資料から見た弥助

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おーすちん2024

おーすちん2024

Күн бұрын

Пікірлер: 247
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
ナレーションだけですが、字幕設定をしました。 これで自動翻訳を通して、英語でも(他の言語でも)読めると思います🌏 妙な翻訳をされる可能性は否めませんが、ひとまずご了承ください。 ※自動字幕の日本語もかなり酷かったので、全編手動で修正しました。
@user-er5ev1ln2x
@user-er5ev1ln2x Ай бұрын
歴史家(笑)よりよっぽど歴史研究者している動画で見やすいです。 先ずは歴史的事実を手札として見せておいて研究者はそれぞれの解釈で事実の隙間を埋める仮説を考える 持論を展開するべきと考えます。 各自がそれぞれ持論を持つことは良い事ですが残る数少ない史料を疎かにした結果が今回の騒動の原因と思いました。
@user-ge9lm4un9x
@user-ge9lm4un9x Ай бұрын
最初から黒人侍とか抜かしてる時点で見る価値ない 外人に利用される
@Tz3952ii
@Tz3952ii Ай бұрын
2:52 これを見たのは戦の翌日らしいですが信長はこの戦に出ていないそうですよ。ですので当然信長の荷物持ちをしていたので戦には出ていないという話です
@猫の助
@猫の助 Ай бұрын
弥助は弥助 そして弥助こそが最大の被害者
@matuiyo2000
@matuiyo2000 Ай бұрын
行き過ぎた弥助愛好家🟰弥助のstoker 弥助日本の誇り、ありのままの弥助を皆で守りましょう
@user-xl8dz7jz2x
@user-xl8dz7jz2x Ай бұрын
過去の悪行を掘り起こされた白人と金儲けに利用された日本人と黒人。全く関係ないのに巻き込まれたシルクロードの関係国も被害者だよ。
@kito2321
@kito2321 Ай бұрын
白人宣教師に振り回された黒人奴隷が極東の地の為政者に人並の生活を許された ちょっと良い話
@pupmokuzen8731
@pupmokuzen8731 Ай бұрын
弥助が生きた時代の直接の記録がたったこれだけなのに、 ロックリー氏はあまりにも盛りすぎだよな。
@UP3UP
@UP3UP Ай бұрын
それすら持ったのはゲーマーのせいとかいうやつらが定期的にわくからな~ しかもハリウッド映画の話しすら出るほどの謎の発信力だったのに、 デマが広がったのも批判者のせいっていう怪しい奴らもコメント欄にも定期的にわくしね。 一般人のそれを問題にするなら、自称専門家の責任を真っ先に問うべきだが、それを庇うために不特定多数の一般人になすりつけるやつらの 行動原理ってなんだろうね。
@GreenAhs
@GreenAhs Ай бұрын
鳥取トム「弥助が侍ではないって記録に無いから侍に間違い無い!」 その理屈なら年齢、性別、国籍問わず皆、侍なんじゃないか?
@nekoyama5417
@nekoyama5417 Ай бұрын
トーマス・ロックリーが犯罪者ではないという証拠もないし、とりあえず収監して20年ほど様子見ようか。
@kiryo0
@kiryo0 Ай бұрын
そうだよ(便乗)
@mu1me2mo1
@mu1me2mo1 Ай бұрын
@@nekoyama5417 さん その切り返し方素晴らしい
@user-gx1iv9lg8v
@user-gx1iv9lg8v Ай бұрын
武器を持って闘った=侍ではない。 襲われたら誰でも近くにある武器をとって戦うだろう。
@user-xl8dz7jz2x
@user-xl8dz7jz2x Ай бұрын
戦国時代は農民も普通に武器持ってるからなぁ。刀狩りが証拠
@user-hn1tf7yb9y
@user-hn1tf7yb9y Ай бұрын
本当にそうなんだよなぁ 別に弥助が、黒人が嫌いなのではなく 自分に都合がいいように事実を曲げ 嘘をついて、人に迷惑をかけて金儲けしてる奴が嫌なんよ
@otokodame
@otokodame Ай бұрын
良い動画。こういう冷静に一次ソースを根拠にして語る動画がもっと増えればいいのに。 何年か後「伝説の黒人侍弥助? あの話はほとんどがフィクションだよ。実際は~」って言えるようになるために。
@user-kx4hm3ye3d
@user-kx4hm3ye3d Ай бұрын
えっ?ポリコレ側っすか・・・駄目だろ
@otokodame
@otokodame Ай бұрын
@@user-kx4hm3ye3d どこかの誰かが不当に不愉快な目に遭いませんようにっていうのがポリコレなら自分はポリコレ側だよー。現在の西洋ポリコレは自分だけがーって感じがして受け入れがたいけどね。 物語の創造は人の特権。それが学問としての歴史か娯楽としての歴史かの区別をみんながつけれるようになればいいね、って話なのです。
@user-kx4hm3ye3d
@user-kx4hm3ye3d Ай бұрын
@@otokodame あぁ、すみません・・・だとしたら、歴史修正側ですか?
@user-kx4hm3ye3d
@user-kx4hm3ye3d Ай бұрын
@@otokodame 非常に単純な話ですよw侍とか将軍は、朝廷が決める役職みたいなものです これを認めていない側が日本の歴史の世界にはいて、その人たちが日本で海外ポリコレを広めています 状況ぐらいは理解してください その海外ポリコレを広めようとする人たちと日本版ポリコレを作ってネット上でバトって来たってのがあるんですよw春画とかはその類で日本版ポリコレでの海外ポリコレへの反論となり、要するに相手の牙城の一つである多様性という概念を利用して防衛しているってな感じなんですよ
@otokodame
@otokodame Ай бұрын
@@user-kx4hm3ye3d そうねー。そしてそれらの全てを粉砕してのける「史実ではこう!」という武器を、うちらは持つべきなんだよ。そしていつでもそれを振るえるように。 エイの春画は脳を焼かれたwこの時代の日本人に生まれてよかった。
@user-zv1qr3wj4l
@user-zv1qr3wj4l Ай бұрын
非常にわかりやすく丁寧な内容でした、発言する日本の歴史家も中立な立場で話して欲しいな。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
この件で出てきている歴史家の説得力が、どれもイマイチに見えてしまうのが困ったものです。
@ks-kr9ir
@ks-kr9ir Ай бұрын
@@おーすちん2024 呉座先生は説得力あるから・・・ 岡や平山はそのね( ^ω^)・・・ 今日はこのぐらいにしといてやる(敗走
@user-mk3yw7fp1q
@user-mk3yw7fp1q Ай бұрын
いい動画なのに一番最初に「黒人侍弥助について」とスタートしたのはまずいですね。 動画を見て行けばその黒人侍って資料から見たら実際どうなの?という内容なのは分かるのですが、これだと「黒人侍(なのは確定の)弥助について」と捉えられてしまいます。 「弥助が黒人侍と言われている件について」という出だしがいいかと
@UP3UP
@UP3UP Ай бұрын
タイトルでもそれつけちゃうnoteとかあるからな~ 内容が良くても、タイトルしかよまない一部しか読まない。最悪抽出で悪用されることもあるからね。
@user-mn8qv8jl7k
@user-mn8qv8jl7k Ай бұрын
いきなり侍と断定してて草
@doomo.c
@doomo.c Ай бұрын
よく調べられてる動画だと思いました。 イエズス会日本年報の原文(ポルトガル語)、英語圏の人が調べたところ、弥助は信長との接点(3か所)以外では「cafre」(カフレ)」と記述されてるとのこと。 まだ原文未確認なので断定は出来ませんが、おそらくcafre(カフレ)=黒奴と翻訳したのでしょう。 「cafre」(カフレ)」とはポルトガル語で「黒人を侮辱した言葉」蔑称、米国でいうNワードです。
@doomo.c
@doomo.c Ай бұрын
