【ゆっくり解説】消された古代王国...!!! 出雲王国の謎。。。

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古代史ヤバイ【ゆっくり解説】

古代史ヤバイ【ゆっくり解説】

Күн бұрын

Пікірлер: 54
@佐藤孝一-h2z
@佐藤孝一-h2z 6 ай бұрын
私は5年前に出雲地方を旅行したとき、古代出雲歴史博物館を訪れました。一番印象に残ったのが、荒神谷遺跡から大量に出土した銅剣です。これだけの物を作ることが出来るということは、出雲に大きな国があったことは間違いないと思います。
@のりくま-c7c
@のりくま-c7c 6 ай бұрын
あれほど立派な遺物が破壊された状態で遺棄され、発見場所が『荒神』谷。想像を掻き立てらえますね
@DAchan-jx2yu
@DAchan-jx2yu 6 ай бұрын
出雲王朝の前には高志の国の翡翠王朝(奴奈川姫王朝または黒姫王朝)があったと考えています。黒姫の名は地元では王朝姫の母を指す一般名称と言われており、黒姫がこの地域での王朝文化を示す名称ではないかと考えています。新潟県内には黒姫山が3山あり、これらの山を結ぶ地域が高志の国の源、即ち奴奈川姫王朝地域であったのではと考えています。 神話では大国主命がこの地域を訪れ、奴奈川姫を娶り出雲に連れて行ったことになっていますが、姫一人を連れて行く訳はなく、この地域を征服あるいは翡翠にまつわる玉造の技術者を根こそぎつれていったのでは、そのため翡翠に関わる産地やその加工技術は極秘とされ歴史から抹殺されたのではないか、そして翡翠の加工技術が出雲に根付いたのではないかと考えています。 ご存じのように石器時代から翡翠が日本全国に広がり呪術や装飾として重宝されていたことは、出雲以前の高志の国にその文化があったと想像します。
@kuzushiji
@kuzushiji 6 ай бұрын
大変興味深く拝見しました
@Kohta1018
@Kohta1018 6 ай бұрын
剣の上に座って「譲れ」はどう考えても新興勢力による武力弾圧だったのは間違いないと思う。
@スコブル-u9n
@スコブル-u9n 6 ай бұрын
22:48出雲と筑紫…やっぱ先達や先祖には気を付かうんだな それにしても大和朝廷と出雲の関係は、明治新政府と徳川の関係そっくり
@TOM-ed4od
@TOM-ed4od 6 ай бұрын
因幡の白兎って国津神と天孫族の不和も描いてたりするのかな?
@ryukyu1180
@ryukyu1180 6 ай бұрын
出雲に参集する神々は、稲佐の浜から上陸すると設定されてますね。 ここで言う神々(スクナヒコ等)が対馬海流に乗ってやって来たとすれば、北部九州の女王国の代表達ではないか。
@森岩光
@森岩光 6 ай бұрын
九州から大挙して侵攻した 渡来系(徐福の子孫) 物部軍や豊国宇佐軍 天日矛命の子孫、但馬の田島守(但馬軍) の連合軍が出雲王国に最後通牒を突き付け、 降伏に否(ノー)か佐(イエス) と詰問、上陸、侵攻した場所が 稲佐の浜。
@平善之-b4o
@平善之-b4o 3 ай бұрын
古事記で国譲りが行われたのは「伊那佐の小濱」です。「稲佐のお浜」ではありません。日本書紀に至っては「五十田狹之小汀」であって「稲佐のお浜」とは程遠いものです。奈良県宇陀市の榛原石田付近は昔は「伊那佐」と呼ばれていました。今でも伊那佐文化センターが有ります。ここには吉野川が流れており、古代には川の砂の岸も小濱と呼ばれていたそうです。付近には八咫烏神社もあります。島根県の稲佐の浜付近は縄文時代は海の底でした。縄文海進から海面が低下するまでどのくらいかかったかは不明ですが、出雲の国風土記に書かれた「国引き」の時代には島根半島は「島」だったと書かれています。それが海面の低下によって半島になったのでしょう。つまり島根の稲佐の浜は大国主命の時代には海の底だったと思われるので、国譲りが行われたのは奈良県の伊那佐の芳野川の小濱だったのではないでしょうか?
