態等でないと不可解ではありますが
@reizoukoreizouko
@reizoukoreizouko Жыл бұрын
陳寿、あるいは彼が参考にした資料の著者が思い描いた当時の日本列島が、いくつかあった地図のように向きのおかしいものだったとして、そのせいで報告された情報を、その地図に合うように修正した。とかなんですかねぇ。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji Жыл бұрын
沖縄では北→ニシ、東→アガリ、西→イリです。
@恙恙
@恙恙 Жыл бұрын
中国自身からして北に山が在って川は北から南に流れて居て欲しいらしく西が上になっちゃってる地図が有ったりするみたいですね😊
@寿くん-b1e
@寿くん-b1e Жыл бұрын
90度回転説とはまたユニークな説もあったもんだけど昔の地図がこんな変な描き方してるとは知らなんだなあ💦
@あや-t2v9v
@あや-t2v9v Жыл бұрын
邪馬台国周辺の国については 斯馬=三重県志摩 己百支=鳥取県伯耆 伊邪=愛媛県伊予 都支=岐阜県土岐 彌奴=岐阜県美濃 好古都=愛知県額田 呼巴=徳島県阿波 爲吾=三重県伊賀 対蘇=高知県土佐 鬼=和歌山県紀伊 巴利=兵庫県播磨 支惟=岡山県吉備 烏奴=山口県穴門(長門) ではないかと考える人もいます。 一大卒が大和から遠すぎるのは確かですが、この説だと山口県までが女王国連合の範囲内なので九州に対して睨みは利かせられたのかなと個人的には感じます。
@福竜-k6k
@福竜-k6k Жыл бұрын
気がついたら知ってる地図の北と南を当たり前に考えたら入ってきませんわな
@mer_chiba
@mer_chiba 7 ай бұрын
NHKで空白の4世紀の番組で、古墳の分布から狗奴国が東海地方以東の東日本にあったとされていたのですが、日本列島を90度回転して記述されていたとすれば、「南に狗奴国」と古墳の分布が矛盾なく説明できるので、正しいのでないかと思います。
@asa01053
@asa01053 5 ай бұрын
クナ、クナト
@ruru9197
@ruru9197 11 ай бұрын
原本(写本?)では邪馬臺(台の旧字)国ではなく、邪馬壹(壱の旧字)国(つまり、やまいちこくorやまいこく)と表記されてるようなんですが、そこは無視ですか?
@Tsubaki_chan
@Tsubaki_chan Жыл бұрын
北松浦郡では南風をハエと読むよ
@たなかさかな-b1l
@たなかさかな-b1l Жыл бұрын
「邪馬台国はどこですか?」って本でみたきおく
@醍奴舞斗
@醍奴舞斗 7 ай бұрын
魏志倭人伝の記述でどうやってコミュニケーションを取ったか…は不明ですが、倭語→朝鮮語→魏語と変換されたと予想しています。 松浦の人たちと朝鮮の人たちはそれなりに交流があったとされてますから…(出土品や記述等) なので、、上記手順で変換したとしたら、まず東西南北を間違えるはほぼ無いと思っています。 だから動画では倭国→魏語に直接変換できた場合の話ですかね! そうなったら、どうやって言葉を理解したのか気になるところではありますが…
@YO-high
@YO-high Жыл бұрын
これは面白い。なかなか鋭い視線だと思います。 意外としっかりした説だと感じました。 で、思い出したのが、、五行説ってやつ。(以下スルー推奨) 紀元前から、五行説ってのがあって、中央に黄、北に黒、東に青、南に赤、西に金があるっていうやつ。 この、色を「王朝」も引き継ぐっていう話で、「秦」の始皇帝は「水徳:黒」をモチーフとしてた訳。 その次の劉邦の「漢」は「火徳:赤」をモチーフとしてる。 漢末、火徳の次は土徳なので皆、黄巾の乱みたいに「黄色」にしたがるわけ。ちな曹魏も「土徳:黄」。 漢のときに、中央が「火」になり、西が土、北が金、東が水、南が木になったんだけれど、実はこれがシナから周辺をみたときの状況にピッタリなんだよね。つまり、東が大海、南ジャングル、西が砂漠、北は金?