「織田信長家臣人名辞典」第2版(谷口克広=吉川弘文館)には、小姓未満の中間衆「家臣1458人」の名前が細かく記載された“信長家臣一覧”があるが“弥助”の名前は一切無い。 小姓論は早い段階で否定されましたが、もはや中間ですら無かったという考えに進んでいます。 豊臣秀吉は農民出の武家奉公人として信長に仕え、小者(草履取り)から出世しました。草履を懐で温めた話は有名ですよね。
@doomo.c
@doomo.c Ай бұрын
天文23年(1554年)、秀吉(18歳)は信長(21歳)に仕えたとされています。 永禄4年(1561年)、足軽組頭であった秀吉は、同じ長屋に住んでいた杉原定利の娘「ねね」と婚姻しました。 ここで言いたいのは信長に仕えて7年後、足軽の組頭まで出世した秀吉ですが、まだ長屋暮らしだったということです。 弥助が「私宅をもらった」の記述が度々議論にあげられますが、これは屋敷や領地との記載が無いので、単なる「住む場所」を与えただけということです。そもそも「住む場所」さえ無い宣教師の奴隷だった訳ですから、弥助は「住む場所を与える」ことから始めなければ成立しない人物だったということです。 なので、「私宅をもらった」のが「すごい待遇だ」「きっとデカい家だ」というのは妄想で、悪気なく言って「ホームレスに住む場所を用意した」以上のことではありません。 7年掛けて足軽組頭まで出世した秀吉が長屋暮らしであったことを考えれば、弥助の「私宅論」だけを見ても現実から離れた突飛な解釈をしてしまっている人達が多いことが伺えます。
@doomo.c
@doomo.c Ай бұрын
私は全く歴史つよつよマンではありませんが、此度の弥助非侍論に関しては様々な角度から調べました。 どの文献を参考にすればよいか、この文献にはこう書いてある等、KZbinのコメ欄(日本海外問わす)で情報提供や交換を毎日続けてきました。 現結論は「弥助は侍だった」というのはロマンであって史実として語るのは不可能です。現存の文献資料上、すべて破綻してしまっています。いわゆる無理筋です。 我々が他国の歴史を勝手に改変してはいけないように、我々は自国の歴史を勝手に改変されてはいけません。 なので、ある種の決着が着くまでまだまだ調べていきます。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
コメントありがとうございます。 とても勉強になりました。 >我々が他国の歴史を勝手に改変してはいけないように、我々は自国の歴史を勝手に改変されてはいけません。 本当にそう思います。
@user-ry2fi7lj6h
@user-ry2fi7lj6h Ай бұрын
@@doomo.c そうであるなら家臣説も最早怪しいですね。良く言っても客分だったのではないでしょうか?
@user-mz2id1hq8m
@user-mz2id1hq8m Ай бұрын
不自然な所もあるだろうが明智光秀の対応が答えな気がする 某歴史学者は「差別思想があるから」と言論封殺をしているがこの少ない記述の中で弥助を侍として扱っていない唯一の人物 弥助が歴史上どのような扱いだったかを明確に表した明智光秀のエピソード見る限り、私は「弥助は侍ではない」と思うよ
@user-fo9wi5ql1b
@user-fo9wi5ql1b Ай бұрын
ホンマそうですわ。いいとこみてます。切腹は「許されて」行うこと、斬首さえただの処刑ではなく「苦しまないように死なせる」という意味がある。光秀が逃がしたのならば、「そういう価値しかない」と言う意味に取るのが普通。
@user-zg6if2ld7d
@user-zg6if2ld7d Ай бұрын
珍し物好きの信長が家臣や大名へ見世物にする為にお伴させていただけだと思う。
@tarokimura7470
@tarokimura7470 Ай бұрын
弥助という黒い宝石を見つけたある歴史家の野望とその顛末。ぜひ映画にしてほしいw
@user-vk9dv3gk1u
@user-vk9dv3gk1u Ай бұрын
信長の家臣はほぼ間違いない、だけど小姓衆はちゃんとした士族の身分だしほぼ無いだろう。 あって小者、最大級に出世していたとしても中間衆じゃないの? ほんと盛るなら中間くらいにしとけば騒がれなかったのにね、それでも大出世なのに。
@user-zv1qr3wj4l
@user-zv1qr3wj4l Ай бұрын
@@user-vk9dv3gk1u 岡氏の過剰な擁護の方を持つ気は一切ないですが、弥助は稀有な存在だったって言葉のみ共感はできる。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
ロックリー氏がイギリス人なので階級的に「knight」に当たる部分に拘ったのかなと 考えたりしています。
@user-vk9dv3gk1u
@user-vk9dv3gk1u Ай бұрын
@@user-zv1qr3wj4l その通りでだれもそこは否定してないんですよね。ただ創作は創作、史実は史実「心は侍だった」ではなく「実際に侍だった」と言われては否定するしかなくなる。
@nekoyama5417
@nekoyama5417 Ай бұрын
何故か家臣として記録されてないけどね
@user-vk9dv3gk1u
@user-vk9dv3gk1u Ай бұрын
@@nekoyama5417 ああ、家臣でも選択肢が狭まるのか、ならほぼ確実なのは信長の元にいたくらいかな?贈ったとは書いてあるし。
@Seigyou-mz8ts
@Seigyou-mz8ts Ай бұрын
本能寺でお亡くなりになっていればまだサムライ説もあっただろうw 結局弥助は当時信長に贈り物とした珍しい動物と一緒で、 物珍しさ扱いの飼ってみたものだと。だから光秀も動物と言い放置したのだろう
@user-qv2uv5vm2s
@user-qv2uv5vm2s Ай бұрын
この史料を見ても侍か?ってなりますよね。 これで侍と言っていいなんて言ってる 自称歴史学者たち理解できないですね
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
彼らは自称ではなく、立派な歴史学者なので、もう少し説得力のある 資料を元に自説を述べて欲しいとは思います。
@user-xl8dz7jz2x
@user-xl8dz7jz2x Ай бұрын
学者も普通に捏造とかするしなぁ。お陰で日本の古代史が滅茶苦茶にされた事も有るし
@furoshiki44
@furoshiki44 Ай бұрын
そもそもモザンビーク出身ってのも記載が無いのか・・・ そうなるとポルトガルの拠点がインドネシアだったのを考えると近くのニューギニア出身だった可能性(アフリカすら関係無い)も有るのか
@moriritz9715
@moriritz9715 Ай бұрын
イエズス会のアジア拠点は南インド。ヴァリアーノも来日する前に三年滞在しているね。ま、アフリカンだと断定するのはどうかなって感じ。
@user-fo9wi5ql1b
@user-fo9wi5ql1b Ай бұрын
今回の件で一番驚いたのは日本人があまりに日本の歴史を知らない事を知った事かも知れない。歴史を少し好きな人間としては弥助は当然知っていたから「侍 ?」ハァ?ってなったのに、多くの日本人コメント者が弥助について「謎が多い」という点についてはスルーだった。弥助に謎なんかない。このチャンネルで示してもらった一級資料に書かれた事が全て。前半生は確かに不明だが、黒人がポルトガル人に連れて来られた事は「謎」ではない。それでもこの事件で少しでも自国の歴史に興味を持った方か増えたなら本当に良かった。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
私は信長に仕えた黒人の名前を「ソテロ」だと思っていたので、海外掲示板で『弥助』と知った時は???。でした。
@user-fo9wi5ql1b
@user-fo9wi5ql1b Ай бұрын
@@おーすちん2024 ソテロはどこでしたっけ?イグナティウス会だったかドメニコ会だったか、私もウロ覚えですが、黒人ではないですよ!w
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