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
平善之様、こんにちは。 着眼点が素晴らしいと思います。 ウィキによると、『出雲国風土記』では記紀所載の国譲り神話のような話は見られないが、 意宇郡母理郷の条では大穴持命(大国主神)が自主的に出雲国以外を譲るという伝承が語られている。 つまり、お話の様に『記紀』に描かれたような出雲の稲佐の浜での国譲りは、実際にはなかった。ということだろうと思います。 ただ、出雲の口伝によると、 『記紀』の「否、佐の浜」での国譲りには、国譲りと呼べる様な、「二つの大きな出来事」が起こった。ということが書かれていると思います。 一つは、物部氏の出雲侵攻による戦いです。ここでは、出雲主王大国主と副王少名彦事代主の二王同時殺害のテロ事件が起きています。 もう一つは、後に大和での物部氏と豊国宇佐連合軍との第二次物部東征による出雲系大和王権初期磯城王朝との長期戦争での 物部氏勝利による物部氏崇神垂仁天皇政権の樹立です。 これらは、詳しく経緯を正史に残すことが出来ませんでしたが、 正史『記紀』には、「否、佐の浜」での国譲りがあった。ことは確実に記されています。 このように、二つの国譲りが起きた大きな出来事を、『記紀』には、『出雲神話』として書かれた理由は どうしてだと思われますか?
@平善之-b4o
@平善之-b4o 2 ай бұрын
私は古事記に書いてある通りだと思いますよ。ただ、読む方が読み方を間違えているだけです。国譲りは実際に「出雲の伊那佐の小濱」で行われたと思っています。ただ、その出雲が島根県ではなく奈良県の出雲だっただけです。どうして歴史の先生は古事記に書かれたことを素直に読まないのか分かりません。古事記によれば大国主命は(島根の)出雲で2回も殺され(そうになり)母親に言われて木(紀)の国に逃げますが、兄達にさらに追われて素戔嗚の国に逃げます。(島根の)出雲には兄達がいて母親が兄達から逃げろと言った先にあった素戔嗚の国は(島根の)出雲のはずがありません。その国で大国主命は素戔嗚の娘を嫁にもらって新しい国を作り(素戔嗚命が娘と一緒に作れと言っています)、その後兄達を滅ぼしたようですから、大国主命が作った国(出雲)は島根のはずがありません。紀ノ國の先に有るはずです。つまり古事記に書いてある通りに読めば、吉野川(下流は和歌山県=紀ノ國で上流は奈良県宇陀市)の上流の奈良県では?で、そこにはちゃんと伊那佐の小濱が有ります(現在でも地名が残っています)。古事記に書いてある通りです。だから読む方が古事記には島根から逃げたと書いてあるのに勝手に島根に戻すから変になっているので、古事記に書かれた大国主命の出雲は逃げて行った先の奈良県の出雲なんだと読めば良いのだと思います。島根の稲佐の浜は当時の皇室に対して嘘を書けないので「稲佐の浜」としたのであり、「伊那佐の小濱」ではないと思いますよ。日本書紀に至っては「出雲国の五十田狹之小汀(いたさのおはま)」であって「いなさのおばま」ではありませんから。
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
@@平善之-b4o 様、 読み方によって二つの「出雲」が交錯するのですね。返信いただき有難うございます。 大国主の国譲りは、古事記の通りに(奈良の)出雲でスサノオに鍛えられた大国主が国を平定した後に奈良で起きたとすると、 奈良の出雲には、スサノオや大国主の住んだ宮跡の遺跡や神社が見られないと思いますが、奈良の出雲にいたスサノオや大国主とは、どなたのことだとお考えでしょうか? 質問ばかりでスミマセン。
@平善之-b4o
@平善之-b4o 2 ай бұрын
奈良の出雲は多分消し去られたのだと思います。がそれでもちゃんと調べればいくらでも出てきます。例えば纏向の箸墓は出雲の事代主の奥様のお墓です。その前には出雲の事代主を祀る三輪山と大神(おおみわ)神社が有り聖域になっています。また纏向遺跡は昭和の頃までは「大田遺跡」と呼ばれていました。事代主を祀ることを崇神天皇に命じられた大田多根子が住んでいたからで、纏向の有る所の地名は今でも「大田」です。地図を御覧になると分かります。ただ、学者先生達が何らかの意図を持って無理矢理纏向遺跡と名前を変えてしまいました。日本書紀の垂仁天皇の記述に基づくと言っていますが、垂仁天皇の(何人かいる)奥様の一人は事代主の娘だと記紀には書かれています。なので、ここが出雲の事代主の里で有ったとしても何の不思議もありませんが、それでは困る人達がいたのでしょう。素戔嗚尊に関しては奈良ではありません。大国主は兄達に殺されそうになって木(紀)ノ國に逃げ、その後さらに追われて素戔嗚尊の元に逃げます。なので和歌山県の紀ノ川」(奈良の芳野川の下流)に居られたのでしょう。和歌山県には有田市、御坊市、田辺市に須佐神社があるのですが、申し訳ありませんが私にもどの須佐神社が関連する神社かは分かりません。なので、スサノオや大国主の住んだ宮跡の遺跡や神社はかっては有ったのだと思いますよ。大人の事情で消されただけだと思います。まぁそれにしても出雲の事代主を祀る三輪山のふもとに出雲が有ったと考えるのはごく自然だと思います。