がわからないけれど、中央が「火」ってのがシナの王朝ってこと。 「土:黄色」が中央のときと、90度ずれてるってこと。(北が東にずれている。) 東夷は「東」なので「木」なんだけれど、どう見ても「水」に関わってるように見えるんだよなぁ。 なんとなくだけど、意外とそういった視点って、今の日本人は持ってないから、「何をおっしゃる?」って言われがちだけれど、、、この王朝五行説は「今現在」も続いてて、今の中華人民共和国は「火徳:赤」だから、次の「黄色」または「黒」を極端に迫害してるっていう話。 相生 木→火→土→金→水 相克 木→土→水→火→金 中共の次は、禅譲なら「土:黄」、簒奪ならば「水:黒」となるって話。
@may23k68
@may23k68 11 ай бұрын
畿内説も糸島市が伊都国。 共通する某九州説は 魏志倭人伝の方角、途中から北東へ 畿内説とかぶるんだよね。 田川説の福永氏は、楽浪式土器、 平原遺跡があっても、方向は一貫性して魏志倭人伝の道理に進む。末盧国は福津とか面白い。
@あしたば-i9x
@あしたば-i9x 10 ай бұрын
琉球語の東西南北と 中国語のペイナントンシ 中国語の北南東西の並びが、 動画11′20″の 琉球語で解釈すると 北=西 西=南 南=東 東=北 と同じになりました。 並べ替えます。 東=北 西=南 南=東 北=西 東西南北=ペイナントンシになりました。 これを伝えたくてコメントしました。 ちなみに、邪馬台国をマイクロソフトビーイングの翻訳で中国語の発音を聞くとしまたいくぅーと聞こえました。卑弥呼はべいみーふーです。 しま大国、もし志摩大国ならば、伊勢神宮の祭神の天照大神を女王の国としているなんてことありますでしょうか。 日本海航路すげえと思いました。地図回転説すごい納得しています。素晴らしい!
@飛ぶ鳥落とし
@飛ぶ鳥落とし Жыл бұрын
西銘岳はいい森でしたね…またじっくり歩きたい
@kappago-go-9857
@kappago-go-9857 24 күн бұрын
邪馬台国はどこか、といえば九州北部を含む西日本全域、というのが現実に近いのだと思いますが、 問題は女王国(=卑弥呼が居た場所)がどこだったか、となると、なかなか限定しずらいのではないかと…🤔
@koto7055
@koto7055 11 ай бұрын
動画を見て思ったのが、海を基準にして生きた人と内陸を基準にした人との 方角の感覚的な違いってあったのかなと… 現代のようにいろんな基準が統一されてなく、かつ今のように交流があったとは 思いにくいので… 全て現代の基準ではなかったのかもしれませんね😮
@b.m.fujioka4530
@b.m.fujioka4530 Жыл бұрын
侏儒国は種子国 種子島だという説が強いです 種子島からは非常に小型の古代の人骨が出ています あと邪馬臺は七万戸もの人口から考えて九州から四国瀬戸内海、近畿に至る広大な版図をもつ国だと考えたほうがいいと思います😊
@冴月小次郎
@冴月小次郎 11 ай бұрын
そう言えば…奈良に亀石だっけ? 今は南西だかを向いてる石が西を向いたら洪水になる(辺り一帯が泥沼になる)って伝承があったような?? 専門家は「氾濫とかで地滑りして向いてる方角がずれるって意味では?」と解釈してるが…もし、これも方角の読み方のズレを暗示してるんだったら、90度回転説はなかなか面白い考え方かも。
@Deserter-404
@Deserter-404 11 ай бұрын
海路も確立されてないし、地図だって正確じゃないから有り得るかもしれんな。 むしろ今の正確な日本地図を当時も共有してたと思う方が不自然だな。
@赤月-b8x
@赤月-b8x Жыл бұрын
何を無理やりな、と思ったら意外と辻褄合っちゃうのがビックリ。 魏志倭人伝の記述から私も元は九州派だったのですが、最近某比較言語学チャンネルで固有名詞の感じからしてどう考えても近畿だろみたいに指摘されてるのを見て混乱していたところでした。回転説は魏志倭人伝の記述と言語学的アプローチの間を繋いでくれるキーになるかも?