いえ、「ソテロ」はKing Of Zipangu信長っていうNHK大河ドラマに 出ていた信長に仕えた黒人なんですよ。※多分弥助がモデルなんでしょうね。 私が最初に「信長に仕えた黒人がいたんだ・・・」って認識したのがこのドラマ でしたので・・・。
@user-fo9wi5ql1b
@user-fo9wi5ql1b Ай бұрын
@@おーすちん2024 ややこしい事しますね、ソテロという名の宣教師も同時代に日本に来てるのに。
@kumataroKk
@kumataroKk Ай бұрын
資料に基づいたいい解説動画でしたね。本当に参考になりました。ありがとうございます。
@leucophyllumfrutescens3412
@leucophyllumfrutescens3412 Ай бұрын
まとめありがとうございます。ぼやさんのまとめによりますと、弥助はいわゆる侍が持つような長い刀を与えられたとされる記述はないようですので、あの挿絵を安易に挟まない方が良いかもしれません。
@user-ii8gn4wg1z
@user-ii8gn4wg1z Ай бұрын
信長公記には本能寺の変で討死した信長のお中間衆・お小姓衆らの40人の名前が列記されている。ぱっと見ると過剰な情報に見えるが著者の太田牛一にとっては重い意味のある名前だったのだろうなと推測する。牛一は弓の名手であり若い頃は信長直属の護衛役をしていた。いつから牛一がその護衛役を御免になったのかは分からないが本能寺の時に彼が現場にいなかったのは確かだ。生き残っているからである。 おそらく変の時は安土にいたであろう牛一はどういう思いだっただろう? なぜ俺はおめおめと生き残ってしまったのかという無念さばかりだったのではなかろうか。それがあの討死した人々の名を列挙する強い情動になったのではないだろうか。本来ならば護衛役として信長と共に死んでいなければならない自分がなぜ生かされているのかと。 それは広島の原爆で生き残った原民喜が『夏の花』を書き上げたのと同じ衝動で太田牛一は信長公記を書き上げたのだと思う。二つの本は戦争文学という意味でも似ている。 例の黒人は信長公記の中で極めてわずかな記事しか書かれていない。ヤスケという名前も書かれていなければ信長に雇われたという記述もない。牛一の目から見るとそれだけの重みのある人物ではなかったようだ。あるいは本能寺の変の時に討死していれば「黒坊主弥介」の名も書き残されていたかも知れない。輝かしき武士の誇りとしてである。
@mari-th2wp
@mari-th2wp Ай бұрын
分からない事を分からないままにしておくのは実は割と難しいことなのかもしれません。 願望がいつの間にか真実だと思い込んでしまうようになる、という現象はたまに聞きますが、 それを無関係の他国でやられても困ってしまいます。 今回の件で結局一番ないがしろにされているのは弥助ご本人なのは間違いないですね。
@Akatsuki_crimson-moon
@Akatsuki_crimson-moon Ай бұрын
私も戦国時代に詳しくないものの、ちょっと調べれば基本的な勉強が出来るどころか、膨大な資料がありますね。 自分で確認する事が大事ですが、甲州征伐という壮絶な戦いで、信長は戦後処理の様な事をしただけで、到着前に各地の戦は終わっている事も明白に分かります。 本能寺の変だけでなく、甲州征伐での武田側の人々がどうなったかを知るだけで、例の光秀が弥助を放免した件が正しいのであれば、侍どころか関係者ともみなされなかった事が分かります。 弥助と呼ばれたある種部外者の外国人が生き残れたなら、それで良かったと思います。 甘っちょろいロマンとは程遠い、壮絶な生死をかけた戦のあった年に弥助は日本にいただけで、本能寺の変のどこかで抵抗したのだとしても、お咎め無しで済むくらいの事だったのが、当時の状況から相対的に導かれますね。 別の役割や立場があったとしても、記録がないので分かりようもありませんし。 まあ、平和な時ではないので、侍であったなら無事では済まなかったでしょう。
@nasubichannel
@nasubichannel Ай бұрын
そもそも言葉通じず功績も無い者に位を与える根拠も道理もない。 まして、小姓に置けば森蘭丸も黙ってはおらず、秩序さえ乱れ兼ねない。 力があるなら、重い物を持って付いて来い、くらいのこと。 セキュリティ上からもむやみに武具など触らせないのが道理。
@yukichi3087
@yukichi3087 Ай бұрын
イエズス会年報のp163に「少しく日本語を解した」とあるってことはカタコトでコミュニケーション取れたってことなんですかね?だとすると一体どこで日本語覚えたのやら。
@nasubichannel
@nasubichannel Ай бұрын
@@yukichi3087 ワンコでも待て、良し!くらいは理解し、「少しく日本語を解した」と書けますね。
@user-xl8dz7jz2x
@user-xl8dz7jz2x Ай бұрын
​@@yukichi3087 聴けると話せるは別だしなんとも言えん
@mondedo2622
@mondedo2622 Ай бұрын
弥助はただの弥助 名字家名を貰えてない 天草四郎や那須与一など地名付きで呼ばれてもいない
@user-ul1fv5zc8y
@user-ul1fv5zc8y Ай бұрын
アニメ、ミュージカル、映画になりアメリカで公演されます。近々弥助ブームが到来しそうです。この立役者はトーマスしかいないのです。 トーマスは小説家として物語フィクションであると注釈につけてもらうよう働きかけるべきかと。 史実とするには文献もエビデンスもないので無理があります。 あったかもなかったもしれないことは事実にしてはいけません。特に誰かを傷つけるような推論を史実にするのは許されない行為だと思います。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
ロックリー氏が歴史に誠実であれば、このような事になっていないので、 彼に何かを期待するのは望み薄かなと思います。 それなら今後作成される創作物の方で弥助を黒人女性に演じて貰う ベルばら方式でどうだろう?とか思ってしまいますが、これはこれで 問題なんでしょうね・・・。
@nekoyama5417
@nekoyama5417 Ай бұрын
注釈つけるとかじゃなく、トーマス・ロックリーが嘘の歴史を流布していることを世界に知ってもらうべきでは? 能動的にwikiやブリタニカを不正改竄している詐話師なのは間違いないのだし。
@user-in2jy7ov6n
@user-in2jy7ov6n Ай бұрын
弥助、侍説はトーマス・ロックリーの金儲けと売名行為の影響だったんですね。
@mariya1169
@mariya1169 Ай бұрын
大変分かりやすく解説して頂きましたが、結局は今と変わらずに、「弥助は存在したけど何も分からない」と言う事ですね。 私としては、誇張されて大げさに利用されて、歴史改変するのはもっての外として、何も分からないで良いと思うのですよ。 言ってしまえば、無理に白黒つける必要はないって事で、無理くり伝説の侍だと黒にしなくて良いし、侍じゃなくて奴隷だなどと白にする必要も無く、存在したけど何も分からないと言う灰色を広く認識するだけで良いと思います。
@merida2590
@merida2590 Ай бұрын
国内の日本人的には別にいいんだけど、海外での認識が固定されるのは非常に問題だと思います。
@user-st4lk1wr6b
@user-st4lk1wr6b Ай бұрын
ありがとうございました!昨今の騒動で原文みたいなぁと思ってましたが大変な作業だろうなぁと倦厭してました。結局は自分で見なきゃとは思いますが、ここに書いてあるよというのがあったので参考になりました。
@user-kd1yf7vz3t
@user-kd1yf7vz3t Ай бұрын
同感!!忘れてはならないことは、当時の日本人でも人を家畜のような奴隷とは扱わなかった事実だと思う。一二年の滞在で将として兵を率いる侍(士分)になったとは、無理筋が大きすぎる。 願望で事実を捻じ曲げてはいかがかと思う。
@user-bx4ly3fi5s
@user-bx4ly3fi5s Ай бұрын
