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【ゆっくり解説】考古学から見た邪馬台国大和説『畿内ではありえぬ邪馬台国』
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【ゆっくり邪馬台国】魏志倭人伝を読み直したら「あの国」が通説とは違う場所になってしまった
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歴史妄想探訪
Күн бұрын
Пікірлер: 337
@kbust3695
3 жыл бұрын
待ってました!
@mousou
3 жыл бұрын
長らくお待たせいたしました🙇♂️ ご視聴ありがとうございます😊
@丼の中の鮭-r5j
3 жыл бұрын
ひさしぶり!今後も楽しみにしてますよ
@mousou
3 жыл бұрын
お久しぶりです! いつもご視聴ありがとうございます🙇♂️
@batanii7321
3 жыл бұрын
待ってたぞー!!笑
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰してすみません。 お待たせいたしました🙇♂️ いつもありがとうございます🙇♂️
@CrowNecoYah
3 жыл бұрын
お久しぶり
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰してます! ご視聴ありがとうございました。
@anonimasu1
3 жыл бұрын
あ、お久しぶりです!待ってました!!
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 お待たせしてしまいすみません🙇♂️ 今後もよろしくお願いします🙇♂️
@TheZyama
3 жыл бұрын
待ってました。 コロナ禍でしたので、何かあったのではないかと心配してましたが、ご無事で良かったです。
@mousou
3 жыл бұрын
ご心配をおかけしました。 何とか生きていますw
@ulojjyu
Жыл бұрын
既に他の動画にコメントしましたが、東夷伝倭人条に記載されている距離・方位・戸数は正確ではないのでは?の理由はとある中国の専門家の見解で、晋の正当性強化のために倭を遠方の強大な国としなければならない事情があったという説に納得したからです。(KZbinでみたNHKかどこかの番組だったと思いますが詳細思い出せず・・・) 因みに私は元々邪馬台国畿内説でしたが、現在は九州説でかつ邪馬台国と大和王権は別の国という説を支持しているので、UP主様とかなり近いかなと思います。(アプローチは異なりますが) 次の動画も楽しみに拝見させていただきます!
@mousou
Жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 魏志倭人伝の信憑性を言い出したら、このチャンネルは終わっちゃいますねw
@高木仁司
3 жыл бұрын
お久しぶり。待ってたよ。
@mousou
3 жыл бұрын
ありがとうございます!
@かるいし-l4p
3 жыл бұрын
久しぶりの更新ですね。これからも拝聴させていただきます。
@mousou
3 жыл бұрын
ありがとうございます! これからもよろしくお願いします🙇♂️
@コージコジ
3 жыл бұрын
諸説あり!の中で中国の専門家さんらが「距離/方角/旅程/数字はあんまり気にするな、そんなん適当やし大概デタラメや、ただ重要なのは倭人の文化風俗などの描写や(あと地名や名称も)、これは正確に記載している可能性が非常に高い、そしてそれは熊襲隼人の南九州の文化風俗や、これが当時倭国で代表面していた人らの正体や、そして後の大和王権にも祭祀や地名の類似、記紀での東征神話などから、支配者としてコネクションしていたと思うわ」って言うてましたよ。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 確かに魏志倭人伝の記述自体の信頼性は低いかも知れませんねw ただ、それを言って自説と合わないところを消していくと、日本全国、海外など好きな場所に邪馬台国がおけることになるので、動画の内容としては反発買いそうですね(^_^;)
@KM-ix1so
2 жыл бұрын
>諸説あり!の中で中国の専門家さんらが「距離/方角/旅程/数字はあんまり気にするな、そんなん適当やし大概デタラメや、 そうですね >ただ重要なのは倭人の文化風俗などの描写や(あと地名や名称も)、これは正確に記載している可能性が非常に高い、 なんで? 明代に書かれた『明史日本伝』では「関白信長と薩摩の奴隷秀吉が木の下でであったから秀吉に木下と名乗らせた」とか、「信長が秀吉に命じて阿奇支を討とうとしたら配下の明智に殺された」とかデタラメなことが書いてあるけど、そんな人達の先祖が3世紀に書いた歴史書を信用できるの?
@yuko8574
3 жыл бұрын
upありがとうございます❗ 楽しみにしていました🎵 菊池市に住んでいます。ウテナ台地、鞠智城、不動岩、古墳、縄文遺跡、茂賀の浦、菊池川、阿蘇… この辺りの場所に、南北朝時代、菊池一族が栄えたのも、縄文時代、弥生時代に古代文明が栄えたのも、土地の形状が大きく関係していると感じます。阿蘇山(約9万年前の)大爆発による、熊本県北部の地形や地質は独特で、台地や山が天然の要塞として、中心にある肥沃な土地を守っています。 (菊池一族の18ある山城はすべて古墳と重なっています) 今後のupも楽しみにしてます❗ (自分でも研究、探索続けます😄)
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 山鹿〜菊池辺りは必ずこの時代の重要な場所であったはずと私は確信しています。 鞠智城の下に弥生時代の遺跡なんかが出れば激アツなんですけどねw
@yuko8574
3 жыл бұрын
鞠智城については、五角鼓楼や兵舎跡などが復元されていますが、広大な山城に、取って付けたような違和感があります。 地元では、今も細々と発掘調査は続いていますが、縄文遺跡や弥生遺跡も出ています。それらを詳しく調べようとしていますが、まだ情報に辿り着けません。(菊池市も山鹿市も鞠智城は朝鮮式の山城であるという認識) 鞠智城の長者原展望台に立って、360度見回した時、ここは戦いの為の場所として作られたのではないと感じました。 もっと、ずっと古い時代、民の暮らしを見守る為の場所として存在していたと思います。
@taka3399-n6n
8 ай бұрын
邪馬台国時代の一大拠点として、山鹿の方保田東原遺跡が注目されていますよ。筑後川流域にあったであろう邪馬台国と対立戦争した南の狗奴国がこの菊池川流域にあったはず。そのその中心が方保田東原遺跡。砂鉄と稲作と大陸との交易。この地方は鞠智城も装飾古墳群も江田船山古墳も謎のトンカラリン遺跡も全て由緒ある菊池川流域だね。おまけは山鹿の不動岩伝説。古代の昔に何かあったのは間違いない。
@takek1957
3 жыл бұрын
邪馬台国の考察で僕が視てる限りではyoutube内で最も面白いです。楽しみにしてましたよ。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 そう言っていただけると凄く嬉しいです! これからもよろしくお願いします🙇♂️
@takek1957
3 жыл бұрын
@@mousou 九州の神社にまつわる伝説など、解釈の繋がりを考える主さん独自の部分が大変エキサイティングに感じます。 間は空いても全く気にしませんので、考察動画を楽しみにしてます。
@丸山康平-l2f
3 жыл бұрын
その意見には賛成。九州説で1番まとまっててわかりやすい。丁寧なのが良いと 思います。
@須羽ミツオ-d2o
2 жыл бұрын
根拠も明確で良い考察と思います。 いつの日か明らかになってほしいです。
@黒い鍬
3 жыл бұрын
待ってました!三本投稿は楽しみで仕方ない。これから見ます。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 今後もよろしくお願いします🙇♂️
@天照大御神-n7v
3 жыл бұрын
要するに、熊本県山鹿市にある方保田東原古墳こそが、邪馬台国(女王・卑弥呼が都とした)があったところというわけでしょうか? ちなみに、山鹿市の隣の市であり、菊池平野の東側に位置する菊池市は、阿蘇外輪山の西側に位置していて、菊池渓谷と呼ばれる渓谷があり、この渓谷にそって阿蘇外輪山に上っていくと、今日では、宮崎市にいたる縦走路となっています。この縦走路は、脊梁山系の稜線と言うことです。その途中に高千穂峡(高天原、天孫降臨の地)があります。また、このルート上には、古代の養蜂(日本ミツバチの養殖)のあとがあると言われています。 つまり、移動するには、山の稜線(脊梁山系)に沿って歩くと、川もなく、谷もないので、かなり楽に進んでいけるということです。 こうした九州の地形を前提にすると、鞠智城のあったところ(山鹿市)は、宮崎市へいたる入口に位置するということです。 神武東征の出発地である宮崎市へいたるルート上に、大宰府、鞠智城が、あると言えると思います。 今日的感覚では、山鹿市と宮崎市は、遠く、関係性に乏しいように思えますが、古代のルートに視点からだと、山鹿市と宮崎市はつながっているといえると考えます。 さらに言えば、邪馬台国と宮崎市とが、密接に関係しているということもいえると思います。
@橋本博之-k6i
3 жыл бұрын
面白い見解ではあるが、重要な物資や文書・協議内容を渡し・伝えるために伊都国まで来た外交使節が、邪馬台国の王や重要閣僚に直接会わないという理論には疑問を持ちます。 渡海中の島々では重要物資・文書の盗難棄損が心配で倭国の船さえも利用しなかったとの主張と不具合が生じる。 伊都国での出先出張所官僚の伝聞を信じ込むのと併せ不可解です。 現在の九州まで死を覚悟して荒海を渡り来ながら、邪馬台国国王に会わずに伊都国で邪馬台国の使者の帰りを待つだけなんて信じられない。 日本国内における外交使節は、記録に残る限りその時々の中央宮殿まで出向き時の最高権力者に面談している。 やはり、弥生時代から古墳時代を通じても外交使節や当時の高度な文明を携えた移民・渡来人たちには最高権力者たちは謁見していたと考えるのが適当だと思います。
@takahiroseto4028
3 жыл бұрын
歴史って断片的に見るとわからなくても、一連の流れとして見ると辻褄が合うことって多いですよね。
@takehiro8008
3 жыл бұрын
いつも面白い動画ありがとうございます😊 古代の福岡はかなり内陸部まで海が入り込んでいったらしいです。太宰府が古代より大陸の玄関口であったのは間違いないですよね。水城は明らかに九州の中部や南部方面を守るための防塁ですよね。見解を楽しみにしてます。
@yo2trader539
2 жыл бұрын
白村江の後、太宰府は内陸に移転してるはず。太宰(おほみこともち)は名の通り、複数のクニを統治する役職名。筑紫太宰の他に、吉備太宰などのポストが置かれた。
@ゆうあまり
3 жыл бұрын
このシリーズ大好きです!