@100EIZO
@100EIZO Жыл бұрын
ほほう……固有名詞からするとむしろ確実に九州と思ってたから、驚き。 ただ邪馬台国周辺になると突然聞き覚えない地名ばかりになっているから、その辺りが近畿なのかな?
@ota0111
@ota0111 11 ай бұрын
ヤマトコクの音を聞いた魏の人が邪馬台国の当て字をしただけだと思うんだけど。 ヒミコも皇女と伝えたはずが卑弥呼の当て字になっただけでは?
@user-tc8bo9mt8y
@user-tc8bo9mt8y Жыл бұрын
魏志倭人伝は魏の歴史書でしょ。 中国語の北を西と言ってたの?
@あや-t2v9v
@あや-t2v9v Жыл бұрын
魏志倭人伝の中には伝聞での記載が多いと思われますので、例えば本州方言の話者が「投馬国(=出雲?)からニシ(west)に水行20日で九州に至ります」と言ったのを、九州方言の話者が「投馬国からニシ(north)で九州ね。じゃあ、投馬国は九州から南に水行20日です」と中国の使者に伝えた…というような想像が可能です。
@永隈ゆうじ
@永隈ゆうじ Жыл бұрын
琉球の言葉は平安時代の言葉が多いと云われる、松浦地区は源氏の融が着任し平安時代の言葉が定着したのでわ。琉球は平家が古くから渡っていたと、伝承があるらしい。
@古太郎-z3g
@古太郎-z3g 9 ай бұрын
とても面白い考察でした。 ただ、伊都国からは海ではなく内陸の川を進んで90度ではなく、60度?もしくは45度位で四国辺りに収まるのはどうでしょうか? その後の記述で海ルートならはっきり「海」と書いてあるので…その辺が引っかかりました。 また、侏儒国の小人族は遺跡も見つかっていて種子島あたりだという見解もあるようですね。 やはり戦争をした狗奴国は境界線で鉄器も見つかっている南九州かな?と思ったり… いずれにしろ古代中国も日本の位置は洛陽のしっかり真後ろに入るように位置をずらしてみていたという話もありますし、この説はもっと追求したいですね。
@timeday55
@timeday55 8 ай бұрын
ヤマタイでなく ヤマトゥじゃ無いのかな? 当時は、ヤマト政権以外にも小勢力は沢山あったみたいだし
@Gills0000
@Gills0000 Жыл бұрын
舞鶴・敦賀→畿内で陸行1月はサボりすぎ 間の国が述べられてない事に関しては現代でも何も無いんで整合性はとれますな
@besuhof9360
@besuhof9360 Жыл бұрын
Tsukushi's capital is in Shikoku. Tsu island is in Imabari. Every other misunderstanding starts here. Tsukushi's capital is not in Kyushu. The queen sailed between Osaka and Shikoku and inside the Seto-Naikai. The queen did not sail outside the Seto-Naikai.
@ラマルクガリレオ
@ラマルクガリレオ 2 ай бұрын
そう、昔見た魏志倭人伝の考察本に周時代の地図が載っていて、日本が逆さまだった。 朝鮮半島も幅広かった。 だから実際に渡った行程ではなく 地図見ながら適当に当てはめた陸路と感じます。 ただ日本の形は結構まともだから 日本側からの情報提供があったと思う。 もし中国側の調べなら、日本に長く滞在したことになり、もっと内容の濃く、もっと配慮された名称が書かれるだろう。
@reonreed
@reonreed Жыл бұрын
北斗信仰って関係ないのだろうか、それで中華思想として 中国がある方角を北として崇拝する、それで中国ある方向が北になったとか
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon Жыл бұрын
日本回転(90度)と聞いて思い浮かぶのは江戸ですね。 徳川家康が天海の言に従って再開発した江戸の街は、四神相応の概念に則っているとされます。 四神相応では北に山、東に川、西に道、南に海となるのですが、江戸から見て守りの要となる富士山は西南西にある事になってしまいます。 なので天海は日本を反時計回りに90度回転させる力技でまとめて解決しました。 東南海夷図の方はベトナムの南に巴里(パリ)や這撒因(ティムール朝のアブー・サイード?)、撒哈(サハラ?)などがあり、非常に興味深い内容になっていますね。 関東に狗奴国があったとするのは、総国という麻の産地で千波足尼が粟国(徳島)の国造に赴任した歴史、伊勢神宮と並ぶ鹿島・香取神宮の存在、千葉県にある纏向型前方後円墳と東海地方との強い結びつきなどから見ると面白い話だと思います。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji Жыл бұрын
邪馬台って東が高くて西が低い土地という耶摩堆というとちのことというのが、中国の古代の書物に記載されていますよ。
@may23k68
@may23k68 Жыл бұрын
当方は、琉球、台湾が巨大な島と誤認説 魏の使者は九州止まりで邪馬台国には行っていない。卑弥呼、壹与が九州にいたのでは?