資料からは小者、よくて中間(小姓と小者の間:雑務係)としか読み取れんけどね 明智光秀も黒奴、動物とまで言ってるし、それが当時の認識だろう どういう解釈すれば武士、侍となるのか不思議
@nananairo
@nananairo Ай бұрын
動画にしてくれてありがとう。弥助が戦闘に参加した、というのは、私は「戦闘に巻き込まれた」という解釈をしています。 自衛のために武器を持った行動が、戦闘に参加したということになっただけではないのかと…素人の感想でしかないんですけど。 弥助の身分については記録が無いので判断不可能、というのが私の意見です。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
コメントありがとうございます。 動画からは外しましたが、私は戦闘に参加したのも怪しいと思っています。 信長の死体を捜索している明智兵に見つからずに本能寺を抜け出す事は可能なのか?(近侍だったら聞かれない?) と考えるとどうも現実的に可能なのか?と疑問が尽きない。
@user-ub7jr9ty9p
@user-ub7jr9ty9p Ай бұрын
弥助が明智軍に投降したのって信長がいた本能寺でも、信忠が明智軍と戦った二条新御所でもなく、信忠の宿舎だった妙覚寺なんですよね 妙覚寺って本能寺の変で無傷だった説すらあるような場所ですし、最後まで戦ったって相当怪しいです 戦地から少し離れたところで戦いが終わるの待ってたら明智軍が来て、パニクって短刀ブンブン振ってるところを、落ち着け落ち着け!ってなだめられる、みたいな場面を想像してしまいます
@masahitotahara2651
@masahitotahara2651 Ай бұрын
そういう見方もありますねぇ、いや勉強になるなー。 てかひょっとして、弥助ェは本能寺の時点では本当に最低限の意志疎通が出来る程度だったのかもしれませんね。 本能寺自体、地味に来客者や女房衆などの非戦闘員は明智側も攻撃しませんでしたし、侍扱いされるレベルなら名簿に載りますよねぇ?(実際逃げ出した人が特定されて更生ガッツリ叩かれている)
@user-sp2ws8kh9n
@user-sp2ws8kh9n Ай бұрын
⁠​⁠@@masahitotahara2651信忠に腹を切れ切れと言い自分は逃げた織田有楽斎ですね。 弥助は史料も少ないですし、そこまで周知されていなかったので記録にも残らず逃げてもあまり言われなかったという見方もできそうです。
@KK-of6hj
@KK-of6hj Ай бұрын
そこで一人でも明智軍にヤラれたものがあったら逃がすかな? 戦ってないのではないか 長い間戦っていたのは明智軍vs信忠軍ではないだろうか
@corporatex6494
@corporatex6494 Ай бұрын
まず、そもそもなんでこの人物が全世界的に「弥助」「YASUKE」と呼ばれているのかというのが重要です。 それは彼を日本につれてきたイエズス会が、彼の本名を残していないからです。 だから日本で勝手につけた「弥助」と呼ぶしか無いわけです。 この動画にある「黒奴」というのが原文ではcafleで、これは侮蔑表現です。 記録なのに名前すら書かないのは、やはり人間扱いとは言えません。 モザンビークに教育制度があった時代ではないので、 彼はいわゆる文明人ではなかったのでしょう。 侍とかとても無理な話ですね。
@Bagataminx5435
@Bagataminx5435 Ай бұрын
弥助が甲州征伐に参加したとありますが、僕の認識が正しければこれはもう既に戦闘が完全に終了した後の視察に付いて行っただけではないでしょうか? 当時の信長はもう自ら前線に出向き陣頭で指揮を執るような立場ではなくなっていたはずです。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
当動画では甲州征伐の時期を1582年2月1日の木曽義昌の寝返りから 3月29日の武田領の領土分配までと定義しており、 信長の出陣は3月5日の為、当動画では甲州征伐に参加としております。
@Bagataminx5435
@Bagataminx5435 Ай бұрын
@@おーすちん2024 なるほど、事後処理まで全部ひっくるめてという事ですね。 ご返答ありがとうございます。
@yoshikiyo608
@yoshikiyo608 Ай бұрын
少しだけ補完。参照/引用されている「イエズス会日本年報(ポルトガル語)」は「三次資料」です。原書(ポルトガル語)は消失していたが、イタリア語の写本が残っていたので、これをポルトガル語で写本を作成しています。  日本語同士の写本でさえ「危うさ」が生じます。「二次写本(イタリア語))」から「三次写本(ポルトガル語)」への写本作成の危うさがどれ程か。  一例を挙げると、「イエズス会日本年報(ポルトガル語)」の「弥助は長く戦っていた」の「意味」と「どこ、もしくはどこからどこまで」にかかるのか?の疑問点です。   1)「撤退戦」や「潜伏戦」も戦いの一つ、「逃げに逃げて、無事に逃げきる」ことも「長く戦っていた」と解釈が可能、また「潜伏戦」も同様です。 2)本能寺の変で、信長は「京都本能寺」で、信忠は「妙覚寺」から「二条御所」に移動して自害。弥助が刀を手放し降伏した場所は「妙覚寺」が有力です。 問)黒人の弥助は最初はどこにいたのでしょうか?そしてどのように移動を経て妙覚寺にたどり着いたのか? この答次第で、弥助の評価が変わります。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
今、1586年出版のイタリア語版の1582,83,84の年度日本年報を google翻訳で読んでますが、日本語版との差、そして抜けてる箇所の 多さに驚いています。 これ各国翻訳本を集めて重ね合わせても似た別の内容になってる気がして 家忠日記と信長公記のように同時代、同国人(似た感性)の別々資料で迫れないと 弥助の本質は見えてこない気がしてます。 ヴァリニャーノは長崎から日本に入っている筈なので九州地方での 上陸当初の弥助の情報が無いのが何故なんだろう?と思っています。 九州でも黒人は目立つ筈で誰かが日記に書いてても不思議じゃない筈なんですけどね。
@yoshikiyo608
@yoshikiyo608 Ай бұрын
​@@おーすちん2024 <お疲れ様です。最初に、はッちゃけるんですが、  某動画での会話で「市井の歴史愛好家って「同人さん」ですよね?」って返ってきて「えっ、…目から鱗が落ちて、その発想は無かった」と。 …同人サークルの配布した「同人誌」で世界が混乱してるのか~って、遠い目になりました。 閑話休題  昔この辺りを資料集めて翻訳してたのですが、RAID0で運用していたPC故障、データーが飛んでからは再度集める熱量がなく、記憶検索モードでしか書き込めません。なお特定個人を責めるつもりは一切ありません。  まず、私の見解は「イエズス会日本年報(言語を問わず)」は「危うい写本」で、確定的な資料として参照/引用してる学説/解釈は読む時は「眉に唾を…」が必要な資料、になります。  理由は次の通り。 1)個人の、キリスト教徒(イエズス会)のメンタリティと言うバイアスが掛かっている日記。   …日記で憂さ晴らしをするのは古今東西問わず変わらないでしょうから。 2)写本の、多言語を経た、危うさが学べる現代の教科書としての価値はあるが、歴史的探索/検証資料としては「価値無し」。   …歴史学者さんは手を出しません、手を出すのは「市井の歴史愛好家」が好んで多用しているようです。 「各国翻訳本を集めて重ね合わせても似た別の内容」< なりますよ。歴史学者さんが手を出さない理由のひとつだそうです。
@user-cp2qf2tw2i
@user-cp2qf2tw2i Ай бұрын
ちゃんとこうやって一次資料で説明してくれてありがたいです、この内容はよくわかりました^⁠_⁠^、この内容だと弥助の資料はほとんどないのですね、あとは最近出てきた東大の岡さんがどっかの国の話があるとかないとか言ってた動画があったのでもしそれがあれば岡さんはちゃんと提示してほしいですね
@mu1me2mo1
@mu1me2mo1 Ай бұрын
細かいとこまで言うと、銭1万の褒美を与えたのは信長甥、多分信澄よ。しかも贈与先は宣教師。ともかくこういう史料紹介しまくる動画好きです、ありがとうございます!