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます!
@axxx300
3 жыл бұрын
大宰府周辺には弥生遺跡はたくさんあります。後世の奈良時代などに掘り返された後のある 弥生遺跡がいくつかあって上下関係がおかしくなり論争になった例もあります
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 太宰府近辺にも遺跡があるのですね^ ^ でも、掘り返されたのなら真実はもう分かりようがないかもですね^^;
@丸山康平-l2f
3 жыл бұрын
伊都国を太宰府辺りとするのは 九州説でも畿内説でも妥当な判断だと 思います。だから難しいとも言えますが。
@hiroshim9441
3 жыл бұрын
素晴らしい
@ttomaeta
3 жыл бұрын
水城は羅城の一部です、大宰府を中心に広大な城郭を作っていた。基山、四王寺山、南は久留米などです。 663年の秋の白村江の戦で男手を失った大宰府に664年に水城を完成できただろうか、JR水城駅の横の水城の発掘資料展示には青葉が築城基礎にあったことが書いてある。九州年号の存在から657年に水城を含む羅城は完成していたのではなかろうか、そこにあった王朝は後年に隋の煬帝に朝貢を求めている。
@majimahou
3 жыл бұрын
次回、日数のところや伊都国から投馬国までのルートを詳しく聞きたいです。面白かったです。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 機会があれば深掘り動画作ります^ ^
@majimahou
3 жыл бұрын
@@mousou ずっと拝見していました。楽しみです!
@ttomaeta
3 жыл бұрын
末蘆国では、魚鰒を潜って獲っているとなると、宗像市鐘崎は海女の発祥の地としているから、ここが末蘆国でしょう。伊都国は鞍手郡で、遠賀川は直方、飯塚まで海が入っていたと考えると記述と合致していると思いますが。
@aoyamahirosi
3 жыл бұрын
当時、ある地点で8尺の棒を立ててその影を計測し、そこから北へ1000里移動したときの影を計測したところ一尺の差が出た。これが「一尺千里の法」である。これによれば当時の一里は今日の76~77メートルに相当するという。太陽の影の計測ならこれは正確なはず。従って、12000里とは約920キロとなる。
@moto1269
Жыл бұрын
以前の動画ですがお勧め動画に上がりました。 魏志倭人伝の地名は好字と蔑字が巧みに利用されています。 異民族の住む土地は蔑視していたのでしょう。狗邪韓国なんてひどいものです。 それに対して伊都国って明確に好字ですよね。これは伊都国が渡来人の住む土地だったからだという説を唱える人がいます。 『幕末維新の暗号』の著者、加治将一さんなどですね。推定地はともかくとして説得力がありませんか。 女王国がどこにあったのかは知りませんが、興味深く視聴させてもらいました。
@sao0308
3 жыл бұрын
良い考察でした。👏
@mousou
3 жыл бұрын
ありがとうございます。
@ヨッサーン
3 жыл бұрын
おお、伊都国以降は違う見解ですが、伊都国まで自分と同じ見解が出たのはうれしい。 陸行に切り替えるのは船で行けない内陸に向かったと考えるのが自然だと思ってます。 なので糸島までは船で行っており、末盧国は沿岸の集落を辿って進んだと考えれば末盧国の記載内容が薄いのも納得できます。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 ヨッサーンさんは伊都国からはどうお考えなのか聞いてみたいです^ ^
@ヨッサーン
3 жыл бұрын
@@mousou ご返信ありがとうございます。私の妄想で良ければ書きますね(笑) まず、奴国の位置と、水行のスタート地点までは同じように考えてます。 違うのは投馬国と邪馬台国で、ここは連続説で戸数から考察して熊本平野一帯が投馬国、邪馬台国が都城、宮崎平野一帯と見ています。 連続説としたのは、ルート上から大きく外れている国を記載することが不自然だからです。 水行は有明海~八代海で、当時の船の性能、海域の波の高さ、海流の傾向、1日の水行に充てられる時間を自分なりに検証したところ、 この区間の日数は20日~30日くらいになると結論が出ましたので、日数も合うと見ています。 太平洋側に出ないのは波が高く、海流が強すぎて役人クラスの通行には向かないから。出水市あたりから陸行に切り替える必要があった。 こんな感じで自分としては魏志倭人伝を固定観念を外して素直に読んだだけのつもりです。 ちなみに狗奴国は九州内ではなく別の場所にあったと考えてます。そのほうが色々辻褄が合うんですよね。
@ヨッサーン
2 жыл бұрын
@@北島正隆-d5x さん 私の妄想に付き合ってくださり有難う御座います! >「南に行って邪馬壱国に至る」としか読めません。 私もそこはそう読んでいますが、細かく説明すると、方角は国の位置関係で女王之所都への行程が水行十日、陸行一月だと解釈しています。 ですので「(投馬国)から南に行くと邪馬壱国があって、(その中の)女王之所都に行くには(投馬国から)水行十日、陸行一月掛かる」という理解です。 また、邪馬壱国と女王之所都が別なのでは?についてですが、仮に別だっとしたら邪馬壱国は何を指すのか、どこを想定されているかが分からないため、「であれば、帯方郡から邪馬壱国まで12000里という記載と、水行10日陸行1月という記載と矛盾はしません。」と仰っている部分が理解できないのですが、もしこれが帯方郡から九州北部までの水行を10日と見ているのであれば、そこは要検証だと思います。 800km以上の行程、その半分が海流に逆らうことになるので個人的には厳しいと感じますが。
@よごれ-f6e
3 жыл бұрын
お久しぶりでございます もう引退してしまったのかしらとさえ思ってました(笑) その間に別のうp主さんの動画に浮気してました(笑笑) そしたらそのうp主さんも最近になって「邪馬台国(の都)は宮崎市が怪しい」という結論に至ってました。 使者は伊都国にまでしか行っていないという考え方、すごくいいですね、いろんなことに辻褄が合います あと大宰府の辺りというのも物凄く納得です 次回動画も楽しみにしています
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰して申し訳ありません。 しばらくプライベートが大変だったのでサボってしまいました😅
@mastakos2400
3 жыл бұрын
久々の投稿お疲れ様でした。 魏の使者が伊都国までしか言ってないというのは記述の細かさ見ると普通に思いつきそうなのに昔の学者先生の話では聞いた事ないので定説は全く当てにならないと私も思ってます。戦国時代でもどんどん定説が覆ってますからね
@イナバユウスケ-b7l
2 жыл бұрын
鞠智城は日本書紀でも「修繕した」と書かれているので以前から何かがあったと文献からも推定でき。実際鞠智城の楼閣は弥生時代の地層に建っているので発掘による考古学的にも確定して弥生時代から奈良時代までそこに「何かがあった」と言えます。さてこの鞠智城から堀切を渡ってつながる日本最大の弥生遺跡「台遺跡」四重の堀に囲まれ高台に位置し厳重な警備機能を持つ「都」にふさわしい地形をもっています。
@user-hirotaka0123
Жыл бұрын
そもそも魏志は魏が滅んだ後の晋の時代に書かれてるから魏の都合とかあんま関係ないんじゃない? しかも中心作者の陳寿は蜀の人だから魏には全く縁がない。蜀を持ち上げても魏を持ち上げる理由がない。あえて間違いがあるなら海の上での里数じゃないかな?どうやって海上で里数を測ってたのかな?今みたいな位置情報はないし
@takosu4512
3 жыл бұрын
こんばんは。間が空いていたので心配していましたが無事アップされて嬉しいです。伊都国が太宰府というのは私も同じ意見なのでこちらも嬉しいですね。末廬国と伊都国は、鴻臚館と太宰府の関係なのだろうな?と思っています。伊都国の記述で、少数派でしょうが世々王あり、皆、女王の属国を統率する、と訳すものだと考えているので伊都国は倭国とは別国扱いにすべきなのでは?と思います。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 伊都国=太宰府説の方が他にもおられたんですね^ ^頼もしいです!