@zennin375
@zennin375 8 ай бұрын
魏志倭人伝は日本人が書いたわけではないので日本での方位の呼称は関係ないと思う。 仮に日本人が北を指して「にし」と言ったとして日本語で「北」は「にし」と呼ぶのだと思うだけの話で史書にはやっぱり「北」と記載する。
@あしたば-i9x
@あしたば-i9x 10 ай бұрын
すごく気になっているのがあって、東西南北を中国語に翻訳すると、ペイナントンシ北、南、東、西になるんです。 松浦郡のペイナンと日本語の東西が、 東→北 西→南になっていて、 東西南北のペイナントンシで言い換えると、 確かに北の時に西なんです。 東西南北を聞いたとき、ペイナントンシというのが、 東西南北の順で思っている人と、北南東西で思っている人が話し合うと、こんな誤解が生まれそうじゃないかと思いました。
@細工人町
@細工人町 8 ай бұрын
すごい😂太陽が南からあがっても不思議に思わない魏の人(大笑い)。いない いない 。方向音痴の人が、日本に来れるわけがない こんな説まともに聞いて、不思議に思わない人(笑う)
@ロドリゲス-q1h
@ロドリゲス-q1h 7 ай бұрын
使者は水先案内人に連れられて来るから何も問題ない 測量が行われるまでは世界中どこの地図でもこんなもん
@ナスカの天上絵
@ナスカの天上絵 7 ай бұрын
そういう問題じゃないの。 方位の誤訳の問題なのよ。
@紋太-f6v
@紋太-f6v Жыл бұрын
16世紀以前の日本が書かれている地図は、ここに出てきた地図を含めて、中国で4枚、西洋で、8枚も確認できます。この事実を全く無視する訳にはいかんでしょう。又、九州のへその部分を中心にして約90度時計回りで回転しているだけでなく、魏志倭人伝の船上での方角が、一大国から松羅国へは南に渡る様な書き方がしてあることを含めて考えると、90度回転しているだけでなく、その状態で、現代の地理感で、そのまま100キロほど西にスライドさせたような地理感覚を当時は持っていたことが伺えます。魏志倭人伝に、ちゃんと、その様に書いてあるのですから、そのように理解すれば良いだけの話です。ただ、この、当時の日本列島での方向感覚において、唯一問題となるのは、隋書にある裴世清の九州から大和への東行したと書かれている渡航記録でしょう。これは、明らかに、反転した地図の感覚と矛盾しています。しかし、これについても、ある程度のこの矛盾のすり合わせができると考えています。
@pc_1330
@pc_1330 Ай бұрын
水行と陸行の日数が、距離的に妥当なのか分かりませんが、ぴったり行き着くのには「おぉーっ」て思いました。 でも中国側の使者が実際に来たことがあり、その話を元にしたのなら東西南北は取り違えないと思うんですけどね。 中国側の使者って邪馬台に来たことはなかったのですかね? あと地図を「北を上にして描く」という暗黙の了解がいつ生まれたのか。自分ちから会社や学校までの地図を描くとして、わりと実際の東西南北より自分の中にある地図世界や、台紙の縦横の都合とかで描くこと多いんじゃないかなぁ。 それと東西南北の方角感覚はまた別で。 と考えると、邪馬台の人が自分の中の世界観で描いた地図を、魏の人が勝手に上を北と思い込んで読み取ってしまった、みたいなパターンも考えられるのかも。
@デンデンモーリー
@デンデンモーリー Жыл бұрын
これは面白い解釈。昔そういう可能性も考えたけど地名の名前参考にするのは思いつかなかった。でも、東に30キロだか行ったところに島があっただか都があったってゆう鍵になる文あるじゃん。中国の人が方角間違えるかな?と思うんだよね。その島が鹿児島、沖縄の島々の一つかもしれないけど
@セカイK1
@セカイK1 Жыл бұрын
混一疆理歴代国都之図は李氏朝鮮で1402年に作られた地図ですね。 広輿図は明の羅洪先(1509~1564年)作成。
@TAKAAKIRA00
@TAKAAKIRA00 11 ай бұрын
「北をニシ」と呼ぶのは、「イニシ」(去にし:風が去(さ)る、の意)という説があるそうです(『沖縄民俗辞典』(渡邊 欣雄、吉川弘文館、2008年))。つまり方角の西とは全く関係ない、と。90度回転説の根拠とするには、ちょっと足りないような気も。 そして大和にとって日本海は「北の海」ですから、方角の誤謬はこの場合あり得ない? 但し、魏志倭人伝自体が偽書説もありますので、「ドランカーズ・ウォーク」(酔っ払いが適当に歩いて、当初の目的地に着く割合は? という数学用語)の観点から、方角的記述を一切無視してただ日数だけで推察する、というのは面白い観点かもしれませんね。