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
ご指摘ありがとうございます。
@user-tw3ot5nx8l
@user-tw3ot5nx8l Ай бұрын
素人ながらにこれを見て思ったのが 黒人の噂を聞いて会いたいと思った信長が呼びつけた。 来てくれた事に感謝してチップを払った。 と言う印象を持った 士官させて家臣として俸禄を与えた様には感じなかった。
@takanum4958
@takanum4958 Ай бұрын
弥助の実像は家忠日記の中で、光秀の弥助に対する言葉と対応が一番近いのではないでしょうか?
@takanaka7010
@takanaka7010 Ай бұрын
今Xで暴れてる岡美穂子という東大准教授さん 旦那がポルトガル人かつロックリーと交友関係まであるそうで ヤスケは侍にしてあげたいなどと言っていて全く話になっていない こういう私的感情ゼロの正しい歴史学者はどこに行ったんだろうか
@user-mu5cr8hb5o
@user-mu5cr8hb5o Ай бұрын
弥助は本能寺の変の時、刀を握りしめてブルブル震えてたんじゃないかと勝手に想像してます 戦なんか参加したこともないだろうし怖かったんじゃないかと 明智兵は怯えている外国人を見つけて斬る気になれず降伏するように説得した
@DelicaHaigoh
@DelicaHaigoh Ай бұрын
厳密に言うと日本語訳とか現代語訳は一次資料には該当しないと思います。 一次資料は当時の文献そのものを指し、外国語であれば翻訳版ではなく原文を指すと思います。 サムネに「一次資料から読み解く」と書いているのにいきなり現代語訳を前提に始まったので違和感を覚えました。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
ご指摘ありがとうございます。 そうですね。サムネのその部分は私の方で盛りました。 期待して見ていただいたのに申し訳ありません。
@Nknssk
@Nknssk Ай бұрын
@@おーすちん2024さん こうやって現代語にしてKZbinにしてくれたから、私たちも弥助のことがわかるんです。 ありがとう。
@user-qv5iq7ge1z
@user-qv5iq7ge1z Ай бұрын
@@おーすちん2024 日本語訳の本ですが、その原文となる文章がどこの版を基にしているかまで確認しないといけないんです。また、何処で加筆や修正しているかも調査する事になります。 最初の様に出てきた、「石を投げられた」というものですが。その元になっている文章は1598年に翻訳されているラテン語版で、そのラテン語版が他の国に訳されています。 ですが、この元の文章の元を探るとそのような内容が書かれていません。題材になったものですと、日本通信(1581年)の4/11には1583年写本版にはこのような記載があります。 "E por ser negro, o agarraram, e o mostraram por toda a cidade, como se fosse algum monstro." "そして、彼が黒人であったため、周囲は彼を捕まえ、ある種の怪物のように街中を連れ回した" で、これも写本です。更に元を探すと、それも残っていました。 日本通信(1581年)の4/11の書簡の原本、1581年初版ではこのような記載です。 "E por ser negro, o agarraram, e o mostraram por toda a cidade." "そして、彼が黒人だったので、周囲は彼を連れ回し街を案内した" これが、原文になります。随分とニュアンスが変わりますね。 ちなみに、日本通信(1581年)は、ラテン語訳版がでる1598年にも写本が出ていますが、この中身ではだと、この文章は1583年版と同じですね。
@user-qv5iq7ge1z
@user-qv5iq7ge1z Ай бұрын
ちなみに1598年ラテン語翻訳版を日本語訳するとこうなっています。 "この年、黒人が一人、インドから京にやってきた。織田殿が連れてきたもので、人々にその姿を見せ、神の偉大さを讃えさせようとしたのである。黒人は人々の目を引き、中には石を投げつけたり、仲間同士で争ったりする者もあった。中には重傷を負った者もいた。織田殿は黒人をこのような苦しみから救い、同時にキリスト教を推奨するために、彼を家来として迎え入れ、俸給と住居を与えた。この黒人は、後にわかったことだが、キリスト教徒であり、インドの某王から日本に派遣されてきたものであった。しかし、信仰のことについて何も知らないようであり、ポルトガル人たちも彼を仲間として受け入れなかったため、織田殿は彼を我々に送り、信仰について教え諭すように頼んだ。しかし、我々はその黒人に会い、信仰のことについて何も知らないだけでなく、キリスト教徒になることを望んでいないことも知ると、織田殿の許可を得て、彼を送り出した王のもとへ送り届けた。" 随分と内容がまた違うので、元にしたのはもっと新しい時代の版だとは思います。
@user-qv5iq7ge1z
@user-qv5iq7ge1z Ай бұрын
ちなみに、フロイス書簡では、原文や原文に近い版では、弥助について「奴隷(escravo)」とは書かれていません。 色々と読んでみた範囲では、最初に出てくるのはマカオで発刊された1626年製作1630年発刊宣教師ジョアン著の『日本西教史』でしょうか? 再確認しないといけませんが。1660年代や70年代に複数の宣教師によって編纂されて出された『日本史(通称、フロイス日本史)』や『日本教会史』なんかにはそういう記載が足されていましたけど。 また日本の翻訳本も版に注意が必要です。版を重ねるごとに元本に記載されていない内容まで追記されてたりしますので。
@MM-ys3ti
@MM-ys3ti Ай бұрын
黒奴の奮戦だけど、元になってる村上直次郎著『耶蘇会の日本年報』にはバージョンがあって、書いてあるやつと書いてないやつがあるっぽいよ? 特に光秀のくだりは1973年の大河ドラマ以降のバージョンにはあるけど1943年版にはあったりなかったりするみたいなので、コインブラ大学のデジタルリポジトリにポルトガル語のオリジナルスキャン画像あるから調べてー?
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
コインブラ大学のデジタルリポジトリから、ご指摘のスキャン画像を見つける事は できませんでしたが、1586年発行のイタリア語版のスキャンデータを見つける事が できました。 興味深い情報をありがごとうございました。 ※コメント欄でURLを張るのはKZbin的に良くない事のようなのでスキャンデータのURLを削除しました。 スキャンデータの内容については後日動画化したいと思います。
@mikanchan4888
@mikanchan4888 Ай бұрын
一部の歴史研究家の人は妄想癖が強いんだな…残念でたまらない。
@ikoze_kimishima
@ikoze_kimishima Ай бұрын
一次資料の紹介と解釈、分かりやすくて良かったです。 以下のコメントは自分が動画を勘違いして書いてしまったもので、 本動画内で「弥助が甲州討伐に参戦した」というような表現はありません。 多変失礼しました。 ↓↓↓ 甲州征伐は信忠を総大将戦っていて、 戦には信長も弥助も出ていないのではないでしょうか? 記述された日付は甲州征伐からの帰路で、 戦に参戦したわけではないように思います。 (何をしたとも書かれてないので不明ではありますが) 伝説の侍であり武士道があったというのであれば、 信長が討たれた後に刀を差し出し投降することはないでしょうね。 今も昔も悪い奴にいいように利用されている弥助はかわいそうですね。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
甲州征伐は信忠が総大将なのはあってます。 他にも何名か同様の記述があったので、私の動画で何か勘違いをさせる 箇所があったのかと見返してみましたが、どの辺りが信長が総大将で 甲州征伐に弥助が参戦したと思われたのか、指摘していただけると、 次の動画作成に役立ちますので、宜しくお願いします。
@ikoze_kimishima
@ikoze_kimishima Ай бұрын
@@おーすちん2024 返信ありがとうございます。 指摘されて改めてこの動画を見たのですが、 弥助が参戦したと思わせるような所はありませんでした。 どうして自分がそう思ってしまったのか分からないです。 申し訳ありません。元となった文にも訂正を入れておきます。
@user-vq9pi6ml5x
@user-vq9pi6ml5x 23 күн бұрын
良い内容です。 これから原典をじっくり読んでみる気になりました。
@user-dj3eo5ko1b
@user-dj3eo5ko1b Ай бұрын
昔のみならず、現代でも誰かの都合の良いスピーカーとして使われているだけだとしたら、本当に弥助がかわいそうだな 解説を聴いて「サムライだったのかもしれないね〜」くらいの余地はあるなと思った。ゲームの設定も最初からそれぐらいだったら、誰も怒らなかったのに
@nom1941
@nom1941 Ай бұрын
一次資料をあげつつの説明、ありがとうございます ロマンある存在だけど、やっぱり弥助の侍(信長重臣)説は無理ありますね
@user-lg1rw4lz6m
@user-lg1rw4lz6m Ай бұрын
この動画は大切な動画になります。有難うございます!