@takosu4512
3 жыл бұрын
@@mousou やはり最初の上陸地点が末廬国だとその後の道程がどうしてわざわざ陸路を選ぶのか?不思議に思います。海流を考えても真南に移動するのはあまりに厳しい。海流にしたがって博多湾に来たほうが楽ですからね。海岸線も今と違いもっと水位は上がっているので、今より大宰府に移動しやすかったと思うし。国名は違えど一大卒は随書にも出てきますし、伊都国は中国人らしき人が支配していると思えるので倭国とは別種な国ではないかと思います。遠田川流域も捨てがたいのですが そもそもこの時期の糸島半島は文字通り島だったという人もいるので、それでは陸路では到底いけないので糸島半島はないと思います。
@enjikab3189
3 жыл бұрын
大分県日田市に月出山岳(カントウダケと読みます)と言う山があり、高い山ではありませんが登ると福岡の脊振山、阿蘇山、九重連山、切株山(クス国であったのではないかと言われてる玖珠町の山です)が見えます…Googleマップで月出山岳から360度回してどんな方向に山が見えるのかやってた時に日田市〜日向市が繋がって見えるルートが見えて不思議な気分になりました。 日田市→阿蘇山→高千穂町→日向市です。 (Googleマップで日田市を南側に置いて日向市を北側に置くと見えやすいと思います) まぁだからどうと言う事はありませんが、こんなルートで移動してたのではないかと思った次第です。また お暇があれば見てみてください。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 マップ見てみました! 確かに阿蘇経由で道みたいに見えますね^ ^ ただ、実際行ってみた感想ですが、現在では谷に橋があったりと地図上を真っ直ぐ進む事が出来ますが、当時の舗装もされていない道を進めたかどうかは…(^◇^;) 特に阿蘇から高千穂、高千穂から延岡までは並大抵の道程じゃなかったかもですね^^;
@enjikab3189
3 жыл бұрын
@@mousou …ご返信ありがとうございます! やはりGoogleマップみただけでは無理ありますね(笑) 失礼いたしました💦 動画楽しみにしておりますので、ゆっくり考察されてゆっくりアップしてください○
@一文字屋広宣
3 жыл бұрын
改めて思ったのですが、《魏志倭人伝》の旅程は本当にアテにならない。よくも皆さんは考察出来るものだと関心してしまいます。 例えば、序盤から『水行』した後で『始めて大海を渡る』です。ここで『沿岸航海』と『渡洋航海』の区別が明確に付けられていた事が分かりますが、そうなると『水行』は『沿岸航海』にしか適用出来なくなり、『水行』が出て来た時点で内陸を移動経路に使用出来なくなります。 大陸にはデカい大河もありますし、古代日本社会に『河川流通』が存在しない訳がないので、河川を下る『水行』でも構わない気もしますが、何故か《魏志倭人伝》には内陸移動の最大の『利点』であり『障害』にもなる『河川』に関する記載がありません。「現地調査報告書」になっている邪馬台国の『風俗描写』の下りにも河川の存在は窺えず、河川がないと水源がないので『人口密集地が成立しない』でワケワカメです。 何れにしても、投稿再開お目出とう御座います。「もう止めてしまったのかな?」と心配していましたが、次回の投稿を期待しています。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 ご心配をおかけして申し訳ありません。
@yhira2010
3 жыл бұрын
郡使は伊都国までしか来ていないにハゲドウです。 なんといっても郡使常所駐ですもんね。 それにもうひとつ、他の文章表現での使い分けにも根拠が見つけらます。(これも、こんな読み方をしている人は少ない、というか、私は見たことがないのですが)それは「可」の用い方です。 冒頭の女王国までの諸国の行程や家数などの記述に「可」のあるものとないものが書き分けられています。 私がいままで見たことのある読み下しは、この可を「ばかり」と訓じて概数表現としているものだけです。 しかし、これは使節の直接見聞によらない伝聞情報による推測を表しているのではないか?こう解釈したらどうでしょうか? 使節団が実際に往来し、あるいはじかに望見し、あるいはこれまでの往来や交易の実績を踏まえて確信できている数字は可をつけず、クロスチェックしきれていない伝聞情報や山岳などに邪魔されて望見できない地形地積については推測として記述している、それが「可」の文字ではないのか? そう考えて読むと、なるほど、陳寿の記述は伊都国までとそれ以遠とでは数字の確証度合いが違うので、ああ、使節は伊都国止まりなんだな、伊都国で女王からの答礼を待つ間、百里程度の奴国と不弥国あたりにはトリップしたか近くの山上から観望したかそこから来た人たちと交流したかしたんだなと。そして、道中立ち寄った国であっても、例えば山がちの孤島対海国は、集住村落は一望して戸数がわかるが、地形についての方四百里は推測したものだ、と、正直に書いているのだ、と。 また、そう考えれば、中盤の、 及郡使倭国皆臨津捜露伝送文書遣之物詣女王不得差錯 も、郡=中華の側は 倭国をして 捜露させ、伝送させ、詣でさせ、手違いをしないようにさせ、 た、という使役表現(と私は考えていますが、)が持つ意味合いもはっきりしてくると思います。 と、ネット上の原文を再読してるうちに、また違う疑問も出てしまいました。本動画には関係ないのですが、上でふれた及郡使倭国~の少し前の文、「国国有市使大倭監之」なんです。 この「大倭」ってなんなんでしょう?大なる倭の国?大倭という役名の市場監督奉行?個人名? だいたい、この大倭をして市を監督せしめている主体はだれなんでしょう?もし倭国をして監せしむと読むのだとしたら、倭国の上により強い権力が存在するの?それなら倭人の条よりもそっちがまず書かれているはずですよね? 😓うーん。です。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 一説では大倭は役職の名前だったという説もありますが…それにしてはちょっと不自然すぎるなと考えています。 私的には、大倭はもしかすると大和なのかも知れないと思ったりもしています。 だとすると倭=和なのかも。と。 当時の魏や晋など大陸の後楯のある倭国(和国)を近畿勢力(後の日本国)が飲み込んだ後、大陸との外交をしやすくする為そのまま倭=和を名乗った。と妄想しています。 そうなると、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」も意味が変わってくるかも知れないとも考えています。 が、まだ裏付けの取れる資料が揃っていないので、ただの妄想でしかないですけどねw
@北島正隆-d5x
4 ай бұрын
私も「可」は推測又は伝聞と解し、魏の使者が倭人から「人口は5万個くらいです」と聞いたのを「伝聞」として書いたのでは? あるいは明確に分からず(合算など)これ位だろうか?と「推測」として書いたもののどちらかだと思っています。 ただ、其人壽考或百年或八九十年 という一文が別にあります。「その寿命は百年あるいは八十、九十年と『考えられる』」と、 推測を推測として記載していますが、こちらには「考」という文字で推測であることを記載しています。 ですので、可五萬余戸は「5万戸あまりと聞いた」と、伝聞ではなかろうかと思っています。 大倭ですが、一応倭人ではあるが体が大きい一群ではなかろうかと推測しています。 魏志倭人伝に記載された倭人の様子は南方系の人間であり、であれば身長は比較的低いと推測されます。 一方渡来系弥生人は身長が高めです。 大倭とは、南方系の倭人にあって、渡来系で比較的高身長の一群を指したもの、と推測しております。 これが後に東征し、倭をよりよい意味の和に書き換えて、近畿にて大和朝廷を作ったのではないか、とも睨んでいます。 近畿の人間には入れ墨の風習はないし、魏志倭人伝には「その風俗は淫ならず」と書かれていますが大和は違います。 天岩戸の故事で、ウズメが女陰を晒して踊っていますが、これを「淫ならず」とは言わないと思います。 後の源氏物語も官能小説ですし、血は争えないものだと思います。 ちょっと脱線します。 倭という文字が使われた理由ですが、稲作を行い(禾)女性を首長にする風習がある(女)人達(イ)という意味ではないだろうか。 大倭を大和に変えても、稲作をする(禾)の部分は残したのではないだろうか、と思っています。 脱線ついでに。 近畿は桃を神聖視してもいますが、これは桃の種子や未熟な果実には青酸化合物があり、食べると見かけ上血色がよくなります。 (実際は青酸とヘモグロビンが結びついて酸素が運べずヤバいのですが、見かけ上赤くなります) これを神聖視したものと思っています。であれば、南方系の浅黒い肌では血色がよくなったことは分かりません。 このこともあって、近畿は北方系・渡来系だと思います。