@元昭尾崎
@元昭尾崎 6 ай бұрын
ピラミッドの内部構造に似てるらしい 不思議😮
@おしゅらさん
@おしゅらさん 6 ай бұрын
まあ当時の日本には各地方で王朝的なのがあったと思う。
@ねるさん-c1k
@ねるさん-c1k 6 ай бұрын
何で明治時代に「杵築大社」から「出雲大社」へ改名したんですかねえ。
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
明治政府からの指示でしょう。
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
×印の刻印は、東出雲王家向家(富家)の所有を表し、 刻印のないものは西出雲王家郷戸家(神門臣家)所有のものです。 大和王朝が出雲に侵攻して祭司を禁ずる為に埋納したのではないか。 は結構近いと思います。 しかしあれだけ大量の武器を埋納するのは、わざわざ遠く出雲まで 苦労して侵攻した意味がなくなるので、それは考えられません。 供出させて接収し鋳直すなどして自ら使用しなかったのは不自然過ぎます。 出雲の突然の混乱により事代主が亡くなり后三島溝杭耳娘櫛玉姫の実家高槻三島から 子出雲富家天日方奇日方王がほど近い交通の要所の大和盆地に進出し開拓を始め、 それを追って丹羽丹後の海部から天村雲が大和に進出し、奇日方妹踏鞴五十鈴姫を 后として大和に海部出雲系初期大和王権が成立し、3代まで出雲色の強い磯城王家となり、 その後勢力が低下し、やがて物部軍と吉備軍に挟み撃ちにされて出雲王国が滅んだ際に 吉備への供出から隠し再び掘り起こして使う為に出雲が自ら埋納したものだろうと思います。 埋納された時期は放射線炭素測定法で測定してみたら、当時の大和王朝の大君が九州物部の 武力を嫌いヒボコを播磨から追い払いながら本家筋の出雲領地吉備に侵攻し自らの王国を作り、 出雲を滅亡させた孝霊天皇の時代だったかわかると思います。 纏向遺跡の搬入土器に九州の土器がないことも、物部王権が短命に終わり、 九州に引き上げた後であることからも、物部東征により一時的に大和に崇神垂仁から応神天皇までの 九州系物部王権があった事がわかります。
@wa33785
@wa33785 6 ай бұрын
旧石器時代日本最古12万年前の砂原遺跡や、東北弁に近い雲伯方言が孤立して残っている地域。あと出雲口伝資料。  縄文時代に三内丸山遺跡で巨大建造物が建てられていたことも踏まえると、雲太和二京三の鎌倉期の48m神殿は確実でしょう。言い伝えの上代96m神殿の痕跡が見つかればもっと興味深い。  丹波丹後但馬の三丹=大丹波の鉄器出土数は日本一。神功皇后の敦賀笥飯宮や継体天皇の出自の越前や越後頸城地方糸魚川の翡翠。邪馬台国越前説も。  日本海側に出雲王国、丹波王国、越(髙志、古志)王国など、古代船だと潮流変化が厳しい瀬戸内より、日本海の方が行き来しやすい。沿海州や樺太千島にも縄文時代の遺物。
@斎藤清作
@斎藤清作 2 ай бұрын
東京大学の大橋順教授らの研究(ゲノム解析)で、縄文人由来変異保有率は 東北や関東の一部および鹿児島県や島根県などで特に高い(すなわち縄文人度合いが高い)ことが分かってきました
@平善之-b4o
@平善之-b4o 5 ай бұрын
纏向遺跡と言う呼び名は「とある考え方を持った人々」が勝手に名前を変えたもので、あそこは元は「大田遺跡」と呼ばれていました。出雲の大田田根子が住んでいたからです。古事記や日本書紀に載っている人です。箸墓は出雲の事代主命の奥様のお墓で、事代主命を祀る三輪山を仰ぎ見る位置にあるので、私はあそこは出雲の都市だと思っています。古事記を読むと大国主命は出雲で生まれましたがお兄さん達に2回も殺され(そうになり)、お母さんに助けられて木の国(紀ノ國)へ逃げます。その後須佐之男命の娘さんをお嫁さんにもらって新しい国をつくったそうです。新しい国ならば島根の出雲じゃありませんよね。それが纏向なのでは?