@ダリウェン
@ダリウェン Жыл бұрын
古史や古伝のいろいろな謎の古代王朝について取り上げてほしいです。
@yoshiz6620
@yoshiz6620 7 ай бұрын
そもそもの大前提として 当時の中国と日本との間で、「距離、方角(東西南北)」 は「統一」されていて、それを基準に「記録」を残したのか?  それとも、それぞれ自国の独立した「物差し」を基準に、それぞれ一方的都合で、記録を残したのか? そこらへんの注釈が入って無いと、長々と何言っても「不毛」でしかない、と感じる。     それは「れーしチャンネル」以外の、幾多の動画でも、常々感じている。          一感想として・・。
@Eds-x8p
@Eds-x8p Жыл бұрын
縄文海進の名残りで大倭は海が切れ込んでおり、琵琶湖は海と繋がっていた入江だったのではないでしょうか? また、畿内説の場合、尾張・美濃を狗奴国とする場合もあります。 ただし、畿内説の場合、伊都国とヤマトとの距離が遠すぎるのが気になります。一大卒を置いていても周りの国が一斉に蜂起したらあっという間に滅ぼされてしまいます。伊都国と邪馬台国は非常時加勢できる位置にあると考えるのが当然ではないでしょうか? 歴史が勝者のものであるならば今残っている文書は全てなんらかの手を加えられていると考えるのが普通だと思われます。したがって我々が知っている魏志は水行などの記述部分を後で付け加えたのではないかとの疑念が浮かびます。 個人的には邪馬台国とヤマト王権は別物だと考えているので畿内説はありえません。帯方郡に応援をこうには遠すぎます。 それより気になるのは倭奴と日本の表記。 倭奴が九州だとするならば日本(ヒノモト)は四国?日本という小国がはじめにあったという逸話から阿波=ヤマト王権説が浮かんできます。 興味深いです。
@333redredred
@333redredred 11 ай бұрын
弥生時代の発音を現代の発音で解釈するとか笑止千万
@ezakitakakazu10
@ezakitakakazu10 Жыл бұрын
九州北部の筑後川流域が邪馬台国と思っているのですが、地名が鳥栖とか小城とか、結構今の地名にも残る国名が多数あるというのが根拠です。日本書紀には出てこないなど、大和政権外の勢力であるとも思っており、近畿を推せない理由です。
@Hひらきん-u9f
@Hひらきん-u9f 11 ай бұрын
佐賀に広大な遺跡ありますね、言ったことはないが。
@gorogoroEngei
@gorogoroEngei Жыл бұрын
中国四川省成都市に邪馬台という地名アルヨ。
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Жыл бұрын
アプローチが面白くて 連作を見てると歴史が脱構築されていくカタルシスがある。 あんた邪馬台国?とんでもねぇ あたしゃ卑弥呼だよと 流行病に倒れた現代の英雄なら 言うと思います。 あなたの嫁て卑弥呼なんじゃね? 世田谷区若宮字都立家政に邪馬台国はあったんじゃないすかね 準急が停まらないから 騒乱が起きて滅んでしまった
@古屋公夫-s9s
@古屋公夫-s9s 2 ай бұрын
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県だった指しています。
@yohi1646
@yohi1646 Жыл бұрын
今まで聞いた邪馬台国の説明で、一番しっくり来ました。狗奴国は、後の土蜘蛛なのかもしれません。狗奴(くな)は、蜘蛛(くも)と近い印象を持ちますがいかがでしょうか。
@dobakin27
@dobakin27 Жыл бұрын
ちょろいなお前wこんな与太話ころっと信じてかわいいよ ユーチューブにある再生稼ぎの珍説なんでも信じてそうだな
@博慶
@博慶 11 ай бұрын
沖縄の海底遺跡。ポーネグリフがあるから
@紫雲okinawa
@紫雲okinawa 11 ай бұрын
古語は北をニシと言ったと 聞きましたが。 どうなんでしょう??