@ssecre3640
@ssecre3640 Ай бұрын
「日本教会史」(17世紀前半)にも弥助の記述あったと思います。
@nekoyama5417
@nekoyama5417 Ай бұрын
わかりやすくて良いと思います
@user-rt6bu1gk4y
@user-rt6bu1gk4y Ай бұрын
信長の一番の配下が氏も与えられず、 主が討たれたのに明智に刀を渡して逃がして貰うとかWWW もし弥助が侍だったのなら、潔くその刀で腹を切っていただろう。 黒人達も早く利用されている事に気付けよ。
@yaebenishidare
@yaebenishidare Ай бұрын
そもそも当時のポルトガル人にとって奴隷は「商品であって人間ではない」から、「Yasukeと呼ばれる前の名前」や「人間として産まれた時に授けられた名前」すら記録に無いのでしょ。 そして当時の信長の感覚を現代人の感覚に合わせると、Yasuke という存在は「ペット」に近いのでは。 但し、15世紀頃のポルトガル人にとっては、犬や猫などのペットより奴隷の方が扱いは劣っている可能性は高いかもしれない。
@yukichi3087
@yukichi3087 Ай бұрын
「一般書籍化されてるイエズス会年報はかなり編集されていて、私は書籍化されていない部分も紙の原本を自分で訳して読んだ。」というようなことを東大准教授の方はおっしゃってますね。弥助に関する描写が実際はもっとあるのだとしたら、その部分を紹介してくれたらまたひと論争来そうで面白くなりそうな話です。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
1586年出版のイタリア語版の1582~84年日本年報のスキャンを見つけましたが、 これはこれでまた中身が少し違うので、色々面白そうです。 翻訳はどうしても翻訳者の思想が入るので仕方ないですね。 ただ直訳だと意味不明な怪文書が出来上がる可能性もあるので、 それはそれで問題なのでしょうね。
@user-ry2fi7lj6h
@user-ry2fi7lj6h Ай бұрын
なるほど、本能寺の変での弥助の戦闘については、フロイスが話を盛った可能性すらあると…。
@doomo.c
@doomo.c Ай бұрын
誰が見てて誰の証言なのか? 弥助とともに宣教師も戦って生き延びたのか? であれば宣教師も侍か?まぁこれはイジわるですが、弥助の自証なだけであれば無意味ですし、すべて適当に書かれたものであるかも分かりません、どのみち信憑性は皆無です。 「弥助は信長に仕えることになりました」の次がいきなりラストの「本能寺」での記述ですからね。 イエズス会の日本年報は”日本の史実”を読み解く史料としての価値は著しく低いです。 会社員が上司に“いい感じ”に報告してしまうことなんてザラですし。 そもそも日本史の為に書き残しているのではなく、母国の為に書き残しているのであって、偏向が為されていると考えるのは至極当然で妥当でしょう。
@user-sf5up4hw5v
@user-sf5up4hw5v Ай бұрын
面白い動画でした。 少なくとも勇敢な云々の諺のもとになるようなエピソードは この弥助には無さそうですね 資料が少なすぎる、存在していることくらいしか断定できる内容がほぼないので フィクションの範囲で楽しんでもらえたらなと思いました。 また、批判している方々は弥助という人物を貶めるつもりで批判をしている訳ではない、 ということを理解していただきたいですね。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
弥助には無くても坂上田村麻呂にはありそうなのです。 日本は戦前にも一度同じようなミスを犯していて、 詳しくは「坂上田村麻呂黒人説」を検索してみてください。
@user-fr6jl2ws5h
@user-fr6jl2ws5h Ай бұрын
甲州征伐に参加していて、功績があれば戦の監督官が戦功を記録していたはず?褒美の問題が合戦に常に付きまとうので織田軍の戦の監督官が誰がどういった功績をしたのかの記録が有るはず。
@user-wz9tx4lp7g
@user-wz9tx4lp7g Ай бұрын
信長が誰でも差別せずにちゃんと人をみる偉大な人物だとわかりました 弥助はただ奴隷から解放された一般人ですね。 戻ってからなんも記述もないことからまた奴隷にされてるかもしれなくて怖いですね
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
戻ってくれてると良いんですけどね。
@user-nu1hk2nv3u
@user-nu1hk2nv3u Ай бұрын
非戦闘員の従者でしょう
@qumana
@qumana Ай бұрын
歴史上の話なので色々想像を膨らませるのは良いのですが、捏造はダメですよね。 でも個人的には弥助を召し抱えたのは信長らしい…ってエピソードで好きです。
@user-cg6ui3wz3u
@user-cg6ui3wz3u Ай бұрын
皆の侍の定義が違うから侍論争が生じてるのは仕方がないと思う。 平安時代、鎌倉時代、応仁の乱前の室町時代、応仁の乱後の室町時代、江戸時代で侍の定義が違うと述べてるWebサイトがあるぐらい。 個人的には応仁の乱後の室町時代は出自も官位も自称が多かったのだから、下剋上につけて侍を自称する者も多かったのではと思う
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
日本内でも時代によっては定義の違う侍に海外が考える侍の定義も相まって この問題は複雑化している所もあると思います。
@shoheikondo
@shoheikondo Ай бұрын
いい動画だと思います。英語で作りませんか?