@市原えっちゃん
3 жыл бұрын
お久しぶりです。主も方眼紙使用されましたかw色々計算するのに都合いいですよね あとは魏志の記述にそった卜骨(焼いた骨)の出土例をもっていけば・・・うp主の好きな、あの地ですよね
@mousou
3 жыл бұрын
えっちゃんさん、ご無沙汰してます🙇♂️ ずっと前から方眼紙は用意していたんですが、説明するだけの裏付けが取れなくて😅 確信を得たくて、この夏は北部九州回って来ちゃいましたw
@市原えっちゃん
2 жыл бұрын
こんにちは 私は、潮流の向きと速度、倭船の基本速度を入れて水行1日でどの程度進めるかとか、30日でどこまで行けるのかとか妄想してました
@市原えっちゃん
2 жыл бұрын
お返事ありがとうございます。 潮流は、マリーンネットでkt/10mを参考にしています。 倭船(手漕ぎ・ガレー船とよぶべきでしょうか)の速度の私なりの判定は、2.5kt/h~3.5kt/h。 古代エジプトと大航海時代のガレー船、それらが役目を終える19世紀のガレー船と近代船(ディーゼル内燃機)から推測しました。 もしかしたら、私たち話が合うかも知れませんね。 ご指摘やご見解など、沢山いただけると嬉しいです。
@hanatosi2834
3 жыл бұрын
最近は魏の都合で魏志倭人伝で日本の位置がわざと正しい位置を書かなかったという説があるので、そこまで来ると魏志倭人伝をいくら読んでも正確な位置が出るわけないですよね。
@nubo520
3 жыл бұрын
久しぶりなので九州に遺跡調査の旅に出ていたのかと思いました。
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰してすみません。 確かに春から夏にかけて福岡、壱岐対馬など回ってきたんですが、撮影したスマホが途中で壊れてしまいデータが全て飛んでしまって凹んでました( ; ; )
@mikusunoki7180
3 жыл бұрын
今までのシリーズをまとめてみたら、学術論文出せるレベルだと思います UP主がすごいな
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます🙇♂️ 私の説は妄想の域を出ないので😅
@user-maya-yuko
3 жыл бұрын
地元民です🦊 【伊都国】と言えば 卑弥呼の時代より前に 【女王】が支配していたと伝えられていますね。 そして 日本最大の銅鏡が発掘されてます。 かなり大きな国だったんでしょうね。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 九州はロマンがありますよね^ ^
@giantszero6962
5 ай бұрын
邪馬台国の位置より投馬国の位置の方が分かりにくいよね。 水行陸行双方の手段が必要なのか、それともどちらの手段でもたどり着けるのか。 本動画で水行が川を乗り継いで有明海方面という解釈は分かるがその後の陸行でなぜ宮崎?
@perie1874
2 жыл бұрын
まつろ国についての記述で魚やアワビを潜って取るというようなことが書いてあるんですね!宗像の鐘崎の海女さんを想起させます。まつろ国から東南へ陸行するとか言うことを考えてもまつろ国ってやっぱり宗像かぁ〜って勝手に思ってます(๑ ᴖ ᴑ ᴖ ๑)
@スボ-l7p
8 ай бұрын
白村江の戦いで負けたのは畿内勢力の日本(ニッポン)、壬申の乱で勝ったのは倭国(にほん)であった。旧唐書の日本が倭国を併合(大化の改新)、新唐書の倭国が日本を併合(壬申の乱。
@たいとう世直し君
3 жыл бұрын
あんたヤバいよ… 論文出しなよ… 絶対に高い評価を受ける。
@名無しの権兵衛-t5s
3 жыл бұрын
武経七書の一つでもあり、唐末~宋代に書かれた「李衛公問対」でも昔の書物は噓八百が多いから気を付けろ。と言われてますね。 ここまで史料が無茶苦茶だとタイムマシンが欲しいですね。 日本では明治時代になるまで陸運より水運がメインだったので熊本北部の方が支援物資を集積しやすく水運の利があったのなら支援基地が作られた可能性はあります。 東国では、霞ケ浦水系&利根川水系、畿内では淀川水系+琵琶湖水系、中京地域では木曽三川の水運を巡り古来から戦国時代までドンパチしてる事実があります 陸路が無茶苦茶なのも「李衛公問対」で書かれたように噓八百+日本の陸路が悪路ならありうると思います。
@chartreux8673
3 жыл бұрын
そのまま直訳すると変なところに行き着くから、何かしらのファクターが我々の解釈と違うはずってところから解釈が分かれるってのが、諸説入り乱れる原因 そう考えた時に、距離の単位やかかる日数が現代の感覚と違ったり箇所によって増減する可能性は高いと思う ただ当時と現代で太陽の昇り沈みの方角が違う事はありえないし、当時の人達はむしろ今より天体などから把握する日常方角感覚は正確に養われてた可能性は高い 方角については間違いなく色々なファクターの中でも一番正確な可能性が高いはずで、近畿説はやはり奈良周辺に誘導したい意図ありきの無理な改変感が拭えない
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 今でも地元の人に聞けば、夏に太陽はどの方角から上るかとかわかるので、方角は間違えようがないですよね^^; 中には地図自体が日本が南北になってる。だから昔の人はこういう認識だったんだ!と、15世紀辺りの李氏朝鮮の地図を引っ張ってくる方もいますが、同時代の他の地図はちゃんとした地図なのにそれを無視して、都合のいいものだけをもって根拠とする人もいますw 私も人のこと言えませんが、邪馬台国がここであって欲しい!から始まると変な解釈になっちゃいますよね^^;
@轟ゴン
3 жыл бұрын
定説とされてる伊都国=糸島は唐津から糸島までのかなり険しい山も抜けないといけないんで 圧倒的にそのまま糸島に行ったほうが早いし変だよねと思ってました。 自分は末盧国が伊万里、伊都国が武雄なんじゃないかと考えてましたが、 動画を見て定説よりもめっちゃ可能性あるなと納得しました。ありがとうございます。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 末盧国から陸行しているので、普通に唐津→糸島は無いんじゃないかと思うんですよね。 陸行する理由がちゃんと説明できる場所じゃないとおかしいですもんね。
@wan6347
5 ай бұрын
伊都国は小倉北区到津です。 末廬国は宗像、神湊てす。
@pleasure5458
3 жыл бұрын
動画のアップ無いから、 心配してました。 邪馬台国は、楽しく愉快にですね👍 勉強になりました。👍
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰しております🙇♂️ 歴史の謎は誰でも好きに妄想できるから楽しいですね^ ^ 今後ともよろしくお願いします🙇♂️
@ラピス-n1g
3 жыл бұрын
お久しぶりでございます。待っておりました。海外に行けないので国内制覇にシフトし、九州を回る予定を立てておりました。以前の動画で生目古墳群をメインに東征の軌跡とゆかりのある神社を訪ねようと計画しておりました。動画をじっくり見直して、充実した旅を計画し・妄想したいと思います!