@gachin2731
@gachin2731 3 ай бұрын
大田田根子って大物主の子孫ですよね、巻向遺跡あたりは大物主の居住があったと思います!「小林やす子」本で読んだ記憶ります、
@gachin2731
@gachin2731 3 ай бұрын
あります。
@taka586
@taka586 6 ай бұрын
高円宮家の次女の嫁ぎ先だけど、写真は三女の絢子女王殿下の物ですよ
@コン爺
@コン爺 6 ай бұрын
大丈夫👌ですよ😊 国造家のお写真でございます♪
@Kakukakusikajika11
@Kakukakusikajika11 6 ай бұрын
出雲地方は古くからタタラ製鉄が盛んなのは、渡来系の技術が根付いてるのでしょう。
@仙石-w8j
@仙石-w8j 6 ай бұрын
出雲って、魏志倭人伝とか、中国等の史書に載ってないのでしょうかね。出雲ほどの地域、別名で載ってるんじゃないかと思いますが、どうでしょうかね。
@user-52-mickey
@user-52-mickey 6 ай бұрын
出雲王朝が邪馬台国という説ありますよ。 単なる説の1つですが。 私は九州説派で。 九州にあれば、出雲は通過するわけでもないので登場しませんが。 他にも吉備、大和(奈良県)、富士、若狭などにも王朝あったけど、同様で登場しませんね。
@aiueiueo
@aiueiueo 6 ай бұрын
西晋の魏志倭人伝のおかしな地理情報を考えた場合西晋は北九州の地域勢力以外知らなかったと思います。 つまり大和王権に繋がる大部分の日本を知らなかったと言えます。 大和王権に繋がる勢力は百済や朝鮮半島南部の日本勢力圏を通じて大陸の情報を得ていたと言えます。 だから西晋の祖になる司馬懿が遼東公孫氏を従えた事を書いた時になぜ朝鮮半島南部を支配しなかったのかを書いていないのです。
@jsetagaya1482
@jsetagaya1482 6 ай бұрын
当時の大使館が伊都國(糸島?)にはあった様ですが本州には無かったのかもしれませんね。大陸視点では九州と本州を分けて見ていたのだと思います
@gachin2731
@gachin2731 3 ай бұрын
東倭ではないですか
@jijitaka2966
@jijitaka2966 6 ай бұрын
出雲大社 →正式には「いずもおおやしろ」と云うそうです。
@上原隆則-l9k
@上原隆則-l9k 6 ай бұрын
いくつ位 王朝があったのかな?
@zzkawaz219
@zzkawaz219 6 ай бұрын
国名で前後や上下がついてる国(越前越中越後や上野下野)は大体古代有力勢力が有った場所なんだな なら上総下総の千葉県にも何かしらの勢力が有ったんだろうか
@古舘友通
@古舘友通 6 ай бұрын
ヤマト王朝が出雲の国を併呑したとしか思えないんだが王朝交代という話に持っていきたいようだな。
@ChikakoKawahara-gr9qn
@ChikakoKawahara-gr9qn 6 ай бұрын
島根県の遺跡では青銅器に「❌」印がついている。 その辺をどう考えるかが重要なんだと思います。 そして、古事記、日本書紀の出雲は島根県のことではありません。 島根県は古事記、日本書紀の国産みにはそもそも出てきませんし・・・ 島根県を出雲と決めたのは700年代です。
@森岩光
@森岩光 6 ай бұрын
Xは 男女交合(セックス)~転じて 子孫繁栄の璽。 神社の千木も意味は同じ
@aiueiueo
@aiueiueo 6 ай бұрын
何を根拠に言っているのですか?