@zennin375
@zennin375 8 ай бұрын
魏の使者が日本人は北を「ニシ」と呼んでいると認識するだけですね。 中国の「北」という漢字に「ニシ」という音はないのでそれで方角を誤ることはないでしょう。 日本人が「ニシ」と言った方角を正しく「北」と記載するだけのことです。 これで混乱するのは日本人だけで中国人は全く問題にしないはずです。
@Syuichi-j8y
@Syuichi-j8y 4 ай бұрын
中国から日本に行く道順ではなく、 日本から中国への道順を魏の官吏が伝え聞いて、それを元に逆算したので、記述通りの道順がなったと思います。 壱岐からわざわざ平戸の方に行く理由がわからない。海流を考えると直接博多に行くと思う。平戸から壱岐に行く方が潮に乗れるので簡単だと思いますが、研究者の方、誰か調査願います。 それだと、出雲から奈良まで徒歩で1ヶ月で行けるのでは?
@tarafuku0214
@tarafuku0214 Жыл бұрын
東日本(蝦夷、関東)は、古代からヒノモトと呼ばれていました。それは戦国時代の安東氏が「日ノ本将軍」と称してることからも察します。秀吉も奥州に来てヒノモトを語ってます 15世紀16世紀頃ですら 青森県あたりは「北」ではなく「東」と思われていました 沖縄の話は興味深かったです😂
@namaco-umai
@namaco-umai Жыл бұрын
当時の日本では日本列島は東西に伸びている解釈だった。 その時の名残で東日本西日本と今でも表す。
@ota0111
@ota0111 11 ай бұрын
福岡に行くと東西南北の感覚が狂うんだよね。北西方向を北と感じてしまう。 俺だけなのかな? 羅針盤が発明される前の話だから勘違いもあったのでは?
@朝あさチャンネル
@朝あさチャンネル Жыл бұрын
和歌山市内に小人町と名前の所があります。下級の武人が住んでいたと
@gc8zacc3
@gc8zacc3 Жыл бұрын
邪馬台国自体は福岡県南部・熊本県北部だと思われるんだけど、じゃあ卑弥呼の墓は?ってなると、宇佐がピンポイントで当たってる感じなんですよね。神武東征の支援やら宇佐八幡宮神託事件なんかも符合してる感じだし
@kenn8438
@kenn8438 Жыл бұрын
地図に関しては千田稔氏が考察してますよ。
@正木学-n8c
@正木学-n8c Жыл бұрын
この地図の問題点は日本列島が南方に移動されてフィリピン付近にあることなんです対馬海峡 、朝鮮海峡が長すぎる
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
フィリピン海プレート形成が約2000年ですが 逆に2000年前の日本列島がどの位置に有ったか 日本列島が移動した痕跡が有りますので 海底地図を見たら面白いですよ
@むつひとはふり
@むつひとはふり Жыл бұрын
​@@nu1782大陸プレートや海洋プレートはこんにゃくかゼラチンでできてるのか?w
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
@@むつひとはふり 溶岩やマグマで出来てます 海底火山で新島が出来たり 海嶺の生長の影響のプレートテクトニクスで島が動いたりします 日本の山から海の生物の骨や貝殻が大量に出て来る理由はそれです
@正木学-n8c
@正木学-n8c Жыл бұрын
混一彊理図15世紀元末期から明の初めごろに造られた地図の日本ですね、北海道がないです元寇が終わった後に造られたものなら朝鮮半島から九州までの距離が短いことは知っているはずだがなぜか無視されている。大修館書店 海野一隆著 地図に見る日本 で地図を描いたのは図画院の画家で日本に来たこともないのでこのような地図になってしまった、、、中国の地図の作り方は探検隊 や測量隊などに同行せず宮中にいて報告書を見て机上の推論で地図を造るから現実からかけ離れたものになる16世紀以降より西欧人のつくった地図が正確であった