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 ご無沙汰して申し訳ありません🙇♂️ 夏に北部九州のあちこちを回ったので、その動画もそのうちup出来たらと思います^ ^
@ラピス-n1g
3 жыл бұрын
@@mousou 楽しみにしております!
@eiji1784
3 жыл бұрын
ひとつ、疑問があります。使者が伊都国までで後は伝聞で日数ならどうして女王国までの距離がわかるのですか?
@mousou
3 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 確かにおっしゃるように伝聞での日数で距離がわかるのかは疑問に感じます。 ただ、対馬の周囲400里と壱岐の周囲300里、倭地周旋5千余里ともあります。 ここも実際に行って確かめた数字ではないので、なにかおおよその里数を計算する方法でもあったのかもしれません。 また、邪馬台国に関しては、女王之所都という表現で、12000里とある女王国とは明らかに表現を変えているのが気になっています。 まだはっきりと説明できるだけのものはないですが、もしかすると邪馬台国と女王国は違う場所を指しているのではないのかと、現在調べている最中で、新しい発見があった時には動画をアップしたしますので、もうしばらくお待ちください。
@内田雄平
2 жыл бұрын
@@mousou 女王國と邪馬台国の違いは気になっていました。女王國→30ヶ国すべて、邪馬台国→卑弥呼のいる首都、のような関係なんですかね?何か発見ありましたらupよろしくです。
@高橋邦雄-z2u
2 жыл бұрын
吉野ケ里 種子島間を道理ではかったらちょっきり304キロ 短里4000里7.6キロかける4000でした
@海底沈8823
3 жыл бұрын
霊夢の饅頭フエイスが懐かしいです。邪馬台国の後を継いだ「台与」もうPしてくださいまし。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 台与もやりたいですね^ ^
@高橋邦雄-z2u
2 жыл бұрын
後漢書倭伝(原文、和訳と解説、構造分析)を検索下さい
@yo2trader539
Жыл бұрын
加唐島は嶋王(=百済・武寧王)の誕生地でもあり、朝鮮半島に出兵した神功皇后の伝承が多い場所です。それゆえ半島→対馬→壱岐の後に立ち寄るコース沿いだと思われます。古代の船の埴輪や古墳の壁画を見る限り、大木をくり抜いてるものや、カヌーに帆が付いてるだけのシンプルな構造。コンパスや海図もないので、陸地沿いを航海したり、次の陸上目標が見える最短ルートを選んだのではないでしょうか。海流の関係で真南に進んでも北東に数ノット流されますけど・・・
@丸山康平-l2f
3 жыл бұрын
この魏はかの漢の後継にして 超人曹操が礎を築いた伝説の魏! それだけでロマンポイント10000ぐらいある。ワイが冊封を受けたいくらいや。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 そうですよね^ ^あの曹操が作った国と我が国が付き合いがあったとかロマンですよね〜^ ^
@hoimisuraimu
3 ай бұрын
唐津が末盧国で、そこから陸行で東南五百里いくと吉野ケ里遺跡なのに、地名が似ているという理由で東北の糸島を伊都国と断定している人が多い。方角の正確性を考えると、吉野ケ里遺跡が伊都国の可能性は十分あると思う。
@tomahawkti
3 жыл бұрын
昔の漢字には表面文字と裏面意志という技法があったらしいよ
@hironobushi
3 жыл бұрын
陳寿が書いた当時の漢字の発音で読めばいいのでは?地名と思われる箇所のヒントが隠されてるかもね… ハカタと聞こえる箇所もあるようですよ。 井沢元彦さん説だった気がします…
@秋猫屋純
3 жыл бұрын
闇に葬られたのかと心配してましたw
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰しています。 かろうじて生きておりました😅
@トミヤマ-c6r
3 жыл бұрын
中華思想を主に考察する事は大事な視点ですよね、魏志倭人伝はあくまで三世紀後半の当時の中国人が書き記した物だという点を忘れちゃダメだと思います。 また別の見方では東方は神仙思想においては「特別な場所」という点も頭に入れておく必要もあります。
@mousou
3 жыл бұрын
トミヤマさん、ご無沙汰してます! 神仙思想ですかー! 盲点でした!
@wajin5695
Жыл бұрын
里数はどうやって測ったのでしょうか。Googleマップで比定地を探すと、75mの短里が欲しくなり、方向も分かってしまいます。当時、短里を使った形跡がないので、野上道男先生は一寸千里法を使ったとされています。 一寸千里法で沙里院と巨済島南端の影長差を測ると5.6寸つまり5600里、これに句股術に従い5/4倍すると7000里となり、12000里を4/5倍と逆算すると南北9600里(宮崎市同緯度)、3/5倍すると東西7200里となります。 当時の関心ごとは、女王国(九州本島)が何処まで南に伸びているか、だったのでは。点と点の距離を測る技術など無いので、一寸千里法で南北距離だけを測るしかなかったと言うことです。 ただ、一寸千里法は原理上、長里の5倍以上と、イイ加減です。方可400里や、500里、4000里などの里数は全て、一寸千里法で凡そをある程度は説明できます。影長の概算式は 80×tan(緯度-23.44度) で、洛陽34.75度で16寸のはず。 追伸) 呼子を上陸点とすると、真東の500里100里100里に、伊都国(井原)、奴国(吉武)、不彌國(岡本)が一直線に並び、一寸千里法で測量可能です。 230913
@紋太-f6v
2 жыл бұрын
皇帝が自ら選んだ超高級品を数多く携えて更に皇帝の親書まで持参し紛失盗難破損の可能性も有るのに出先機関の役人に渡すだけで後は宜しくと言い残してさっさと中国に帰ってしまうなどと言うことがあるだろうか
@紋太-f6v
2 жыл бұрын
使者が中国に帰った後に貢ぎ物や親書が女王に届いていなかったとの情報が伝わったら使者はどうなるのだろう
@内田雄平
2 жыл бұрын
とても面白いですね!方角やら日程やらもうちょい詳細に記載があれば… 卑弥呼は30ヶ国ほどの倭國の女王であり、邪馬台国は卑弥呼が住む首都?のような位置づけと聞いたことがあります。1万2000里は女王國(30ヶ国の末端)の距離であり、邪馬台国はそこから水行、陸行をして辿り着く、と考える余地があるようです。いつか考察していただけると嬉しいです。
@高橋邦雄-z2u
2 жыл бұрын
伊都国 吉野ケ里から水行10日女王国の都邪馬壱国(邪馬台国)薩摩川内であり余地はないと思います 水行20日投馬国は宮崎です 陸行不彌国から1か月川内です
@keeperofthe7keyspart
3 жыл бұрын
最近発売された歴史道の邪馬台国特集ムックの中に『魏志倭人伝』の伝える邪馬台国の虚と実という特集があり、 曹真の大月氏国の封建と釣り合うように司馬懿の功績を盛るため公孫氏を滅ぼしたあと朝貢してきた邪馬台国までの距離を長くした、という解説が載ってました。 私もこの説はもっともらしいと思ったのですが、もしかしてうp主参考にしました?