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
@@aiueiueo 様、 島根は700年代にどのような経緯で出雲とされたのですか? また、それ以前の国名は何と呼ばれていたのでしょうか?
@aiueiueo
@aiueiueo 2 ай бұрын
@@nihontaro9 出雲風土記が現存しているのをしっていますか? 偽書で日本の歴史を捏造する事など不可能です。
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
@@aiueiueo さん、 島根県を出雲と決めたのは700年代です。と言われたのは、 @ChikakoKawahara-gr9qnさんでしたね。失礼しました。 質問する相手を間違えていたようです。 風土記は古史古伝のひとつで 出雲国風土記は、残っていますが、編纂された経緯を検証する必要が有ると思います。
@tt3402
@tt3402 27 күн бұрын
大国主命の国譲りの件は興味深いです 勢力争いの末、出雲地方の支配権を天皇家に譲ったと考えるのは自然かなと思われる😊
@江戸ジェダイ-h2h
@江戸ジェダイ-h2h 6 ай бұрын
青銅器祭祀w
@名無し-q6y5w
@名無し-q6y5w 6 ай бұрын
出雲大社は718年に阿波から遷宮されてる
@ともさん-j9d
@ともさん-j9d 6 ай бұрын
鎌倉時代の柱だぞー。出雲大社は、明治までは杵築大社!島根県が本当に出雲かどうかも怪しい
@平善之-b4o
@平善之-b4o 3 ай бұрын
矢部氏と言うのは矢など武器を扱っていた氏族です。卜部氏と言うのは占いや祀り事を行っていた氏族です。では物部氏は何を行っていた氏族でしょうか?「物」とは?多分彼らは現代の財務省的な立場の人だったのでしょう。その首領は「大物主」では?大物主とは大国主命と同一視される時もありますが、その息子の「事代主命」で三輪山に祀られ箸墓の主である「倭迹迹日百襲姫命」の旦那様です。「日本書紀の一書」を読むと大国主命は神武天皇に国を譲る時にでっかい建物を造ってくれと言っていますが、同時に「私の子の事代主命を家来にして大事にしてくれるなら出雲の神々も争わないで従うでしょう」と言っています。物部氏は元は出雲の神々で事代主命と一緒に天皇家に従うようになったのではないでしょうか?物部氏の祖は「ニギハヤヒ」で神武東征の際に神武天皇に義弟(ナガスネヒコ)を差し出して家来になった人です。なんかこの話と大国主の国譲りの話が似ていると思いませんか?ニギハヤヒ=大国主命で、物部氏は出雲の神々の子孫だったのではないでしょうか?
@nihontaro9
@nihontaro9 2 ай бұрын
平善之様、 『古事記』での神武東征のニギハヤヒと、大国主の国譲りの話が似ている。 まさにその通りだと思います。 古事記は、各地の伝承を整理させ報告させた風土記とは異なり、国家プロジェクトとして「和国の史書」が編纂されたものなので、 その様な正史に、無駄なストーリーが書かれているとは思えないのですが、 そこにあえて同じパターンを入れる必要に迫られた「ある理由」が存在すると思います。 出雲の口伝では、 物部氏は、九州に渡来した徐福の子孫なので、神武東征で大和の古い豪族であるニギハヤヒの子孫として描かれた理由も、 直近の国譲りの疑問のコメントの様に、別の出来事を、推定すると分るように『記紀』に半ば暗号として書かれたものと思います。 出雲国大国主を侵攻して戦争が起きた敵方であるニギハヤヒ子孫が物部氏で、 もともと出雲の神々の子孫である、いわば兄弟のようなもの・・・。では全くなかった。と書かれています。 それをわざわざ同じパターンであるかのように、むりやりはめ込んで『記紀』に書かれた「ある理由」というものがあるのだという ことが見えてきます。 そもそも出雲の口伝そのものが、本当なのか、、という疑問も出てきますが、 自分は、口伝に書かれていることが本当であれば、すんなりと納得できるものだと思っています。
@tktd3219
@tktd3219 6 ай бұрын
神殿って歴史が浅いから巨大神殿とかって話になるとリアリティが皆無になるよね。
@aiueiueo
@aiueiueo 6 ай бұрын
今の日本の一部を切り取ろうとする悪質な動きにしか見えません。 記紀を知らないのですかね?
@福山信
@福山信 10 күн бұрын
又...嘘の塊か~
ここまでわかった『出雲国風土記』
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