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
@@正木学-n8c そもそも朝鮮半島がバカでかく描かれてるのは 半島人の見栄から
@竜騎兵風牙
@竜騎兵風牙 Жыл бұрын
東京の地名でも日暮里駅の北の方に西日暮里駅有るなぁ…😅
@栄健
@栄健 Жыл бұрын
琉球民だが西枕を気にするなんて聞いた事無いぞ、因みに琉球ではお日様が上がる方向をアガリ、 入るからイリという。
@tamatora-xu4wh
@tamatora-xu4wh Жыл бұрын
日本列島が九州を北にして南に延びる地図は見たことがあります。 私は、中国側が「南に延びる日本列島」の認識に基づいて倭人伝を記載したのではないかと考えています。 つまり、魏の使者が東へ向かっているのを認識しつつトータルで南に向かっていると報告したか、東へ向かったという使者の報告を陳寿が誤記と考え南と修正したのではないかと思っています。 なんで「南に延びる日本列島」と誤認したか分からなかったのですが、これは一つのヒントになりそうです。 奴国の使者(島々に倭人が住んでいて、我が国は一番西にあると説明しなきゃ) 奴国の使者「島々に倭人が住んでいて、我が国は一番北にあります」 中国の役人(なるほど、奴国から南に延びる島々に倭人はいるのか)
@浩史佐藤-n7c
@浩史佐藤-n7c Жыл бұрын
倭人は「太陽は北から上る」とでも思ってたんかね?
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
方位は合ってます 日本列島が物理的にプレートテクトニクスで移動しました 記紀にも海月の様に漂っていたと云う描写も有りますので
@むつひとはふり
@むつひとはふり Жыл бұрын
​@@nu1782数千万年ならばともかく、僅か二千年そこらでは変化しないだろうが。 プレートはこんにゃくかゼラチンでできてるのか?
@nu1782
@nu1782 Жыл бұрын
@@むつひとはふり 僅かな時間で 新島や昭和新山が出来た理由は何故でしょう? 貴方の常識は古いです
@浩史佐藤-n7c
@浩史佐藤-n7c Жыл бұрын
@@nu1782 いやすまん。混一疆理図によって邪馬台国の所在地を考察するってのがすでに古すぎるのよ(バース、掛布、岡田の三連発よりもずっと前)。 アレは日本地図を後からはめ込んだだけの代物でな。先人たちがいろいろと論議した結果、古代史を科学的に研究するための史料としては使えないって結論。 大和王権でも敦賀から太陽が登ったという記録は存在しないし、倭人伝でも女王国の北岸が狗邪韓国である。
@むつひとはふり
@むつひとはふり Жыл бұрын
@@nu1782 山ができたのを根拠にするとか、それこそ極端すぎるし、三流左翼記事の切り抜きと何ら変わらん。 まだプーチンやムネオの方がまともなレベルの戯言だわな。
@武田賞司
@武田賞司 Жыл бұрын
卑弥呼は徐福の末裔で丹後の籠神社の海部氏の系図に「日女命」と載っています。一人目の「日女命」が「卑弥呼」で二人目は「台与」です。「邪馬台」は「ヤマト」と読みます。
@ぽねぽね-z6c
@ぽねぽね-z6c Жыл бұрын
北松浦郡に日本最西端(本土)の碑があります。
@やまびこ-l3l
@やまびこ-l3l 11 ай бұрын
西表島、イリオモテ島。昔から話題です。
@moikeru1
@moikeru1 11 ай бұрын
90度回転説と反転説は同じものを表現してるの?
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