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 その本?は存じ上げませんが、おっしゃられるような説は以前から聞いてはいます。 割と有名な説だと思います。 なので、特にそれ自体を参考にとかではないですが、中華思想という大きな括りでは参考にしたといえばしていますね^ ^
@keeperofthe7keyspart
3 жыл бұрын
@@mousou なるほど。自分は目新しいなと思ったのですが昔からある説なんですね。
@真田丸-n7b
3 жыл бұрын
彼の国は、話しを盛るにたけている。一字一句信じるのは、果たしてどうか? 曹真に忖度して、倭国は大国としなければならなかった。
@真田丸-n7b
3 жыл бұрын
結局は、発掘等により親魏倭王の印がでなければ、永遠の謎!
@kooota7455
3 жыл бұрын
私は投馬国(宮崎?西都原?)への水行20日の起点は伊都国だと考えてます。 そう仮定すると・・・水行10日で延岡、陸行1月で五ヶ瀬川をさかのぼり高千穂へ到達するんですよね。 一応速度計算上は説明できますが、まぁ一説と言う事で。
@lullaby000kawa
3 жыл бұрын
当時の海岸線は今とは違うのではないでしょうか?太宰府あたりは海か沼地だったのではないかと思います。
@JINBA20085
3 жыл бұрын
都農~木城~西都~佐土原~生目(跡江)この辺り一帯は古墳だらけです。 西都原古墳群は有名ですが、ちょっと離れた場所にもぽつんと古墳がたくさんあります。 その時代それなりの人口があったんでしょう。水も豊富だし温暖な気候だからかな。 木城などは三大開拓地と言われるくらい入植してきたので破壊されたモノもあるんじゃないかな。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 以前、宮崎県を回ったときに、遺跡や古墳の場所が時代により内陸から海側へ移動しているんじゃないかと感じました。 川南町辺りには弥生時代の小さな集落が火事で焼けた遺跡などもあって、倭国大乱をイメージしたりもしました^ ^
@グレートA
3 жыл бұрын
はじめまして! 魏志倭人伝は、全く興味がなかったのですが、楽しく動画を拝見させて頂いてます。そういえば、過去糸島に住んでた時に地元の方に聞いた話を思い出したのですが、旧志摩町に引津(ひきつ)という地名がありまして、昔は荷物を荷揚げしてた場所だったそうです。すぐ近くに新町遺跡があって、そこは最古の戦死者が発掘された遺跡だそうです。 時代背景など違ってたらスミマセン💦
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 夏に糸島まで行って短時間ですが現地を回ってきました^ ^ 新町遺跡は残念ながら時間が足らず行けませんでしたが、確か弥生時代初期の集団墓地みたいな感じだったみたいですね。 志摩方面は九州でも半島に近く、当時は栄えてたんだろうと思うと妄想が止まりません! 今度は時間作ってぜひゆっくり回ってみたいです!
@くらり-y1u
3 жыл бұрын
帯方郡はソウルではなく遼東にあったと 書かれているので、根本的に位置を見直す べきだろう。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 遼東は楽浪郡じゃなかったですかね?
@くらり-y1u
3 жыл бұрын
@@mousou さん ご返事ありがとうございます。 帯方郡は楽浪の南遼東にあり、とあるので 遼東半島あたりにあったのではないでしょうか?
@mousou
3 жыл бұрын
@@くらり-y1u さん 通説ではソウル辺りと聞いてたんですが、どの資料に書かれてましたか?
@くらり-y1u
3 жыл бұрын
@@mousou さん 晋書に[帯方郡、統県7、帯方.列口.南新. 長岑.堤奚.含資.海冥]と遼東半島にある 列口という地名があるのでそうでは と考えられます。
@彦のの
3 жыл бұрын
とても興味深く拝見しました! ・イト国の官名は書いたのになぜ王名は書かなかった? ・超貴重品を直接渡さず、手前の国に渡しちゃうなんて心配じゃなかったのか? ・川は徒歩で渡れ無くても、渡し舟的な物があったのでは? なんて思ったんだけど、当時と今の感覚は違うかもしれませんね…
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 >伊都国の王名について 王がいた話は倭人伝では卑弥呼と狗奴国王の名前しか出てない事から、魏が認めている王は卑弥呼一人なんじゃないかと思います。 狗奴国は敵対勢力なので王を自称しているからかと。 つまり、官は、各地方の王の事で、倭王を認めている卑弥呼以外は王と書けず官と書いたのかと。 また、伊都国では代々王ありと、唯一卑弥呼以外の王の存在を書いていることから、漢委奴国王のいた国なのではないでしょうか? >貴重品を直接渡さず心配じゃなかったのか? これも魏志倭人伝には、荷物は全て検査され女王へ送られる。間違いは許されない。と書かれています。恐らくこの通り倭の役人から言われ、自分達の責任を逃れるため、それをそのまま記録として残したのではないでしょうか? >川は渡し舟的な物があったのでは? 古代には橋の代わりに小舟を並べて渡る場所もあったようです。 また、大きな川は渡し舟程度ならあったと思います。 しかし、松浦川になると話は変わります。 わざわざ東松浦半島で下船して荷物を運びながら、また渡し舟に乗って徒歩で糸島へ向かう理由が見つからないのです。 そんな苦労するなら直接糸島へ向かえるはずなので。 糸島の西側が浅瀬と崖ばかりで大きな船が着けないからだと言う方もいますが、それなら東の博多湾から行けばいいだけだと思うのです。 500里も苦労して歩くのが不可解すぎるのです。 以上、今の段階での私の見解です。
@彦のの
3 жыл бұрын
@@mousou ありがとうございます!これからも更新楽しみにしています😀
@tourisugari6797
2 жыл бұрын
伊都国も一大卒の監視下におかれていたからでは?
@ひなたさくら-u5i
3 жыл бұрын
文章を伝送するという文言も重要だと思うけどね、読み書き出来てたとも取れるしね。 大宰府を役人のいる大きな都市として考えるなら、そこが伊都国である可能性は高いですね、都って言葉が示す意味のままならね。 古事記の序文の記述を参考にして、発音から探るって言うのも、場所なんかも含めて、当時を知るうえで重要な気もしていますね。
@mousou
3 жыл бұрын
いつもご視聴ありがとうございます。 遺跡の下に遺跡あり! 古代から重要な場所は変わらないはずなんですよね。なので、太宰府の下には伊都国が眠っているはず!