@user-oz6ll5md3b
@user-oz6ll5md3b Ай бұрын
弥助が不憫でならない。この言葉に尽きるな… 真の名誉とは…他人の一生をノンフィクションとフィクションを使い分け、 歴史学会の外で騒いで得るものかね?🤔
@IchiroSuzuki51
@IchiroSuzuki51 Ай бұрын
信長の家臣で、なおかつ信長に気に入られてるなら、十分、誇りに思っても良いと思う。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
異国で時の王に仕えた、本来はそれだけで十分評価される人生なんですよね。 阿部仲麻呂やマルコ・ポーロのように。
@user-mc4lv4zx2j
@user-mc4lv4zx2j Ай бұрын
「信長公記」を見ると、討ち死にリストで、苗字なしは「仲間衆」、弥助もこれに含まれるのが当然じゃないのか。「弥六」、いかにも「弥助」の同僚としか思えない人名もある。「弥六」は戦ったのだと、思う。「弥助」は、恐くて立て籠もっていただけでは。「武器を捨てておとなしく出てこい」、素直に出てきた「弥助」。戦闘に参加していなかったので、命は助けた、そんなところではないのか。
@user-si5bw3gm8r
@user-si5bw3gm8r Ай бұрын
弥助は本能寺に泊っていなかった可能性があります。当時の本能寺はそんなに広い寺ではなく、信長の親衛隊のほとんどは町家に分宿していました。妙覚寺で捕縛されたのも、本能寺に泊っていなかったからでしょう。
@user-kg8cs5dp7x
@user-kg8cs5dp7x Ай бұрын
トムは弥助が信長の小姓だったと主張しているが、トムの大好きなウィキの「小姓」を読むと ・小姓には主に若年者が就いた→弥助は成人しとるやろ(笑)。 ・平時には秘書のような役割をこなした→外国人には無理やろ(笑) ・幅広い知識と一流の作法と武芸を身につけていなくてはならなかった→外国人には(以下同文) ・主君の戦国大名が小姓を男色の対象とした例も見られた→信長にも選ぶ自由がある(笑)。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
東大の先生が言うには16、7才だった可能性もあるらしいですし。 まぁ、小者だったんじゃないかなと思いますが、東大の先生でもこのぐらいなの ですから、ロックリー氏の理解力に期待するのは酷なのかもしれません。
@user-zj8qr7pc8u
@user-zj8qr7pc8u Ай бұрын
失礼な書き方ですが、信長の対応は家に連れてきた愛玩動物的な対応で想像すれば 普通の日本人なら大体スッキリ飲み込めるのではないかと思います 単に自分の所有の証である首輪付けて小屋に住まわせ餌をあげたというカンジですね そう考えれば犬を日記に付けるようなものなので情報が無いのも当たり前になります
@nekonekosamurai
@nekonekosamurai Ай бұрын
侍どころか"動物"って... 別の意味で泣ける。゚(゚ノ∀`゚)゚。
@mu1me2mo1
@mu1me2mo1 Ай бұрын
「信長は厚く庇護し」ってあるから、動物としてもかなり丁重に扱って貰った、もしくは動物扱いから脱皮できた可能性も。
@inlee0115
@inlee0115 Ай бұрын
「黒奴」の宣教師、ポルトガルの原文によっては翻訳解釈が「奴」にならないかも。 ポルトガル古文の解釈はポルトガル学者にしか正確に翻訳出来ない。
@macaronlaaskb
@macaronlaaskb Ай бұрын
タイトルに英語タイトル追加しておけば、Google翻訳で字幕つけて読んでくれる外国人がいると思います。
@user-ir7dn3hm5f
@user-ir7dn3hm5f Ай бұрын
出典のことを「出典元」っていう人の作る学術系動画、めちゃくちゃ信用できないんだが。
@einsfia
@einsfia Ай бұрын
うーん あくまで歴史フィクションとして、些細な記述から膨らませたキャラクターとして扱うだけならいっこうに構わないんですけどねえ 前田慶次郎とか柳生十兵衛とかもかなり盛られてそれが広く人口に膾炙してしまったキャラクターですし。 そういう文脈で「信長に重用された黒人侍・弥助」をフィクションとして上手に楽しむことが彼らには出来なかったのかなあと残念に思いますね なんでよく知りもしないのに史実だとか言い張るんだか
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
史実であって欲しい願望が強く出た結果なのかなと思っています。 専門家もカウンター論文みたいなものは余り書かない風潮みたいなので。
@nelo-ki4ck
@nelo-ki4ck Ай бұрын
昔特命リサーチって番組で見たけどアフリカの黒人にさくらの歌を教えて一年後にまた現地に行ったら太古から黒人に伝わる歌として定着しててびびったってのを思い出した
@5656hanachan
@5656hanachan Ай бұрын
諸々分かってきて怖い。ミセスのコーラのCM変だと思ったけどコレ関係でワザと狙われたのかも。ファン達ナイスプレーだったな。
@user-ol2sm7re4n
@user-ol2sm7re4n Ай бұрын
本能寺死亡者リストに弥助が無いのと同様に、弥助に苗字知行を与え武士階級侍として取り立てたのならば信長公記はおろか他武将や貴族公家の日記なんかにも記述が無いということは、ノッブ様はまだ弥助をその身分には取り立てて無いということが考察できます。 今までの渡来人とは全く違う黒人が武士階級侍となったのならばそれはセンセーショナルなニュースとなったはずでしょう。 また武士階級侍として取り立てたのならば、イエズス会の報告で弥助を殿とするであろうという噂を報告した者らが再度報告しないわけもなく 黒奴送ったらいつの間にか殿になっていた件!というヤバい国報告がされていたと思います。
@user-xe5jj3bz4f
@user-xe5jj3bz4f Ай бұрын
弥助はただの客人扱いで日本にいた説はどうかな? 歴史詳しくないから大きな声では言えないんだが😅
@mm-qf9zb
@mm-qf9zb Ай бұрын
尊経閣本の「弥助に扶持、小刀、家を与えた」という文を省いたのはさすがです。 その内容は太田牛一の信長公記にはないですからね。 尊経閣本は信長公記に逸話を加えた創作本であり当時から「偽り多し」と言われてました。 弥助の文献が少ないからと言って尊経閣本を一次資料にするのは間違いです。 日本側には弥助が戦った記録どころか存在した記録さえないのに戦場にいなかったイエズス会の記録を信じるのもおかしな話です。 勇敢に戦ったはずの弥助を誰も呼び戻さなかったのは何故でしょうか。 戦場で弥助を見た者は存在せず、誰も弥助の安否を気にしない。 戦に参加せず妙覚寺に隠れてて捕まったのなら弥助への対応は妥当ですね。
@user-po8vt6wg6q
@user-po8vt6wg6q Ай бұрын
そもそも、黒奴だった人物が、すぐに刀を扱えるようになりますかね?
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
使いこなす必要はなく、剣代わりとして扱うぐらいはできたと思いますよ。 そのぐらいの素養がないと生きて日本までは辿り着けないと思いますので。
@user-sr4xq7hd1i
@user-sr4xq7hd1i Ай бұрын
甲州征伐の時の織田軍大将は織田信忠じゃないですか?