@高橋邦雄-z2u
2 жыл бұрын
後漢書には明確に楽浪郡と書いてあり 斜め7000里であり誤解を与えるおそれがあります 旅程は書かないほうがいい
@もりせいいち-v6c
3 жыл бұрын
動画アップ ありがとうございます😊 そもそも、まつろこくにも 行ってないと思うなあ 行く価値なさそうだし。 いとこく直行がしっくりくるけどなあ。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 確かに定説通りなら末盧国による理由がないですよね。船で直接行けるのに道のない道を貢物を抱えて歩く理由が見当たらないです。 でも、仮に末盧国に寄らず、伊都国直行であれば、魏志倭人伝の書き方が、奴国や不弥国と同じように書かれていたと思うんですよね。 なので、私は伊都国まで船で直接行けない場所に伊都国はあったと考えています。
@wiroarero
3 жыл бұрын
山の中の場所(邪馬台)のうち7万号が入るのは山梨県と長野県の中部地方だと思います 東夷伝にも女王国を南(実際は東)の最後に紹介し、それ以上は遠くて切れて行けないと記述しています 九州東北部から南へ(実際は東)海路で20日行って投馬国(近畿) 再び 南(同じ方向にもう一度)に海路で10日, 陸路に1ヶ月行って女王国です 陸路で一ヶ月がポイントです深い山の中に入るのです 古代には海水面が6〜7mほど高かったので、今の臨海平野は古代には人が多く住むことができませんでした。 邪馬台国を九州だと仮定すると、九州の人口がとんでもなく多くなります
@wiroarero
2 жыл бұрын
@@北島正隆-d5x はい 今韓国の人口は5000万、九州の人口は1300万です 記録上の3つの大国がすべて九州に位置するとしたら、九州と三韓の人口が同じになります(15~17万号)。 近現代でもあるまいし農耕時代にその程度の人口集中はありえません。
@kenn8438
2 жыл бұрын
動画作成おつかれさまです。 魏の使者が伊都国までしか行っていないとの結論、とても正しいと思います。 倭人条を中国語で正確に読むと「到」と「至」は意味が違うので使い分けられているのがわかります。 まず「狗邪韓国」という国はありません。「狗邪」という国名と「韓国七千余里」という旅程情報をつなげてしまった誤読です。水行すると狗邪に"到"着するがそこまで行くと海流に流されて対馬に着かないので韓国を七千余里水行したところで海を渡り始めるが正解です。 伊都国も「到」が使われています。ここより先に旅程は続きません。ここが目的地です。伊"都"国です。そして卑弥呼に会い印を授けました。 この先の国は全て「至」、おまけです。この部分は張政が調べた情報でしょう。なので魏は邪馬台国の場所などどうでもいいのです。 ただ日本人は邪馬台国に卑弥呼がいると思い込んでいるためにやっきになって場所を探しています。 時間の無駄だということも気づかずに。
@高橋邦雄-z2u
9 ай бұрын
陰影で薩摩仙台がピョンヤンから908キロで短里75.7メートルで直線距離万二千里です東西は測りにくいので南九州が有力です吉野ヶ里伊都国から南に水行10日でつきます
@abeleuler1
3 жыл бұрын
そもそも「魏志倭人伝」ってなんだろか? 正書としていいのか ? とらわれ過ぎだという思いがある 後の文献の方が過去のことが整理されていて客観的なものと思うぞ
@普遍-e7j
3 жыл бұрын
伊都国より貢物を転送するのにある程度便利なところに邪馬台国があるのですか 投馬国は邪馬台国の同盟国ですか、とするとほとんど九州全体が邪馬台国の同盟国と、反対国になっていたということですか
@丸山康平-l2f
3 жыл бұрын
面白いのは、太宰府が伊都国なら 畿内説でも矛盾しないし、宮崎にも 繋げ易いのでそこまでは正解ですよね。
@kazuomoriya348
Жыл бұрын
マトモな議論に出会い期待したい。
@mousou
Жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます🙇♂️
@ともみひかりゆわた
Жыл бұрын
今週邪馬壱石が気になっていたので参考になリました。日本じゃないのでは?と考えてもいましたが、にほんだったらココだと思いました。でも、一年かかる東南の国が引っかかるのですよ。また教えて下さい!ありがとうございました。
@高橋邦雄-z2u
2 жыл бұрын
郡よりと書いてあり帯方郡とは書いてない 残り伊都国から1500里の根拠はありません 東行百里不彌国とあり水行陸行は書いてない 伊都国の説明は感服します
@DominantMotion
3 жыл бұрын
対馬から壱岐への説明が「南に1000余里」というところなんですが、壱岐って南と言えるのか微妙な位置関係ではないのかな?と思いました。(でも通説なのかな?) 対馬のどの辺から出立するのかわかりませんが、南端からでいいなら1000余里=85km程度だとすると、平戸あたりまで到達できそうだし、位置関係も対馬の南に相当します(壱岐よりは)とか思ったり。(その先に関してはなにも考えてないのですが) 壱岐って300里四方(22.5km四方)もないですし。でも南北と交易してるというのは壱岐っぽいですね。でも南じゃないよねぇ・・・。楽しいですね。
@yam7243
3 жыл бұрын
すごく納得できました。 当時の中国は既にそれなりの文化があったのだから、ちゃんとしたロジックで文章が書かれていて当然ですよね。 後の時代の資料になると、「過去に邪馬台国ってあったらしいよ」って話とその時期の日本のつじつまを合わせようとするから、方角とかいろいろと怪しい資料や地図が出てきて逆に信頼性に欠けますね。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 まさにそうですね。 仕方のないことですが歴史は人の手で歪められてしまうので本当の真実は永遠の謎でしょうね~
@高橋邦雄-z2u
2 жыл бұрын
伊都国は吉野ケ里です 末羅唐津付近から東南陸行500里と読める東南行奴国 久留米と推定短里100里7.6キロ 東行日田長里100里43.4キロ不彌国ならあてはまる 伊都国から185キロ水行10日日田から228キロ陸行南邪馬壱国薩摩川内なら理屈があいます 楽浪郡から斜め912キロ短里12000里です
@100EIZO
3 жыл бұрын
唐津なら、いまほどには大きくない川を2本渡った ってことだね。わたれてもおかしくないいが……まあ怡土も海沿いぽいし船で移動する方が自然ではあるけど 「東を守るなら下関あたりに」ということだけど、現に、大野城や水城と同じころに、長門城も作られているよ。細かい場所は不明だけど、関門海峡あたりだと、畿内にも日向にも防御機能を持つかもしれんね。
@日常と非日常-t9c
3 жыл бұрын
---言葉の壁--- 今でもそうなんだが、当時の通訳ってどの位正確だったのだろう? 聞く方は大体的に聞く。 答える方も、雰囲気+見栄+適当。 今の中国語対日本語の100倍も意味が通じなかったんじゃ無いのか? 卑下する訳じゃ無いが、当時の日本で距離・日数・人口、戸数等の単位として1,000とか10,000とか10,000の概念ってあったのだろうか? 平安時代の発音は、「パ、ピ、プ、ペ、ポ」や「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」だったとも言われている。 ---共通点--- 中国(中華)人と韓国人、日本人(和国)で共通なのは、昼と夜の時間くらいでしょ。 ---移動速度とロスタイム--- ナビの無い時代だから 船ならて真っ直ぐ進むわけじゃ無いし波もあれば風の向きだってある。 川の上り下りでの速度の差。 陸路だって、舗装しているわけじゃ無い。 崖もあれば、谷、湿地帯、密林 食糧調達、休憩等々 大雨や台風、体調(病気も) 記述の日数が事実だとしてもある程度(相当)ロスを見込まないと。 ---季節--- 季節も夏と冬では、明るい時間も違う。 ---私見1-気持ちがこもっていない-- 魏志倭人伝は280年~ 297年の間に書かれたとされている。 金印は3世紀末(238年)だとすれば、50年以上後に書かれている。 金印を与えたのは曹芳が皇帝の時(曹操→曹丕→曹叡→曹芳)で、魏(後漢)が滅亡後50年以降に、西晋の陳寿が書いたものだから、前の王朝の事を50年後に東方の果ての倭国の事をそんなに真面目に書いたとは、到底思えない。 正確に書こうとしても、資料が無いのだから。 ---私見2-写し間違いと彫り間違いとノーチェック-- 現存する魏志倭人伝の初版本は無く、何回も彫り直されて(複製も含む)増刷と重版が行われている。 たとえば、彫り師が『日と月』や『二と三』、『邪馬台国の台は「臺」「壹」』と間違えても気にしない。チェックもしていないだろう。 ---私見3-結論-- ☆陳寿の気持ち 50年位前には、西晋からみて東の韓国の先に倭国があったと思う。 金印も授けたかもしれない どこの位置かは関係ない。出来るだけ遠くにしておこう ☆彫り師の気持ち 一杯あるし細かい字だし、手も目も疲れる。 特に、字が反対だから見にくい。 もしかしたら、一行飛したかも? ちょっと刃先が間違えて彫ったって大したこと無い。 誰も気づかないし俺には関係ない。 と思って書いた人たちの資料を、一所懸命解読している日本人のなんと多い人か・・・。 長文 申し訳ない
@jpn-history
3 жыл бұрын
チャンネル登録解除してなくて良かった……! 自分は放射説より連続説かな、と思っていましたが、宮崎は卑弥呼が出てくる少し前まで岡山付近とやり取りしてたみたいだし(土器が発掘されている)、邪馬台国と手を組んで交流が途絶えたと考えると納得ですね! 邪馬台国の場所も、自分は熊本県の半分から北側だと思っているので、広い意味で一致してる事もあり、これからの考察を楽しみにしています! 自分もいくつか動画を作っているので(ウマ娘に夢中で暫くUPしてない……)、邪馬台国の場所くらいはUPしないとだなぁ……。
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 熊本県の白川を挟んで環濠集落が出ていていますし、私もこの辺りが邪馬台国と狗奴国の境があったのじゃないかと考えています^ ^ 動画up楽しみにしています!
@pleasure5458
2 жыл бұрын
あ‼️三十国~【三十】は、漢字で【世】と書くんですよ。世襲足皇后の時代の事?ですかね。 楽浪郡が当事国で確定しないから、里数で考察すると将来、楽浪郡が確定した場合、恥かきますからね。247年以前が吉林省。以後は平壌。これに伴い帯方郡も移動するのかな? 東西南北を平面地図で考察すると誤解しますよ。 地球儀を使わないと、 南北は、北極・南極を指す。東は太陽が昇るですから、平壌と北部九州と南九州では、東の方向が違う。地球儀を購入すると誤解してる事が理解できるかも? 率は、太宰府が出来た後、中国語・日本語の辞書ともに【率・帥】=【太宰府】一大率=太宰府と昔は確定していたのでは?学者先生はスルーですけど(^^) 伊都【都合/つごう】の【つ】を使うなら【伊都/イツ】→イツセ命は、日向にいますが、若ミケヌの義兄でしょうか?事代主の子の天日方奇日方の奧さん日向賀牟度美良姫ですし、三輪族ですしね(^^)伊都は、日向なのかも?やはり、リアルで、夏に原チャリで太陽見ながら旅を、し無いと方位の確認は出来ませんね 邪馬国は、シャア・メ・ 阳馬のシャア・メ 太陽神。神武の馬? 日本の総称だと思いますけどね。馭←神武のハツクニシラス。馬を操ると書いてますから(^^)
@もと-m8c
3 жыл бұрын
意外と太宰府はあり得るかもしれない。 あの場所は発掘調査も大宰府政庁時代よりも昔のところまでやっていない気がするので今まで事実がわからない可能性がある
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 弥生時代の都市遺跡が出たらビンゴなんですけどね^ ^
@もと-m8c
3 жыл бұрын
@@mousou 太宰府に生まれ育ったのでびっくりしました。少し掘ると遺跡が出る町なので逆に掘らないようになっているし新しい高層ビルも建てては行けないから深く掘ったことがないエリアが多いのでまじめに発掘調査すると大発見があるかもです。
@mousou
3 жыл бұрын
@@もと-m8c さん、最近は大和政権が古墳時代以降に作った地方都市の下には、それ以前に大きな国があった場所に作ったんじゃ無いかと思うようになりました。
@もと-m8c
3 жыл бұрын
子供の時から御笠川ってなんか高貴な名前がつけてあるのはなんでかなと思ったりしてました。
@maron9648
3 жыл бұрын
九州島を筑紫の島って言う筑紫も大宰府に続く道が石畳(築石)が語源だとも言いますしね
@プリン-o7c
3 жыл бұрын
もしかしてコロナで…と思ってたのでうp嬉しいです
@mousou
3 жыл бұрын
ご無沙汰して申し訳ありません。 ご心配をおかけいたしました! 今後ともよろしくお願いいたします。
@隆一西
Жыл бұрын
いちいち説得力ありすぎてヤバいですwww(TдT)笑 なお、狗奴国王都は熊本の方保田東原遺跡あたりでしょうか(¯―¯٥)
@mousou
Жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 私は狗奴国は球磨〜宇土あたりだと思ってます。 方保田東原遺跡から南だとすると、その南に点在する環濠集落の位置が味方に向けて防衛するような配置となるためです。 白川か緑川を境に邪馬台国と狗奴国で隣接していたのではないでしょうか。
@M司書
3 жыл бұрын
今とは海岸線が違うという事もありますけど
@mousou
3 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 当時の海岸線がわかる資料を読み漁りましたが、福岡湾辺りが多少内陸よりになるくらいで大きな差はないと判断しました!
@M司書
3 жыл бұрын
そうですか^ ^ 九州はもともと平野部が広かったという事なんですね^ ^
@yoshitome6648
2 жыл бұрын
魏志倭人伝の一里は76mです。
@高橋邦雄-z2u
Жыл бұрын
唐津虹ノ松原から南厳木川をさかのぼって厳木に行き有明海に出て東へ水行吉野ケ里北内郭につくので東南500里が水運で証明されます 糸島へは行きません
@hogehoge4983
3 жыл бұрын
里の距離については、単に、何メートルに該当するのか現代に伝わっていないだけで、別に大きく見せているわけじゃないだろうね。 何故かというと、後々こういった記録を元に、多数の人間が女王国を行き来しているし、その後の後漢書東夷伝他も皆、魏志倭人伝の距離や方角記述について訂正していない。 で、魏朝の使者は、ちゃんと女王国まで行ってるよ。魏帝直々の命令での外交なのに、使者が勝手な判断で途中までしか行かない……ってのはあり得ない。金印その他重要な進物を、テキトーに下っ端に持たせればいいなんてもんじゃない。正使はちゃんと女王国まで行って、帰ったら魏帝に直接、詳細を報告させられた筈。 「郡使往来常所駐」は、通常の外交官の話だろうね。常時外交官が往来し、かつ必ず一時的に立ち寄るべき玄関口が「伊都国」だった、と解釈すべきだと思うよ。魏帝の公式外交使者が伊都国で足を止めた、という根拠にはならない。
@夢野琴音-j1m
3 жыл бұрын
当時の記録で距離なんかわかってるし、それ通りだと徳島山間部。
@hogehoge4983
3 жыл бұрын
@@夢野琴音-j1m 距離なんかわかってる? ソースを教えて下さい。 複数の記述から、スレ主のように実距離との兼ね合いで推測するしかない、というのが現状ですよ。 それと、魏志倭人伝の距離記述だけでは、徳島山間部には届かんです。 大体、距離不明の「水行10日陸行1月」記述から、どうやって距離を判断するんですかw なぜ徳島だと特定できるんですかw そもそも方角が記述と全然一致しない時点で、畿内説四国説は問題外です。 方角なんてものは、棒杭1本立てれば子供でも判断が付きますからね。そんな初歩的な記録ミスがあるとは考えにくい。 かつ、魏志倭人伝以降の書物においても、訂正が入っていません。魏朝以降も、女王国含め倭国にはあちらの高官が複数人、訪れてるんですよ。それで後々の書物でも訂正がなされていない、となると、魏志倭人伝の方角記述は概ね信頼できると解かる。であれば、方角が一致しない機内や四国に女王国があった可能性は、ほぼゼロでしょうね。 余談ですが古代、四国も相当拓けていて、相当な勢力拠点があった事は確かです。 私個人的には、それが「秦王国」ではないかと考えます。四国瀬戸内の土器は、大和系とはちょっと異質な、文化系統のよくわからないデザインの土器が大量に出土し、かつ宮崎(西都原古墳群)などにも残存しています。
@夢野琴音-j1m
3 жыл бұрын
@@hogehoge4983 大杉さんの動画に詳しく出てるよ。
@桃山桃花
3 жыл бұрын
この時代に千里を駆ける馬の話があったねぃ
@tomusan6837
Жыл бұрын
末盧国から南東なら佐賀県多久市方面ではないでしょうか。それがなぜ東の福岡市方面へ行くのでしょう。魏の使節一行は方角もわからず道案内も通訳も付けずに進むとは思えませんが。
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