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
甲州征伐の総大将は信忠です。 信長が総大将だと勘違いさせた箇所を記載していただけると今後の 動画作成時の参考になりますので、宜しくお願いします。
@roselenten9215
@roselenten9215 Ай бұрын
素晴らしいまとめ有難うございます! 英語版お願いしたいです😄 史実の弥助素朴で可愛い感じして好きですよ 大きななりして、怖すぎて刀を振り回して、明智軍に「何もしないから放しなさい!」と噛んで含めるように説得されてやっと刀を放したくらい「下男」だったんだろうなあと😌 それでも信長の最晩年に傍にいてくれて有難うと言いたいですね✨
@user-34dxkwq9za
@user-34dxkwq9za Ай бұрын
多分なぁなぁな存在だったんじゃない?日本人的に。コイツに領土とか与えだしたら家臣が止めたけど、そこまで行かなかったから好きにさせとけみたいな。 戦国時代の身分の枠組みにとらわれない珍しい存在……あ、これペットやんけ
@user-sr6nd4kx1e
@user-sr6nd4kx1e Ай бұрын
歴史のIFで本能寺の変が無ければ秀吉の援軍に信長が出ていて、その時の戦場での表記で弥助が戦闘員として参加したのか、単なる荷物持ち扱いだったのか、それとも単なる横に置いているだけの置物だけだったか判るんだが
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
本能寺の変が無くても、甲州征伐と同じように特に信長が戦う事は無かったのではと 思っています。 援軍として明智光秀、細川忠興、池田恒興、塩河吉太夫、高山右近、中川清秀に 先陣として命令が出ていますし、秀吉は独力で備中高松城の和睦条件に 毛利の五ヵ国を割譲する旨を入れているほどです。 本能寺の変の為、5ヵ国を3ヵ国に譲歩してのスピード締結となりましたが。
@nendrock
@nendrock Ай бұрын
褒美を受け取ったのはイエズス会なのでは
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
私の用いている資料では、イエズス会とは読めませんでした。 他の資料、もしくは他の版から探らないと判断はできないと思います。 ただ重要なのは褒美ではなく、そんな事も判らない程度の曖昧な記録しか ない事だと思っています。 何事も判断するには材料が少なすぎる。と思っています。
@keiochunagon3235
@keiochunagon3235 Ай бұрын
客観的事実のみからの考察、良いと思います。研究者や専門家の肩書がある者が利に敏くこじつける様はみっともない限りです。自分達の祖先の歴史を金で売るような輩がこんなにも多いとは・・・。 当時、武士の間でも「侍」と自認していた者自体少なかったのではと思います(身分が曖昧)。当然、日本の文化、しきたり等に疎い「弥助」が自認してそんな振る舞いができたとは思えません。だからすんなり、光秀に降伏したわけですから。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
歴史学者さんのKZbinチャンネルでの話でしたが、トンデモ歴史論に イチャモンを付けても建設的ではないし、自分の事績にもならないし 時間の無駄なので放置するという事が多い。 みたいな事を話されていました。
@serfdom221
@serfdom221 Ай бұрын
そのうち「大英雄トップサムラァイ弥助の伝説を日本の教科書で教えないのは歴史修正主義だ!レイシズムだ!」ってなりそう
@user-wm8zs6pc7d
@user-wm8zs6pc7d Ай бұрын
名字がないと俸禄は貰えないから、弥助は侍では無いと思う もし、偉大な侍だとしたら、屋敷ではなく、領地を貰っていたはずだと思います 私の考察ですが 誰か詳しい先生が教えてくれたらいいのに
@lookglacial6325
@lookglacial6325 Ай бұрын
弥助さんは可哀そうな人だ。 かつて多くの同胞たちと共に、奴隷船に詰め込まれ、モノ扱いされて連れて来られた。 今は政治的な宣伝に利用され、批判に対する盾で、それはモノだ。 彼が亡くなった地の事は知らない、だが彼はまだ奴隷のままだ。 ー 黒人はやっぱりそう言った事を背負っていると思うが、彼らの立場ならこんなストーリーを持っているだろう。
@user-si5bw3gm8r
@user-si5bw3gm8r Ай бұрын
奴隷船に乗せられたのはアメリカ大陸に送られた人たちです。弥助の場合、モザンビークに立寄ったポルトガル船に買われ、ヴァリニャーノの召使にされたわけで、奴隷としては比較的いい待遇を受けたと思います。
@ChrizSheikhventmayer
@ChrizSheikhventmayer Ай бұрын
弥助は戻されたあとマカオに戻り売られ船倉に並べらたか、次の中国人ドレイの拉致の手伝い よくて船への荷物搬入搬出の人足ドレイとなったのでしょうか
@user-mm3xo9el6u
@user-mm3xo9el6u Ай бұрын
最初から最後まで奴と言ってるじゃないですか
@user-us8ky8nc2u
@user-us8ky8nc2u Ай бұрын
いや、のっけから黒人侍とか言ってるやんw そこがわかんないんでしょw
@haruka_52
@haruka_52 Ай бұрын
くろやっこと読んでもやっこさんなら武人ではなく下男ですが、原語が黒人奴隷に対する蔑称だという話が出てるのからすると黒人奴隷を省略した「こくど」では無いですか? ポルトガル語を現代語訳した文章でしか出てきていないので、おそらくポルトガル語の蔑称の現代語訳として作られた造語だと思ったのですが……
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
奴(やっこ)の意味に使用人や家来等もあるので、どちらを取っても 「くろやっこ」で良いと思います。 江戸時代には旗本奴(はたもとやっこ)という言葉もありますが、 旗本は武人ではないという考えなのでしょうか?
@USERDefault-qn7rc
@USERDefault-qn7rc Ай бұрын
もし苗字が無い弥助が侍だったら侍を目下の者が名前呼びする事になるわけだが・・・日本人にしか分からない話なのだろうか
@Nknssk
@Nknssk Ай бұрын
刀を持って戦うような行動をしていたら助からなかったと思います。 日本で宣教師から信長のもとに行って、そこで下働きをしていたとしても、食べ物や服だって必要だし、どこかに記録があるといいですね。
@user-zp6zp2fe6y
@user-zp6zp2fe6y Ай бұрын
白人の方の三浦何とかさんと言葉の理解度は違うのだろうか、コレタベル トイレ ネル 大人しいペット位なのか 文化度もあるかも知れないけど高い知能があるのか.短期間だからしょうがないけど 日本側から見て理解度が低いと思われていたら 人レベルで扱わなかった可能性もあると思う.
@Picanhadopapaimolusco
@Picanhadopapaimolusco Ай бұрын
日本一の侍です!
@user-ji6vm4xt3l
@user-ji6vm4xt3l Ай бұрын
大変に結構な内容だと思うけど信長公記をノブナガ公記と呼ぶのは違和感が大だ。信長公記は信長公記としてものすごく有名な本ではないかね。機械音声だから仕方ないのかも知れないが。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
機械音声でも「シンチョウコウキ」と読ませる事は可能でしたが、 KZbinは音声だけ聞いて本文を読まない人も多いとのだったので、 音で意味が判り易い方の「ノブナガコウキ」の方で音声を作成しました。 ご指摘ありがとうございました。
@user-ej8vl5mx1i
@user-ej8vl5mx1i Ай бұрын
十人力なんてただの力持ち比喩でしかない 百人力は百倍かよ
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
十人力は人並みという理解もあるみたいですしね。
@user-rg9xe1vg9j
@user-rg9xe1vg9j Ай бұрын
弥助的にはホストファミリーの織田が同じ日本人にいきなり襲われたからとりあえず護身用の武器持って応戦するで! 長男君無事かどうか見つけな!? ってなってただけじゃないの? 知らんけど。 そんな印象を受けました。 ルイス・フロイス的には信長は珍しもの好きだから、喜ぶんじゃね? で送った雑多な品物の一つって認識でしかなさそう。
@nobuari1645
@nobuari1645 Ай бұрын
紹介されたフロイスの黒奴の奮戦をどう読んだら本能寺の変の出来事と読めるのだろう、「信長の死後」としか言ってないのに。むしろ当時の日本でそんだけ珍しい存在だったのに討死リストに入ってない事が、居なかった可能性を引き上げてる。まあそこが崩れると弥助=侍が崩れ、最強武士でもヒーローでも無くなって、色んな商売に迷惑掛かる事は想像できるけど、流石にちょっと無理筋でしょう。
@おーすちん2024
@おーすちん2024 Ай бұрын
この部分は「信長の死後、世子の邸(信忠の邸)に赴き」とあるので、信長の死後、 信忠存命中の内容と思われる事、そしてカットしていますが、この後に 「右のことを成し終わって明智は兵を率いて朝の八、九時頃都を出で坂本の城に 赴いた」とあるので、この出来事は本能寺の変時の事であると考えるのが妥当と思います。
@nobuari1645
@nobuari1645 Ай бұрын
⁠@@おーすちん2024​​⁠あ、信長を守って戦った、と言いたいところ、本能寺の変の出来事、と書いてしまいました、すいません。補足ありがとうございます。改めて、フロイスの記述は光秀軍と信忠軍との交戦の場(二条御所?)における記述であって、黒奴が生前の信長と共に戦い信長死後も長らく交戦したのちに投降した、とするのならば無理があると言う事です。光秀の謀反を知った信忠は本能寺に駆けつけるも中に入れず数キロ離れた二条御所に入りそこで戦死した、とされている。フロイスの記述と合わせると、黒奴は信忠に従って伴って本能寺に駆けつけるも入れず、一緒に二条御所に入って光秀に包囲されて戦いそして生き延びた、と言うニュアンスで語られるなら納得です。
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